(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

『テロ』(追補)

2020-01-19 | 読書
『テロ』(追補) 数日前に、記事を書きましたが、今ひとつスッキリとしないものを感じていました。リライトしましたので、ご覧ください。


 シーラッハの戯曲「テロ」の主題は二つあります。きわめて短い時間のうちに意思決定を迫られた時、どう判断するかということ。及び法廷で裁かれた時に有罪とするか無罪とするかの二つです。。それぞれの意思決定について、本編で触れなかったことについて補足しておきます。

 フランスの小説家プロスペル・メリメ(小説「カルメン」で知られる)は短編「マテオファルコーネ」を書き、きわめて難しい局面でおのれの息子を殺さざるを得なくなった父親のことを書いています。

 舞台はコルシカ島のある村、マキ。マテオはそこから近い所に家をもっていた。彼には10歳になる男の子がいた。マキ、司法権と事を構えたものの逃れていくところ。そこに逃げ込んだものは匿ってやることになっていた。ある時、おたずねものが逃げ込んで、一人息子のフォウルトゥーナに銀貨を与え、枯れ草の山の中に匿ってもらった。そこへ憲兵が来て、あれこれ尋ねるがフォウルトゥーナは言を左右にして教えない。隊長が銀時計を欲しいだろうと見せびらかすと、とうとう誘惑に負けて、枯れ草の山を指差した。おたずねものは見つかって縛り上げられる。そこへマテオが戻ってきた。マテオは隊長との話のやりとりから、自分の息子が掟を破ったのを感づいて激怒した。おたずね者は引き立てて行く時、”裏切りものの家"とののしる。それを聞いて、マテオは息子を銃殺してしまう。可愛い息子を。”裁きをつけたのだ"、と言って。 ちなみにコルシカ人は負けん気で気難しく、信念を持っているひとが多いといわれています。この話に出てくる、「裏切り」とは単に味方を敵に売り渡すとこだけではなく、仲間を否定することであるとも考えられます。

 私自身、どのような判断をくだしたものかと悩みました。今でも。息子を助けることは容易ですが、それでは己の自己規律に反します。みなさんなら、どうされるのでしょうか。


 次に二つ目の主題、有罪か無罪かについての一例をご紹介します。(写真は2001年9月11日のニューヨークでの同時多発テロ)。イスラム過激派のアルカイダが四つのテロを行い、死者はおよそ3000人。その時、ケープコッドにある空軍基地からジェット戦闘機がスクランブル発進しましたが、状況の把握が不十分で一旦、待機。再発進しNY上空に達したときはすでに、衝突が起こっていました。しかも、戦闘機には攻撃の権限はなかったといわれています。しかし、もし戦闘機が間に合って、トレードセンターのビルに衝突する前に、その突入の可能性を察知し、ミサイル発射して撃墜したら、そのパイロットは法廷で有罪をいいわたされるのでしょうか。

 ところで既定の法律が正しいかどうかについて、もと東京地検特捜部に身をおいていた郷原信郎氏が『法令遵守(じゅんしゅ)が日本を滅ぼす』という本の中で、時代にそぐわなくなった法令についての問題点を提起しています。詳しいことは省きますがが、”大切なことは細かい条文がどうなっているかなどと考える前に、人間としての常識にしたがって行動することである。本来人間が持っているはずのセンシティビティというものを逆に削いでしまっている、失わせてしまっているのが、今の法令遵守の世界です、と。”


 また以前に「逆境に生きる」と題して当ブログでアメリカの第3代大統領であるトーマス・ジェファーソンの言葉を引いたことがあります。

 ”"I am not an advocate for frequent changes in laws and constitutions , but laws and constitutions must go hand in hand with the progress of the human mind.As that becomes more developed, more enlightened, as new discoveries are made,
new truths discovered and manners and opinions change, with the change of circumstances, institutions must advance also to keep pace with the times. We might aswell require a man to wear still the coat which fitted him when a boy as a civilized society to remain ever under the regimen of their barbarous ancestors"

 すこしかんたんに言えば、法や憲法は人間の知性(人間の心)の進歩と共に、また時代にあわせて進歩しなければならぬ、と言っているのです。”

