(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『日本一心を揺るがす新聞の社説』

2013-02-28 | 時評
読書 『日本一心を揺るがす新聞の社説』
          ーそれは朝日でも毎日でも読売でもなかった
           (水谷もりひと ごま書房新社)

 宮崎に「みやざき中央新聞」という小さな新聞がある。週一回の発行。ちいさいが、地方紙ではない。全国紙である。取材を通じて拾った面白かった話、感動した話、心温まる話などどをその社説に掲載している。ある大学の先生から、”お宅の新聞の社説、ありゃ社説じゃないよ。哲学がない”と酷評された。水谷は言う、”大手の新聞社といえば、一流大学卒のエリートが作っている。とくに社説を書く論説委員といえばそのなかでも選りすぐりのエリート。やはり文章は知性と教養がほとばしり、格調高く、戦うジャーナリスト魂を感じる。・・まあ開き直って「社説らしくない社説」これも哲学ではないか”。そして人間の心には「知・情・意」という三つの機能がある。この三つのうちの「情」について、”情報を得て、何を知ったかでなく、何を感じたのかが大事なのだ。ジャーナリズムは「知」ではなく「情」を愛する媒体でいい”という。

すこし小難しくなったが、とにかくこの新聞、大人気なのである。そしてその社説をあつめたのが本になった。さっそく読んでみた。珠玉の社説41編。そのなかで、とても心が温まった一編をご紹介する。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「抱っこの宿題、忘れんでね!

 今年の6月のある日のこと、小学1年生の三女、こはるちゃんが学校から帰ってくるなり、嬉しそうにこう叫んだ。「お父さ~~ん、今日の宿題は抱っこよ!」

 何とこはるちゃんの担任の先生、「今日はおうちの人から抱っこしてもらってきてね」という宿題を出したのだった。

 「よっしゃあ!」と平田さんはしっかりこはるちゃんを抱きしめた。その夜、こはるちゃんはお母さん、おじいちゃん、ひいおばあちゃん、二人のお姉ちゃん、合計6人と「抱っこの宿題」をして、翌日学校で「抱っこのチャンピオン」になったそうだ。

 数日後、平田さんはこはるちゃんに聞いてみた。「学校のお友だちはみんな抱っこの宿題をしてきとっね?」 するとこんな悲しい答えが返ってきた。「何人か、してきとらんやった」。でも、世の中、捨てたもんじゃない。次に出てきた言葉に救われた。「だけん、その子たちは先生に抱っこしてもらった」
 ステキな先生だなあと思った。こういう宿題を出せるのは小学校1、2年ぐらいだろう。小学校3年生以上になると恥ずかしがってしないから。人間には抱っこが必要である。幼少期にしっかり抱っこしてもらった子は、そのときの体の柔らかさも、温もりも、覚えていないが、潜在意識が記憶している。・・・

 幼少期にやり忘れた「抱っこの宿題」は、思春期に歪んで出てくる。男の子はずっと抱っこされたいマザコンであり続けたり、女の子は親以外の大人に抱っこしてもらってお金をもらう援助交際に走ったり・・・。

 「抱っこの宿題」は子どもにでなく、親に課せられた「宿題」だったのだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この後、続きとして、さだまさしの「先生の金メダル」という素敵な先生のエピソードを紹介する積りにしていました。
しかし九分九厘様から、リクエストがありましたので、それは止めにして、この本の社説をもう一編ご紹介いたします。すこし長くなりますので、日曜日までお時間ください。(その2)としてアップロード致します。



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読書/時事 『北方領土問題』

2013-02-23 | 時評
読書/時事 『北方領土問題』 4でも0でも、2でもなく
        (岩下明裕 中公新書)


 今月20日の夜、森元総理が安倍首相の特使としてロシアを訪問し、プーチン大統領と会談を行った。プーチンは、”日ロ間に平和条約がないのは異常事態だ”と述べ、領土問題を進展させようとの意欲をみせた。日露両国の首脳が膝詰めで会談し、領土問題を話し合う機会は、これまでほとんどなかった。ぜひこの機会をとらえて、長年の懸案を解決に導いて欲しい。単純に領土を取り戻す、というような狭い視野での交渉ではなく、地政学的なグランドデザインを描き、どうしたらアジアでの安全保障を確保しうるのか、と言う大きな視点での解決を望みたい。今日の報道では、海底電線ケーブルを敷設して、電力をロシアから輸入する構想が報じられた。中東からの原油の依存度を下げる一つの有力な手段だ。

