(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『蘇る薬師寺西塔』を読んで

2018-11-13 | 読書
蘇る薬師寺西塔』(西岡常一/高田好胤/青山茂 1981年草思社)を読んで



 近鉄奈良線の大和西大寺から橿原線に乗り換え、西の京で降りると、そこに薬師寺の広大な寺域が広がっている。今はユネスコの世界遺産となっている。何度も訪れているが、いつも目に飛び込んで来るのは三重塔「西塔」である。「東塔」は、只今解体修理中であるので、目にするのはこの西塔だけである。ここへ来て塔の上の方から吊り下がっている風鐸(ふうたく)が、風の強い日にはからからと音をたてる。それを聞いて喜んでいるくらいの無邪気なものである。しかし、この西塔には長い歴史があったこと、また西塔が再建されるまで東塔が孤影を守ってきたこと、そして薬師寺の伽藍には二つの塔があって初めて体をなすということなどは、これまで知らなかった。

 

この本は1981年に名棟梁西岡常一に率いられて建築に携わった人たちの苦労談を語ったものである。また、その再建工事を推し進めるに至った薬師寺管長の高田好胤の思いも語られている。読み進むにつれて、いろいろな意味で感動を覚える。
本の帯には、「白鳳の美」復元の記録とある。古墳時代につづく飛鳥時代は、西暦592年から聖徳太子の時代を経て710年の平城京遷都までを指す。仏教伝来があり、飛鳥時代の初期に法隆寺が創建されている。
続く奈良時代(710年から794年まで)には都は平城京(奈良)に移り、聖武天皇が即位、東大寺の大仏が完成した。とくに729年から749年は天平という年号でよばれ、文化が花開いた。その頃を白鳳文化と呼ぶ薬師寺の創建やその東塔、西塔の建設は飛鳥時代にはじまり、天平の頃にまでまたがっている


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 西塔は1981年に復元・再興された。もともとは藤原京(現在の橿原市)にあったが、享禄4年の兵火(江戸時代)で焼亡して以来451年ぶりで再建復元された。そもそもは、天武天皇が初願し、その崩御後は皇后の持統天皇が夫の意志を継いでその地に造営をつづけ、持統11年(698年・・・飛鳥時代)に寺が完成した。平城遷都にともない奈良時代の初期に、現在の平城京(奈良)の地に移された。奈良時代の天平年間に新たに建てられたとの見方もある。

 1981年に西塔が復元されて東西両塔が並びたち、久々の双塔が出現した。この本を読み進んでいくうちに、いくつもの興味深い事実や驚嘆すること、また感動を覚える事実が次々と出てきた。


(1)西塔再建にかける西岡棟梁と薬師寺高田管長の再建にかける熱い想い

   ”さきに完成した白鳳金堂の再興とともに薬師寺はいま荘厳華麗な伽藍復興の華やぎに満ち溢れている。しかし、この伽藍復興に反対がないわけではない。ものさびた西の京の里の雰囲気、孤影の中に秘めた東塔の気品と孤高に満ちた佇まい、崩れかけた伽藍の土塀、それらこそ古都の真髄であり奥ゆかしさであると信じてきた立場からすれば、金堂や西塔の復興とさらに続くであろう中門、回廊などの伽藍復興は、ものさびた雰囲気を抹殺して、けばけばしい原色に塗り替える破壊作業であると受け取られがちである。・・・だが高田管長を先頭に寺をあげて展開された「百万巻写経」という一大宗教運動は、それが文字通りの杞憂であったことを証明してくれた。 千二百数十年の歴史の上に安座して、ただ古文化財としての仏像や建築の番人に堕し、拝観料のみに心奪われ、口先だけでむなしく仏法を唱える寺僧や、それらの古寺の崩れ行く美を詠嘆調であげつらう教養人よりは、火の玉のように全国をかけめぐる高田好胤師や、写経に一念を燃やす大衆の原色の行動にこそ信頼をおくべきではないか。” (前書きより 青山茂)  
 
