(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ日記 秋色のみやこに遊ぶ~岡崎ときあかり

2014-09-25 | 読書
(おことわり 箸休めで、気楽な記事をアップします。ベトナム戦争の記事は少々手こずっています。次回までお待ちください)


  多少聞き慣れない言葉かもしれないがプロジェクション・マッピングがあちこちで行われるようになってきた。それと知られたのは改装なった東京駅(丸の内側)を彩ったPMであった。https://www.youtube.com/watch?v=kletcPkpD8c
また大阪城を背景に行われたものは、城が炎に包まれ焼け落ちるがごとき見応えのあるものであったと聞いた。さて京都でも、この4年ほどそのような取り組みがなされてきた。いずれも平安神宮のある岡崎の一角、京都市美術館での投影である。回を重ねること4回。昨年はみっちり準備されたのが、荒天で見送らざるを得ない事態になり関係者を口惜しがらせた。そのリベンジ。今年は好天に恵まれ華やかに二日間開催された。この2年ほど京都へ出かけることがひんぱんとなり、今や半ば京都人と化した私としては見過ごすわけにはいかない。いそいそと同好の友を誘って出かけた次第である。(9月20~21日)

     

 本番は夜である。その前にコラボ企画として岡崎のとなりの粟田地区で行われた<白川あかり~茶の湯めぐり>を見に出かけた。まずは祇園の巽橋(たつみばし)からスタートした。比叡の山に端を発する白川は、京都の北東部を南下し、京都市美術館・国立近代美術館などのある岡崎を経て、知恩院にいたる、そこで西に向きを変え、白川北通りに沿って流れ、祇園花見小路通を越え祇園新橋地区に入る。白川南通りが新橋通りと交わる角には、歌人吉井勇の歌碑がある。有名な”かにかくに祇園は恋し寝るときも 枕の下を水の流れるる”である。毎年11月8日に、この歌碑の前で「かにかくに祭」が行われる。

 ”勇の碑めぐり祇園の恋の猫” (中村多阿子)

白川沿いには枝垂れ桜があって見る人の目を和ませてくれる。今も、このあたりは人気のスポットである。しかし私たちは、そこでは立ち止まらない。いささかの喧騒を離れ、知恩院まえから華頂短期大学周辺をとおり、白川をのんびり北東に沿って遡上する。人気が少なくなり、川の両側には柳の緑があり、のんびり散策するには好ましい。コラボ企画であちこちに茶の湯の店がでていた。ある時は石橋の上で、またある時は川に突き出た川床で一服の茶を味わうという贅沢さ。橋の上の茶の湯では、和服を着た若いカップルがいた。写真を撮らせてもらったお礼に会釈をすると、彼女はにっこり笑ってくれた。いい笑顔であった。ちなみにこの流れが仁王門通りに突き当たり、疎水と合流する地点に至るまでのところは、落ち着いて味わいのある流れである。ある年の春のことであるが、流れの左岸の堤の上に桜が落花芬芬(ふんぷん)として、雪が積もったかと見まごうような風情であった。まことに白川は風情がある。


      



                


岡崎にいたると京都市美術館まえは人が参集し、プロジェクションマッピングの投影を待ち構えていた。まだ時間があるので芝生でのんびりしていたら、凄く張りのある声が響いてきた。男性ふたりのヴォーカルである。テナーとバリトン。それに女性の弾くエレクトーン。<orblye>と書いてある。あまりに素晴らしい声に聞き惚れ、すぐ前においてあるパイプ椅子に腰をかけて、じっくり聞かせてもらった。出だしは、「アルビノーニのアダージオ」ふつう器楽曲でえんそうされるので、ヴォーカルとは珍しい。そのほかにもカンツオーネなども。もう一度聞きたいと、話しをしたら今年の12月に京都文化博物館でコンサートをするとか。再会を約した。こんな場所で、仲間と歌えたら「いいなあ」と思った。

     