 そんな時、7年ほど前に読んだ『北方領土問題』という本のことが頭に浮かんだ。この本は、当時北海道大学スラブ研究センターの教授であった岩下氏が、これまでの本とはまったく違う新しい視点で二国間の領土交渉を振り返えり、考察し、そして解決策を模索した労作である。私は、この書を読み終わって大きな衝撃を受けた。その指し示すところは、今日なお価値を失っていないと思うので、改めてご紹介する次第である。政治家でもなく、直接的な北方領土問題の関係者でもない著者が、客観的な目で見つめた「北方領土問題」の深い考察である。

     ~~~~~~~~~~~~~~~


 1980年代後半、「北方領土問題」に関して激しい議論が巻き起こった。きっかけは、1986年末の東大和田教授と東京外大中嶋教授の発表した二つの論文である。

 ”二人の問題提起に共通しているのは、政府が方針として掲げる四島返還に対する疑問の提出であった。

 中嶋の提起は「ソ連はけしからん」と言い続け、領土が帰って来ないほうが いいのか、敗戦を直視した上でよりよい道を選択した方がいいのか、の岐路にあるという現実的なセンスから行なわれたのに対し、和田のそれはより踏み込み、歴史的経緯から見て二島引渡しで折り合うのが妥当とするものであった。・・”

 ”論点の中で強く私の印象に残ったのは、エトロフ島とクナシリ島は、日本 が1951 年のサンフランシスコ平和条約で放棄を宣言した「千島列島」ではないとする立論に対する和田の強い疑義申し立てであった。・・・”

 ”だがこのような立論を正面から掲げた和田は、当時孤立無援であった。和田のような 主張は、日本の官民が一丸となって繰り広げるべき「四島返還運動 」に対する背信行 為ときびしく論難された。”

 この論争は日ソ外交研究を志しはじめたばかりの著者にとっておおいなる刺激となった。同時に日ソ関係とくに「領土問題」を客観的かつ学問的に分析し、議論することの難しさをも痛感した。政治の影のつきまとう日ソ関係を 自らの研究対象にしたくないとと思った。その流れの中で目にとまったのが 、中国であった。そして自分が専門とする中ロの国境問題との比較から「「 北方領土問題」を論じることにした。そして「北方領土問題」について、 きちんと自分の意見を述べることにした。

 岩下は、2004年春「「北方領土問題対策協会」の研究会委員に招請され問題の解決に向けて具体的な道筋を示すことの緊急性を強く認識するに至った。

 ”2004年秋には、中国とロシアの国境問題が完全に解決したとのニュースが届き、中国とロシアの解決方式が果たして「北方領土問題」に適用で きるかどうか、真剣に提起する責任が生じた”

 著者のスタンスは、きわめて明瞭だ。「「北方領土問題」を次世代の解決に委ねよう、という声には真っ向から反対している。

 ”これまでの交渉成果に実り乏しく、解決への展望が見出せないからと言って、その難題を先送りしようとするのはあまりに無責任だ。環境、財政など多くのツケが次の世代に回っている。外交まで、そうしようというのか。・・私は、この問題解決を次の世代には委ねたくはない。”

     ~~~~~~~~~~~~~~~~

 (ながいイントロでした。申し訳ございません。これから本論に入ります)

 序章「「「北方領土問題」とはなにか」では、これまでの折衝の経緯が語られる。その中で、中ロ国境問題との接点という一文があって、目をひく箇所がある。

 ”しかし、中ロが最終決着に用いたフィフティ・フィフティのも法的根拠は、全く欠けている。どうしてそこに国境線が引かれたかは、政治的妥協と現実的利益に基づいたとしか説明できない。要するに、政治的妥協によって「 領土問題」を解決しうるという先例が生まれたのである。”