 少し説明を加えると、西岡棟梁は昭和51年4月に、金堂ができた時、その棟の上からあたりを眺めて、どうしても右手のほうがさびしい、どうしても西塔がなければ伽藍にならないと感じて、高田管長に、”ぜひ西塔再建に踏み切られたらいかがでしょう”、と建白書を提出した。もちろん、それまでにも多くの人たちが考えていた。先代の橋本凝胤が長い間かかって金堂を完成したが、それには高田管長の力が半分以上預かっていた。この高田管長が般若心経百万巻の写経運動をおこし、一巻納経するのに千円を収めた。その運動の結実が西塔復興再建に踏み切らせた。なお金堂再建は橋本管長の執念の現れであった。


(2)基本設計・・・東塔の実測、礎石の調査や古い縁起の情報などを踏まえて設計

 この本に西塔の基本設計図面が出ているが、それがどのように出来上がっていったのか? 詳しい説明は出て来ない。西岡棟梁は、内部の構造はどう考えても東塔にまさるものはない、1300年の風雪に耐えてきたということは、非常に構造的に優れていると考え、構造はそのとおりに(東塔のとおりに)しておきましょうと云っている。しかし、これだけでは設計図面は描けない。どうしたものかと、色々調べていったところ、東大工学部建築学科を卒業して、古代建築に詳しい大岡實教授金堂再建のおりに基本設計に携われたことがわかった。彼は基本構図をきめたあと創建当時の復元のための基本設計を担当した。しかし、建設当時の写真があるわけではない、古い設計図もない。そういう中で、古文書を見ているうちに構造のことが少しづつわかりかけてきた。また昭和9年の法隆寺の修理が始められてから平安以前の建築手法が解明されるようになった。古文書にある暴風雨の時の「損害状況も参考になった。高さについては、ほとんど古い資料がないが縁起などの資料も参考にしつつ決めていった・・・・。

西塔の基本設計も同じようなステップを踏んでいったのではないかと思われる。

 


 (3)用材の手当と木の使い方など

  西塔に限らないが古代建築物を再建するには大量の木材を要する。しかも乾燥させるのに3~4年を要する。西塔では、ヒノキを使う。現代の日本には木曽や吉野にあったようなヒノキがない。幸い、薬師寺の安田執事長はそれを見越してか、起工する4年まえに予めヒノキの木材を手当していた。台湾ヒノキを買い付けておいた。今でも、台湾檜はあるが、伐採が禁止されているとか。手当された木は、切ったり、削ったりして「木づくり」をする。台湾での買い付けの際は、原木を見て太くて短めなものは柱用、太くて長いのは桁用など使い分ける。それから節のあるものはどう使うか? 節のある木は、クセがある。曲がるとか、反るとか。節の多い方は陽おもて、に立てておく。山で南側に生えていたものは、塔に使う場合にも南側に使う。また木のクセについても、右にねじれるのと左にねじれるのがある。押し合いの力が、ゼロになるように、左・右をうまい具合に組んでおく。
 心柱には樹齢1500年から800年の、四本のヒノキを、貝の口という継ぎ方で継いでゆく。


    

 
 瓦は屋根の下地に従来は土を置いたが、今回は杉の赤身で桟を置いて、その桟に瓦を一枚一枚とめていく。土を置くとそれだけ荷重がかかって三重の屋根がこうもり傘みたいになる。それを少しでも防ごうとの配慮である。

 瓦は白鳳時代の瓦が丈夫なようである。低温で長い時間、三日も四日もかけて焼く。そうすると心からぎゅうっと詰まっている。ところが今のは高温短時間で焼くので質が劣る。その点を留意して、注文をつけ、瓦焼きでは苦労している。土の吟味も必要であった。さらに重量を減らすために、厚さを二割強らして焼きを強く固く焼いてもらった。西岡は、そこまで踏み込んでいる。総数3万枚を焼いた。