 そうこうする内に準備が整い、美術館前のスペースで女性二人のタップダンスの披露があった。中々見事なタップに観衆も大喜び。さてこのプロジェクトを取り仕切る”赤毛のO”佳人の挨拶につづいて和服をきた京都市長”角川大作”氏の登場。この市長さん、着流し姿でどこへでも登場される。二条城のオペラ、バイオ燃料プロジェクト、ロームシアター京都オープニングへの準備セレモニー・・と忙しい。11月末のみやこめっせでの日本酒サミットにも登場されるのではないか。親しみやすく、若い女性にも人気があるようである。そこで少々気になったが、肝心の本業である行政なかんずく財政はどうのように取り組んでいるのか気になった。関係資料をのぞいてみる。ご多分にもれず、財政赤字がでていて、ひところ財政再建団体への転落もささやかれていた。今はなんとか、地方交付税や債権の発行でしのいでいるようである。しかし、ちょっと考えると不思議に思う。京都には名の知られた製造業が多いのである。稲盛氏率いた京セラ、今も永守氏がけん引する日本電産、ローム、オムロン・・・。それに観光人気で昨年日本一に輝いた京都である。税収も多いのではないか。色んな事情がありました。高齢者や学生が多く個人市民税が少ない、また宗教法人が非課税で固定資産税も少ない。地下鉄などなどで赤字体質。必要以上の市職員・・・・。いや、よその町のことに口を出すのは、このくらいでやめておこう。

 肝心のプロジェクション・マッピングは昨年より一段と洗練され観衆の目を奪った。赤毛の”O”さんの奮闘のお陰です。お疲れ様! 








ついでにみやこめっせではシャンソン(玉田さかえさん)の艷やかな歌を楽しませていただきました。見事でしたよ。赤毛の”O”さんの奮闘のお陰です。お疲れ様! ついでにみやこめっせではシャンソン(玉田さかえさん)の艷やかな歌を楽しませていただきました。見事でしたよ。次々に投影される作品に観客は目を奪われていました。あれこれ説明はやめて、写真をご覧ください。ちなみに今ある京都会館を改装して、ロームシアター京都なるものが2016年1月にオープンする予定。準備委員会の委員長は指揮者の小澤征爾さんとのこと。今から楽しみである。さらのその一角には、かの代官山蔦屋が出ると漏れ聞いいている。これも、楽しみ! 写真は、その準備委員会の面々。前列向かって左から2番目の大島の着物姿の女性、このプロジェクション・マッピングプロジェクトを引っ張ってきたスーパー・レディである。実は、彼女とはこの二年ほどの知り合いである。地域のまちづくりの先達にして、熱心な推進者である柳居子氏という人物、いや人呼んで姉小路の親分を通じての知己である。そして何事にも熱心に、一途に取り組む彼女のひたむきな姿勢には心を打たれるものがあった。

     

 さて<岡崎ときあかり>では、美術館まえの映像の投射だけでなく、その周辺で様々な協賛プロジェクトがあり、遅くまで岡崎や聖護院あたりの灯がついていた。すぐ近くの<きょうとめっせ>ではシャンソン(玉田さかえさん)の艷やかな歌を楽しませていただきました。あのエディット・ピアフの名曲「水に流して」を聞かせてくれました。よかったなあ!この人、上手いよ。越路吹雪を思い出す雰囲気だ。今では、クミコが歌っている。歌詞がいいな!(Non je ne regrette rien)

 ”もういいの後悔しない
  昨日のことはすべて水に流そう
  ・・・・・・・・・・・

  もういいの後悔しない
  新しい人生が 今からはじまるのさ”


     

 珍しく京都で一泊した次の朝は、この9月に公開された新美術館<白沙村荘 橋本関雪記念館>へ出かけた。かの日本画家の大家橋本関雪が、10年前に作り上げた邸宅である。庭園は早くから公開されていたが、関雪の作品や収集し続けた古美術品などは残されるままになっていた。それがこのほど記念館が造営され、この9月より公開されたものである。東山の一角銀閣寺のすぐ近くにある。記念館の2階のテラスの眼前には東山連峰がひろがる。右大文字の如意ヶ嶽をのぞみ、緑滴る見事な眺めである。

     

     