 そしてみなさんご存知のように法律に成分法と慣習法(不文法)の二つがあります。日本はヨーロッパ大陸の法系に属していて文字で書きあらわされ文書の形をとっています。これに対して英米法系の諸国では裁判所の判例の集積が国法の基幹的部分を構成しており,判例法主義または不文法主義をとっている。慣習法ともいわれます。日本の法律では、明治の頃に制定されたものが数多くあって、時代にそぐわないものが、未だにそんざいしています。『テロ』の事件は、ドイツで起こったものですので、成分法での判断に委ねられます。ただし、この事件が起こったのは2013年、アメリカでの同時多発テロは2001年のことですので、そのあたりの影響が入って修正されているかも知れません。それでなければ、今回のようなテロリストによるハイジャックと、そこから起こりうる爆発・衝突事故はふせぐことが出来ないでしょう。

それからアメリカで、ドイツのテロと同様なケースがあったとしたら、おそらく無罪あるになるのではないでしょうか。テロリスト乗った飛行機にアメリカ人乗客がいたとしても。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 少し前置きが長くなりましたが、私ならば、ハイジャック機はためらわずに撃墜します。また、当然無罪を主張します。ここで、私の全くの私見ですが、一つ付け加えさせて頂きます。
「法廷での判断は法律によります。しかし、その法律というものは、そもそもそれまでの人間の判断の積み重ねによって出来てきたものです。成分法であれ、慣習法であれ。したがって、その元になる判断基準や背景が変われば、当然法律も変わらなければなりません。それをその侭にしておくことは、社会としての怠慢以外の何ものでもありません。したがって、今回の事件でドイツの法廷で一旦有罪を宣告されたとしても、その後よってきたる法律を修正し、追加の救済措置をとるべきではないかと愚考いたします」。

また、”陪審員裁判で採決すること自体が間違っている”とのご意見を頂いています。そうかも知れません。あまりテロに関する背景や法律論になじんでいない一般庶民にとっては困難な取り組みを強いられますし、またその結果が正しいものかどうか、その判断も分かれるでしょう。今回取り上げられた裁判は恐らく州の法廷での裁判であり、国の裁判への控訴審となっていくでしょう。そこではご指摘のように法律専門家の討議に掛けられるでしょう。


 今回の記事(戯曲「テロ」)は、正か邪かを決めるものではありません。みなさんと一緒に考えてみたいというのが趣旨であります。では、海外も含め、大多数の見方はどうなっているのでしょうか。ドイツのエッセイイストであるマライ・メントラインの記事がありますのでご覧ください。


 ちなみにマライ・メントラインさんは、今は日本在住のドイツ人。エッセイイストや通訳の仕事をされています。彼女が紹介した、これまでの結果によると欧米では無罪が優勢、アジアでは互角、日本ではこれまでは無罪が優勢でしたが、2018年1月の公演結果では、初めて有罪が無罪と上回ったとか。


     ~~~~~~~~~~~~~~~


 ながながとお付き合い頂き、ありがとうございました。








コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書 『テロ』

2020-01-11 | コラム
読書 『テロ』(フォン・シーラッハ)

 イギリスの哲学者(18~19世紀)ジェレーミー・ベンサムの言葉に”最大多数の最大幸福”というのがある。彼は功利主義の創始者として知られている。「個人の幸福の総和が社会全体の幸福の総和であり、また社会全体の幸福を最大化すべきである”と主張している。いいかえれば、できるだけ多くの人々に幸福をもたらすことが善である、との説である。よくいわれる多数決ではない。ただ、実際の政治の世界で少数派の権利をどう守るのかという問題が残る。 この本の一つのテーマである。

 長い人生の間には、誰しも瞬間的に判断をし、意思決定を迫られることがあろう。たとえば、狭い道で車を運転していて、突然前方に二人の人間が現れた。左にハンドルを切ってそれを避けようとすると、そこには幼い子供がいる。ブレーキをかけても間に合わない。その時、あなたはどうするか? またある時は、高層ビルのホテルの一室で恋人と情事にふけっていた。そこに火災が発生、エレベーターも動かない。やむなく階段を登ってビルの屋上に出る。そこもままなく火に包まれれようとする。救助のために飛来したヘリコプターから縄梯子が降りてきた。男は、それにつかまって助かろうとする。そこへ、恋人の女が”私も一緒に連れてって”と男の足を掴む。二人一緒では、縄梯子を持っている手はこらえきれない。恋人を蹴落としてでも助かろうとするのか、いやふたりともビルの屋上に落ちて一緒に燃え盛る火に包まれるか? どこかの時点で意思決定をしなかればない。それも極めて短時間の間に。あなたならどうする?

