コラム(風の音)~風流を楽しむ<
ー写真は、白州 尾白の森を流れる小川
いつしか晩夏となり、炎暑が続いております。そんなときは、むずかしい話はやめにして風流な話題で楽しみましょう。
(山見)
山口青邨という俳人のことはご存知でしょう。なにせ、4Sを提唱し、東大俳句会を秋桜子、誓子、冨安風生とつくった人のことですから。その彼が随筆集の中で、こんなことを書いています。
”私の郷里盛岡地方に山見という風習がある。男たちが酒樽を担ぎ重箱を下げ、新緑の山にでかける。終日飲み食い唄い寝ころんで、夕方藤の花やつつじの枝を肩にかけて帰ってくる。”
こんな山の中で終日春を楽しむというのはなんと贅沢なものか、一年の労働が報いられる思いがするだろう。しょっちゅうする訳ではない。たまの楽しみである。海外旅行や贅沢なグルメ旅でもない。ささやかだが、仲間がいて酒をのみ、かつ喰らい、日がな話に興ずる。それでいいのだ。
これを現代版に翻訳すると(笑)、京都へ出かけることになる。辻留の仕出し弁当を東山三条大橋近くの店で受け取り、いや京都和久傳の弁当でも悪くない。そうして春ならば、鴨川べりの半木の道(なからぎのみち)にあるベンチに座って鴨川の流れを見ながら、味わうのだ。酒も少し欲しい。ぐい呑は、もちろん自分のを持ってゆく。青課堂の錫のぐい呑を。ウオークマンを持っていき、話疲れたら音楽を聴く。秋になったら、・・・。いくらでも行き先はあるが、ここはシークレットスポットとしてとっておこう。
注)ちなみに「辻留」は、京懐石を始めた名料理人辻嘉一の流れを汲む店である。
(ホトトギスの声を聞く)
キョキョッと鳴く声はあまり耳にしたことがないのでなないでしょうか?小倉百人一首の中にこんな歌があります。
”ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる”(藤原実定)
ほととぎすは古文によく登場する夏の風物詩ですが。ほととぎすの声を聴くことは何よりも風流とされました。平安貴族たちは一晩中起きていて、明け方にほととぎすの声を聴こうとまでしました。そして歌人たるもの、ほととぎすの声を知らないことは恥だという風潮さえあったようです。
つまり平安の都では、ホトトギスが鳴いていたのですね。そしてその声を聞くことができた。ところが江戸時代になると、こんな狂歌があります。
”ほととぎす 自由自在に聞く里は 酒屋に三里 豆腐屋に二里” (頭光)
ホトトギスの声が聞けて風流なんだけど、とにかく辺鄙なところである、というほどの意味です。ご近所で聞くというようなことはできないと云うのですね。もう一度平安時代に戻りますと、源俊頼というひとが、こんな歌を詠んでいます。
”聞かずとも聞きつといはん時鳥人笑われにならじと思へば”
時鳥の声を聞いていなくても、聞いたと言っておこう、人に笑われたくないのだから、」と。坪内稔典さんは、そんな故事を引いて、次のように言っています。
”実はホトトギスをはっきりと聞いたのは50歳を過ぎてから。琵琶湖畔の森でキャンプした夜だった。そのうち箕面のわが家でも聞くようになった。夜明けなどにキョキョっと高く鳴いて移動してゆく。さて夏にはホトトギス仲間を作ってたとえば比叡山や六甲山へホトトギスを聞きにゆく、というのどうだろう”
これぞ風流ですね! さてどこへ行きましょうかね?
ー写真は、白州 尾白の森を流れる小川
いつしか晩夏となり、炎暑が続いております。そんなときは、むずかしい話はやめにして風流な話題で楽しみましょう。
(山見)
山口青邨という俳人のことはご存知でしょう。なにせ、4Sを提唱し、東大俳句会を秋桜子、誓子、冨安風生とつくった人のことですから。その彼が随筆集の中で、こんなことを書いています。
”私の郷里盛岡地方に山見という風習がある。男たちが酒樽を担ぎ重箱を下げ、新緑の山にでかける。終日飲み食い唄い寝ころんで、夕方藤の花やつつじの枝を肩にかけて帰ってくる。”
こんな山の中で終日春を楽しむというのはなんと贅沢なものか、一年の労働が報いられる思いがするだろう。しょっちゅうする訳ではない。たまの楽しみである。海外旅行や贅沢なグルメ旅でもない。ささやかだが、仲間がいて酒をのみ、かつ喰らい、日がな話に興ずる。それでいいのだ。
これを現代版に翻訳すると(笑)、京都へ出かけることになる。辻留の仕出し弁当を東山三条大橋近くの店で受け取り、いや京都和久傳の弁当でも悪くない。そうして春ならば、鴨川べりの半木の道(なからぎのみち)にあるベンチに座って鴨川の流れを見ながら、味わうのだ。酒も少し欲しい。ぐい呑は、もちろん自分のを持ってゆく。青課堂の錫のぐい呑を。ウオークマンを持っていき、話疲れたら音楽を聴く。秋になったら、・・・。いくらでも行き先はあるが、ここはシークレットスポットとしてとっておこう。
注)ちなみに「辻留」は、京懐石を始めた名料理人辻嘉一の流れを汲む店である。
(ホトトギスの声を聞く)
キョキョッと鳴く声はあまり耳にしたことがないのでなないでしょうか?小倉百人一首の中にこんな歌があります。
”ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる”(藤原実定)
ほととぎすは古文によく登場する夏の風物詩ですが。ほととぎすの声を聴くことは何よりも風流とされました。平安貴族たちは一晩中起きていて、明け方にほととぎすの声を聴こうとまでしました。そして歌人たるもの、ほととぎすの声を知らないことは恥だという風潮さえあったようです。
つまり平安の都では、ホトトギスが鳴いていたのですね。そしてその声を聞くことができた。ところが江戸時代になると、こんな狂歌があります。
”ほととぎす 自由自在に聞く里は 酒屋に三里 豆腐屋に二里” (頭光)
ホトトギスの声が聞けて風流なんだけど、とにかく辺鄙なところである、というほどの意味です。ご近所で聞くというようなことはできないと云うのですね。もう一度平安時代に戻りますと、源俊頼というひとが、こんな歌を詠んでいます。
”聞かずとも聞きつといはん時鳥人笑われにならじと思へば”
時鳥の声を聞いていなくても、聞いたと言っておこう、人に笑われたくないのだから、」と。坪内稔典さんは、そんな故事を引いて、次のように言っています。
”実はホトトギスをはっきりと聞いたのは50歳を過ぎてから。琵琶湖畔の森でキャンプした夜だった。そのうち箕面のわが家でも聞くようになった。夜明けなどにキョキョっと高く鳴いて移動してゆく。さて夏にはホトトギス仲間を作ってたとえば比叡山や六甲山へホトトギスを聞きにゆく、というのどうだろう”
これぞ風流ですね! さてどこへ行きましょうかね?