秋にはここから月を眺めたらさぞかし、と思った。聞いてみると関雪もその思いがあったとか。1914年頃から造営された庭園は今は、国の名勝として指定されているが当時は浄土寺の敷地にして、水田・湿地が広がっていた。そこを埋め立て、岩石をあちこちから集め、運び込んで造られていった。一万平方メートルの大きな庭園である。橋本画伯のおかげで東山の地に、こうした素晴らしい景観が残され、鑑賞することができるのは、幸せである。テラスの椅子に腰をおろし、しばし句集・詩集をひもとく、これこそ大岡信のいう”黄金時間”であろう。

 帰りに再び岡崎に戻り、神宮道で食事をとったが、そのちかくの小店では志村ふくみさんの織り上げた着物が衣紋にかけられていた。見事な黄色は、梔子色(くちなし)かと思った。あるいは黄蘗色かも。

          

 (終わり)










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読書 『ベスト&ブライテスト(上・中・下)』(デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫)(その①)

2014-09-19 | 読書

 1960年代から10年余にわたったベトナム戦争を語る時、この大冊を忘れることはできない。1995年に書かれた『アメリカ・ジャーナリズム』(下山進 丸善ライブラリーというアメリカの調査報道についての優れた著作を書いた下山進さんは、その本の冒頭(プロローグ)で、当代一ジャーナリストとしてデイヴィッド・ハルバースタムを登場させている。多分1993年の秋のことであろうが、留学を終え日本に帰る直前に彼と向い合っているのである。彼(D・ハルバースタム)は、こう言っている。

 ”アメリカでジャーナリズムと言えば。権威に挑戦し、疑問を投げかけ、物事の意味を捉える(analize)ということです。日本のジャーナリズムは、広報されたことをそのまま伝えるという側面がまだまだ強いという気がしました。・・・アメリカの教育は物事の意味を捉え、教授に質問させ、挑戦することを教えます。日本の教育は、それとは反対に、まず先生のいうことは正しいものだとして覚えることから始める。アメリカのジャーナリストと日本のジャーナリストの違いは、両国の教育の違いによるものではないかと私は考えています。”

 このような識見・卓見を持ったハルバースタム(ピューリッツアー賞)が、アメリカが何故あのベトナム戦争の泥沼にはまってしまったのか? ケネディ以下の輝かしいエリートたちがどこでどうして間違った意思決定を犯したのか、またどうして途中で引き返せなかったのかを、500回にも及ぶ関係者へのインタビューを基に追求したものである。

 著者渾身の力作であるので、簡単な要約ですますのではなく、長くなるかもしれないが、すこし突っ込んで内容をご紹介する。その上で、現在に生きる私たちが、今日なお学び取るものがあるのではないか、若干の考察を試みた。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(ベトナム戦争関連 略年表)

1945年09月・・・仏軍 、サイゴンを制圧
1954年05月・・・ディエンビエンフーで仏軍降伏

1961年01月・・・ケネディ、第35第大統領に就任
1962年02月・・・米、南ベトナム援助軍司令部設置
1963年11月・・・ケネディ大統領、ダラスで暗殺さる。ジョンソン大統領就任。
1964年08月・・・米駆逐艦、北ベトナム哨戒艇と交戦(トンキン湾事件)
        ・・・ジョンソン、北への報復爆撃命令(米軍のベトナム介入)
1965年01月・・・米機、北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始)
     03月・・・米軍の恒常的北爆開始(ローリング・サンダー作戦)
     10月・・・米国内のベトナム反戦運動がはじまる。
1966年04月・・・南ベトナム各地で反政府デモ激化
1967年11月・・・マクナマラ長官更迭
1968年01月・・・北・解放戦線がテト攻勢(南部主要土地を一斉攻撃)
     03月・・・南ベトナムのソンミで米軍による村民大虐殺事件起こる。
           ジョンソン大統領、大統領選不出馬を表明
     11月・・・ニクソン、大統領戦で当選
1975年04月・・・南ベトナム・ミン政権、無条件降伏。北ベトナム軍、サイゴンへ無血入場。ベトナム戦争の集結。


        注)戦死者5万8000人。ベトナム人の犠牲者は200万人を超す。この中に韓国軍(約3万)によるベトナムの犠牲者も含まれる。1966年のサンディ省攻撃では大量ベトナム人の虐殺があった。婦女子は老若を問わず、集団レイプされている。いずれも、枯葉剤やクラスター爆弾。対人地雷などもふくめ、アメリカや韓国からの陳謝も賠償もない。