 この中ロ国境問題解決の事例を詳しく検討し、それを通じて「「北方領土問題」の動かし方を考えて見たい、というのが本書の中核をなす著者の試みだ。

 第1部1~4章は、中ソ国境問題がいかに解決されたか、について詳しく分析している。本書の一つの中核とも言える部分ではあるが、ここでは省く。

 第2部「日ロ国境問題をいかに動かすか」は、本書の白眉だ。第5章でつぎのようなことを言っている。

 ”フィフティ・フィフティによる政治的妥協に基いて国境問題を解決するという中ロの判 断が、日ロの交渉に新しい光を与えている。それは二島プラスαのαにあたる択捉と国 後を政治的判断により分け合うという可能性であ る。もちろん、そのためには、ロシア も日本も双方が一歩ずつ踏み出さねばならない。専門家たちのなかにもそれを後押しする機運が生まれ始めた。”

 第6章「中ロのやりかたをどう適用するか」では、まず”ハードルを下げよう”と提案する。日ロ交渉の前に立ちはだかるハードルとはなにか。それは双方の互いへの要求の高さだ

 ”日本による四島返還はロシアにとってゼロ回答を意味する。これを受け入れることは、ロシアにとっては、内外に説明のしようがない「敗北」である 。・・対照的に、ロシアによる二島引渡しの案は、必ずしも日本にとってゼロ回答ではない・・・ とはいえ今さらの二島返還による最終決着は日本の面子を損なう。二島返還を日本が勝利として説明するのも難しい。この両者にとって、ともに高いこのハードルをどのように下げうるか、ここで中ロ交渉の教訓が生きるはずだ。”

 ”では中ロのやりかたを日ロに適用した場合のシミュレーションをやってみ よう。そ の柱は、
 
 (1)段階交渉方式の採用
 (2)最終段階での大胆な政治的妥協(フィフティ・フィフティ)
 (3)解決をスムーズにするための「共同利用」

 である。”これを一つひとつ検討し、その対象は軍事的問題、海のフィフティ・フィフティ、国境地域住民の声にまで及ぶ。

 第7章では、四島返還の早期実現が容易ではないと率直にみとめるところから再出発すべき、だと訴える。

 ”だが惰性によって「思考停止」に陥り、これまでの方針を念仏のように繰り返すこと だけはもうやめよう・・・”

 ”(長谷川の研究が一貫して示唆しているのは)ソ連・ロシアが四島引渡しに踏み込む 難しさと日本が四島返還に固執するあまり、何度かの機会を失ったという事実である。

 あれから五十年。ふたたび溝は少しずつ埋まりつつある。ロシアは二島引渡しの立場まで回帰した。日本でも二島返還プラス継続交渉を許容しうる声が強まりつつある。忘れてあいけない点は、この「プラス継続交渉」の可能性を残したのが1950年代の鳩山・河野の闘いであったということである”

 終章では、最後に日ロ双方が”フィフティ・フィフティの歯車を首尾よく「互いの勝利(ウイン・ウイン)に回すことで、突破口を開きうる”として、未来に向けてのフィフティ・フィフティを語る。

 ”未来へ向けてのフィフティ・フィフティ。この新たな国境問題の解決法は、そのまま のかたちでは決して踏襲できないが、韓国、中国との関係にも適用できる。これは同時 に東アジア諸国との過去の完全なる清算に向けた大きな前進となりうる。「互いの勝利を目指す」。日本を取り巻く国境問題をすべて解決したとき、日本は新たな国のかたちを確定し、過去からも自由となりうる。”


 アメリカでも少なくなった「Investigative Journalism」(調査報道)の本流をゆくような側面をもった好著である。2000年3月に出された『勝負の分かれ目ーメディアの生き残りに賭けた男たちの物語』(下山進)を思い出す。





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読書 『密書「しのぶもじずり」』

2013-02-17 | 時評
読書 『密書「しのぶもじずり」』
         (荒山徹 小説新潮2003年9月号 新潮社)

 この読書日記も、10年程前は、まだデジタル化しておらず、一年分の読感想文をまとめ、ごく限られた友人に配っていた。その頃のものに、残しておきたいものが少なからずある。今回は、その中の一つである。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~