 釘(和釘)のことについては、それほど詳しく触れていないが、実は四国の白鷹幸伯という鍛冶屋に依頼して製作してもらっている。『鉄、千年のいのち』という白鷹の著書に詳しい。西岡はつねずね樹齢千年のヒノキを使って千年はもつ建物を作るのが自分の役目だといっている。そのためにも千年の時間に耐える釘を作らねばならないと、白鷹は受け止めた。古代の鉄は「たたら」の技法で作られ、その鉄を使って折返しの技法で作っていた。今では、それはできないので、白鷹は新たに千年もつ和釘の製作に挑戦した。

幸い、古代鉄に近い純鉄が調達でき、千年もつ和釘を3万本ちかくを製作することができた。釘の形一つでも工夫がある。飛鳥の釘はずっと太くて先端が尖る前に少しだけふくらみがある。白鳳の時代の釘はよく見ると二段構えになっている。三分の一のところで少し細くなって、そこからまっすぐになって、三分の二あたりの先にもう一回膨らみがある。その膨らみがあると木の繊維を押しのけてぐっさり入っていく。西岡棟梁の設計図では、ふくらませなければならない箇所が具体的に指定されていた。

この白鷹という人は信念をもって和釘の製作に挑戦した。彼は、息子には小さいときから、”お前は死んではいかん、お前は死んではならんという。なぜかと聞かれ、彼は、”お前が事故なり病気なりで死ぬと、日本の木造の文化財は直らないぞ。何としても鍛冶屋は一人だけでも生き残らないかんのよ”、と。四国の片田舎の鍛冶屋でも、こういう使命感を持っているのには感嘆した。


 (4)西塔の建設工事とその技術の凄さ

  西岡棟梁の言うところによれば、塔の内部の構造としては東塔に勝るものはない。法隆寺にしても薬師寺東塔にしても1300年の星霜に耐えてきた。ということは、構造的に優れているということなので、その通りにした。

そして外部については、藤原時代/中世/室町時代の修繕の記録など考慮に入れ、垂木(たるぎ)を伸ばしたり、引っ込めたりしたことが分かるので、少しずつ復元していった。そして桁の出は初重をよけい出し、二重を少し引っ込め、三重はをまた少ひっこめている。そのため上へいくほどそれだけ垂木の勾配が強くなっていく。上へいくほど風雨のあたりが強くなるから、少しずつ勾配を強くしてあたりの強さに対している。結局、三重が一番勾配がきつい。

それから裳階(もこし)の壁を連子(れんじ)窓に復元している。これは、東塔の裳階の古い壁をレントゲンで撮ると、頭貫(かしらぬき)に方立の穴が残っていたので、もとは連子であることが証明されたので、それを復元し
た。水煙は、まったく東塔の型通り。他には、新しく風鐸をつけている。金堂につけたものより一回り小さくして、取り付けた。軒風鐸の原型は、滋賀の雪野寺の白鳳時代のものと、正倉院の宝物から復元した。などなど。

 



東塔と構造的には同じであるが、心柱は4本継ぎとした。樹齢が1500年以上のものでないと心柱には向かないとのこと。そして心まで空洞がなく詰まった木。樹齢1500年から800年の、四本の別々なヒノキを継いでいる。心礎の上に立つのが10メートルぐらいの1500年の樹齢の木。一本の木とすると全長40メートルくらい。それを山から出すのは困難である。台湾からでも、山から下ろすときに谷がまわらない。港から薬師寺まで運ぶにも柱が長いと大変運びにくい。4本を継ぐが、貝の口という継ぎ手で継ぐので問題はないとのこと。


  200年で等しくなる両塔の高さについて。塔は、総重量にして650トンほど。それだけの重いものを30数メートルの高さに持ち上げたのであるから、年月が経つにしたがってじわじわ下がってくる。台湾ヒノキの木はかたいので縮は200年くらいで7寸5分くらい。今、瓦を葺いた時点で2寸5分ほど下がっている。したがった各重に平均して8分くらいずつ縮んでいる。地形が西塔は81センチ高い。そこへ木の縮を加えると、33センチとして1メートル33センチ高い、ところがすでに2寸5分(7センチ)くらい縮んでいる。それが200年くらい経つと30センチ位まで縮む。風に揺られ、地震に揺られ、加えて木材自身の乾燥によってすこしづつ縮む。そうして200年位すれば、木造部では東塔の露盤の高さと西塔の露盤の高さは同じになる。基壇の分だけ西塔は高いけれど。