          
       

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 本書は、「ケネディとエスタブリッシュメント」という章から始まるが、文字通りケネディ政権には、これからアメリカのニューフロンティアを切り開くのだという期待のもと、アメリカの英知ともいうべき知的エリート層、東部に根城をもる知的エスタブリッシュメントが参集した。原題にあるベスト&ブライテストは、ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にして最も聡明な」人材と絶讃を浴びた人々であった。マクジョージ・バンディ/ロバート・マクナマラ/ウオルト・ロストウ/ディーン・ラスクらは、いずれもアメリカ社会の中・上流家庭に生まれ、優れた教育環境で育ち、時には神童とも呼ばれ、またローズ奨学金(・・・)としてイギリスに学んだ。大学の名前を聞くだに、ものすごい。ハーバード、エール、オックスフォードで学んだ・・・。まさにスーパー・エリートたちだ。

 著者ノートからの言葉を借りれば、”これら多くの人びとが、南北戦争以来アメリカを襲った最大の悲劇と考えられる戦争の生みの親でもあった”、のである。 1968年の大統領選挙戦がベトナム戦争を巡って大混乱に陥った様子の取材を終え、ジョンソン政権とそれを引き継ごうとした民主党陣営が、この戦争という争点のために一敗地にまみれるのを目撃した直後、この本の作業が始まった。”なぜ あのような事態になったのか、諸処の決定はどのような背景のもとに、いかにくだされたのか、何故彼らはルビコン川を渡ったのか、私は知りたかった”


(時代の背景について)

 1947年、アチソンが国務次官を辞任するとマーシャル(当時国務長官)はその後任にロヴェットを選んだ。(ロバート・A・ロヴェット。スティムソン・マーシャル・アチソン時代という、戦中・戦後の、あの成功に満ちた輝かしい過去を現在に結びつける偉大な生存者であり、これから大統領に就任するケネディにどのような人材を登用すべきか助言をしたエスタブリッシュメントの一人であった)

 エスタブリッシュメントの指導者たちは、過ぐる年月が見事な大成功であったと感じていた。自分たちは、眠れる民主国家を覚醒させ、日本とドイツに対する勝利を導き、戦後はヨーロッパにおいてロシアの進出を阻止し、西ヨーロッパを復興させたのだ。マーシャル計画は、共産主義を食い止め、ヨーロッパ諸国を破壊と腐敗から立ち直らせ、経済復興の奇跡を生んだ。 「やってやれぬことはない」というアメリカ人固有の自身も手伝って、彼らにはマーシャル計画の成果を実際以上に評価する傾向があった。奇跡をもたらしたのが、ヨーロッパの人々の努力であるという事実を認めるのではなく、自分たちが采配を振り、自分たちが成功を生み出したのだと、彼らは信じて疑わなかった。彼らにしてみれば、歴史が彼らの正しさを証明しているのであった。・・・ロヴェット自身、1940年代の後半について、「あれはまさに奇跡に近い時代であった、行政府と議会が一致団結し、マーシャル計画、ポイントフォア(発展途上国援助)」、NATOを次々と誕生させていった輝かしい時代だった」と回想している。

 ロヴェットとケネディとの対話の中で、さまざまな名前が上がっていった。のちにケネディ・ジョンソン政権下で国務長官を務めるディーン・ラスク、フォード社に若手で後に国防長官になるロバート・マクナマラ、・・。

 1958年頃の大統領選挙前の活動でのケネディの評価は、1960年の大統領選挙で党の指名を受け、評価は一変した。選挙が本調子にさしかかったころ、彼の演説には新しい自信が芽生え、国民も求めて耳を傾けようとするようになった。彼には、自分自身と国民の運命を担っているのだという気迫が感じられてきた。あの『世論』という名著で有名なリップマンは、「フランクリン・ルーズヴェルト以来、この若者ほどアメリカ国民の心を捉え、揺るがし、高揚した人物はいないと」賞賛しはじめた。リップマンは、しかるべきポストにマクジョージ・バンディを推薦した。ラスクは次第に重要な地位に登っていった。国家安全保障担当の大統領補佐官になる。バンディの補佐官には、ウオルト・ロストウがなった。・・・