小説新潮なんて、はなから目もくれなかった。ただ偶然読んだ「冬の標」の著者である乙川優三郎のエッセイが載っているというので、手にしたのだ。その中でぱらぱら見ていたら、 ”禁断の書簡をめぐり、巌流対二刀流ー因縁の対決が再び・・”というキャッチ・フレーズが目についた。あまり期待をしたわけではなかった。しかし読み進むにつれ、物語は単なる時代小説にとどまらず、日本と朝鮮の昔の関係に及んで衝撃的な点をはらんでいる。熟読せざるを得ない。

 主題は朝鮮通信史使についてである。江戸時代の朝鮮通信史については、よく知られるところであり、最近では劇団わらび座が、それを題材としたミュージカル「つばめ」を上演している。またこの朝鮮使との折衝に当たっ功績のあった雨森芳州は、”日朝友好の極意は誠信の交にあり・・」と呼びかけたことでよく知られ、生家のあった滋賀県高月町では、いまもなを慕われている。

 ところが朝鮮通信使は、雨森の時代をさかのぼること三百年、室町中期に始まっている。著者は、この点に着目し、その時の朝鮮側の中心人物である申叔舟(シンスクチュ)の、嘉吉三年(1443年)の二ヶ月にわたる京都滞在の出来事から興味津々たる物語を展開している。

申叔舟は、李朝初期を代表する文臣で、6代の朝鮮王に仕え、外交・国防などに貢献し、領議政(首相職)にまで上って。学者としては、訓民正音(クンミンジョンウム・・・ のちにハングルと改称される)の創製に大き貢献し、輝かしい業績をあげている。

時は、室町時代の1429年、1439年に2回にわたって朝鮮通信使が来日。二度にわたって通信使が見た野蛮な島国、倭奴は貨幣経済が発達し、交通網整備され、さらには農村では高度な水利灌漑がおこなわれ高い農業生産力を誇っていた。また東山文化の胎動がはじまっており、その中心をなした五山の僧たちの高い学識にも圧倒された。そういう状況下で、1443年に第三次の通信使一行五十数名が来日したが、そのおり書状官(文書取りあつかい)を努めたのが申叔舟であった。彼は京都の公卿清原業忠(なりただ)-当時明経博士ーと意気投合、たびたび邸に招かれた。

ここで文字通り汗牛充棟の呈をなす書籍をみせられて呆然とする。まず日本書紀(朝鮮の三国史記より400年以上前)、ついで続日本記、日本後記・・・・、古語拾遺、栄華物語、大鏡、今鏡などなど、また日本各地の風土記。絵画については、平安後期の源氏物語絵巻、鳥獣戯画、三十六歌仙絵巻など宮廷内から庶民の生活までを知ることができるぼうだいな絵画資料。

さらに学問書として空海の「文鏡府論」 ここには本家の中国でも古書目録の書名をしるのみで、眼にすることのかなわぬ書が縦横無尽に引かれている。申叔舟は、”もはや奇蹟”と感嘆した。他には、と問うと、業忠は書庫にはいり、唐にわたった留学僧円仁の日記「入唐求法巡礼行記」、さらに9世紀当時の日本に存在した漢籍1600部を分類した書籍目録「日本国見在書目録」、さらには600年以上前に編纂された百科事典「秘府録」・・。業忠が解説するたびに、申叔舟は息を呑んだ。海外留学記だって、書籍目録だって、百科事典だって、同時代はおろか、いまでも朝鮮にないものである。

文芸の分野はと問えば、漢詩集懐風藻(751年)、文麗秀歌集、経国集、など。ついで日本のことば、やまとことばで詠まれた歌として万葉集を紹介された。ここでは作者が天皇から農民、兵士に至ると聞いて、彼の想像を越えた。古今和歌集では、その序文の言葉に魂を激しく揺さぶられる。

 ”やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞ
 なれりける。世中にあるひと、ことわざしげきものなれば、心に
 おもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。
 花になくいうぐひす、みずにすむかはづのこえをきけば、いきとしいける
 もの、いずれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、
 あめつちをうごかし・・・・・”


この歌集に夢中になった申叔舟は、さらに業忠にねだって他の和歌集をみることになる。後選和歌集、拾遺和歌集、和漢朗詠集、梁塵秘抄・・彼は日本固有のことば、やまとことばで読み上げられた和歌に心を奪われる。つづいて和泉式部日記、伊勢物語、枕草子、源氏物語などなど。これらの文芸作品は朝鮮では一冊も書かれていないばかりか、女性が文を綴ることに驚愕した。