『テロ』で描かれるのは、テロリストにハイジャックされた民間飛行機エアバスと、それを迎撃したドイツ空軍のラース・コッホ少佐の物語である。エアバス内のテロリストは外部と無線連絡がとれるようにした。その内容によると国際試合が行われているミュンヘン郊外のスタジアムに突っ込む手はずを整えている。そこには7万人の観衆がいる。彼らを助けようと、少佐は空対空ミサイルを発射して164名が乗っていた民間機を撃墜した。
 
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ラース・コッホ少佐は逮捕・勾留されドイツの法廷で裁かれることになった。以下に裁判の様子を順を追って記すことにする。なお、これには一般の市民から選ばれた参審員が裁判官とともに裁判を行い、犯罪事実の認定・量刑の決定などを行う。裁判の結果を踏まえ、裁判官は無罪か懲役刑などを言いわたすことになる。


<第一幕>
 検察側は検査官ネルゾン女史、弁護人はビーグラー弁護士、被告人は拘置所から出頭したラース・コッホ少佐。証人はラウターバッハ中佐。

 (検察官)ラース・コッホはオーバーアッペルドルフ上空にて2013年7月26日に乗客164人を危険物によって殺害したことで、起訴されています。同日20時21分、空対空ミサイルによって、ベルリン発ミュンヘン行のルフトハンザ航空のエアバスA320を撃墜し、乗客164人を死なせた罪に問われています。刑法第211条第2項および第1項第1項の規定による殺人罪です。


 (弁護人)・・・被告人の代りに説明する。
参審員のみなさん、2001年9月11日に自分がどこいたか、誰もが覚えていると思います。ミューヨークの世界貿易センタービルに激突した2機の旅客機、アメリカ国防総省の本庁舎で爆発した3番めの旅客機・・その映像を見たら誰も忘れられないでしょう。テロによる大量殺人でした。・・・私たちはこれらの事件から学びました。身を守らなければならないと。ですから2005年、新しい法律が施行されたのです。航空安全法です。わが国の議会は、最悪の場合、国防大臣の判断による武力行使を容認することで一致しました。無辜の人たちが乗る旅客機に対してもです。事態が逼迫した場合、ハイジャック機の撃墜もやむなしとされました。議員の過半数がこの航空安全法に賛成票を投じました。・・・

航空安全法が公布された一年後、連邦憲法裁判所(ドイツの最高裁)がこの法律の中でもっとも重要な条文を無効としました。そして連邦憲法裁判所は、無辜の人を救うために他の無辜の人を殺すことは違憲であるとしました。生命を他の生命と天秤にかけることは許されないという判断です。参審員のみなさんには今日、決断していただかねばなりません。テロリストは旅客機をハイジャックしました。そしてサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人を殺害しようと目論みました。しかし一人の人、ここにいるこの人が行動する勇気と力を持っていたのです。・・・

検察が言う通り、ラース・コッホがそれを実行しました。コッホは旅客機の乗客を殺害しました。男も女も子供も。コッホは罪のない164人の命を罪のない7万人の命と天秤にかけたのです。・・・もちろん今回の1件はとても信じられない恐ろしい事件です。しかし、あってはならないことだから存在しないと信じるのは素朴であるだけではなく、危険です。肝心なのは、想像を絶する恐ろしいことがとっくに現実ものになっている世界に私たちは生きていて、そうした事実と折り合いをつけなければならないということです。

憲法の原則に限界があることを、わたしたちは理解しなければなりません。参審員のみなさん、そうした現実を認識し、評価することがみなさんに求められています、みなさんが義務を果たせば、この刑事訴訟手続きの終わりにラースコッホは無罪をいいわたされるでしょう。これは殺人ではありません。検察が導きだした結論は間違っています。