 彼らがワシントンに携えてきたのは、アメリカの選民思想の高まりと興奮であった。国内においてアメリカの夢を実現するというよりは、世界各地にその夢の実を結び、国際社会におけるアメリカの役割に新たなる強い躍動的な精神を吹き込み、アメリカ・ナショナリズムの新しい一頁を開くために、アメリカ各地から最高、最良の人々が召喚されたのだ、という興奮である。・・・アメリカ全盛時代を思わせるこの傲慢さは、その時代が傾き、実際、空中分解してしまったあとでもケネディグループの人々に残っていた。



(ベトナム戦争への政策意思決定とその過ち・愚行)

(1)まず挙げなければならないのは、ベトナムという国家についての理解の欠如と、己の力への過信である。
(2)次にベトナムの戦場に関する情報の一方的コントロールとマスメディアの操作
(3)さらに文民が軍部をコントロールできるとの思い込み



(以下 その②へつづく)



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(お詫びも兼ねた予告編) 読書 『ベスト&ブライテスト』(上・中・下 デイヴィッド・ハルバースタム)

2014-09-14 | 読書
アメリカが1960年代、なぜベトナム戦争に泥沼引きずり込まれていったのか、それを米政府の政策決定過程を追って解き明かしていった、あの名著をご紹介します。20世紀後半の歴史の一頁にしかすぎませんが、今日なをそこから学ぶべき教訓は少なからずあります。

(言い訳~三連休にて遊びに出かけたりすることもあり、記事のアップはすこし遅れます。今週後半になるかも) 忍耐とご寛容のほどお願い申し上げます。




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エッセイ 月の明かりと希望と

2014-09-07 | 読書
エッセイ 月の明かりと希望と

 明日、9月8日は陰暦8月15日。中秋の名月です。月光が鮮やかに中天にかかります。良夜とも言われます。

 ”人それそれ書を読んでいる良夜かな” (山口青邨)

 終戦直後のまだ幼い頃の夜、銭湯から帰るときには母親の手に引かれ、月明かりの道を歩いて帰りました。まだ道に電灯もあまり無かったころのことです。月明かりが、たよりだったのです。そんな月明かりにふさわしいエピソードをご紹介します。1988年5月、パリのフランス学士院のジャックマール・アンドレ美術館で「永遠の日本の名宝展」とあわせてある日本人の写真展が開かれました。それはフランスの美術史家ににしてルーヴル美術館の絵画部長でもあったルネ・ユイグ氏が主催の労をとったものでした。写真の選択をはじめ額装の仕方・展示にいたるまで氏が携わったものでした。

 
 ”こうした文化交流にかける情熱の原点を、氏は一つのエピソードとともにこう語っている。不幸な第二次大戦のさなか、氏はルーブル美術館の絵画部長としてドイツ軍から貴重な美術品を守るためロワールに逃れていた。そして同時にレジスタンス運動の参謀室にも所属し、祖国フランの自由のために戦っていた。ある日、友人であるアンドレマルロー氏がそこに配属になってきた。共にレジスタンの制服姿での再会である。戦いのつづく日々の中で、二人はよく情熱をこめて語り合ったという。そしてユイグ氏は、ある時、マルロー氏が語った言葉が忘れられないというのだ。

 それは月が皓々(こうこう)と冴えわたる晩のことであった。ユイグ氏とマルロー氏の二人は夜道を車で走った。突然、マルロー氏が車を止めた。「歩こう」。 ユイグ氏は気が気ではなかった。ナチス占領下の真っただ中である。いつ敵が現れるかわからない。

 マルロー氏は月光の照らす道を悠然と歩いてゆく。ユイグ氏は後につづいた。ふとマルロー氏が、深い物思いにふけるような面持ちで言った。

 「文明というものは常に海洋流域で発達する。なぜならそこには、コミュニケーションが生まれるからだ。見たまえ、古代文明はエーゲ海そして地中海地域から始まったではないか。その流れは大西洋地域に移り、これからの将来を考えると、太平洋文明の時代が必ずやってくると思う」

 月明かりの道で壮大な文明論を語るマルロー氏。ユイグ氏は思わず目を瞠った。話の内容にも驚いた。と、ともに何より、人々が今日一日を生き延びるのに精一杯という戦時下にあって遙かなる人類の未来を展望するスケールの大きさに感心したという。”