申叔舟は、業忠に日本文化を下にみてきた朝鮮の現状を憂え、嘆く。これに対し、業忠は、互いの文化を敬し、蔑みもおもねりもあるべからず、として、次のように語る。

 ”おれはなあ、申叔舟よ、文化に優劣をつけることぐらい、とんでもない誤りはない、と常々そう思っているのだ。わが日本には日本の、貴公の朝鮮は朝鮮の、それぞれが歩んできた歴史と風土、そして民族の心がつくりあげ文化がある。すべからく文化は対等であるべきで、互いの文化に敬意をはらい、気に入ったところあらばためらわずに採り入れる。そうしておのが文化をいっそう広やかで豊穣なものに育てあげてゆく。それでこそ交流ー文化交流の神髄というものではないか・・・”

申叔舟は、日本がすでに600年もまえに自国の言葉を表現できる日本固有の文字、仮名をうみだしていることに、思いを致し、あいうえを五十音を参考として新しい朝鮮文字を思いつく。その後28文字からなる訓民正音が完成し、3年後に公布された。その翌々年申叔舟から、業忠におくられた壱通の礼状ー訓民正音の創製に業忠の功績が大であったことを記したものーを巡って、この物語は展開して行く。

しかし、ここまでの前半が、史実にどこまで忠実かは知らないが、この物語の精髄とも言うべき部分であり、日朝関係ひいては異文化間の関係をあり方を考える意味でも興味深い。見事な短編である。今でも、読み返す価値がある。ただ残念ながら、この短編は出版されていないので、今では読むことはできない。本記事を残して置く次第である。

またここに述べられたことを振り返えるとわが日本の中世、13~14世紀の頃の文化水準の高さにあらためて驚き、感嘆の念すら覚える。そして誇らしくも思えるのである。

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絵画 「川端謹次企画展」~丹波氷上町

2013-02-14 | 時評
絵画 「川端謹次企画展」に行ってきました

 丹波は氷上町まで車を走らせ、丹波市立植野記念美術館で行なわれている「川端画伯」の絵を見てきました。<昭和の風景>と題された展示は、川端画伯の青年期から壮年・円熟期の作品、70点余に及ぶもので、画伯の全貌をみることができます。

 川端謹次は、1909年に兵庫県柏原町にうまれ、おもに神戸で活躍した洋画家です。その明るい画風から県民に親しまれています。

 昭和7年23歳の時 東京美術学校西洋画科(現 東京芸術大学)に 入学藤島武二の教室で学びました。藤島の、”直接外光の下で自然を描くことを・・”という言葉に強い印象を受けています。

さらに日曜ごとに 藤島武二の自宅を訪問し指導を受けています。昭和9年 武二に同行して犬吠埼に「日の出」の写生に来た謹次はパレットを持ったまま微動だに動かなかった武二が太陽が昇り始めた瞬間、すまじい勢いで絵を描き始めたのを見て圧倒され感動したそうです 

 川端画伯の絵は、色彩が明るく、のびやかな絵が多く、見ていて心が安らぎます。風景画では、緑(エメラルドグリーンのような色、日本の色でいえば黄味の勝った明るい萌黄色)を多用した絵(昭和49年の「一ノ谷」など)が目につきます。この緑には生命力の躍動のようなものを感じます。

印象に残った絵をいくつかあげれば、まず平成3年の「港の喫茶室」。あえて焦点をしぼらぬ、後期印象派のような雰囲気のある絵です。あたたかいファミリーの雰囲気がよく出ていますね。



昭和50年の「秋の高源寺」 赤や黄色を大胆においた色相がいいですね。ここへは紅葉の頃に足を伸ばしたことがありますが、雰囲気が出ています。

昭和59年の「丹波の霧」も、秋の霧の趣が感じられて好きな絵の一つです。昭和43年の「新緑の香良」は、丹波の緑したたる風景を画いたもので、ここでも目の覚めるような緑が置かれています。

そして100号の大作「キャベツ畑」です。えんえんとキャベツが描かれています。そして絵の奥に農婦が畑作業にもくもくといそしんでいます。働くことの尊さのようなものが伝わってきます。惹かれるものがあります。