(証人ラウターバッハ中佐の登場)主に裁判長が証人に質問をする。その後、検察官や弁護人が質問をする。裁判長の質問に対するラウターバッハ中佐の回答は多岐にわたり、いちいち記すことは、かえって煩雑であり理解しにくくなるので、まとめてその要点のみをまとめて記すことにする。

 (ラウターバッハ)昨年の7月26日、空軍の参謀将校として勤務につきました。ドイツの空域では航空機がハイジャックされた時は、NATO軍の管轄を離れ、国家安全指揮・命令センターに移行します。ここには連邦国防省の代表つまり空軍の軍人が勤務し、空域を監視しています。全員で60人から65人です。私たちは第一・第二レーダーによって監視をしています。そこには航空安全局と州警察および連邦警察のすべてのデータが集まっています。民間航空機がハイジャックされテロ攻撃の道具になること、監視するのです。そうした事件が起きた時は、すべての航空機と無線で連絡を取り、異常がないか監視します。7月26日は、旅客機がハイジャックされたことを無線で知らせるようテロリストが機長にその旨のテキストを読むよう強要しました。

 ”神のご加護により、当機はわが制圧下にある。ムスリム同胞よ、喜べ。ドイツ、イタリア、デンマーク、イギリスの十字軍政府は我らの同胞を殺した。今度は我々がお前たちの家族を殺す番だ。われわれが死んだように、死ぬがよい”

それからテロリストは旅客機をミュンヘン近郊のサッカースタジアムに墜落させる積りだ。と機長は言いました。アリアンツ・アレーナでは当日、ドイツ対イギリスの国際試合が行われていました。スタジアムは満席、観客数7万人。

 その無線通信を聞いたあと、センター内にいる全員に情報を伝え、NATO軍との呼び出しシーケンスを遮断し、即刻、空軍総監ラートケ中将に電話連絡しました。中将は、警戒飛小隊の緊急発進と、ルフトハンザ機目視を命じました。戦闘機ユーロファイター二機が飛行中でした。両機は11分でルフトハンザ機を補足しました。・・・ラートケ中将は、ルフトハンザ機の進路を妨害して強制着陸させるよう命令しました。ルフトハンザ機は反応せず、飛行進路を維持しました。航空安全局からの情報では、機内には男性98人、女性64人、子供がふたりの乗客がいました。さらにラートケ中将は国防大臣に電話をし、同時に連邦軍の統合幕僚長にも連絡をしました。国防大臣は警戒している飛行機に警告射撃を命じました。

私から飛行小隊に命令を伝え、少佐は航空機関砲で発砲しました。しかし、テロリストの乗った飛行機からは反応はありませんでした。改めてラートケ中将に報告しました。中将は国防大臣にルフトハンザ機撃墜を進言しました。国防大臣は却下しました。「撃墜してはならない」と飛行小隊に伝えました。コッホ少佐から、”ルフトハンザ機が降下している”との報告がありました。スタジアムとの距離はおよそ25キロ。その時、コッホ少佐がマイクに向かってさけびました。”今。撃墜しなければ数万人が死ぬ”、と。


 (検察官)次に検察官が証人ラウターバッハに質問する。とくにハイジャック機が墜落する前に、スタジアムからの全員の脱出可能性があったのではないかと。それに対し、証人ラウターバッハは、その可能性について意見を述べる。

(検察官)ラウターバッハさん、あなたは国家航空安全指揮・命令センターの全員がハイジャックの発生を知っていたと言いました。スタジアムからの避難を決定したのは誰ですか?センターにいた誰一人、スタジアムからの避難命令を出さなかったのです。満席のスタジアムは15分以内に全員がスタジアムから出ることができたのではないでしょうか?では、なぜ誰もスタジアムからの避難を指示しなかったのか、その理由が知りたいのです。その理由は、いざとなったら被告人がミサイルを発射すると分かっていたからではないのですか? 元国防大臣フランツ・ヨーゼフ・ユングは連邦憲法裁判所の判決はあってもハイジャックされた航空機の撃墜を命じると発言しました。そして、パイロットには緊急時に航空機を撃墜する覚悟を持つものだけが選抜されるであろうと。だから誰もスタジアムに避難指示を出そうとしなかったのではないですか?