     ~~~~~~~~~~~~~~~

 ここに述べられたアンドレ・マルローという人について少し触れておきます。フランスの作家で冒険家。大戦後のド・ゴール政権下で文科相を長く努めています。詩的で哲学的だが、同時に行動する人です。どこかの青白きインテリとは違うのです。マルローは若かりし頃、小説を書いた後、スペイン内戦に義勇兵として参加。第2次大戦でも、捕虜となって脱出した後にレジスタンスとして戦っています。。ちなみに「幸福論」のアランは政治活動も行い、第1次大戦になんと46才で志願兵として参加しています。

 そしてマルローは日本文化に深く傾倒していて日仏交流に尽力されています。1974年の来日のおりは、熊野・那智の滝をめぐり、伊勢神宮にも参拝しています。マルローは、スペイン内戦では国際義勇軍飛行隊の指揮官として参加していますが、その時の体験を下に『希望』という小説を書いています。この『希望』においては、人間の連帯、友情のなかに希望を見いだそうとしているのです。

 この希望ということばから、上記のマルロー氏のエピソードが書かれた著書から、もうひとつのエピソードを思いだしました。


《大いなる希望に生きよ》~アレクサンドロスの旅立ち

              注)アレクサンドロスとは前4世紀のマケドニアの王。ギリシャも征服、小アジアからペルシャも征服、その偉業にシーザーやナポレオンも英雄として尊敬している。

 ”ギリシャ世界と東方オリエント世界との文化の融合をもたらし、現在に至るシルクロードの豊穣なる世界を拓いた(ひらいた)アレクサンドロス大王。彼は、その青春を賭けたペルシャ遠征に出発するに際し、一切の財産を臣下のために分け与えたという。

 はるばるペルシャ帝国を討つ長途たびには、さまざまな軍需品や食糧を購入しなければならない。そのためには莫大な資金が必要である。にも、かかわらず、彼は、いかなる将士でも抱くであろう妻子への気遣いを断って出発できるように、愛蔵する宝物から領有する田畑にいたるまで、一切の王室財産をほとんどすべて分配してしまったのである。
 
 不審に思った群臣の一人ペルディッカスは訊ねた。
「王はいったい何を持って出発あれるのですかー」
 これに対しアレクサンドロスは、答えた。
「ただ一つ、”希望”という宝を持てるのみ」 「希望」ある人生は強い。「希望」なき人生は敗北へと通じていく。「希望」は人生の力であり、心に美しき「夢」を持ち続けられる人は幸福である。希望を持ちゆくことは、人類のみに与えられた特権といってよい。人間だけが希望という未来への「光」を自ら生み、わが人生を創造することができる。”

 
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 はじめに述べた「ある日本人」とは、池田大作氏のことです。創価学会の会長である池田氏については、様々な見方があるのは承知しております(後年とくに)。しかし、その著作『私の人間学 上』(1988年)に書かれた(現代人はいかに生きるべきか)に関する思索には耳を傾けるべき内容が多く含まれています。手にしたのは10年以上前のことですが、深く印象に残ったのでメモしておきました。著者の博学・読書の深さには驚かされたものでした。


 ”月明かり”の話から、あれこれ脱線してしまいました。もう一度主題にたちかえり、私の好きな詩歌をご紹介して、本編の締めくくりとさせていただきます。

 ”もう一軒つき合えという月光の石塀小路、角のつわぶき” (永田和宏)

 ”天心の真澄に月の欠くるとき四方におびただしき星輝(て)りはじむ”
                             (上田三四二)

 ”深々と満ちゆけるもの月今宵” (稲畑汀子)



さあ、明日の名月はどのような月になるでしょう。そして、どこで眺めていることでしょう。京都は大覚寺の大沢の池に映る月か、叡山からびわ湖の向こうに登る月か・・・。




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(予告編)エッセイ 月の明かりと希望と

2014-09-03 | 読書
フランスの詩人にして、かつド・ゴール政権下で文科相を務めたアンドレ・マルローのエピソードをお話します。 アップは、週末。多分日曜になります。
しばらくお待ち下さい。





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