小品にも、素晴らしいものがあります。たとえば白菜とくわいを取り合わせた絵には、同じ時に見に来ていた観客からも感嘆の声が上がっていました。柘榴の絵も魅力があります。




 私のつたない筆力では、なかなか画伯の絵の魅力をお伝えすることができません。ぜひ足を運んでご覧ください。とても素晴らしい展示でした。この週末までやっています。また美術館そのものが、明るくて気持ちの良いところです。照明、採光もいいです。どこかの県立美術館とは、大違いですね。

余談になりますが、ここを訪れた時は帰りにでも<道の駅 おばあちゃんの里>に立ち寄ってみてください。オール木造の建物も居心地がいいし、なにより食事がうまい。そして野菜の直売場では、丹波産の力みなぎる新鮮な野菜を手に入れることができます。岩津葱にも負けない赤ねぎ、みっしりと葉を巻いた白菜、水菜、蕗のとうなどなど。どれも美味しい味を出していました。それに珍しい猫柳があったので買ってきて、壷に差しました。これが銀色ではなく赤みを帯び、ふっくらした猫柳の花穂が、春の訪れを物語っていました。

          


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読書 『生きて愛するために』

2013-02-09 | 時評
読書 『生きて愛するために』
        (辻邦生 メタローグ)

 春の兆しを探しに、近くの梅林へ行きました。まだ少しですが、蕾が開きはじめていました。白梅があちこちにあり、草田男の句が浮かんできました。

  ”勇気こそ地の塩なれや梅真白”

白梅といえば、万葉集のなかにある紀少鹿女郎(きのとしかのいらつめ)の歌を思い出します。ういういしい万葉の乙女の姿を想像します。

  ”ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて わが思へる君”

 さて今日は、辻邦生のことについて少し語ります。

 辻邦生の作品については、大作は『西行花伝』や「背教者ユリアヌス』、エッセー集は『微光の道』。旅行記は『美しい夏の行くへ イタリア・シチリアの旅』、そして往復書簡については水村早苗と交わした『手紙、栞を添えて』などなど、いろいろな作品を読んできました。しかし、ここで取り上げた『生きて愛するために』は、かなり趣が違います。1994年の夏に病を得た辻は、しばらく筆を折っていました。そんな時に、自由なテーマの執筆依頼が日経新聞からあり、その日曜版「こころ」欄のカットを担当している画家の小泉淳作から、”一緒に仕事をしてみませんか”と誘われたのが契機だったのです。辻は、かつて病で死にかけたこともあり、生きることのありがたさを人一倍強く感じるようになっていたのです。しかし小説の執筆が次第に多くなって、いつかそれを忘れていることがあった。そこで、とにかく生きることの素晴らしさを、もう一度、じっくり眺めてゆくのを基本テーマにしようと思ったそうです。

そんな背景下で書かれたエッセー短編集であり、一編一編が味わい深い。ひとつひとつが数頁という掌編のようなものである。もう20年近く前の本ですが、この本を手にいれることができたら、あなたは幸せなひとです。

 その全貌をとりあげるのは控え、そのなかでも私がとくに心惹かれた「願はくば花の下にて」の中のある部分をあえてフルテクストでご紹介します。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ”われわれは日常生活の中であくせくと生きているが、心の目を澄ますと、こうした花盛りのなかにいるのが見えてくる。実は、この世にいるだけで、われわれは美しいもの、香しいものに恵まれているのだ。何ひとつそこに付け加えるものはない。すべては満たされているーそう思うと、急に、時計の音がゆっくり聞こえてくる。万事がゆったりと動きはじめる。なにか幸せな充実感が心の奥のほうから湧き上がってくる。

 もう自分のことをくよくよ考えない。すべてが与えられているのだから、物質的にがつがつする必要はない。この世に太陽もある。月もある。魂の仲 間のような星もある。信じられないようなよきものに満たされている。雲がある。風がある。夏がきて、秋がくる。友達がいる。よき妻や子がいる。たのもしい男がいる。優しい女がいる。うまい酒だってあるではないか。

 われわれの胸に時々そんな充実した静かな幸福感が満ちてくることがある”

      ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ベランダの丸テーブルの前に座って、ウイスキーの水割りのグラスを手にしながら、西の方に沈みゆく夕日を眺める。アイポッドからは、アンドレ・ギャニオンのピアニスティックな旋律が流れてくる。たまには、好きな詩歌を口ずさむ。ささやかながら至福の一瞬である。


   ”障りなく 水の如くに 喉を越す
     酒にも似たる わが歌もがな”ー坂口謹一郎







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気まぐれ日記~朝食を楽しむ

2013-02-05 | 時評
 2月1日の「WBS」を見ていたら<朝食を制するものは>というタイトルの番組をやっていた。横浜のIKEAでは、朝の7時半に朝食ビュッフェがオープンする。499円で、山盛り食べられる。家具などの買い物客でなかなかの人気である。しかし、こんなものやマックの朝食市場狙いなどには、食指は動かない。朝モスなら、まだしも。サプライズが必要だ。

 そこに「ニューヨークの朝食の女王」と呼ばれるレストランが、日本に進出した。新宿にオープンした<サラベス・ルミネ新宿>だ。

メニュはとみてとれば、

 ・フラッフィー・フレンチトースト
 ・バター・ミルクパンケーキ
 ・レモン・リコッタパンケーキ
 ・グリュイエール・チーズ入りのオムレツ
そして
 ・クラシック・エッグベネディクト
  ーこれはフランス生まれのブランチメニュー。半分に割ったマフィンの上   にスモークハムや、オランデーズソース、ポーチドエッグをのせた。

 朝9時からオープン。”オールデイ・ブレックファースト”がコンセプトで、夜まで人の波がたえない。朝の散歩の序に、そして夕方も。こんなところなら、行ってみたい。遠くでもかまわない。新幹線に乗って行こうかな。

 メルボルンで仕事をしていた頃、フィッツロイ公園に面したヒルトン・オン・ザ・パークに宿泊するの常だった。コーヒーショップではなく、奥にあるフレンチレストランでは、エッグベネディクトなどが供されていた。

シドニーでは、シティの北モスマンエリアの、海に面したレストラン<Shores>というのがあって、サンデー・ブランチで、うまい朝食メニューを提供していた。今は、もうクローズしていて、その代わりに見つけたのが同名の<Shores>だ。これは、カリフォルニアのサンディエゴのビーチにある。朝の7時から開いている。メニュをみているとよだれが出てきそう。ゴートチーズとほうれん草、マッシュルームいりのオムレツFiorentinoも美味そう。朝からワイングラスの一杯くらい許してね。

 日本のホテルでは、東京は神田駿河台の山の上ホテルの<レストラン ヴェルボア>か。そしてわが神戸では、北野ホテルの朝食が人気だ。シェフが、”世界一の朝食”と豪語している。泊り客でない人間には、なかなか予約が取れないのが玉に瑕だ。


 こう語ってきて、やはり和食で味わう朝食を抜きにはできない。あちこち長年にわたって旅を楽しんできたが、これはと云うような朝食を提供する宿は数少ない。

実施に足を運んだところでは、上諏訪の「みなとや」そして九州は日田の「ホテル風早」の朝食が秀逸だ。後者は、夕食は、すぐとなりにある<秋子想>でいただくが、朝食は館内の食堂で出される。特段、変わったメニューではないが、うまい日田米をゲストの時間に合わせて炊き上げてて供される。色取り取りの漬物がうまい。

 最後になったが、どうしても行きたいところが残っている。好きな作家、橋治の小説に『春朧』というのがある。長良川沿いにある老舗旅館に嫁いできた女性(日野紗衣子)が、修善寺で知り合った彫刻家の剣達之助が宿にたずねてきて、”日本旅館の朝は空しいからね”と厳しい指摘を受ける。そして剣にすすめられて、山中温泉の故山亭を訪ねる。ここは、120室あった鉄筋のビルから、わずか10室の宿に立て替えたと聞かされ、衝撃をうける。この前後の描写から、ここは山中温泉の<かよう亭>だと感じ取った。

 料理評論家の山本益博は、信頼のおける情報を提供してくれる。もう十年以上も前のことになるが、実際に泊まった山本の言によれば、”かよう亭は温泉も大の魅力だが、この朝ごはんをいただくために泊まってみる価値がある日本有数の宿ではないだろうか”といって微に入り細を穿って朝食の様子を描写しているのである。