(ラウターバッハ)スタジアムからの避難に責任は負っていません。スタジアムにルフトハンザ機が接近した時、スタジアムは満席でしたが、その状況を変える力はありませんでした。スタジアムの避難についてはバイエルン州の防災本部の管轄です。


 次に裁判長と被告人とのやり取りになる。
(裁判長)ルフトハンザ機を撃墜する数分前のことについて話してくれすか?

(被告人)飛行進路の妨害と警告射撃にルフトハンザ機の機長は反応しませんでした。その数分後DC(ラウターバッハ)から、”撃墜してはならない”と命令を受けました。国家航空安全指揮・命令センターには二度問い合わせました。数分後にルフトハンザ機がスタジアムに到達することが分かっていましたので。私は命令に背くべきかを考えました。数万人を救うために数百人を犠牲にすると。ルフトハンザ機の背後にまわり、少し後方の高位置からサイドワインダーを発射しました。

(裁判長)ブラックボックスの解析の結果、旅客機が爆発してとき、乗客乗員がコックピットに突入しようとしていたことが分かっています。

(被告人)その可能性は排除できません。
 
 ここから検察官と被告人のやり取りになる。
(検察官)コッホさん、あなたは連邦憲法裁判所の判決に反対していましたね?あなたが命令に背いてよいのは、その命令が違法な場合に限ることを知っていますね。そしてあなたは、国家による実力行使が部分的に連邦憲法裁判所の判決に縛られることを知っていますね?

(被告人)基本的にはそうですが、連邦憲法裁判所の判決は間違いだと思っています。問題は、特殊なケースで無関係な人々の殺害が許されるかどうかにあります。一方に乗客164人、もう一方はスタジアムの7万人の観客。この場合、両者を天秤にかけるべきでないというのはあり得ないことです。7万人を救うために164人を殺すことは正しいと信じているだけです。(検察官)いわば、あなたは決断に際して神にも近い立場にいるわけでしょう。あなたは、どのような状況下なら人は行き続けられることがゆるされるか一人で決断するのです。誰が生き、誰が死ぬかをきめるのはあなたです。

(被告人)乗客はあと数分しか生きられなかったでしょう。旅客機はスタジアムで爆発する見込みでした。私が撃墜しなくても、乗客は全員死んでいたでしょう。

旅客機の乗客はとくに危険にさらされています。民間人は武器になりうるのです。テロリストの武器です。テロリストは航空機を武器に変えるのです。

(検察官)あなたは乗客は武器の一部だという。だとすると、乗客は物、物体になってしまいますよ。あなたは、人間をそういうふうにしか見られないのですか?武器の一部としか見なされなくなった人は、それでもまだ人間ですか? 人間であることは、私たちにとってもっとも大事なことだと思うのですが?

(被告人)そういう美しい思想を、あなたなら展開できるでしょう。しかし、私は上空で責任を負うのです。わたしには、人間であることの本質はなにかなどと考えている時間のゆとりはありません。決断しなければならないのです。

(被告人)私がいいたいのは、国家は人を犠牲にすることを厭わないということです。共同体を守るための犠牲者、あるいは共同体の価値を守るための犠牲者。昔からずっとそういうものです。軍人は公共のものに被害が及ばないよう守る義務を帯びています。それも命がけで。そこでも命が他の生命と天秤に掛けられます。軍人の生命と民間人の生命。軍人として、私は日々、種々の危険について考察するよう求められています。国民をどうやって守るか? どうすれば私たちの国守れるか? それが私の任務です。

 連邦憲法裁判所の判決が実際に何を意味するか(検察官は)考えたことはありますか?あの判断が実際には何を意味するかということです。上空で戦闘訓練をする時、敵の立場にたってみる必要があります。敵が何をするか先読みしなければならないのです。連邦憲法裁判所の判決について考察したら、テロリストが何をするか明白です。