  百済経由の法隆寺と唐直伝の薬師寺について。 西岡棟梁は、法隆寺五重塔の復元調査/薬師寺金堂の復興/法輪寺の焼けた三重塔の再建、そして今回の西塔の再建と非常に重要な塔の工事に関与してきた。それらの過程で塔を実測しているうちに裳階(もこし)は半端な飾りではなく、塔の構造として最初から組み入れられていると感じた。裳階があるのでこの塔はもっているのだと理解した。それから東塔が残っていたので、それを手本に西塔も設計できた。白紙から作れと言われてもとてもできない。西の塔を建てさせてもらった嬉しさよりも1300年も前にこれを白紙からつくりだした当時の人々、大工たちは素晴らしい頭に人たちだと驚いた。裳階にしても美的に見せるために計算されて各層に取り付けてあるという飾りの意味合いにばかり目を奪われていたが、そうではなく構造体であることが、実際に組んでみてわかってきた。法隆寺とか法輪寺とかにくらべて力学や強度の面でも非常に優れた計算がなされている。ところが、法隆寺の五重塔と薬師寺東塔の建設年代はそんなに隔たっていない。せいぜい半世紀あるかなし。50年足らず、多分二、三十年の隔たりしかない。西岡棟梁は次のように語る。

 ”その短い時間の間に、技術的な改良や進歩があったとはどうしても考えられない。これはやはり革命的な新技術の導入しかない。そういうふうに考えてくると、薬師寺を建てた指導者は朝鮮半島経由ではなく、むしろ大陸から直接きたか、または大陸で勉強して帰ってきた技術者ではないか。それに対して法隆寺の方は朝鮮を通った百済系の指導者ではないか。それ故、朝鮮を通ってくる時間がかかっただけ、法隆寺の方は遅れている。薬師寺の方は唐の新様式が朝鮮を通らずに直接入ってきたのではないか。さもないと、20年、30年の間にこれだけ構造的に進歩するというのは考えにくい”

この本の著者の一人青山茂は美術史家にして大和には詳しい。彼は、西岡の見方に関連して、仏像についても同様の見方をしている。”薬師寺の薬師三尊像とか東院堂の聖観音が、いつの時代に作られたものであるかという白鳳・天平論争があるが、これまでの飛鳥仏や法隆寺の釈迦三尊像などとは、まったくちがった新しい鋳造仏の花が咲いている。唐の新しい鋳造技術が入って来たのかもしれない。”



(結び)

 このような過程(調査、実測、木づくり、組み立て・・・)を経て復元された西塔は、1981年その姿を現した。今は、東塔が解体修理中であるが、東京オリンピックの年2020年の春にはそれも姿を現し、双塔が並びたつことになる。その時の姿を、改めてこの目で確かめ、白鳳時代および今日の名工たちの労苦を偲びたいと思う。なお、この工事の指揮は西岡棟梁がとったが、その体制のもとで太田博太郎博士を委員長とする復興委員会や宮大工たちの手で進められた。実際の工事の段取りと足場建設、人夫仕事などの建設施工は池田建設とい西の京にある会社が請け負ったことを付記しておく。

この薬師寺の伽藍は、金堂を中心に東塔と西塔という左右対照の二つの塔をもつ日本で初めての思い切った伽藍配置である。しかも東塔でわかるように建物の各重には本式の裳階がついていて美しい姿をしている。塔の上部、相輪の先の水煙には、奏楽舞踊する十二人の天人が図案化して鋳造されていて、他に例をみない素晴らしいものである。


   ”そうだ 奈良行こう”

この記事を書いてきて、改めて気づいたことがある。やはり日本は製造業の国だと。AIやITなど技術の進歩は取り入れつ、現場を創意工夫し、よりよいものを作り上げるという精神を忘れず、脈々と受け継いでいきたいものである。




コメント (4)
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