 いやあ、朝飯って楽しいですね。朝から、ばんばん食べて元気を出しましょう


When the dawn comes
Tonight will be a memory too.
And a new day will begin




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人を語る~T.S.エリオットの場合

2013-02-02 | 時評
人を語る~T.S.エリオットの場合

 今もロングランを続けているミュージカル『キャッツ』 その原作が英国の詩人エリオットの詩集『Old Possum's Book of Practical Cats(ポッサムおじさんの猫とつき合う法)』であることは、みなさまご承知のことと思います。この詩に作曲をしたのが、アンドリュー・ロイド・ウェバーです。素晴らしいメロディーが散りばめられていますが、中でも娼婦猫グリザベラの歌う「メモリー」はいつまでも心に残ります。今日は、このT・S・エリオットのことについて少し書いてみます。

 エリオットはイギリスの詩人にして劇作家、文藝批評家で1948年にノーベル文学賞を受けています。「4月はこのうえなく残酷な月だ」で始まる長詩「荒地」The Waste Land はとっても有名ですね。映画『地獄の黙示録』でもそのなかの言葉が引用されています。また連詩『四つの四重奏曲』も有名です。

 ところで「ポッサムおじさん』ですが、これはアメリカの詩人エズラ・バウンドがエリオットにつけたニックネームとか。ポッサムは、リスのような小動物で木の上に登ります。オーストラリアで仕事をしていたころ、メルボルンのヒルトンホテルの前がフィッツロイ公園で、夜になるとポッサムがそこここに出没しているのをいつも目にしたものです。なんとも愛すべき動物です。真面目な一方、ウイットに富んだ人でもあるエリオットにふさわしいニックネームかもしれません。

 たまたま『キャッツ』の原作になる詩集は、子供向けに書かれたものですが本来は連詩『『四つの四重奏曲』にみるように、かなり思想的な内容のものであります。そんなエリオットの姿は、どのようなものでしたでしょう?

 実はごく平凡なサラリーマンだったのです。伊藤肇という人物評論を書いたひとが、そのエピソードを次のように描写しています。(『左遷の哲学』)

 ”T・S・エリオットという人がいる。ノーベル賞をもらった英国の評論家だ 。しかし、彼は評論が専門ではなく、銀行マンだった。

 午前九時にバスに乗って銀行へ行き、午後五時まで勤めて家に帰る。そこに はややノイローゼ気味の奥さんがいて、その奥さんを一所懸命、看病し、夕 飯をつくって食べさせ、寝かせる。そのあと、十時から十二時まコツコツ勉 強して書きつづけた、その評論がノーベル賞になったのである。だから「俺 は芸術的才能があるんだ。商社マンなどになってバカバカしい」という人た ちには、「君はT・S・エリオットを知っているかネ」といってやりたい。「 俺は、この仕事に向いていない」などとうそぶくのは、たいそれたことなのである。”
 
 少し補足しますと、エリオットは夕方から雑誌の編集と新聞への起稿(詩、評論など)を毎日書いています。彼は、アメリカにいた時ハーバード大学で哲学を専攻しており、そこらのサラリーマンとは違います。銀行は、ロイズ銀行です。

 ちなみに、この本が書かれたのは1978年。ミュージカル『キャッツ』のロンドン初演は、1981年。伊藤肇は、このミュージカルのことを知る前にこの一文を書いている。もし知っていたら、”すごいね!”とつけたしていたかもしれません。

 知れば知るほどT・S・エリオットはすごい人です。東芝の社長であった岩田弐夫(かずお)が、言っていたように「平凡に徹せよ。平凡の積み重ねが非凡に通ずるのだ」ということでしょうか。

 余談になりますが、エリオットと銀行員というキーワードで検索していたら、「ニ葉亭餓鬼録」という人のブログに辿り着きました。もっと詳しく、かつ自分の言葉で語られたエリオット像があります。興味がある方は、のぞいて見てください。最新の記事では、「散歩の途中で」という肩のこらない、しかも日々をエンジョイしておられる姿が感じ取られます。こういうクオリティの高いブログに巡り会えたことは幸いでした。




コメント (6)
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