テロリストは無辜の人を常に利用するでしょう。そうすれば国家はお手上げです。裁判所が私たちを無力にしてしまったのです。テロリストのなすがままです。国家は武器を置き、私たちは観念する。 あなたは乗客164人を殺害したことで私を告発しています。あなたは、私がこの愚かな決断に従わなかったことを非難しています。私の義務だったはずだと。この決断でわたしたちがお手上げになるから、それに従わなかったのです。・・・


 このあと被害者参加人を証人として召喚し、裁判長が色々質問する。煩雑になるので、それはここでは省く。



<第二幕>以下は、もっとも大事な場面になるので、できるだけ詳しく説明する。
 検察官による論告と弁護人による弁論が展開される。

(検察官)みなさん、被告人には非の打ちどころがありません。被告人の考えは誠実で真摯です。ラース・コッホはすべて自覚をもってきわめて明晰な精神のもとに実行しました。正しいと確信をもっていたのです。今回の公判で問題になっているのは、わたしたちが無辜の人を救うために他の無辜の人を殺してもいいのかということです。そしてそれが数の問題かどうかということです。とっさの判断では恐らく誰もがそうするでしょう。一見正しいように思えます。・・・・しかしみなさんは、私たちの憲法が別のことをわたしたちに要求していることをすでに耳にしました。連邦憲法裁判所の裁判官はこう言っています。命は他の命と天秤にかけるこは許されない。絶対に許されない。たとえそれが大量の数でも。それでいいのか、そのことについて、より正確に考える責任があります。・・・

 1951年、ドイツ法哲学者ハンス・ヴェルツエルがいわゆる「転轍機係の問題」を書きました。急な山の線路で貨物列車暴走した。列車な全速力で谷間の小さな駅へと疾走する。そこには旅客列車が停まっている。このまま貨物列車が衝突すれば数百人が死ぬことになる。みなさんが転轍機係だとします。みなさんは、転轍機を操作して貨物列車を別な線路に引き込む事ができます。そこには線路の修理をしている5人の線路作業員がいます。貨物列車を別な線路に引き込めば5人作業員を殺すことになりますが、数百人の乗客は救える。あなただったらどうしますか?実際、大抵の人は貨物列車を別な線路に引き込むでしょう。そういう行動をとることは正しいとみなせます。

私たちは過ちを犯します。それも再三にわたって。それが私たちの本性です。私たちは、その時々にとっさに確信すること以上に頼れるなにかを必要としています。どんなに困難な状況でも有効な指針。私たちは原則を必要とするのです。それが私たちの憲法です。私たちは個々のケースを憲法に照らして判断すると決めたのです。あらゆるケースが憲法という秤にかけられ検証されます。検証の基準は憲法であって、私たちの良心やモラルではありません。憲法よりも上の権力があると考え、それを基準にすることは論外です。そこが法治国家の本質だと。・・・私たちの憲法とは、モラル、良心、その他の理念よりも優先しなければならない原則の集合体です。その中でもっとも重要原則こそ人間の尊厳です。・・・・

 注)さらに続く裁判官の言葉の中に、”国家安全指揮・命令センターにいる軍人のことを考えてください。そこにいた軍人が全員、憲法に忠実に対応していたら、このような状況にならなかったはずです。なぜならスタジアムからの退去が行われ、誰一人危険にさらされることはなかったはずだからです”、という発言が出ています。結果的にはそうなるかも知れないが、ルフトハンザ機が、もっとスタジアムに接近して退去の時間がなかったらどうするのか、そのあたりが曖昧なので、記述から外しています。またスタジアムではなく、他の大きな高層ビルに激突して数多くの人が死亡したかもしれない。

 参審員のみなさん、コッホは英雄ではありません。殺人を犯しました。その手で人間をただのモノと化したのです。あらゆる決定の機会を奪いました。尊厳を犯したのです。有罪になること求めます。


(弁護人)参審員のみなさん、検察官ははっきり言いました。原則のために被告人を無期懲役にすべきだと主張したのです。原則ゆえに7万人が死ぬべきだった、と。原則を基準にすることは果たして意味があるかどうか、もう少し考えてみましょう。イマヌエル・カントが、奇しくも原則について短い論文を書いています。(1797年)カントは、そこでこう主張しました。”人殺しが斧を持ってあなたの家の玄関にたちます。あなたの友人がちょうどその人殺しから逃れて、あなたの家に逃げ込んだところです。その友人を殺すつもりだ、どこにいるか知っているか、と人殺しはあなたに問います。なんとカントは、嘘をつくことはいけないことなので、この状況でも嘘をつくことは許されなとしたのです。つまりみなさんは、こういわなければならないのです。「もちろんです、人殺しさん、友人はソファに座ってスポーツ番組を見ています。どうぞお好きにんさってください」
カントは本当にそう要求しました。そして検察官はみなさんに同じことを要求しているのです。原則は個々の事例に優る、原則は生命より重要だ、と。おそらくたいていの場合正しくもあるでしょう。しかし、今回の事件で原則に準じるのは、常軌を逸していなでしょうか? 私はその人殺しに嘘をつくでしょう。友を救うことを優先します。

人間の尊厳という原則が生命を救うことに優るというのは正しいでしょうか?個別かつ具体的なことを見ていきましょう。航空安全法が合憲かどうかについて、連邦憲法裁判所が下した判決をご存知ですね。しかし、航空機を撃墜した時、軍人は罪を背負うことになるのかどうかについては明言していないのです。航空安全法自体は違憲かもしれませんが、ラースコッホが罪を負うことになるかどうかは、別問題なのです。

連邦憲法裁判所裁判官とわたしたちの憲法は、生命の価値を無限に大きなものとみなしています。だとすれば、生命を他の生命と天秤かけることはできません。この基本的な考え方は、私には疑わしいものであり、健全な人間の考えと矛盾するように思います。それにより小さな悪を優先させることは正しいとする判決が過去に何度も出されています。
 
2000年にイギリスの法廷が判決をくだした事件があります。シャム双生児は生まれてから一緒に成長しました。医師団は、このままではいずれ二人共死ぬと表明し、分離することをすすめました。しかし分離手術は、どちらか一人の確実な死を意味しているとも言いました。両親は反対し、この問題は裁判所の判断に委ねられました。その結果、控訴院はより生命力のある子を生かし、生命力の弱い子を殺す判決を下しました。これも、命を他の生命と天秤にかけることにほかなりません

「人間の尊厳と「憲法の「精神」という概念については長時間議論することができます。しかし、世界は学生向けゼミナールではありません。実際のところ、私たちは以前にもまして大きな脅威にさらされています。テロリストは私たちを破壊したいのです。テロリストの狙いはひとえに死と破壊にあります。彼らが連邦憲法裁判所の判決を読むことになります。彼らはどん結論を出すでしょうか? 「なるほど、人間の尊厳か。たしかにそのとおりだ。テロはやめておこう」などと考えると思いますか?彼らは連邦憲法裁判所が定めたことを逆手にとるでしょう。できるだけ多くの無関係な人々が乗っている航空機をハイジャックするはずです。私たち上品な法治国家はテロリストになんら手をださないと保証されているからです。連邦憲法裁判所は降伏したのです。ラースコッホの有罪判決は、私たちの命を守りません。そして私たちの敵であるテロリストを守り、私たちの敵であるテロリストの命を奪う攻撃に手を貸すことになるのです。

(裁判長)みなさんは被告人と証人の言葉、検察官と弁護人の最終陳述を聞きました。被告人の最後の言葉を胸に刻んで評議してください。正しい裁きが下るかどうかは、あなた方にかかっています。 評議では、被告人が連邦憲法裁判所とその憲法が課した義務に違反したことは許されるのかどうかを問題にしてください。そこが核心です。



(評決)裁判長によって以下の判決が言い渡される。

(有罪判決)被告人ラースコッホを164人の殺害によって有罪とする。判決の根拠は以 下の通り。

 2013年7月26日、被告人は空対空ミサイルによってルフトハンザ機を撃墜し、機内にいた乗客164人を殺害しました。法的根拠については次のように説明できるでしょう。われわれの法は、自分自身、家族あるいは親しい人物の危険を取りのぞいた者の罪を許す。つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合は罰せられないのです。しかし被告人とスタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。したがって被告人が無罪となる根拠は条文にはありません。ここで問題になるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。当法廷は、その数にいかなる差があろうとも、人間の生命を他の人間の生命と天秤にかけることは過ちであるという立場をとります。天秤に掛けようとするこの考え方は、私たち共同体のの基本に抵触します。極端な状況下でもドイツ基本法は存続しなければなりません。人間の尊厳は最上位の原則です。これは人為的に定められたものですが、だからといって遵守する価値が減ずるというものではありません。この原則は市民共同体にとって絶対的保障です。

 当法廷は、被告人が真摯かつ良心に鑑みて正しい判断をしようと心がけたことを疑うものではありません。被告人が決断を誤ったことは嘆かわしいことです。しかし、その誤りが先例になることを認めるわけにはいきません。

ルフトハンザ機の乗客の生死はテロリストのみならず、ラースコッホ被告人の手の中にありました。乗客は無防備で、身を守る術はありませんでした。乗客は殺害されました。人間としの尊厳、譲渡不能の権利、人間としての全存在が軽視されたのです。人間はモノではありません。人命は数値化できません。市場原理に準ずるものでもありません。したがって、当法定に本日の判決は憲法に保証された恐ろしい危険への警告として理解されるべきでしょう。それゆえ被告人に有罪を言い渡します。


 
 (無罪判決)被告人ラースコッホを無罪とする。判決の根拠は以下のとおり。

  被告人は2013年7月26日、被告人は空対空ミサイルによってルフトハンザ機を撃墜し、機内にいた乗客164人を殺害しました。法的根拠については次のように説明できるでしょう。われわれの法は、自分自身、家族あるいは親しい人物の危険を取りのぞいた者の罪を許す。つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合は罰せられないのです。しかし被告人とスタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。

したがって被告人は条文にない根拠によってのみ無罪となります。ここで問題になるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。この超法規的緊急避難なるものは、ドイツ基本法、刑法以下いかなる法律にも規定されていません。当法定はその点に看過できない評価上の矛盾を見出します。つまり、行為者が自身あるいは近親者を救いたい、ただそれだけのために自己中心的に行動すれば、法はその行為者を無罪とし、逆に無私の心で行動したとき、その行為者は法に抵触するという矛盾です。しかしながら、無私の心を持った者よりも自己中心的な者を優遇するというのでは理に適いませんし、私たちの共同体の目指すものとも一致しません。
 当法廷は被告人が真摯かつ良心に鑑みて正しい決断をしようと心がけたことを疑うものではありません。ラースコッホ被告人は個人的な理由ではなく、スタジアムのいる人間を救うために旅客機を撃墜しました。客観的により小さな悪を選択したのです。したがって刑法上の欠点はありません。

乗客がコックピットに突入するか、機長が旅客機の機首を上げたのかも知れないという検察の主張は興味深くはありますが、説得力に足るものではありません。第一にそうすることが可能だったとは証明できません。第二に奇跡が起きる可能性もありますが、それを計算に入れることはできません。私たちが検討すべきなのは事実です。さもなければ裁判は不可能でしょう。

 まとめるとこうなります。耐え難いことではありますが、私たちは、わたしたちの法がモラルの問題をことごとく矛盾なしに解決できる状態にはないことを受け入れるほかないのです。ラースコッホ被告人は生死を分かつ者となりました。被告人の良心に基づく判断に遺漏なく検討を加えるための法的基準を私たちは持っていません。航空安全法もドイツ基本法も裁判所も、彼ひとりに判断をさせました。そのことをもっていま、被告人に有罪を言い渡すことは間違いであると確信するものです。ゆえに被告人を無罪とします。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 さあ、みなさんの判断はいかがでしょうか? ラース・コッホ少佐は有罪でしょうか、それとも無罪でしょうか? ここでは非常に重い問題を扱っています。ゆっくりとお考えください。長文にお付き合い頂きありがとうございました。



 

追記 
 このシーラッハの小説は戯曲として、海外も含め各国の舞台で演じられました。その一つを後ほど追補でご紹介します。みなさまのコメントを頂いた後に。
 最後になりましたが、この小説の作者ジェレミー・フォン・シーゲルはドイツの小説家にして弁護士です。法廷劇を描かせたら、この人の右にでる人はいません。私は、『コリーに事件』という短編を読んで衝撃を受けました。この事も追補で触れるつもりです。




コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする