(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

酒のある風景

2023-04-22 | 日記・エッセイ
(酒のある風景)

 このところ家でよく飲むのは、浪乃音酒造の「金井泰一流純米大吟醸」であるが、それは最近のこと。それより以前に名古屋の銘酒(醸し人九平次)との出会いがあった。(記事の冒頭の写真が「醸し人九平次」)

 いつのことか忘却の彼方にあるが、あるとき京都駅南出口の道を挟んだところに「PHP研究所」という建物があり、そこで京都に詳しい作家の柏井壽(ひさし)さんの講演会がありあった。もちろん、いそいそと出かけた。なぜ柏井さんの話を聞きたかったかというと、そのころ彼は旅のエッセイを何冊も出されていて、それに紹介されている宿を訪ねて旅をして回っていたからである。話の主題は京都の料理について、であったように覚えている。その講演会に相方として出席されていたのが、「楽善柿沼」という小料理屋の主人であった。お土産として持ち帰った弁当が「楽善柿沼」製でとても美味しかった。では、その料理はどのようなものかと、好奇心の旺盛な私は、旬日を経ずして、いそいそと京都に出かけた。写真の小皿に盛られているのは、そのときに出された酒のあてであった。




 そして”お酒はどうされます?”、と聞かれ、”出して頂く料理にあったものをお願いします”、と言ったところ出されたのが「醸し人九平次」であった。聞いてみると、この酒は名古屋の「萬乗醸造」(名古屋市緑区)で作られている。


「醸し人九平次」を作っている「萬乗醸造」では、米の栽培から着手している。栽培時の植え付けの間隔を空けることで日照時間が増え、”重い米”が育つ。土壌にも凝る。兵庫県黒田庄は、愛知から遠く離れるがそこまで出向いて米を育てている。そこでは自社で稲作を行う。そうして作られた酒は非常にエレガントで舌を包み込むような旨味たっぷりの感がある。
 
 以来、この酒にはやみつきになってしまった。その後、福島へ出かけるようになり、会津の銘酒であるフレシュな香りの写楽/飛露喜/会津娘/会津中将などを愛好するようになった。これらの殆どは会津東山温泉の定宿(芦名」で供されてその味を味わった。

しかし京都で呑むときは今でも「醸し人九平次」。その大ファンである。

 せっかくなので、京都の店をもう一店語りたい。柳小路にある「そば酒、まつもと」である。ここは、四条河原町通りから、一本東に入った柳小路にある。そこには古い洋食屋や小料理屋があり、思わず立ち寄りたくなる。その中の一軒に「まつもと」がある。カウンターが七席しかなく、タイミングを逸すると満席になって入れないこともある。ここは「そば」の店なのだが、日本酒もあれこれあり、小料理の逸品も多い。鳥のたたきや、 菜の花と新海苔の和えものなどを摘まみながら日本酒を呑んでいるとそばが出てくる。こじんまりと小さい店だ。夕暮れになると店の灯がともり、風情が感じられる。


 せっかくなので、もう一軒。京都は高瀬川ちかくにある酒亭<招猩庵>。小さな店だが、二階もあって、四月頃そこで高瀬川を見下ろしながらシャンパングラスを傾けていると、桜吹雪が待ってくる。ここでも店を辞すると、店主が頭を深々とさげて、私たちが高瀬川の角を曲がるまで見送ってくれる。”また来ようと思うわけだ。


 次は神戸のお店。コロナも収束の気配が見えだしたので、ここのところ、神戸の小料理屋を食べ歩くようになった。

まずは山手幹線、ハンター坂にる「A」という店である。ここは、ミシュランなど幾つかののグルメガイドブックをみて、これぞと思うところをリストアップし、さらにそれらのウエブサイトをチェックして探し当てたものである。それらのウエブサイトを丹念にチェックし、店のオーナーの考え方などから、これぞと言うところに絞り込んだ。京都で店をチェックする時も、店主の対応などをみると、どのような店かが分かる。その結果から、やっと一軒の店を探し当てた。それが、「A」であった。

小振りのビルをエレベータで三階に上がるとカウンター六席、さらにその手前に椅子席が四席と二席がある。友人と訪れるときは、いつもカウンター席に座って、店主やスタッフと会話を楽しむこととしている。

 オーナー(料理人)は有冨巧治さん。2013年に店を開いて、もう13年ほどが経過し、ますます料理も洗練されてきた。旬の食材と、年中楽しめるすっぽん料理が特徴である。オーナーは、穏やかで寡黙だが、その笑顔を見ているとなんとも言えぬ親しみを感じる。

 
 (前菜)





 (デザート)


 料理には素晴らしいものがあるが、それだけではない。供された器も素晴らしく魅力的である。私の行きつけの京都の料理屋(押小路岡田)も器に凝っているが、どうも祇園にさほど遠くない古川町商店街にある店と連絡を取り合っていて、いい掘り出しものがあると、買い付けてくるようだ。Aでは、どうやって器を集めているのか、いつかオーナーに聞いてみたい。


宴も終わって店を出ようとすると、オーナーと若女将が、エレベーターの前で待ち構えており、エレベーターに乗り込んだ私たちに、深々と頭を下げて、お辞儀をするのである。

 店が三階にあるので、そういうことになるが、もし平屋の作りであったら、オーナーは、おそらく私たちの姿が見えなくなるまで、お辞儀をし続けているだろう。まさに、茶の心得で言う、余情残心である。

そのような客に対する姿勢は、もともと京都の料理屋で遭遇したものである。10年以上前のことになるが、姉小路近くの、その店で食事を終わって外へ出ると年老いた料理人が深々と頭を下げて、私たちをずうっと見送ってくれた。今は、その店はなくなってしまったが、オークラホテルの近く、高瀬川に出る前にある酒亭<招猩庵>でも、大将が店の前の通りを歩いて、次の角を曲がるまで見送ってくれる。わが街神戸でも、JR甲南山手を南下して二号線をすぎたところにある「焼肉 翔苑」でも若女将が、私たちが店を出ると、姿が遠くなるまで頭をさげて見送ってくれる。もともと美味い焼肉を食べられることもあって、”また来よう”と思うわけである。

 ここを出ると、足は自ずから不動坂にあるヤナガセに向かう。

(成田一徹さんの切絵集『To the Bar』 より)

このバーは、開店が1961年。私が会社に入ってまもないころである。三宮にある<マスダ名曲堂>でレコードを何枚も買って、その足でガスライトに向かった。初代のオーナー兼バーテンダーは、柔らかい微笑みを浮かべながら、私を迎えてくれた。そして先ほど買い求めたレコードの束を奥の棚にしまってくれた。一年ほどして、店を再訪すると、オーナーは、にこやかな笑みを浮かべながら、”お忘れ物ですよ”、と言ってレコードを手渡してくれた。
 今のオーナー(バーテンダー)は三代目である。しかしシェーカーを振る手つきは、初代のそれと変わっていない。そして、初めて訪れた折に初代のオーナーがつくってくれたカクテル「アドニス」を出してくれた。


 
 ここは、冬であれば店の奥に暖炉があり、ひのきの丸太が燃え、香り高い
煙が漂ってくるのである。ガールフレンドとでも行っていれば、恋の語らいをしたことであったかもしれないが、当時はまだ純情で、とうていそんなセッティングにはなり得なかった。


 さて次は、山手幹線の県庁前の道を北に上ったところにある「B」と言うお店である。これは山本通りを歩いていて、すこし東の方野坂を下りかけた時に、偶然見つけた。緑に囲まれた店構えに魅せられたのである。



 大将は、上野直哉さん。年の頃は、五十歳くらいか。案内されて店に入ると、大将の前の席(3~4席がある)、初めての客にたいしてもなかなかユーモラスな人でいつもにこにこしながら応対してくれた。メニューは、特にない。1品ものなど酒のあてがあるかもしれないが、、その日は、次々と料理を出してきた。他に、別なカウンターに男性ふたりという客がいたが、てきぱきと料理は供された。

 上野さんは、大阪「菊乃井」で村田吉弘さんについて学ばれたとか。そして思い切って神戸へ。そこで店を持つことになった。当初。アラカルトのメニューも考えた、神戸ではアラカルトを注文する客は少なく。フルコースを好む客ばかり。今は、コース一本に絞っている。。ただし、FaceBook]でも案内されているように、いわゆる酒のあてのようなものを各種取り揃えてて提供さる試みをやっている。これは、日中に限ってのようだが、人気を集めているらしい。一度、顔を出してみたい。

 上野さんがインスタグラムに広告を出して、新しくスタッフを募集した。それに応募した島本阿実江さんが採用され、今店に立っている。彼女はあまり前
面に出ず、控えめなスタッフだがなかなか感じのいい人である。序でであるが、FaceBookにも、料理のことや、時折気に任せてつくる品々のことを描いている。

 さて本論、供された料理は、(何故か写真が消失しているので、掲載できません。出てきたら、後ほど載せます。ご容赦ください)
                    
 ①前菜
 ②お刺身
 ③鳥取の天然のブリ(からすみの粉が振リかけてある)
 ④神戸ポーク肩ロース。と姫路の蓮根。
 ⑤河内の鴨、はまぐり、水菜とせり。
 ⑥淡路のはもしゃぶ。鍋に入れ、出汁で煮て食べる。」
 ⑦デザートとお茶

上野さんの料理は、「A」に負けず劣らずで美味極まりなし。店の雰囲気も気楽で、また行こうと言う気になる。特に、お昼は、酒のあてが充実していている。

 ”えっ、もういっぺん店(玄斎)に行きますか?” 行きたいねえ?客あしらいもいいし。美味い料理やあてを求めて、また大将との会話も楽しみたいし・・・。

お店にはおいていなかったようだが、「醸し人九平次」や「浪の音酒造の金井泰一流純米大吟醸」を知っているかなあ?


店を出れば満点の星空! よき料理、よき酒、よき友がいて、今日も幸せ、明日も幸せ!















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エッセイ コラム「天声人語」

2022-05-04 | 日記・エッセイ

エッセイ「コラム」~天声人語

 新聞の一ページ目には、コラムという欄がある。年間を通じ、一人のコラムニストが書き続ける。朝日新聞でコラムを担当した深代惇郎(じゅんろう)は最高のコラムニストであった。彼の天声人語は、ウイットとユーモアに富み柔らかい味が特徴とされた。そしてそこには鋭く社会をみつめる眼もあった。

 深代は、昭和48年2月から昭和50年11月1日まで、この欄を昭和48年から2年9ヵ月にわたって執筆した。昭和50年12月急性骨髄白血病のため逝去。


 ”一陣の風が 通りすぎた。
  あと 花が
  香りを残してゆくような
  そんな人に逢いたい ”


  注)深代は昭和51年1月、妙義山に近い、ローカル線上信電鉄の上州一ノ宮駅で、鈴木比呂志という地元の詩人の詩を待合室でみた。この詩は深代の「天声人語」の中に記されている。・・・まるで深代のことを云っているようだ。

 彼の書いた天声人語の中で、とくに印象に残ったものを、いくつかご紹介する。

 深代は、『日本の教育政策ーOECD教育調査団』(1973年)を翻訳・出版しいており、教育問題に深い関心をもっていた。1974年(昭和49年)2月28日の天声人語で、次のような記事を書いている。


  ”大学受験に失敗して、自殺する若者さえいる。外部の者が「受験地獄」をどれほど批判しようと、受験生にとってそれが必死の関門であることに変わりはない。その受験問題が「バカバカしすぎる」という投書をいただいた。難問とされる某私大の「地理」の出題例に、次の十の地名のうち油田地帯を選び、その国名を答えさせるというのが今年あったそうだ。「ルールケラ、ガワール、パオトウ、ガチサラン、ゼルテン、ビライ、ターチン、、ドルガプール、ブルガン、ウーハン」 お恥ずかしいが、コラム子は一つの正答も出せない。平凡社の世界地図(72年版)の索引を引いてみたが、見つかったのはブルガンなど三つだけだった。振り落とすための難問とはいえ、これらの地名を知ることと学力とどのように結びつくのか、出題者の意見を伺いたいものである。数年前だが、別の大学の「一般常識問題」で「次の地名のうち共通点のないものを二つ選べ」といったのがあったそうだ。「三重、東京、静岡、青森、富山、福岡」。海のあるところ、ない所、太平洋側と日本海側ーなどと頭をひねっていたら、まず落第。正解は「静岡と福岡」だそうで、理由は文字をタテ真っ二つして、左右対称にならなのはこの二つだけだという。毎年、数多く作成するのだから、出題に出来、不出来があるのは分かるが、クイズやトンチまがいの問題は不真面目だし、受験生が可哀想だ。奥野文相は国会で「来年度から入試問題の正解を発表するよう大学側と相談したい」と云っている。ぜひ実現してほしい。正解の公表は、欠陥出題をへらすのに役立つに違いない。難門中の難問を一つご紹介しよう。次の五つの言葉から大学と関係ないものを選び出しなさい。~閉鎖主義、独善主義、秘密主義、前例主義、権威主義。



 1973年頃、新聞の一面や社会面のトップには環境汚染や公害訴訟などの記事が数多く見られる。深代は、モノを至上とする”進歩史観”への深刻な懐疑主義者であった。1973年6月16日の天声人語に次のような記事を書いている。

  ”たしか、ロシア作家ドストエフスキーの「死の家の記録」だったと思う。囚人に苦役を科し、土の山を別な場所に移し、またもとの山に戻すといった仕事を繰り返しさせたら、数日で首をくくって死ぬだろう、といっている。これほど残酷な仕事はない。目的や意味があれば、たとえ苦しいことでも我慢をする。だが、まったく無意味なことを自分で知っていて、しかも努力することはできない。それを強制されれば、ついに自分が自分自身に反抗するようになる。瀬戸内海の岩国で魚をとる人たちのニュース読んで、思わずこの話を連想した。

岩国では汚染源の東洋紡の工場が、海でとった魚をすべて買い上げることに決めた。明け方、漁船が帰ってくると、工場のトラックが待っている。魚種ごとに魚の目方を測ったあと、工場に運び、タンクに汚染魚を捨てる。悪臭を放つ魚に、市場値の金が支払われる。はじめうちは、取れば取れるほど金になるので、精を出して出漁する人もいた。が、やがて漁師たちの疑いが膨らんでくる。毎日、海に出るのは、捨てるための魚を取るためではない。金になりさえすればよいと、いつまでも割り切れるものではない。たとえ、ささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。たとえささやかでも、自分の仕事に何らかの意味がなくては生きていけない。”何のための人生か。漁民だっておいしい魚を食べて欲しいのだ”、”情けのうて涙が出ます”。と、口々に訴える声は胸をえぐる。岩国だけではない、敦賀湾でも工場のコンクリート箱に投げ捨てるため、人々は漁に出る。ゆがんだ社会は、とうとうここまで来てしまった。それは血が凍るような「現代の狂気」としかいいようがない。もしこの異常さを異常と感じなくなったとすれば、すでに人間は狂気を帯びつつあるのだ。”


 1975年夏から秋、深代は体調を崩しつつも連日健筆を振るっている。そんな時、オーストリアはウイーンに在ったユダヤ系の精神科医、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』の一節を素材に「夕焼け」を描いている。(1975年9月16日)

 ”夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、素晴らしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るに連れて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯引っかけたように、ほんのりと赤く染まった。美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶ともいえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに、日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景として、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく。私を取り囲む墓標がある。それがそのまま、天空大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界で最も醜い大都会だろう。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった。
 もうひとつ、夕焼けことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者vフランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。


囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間が飛び込んできて、今日の夕焼けの素晴らしさをみんなに告げる。これ聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんな黙って、ただ空を眺める。向こうには暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空を眺める。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語りかける光景が描かれている。”


最も印象に残った三本の記事を紹介したが、その他にも忘れがたい記事がある。それは1964年ミロのヴィーナスとともに来日したフランスの大統領ポンピドゥーの言葉である。
 
 深代惇郎は、国立西洋美術館での「ミロのヴィーナス展」(1964年)を振り返って、後に次のように書いている。(1974年(昭和49年)4月4日)展示会からいえば10年後ということになる。深代は「天声人語」で、急逝したポンピドゥー大統領を取り上げている。ポンピドゥーにとっては首相在任時であるが、ミロのヴィーナスとともに来日した際の一コマも登場する。「役所の作文と思えるわが首相挨拶とは異なり、”死すべき人間よ、われは美わし、石の夢のように・・・というボードレールの詩を引いて美神を讃え、「いつの日か、クウダラクワンノン(百済観音)をルーヴルに迎えたい」と挨拶したと記している。”

ランボーやヴェルレーヌ、マラルメなどに大きな影響を与えたボードレールは近代詩の父とも言われている。彼の詩を引用するなど、なみのエッセイストではない。深く幅広い教養の持ち主と、恐れ入る。


 では現在の天声人語はどうか。朝日新聞は半年ごとに『天声人語』という冊子を刊行している。それを眺めていると、深代のものには及びもつかない。日経に天声人語に相当する「春秋」というコラムがある。いつも愛読はしているが、事象をそのまま述べているだけで、深代の記事のようなインパクトは感じられない。(とは言え、毎日一年中、コラムのことを考えて書くのは大変なことではある)


 追記
 今回の記事を書くに当たっては、『天人』(後藤正治著 講談社)を参考にし、引用をさせていただきました。厚くお礼申し上げます。



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予告編 歌人小高賢について

2022-01-13 | 日記・エッセイ
編集者にして歌人、またエッセイストの小高賢氏(こだかけん)についてご紹介します、「句会で遊ぼう」でご紹介しましたが、彼の本質は歌人であり、講談社の経営人の一人であり、またエッセイイストであります。
残念ながら、2014年7月に69才でこの世を去りました。その才能をもっともっと発揮いただきたいときのことで、惜しみてもあまりある人材でした。ここに、彼の一生を振り返って追悼の記事を書きました。

アップは睦月大寒の頃を予定していましたが、諸般の事情により如月雨水の頃になろうかと、思います。しばらくお待ちください。








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エッセイ 小泉武夫先生のこと

2021-11-16 | 日記・エッセイ
エッセイ 小泉武夫先生のこと

 ムサボリッチ・カニスキーこと小泉武夫先生(東京農業大学名誉教授)のことについてご紹介します。あわせて小泉先生とご縁のあった歌人小高賢氏(故人)のこともご紹介します。

 小泉先生は福島県の造り酒屋の末っ子として生まれた。実家には家族や従員たち20人分の食事を用意する台所があり、小学生の頃には、鰹節を削ったり、ぬか床の手入れをしていた。小学校の4年生の時にははおやが亡くなり、落ち込んでいたのを見た父親が寂しさを紛らわせようと、専用の台所(の一角)と調理道具一式を与えられ、料理にのめり込んでいった。高校を卒業した1962年、日本で唯一の酒造を教えている東京農業大学農学部の醸造学科へ進学。そこで酵素研究の面白さに取り憑かれたのが、今日の発端とか。発酵学者として、京都を訪れる際には、人間の役に立つ有用微生物を供養する「菌塚」(曼殊院)を訪れるようにしている。

 酒~日本酒というと、日本では何と言っても坂口謹一郎先生の名前を挙げねばならない。お目にかかったことはないが、その著書である『日本の酒』や『愛酒楽酔』などのエッセイ集を拝見していると、その風貌と共に、何やら近寄りがたい感じがする。坂口先生と小泉先生の関係を一口で表現すると、ブルックナーとモーツアルトと云っては言いすぎだろうか?

 注)坂口謹一郎先生の詳しいことは、ブログ「酒を愛し酔いを楽しむ」(2020年4月16日)第1章に書いてあるので、そちらをご覧いただきたい。

 それに引き換え、小泉先生は実に愉快な方で親しみやすい。先年、神戸にお越しになり、酒造会社福寿の記念ホールで「世界の発酵食品。と題して日本酒の発祥の地などについて講演をされた。(令和2年9月10日) 「福寿」は、2008年以降ノーベル賞受賞夕食会で供される日本酒(福寿 純米吟醸)を提供している。なおこの2008年は日本にとっては4名のノーベル賞受賞者(正確には3名の日本人学者(益川敏英と小林誠氏、下村脩氏)と
米国在住の南部陽一氏)を出している。


 さて小泉先生の講演が終わって夕食会の場となり、銘酒福寿と美味しい日本料理の数々を味わうことができた。食事が終わった頃、小泉先生のところへ行って、ご挨拶させていただいた。これには訳がある。後述する小高賢氏(講談社 学芸局長、取締役。本名 鷲尾賢也)が、主催する「酒を呑む会」から発展して俳句の会を開くようになった。まったくの素人連中が集まる句会が続くことになり、小泉先生もそのメンバーの一人。というより、小泉先生を囲んで飲みかつ喰らい談笑する会があって、そこから自然発生的に句会が誕生したのである。この句会の仔細については、以前にブログで紹介したことがあるのでそちらをご覧いただきたい。→「句会で遊ぼう」(2013年1月9日)

と、さような訳で俳句遊びをネタに小泉先生とお話したというわけである。先生は見ず知らずの人間にもかかわらず、暖かく接してくださった。

 ”しかし、残念ですね。小高さんが亡くなってしまわれて・・・”、と水を向けると、”いやいや、まだ俳句はやっていますよ”、と嬉しそうに句会の予定がびっしりと書き込まれた手帖を見せてくださった。気取ることなく、本当に親しみやすい方である。


(小泉先生の渾名)
 愛すべき小泉先生には、数多くの渾名がある。そのお人柄をご理解いただくためにも、渾名の一端をご紹介しよう。
 小泉さんは「あだ名は私の勲章」と胸を張る。「味覚人飛行物体」「走る酒壷」「鋼鉄の胃袋」、「発酵仮面」「ムサボリッチ・カニスキー」・・・。

 中学生の時のあだ名は、「歩く食糧事務所」。なんで、そんなあだ名が?「鞄の中に缶切りや割り箸、醤油、秋刀魚の蒲焼きや烏賊の丸煮、鯖の水煮などの缶詰、マヨネーズなどを入れて持ち歩いていました。通学路の周囲が畑ばかりでトマトもキュウリもあります。当時発売されたばかりのマヨネーズを重宝しました」
 大学生の時は「走る酒壺」といわれた。「酒豪の上、宴席からいつの間にかいなくなったり、不意に現れたりして飲み歩いていたからです」。

東京農大を卒業、「食の冒険家」になると、また、ユニークなあだ名がついた。まず、付いたのが「味覚人飛行物体」。「神出鬼没ぶりに拍車がかかりました。食や味覚を求めて日本国内だけではなく、海外をも飛行機で忙しく飛び回っている私を表現したようです」

 東京農大醸造科学科教授となった頃、月光仮面ならぬ「発酵仮面」。「世界の発酵食品を紹介したり、発酵関係の本を書いたりするうちに…」ついた。「ムサボリッチ・カニスキー」は、「カニを食べるのが上手で、ロシアのカムチャッカ半島でタラバガニを食べたとき…」につけられたという。

 ご本人曰く、
 「あたかも出世魚のごとく、次々と付けられたあだ名は私の勲章だと思っています。とくに気に入っている『味覚人飛行物体』は、今では商標登録しています」、と平然と語る。大人(たいじん)の趣がある。


(小泉先生の著書と記事)  大変な物書きである。その結果、小泉先生の紹介文に、発酵学者にして文筆家と書かれるようになった。

 1982年に講談社現代新書で刊行された『酒の話』以降、数百冊の及ぶ本がでている。挙げればきりがないが、その中で特に印象に残ったモノを二三下記する。

 『酒の話』
 『味覚人飛行物体』
 『発酵は錬金術』
 『食魔亭日録 小泉武夫の胃袋をのぞく』

 『小泉武夫の料理道楽食い道楽』
 『骨まで愛して』・・・ブログ「ウイズコロナの日々 2ndバージョン」で紹介したので、そちらをご覧いただいたい。(2021/10/02) 

この本とは別に、日経新聞の夕刊に「食あれば楽あり」という記事が掲載されている。毎週、月曜日の夕刊。いうなれば、先生が考えて試した料理のレシピである。むずかしい料理ではないので、時々気軽に試している。そのレシピを一、二ご紹介する。ながくなるので、適宜読み飛ばてください。

 ○「茄子の味噌炒め」”そのナスで最もシンプルな美味料理は「ナス焼き」であろう。フライパンに油を敷き、二つに割ったナスをそこで焼き、おろしたショウガを薬味に醤油(しょうゆ)で食べる野趣ある食べ方である。そのナス焼きのときに、味噌を加えてやってみたら、これが非常に美味(おい)しいというので、それからというもの「ナスの味噌炒め」は代表的なナス料理となった。”

”我が厨房「食魔亭」でも、この食べ方は簡潔で美味しく、ご飯のおかずにもぴったりなのでよくつくる。
ナス(6個)はヘタを取って縦二つ割りにし、切り口に浅い切れ目を入れて油(170度)で揚げる。豚バラ肉(120グラム)は小切りにする。

その豚肉を油(大サジ2)でよく炒めながら刻みニンニクと刻みショウガを少々加え、さらに豆板醤(とうばんじゃん)(小サジ1)と赤味噌(大サジ2)を加えながら混ぜてのばす。そこにナスを入れて炒め、酒(大サジ1)、スープ(カップ半分)、砂糖(大サジ1)を加えてひと煮する。最後に水溶き片栗粉(大サジ2)とゴマ油少々を加え、風味と照りを付けて出来上がりである。

それを小鉢に盛り、じっくりと見るともう涎(よだれ)を誘う。ナスは幾分黒色を帯びた紫紺色で、表面は油に染まってテカテカと光沢している。その脇には、やや赤みを帯びた山吹色の豚肉が、ブヨブヨとした透けた脂肪身を抱えながらあちこちに横たわっている。そしてその全体を味噌の茜(あかね)色がしっかりと染めていた。

先(ま)ずナスと豚肉をごそっととって食べた。一度油で揚げられ、その後炒められたナスは、歯に噛(か)まれるとペトペトとやわらかく、そこからナスの甲高いうま味や微(かす)かな甘みが湧き出してくる。
豚肉の正身(しょうみ)のところはシコシコとし、脂身の方はプヨプヨとしてそこからは濃厚なうま味とペナペナとしたコクが溢(あふ)れて出てきた。そしてその全体を味噌ダレのうまじょっぱみと甘みとが押し上げ、さらに炒め油からのテレテレとしたコクが包み込んで絶妙であった。

それではこれをおかずにご飯を食べましょうかと、丼に温かい飯(めし)を七分目ほど盛り、その上からナスの味噌炒めをぶっかけて、ナス丼スタイルで食べた。左手に丼を、右手に箸を持ち、丼の縁に口をつけてガツガツと食べた。そして、口に入ってきたナスと豚肉と飯を一緒にムシャムシャと噛むと、口の中では飯の甘みとナスと味噌ダレからのうまじょっぱみと甘み、脂と油からのペナペナとしたコクなどが一体となって混ざり合い、またもや美味の極地へと辿(たど)り着いた。”


 ○「小柱の天丼」”大型の貝であるタイラガイ(タイラギ)の貝柱は大きく、市場では「柱」といえばおおむねこれを指す。これに対し小型のアオヤギ(バカガイ)の貝柱は小粒で、これを市場では「小柱(こばしら)」と呼んでいる。コバシラは刺身(さしみ)、酢のもの、和(あ)えもの、寿司ダネなど主として生食されるが、天麩羅(てんぷら)や吸いものの実、バター炒め、チーズグラタンなど加熱調理しても使われている。

JR品川駅名物の「品川貝づくし」弁当は、我が輩の大好物で、全国の駅弁の主座にあるほどだ、とはかねがね私の自論。アサリ、シジミ、ホタテ、ハマグリなどの貝が使われている中で、ゴロゴロと散らばっている淡黄色の美しいコバシラの存在は、眩(まぶ)しいほどである。”

 注)小生も、東京から新幹線で帰る時は、品川駅で新幹線に乗る。駅の入り口は二箇所あるが、手前の改札口を入ったところの弁当売り場で「貝づくし弁当」を売っている。それを買い、日本酒のカップを一缶。弁当はまさに逸品である。

”そのコバシラは、デパートの魚売り場でもスーパーでも、ネット取り寄せでも今はパックにされて売られているので実に重宝だ。生のままでも。ボイルされたものでも、冷凍ものでも自由に手に入る。我が輩は大概は生のものを買ってきて大好物のかき揚げをつくり、それで天丼をつくる。

生のコバシラ(400グラム)を塩水で洗い、水気を切る。三つ葉(100グラム)は3センチのざく切りにする。揚げ衣は、卵(2個)と水でカップ2.5としたものをボウルに入れ、そこに小麦粉(カップ2.5)を振るい込んでざっと混ぜ、コバシラと三つ葉を入れて軽く合わせる(具)。鍋の油の温度が180度になったら、玉じゃくしを1度油に漬けてから具をすくいとって入れ、浮き上がったら箸で数カ所つつき、油をかけながらカラリと揚げる。器に敷き紙を敷いてそこにかき揚げを盛り、4人前の出来上がりである。

その揚げたてのかき揚げの眩(まぶ)しいこと。淡い黄金色の衣の中に、深い山吹色のコバシラの粒が点々と散り、そこに三つ葉の鮮やかな緑が彩りを放っている。もう我慢できず、その揚げ立てを天つゆ(ダシ汁カップ1に醤油(しょうゆ)カップ4分の1と味醂(みりん)カップ4分の1を加えたもの)にくぐらせて食べてみた。口に入ったかき揚げは、先(ま)ず衣が舌にフワリ、ペトリとまとわって、次にコバシラがポクリ、ポクリと歯に応え、そこから貝特有の深奥で優しい甘みと高尚なうま味がチュルチュルと湧き出してくるのであった。

さて、そのコバシラのかき揚げのいまひとつの楽しみは、大好きな天丼でいただくことである。丼に温かいご飯を七分目ほど盛り、その上にかき揚げを全面にのせ、タレ(だし汁1カップに味醂大サジ3、砂糖大サジ1、醤油大サジ4を混ぜ、火にかけて煮立ってきたら火を弱め、8分ほど煮詰めたもの)を回しかけして食べるのである。

ずしりと重い丼を左手に持ち、右手に持った箸でその天丼をざくりと大きくほぐしてから、飯とかき揚げを交互に口にかっ込んでムシャムシャと食べた。すると鼻孔からは揚げ天の香ばしい匂いと重厚なタレの匂いが抜けてきた。口の中では、衣や三つ葉のサクサクした歯応えとコバシラのシコシコ、ポクポクとした弾みが快く、そこから優雅なうま味と耽美(たんび)な甘み、そして揚げ油からのペナペナとしたコクが湧き出してくる。それを飯の上品な甘みと、ドロリとしたタレの甘じょっぱみが囃(はや)し立て、味覚極楽の気分に陥るのである。”


(日本酒の話)
 小泉先生の著書『酒の話』の中に、「名酒の条件」という一文がある。なかなか興味深いので、かいつまんでご紹介する。

 ”名醸の地には、必ずよい水と理想的な原料を育てる土壌、それに気候がある。この三者が一体なっ時、銘醸の地が生まれ名酒が育つ” 。”とくに清酒は水が原料の一部にもなっていて、清酒成分の約80パーセントは水であるから、品質に影響を与えるのは当然のことである。だから昔の酒造蔵は、まず良質の水が湧出するところを選んで建てられた。清酒原料水の中で、最も有名なのは兵庫県は灘の「宮水」で、硬水である。この水が清酒醸造用水に極めて適するものであることを初めて見出したのは、天保11年(1840年)で、当時、東の西宮と西の魚崎に居を構えていた主人が、常に東の方の酒が優れているのに疑問を抱いて、色々調べてみた。その結果、東の蔵の酒の優秀さは水に原因することをつきとめた。以後、西の宮の「宮」をとり、「宮水」と名付けた。”

 ”この宮水に地質学と化学のメスが初めて入れられたのは昭和2年以後で、研究の結果、この水は北の方、六甲山の裏側から流れだす武庫川の水と、西の方、夙川(しゅくがわ)や御手洗川の水が地下に浸透して伏流となり、宮水地帯に達すると、今度は南側から来た海水と僅かに接触して成立すること、井戸の深さは3メートル程度で浅いが、そ底部に存在する二枚貝の一種であるトリ貝の層がこの神秘の水を決定づけていることが分かった。そして宮水の分析の結果、この水には1リットルあたり2.7ミリグラムという多量のリンが含まれている事がわかった。これほど多量のリンを含有する水は、全国各地の酒造蔵には例がないほど顕著なものであった。リンの他にカリウム、カルシウムも多く、これらの無機成分は発酵の際、清酒酵母を強健に活動させて有害菌に侵入の余地を与えず、強く安定した発酵を行わせるのに有効となっている”

 注)ちなみに御影にある<にしむら珈琲>は、毎朝この宮水をトラックで運び込んでいる。<にしむら>の珈琲が、美味い所以である。


(閑話休題)
 せっかくなので、私の好きな日本酒について、ちょっと触れることをお許しいただきたい。

 好きな日本酒を羅列すると~「醸し人九平次」(萬乗醸造 名古屋市緑区) 会津の酒(「飛露喜」、「寫楽」「国権」。そして山形は村山市の高木酒造の「十四代」

 神戸では「瀧鯉」。琵琶湖畔の浪之音酒造の純米大吟醸「金井泰一流」とい う事になる。

 このうち「醸し人九平次」とは、京都は丸太町通にある「楽膳柿沼」で出会った。ここの主人は休日には遠方に出かけ、現地の酒造メーカを見学して情報を収集している。”酒は何にされますか?”と聞かれたので、”お任せします”と答えたところ、「醸し人九平次」が出てきた次第である。注文した料理のことを考えてのおすすめであった。この酒は、名古屋市の緑区にある「萬乗醸造」で造られている。ここは、”革新の先にしか進む道はない”との考えで酒造りに取り組んでいる。出されたのは、ここの純米大吟醸。熟した果実味と気品、優しさが感じられた。今なお、愛する日本酒である。

 会津の酒は、会津は東山温泉の湯宿「芦名」でいろいろ勧められた。食事の進行にあわせて大女将が出してくる。食事と、ぴったり合う。山形の高木酒造の「十四代」は、今は幻の逸品となった。この酒については、以前にブログで紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。
 → (ブログ「春燈雑感 日本酒の魅力 2015年3月2日)

 神戸の「瀧鯉」は、灘に住みながら、大手メーカーに酒ではなく、こじんまりしたメーカー(木村酒造)の「瀧鯉」の純米酒を愛好していた。震災で蔵が倒壊し、今は桜正宗に吸収されている。食中酒として気に入っていた。

 琵琶湖畔の酒造会社浪之音酒造は、たまたま句会で訪れた「余花朗」というところで、うなぎ(これは絶品。皮はパリパリ、中の肉はしっとりと美味)を食したところ、それにあわせて供されたのが「金井泰一流」の大吟醸(無濾過)。飲んで爽やか、口中にフルーティな香りが広がる。今も気に入って、、時折、浪の音酒造から取り寄せている。

 余談になるが、「美味しんぼ」(プライム・ビデオ)に「牡蠣に合う日本酒 」という一幕がある。主人公山岡士郎は、東西新聞社で「究極のメニュー」づくりにいそしんでる。ある日、仕事のパートナーである栗田ゆう子と新進気鋭のシェフが開いてるレストランにゆく。そこで出された生牡蠣にフランス産ワインを奨められるが、”生牡蠣にワインは合わない”と云って、持ち込んだ日本酒をシェフにすすめる。怪訝な顔をしていたシェフも、”たしかにこの日本酒のほうが生牡蠣にはあいますね”、と同意した。士郎の持ち込んだ日本酒は、「天狗舞」の山廃純米大吟醸であった。(山廃は、米をすりつぶす作業(山卸)を廃止したもので、農酵でうま味がある酒になる)本当に生牡蠣に日本酒があうかどうかは、私には分からないが、一度試してみたい。
 

(小泉先生の俳句)

 締めくくりに、小泉武夫先生こと俳号「醸児」の俳句をいくつかご披露いたします。講談社の学芸局長にして歌人の小高賢さんを宗匠(いや世話人といった方がいいだろう)として始まった醸句会で投句された句中から、バレ句、駄句、秀句をご紹介します。(『句会で遊ぼう』(小高賢)から。

 (第一回句会)
 
  ”電灯におおい被さる八重桜”
  ”隅田川日長の土手に我独り”
  ”燗酒を干して気がつくひながかな”

 (バレ句)

  ”かやのなか男女(みな)の汗吸う敷布かな”
  ”桃色の吐息だという口ふさぎ”

 (秀句・佳句)
  ”宮相撲子供雷電ここにあり”
  ”四国路や今年は埃のご開帳”「

  ”それ逃げろ月夜畑の裸の子”

 (話題になったひどい句)

  ”冬の日のギャオーニャーニャーと猫の恋”

 こうして見てみると、大した句はない。(笑) 手練れとはいい難い。それでも、われらが小泉先生は、嬉々として俳句を詠んでおられる。それこそが、まさに気取らず、みなに愛される小泉先生の所以であると思う。

     ~~~~~~~~~~~~~~

 長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。小泉先生のことや日本酒のことについて、なにかご参考になりましたでしょうか。

追補
 おまけに小泉先生の「発酵仮面」の活動の一端として、発酵食の名店をご紹介しておきます。。

 滋賀県余呉湖畔にある「徳山鮓」     

 実は、この徳山鮓ができたのには、小泉先生が大きく関わっておられる。いや、育てあげて云っても過言ではない。

 主人の徳山さんいわく、
 ”「25年前、小泉先生が『日本発酵機構余呉研究所』の所長に就任された頃にさかのぼります。私は当時、小泉先生の定宿で料理を担当していました。京都で修業を積んだ一般的な和食の料理人でした。ある時、小泉先生が『なぜ、滋賀県には郷土食の素晴らしい鮒鮓があるのに使わないの?』とご指摘を受けました。宿では鮒鮓は出していなかったのです”

小泉先生は徳山さんと会うたびに、「これからは、発酵だよ、21世紀は発酵の時代だよ」と熱く語ったそうです。

”初めはピンときませんでしたが、和食に欠かせない味噌、醤油、酢、鰹節などの食材はすべて発酵食品だと思い至りました。和食で発酵をしっかりやっている人はいないと思うようになり、その後も小泉先生からのアドバイスは続き、独立を決意しました”

”「徳山鮓」ならではの鮒鮓が生まれるためには、小泉先生から「まず鮒鮓を世に出せばいい」とアドバイスを受け、独立後1年半は、発酵学の書籍などを読み漁りながらひたすら試作を繰り返しました。”
 いま、コースでは、初めに鯖の熟鮓をチーズといっしょに召し上がっていただいています。料理の後半に本場の鮒鮓をお出しして、同じ熟鮓(なれずし)でも違った美味しさがあると感じてもらうようにしています”


この徳山鮓、今や予約は半年先まで埋まっているそうです。

追補(2)
 書き終わってみると、歌人小高賢氏のことには、ほんの少ししか触れていない。すでに故人になってしまわれたが、いろんな意味で小高さんには、傾倒している。人間的な面でも、歌(短歌)の面でも。
日をおかず、稿を改めて書いてみようと思っている。








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エッセイ ウイズコロナの日々(2ndVersion)

2021-10-02 | 日記・エッセイ
今年の一月に「ウィズ・コロナの日々」と題する一文を書いたことがあった。それから一年も経たないうちに、その日々の様相が変化をしてきた。それもかなりの変化である。そこで改めて「ウイズ・コロナの日々(2ndバージョン)として改めてアップすることにした。

  冒頭の写真は、北海道は美瑛の「哲学の木」 アマチュアカメラマンが、勝手に農地に立ち入り、土地を農作物を荒らすようなことが続いたので、やむなく先年、切り倒すはめになってしまった。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

 いつも朝は4時頃に目を覚ます。その時刻に日経新聞の最終面に小説が掲載されるからである。これまでは、伊集院静の「ミチクサ先生」であった。夏目漱石の生涯を描いたもので、毎朝それに目を通すのが楽しみであった。残念ながら7月の22日に終わり、今は遣唐使の一員として唐に渡り、朝廷の高官として活躍した阿倍仲麻呂の生涯を描く「ふりさけみれば」である。唐の首都である長安の様子なども描かれていて興味深い。かの有名な和歌”天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも”、で知られている。日経の記事にざっと目をとしたら、また眠りにつく。

 7時少し前に起きて、すぐ朝食をとる。目玉焼きとベーコンあるいはソーセージ、ときにはハッシュドポテトやブロッコリーくらい。バナナをたべることもある。お茶はルイボスティが多い。食べ物の量は控えめにして、体重のコントロールに留意している。体重の目標値は66キロプラスマイナス300グラム。ほぼ安定している。朝食後は、近くにあるクラブのプールで泳ぐ。左肩の手術のせいで、左腕が伸びず泳ぐのにも一苦労であったが、続けてきたリハビリのおかげで、今は平泳ぎもクロールも元のようにできるようになった。プールは一日おき、他の日は島の中の遊歩道を5~6キロほどウオーキング。また大橋を渡って、住吉川を遡上することもある。ただ、歩く速度は落ちてきた。年を感じる。

 それから新聞や配信されてくるニュースに目を通す。以前は、BloombergやThe Wall Street Journalを読んでいたが、このところはそれらをやめて、NewYorkTimesを読むようになった。なかなかのクオリティペーパーである。本紙は、ニューヨークという地方のローカルな新聞ではあるが、カバーする範囲が広く海外の動向に目を配る国際色豊かな新聞である。本紙はすべてデジタル版である。料理の記事(レシピ)があるのも楽しい。クリックすると音声で読み上げる記事もある。

 その他、NewsPicksというサブスクリプション有料配信サイトの記事に目を通す。政治・経済・などカバーする範囲も広く、そのうえ著名人の対談(動画)もある。月額1500円は安い。ちなみに日経新聞は少々レベルが落ちてきたように感ずることもあるが、依然として文化欄は興味深い記事が少なくない。たとえば、坂井 修一さん(歌人にして情報科学者)のコラムは、歌人としての話と専門分野の情報工学の話が渾然一体となっていて興味深いものがある。一例を挙げてみる。さる9月22日には源氏物語についての記事があった。

 ”『源氏物語』「若菜下」に、光源氏が柏木衛門督(えもんのかみ)をとがめる有名なシーンがある。自分の正妻と不義を働いた青年貴公子に、「老いて酔い泣きする私を笑うのだね、君は。でも、歳月はさかさまに流れないものだよ。君だってすぐに同じことになるさ」と痛烈な皮肉を言うところだ。紫式部は光源氏を理想の貴公子として描いたと言われるが、彼は聖人君子ではない。いくつもの禁忌を侵すし、周囲の人々に深い苦悩を与え続ける。正妻女三の宮を寝取った柏木をこんな言葉で射すくめ、病死させてしまう。

実は私は『源氏物語』の中でこの場面が一番好きだ。これの背景には、紫式部が観察していた貴族たち、特に藤原道長のふるまいが隠れているだろう。どんなに立派な人間の心にも恨みや嫉(そね)みはあり、ふだんはフタをしていても、一生に何度か表に出てくる。闇の中にいる化け物が、一瞬だけ姿をあらわすのである。

大和和紀さんの『あさきゆめみし』は、『源氏物語』を漫画にしたものだ。単行本になるたび、私はこの漫画を買って読んでいた。「若菜下」はだいぶん後のほうだから、「このシーンをどんなふうに描くのだろう」と思いながら。
漫画は顔の表情や場面を絵として出せるので、小説や詩よりも表現手段に幅がある。そのかわり、言葉の奥に潜んでいるものを読者が想像する楽しみが失われることも多い。大和さんは、このシーンの光源氏に、黒い衣装をまとわせた。そこには、白く細い線で蜘蛛(くも)の巣のようなものが描かれている。背景には、暗黒の中でなにかがのたうつような模様が描かれている。

光源氏の心の闇を描くのに、大和さんはこうした現代風の象徴的手法を用いた。読者にはわかりやすく、原作の奥深さや気品を損なわないように、平安時代の絵図として不自然なことがないように、この数ページの背後には、想像超える苦心があったに違いない。理想の貴公子だからこそ、不義をなじる深刻さが際立つ。このシーンは幾度思い返してみても過ぎることはない。”



 昼間はチェロの練習。70代半ばの手習いで始めたが、なかなかうまくならない。亀の歩みではあるがすこしづつ進歩している。好きな曲にドヴォルザークの「ユモレスク」があるが、練習を重さねれば遠からず弾けるようになるだろう。それから最近楽器のメンテナンスをした時に、弦(金属製)と弓の毛を替えたところ、とてもいい音が出るようになって、一人で悦に入っている。このチェロに加えて、四月からは歌の個人レッスンを受けるようになった。ヴォイストレーニングをした後に、好きな歌を歌っている。最近は、マーティン・ハーケンスが歌った「Yoou raise me up」を歌っている。その後は、シュベルトの歌曲「夜と夢」などにに挑む積もりだ。その次はカンツオーネかな? いや。オペラかな?

 気が向くと、近くにある小磯記念美術館に出かける。ちょうど、今は住友コレクションが展示されている。クロード・モネの「モンソー公園」や藤島武二の「幸ある朝」が印象に残った。特に後者は、窓から差し込む日の光を受けて手紙を読む一人の乙女が描かれている。幸福感が伝わってくる。手近に、このような美術館があるのは恵まれていると思う。

 


 (料理の話)
 前回、阪神青木の中華料理の店「三日月食堂」の魚香茄子(ユイシャンナス)ことを書いたが、以来自分でも中華料理を時々作っている。自分でレシピを探し、料理をするのは楽しい。小泉先生の食魔亭の記事は大いに参考にさせて頂いている。ごく最近、縁あって『菱田屋の男メシ』という本を見つけた。「菱田屋」は、駒場東大前にある小体な定食屋である。先代の店主、今の店主もふくめ6人で学生や先生たちを相手に定食を作り続けている。クックパッドのレシピと違って、毎日通ってくるお客さんの厳しい目にさらされているだけあって、出される料理は色々工夫されており、とても美味しい。中華も和食も洋食もある。本をアマゾンで見つけたところ、kindleでunlimited。つまりただ。iPadにダウンロードして眺めている。最近もチンジャオロースを作ったが、とてもうまかった。

  


(頭の活性化、友人との付き合い)
 日の光を浴びるて歩くのはとてもいいことである。日光を浴びると、皮膚のコレステロールが代謝されビタミンD3になる。このビタミンD3は干し椎茸の2倍もビタミンDが摂れる優れもの。ビタミンDが体に入るとカルシウムの吸収を促したり、免疫が活性化したり、良いことずくめで、一酸化窒素(NO)の活性も起こる。

とくにセロトニン活性は脳内化学伝達物質の活性になり、精神や情緒の安定につながる。セロトニンは幸せホルモンと呼ばれ、精神の安定を保ってくれる。ということもあり、プールに行かない日は、主に島の中を陽の光を浴びて歩き回っている。時々は、島を出て大橋を渡り住吉川を遡上する。下流の方では、鮎の稚魚が群れをなして泳いでいる。

 それから毎日日記をつけている。B6サイズの日記帳に毎日横書きでびっしり書く。今日あったこと、感じたことなど。毎日、書いている。字の書き順がいい加減なので、時々書き順アプリで確かめて書いてる。万年筆はペリカン、時々セーラーのKing of Penで。なかなか書けないマル秘のこともあるが、それは一種の暗号化をしてメモする。(笑)

 ワクチンの接種もしたので、出かけるとしたら、まずは東京だ。音響効果の優れたサントリーホールでの音楽会や、山種美術館の日本画を見にいきたい。また歌舞伎座で大歌舞伎を見たい。それに東京には、料理のうまい店が多い。 ニューヨークにも出かけたいが・・・。

                   

京都の行きつけの店での若い友人たちとの付き合いも再開しようと思っている。また、さほど若い人というわけではないが、シドニーに駐在していた折りにお世話になったカイロプラクティックのドクター(Larry Whitman)との付き合いもいまだ続いている。ある時、相互にフェイスブックを利用していることがわかり、お互いの記事にコメントを書き込んだりしている。先般、彼がシドニーで開業して以来43年間を経過したとのことで、お祝いの文を書き送った。シドニーから帰国後も、長男の健康の問題で電話での相談に乗ってもらったこともあって大変お世話になった。


(知的活動)
 頭がぼけないよう、いろいろ留意している。レオスキャピタルワークスの藤野さん(CEO)が、毎日英語の勉強を1時間するという。あの多忙な人がと、感心した。今でもNewYorkTimesに目を通しているが、時々字引を引くことがある。語彙力が足らないと痛感している。また投資をしている米国の企業(Adobeなど)や中国の企業(ファーウエイなどの英語版)の年次報告書を読んでいるが、日本の企業のおざなりなものと違って顧客への訴求力が強い。それらを含めて、毎日勉強の意味を含めて目を通すことにした。要は時間を決めて毎日勉強することだ。

 アマゾンで本を買うと、旬日を経ずして、感想を書くことが求められる。これまでは、余程のことがないと書かなかったが、己の知的活動の一環と思えば、そのような読書批評を書くのはいい機会だ。気に入った本については、積極的に書くことにしている。

 人物研究も面白いテーマだ。自分が興味を抱いた人について取り上げ、どのような人か、どのような活動をしてきたか書いて見たくなった。今、興味を抱いているのは「森岡毅」という人物である。この人は、あの不振の陥っていたUSJワールドを再建し、成長軌道に載せた人である。特に興味を感じたのは、彼の手法である。高等数学を用いた独自の確率統計ノウハウによる戦略理論と多くの奇抜なアイデアで、経営難に陥っていた企業を救った実績がある。ぜひ、彼の足跡を追ってみたいと思っている。元日本マイクロソフト社長の成毛眞氏のことや、醸造学の大家小泉武夫さんのこと、また編集者にして歌人の小高賢氏のことも取り上げたい。


(読書)『最悪の予感』 『暁の宇品(うじな)』 『骨まで愛して』

 この夏の読書は当たりだった!

 『最悪の予感』(マイケル・ルイス 早川書房 2021年7月)は、2005年頃のアメリカ政府(ブッシュ・ジュニア政権)における感染症の大爆発に関するドキュメンタリーである。当時のCDC(疾病対策センター)は感染症は何ら問題ないとして何もしなかった。それを救ったのは、サンディア国立研究所の科学者であるボブ・グラスと彼の娘ローラ・グラス(当時、15歳、高校生)が組み上げた数理モデルだった。それは、様々な戦略方針が感染症に及ぼす影響を示すもので、患者を隔離すること、大人同士のソーシャルディスタンスを取ること、抗ウイルス剤の投与などがモデルの組み込まれていた。それによると、学校を閉鎖して子どもたちのあいだにソーシャルディスタンスを取ると、インフルエンザを模した病気の感染率は激減した。当初はこの考えに否定的な政府機関であったが、更に実務面で活躍するカリフォルニア州の保健衛生官であるチャリティ・ディーンの奮闘のおかげで、この考え方は広まっていった。大変インパクトのある書物である。ここで取り上げられた数理モデルを、日本の例に当てはめて感染者数の激減がどうしておこったのか解析できないだろか?

      

 『暁の宇品』(堀川惠子 講談社 2021年9月)は、戦時下広島にあった陸軍海上輸送基地の様子を描いたものである。ここは船舶の神様と言われた田尻昌次中将が作り上げ、この基地から東アジアへ向けて大量の物資や兵員を輸送した。日頃、兵站整備や食料補給などを重要視してこなかった大本営のせいで、太平洋戦争で実に多くの兵士たちが餓死したり病気でなくなっている。そうした現実下で奮闘した田尻であったが、彼の真骨頂は、広島に原爆が投下され、酸鼻を極めた8月6日、田尻司令官は全兵力を投入して、被災地広島の救援と支援に当たったことである。このノンフィクションは、今でも読まれるべきものだ。ちなみに、ビルマのインパール作戦では補給がほとんどなされず、8万6千人兵士が1万2千人にまで激減した。その殆どが餓死である。太平洋上の島、ルソン島でも多くの兵士が餓死している。

 『骨まで愛して』(小泉武夫 新潮社 2018年12月)は、サブタイトルに「骨まで愛して 粗屋五郎の築地物語」とある。ある時五郎は仕事場の職人から、おろしたばかりの鮪の骨の端の方をぶつ切りにしたのをもらい、夢中になって骨から中落ちをこそげおとしていた。そのうち、彼は魚の粗(あら)だけを使った料理屋を開くことを決意した。普通「粗」と聞いて思い浮かべるイメージは生臭いし、捨てられるものだと思う。しかし粗には、頭や目玉、骨、鰭、血合い、中落ち、卵巣など使えるところが沢山ある。その上、栄養がある。カルシウムやカリウム、リンなどのミネラルも多い。五郎は、美味い上にミネラルを補える料理を出す「粗屋」は絶対に当たると考えた。そうして店を発展させていく。痛快極まりない物語である。彼が「粗屋」の開店前夜に、これまで世話になった人々を招いて、ささやかな前夜祭を催した。その夜の、粗料理をみてみよう。一品目は、鰤の粗を使った「鰤大根」。二品目の大きな皿鉢には、真鯛の頭二つを使った「鯛の粗煮」・・・大きな目玉のまわりのトロトロした感じや、ぶよぶよした厚めの唇の皮の旨さはたまらない。三皿目と四皿目は鰹の腹皮料理二種。腹皮とは鰹の砂ずりの部分を皮ごと切り取ったもので、脂肪やゼラチンがたっぷり乗ってま誠に美味。五皿目は、烏賊の腸煮(わたに)。最後の大皿鉢は、ふかひれの醤油味の姿煮。その夜、用意された酒は、食前酒にふ河豚のひれ酒。食中酒には、甘鯛の骨酒。食後酒は海鼠腸酒。客たちが大絶賛したのは。いうまでもない。こんな店があったら、飛んで行きたい! 実際にあるかどうか。小泉先生の本は、史実とフィクションが入り混じっているので、わからない。

 ドストエフスキーの『罪と罰」も手にした。『カラマーゾフの兄弟』は、どんどん読み進んでいけるが、この『罪と罰」は、そうはいかない。しかし、たまにはじっくりと主人公であるラスコーリニコフの心情を慮りつつ読むことも、また意味があるのではないか。


(美術がらみで)京都の本願寺唐門は写真にみるようにとてもカラフルである。造形美も素晴らしい。たまたま夏に公開された時に見に行ったが、金の飾り絵や極彩色の彫刻で彩られ、一日中見ても飽きない。これが作られた安土桃時代の爛熟した文化が偲ばれる。このような素晴らしい文化を持つ日本のファッション業界は、モノトーンに近いものばかりで、なぜカラフルな衣料は、なぜ日本でつくれないのか、いつも疑問に思う。それゆえ、海外に行った時には、男物ならNAUTICAなどのシャツやパンツ、またイタリアのジャケットやネクタイを買って帰るのだ。情けない。日本のファション業界は、奮起せよと言いたい。

  

(笑うこと)
 アメリカにサタデーレビューという雑誌があるが、その編集長をしていた人でノーマン・カズンズ氏という人がいた。彼はある日、膠原病の一つである硬直性脊椎炎にかかり、体が動かしにくくなり、特にすさまじい痛みに襲われた。その治療法も確立されておらなかったが、数か月後に症状が改善し再び仕事に戻ることができた。

彼が実践したことは二つ。
1つ目は、ビタミンCの大量摂取です。ビタミンCは人間の免疫作用と自己治癒力を高めるために必須なのです。もう1つは、たくさん笑うことです。彼はまず、ネガティブなことを考えがちな病院からホテルへ治療の場所を移した。リラックスできるホテルの一室で、知り合いのテレビのディレクターから差し入れてもらった笑えるテレビ番組の総集編を観てゲラゲラ笑ったのです。効果はすぐに現れた。それまで激痛で十分に眠ることができなかったカズンズ氏ですが、30分間大笑いしてからは2時間熟睡できるようになったの。2時間後に痛みで目が覚めたら、また30分間ビデオを見てゲラゲラ笑って、また2時間寝る、ということを繰り返した。なぜ痛みが和らいだのか。その後の研究で笑うと脳からβエンドルフィンという鎮痛作用のあるホルモン(「脳内モルヒネ」)が出ることが分かった。


 免疫力を高めるためにも、笑うことはいいことですね。と、いうことで動画で「笑点」の大喜利をみて、ケラケラ笑っています。今の笑点(春風亭昇太)もいいのですが、やはり昔の「笑点」が、いいですね。三遊亭円楽師匠や桂歌丸さんが司会をしていた頃の「笑点」は、とくにいいですね!
 
 アマゾンのプライム・ビデオで「美味しんぼ」(原作 雁屋哲)をみるのも乙なものです。

 いや、いろいろ脱線してしまいました。


(深夜になると)
 改めて本を手にとる。今夜は、『ゴルゴ13』。 作者のさいとう・たかをさんが先日亡くなられた。鎮魂の意も込めて。

 もう遅くなった。最後に、今夜も好きな詩を。田中冬二の『青い夜道』から。


  いっぱいの星だ。
  くらい夜みちは
  星雲の中へでもはいりそうだ
  とほい村は
  青いあられ酒を あびている

  ぽむ ぽむ ぽむ
  町で修繕(なほ)した時計を
  風呂敷包みに背負った少年がゆく

  ぽむ ぽむ ぽうむ ぽむ・・・



       ~~~~~終わり~~~~~

追記 
 このように書いてきて振り返ってみると、私は勝手気ままにやりたい放題生きてきたような気がする。果たして、それでよいのだろうかと、ふと思うことがある。先日「侍ジャパン」でチームを金メダル獲得に導き、退任した稲葉篤紀監督の話を思い出した。彼は、”本当ならオリンピックを野村監督に見てもらいたかった”、と言って、野村監督のあるエピソードを紹介した。野村監督は、「財を遺すは下(ゲ)、仕事を遺すは中、人を遺すは上」という言葉を好んだという。

これをビジネスの世界に当てはめると、①利益を生むこと、②事業を発展させること、③人材を育成して次世代につなげる。と、云うことになる。私自身、振り返ってみると事業(プロジェクト)はある意味成功に導くことにある程度貢献したと思っている。しかし、「人材の育成」という観点では、いささか欠けていたような気がする。今さら、この年でということになるが、このブログに書いたように遊んでばかりではなく、少しでも社会のお役に立つことが出来ぬものかと、考えている。いささか、焦慮に駆られる。





















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エッセイ 茜屋珈琲店物語

2021-04-17 | 日記・エッセイ
茜屋珈琲店物語

 神戸の阪急電車三宮駅の東口を山側にでると、左手に竹葉亭があった。カウンターの向こう側には白い割烹着姿のお姐さんたちが、おでんを皿にもって出してくれる。白鷹の四斗樽から、一合枡に日本酒を注いで出す。そんな光景も昭和がすぎると共に見かけなくなった。そこから西へ、生田筋にでる手前に茜屋とい云ううまい珈琲を飲ませる店があった。今は、ない。 

     ~~~~~~~~~~~~~

 神戸は三宮の阪急東口の西にあった茜屋珈琲店は、昭和41年に開店した。店主は、船越敬四郎。まことに硬骨漢ではあったが、私たち若いもの(当時、私はまだ20歳代であった)には気持ちよく応対してくれた。当初は、三宮駅北側の、露地を少し入ったところにあり、便利なところではなかった。それが、ふとした縁で三宮阪急西口の山側に移転した。と、いってもカウンターに8席というこじんまりした珈琲店であった。少々値は張るが、店主と和服の美しい夫人(都さん)のにこやかな応対に心惹かれ、独りで、また友人と通ったものである。

 当初の案内は、次のようなものであった。(昭和41年1月)

 ”三宮阪急東口北向ひ但馬銀行西隣に新しく「茜屋珈琲店」を開店させて頂きます。間口九尺奥行き弐拾壱尺約六坪の小さな店で、長さ拾八尺五寸のかうんたーに九名のお客様をお迎えできます。独特の仏蘭西風どりっぷ珈琲水だし珈琲蜂蜜珈琲など種々の趣向を凝らせ紅茶も世界最高のトワイニングの風味を楽しんでいただきます。珈琲のお値段が壱百参拾圓で少し高いのですが味と雰囲気が必ず皆様に御好評頂けるとうぬぼれています。御誘い合わせの上御来店くださる様お願い申し上げます。茜屋珈琲店主人謹白。”

 この案内状には詳しく書かれていないが、珈琲には一杯の値段が六百圓及び九百九拾圓の特別な珈琲があった。

 手狭な店なので、昭和43年8月に現在地(今も店舗は、そのまま残っているようだ)に移った。珈琲の値段は一杯三百円であった。私は、まだ独身だった頃、恐らく27歳くらいの頃に、できたばかりの新しい店に顔を出した。狭い階段を上って行きドアを開けると、和服を着た都(みやこ)夫人が、いつもにこやかな顔で出迎えてくれた。カウンターに座り、珈琲を頼む。店内にはクラシック音楽が流れている。若い人も少なくない。そこでは、都さんが声をかけて呉れて同年輩と思われる常連と顔なじみになることも多々あった。「ブリジストン」の若い人からは、ゴルフボールのワンケースをもらった。六甲山を超えた丹波にある「西山酒造」の若主人とも顔なじみになった。ここの美酒「小鼓」はラベルのデザインでアメリカで賞をとっている。そのうち某商社の若い社員とも知り合い、今に至るお付き合いになった。ちなみに彼は神戸在任中に、私がこの店に案内した友人とも付き合うようになり、彼の夫人の紹介で現在の奥様と結婚するに至った。そう、単なる珈琲店ではなく、社交の場と化していたのである。店では、珈琲か紅茶あるいはグレープフルーツジュースくらいしか供されない。ケーキがあったかどうか記憶にない。あったとしてもチーズケーキくらい。それでも、かなりの頻度で通ったものである。

         

(珈琲の味 淹れ方 飲み方 飲まれ方)
主人の船越さんは、かなりの凝り性であった。その薀蓄を傾けるをところによれば、珈琲の淹れ方や珈琲豆、などについて相当の研究をした。その結果、

 ”茜屋珈琲店は次のような方法をとることにした。①恐らく世界中でただ一軒であろう木炭を使って珈琲豆を焙煎している萩原珈琲株式会社からモカ・コロンビア・ブラジル・ジャマイカなどの珈琲豆を購入する。②1907年メリタ・ベンツが考案したろ紙による一杯だてドリップで淹れる。③珈琲豆の配合はモカとコロンビヤを二対一の割合で混ぜ合わせたものと、モカとブラジルを半々に混ぜ合わせたもの二種を基調とした。前者はこくのある味わいであり後者は苦味においてまさる。お客さまのお好みにより配合を変え、または単品で淹れることとした。”

 ”整美された室内の造作や選びぬいて掛けられた壁の絵やさり気なく置かれた棚の壺また色とりどりの茶碗などは十分人の目を楽しませるし、ぷーんと匂う挽きたての珈琲の香りは座っただけでその旨味を誘う。静かに奏でる古典の音曲は人の耳にさわやかだし、世俗の騒音かあ隔離する、淹れた珈琲の舌触りの良さまろやかさはその味を引き立てるに肝要である。種々考え合わせ、結論として茜屋珈琲店は演出をして珈琲の「旨み」を出すことにした”


(茜屋珈琲店のこと)
 そごうの子会社の社長をしていた西村哲次郎氏は、西村珈琲店やそこで使われている大倉陶園の陶器のこと、また船越敬四郎氏のことについて思い出を語った一文があるので、ここにご紹介したい。

 ”数年前のことである。恩師の東大名誉教授、脇村義太郎先生が私に「紅茶物語」と第する小冊子を示され、神戸で珈琲店を経営する船越という人から来信があり、昭和25年に雑誌「世界」に掲載された同名の論文について再録の許可を求めてきた。その船越という人がどういう人か調べられるかと、と尋ねられた。

 私は早速、その小冊子を持って、そごう神戸店に行ってみたところ、店次長が知っていて、それは三宮の近くで、非常に高い珈琲を飲ませる店で、当店に度々食器を買いに来られるお客様ということだった。その店に行って見た所、十人も座ればいっぱいになる位の小さな店であるが、店の造りが古くさくなかなか凝ったもので、落ち着いた気分のする所だった。その使用している器は、大部分舶来のものだが、洋陶器では我が国最高の技術を持っている大倉陶園のものをかなり使用していた。

私の義弟が大倉陶園の常務をしており、岳父もこれに関係していたので、大いに興味を覚え、船越氏を義弟に紹介した。そうしたところ、こういう人こそ本当の大倉陶園の作品の理解者であるとして、おおいに意気投合して、次第に親交を深めているようであった。

 大倉陶園が一年かかって製作したものを銀座松屋で展示した時、船越氏は新幹線で出かけ、開店を待って早速売り場に入り、めぼしい珈琲・紅茶茶碗の殆どに赤札をつけてしまった。後から招かれた客が珈琲・紅茶茶碗にあらかた船越という名の赤札がつけられているのに驚いて、この人はどういう人だと聞かれる度に、大倉陶園は茜屋珈琲店の宣伝をせざるを得なかったという。船越氏のいわく、二拾数万円の品物を買ったけれど、これら残ります。新聞の広告などはその日限りで忘れられる。そのことを思えば安いものだということだった。

 茜屋珈琲店の珈琲は当時、190円と260円と995円の三つであったが、一杯50円位でも珈琲が飲めるというのに、995円もふんだくって、しかも相手を満足させるところ、まことに商売上手である。・・・一般の人は190円か260円の珈琲を飲むが、お客を連れてくる社用族は995円の珈琲を振る舞うらしい。食事のあとの二次会として案内する場合、一杯995円のべらぼうに高い珈琲が、これほど安い飲み物に化けるのである。・・・神戸で珍しい珈琲店に案内されたというだけで深い印象を受ける。その上、もう一杯いかがと云ってもまず飲まないから、これほど安い接待はないということであった。船越氏は付き合えば付き合うほど味のある人である。彼は本来建築技術者であるので、店の設計はお手の物であり、彼独特の店作りができる。和服を上手に着こなした美しい夫人が店の雰囲気を一層引き立たせていることも、商売に大いに役立っていると思う。”
 
 ”茜屋珈琲店はクラシック音楽しか演奏しないところも私の趣味にぴたりとあっている。” (注 クラシックのレコードの収集については、次の項でお話する)

(茜屋珈琲店のうら話)

 店主の船越さんは、とてもユニークな人でいろいろ面白い話が残っている。いや、面白いと言っては今は亡き船越さんに失礼だろう。店の経営面での姿勢など学ぶべきこともある。そのいくつかをご紹介する。

 ”長い闘病生活であったので数年間は無為徒食に甘んじた。碁を打ちながら今後なにをして食ってゆくかを考えた。建築屋に戻るには満十年の空白はあまりにも致命的だ。知己友人との交際もまったく絶えていた。とにかく雑草のように強く自分自身で生きてゆかねばならなかった。あれこれと、夫婦で話し合っているうちに珈琲店ならできそうだと意見がまとまり、なんとなく茜屋珈琲店と命名することにした。よそより高い値段を堂々と店頭に表示する。世界一であるとうぬぼれた珈琲や紅茶を落ち着いて飲んでいただき、その都度お代金をいただく。できるだけ愛想よく振る舞い、絶えず笑顔で応対するが、卑屈には頭は下げない。まことに簡明であり、やりがいのある稼業である。これでやり抜こうと決心した。”


 [お金を借りない商法]

 ”茜屋珈琲店は、銀行・相互銀行・信用保証協会などを含めて一切の金融機関から融資を受けずに営業してゆこうと決心した。「借り手があればこそ銀行もなりたつ。世の中はもちつもたれつ。少々、考え方が偏屈ではないか」などなど批判もされた。しかし私たち夫婦は茜屋珈琲店の営業にすべての力を結集してゆきたかった。もちろん銀行の店頭で頭を下げるのは厭であったが、それ以上に毎月の資金繰りに頭を悩ましたり、割賦の返済金の調達に労力を割かれたりするのがたまらない。その温存した精力を、店をさらに充実させ、短い日時の間に磨き上げ、小粒ながら辛子の効いた貫禄十分に仕上げるのに用いたかった。

金繰りに苦労するのは精神衛生上最も宜しくないというのが私たち夫婦のかねての持論であり、過去六年あまりの茜屋珈琲店の営業でもっぱらこれを信条としてきた。金繰りの苦労がなければお客様が少ないときでも店で笑顔で仕事ができる。

九百九拾五円の値段が世俗の反響を呼び、いりいろ会社の方々から接待に格好だから帳付にして決めた日に締め切り請求書を送ってくれとの好意あるお奨めを頂いた。集金に来るのが面倒であれば銀行振込の手続きもとってやろうと細かいところまで気を使ってくださった。まことにありがたい話であるが、飛びつきたいのを我慢した。売掛を整理し記帳し決められた日に請求書を発送するその努力が惜しかった。それにも増してどこどこにいくらいくらの貸しがある、それをいつまでに集金せねばならぬとの意識が私たちの頭の片隅に残るのがなによりも厭だった。丁重にお断り申し上げたところ、せっかくの商売をこちらから断るやつがあるかと、呆れ果てたし、好意をもってお奨めくださったお客様の中には、”傲岸不遜もほどほどにせよ”と来ていただけたなくなった方もいた。店がまだ繁盛していない、たかには閑古鳥が鳴こうかという時だったので、本当に悔しかったし情けなかったが、歯を食いしばって辛抱した。まさにおのれに打ち勝つ修練の毎日であったが、茜屋珈琲店がこれまでやってこれた最大の要因なりと思う。”


 [ぐれいぷじゅーす]

 茜屋珈琲店では、珈琲や紅茶の他にグレープジュースにことのほか力をいれている。

 ”たまたま知人が岡山でできる生のグレープジュースだと一瓶くれた。飲んでみたところ旨い。知人に紹介してもらい、岡山にある工場へ出向いた。主として病院の給食用の濃縮果汁やジュースなどを製造していた。私が一瓶いただいたのは濃縮していないジュースであった。いろいろな製品を試飲させていただき、最後に山と積み上げてある原果汁を一瓶ずつ開けてもらい、試してみた。滅法旨いのがあったので、これに決めた。原果汁は一度しか滅菌釜に入っていない、ほとんど生に近いコンコードが、葡萄を冷凍しておき必要な量だけ使用するにくらべ鮮度の点で遜色なしと判断した。無理にお願いして原果汁を神戸へ送ってもらって種々試した結果、岡山産のキャンベル果汁(三)長野県産コンコード果汁(一)を混合配合することに決めた。”

”次に飲んでいただくための演出を思案した。錫半本店に特注してつくらせた錫の容器に入れて冷やしておき。佐々木硝子へ別注した薄紫の脚長のゴブレットに注いで出すことにした。幸い神戸や大阪で、その演出とあいまって非常に好評を博している。” 注)アイスクリームもとくにお子様たちに好評のようだがだが、出自がわからないので割愛する。

 [お釣り銭]
 
 店主の船越さんは、お釣り銭の出し方にも気を配った。

 ”茜屋珈琲店は開店当初からお釣り銭はすべて新しい紙幣を差し上げることに決めた。珈琲一杯が最初は三百円で、次に百九十円であったから、お客様が一万円札を出されたら、九千八百拾円のお釣りを差し上げる。その頃は、まだ百円札が出回っていなかったので、五千円札一枚・千円札が四枚、五百円札が一枚と、百圓札が三枚入用である。お店で一万円札を出すのは非常識のたぐいだが、少しも嫌な顔をせずに、手際よく九千八百十円のお釣りをピンピンの新札で差し上げれば、店の中も活気づくし、居合わせた他のお客様も気持ちがよいだろうと、その効果を狙った。新しい紙幣は銀行で交換してもらうのだ。と言ってしまえば簡単なことだが、始めてみて至難の業と気がついた。銀行の得意先係も窓口も始めのうちこそ調子はよいが、しばらくすると良い顔をしなくなる。そこでいろいろ考え、出納係と仲良くする方法を考えた。
 
自宅の近くの二軒の銀行へ、隔日ごとに用があってもなくても九時開店と同時に押しかけた。開店直後はどこも閑散としている窓口で、二万か三万の金を普通預金に出し入れする。四五日もすれば、出納係と言葉を交わすようになる。その時、珍しい煙草を二・三箱、または京都の銘菓をほんの少々もってゆく。辛抱つよくこれを続けていると、情が移るというのか出納係りの方から声を掛けてくるようになった。こうなるとしめたものだ。雨の日も、風の日もとにかく朝二十分だけ銀行へおしかけていれば、新しい紙幣が確保できる。”
 
 
 [レコードの収集]

 ”私たち夫婦は店をはじめるまでは音楽にまるで関心がなかった。開店の時にある楽器店の主人に頼み適当なレコードを50枚ほど選んでもらった。店をはじめて約一年がたった頃、私たち夫婦にもやや気持ちにゆとりが出てきて、一思いにレコードを全部入れ替えようと思った。数ある客様を見渡して、いつもレコードの包を抱えて来られる若山禎一郎さんは音楽に堪能のようだし、静かで親切な方のようにお見受けしたので、恥を忍んでお願いした。”

 ”「私ら夫婦はまるで音楽が分からない。しかし毎日古典音楽をかけたいを思いますが、交響曲を除くこれはと思われるのを百枚リストアップしていただけないでしょうか」とお願いした。唐突な申し出に若山さんはびっくりされたらしいが、しばらくして笑いだされ、快く引き受けてくださった。”

”四五日後、便箋八枚にぎっしり作曲者・曲名・演奏者・発売しているレコード会社名およびレコード番号まで書き上げて持参していただいた。レコードを購入するお店として三宮駅前のマスダ名曲堂も紹介してくださった。まったくありがたかった。最初に買ったのが、ベートーヴェンのバイオリン協奏曲、チャイコフスキーとメンデルスゾーンのが裏表になった協奏曲、それにイ・ムジチの四季の三枚であった。まだ店はたいして繁盛していなかったが、若山さんの作成してくださったリストを頼りに毎月十枚くらいづつ買ってゆくことにした。しばらくすると茜屋珈琲店はクラシックだけを聞かせると評判がたちかけた

 やっと五十枚くらい買いためた頃に、また一計を案出した。レコード収集の焦点を三点に絞った。①相当音楽にうるさいお客様でも知らないだろうと思われる曲目を探すこと②ベートーヴェン以前のものに限定する。③名曲と称せられるものは演奏者を変えて数枚以上十枚くらい揃えることにした。

珍しい曲を探すのには、レコードの目録を片端から取り寄せてそれを丹念にチェックしてゆくのだ。お客様の中で暇で困っている学生の方々に相手にこの作業をやる。十枚か二十枚かためて買って一枚ずつ試聴してゆく。半年ほどすると、若山さんが今かかっている曲は何かと質問するようなった。茜屋珈琲店は楽しい雰囲気の中で営業してゆきたいので、宮廷音楽が中心とならざるを得ない。ベートーヴェンの作品は力強く変化に富んでいるので、省けない。それ以前のものに限定した。また歌曲は、私の故なき偏見で極力避けた。ベートーヴェンのバイオリン協奏曲はダヴィッド・オイストラフやジノ・フランチエスカティ、またヨーゼフ・シゲッティに至るまで演奏者を変えて十枚ほど揃えた。そのように同じ曲目でも演奏者を変えて余分に買う。音楽にうるさい客様でも滅法感心し、詳しい解説をしてくださる。私ら夫婦は、未だ「未完成」や「運命」などを聴いたことがない。しかし、茜屋珈琲店はいつも良いクラシックがかかっているとの定評だ。五年まえに大変なご苦労の上、詳細なリストを作成してくださった若山禎一郎さんに衷心よりお礼を申し上げる次第である。”

  注)(マスダ名曲堂)
 「マスダ名曲堂」は、JR三宮駅北側のビルの1階にり、間口は二間くらいで、店内は少しのレコードが飾ってあるだけで、客が5人も入ればいっぱいになってしまうような狭い店舗であった。どういうことでこの店を知るようになったか、はっきりとした記憶がないが、茜屋珈琲店の主人から教えられたのかもしれない。在庫しているレコードは、すべて店の主人が作成したカードにまとめられていた。欲しいレコードが見つかると、そのカードを見せて「これください」と云うことになる。あるレコードについて聞くと、感想を聞かせてくれることもあった。殆どのレコードは、すべて「マスダ名曲堂」で購入した。バッハもワーグナーも、また好きなシベリウスも・・。今は無くなってしまったが、懐かしい店である。


 [壁にかけた絵と瓦斯燈]

 船越さんは、室内を飾ることにも細心の注意を払っていた。

 ”私たち夫婦に絵を買う術を教えてくれたのは神戸トアロード画廊の石橋直樹さんと銀座八丁目パピエ画廊の中川瞭さんであった。特異な風貌を持ちお洒落だけが歩いているような石橋さんは話し好きで、時に深夜におよぶ随分珍しい裏話を拝聴した。一見紳士風で努力の固まりのような中川さんの機敏な行動と行き届いた商いぶりに私はかねてから敬意を払っている。軽井沢への行き帰りに東京で下車して食事を共にしたり薄い水割りなどを飲みながら一刻を話しあう。茜屋珈琲店の壁には両紙が推奨した数点づつの絵と、私の独断と偏見で求めた絵が混じり合って並んでいる。もとより大作などあろうはずがなく、求めやすい小品が殆どである。” 注)ちなみに、ここで知り合ったある商社マンが日曜画家で彼の水彩スケッチの絵も壁にかかっていたように覚えている。

 ”珈琲の値段をぽんぽんと上げてゆくのに何か趣向を凝らさなくてはと考え、店内の照明の一部に瓦斯燈(がす燈)を使ってみてはどうかと思いついた。早速大阪ガスの神戸営業所に問い合わせたところ営業係長の岩本さんが関心を示され、倉庫の奥から器具一式を取り出してきてくれた。ホヤもマントルも十分在庫があるとのことだった。アームだけを別注にしてブロンズメッキをかけてもらった。点灯してみるとなかなか捨てがたい風情である。お客様にも好評で、壁の絵もいっそうきれいに見えて引き立つという案外な効果に驚いた。茜屋珈琲店の造作と内部の色調に調和したのかもしれない。店内では瓦斯燈を常に点灯している。初めてこられたお客様で若い方は珍しいと喜ばれるし、年輩のかたは懐かしいと喜ばれる。神戸の店には八個の瓦斯燈が年中無休で静かに灯り続けている。”


[満五年記念パーティ]

 昭和46年1月24日は、茜屋珈琲店の開店5周年の記念パーティが行われ、まだ独身であった私は、当時のガールフレンドを誘い、いそいそと出かけた。当日のことを、店主の船越さんは、次のように振り返っている。

 ”貿易センタービルの24階のレストランで記念パーティを催すべく計画していた。たまたま店に珈琲を飲みに来られた坂井さん(当時、兵庫県知事)にご出席くださるようお願いした。坂井さんは、手帖を取り出され、”ああ日曜日ですね”、といっていとも気軽に承諾してくださった。しかし、何しろ激務の追われている知事のことであるから果たしてご出席頂けるか否か若干の危惧をいだいていた。当日、私たちのために色紙を一枚携えて現れ、乾杯の音頭をとってくださった。九百九拾五円の会費を払って参会してくれた若いお客さまがたが、非常に喜ばれ、記念パーティは大変な盛会であった。坂井さんはまったく飾り気のない方である。”


(都夫人の和服姿)

 都(みやこ)夫人は茜屋珈琲店開業以来、和服で出勤して来られていた。そしてその和服姿といつも変わらぬ笑顔とあどけない表情が、みんなの間で人気を集めていた。二人は、おそらく相思相愛の恋愛結婚ではなかと思われるが、彼女のことを語る時、船越さんは嬉しそうな表情を見せていた。彼は、のろけ半分でつぎのように語っていた。

 ”都の場合、はたから見ているといとも無造作に着付けをしているようであり、着物の方がぴたり都の肌にそってゆくごとく見受ける。私たち夫婦は元来小心であまり高価なものは買わないが何かさまになっているのは、温和な彼女の人柄によるだろう。日夜帯つけで袂の長さを気にしながら、珈琲を淹れ紅茶を淹れ、洗い物をしながら笑顔でお代をいただき、釣り銭をお返しする。しかも手付きの良さを少しも見せずに慌てず騒がず実に手際がよい。まさに神業に近い。都の顔から笑顔が消えない間は、茜屋珈琲店は至極安泰であり、ますます順調なる営業を続けることができると確信する。”



(旧軽井沢店のこと)
 しばらくして、茜屋珈琲店は大阪店(ふなこし珈琲)に続き軽井沢にお店を開店した。店主ご夫婦は、神戸と軽井沢を行ったり来たりしていた。その頃、東京のホテルオークラで船越夫妻とロビーで偶然お目にかかったことがある。1980年代の後半のことであった。旧軽井沢の店から神戸に帰られる道すがら、オークラに宿泊しておられたようだ。久しぶりのご挨拶を交させて頂いたが、ご主人も角帯白足袋姿の和服であった。ちなみにある年の秋、欧州六カ国を回られた事があったが、その時も角帯の和服姿であったという。それ以来、私も東京で仕事をするようになり、お会いしていない。


   ~~~~~~~~~~~~~


 長い思い出話にお付き合い頂きありがとうございました。



コメント (6)
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エッセイ ウイズコロナの日々

2021-01-21 | 日記・エッセイ
ウイズコロナの日々
         (写真は初茜)

 ちょうど一年余ほど前に、「冬の一日」と題したエッセイを上梓したことがありました。それは、その6年前の「冬の一日」を振り返ってのことでありまし。それもあって、さらに6年後の2027年の1月に、「冬の一日 6年後」として記事を書くつもりにしていました。ところが、コロナ騒ぎもあってか、はたまた地球の自転の速度が速くなったという情報(*)もあり、とても6年後までは待てない。そこで取り急ぎ「ウイズコロナの一日」と題して書くことにしました。

  注)*地球の自転速度を観測している科学者たちは、2021年にはさらに短くなると予測している。2021年の1日の長さは、我々が使う時計が定める1日の長さである8万6400秒よりも平均で0.05ミリ秒、また、個々の日では最大で1.5ミリ秒短くなる可能性があり、一年で合計すると約19ミリ秒短くなる。

 以前は夕景の写真を冒頭に飾ってましたが、これからはもっと前向きの人生とするため、朝茜(朝日)に心を向けることにしました。そんなことを念頭におきながら、「冬の一日」を「ウイズコロナの一日」として紹介させて頂きます。

     ~~~~~~~~~

 朝は、4時頃に目を覚ます。なぜかというと、その時刻になると日経新聞がネットで配信されるのだ。まず紙面版のコラム(春秋)を読む。ついで最終紙面の「ミチクサ先生」という伊集院静の小説を読む。漱石と正岡子規の交流を描いたものだ。昨今は、熊本の第五高等学校に奉職した漱石とその妻の鏡子の日々を描いている。鏡子は、悪妻のように言われているが、ここでは漱石は年下の鏡子のことを愛しく思っている様子が描かれている。伊集院の漱石たちを見る目の優しさを感じる。それが済んだら、また眠りにつく。紙面版の全体は、のちほど日中にiPadで見る。電子版は、とくにマーケットの情報などをとるのに活用している。紙面版には、ない情報がたくさんある。

 6時半頃起きて、ベッドの中でBloombergやWallStreetJournalなどのニュースをネット配信でみる。アメリカのおおよその動きは把握できる。WSJは、いくつかの記事は日本語訳の記事もある。7時になると朝食タイム。朝から食欲がある。ありすぎるのだ。シリアルを食べたり、バナナを食べたりと、食パンの量は少なくなっている。珈琲や紅茶の砂糖も植物由来のラカントを摂っている。体重はきちんとコントロールできている。目標値から、プラス・マイナス0.3キロでコントロール。

 朝食後は、すぐ近くにあるクラブのプールに行く。昨年右肩に痛みが出て(チェロの練習のしすぎ?)、手術・入院をした。そのせいでクロールもできなかったが、ようやく昨今落ち着いてきて、ほぼほぼクロールは泳げるようになった。プールは一日おき、他の日はウオーキング。島の周りの散歩道を歩く。ただ歩く速度は遅くなってきた。年を感じる。それはともかく、できるだけ陽の光を浴びて歩く。ビタミンDもできて、認知症対策にもなるようだ。そういえば、カレーのスパイスには脳神経を正常に働かせるのに役立つナイアシンや動脈硬化を予防しストレスをやわらげる働きのあるパントテン酸などを含み、認知症予防にもいいらしい。というような屁理屈をつけてはJR住吉駅エリアにある<京都洋食屋カレー>をひんぱんに訪れる。ここのカレーが大好きだ、いつもルウ大盛りで頼んでいる。

 7年前ほど前からSNSを始めた。フェイスブックを多用。あるクローズドの仲間と、一般公開をしている友人の二種類がある。最近ではツイッターが情報配信や交換の場になっている。ツイッターには好きな音楽などをアップロードしている。インスタグラムは、お遊び程度。ところが昨今コロナ騒ぎもあって、手につかなくなってしまった。そこに加えて、成毛眞さん(書評サイトHONZ代表、もと日本マイクロソフト社長)の最近の発言から、SNSとくにFBのやり方を根本的にやりなおそうと考えはじめた。下記に成毛さんの発言の一部をご紹介する。

     ~~~~~~~~~

 (成毛眞)”友達申請を一日に最低でも5件ほど受け取る。・・・申し訳ないが、知らない人からの友達申請は無視するしかないので、悪しからずご了承していただきだい。不思議に友達申請してくる人の90%は意味のあることを自分のウオールに投稿していない。FBに加入してから一度も投稿してない人もいる。ボクがそんな人とFB友達になっても、ボクにとって何の意味があるのだろう?1秒でも考えたことがないのだろうか。

しかし、なかにはめちゃくちゃ面白い投稿を続けている人もいる。そんな人は稀なのだが、こちらから友達申請している。SNSは情報の持ちつ持たれつだ。SNS上では(リアル友人以外の)赤の他人にとって、情報なき人は友達としては無価値なのだ。

まったく見も知らない友人申請してきた人が、自分のFBで書いてることが昨日の夕食に何食ったかだの、誕生日のケーキだの、孫の写真だのだけだったりする。ボクはね、会ったこともない人の個別の生活には死ぬまでまったくぜんぜん10000%興味ないし、見たくもない。あんたと友達になるわけないじゃないか。世の中はそんなに都合よくできてないのだ。

     ~~~~~~~~~~

 これなんだよなあ! いつも感じていたのは。私自身のSNSでの情報の発信のしかたについて、反省の念もふくめてヒントを感じ取った。


 ところで前にも書いたが、情報ソースとしてWSJやBloombergやFT、さらにはNewsPicksというサイトがあるが、加えて日経は言葉は悪いがしゃぶり尽くしている。iPadでみる紙面版では最終ページに時折の絵画と説明がある。この前、このブログで取り上げた「破壊」もそうである。最近、「モデルの一生」と題してとりあげられたもの。赤い服をまとった断髪の女性、左奥にはアネモネの花。モデルは作者板倉鼎がパリで描いた大作。5年後モデルの須美子はこの世を去った。西洋絵画ではアネモネは死を象徴するとか。 さらに電子版では、紙面版にはない豊富な情報がある。たとえば、経営者ブログというコーナーがあって、IIJ会長の鈴木幸一氏、ユニチャームの高原豪久氏などの物の見方に触れることができる。

 

 午後になると、たまには島の中にある神戸市立小磯記念美術館に出かける。今は特別展「至高の小磯良平」という大野コレクションを展示している。すぐれた女性像の数々がある。画像は、「化粧する舞妓」

  

日経新聞を紙面でじっくり見る。「春秋」というコラムも味わい深いので、かならず目をとおしている。1月17日の「春秋」は、もちろん26年前の阪神淡路大震災についてであった。この時、ボランティア元年といわれるくらい多くの人たちが助けあった。”「1.17」以降の世代にとっては共助は自然な振る舞いなのだろう”、と書かれていた。


(読書)

 本は日がな一日読んでいる。最近読んだ本で興味を惹いたのをいくつか、とり上げてみる。①『自分の頭で考える日本の論点』(出口治明)・・・「日本人は働き方を変えるべきか」、「日本は移民・難民をもっと受け入れるべきか」など22の論点につき、背景を解説し、さらに著者自身の考えかたを開陳してる。その上で、諸君はどうかと迫る。②『だから古典は面白い』(野口悠紀雄、専攻はファイナンス理論)・・・「ビジネス書を読むより『戦争と平和』を読もう、「ノウハウ書を読むより『マクベス』を読もう」など古典を読む意味合いと面白さを教えてくれる。③もう15年ほどまえの本だが、中西進さんの『詩心ー永遠なるもの』は万葉から現代詩に至るまで紹介・解説し、それらの良さを伝えてくれる。”秋の灯や集いてやがて星となる”(和田誠、イラストレーター)など。この詩を読んでいると、”いつかは星になるのかなあ”、と思ったりする。④『シャドー81』・・・太平洋上を飛ぶジャンボ旅客機が、ジャンボから死角にある最新鋭戦闘爆撃機のパイロットから乗っ取られる。海外ミステリーは、ジェフリー・ディーヴァーの作品を始めとしてかなり読んでいるが、本作品は初めて。読み進むのが楽しみである。

(音楽の楽しみ)

 それからチェロの練習。右肩の痛みに加え、左肩が痛くなって手術をしたが、その痛みがほとんどなくなり、みっちり練習できるようになってきた。楽譜をみる目の視力の衰えもあって、なかなかスムーズんは弾けないが、それでも少しづつ上のレベルへと進んでいる。今の心境を一句、短歌で。

 ”またひとつ新しきこと覚えをり寒牡丹咲く冬の一日(ひとひ)に”

 音楽を鑑賞する方では、ツールが変わってきた。これまではアキュフェーズの製品(チューナー。プリメインアンプ。CDプレーヤなど)でラインアップを固めていたが、スマホ(アップル)の動画で音楽の演奏の様子を見るようになったので、スマホで聴くことが多くなった。YouTubeだと、演奏の様子を見ることができる。それに加えて、最新のTVではアンドロイド機能はついており、YouTubeを大画面でみることができる。これにしかるべきスピーカーを外付けすれば、立派なリスニングルームになる。オーケストラの音楽を聞く時は、ベルリン放送のデジタル版の映像をPCで見ることが可能だ。もちろんゼンハウザーなどのヘッドフォンを装着する。

 話は変わるが、昨年(2020年)で一番記憶に残った音楽は「長崎の鐘」だ。(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)。朝ドラ「エール」で放送され、絶大な人気を集めた。これは長崎で原爆にあった永井隆博士が、原爆投下当時の長崎の様子を記録(随筆)としてまとめたもので、これを読んだサトウハチローが感激して詩にした。それに古関裕而が曲をつけた。「長崎の鐘」の歌(藤山一郎 歌唱)
 
 この歌は、敗戦から立ち上がろうする日本の人々を慰め、励ました。そして長崎だけではなく、広く日本国中で歌われた。

 ふと思い出したのは、阪神淡路大震災の折に高校の音楽教師が作詞作曲した歌「しあわせ運べるように」だ。当時、神戸の西灘小学校の音楽専攻科教諭であった臼井真先生は、震災で家族や友人を失った人たちを慰め、励まそうとこの曲をつくった。そして、その歌は神戸から東北大震災の人々の間でも歌われ、さらには国内外で歌われるようになり「希望の歌」となった。


(健康について)

 健康については内臓系を中心としてとくに問題はない。しかし、年を重ねるといろんな問題が出てくるので、気をつけている。とくに気にしているのは、腎臓の性能を示す値のひとつであるクレアチニンの数値が高めに張り付いているので、食事の時の塩分のとりすぎには気を使っている。身体から塩分を放出するような食品(ナッツ類やほうれん草など)もあるようなので、それを摂るのもいいかなと思っている。この問題に限らず、「日経Goodyマイドクター」という会員制のサイト(有料)があって健康情報の記事を読めるほか、相談にも乗ってもらえるので、愛読している。


 ところで京都通いのことである。緊急事態宣言後、ごく初期の頃に一度行きつけの店に行ったきりで、すっかりご無沙汰している。元気に営業しておられるのであろうか? ワクチンを接種したら、いの一番で飛んで行きたい。それまでは東灘界隈でガマンの子である。絶品の焼き肉「翔苑」、上海の料理人のやっている「三日月食堂」(魚香茄子 ゆいしゃんなすがうまい)などなど。ちょっぴり中国語を覚えて大将に話しかけると、親愛の情を示してくれる。しょっちゅう通っていたJR福島駅あたりも、とんとご無沙汰だ。したがって、家で自らレシピを考え、料理にいそしんでいる。いずれ、ブログ「料理あれこれ」に書くつもりだ。


(頭の活性化にも気を配る)

 すでに述べたように日の光を浴びて歩く。毎日日記をつけている。B6サイズの日記帳に横書きで万年筆でびっしり書く。字が下手なので、”あまり達筆すぎて読めないわ”、などと某マダムに言われたこともあった。(笑)書くのが速いのが主な原因であるが、正規の書き順に沿っていないことが多いので、いちいち書き順をアプリでチェックしている。愛用の万年筆はペリカン製。インクは、パイロットの「天色」(色雫)の明るい青が好きだ。問題は、このインクは粒子が細かいのでペリカン製の万年筆には合わない。そこで、もう一本買うことにして、パイロット製にした。ところが、このメーカーのインクは色が今一である。たまたまペリカンのTOPAZを試したところ、ぴったりハマった。ついでに愛用のペリカンでもTOPAZにするとインク漏れもなく、”青い鳥はそこにいた”(笑)

 できるだけ人と話をするように努めている。病院のリハビリの受付をしている女性にも話しかける。それがあってか、”私がいる日に来てくださいね”と、言われるようになった。チェロの練習場の受付をしている若いマダムとも、神戸のグルメのことなどどんどん話しかける。こちらは、人畜無害の安心牌と思われているのかもしれない。(笑)

 俳句の句会はなくなったが、その頃の友人と語らってネット句会を楽しんでいる。最近では、同じメンバーで連句のやり取りもしている。東京在住の友人(高校同期)とは、二人で月に一回、書簡をやりとりして連句の歌仙を巻いている。


(三つのいいこと ThreeGood)
 
 ごく最近のことであるが、レオスキャピタルワークスのCEOをしている藤野英人さんが、こんなことを提唱された。

 ”今日から毎日のちょっとしたよかったことを三つだけかいてみようと思います。・・・この三ヶ月間くらいは色々つらいこともあると思うので、目をむける場所をそのようなところではなく、意図的に生活の小さな幸せを見つけて行くことが生活をきれいにしていくことかなと思います。

自分の生活そのものへの解像度をあげていくことによる幸福感を高めていくことで、内圧を高めていくことで心と身体の健康を高めていこうという工夫です。あと、人の小さな幸せを感じると、ああこういうところに幸せを感じるのかとわかって、ほっこりすると思います。

 どうしてもきびしいニュースが出てくると、それに引き寄せられてその関連記事をどんどん読んでしまい、それがメンタルを痛めていきます。・・・

 では、さっそく。

 ①だんごとおもちのお腹がなおった注)藤野家で飼っている子犬のこと。
  愛犬だんごとおもちがしばらくお腹を壊していたのですが、薬と食事を変eru
  ことで収まってきました。

 ②夜の食事のほっけが非常に肉厚でおいしかった。
  いただきもののホッケですが、大きく身もぷりぷりして脂ものっていて礼文島で食べたホッケよりも美味しかった。

 ③ヴィーガンに特化した若手起業家の話が面白くて、やはり若い経営者と話を続けることが大事だと感じた。”

   注)ヴィーガンとは、“徹底した”菜食主義(あるいは菜食主義者)のことで、「完全菜食主義者」と訳されることもある。肉や魚に加えて、卵・乳製品などの動物由来の食材を摂取しないという特徴がある

 と、いうことなのですが、彼のフェイスブックの投稿に知人・友人・仲間などFBでつながっている人が毎日のように、それぞれの「三つのいいこと」を 書き込んでいます。たまたま藤野さんとは高校(愛知県立旭丘高校)つなが りということもあって、私自身も始めることにしました。遠隔の地にいる友人と、さっそく始めました。毎日では、きびしいので、一週間に二回、話し合うことにしました。

 むずかしいことはありません。たとえば、①ロウバイが咲いてるのを見ることができた。②ヒラメの中華風刺し身が美味しかった。③西の空に新月を見た。などなど。如何でしょうか? やってみませんか? 中には、”白菜を油で炒めたら美味しかった”などという「いいこと」もありました。



(深夜になると)
改めて本を手に取る。今夜は、『江戸の夢びらき』(松井今朝子)。歌舞伎で最初に荒事を仕掛けた男、市川團十郎の物語。
 
 もう遅くなった。最後に好きな詩を。「闇」。 杉山平一の詩集『青をめざして』から


 ”ルームライトを消す
  
スタンドランプを消す
  そうして
  悲しみに灯をいれる 

 
 時間が闇を深めていくに従って、作者自身も活動の世界から休息の世界へと移動していく。夜の部屋の明るさも、まず大きな光源が消え、手元の小さな灯りも消される。すると残るのは闇。 しかし闇は心の中の悲しみを浮かび上がらせ、小さな灯りのように心に宿る。(中西進 注)    


     ~~~~~~~~~~~~~


 もう遅くなりました。では、おやすみなさい。



追補
 都合により、「料理あれこれ」の記事は先送りさせていただきます。立春明けの雨水の頃にアップいたします。








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エッセイ 向田邦子の思い出

2020-09-17 | 日記・エッセイ
                                              冒頭の写真は、向田邦子の唯一の長編小説『あ、うん』の表紙。中川一政画伯描く.。
向田邦子の思い出

 さる八月二十二日は、向田邦子の亡くなった日でありました。人よんで、木槿忌。彼女のことについては、いささかの思い出もありますので、改めてあれこれ偲んでみました。

 1970年代の後半から1980年代前半にかけては、仕事の都合上、東京に定宿をもち、週末になると神戸に戻るという生活を繰り返していました。仕事場が、日本橋にあり、夜になると人形町あたりに出没することが再々でした、人形町の近くには明治座があるのですが、その裏手、いわゆる浜町あたりには黒板塀の料亭が立ち並んでいました。あたりは真っ暗です。一度こんなとことろで料理を味わってみたいと思い、思い立って一軒の扉をたたきました。すると迎えてくれた女将は、”ここでは一見の方はお迎えできません。ですが、私どもの裏手に小さな小料理の店がありますので、よろしければそちらへお回りください”と案内してくれました。今にして思えば、この黒板塀の立ち並ぶ店は、いわゆる木場にある材木商の旦那衆の寄り合いの場所でした。とても若造のいくところではありません。それはともかく、案内された店の暖簾をくぐると、9名ほどが座れるカウンターがありました。もちろんヒノキの一枚板です。その日の料理は、カンナで削り出したうすい板に墨で、”本日のお献立”として、季節の酒肴が書かれていました。「すみ谷」(すみや)という名前の店は、暗い通りの一角にあり、あまり気がつく人もいませんでした。いつも、涎の出るような美味しい一品が並んでいました。静かに、お酒と料理を楽しむに絶好の場所でした。しかも、それほど高くはありませんでした。

 ある時、多分1970年代の終わり頃だったと思いますが、三人連れの客が入ってきました。そのうちの一人は小柄な女性でした。黒っぽいワンピースを着ていたように記憶しています。はっとするような美人ではありませんでした。どこの、誰か知るよしもありませんが、漏れてくる会話のはしばしから、サラリーマンや実業の世界の人たちではなく、映画かあるいは文芸に関わりのある人たちのようでした。飲み終わった私は、”お先に失礼します”といいながら、彼女の後ろを通ってお店を出ていきました。ただ、それだけのことですが、その夜の事は記憶の片隅に残っていました。漂ってきた、香水の香りのせいかもしれません。それからしばらくして、1981年8月22日台湾上空で飛行機の事故があり、全員即死。その中に、脚本家の向田邦子の名前があったのです。その時、浜町の「すみ谷」で出会った女性は、向田邦子さんではなかったかと思いました。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(向田邦子のプロフィール)

 向田邦子は、ホームドラマの脚本家にして小説家/エッセイイスト。テレビ作品には、一世を風靡した「阿修羅のごとく」、「あ、うん」、「寺内貫太郎一家」などがあるが、中でも「寺内・・・」は小林亜星の好演もあって平均視聴率31.3%を記録しました。昭和の東京下町、石屋を営む一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる毎日を、コメディータッチで描いている。放送されたのは1974年頃のことである。四人姉妹の日常を描いた「阿修羅のごとく」も、人気を呼んだ。

 小説では、1980年に短篇の連作『思いでトランプ』収録の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞している。『思い出トランプ』では、浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男のことなどが描かれている。結婚したこともない向田邦子に、よくこんな描写ができたものだと感心する。エッセイは、数多くある。「父の詫び状」、「男どき女どき」(おどきめどき)「無名仮名人名簿」などなど。しかし、「父の詫び状」にしても、今読み返してみると、さほど面白いものとは感じない。たしかに、書き方はうまいが、内容となるとどうか。谷沢永一は、こう言っている。”始めて現れた生活人の昭和史である。たしかにそこには、とりたてて変わったところのない中流で平凡な家庭に、主として戦前における生活の相が活写されているる。”ある意味、ふるきよき昭和の時代を感じるのかも知れない。

 それはともかく、平成を過ぎた今でも向田邦子の人気は根強い。ネットで調べると、いくつも向田邦子に関する文章がみつかる。今でも、である。
 
  向田邦子が飛行機事故でこの世を去ってからひと月後、青山の斎場に多くの人が集まった。その数八百。四月に亡くなった評論家小林秀雄氏の葬儀を上回る数だった。森繁久彌氏の弔辞をここに掲載する。

          

 ”あなたのお写真の前で私が永別の辞をのべる、それはあまりにも過酷なことです。運命の皮肉とは申せ、まだ五十歳の若い身空で異国の人に空に散華されるとは、神も人も信じがたい痛恨極まりないことです。・・・思えば三十年年近いお付き合いでした。ようやく多忙を極める文筆生活の中にも、義理堅いあなたは古い友だちを忘れず、お力を割いてくださいました。あなたの作られたドラマの中から何十何百の人が世に出たことでしょう。

 あなたと、始めて一緒にお仕事をしたのは、昭和三十年をすこし過ぎた頃でしたね。あのラジオの帯放送「重役読本」は、十年近く、二千数百回を重ねました。すでにその時から、私はあなたの鬼才を十分承知していました。・・・その頃、あなたはもうテレビ局からひっぱりだこでした。・・。そしてまもなく直木賞です。・・・あなたとの最後は婦人雑誌の対談でした。あのときの黒い服の姿しか思い浮かんできません。すでに帰らぬ人に、今更なんの言葉がありましょう。・・・哀しいお別れです。さよなら向田邦子さん。”

 注)「重役読本」は向田邦子作・森繁久彌朗読によるラジオエッセイ。森繁の冠番組となり、6年以上続く長寿番組になった。

 ちなみに、向田邦子は、短編シリーズ『男どき女どき』の中で、こう言っている。”私は父の転勤で、何度も転校をしました。・・・今、思い返してみますと、私の師は学校の外にいたよう思います。その筆頭が、森繁(久彌)さんです。”
それというのもNHKの銀河ドラマの収録後開かれたささやかなパーティの席でことです。私は主演の森繁久彌さん、演出の和田勉さんの間にはさまってビールのグラスを上げていたのです。大きな拍手が起こって、娘役の和田アキ子さんが父親役の森繁さんに花束を贈呈しました。森繁さんは花束のお礼と和田アキ子さんの自然な演技を褒め、大きな拍手を浴びました。それからなんとなく二三歩下がって手をたたいている私の隣に立たれました。そして、小さな声で、「向田さん、あなたの時代が来ましたね}と、なんともお面映ゆいセリフです。・・・こんな凄い殺し文句をいわれたころとはありません”、と回想しています。


 そして作家の山口瞳氏も弔辞を捧げた。その中で、彼は、こう言っている。
 ”向田邦子さん。あなたは茶目っ気のある好奇心の強いかたでしたから、ご自分の葬式に誰が来ているかを知りたいでしょう。あの直木賞受賞を祝う会の出席者はみんな来ていますよ。あなたが愛していた方々は、みんな来ていますよ。また、あなたのことを愛していた人たちもみんな来ていますよ。今日の列席者はみんな、あなたの大ファンです。森繁久彌さん、竹脇無我さん、大山勝美さん、岸本加世子さん、倉本聰さん、山田太一さん、澤地久枝さん、豊田健次さん、みんな来ていますよ・・・”


 向田邦子は、多くの人に愛されていたのだ! 放送の世界でも、小説の世界でもたいそう評判がよく、「向田邦子を守る会」というのがあったそうだ。だからと言って、作家や俳優といった人だけにとどまらず。数多く”の人たちからも愛されている。一つ、二つ例を上げてみる。


 ” 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で・・・父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

 あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。

 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。

 まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、「帰ってきたよ!」と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。”


 これは、『眠る盃』というエッセイの中の「字のないハガキ」というごく短い短編である。戦争中の向田一家の小さい妹と父とのエピソードを綴った実話である。絵本『字のないはがき』の文を担当した角田光代さん(小説家、児童文学作家)は、文章を書きながら、絵を見ながら、校正をしながら、そのたびに涙が止まらなかったそうだ。

 私は、この掌編は読んだことがなかったが、ジョンという方が2019年6月にアメーバブログに投稿された文を読んで、知ることができた。

 もう一つ。向田邦子と台湾とのつながりを書いている人がいる。木下諄一という小説家にしてエッセイスト。彼は、会社経営のあと一時台湾観光協会の雑誌の編集長をして事がある。彼が、2017年に「あれから36年、向田邦子のこと」という一文を投じている。

 (台湾での向田邦子)
 ”ぼくは数年前から8月になると、新聞や雑誌で向田邦子に関する記事を書いてきた。また、彼女の作品を取り上げた読書会も何度か行っている。それは、こうした機会を通して、多くの人たちに向田さんのことを知ってもらい、彼女の作品に触れてもらいたいと思うからだ。

ところで、これら一連の活動を行う中で、実はぼくが思っていた以上に台湾には向田作品のファンがいることが分かった。例えば新聞で記事を書くと、読者からメールが来ることが多い。彼らはみんな向田作品のファンで、中には事故現場まで足を運んだ人もいた。

現在、台湾でも数冊の向田作品が出版されている。『父の詫び状』、『眠る盃』、『思い出トランプ』、『隣りの女』、『あ・うん』のほか、『阿修羅のごとく』などテレビドラマの原作版もある。こうした作品が40年近い時間を経て、台湾で出版され、しかも確実にファンを増やしていることは向田作品の一ファンとしてもうれしい限りだ。

さて、ここで一つ不思議に思うことがある。向田作品は「昭和」のエッセンスが色濃く含まれているが、当時の日本、当時の日本人の家族について、どうして台湾の人たちは知っているのだろうということだ。そこで、知り合いを何人か集めて読書会を開き、質問してみた。すると、意外なことに気付いた。

若い世代は別にして、四十代以上では多くの人が「昭和」と共通する感覚を持ち合わせていたのだ。「お父さんは怖かった」とか、「家族がみんな一つの部屋で寝てた」とか、当時の日本と同じような体験があるというのだ。それに作品の中に登場する小物。給食に出て来る牛乳瓶とかブリキのバケツとか、こういうものは実際に使ったことがある人も少なくなかった。さすがにこれは知らないだろうと思って「縁側」を聞いてみると、「あそこに座ってスイカを食べるんだよね。庭に向かってタネをぺっと吐いたりしながら」、と言った。

どうしてそんなことを知ってるんだ。あり得ない・・・。彼らが「縁側」を知ってたのは『クレヨンしんちゃん』とか『ちびまる子ちゃん』とか、アニメの中で見たことがあるからだった(台湾の人たちに疑似体験をさせてしまうとは、日本のアニメ恐るべし・・・)。

向田作品をさらに深く理解してもらおうと、今年ぼくは少人数制の文学講座を開くことにした。”

 ということで二つほどの例を上げたが、私自身はどうかと言うと、向田邦子のエッセイなどに、それほどの深みは感じない。五木寛之と塩野七海の対談『おとな二人の午後』などを読んでいると知的好奇心を掻き立てられるし、語られている主題について、深堀りしてみたくなる。しかし、向田邦子のエッセイや小説には、そういうものは望むべくもない。ただ、読んでいると彼女の人間を見る目の暖かさのようなものを感じて、心が惹かれるのである。

 
 向田邦子が幼少期を過ごした鹿児島市にある「かごしま近代文学館」では、工夫を凝らした企画展を毎年のように開き、向田さんの魅力を発信し続けている。若者の来館も増えつつあり、学芸員の井上育子さん(44)は「働く女性の先駆けで、繁忙な毎日を送りながらも軽やかに生きる姿に人生のヒントをもらう人も多いのでは」と語る。向田邦子は、東京で生まれ、10歳で鹿児島市に移住。約2年間、戦前の穏やかな時を家族と共に過ごした地を「故郷もどき」と表現し、51歳で飛行機事故で亡くなるまで生涯愛し続けた。文学館では作品や原稿のほか、向田家から寄贈された遺品など約1万2千点を保管する。ここを訪れる人もおおく、未だに向田ファンが生まれている。


(向田邦子のプライベートなこと)

 向田邦子には、あまり人に知られていない事がある。乳がんになり手術をしている、手術そのものは、成功したが、輸血による血清肝炎になり、右手が使えなくなっている。それでも左手で原稿を書いた。

 彼女が、20歳代後半のころに、妻子ある人と道ならぬ恋に落ちた。13歳年上のカメラマン。ところが、10年くらい経った頃に彼(N氏)は、体調を崩した。向田邦子は、仕事の合間をみて家庭内別居をしていた彼のマンションを訪れ、あれこれ世話を焼いていた。それからしばらくして、N氏は脳卒中で倒れ、足が不自由になって動けなくなった。そして彼は、自身の不甲斐なさから命を絶ったと言われている。その時のことを妹(三女)の和子さんは、次のように言っている。

  ”姉は整理たんすの前にぺたりと座り込んで、半分ほど引いた引き出しに手を突っ込んでいた。放心状態だった。見てはいけないものを見てしまった、とっさに思った。「どうしたの?」と声もかかられない。・・・ここまで憔悴しきった姉の姿をみるのは初めてだった。”

しかし、向田邦子は乳がんのことも恋人の死のことも、一切外に言っていない。そういう人であった。


(向田邦子の料理)

 今度は楽しい話をいたしましょう。エッセイ『女の人差し指』の中で、向田邦子はこんなことを云っている。

  ”私は、仕事にはまったくの怠け者だが、こと食べることにはマメな人間で、お招(よ)ばれ、ということになると前の晩から張り切ってしまう。お招きの席がフランス料理らしいと見当がつくと、前の晩は和食にする。締め切りの原稿はおっぽり出してもよく眠り体調を整える。”

 要は食べることが好きで、それが高じて「ままや」という料理屋までひらいてしまった。店主は、妹の和子さんだが、実質のオーナーは邦子さんで料理に口も出す。以下は、『女の人差し指』の中で、「ままや繁昌記」として記されている。

 ”(ままやのこと)(向田邦子が、親のうちを出て15年、)ひとりの食事を作るにも飽きてきて、おいしくて安くて小綺麗で、女ひとりでも入れる和食の店はないだろうか、と切実に思った。吟味されたご飯、煮魚と焼き魚、家庭のお惣菜、できたら精進揚げの煮付けや、ほんのひと口、カレーライスなんぞ食べられたらもっといい。そう考えて、向田邦子は妹の和子を抱き込んで、赤坂に店を作ってしまった。カウンター八席、四人がけのテーブル席二つ。従業員は妹と板前とあと三人。社長は妹の和子、邦子は重役で黒幕兼ぽんびき・・・。1978年5月のことであった。

 案内状の文面。
”「おひろめ
 蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで、おしまいにひと口ライスカレーで仕上げをするーーついでにお惣菜のお土産を持って帰れる。ーそんな店をつくりました。赤坂日枝神社大鳥居の向かい側通りひとつ入った角から二軒目です。店は小造ですが味は手造り、雰囲気とお値段は極くお手軽になっております。 ぜひ一度おはこびくださいまし。”


 ~1978年5月の開店であるから、私がちょうど赤坂見附で会合に出ていた頃。日枝神社の大鳥居はおなじみの場所であったが、当時は、まだこの店のことは知らなかった。(火災事故を起こしたホテルニュージャパンのすぐそば)
 ままやは、文人墨客はもちろんのこと、文字通り繁盛したようである。値段は高くはないし、気楽に食事を楽しめて、いろんな人との出会いもあって、そして時折は”黒幕”にも出会えるというわけだ。

          

向田邦子が没して17年目。1998年3月末、惣菜・酒の店「ままや」の暖簾はたたまれた。


(『向田邦子の手料理』から )

 和子さんが書いた『向田邦子の手料理』には、向田邦子さんの作った料理の数々が満載されている。この本は、私の愛読書でもある。時にはこれを読んで舌なめずりをしながら、厨房に立つこともある。ノンフィクション作家の澤地久枝さんは、向田邦子とは同年。若い頃からの戦友である。その彼女が、「思いやり」と題して『向田邦子の手料理』に、次のような文を寄せている。

 ”この本に登場しないという手料理の一品は、仕事を持つ女には便利なつくりおきの品の一つ。材料は、ししとう。三パックくらいを一度に使う。なるべく上等のゴマ油を適量熱して、ししとうを炒める。特級酒と水をひたひたにし、薄い醤油味にして弱火で小一時間煮て出来上がり。酒のつまみ、ご飯の箸休めとして好適。”

”夏には、そうめんを茹で薄めたつゆをはって、細かく刻んだ青じそと梅干しの梅肉をつぶしたものを混ぜた。「食欲ないの」と云っていた私がぺろりと平らげ、向田さんは大喜びだった。極細のスパゲッティをかために茹で、フライパンに多めのバター、きざみにんにく、そこへ熱々のスパゲティを移して青じその千切りを手早く混ぜ合わせ、塩・胡椒して、醤油を少々の一品。包丁さばきの見事な人であった。手早くでき、決して高価でなく、一瞬の芸術のように登場したあの手料理たち!”


 前置きはさておき、この本に紹介されている料理の中から、私の興味を引いたものを、いくつかご紹介することにしたい。

 「いつものおかずで、気張らずおもてなし」向田邦子は、よく人を招いた。気張らず、いつものおかずーだからこそお客の方も気持よく、楽しく、足繁く向田さんちを訪れた。不意の来訪にも、心尽くしの品が並んだ。寒い夜訪れたお酒が飲めない来客には、熱いほうじ茶と冷蔵庫に作り置きしておいた「さつま芋と栗のレモン煮を、夕食を食べはぐれた若いディレクターには、ありあわせを工夫してお腹のたしになるものを・・・。

 <さつま芋と栗のレモン煮>  (写真)
 レシピ: 
 (材料)さつま芋、栗の瓶詰め、レモンの輪切り適宜。砂糖、みりん少々。
 (作り方)①さつま芋は皮を剥き、幅1センチくらいの輪切りにして、水によくさらす。②鍋にたっぷりの水とさつま芋を入れ、水からやや固めに茹でて、茹で汁をすてる。③②の鍋に栗の瓶詰めを汁ごと加える。甘みが足りないとき 
        は、砂糖、みりんで調味する。④③に紙蓋をして、弱火でことこと静かに煮含める。冷たくしてから食べると美味しい。

 <みそ豆>   
 レシピ:
 (材料)大豆カップ二分の一。するめ二分の一枚。人参、ごぼう各一本。れんこん少々。ごま油適宜。甘みそ400グラム。砂糖200グラム。酒カップ1。
 (作り方)①大豆は、から鍋に入れ、弱火で香ばしく煎る。するめはよく焼き、細く小さめに割く。人参、ごぼうはささがきにして、蓮根は小口から薄切りにし、小さく切る。②フライパンにごま油を熱し、①の材料を加えて、炒める。
       ③別鍋に甘みそ、砂糖、酒を入れてよく混ぜ合わせる。炒めた材料を加えて中火にかけ、もとの味噌の固さになるまで練る。

          



 「器狂い」 ”車を持たず、腕時計、電気洗濯機、ピアノ、夫、子供、別荘、なんにも持っていない・・・”(『霊長類ヒト科動物図鑑』「虫の季節」』向田邦子は持とうとしなかったのである。しかし、器には執着した。熱中した。日々の暮らしを何よりも大切にし、愛すればこそである。 

            

 <ピーマンの焼き浸し>肉厚で大きめのピーマンが入ったら毎日でも作りたくなるおかず。炒めるより、焼くのが一番早い。
 レシピ:
 (材料)4人分。ピーマン6個。糸削り節、揉みのり適宜。しょうゆ、大さじ1。出し汁か、酒大さじ3。
 (作り方)①ピーマンは縦ふたつに切り、へたと種をとって焼き網に載せ、中火で表裏をしんなりする程度に焼く。②しょうゆと出し汁か酒をあわせる。③①ピーマンを横千切りにし、②の調味料をかけて、削り節であえる。④食べる直
       前に器に盛り、もみのりをかける。出し汁とかつを節であえてから、冷蔵庫で冷たくすると、味がしみてお弁当のおかずなどにいい。

         

 <ほろほろ卵>  ちょっと下世話で、なんとも懐かしい味。お箸でつまみにくので、サラダ菜で包んでどうぞ。
  レシピ:
  (材料)4人分。卵6個。バター、大さじ1、ウスターソース大さじ3、サラダ菜1株。
  (作り方)①フライパンを熱し、バターを溶かし、溶いた卵を入れて煎り卵状にし、ウスターソースをからめて、香ばしく炒りあげる。③サラダ菜に包んで、冷めても美味しく、お弁当のご飯の上にたっぷりまぶすもよし。
                                


 <野菜のごまみそ> ほかほかご飯に。薄味の卵焼きにつけて食べるのも美味しい。(
  レシピ:
 (材料)にんじん、ごぼう、蓮根各適宜。塩・酢少々。白ごま、出し汁、田舎みそ各適宜。調味料(みそ10に対して、酒9,みりん、しょうが汁各い1と二分の1の割合。
 (作り方)①にんじんは皮を剥き、5ミリ角くらいの薄切り、ごぼうは皮をこそぎ、にんじんと同じくらいに切って塩水につけ、アク抜きする。蓮根は、薄く皮を剥き。にんじんとおなじようい切って、酢水のにさらす。
           ③白ごまは煎り、乾いたまな板で刻む。④鍋に①のにんじん、②のごぼう、蓮根を入れ、出し汁をひたひたに加えて、中火で煮る。野菜が少し柔らかくなったら、野菜の分量の三分の一のみそを加え、酒。みりん、し
            ょうが汁を加えて、時々混ぜながら、弱火で煮詰める。汁けがなくなったら、ごまを混ぜる。

      
   

 酒の肴のきわめつき、と題して『女の人差し指』の中で、向田邦子は、次のように言っている。

  ”父が酒呑みだったので、子供の時分から、母があれこれと酒の肴をつくるのを見て大きくなった。・・・酒呑みはどんな時にとんなものを喜ぶのか、子供心に見ていたのだろう。・・・酒のさかなは少しづつ。間違っても、山盛りにしてはいけないということこのとき覚えた。出来たら、海のもの、畑のもの、舌ざわり歯ざわりも色どりも異なったものがならぶと盃がすすむのも見ていた。

      


 気配りの酒席 ”酒がすすみ、話がはずみ、ほどたった頃、私は中休みに吸い物を出す。これが自慢の海苔吸いである。(『夜中の薔薇「くらわんか」・・・これは、食べることが好きな向田さんらしいエッセイ。)

   

  レシピ:のり吸い。
  ①出汁は昆布であっさりと取る。出しをとっている間に、梅干しをちいさいものなら一人一個。大なら二人で一個の種をとり、水でざっと洗って塩けをとり、手で細かくちぎる。②わさびをおろす。③海苔を炙って、
   もみほぐす。一人二分の一枚。③なるべく小さいを椀に、梅干し、のり、わさびを入れ、熱くした出し汁に、酒と、ほんの少量の薄口じょうゆで味をつけた吸い地を張る。

<サーモンと玉ねぎのグレープフルーツあえ> 
  レシピ:
 (材料)スモークサーモン6枚、 玉ねぎ小一個。、グレープフルーツ二分の一個。塩少々。
 (作り方)①スモークサーモンは、食べやすい大きさに切る。②玉ねぎは、薄い輪切りにし、盆ざるに広げて薄塩にする。③しばらくして、しんなりしたら、水洗いし、水けをよく拭く。④グレープフルーツは、袋から身を出し、食べや
   すい小切りにして半つぶしくらいにして、サーモンと玉ねぎを加えて混ぜ、器に盛る。

           

 実際作ってみて、これは酒のあてにいいと思った。酒は、やや辛口の日本酒か、白ワインのミュスカデなどに合うおすすめの逸品。


     

(多磨霊園に眠る)木槿忌
 1981年8月22日、向田邦子はその生涯を突然閉じた。

        

 その霊は、東京都武蔵小金井にある多磨霊園に眠っている。たまたまのことであるが、私の本家である高橋の家も、また母方の速水家のお墓もここにある。そこから、そう遠くないところに向田邦子のお墓がある。墓碑には、森繁久彌の言葉が刻まれている。

 「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」


 ある人、いわく向田邦子は天性の劇作家であった、と。多分、そうであろう。そして、これほど多くの人に愛された人は、あまり知らない。ちなみに木槿忌という言葉は、向田邦子を高く評価していた山口瞳が、そのエッセイ『木槿の花』のなかで提唱している。山口瞳は、彼女のことを戦友と呼んでいた。

    
     
      ~~~~~終わり~~~~~


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エッセイ 哲学とはなんだろう

2020-06-24 | 日記・エッセイ
エッセイ 哲学とはなんだろう
            (写真は、北海道美瑛の農園にある哲学の木)

 今を遡ること50年前、縁あってアメリカはペンステート(ペンシルベニア州立大学)の校庭にいた。樹々の紅葉が美しい晩秋の頃であった。受付のところで、”Continuing Education” という掲示板の言葉が目に入った。初めは、なんのことか分からなかったが、すぐ成人教育(大学を卒業しても学び続ける)の案内であることが分かった。以来、「教育」という言葉が心の中に残っている。

 ところで最近、哲学者鷲田清一さんの本を読み返してみた。本の出た2013年には、鷲田さんは大阪大学名誉教授。錚々たる哲学者である。しかし鷲田さんはその著『京都の平熱』にあるように、平易な言葉で哲学を語っている。とは云っても、私には哲学の何たるかは、まったくと言っていいほど分かっていない。詩人工藤直子さんの詩「てつがくのライオン」の中のライオンのようなものである。

     ~~~~~~~~~~~~~

 ”ライオンは『てつがく』が気に入っている。かたつむりが、ライオンというのは獣の王で哲学的な様子をしているものだと教えてくれたからだ。きょうライオンは『てつがくてき』になろうと思った……

 「てつがく」というのは坐り方からして大事だというので、いろいろ工夫する。尾を右にまるめたので前肢を重ねて顔を右斜め上に向ける、すると遠くに風に吹かれる梢が見えた。だれも来てくれないのでもう帰ろうかと思っていたら、かたつむりがやってくる。

「やあ、かたつむり。ぼくはきょう、てつがくだった」
「やあ、ライオン。それはよかった。で、どんなだった?」
「うん、こんなだった」

ライオンは、てつがくをやった時のようすをしてみせた。さっきと同じように首をのばして右斜め上をみると、そこには夕焼けの空があった。

「ああ、なんていいのだろう。ライオン、あんたの哲学は、とても美しくてとても立派」

「そう? …とても…何だって? もういちど言ってくれない?」
「うん。とても美しくて、とても立派」

「そう、ぼくのてつがくは、とても美しくてとても立派なの? ありがとうかたつむり」

ライオンは肩こりもお腹すきも忘れて、じっとてつがくになっていた。”


     ~~~~~~~~~~~~~

「てつがくのライオン」では、困るので、鷲田さんの本『人生はいつもちぐはぐ』哲学エッセイ)を読み返した。そこから、主に教育や教養教育に関連してくるところを拾ってみた。また宗教学者の山折哲雄さんとの対談について紹介している記事が見つかったので、それにも触れることにした。「哲学」を考える一助になるでしょうか?


(信頼の根~伝えると言うこと)

 以前にも、このブログで取り上げたことがあるが、同様に鷲田清一も、「胸がいっぱいになるほど感じ入った」としてここに紹介している。劇作家であり美学者でもあう山崎正和が敗戦後の満州で受けた教育のことである。

 ”外は零下20度という風土の中、倉庫を改造した校舎は窓ガラスもなく、不揃いの机と椅子しかない。敗戦後の満州の中学校の暗い仮設の教室のことである。引き揚げが進み、生徒数も日に日に減る中で、教員免許も持たない技術者や、ときには大学教授が毎日、マルティンルターの伝記を読み聞かせたり、中国語の詩(漢文ではない)を教えたり、小学唱歌しか知らない少年たちに古びた蓄音機でラヴェルの「水の戯れ」やドヴォルザークの「新世界」のレコードを聴かせた。そこには、「ほとんど死にもの狂いの動機が秘められていた。何かを教えなければ、目の前の少年たちは人間の尊厳を失うだろうし、文化としての日本人の系譜が息絶えるだろう。そう思った大人たちは、ただ自分ひとりの権威において、知る限りのすべてを語り継がないではいられなかった」

 そしてここに見られる「文化に対する疼くような熱情、ほとんど生理的に近い欲望」こそ、今の日本の教育に欠けているものではないかというのである。
 この文章にふれた時、私(鷲田清一)は教育というものは、「教える」というところからではなく、「伝える」というところから考えるべきだという思いを強くした。・・・「何を伝えたいのか」「何かを伝えなければならないのか」、それをおのれの胸に問うてみることこそ、教育の第一歩だと思いである。

 ~私自身の高校生活を思い返すとき、そのような熱い思いで教えてくれた教師(たち)が、何人かはいたが、今では単なる知識の切り売りしかしていないような気がする。


(幸福への問い)

 鷲田は、幸福は失ってはじめて、それと気づく。幸福への問いは、得たものの多さではなく失ったものの大きさに気づくことによって深まるものと言えそうだ、と言い、次のようなフランスでの一例を紹介している。

 ”上級公務員のためにつくられたフランスの行政大学院では、幸福への問いもふくめて人生の、社会生活の、最も基本的なことがらを問うという目的で、「哲学」の学習と論文執筆を義務づけていると耳にした事がある。なかなかにまっとうな教育方針だと思う。公務員とは一人でも多くの市民が幸福になれるような社会を目指して公共世界の安寧のために尽くす職業であるとすれば、幸福であるとはどういうことか、よき社会とはどのようなものかについて、見識のない人に行政を任せることほど危ういことはない。だからそういう公務に就く人には哲学の学習を課す、これは考えてみれば、あまりに当然のことである。・・・常に公共のもの全体に目配りする「教養」というものの育みこそが教育の柱とならねばならないのではないか。”・・・・詳しくは後述する。

 ~フランスでこのような教育が行われているとは、まったく知らなかった。とてもいいことだと思い、日本も見習うべきかと考える。しかし、大学での基礎研究を軽視し、企業に役に立つ研究を大学に要求する今の日本政府のありさまでは、「哲学」の勉強などカリキュラムには取り入れられないであろう。 上級公務員だけではなく、高校や大学でも「哲学」を学ぶべきではないか。



 これまで、哲学エッセイを見てきたが、本当の「哲学」とはどのようなものであろうか? 実際に高校や大学生活を通して哲学の勉強をしたことがないので、未だその知見もない。『マズローの心理学』を読むと、「人間の哲学が変わるとき、あらゆるものが変わる」という言葉が出てくる。私なりの解釈は、この場合の「哲学」とは、物の考え方や、人生についての取り組み方を指しているように思う。たとえば、物事をいつも悲観的に捉えるか、あるいは楽観的にとらえようとするか、それによって長い人生の様相が変わってくるのではないだろうか。 また、物事や他の人間を、いつも好意的にみるか、あるいは絶えず批判的に見るかにによっても、人間関係の構築に違いが生じてくるであろう。

 さて、「哲学」というと、すぐカントの「純粋理性批判」やヘーゲルあるいは、フォイエルバッハの名前を思い出す。しかし、それらを学んだこともなければ、それらの著作を読んだこともない。また私の理解の限度を越えている。
フランスの行政大学院で学ぶ「哲学」は、どういったものか見当もつかない。ここに鷲田さんと宗教学者の山折哲雄さんの対談があるので、ご紹介したい。


(日本人の教養と、根強い西洋コンプレックス)

 鷲田:もうひとつ、これは東大の苅部直教授が言っていましたが、戦前の教養主義の教養はすごくドイツ的で文化偏重の教養。だからデカンショ、ゲーテ、シェークスピアといった話になってくる。「文明」に対する「文化」(クルトゥーア)の偏重です。

それに対しフランスでは、市民教育の一環としての教養がすごく大事にされていて、教養教育の主眼は、市民としての成熟(シトワイアン)、よき優れた市民になることに置かれています。日本の教養主義の中には、そうしたフランス的教養というものがあまりない。今でも、フランスに行ったら高校で哲学の授業をやっていますし、行政のプロを養成する大学院でも哲学論文が必須となっています。

彼らにとってはよき市民をつくる、その人たちからよき政治家を生み出すという意味で、政治的な手法なども含めて教養だという概念が浸透しています。だから、フランスの政治家はシラクもそうですけれども、ものすごく教養があるじゃないですか。日本についても詳しいですし。


 山折:日本の教養主義は、ドイツ的な教養だけを一方的に取り込んでしまった面があります。

 鷲田:それが戦後にもそのまま引き継がれています。教養の概念は戦前と戦後では全然違いますが、だんだん「知識としての教養」になっていったという意味では、連続性があるような気がします。「お前、あの本読んだか?」という感じでしょう?

 山折:「読んでいる、読んでいない」「知っている、知らない」というのがコンプレックスの原因になってしまう。つまらない競争をやっていたものだと思いますよ。

非常に誇張した例ですが、外交交渉の場で、日本と欧米の外交官の教養の差が歴然と現れるとよく言われます。日本の帝国大学の法学部を出た外交官は、法律しか知らない。一方、イギリスやアメリカの外交官は、法律のほかに文学、哲学、芸術の世界を知っている。これでは勝てっこない。知識として受け入れているだけでは、外交交渉の修羅場ですっとその言葉が出てこない。経済的な問題を議論しているときに、自然とシェークスピアや聖書の一節が出てくると強いですよ。

 鷲田:それは、権力ではなくひとつの権威になりますね。

 山折:知的権威と言ってもいいでしょう。日本にも、明治時代には、万葉集や源氏物語や方丈記の言葉をすっと出しながら、外交交渉に臨む外交官がいたかもしれない。小村寿太郎は、そういう身体化された教養をバックにしていたような気がします。教養の欠如に加えて、日本の外交官は専門性もあまり感じられない。

 鷲田:日本の外交官は、いちばんエリートは大学中退でしょう。大学時代に試験に合格して、そのまま大学を辞めてしまうので学位がない。それに対して、海外の外交官はほとんどが博士号を持っています。ある中退組の外交官が「あれは格好悪いし、恥ずかしかった」と言っていました。

 山折:学生のうちに、試験に受かって官僚になるのは秀才かもしれないけれども、教養を身に付ける時間はないわけですよ。すぐ専門的な技術を身に付けないといけない。

 鷲田:そして何より、ドクターを取る過程で体にしみ付く身体知がある。いろんな物を読んで、ああでもないこうでもないと考えながら論を組み立てて、長い論文を書くトレーニングを積んでいるかどうかで、大きな差が出ます。


(フランスではなぜ哲学が必修なのか)


 鷲田:もうひとつ面白い話をしますね。
1980年代に、フランスの高校で哲学の勉強をどういうふうにやっているかを調べたのですが、文系の大学に進む子は週8時間哲学の授業を受けていました。フランスには、ずばり哲学という名前の授業があります。

 山折:それはリセ(フランスの後期中等教育機関。日本の高校に相当)の話 ですね。

 鷲田:はい、リセの最終学年です。週8時間ですよ。理系の大学に行く生徒でも、週3時間哲学が必修になっていました。

当時の政府が、一度、哲学の授業を選択化しようとしたのですが、哲学者を中心に猛反対が起きて撤回させられたそうです。今でもリセでは哲学の授業が必修で、高校でも分厚いテキストを使っています。
そして、フランス国立行政学院(ENA)という、高級官僚や政治家のほとんどが出ている大学院があるのですが、その卒業条件の中には、哲学論文の執筆が含まれていると言われます。

一度、フランス人の知り合いに「なんで高級官僚や政治家になるのに、哲学の論文を課しているのですか」と質問したら、相手はなんでそんなことを聞くのかという顔をして、こう答えてくれました。
「政治家の仕事というのは、少しでも多くの人が幸福感を持てるようなよい社会を作ることにある。社会がよいというのはどういうことか、人にとって幸福とは何か、についての定見を持っていない人間が政治家になったら、大変なことになってしまう」

あまりにも当たり前のことを言われて、質問した自分が恥ずかしくなってしまいました。

 山折:それは、そのとおりですな。

 鷲田:あまりにもそのとおりでしょう。哲人王とかそういう話ではなくて、まさにシトワイアンとして教養。

 山折:その教養の基礎となるものを考え続けると、その考えたことを文章化、表現する力は、哲学の最も大事なベースでしょうね。

 鷲田:日本の高校「倫理」社会の授業でも、世界の4大文化や孔子やイエスやソクラテスを取り上げますが、それぞれの地域の思想史といったかたちで、その教説をじっくり知識を考えさせ、教えるわけではありません。

ところが、フランスの哲学の授業には問題集があって、「心と体の関係は?」「人は絶対嘘ついたらいけないか」といった、問いのバリエーションがたくさんあります。そして、その問題集に資料集が付いていて、「この問いに関してデカルトはこう言っている」というふうに、古典も同時に勉強できるようになっています。そういう意味では、日本よりもはるかにましな知識の教育もやっています。


     ~~~~~~~~~~~~~

 フランスの哲学教育の現状を見てきたが、日本に於ける哲学の歴史、ありさまを垣間見ることにする。

 『物語「京都学派」』(竹田篤司 中公叢書 2001年10月)という本がある。東京大学では印度哲学(いんてつ)という講座があり、紀野一義もここで学んでいるが、それは印度の仏教哲学である。哲学科というものがあって、西田幾多郎、田辺元や九鬼周造を輩出しているが、日本独自の哲学はないように思う。では、西の京都大学ではどうか? 大正年間に至り、西田は京都帝大に移った。そして田辺、朝永、さらには波多野精一らがいて京大哲学科が門出した。田辺は田辺哲学を打ち立てるに至った。残念ながら、私の頭では、その中身を理解するには至らない。ところで、海外で西洋人に最も深い影響を与えたと言われるのは、これらの人間ではなく鈴木大拙と言われている。しかし、彼は禅の思想を伝えているのであって、多分フランスで言うような哲学ではない。

 では、日本独自の哲学あるいは哲学的思想はないのだろうか?いや、正法眼蔵という独自の哲学があるのではないか。きわめて難解だと言われており、なかなかとっつきにくいかもしれない。しかし、『全訳 正法眼蔵』(中村宗一、誠信書房 1972年)と『正法眼蔵』(現代訳 石井恭二 河出書房新社、1996年)が刊行され、原文と現代語訳と注釈がためらわずに読めるようになった。道元の思想は、デカルトを超え、ハイデッガーに対比しうる存在論、時間論および現代の西欧哲学に重大な示唆を与える言語論などがあって、哲学書として見過ごすことはできない。大半は、悟りとはなにかということに集中しているが、下記の二つの例に見る如く、人間と人間のかかわりについての重要な論議があり、「現代哲学」としての意義も深い。 ぜひ、哲学の勉強の中に取り入れて欲しい。

 
「発菩提心」(ほつぼだしん)・・・以下は、原文のまま。

 菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。

 注)ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』にも出てくるが、河の渡守は、人をこちらの岸から彼岸に渡し続ける。自分が彼岸に渡ることはない。

 発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり。これを発菩提心といふ。

 衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。

この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙(こ)すればみな黄金となり、大海をかけばたちまちに甘露となる。

 ~リセの公務員ではないが、民のために働くことを、ということを暗示している。



「菩提薩た四摂法」(ぼだいさったししょうほう ”た”は土偏に垂水の「垂」
 愛語といふは、衆生をみるにまず慈愛の心をおこし、顧愛の言語(ごんご)をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語をほどこすなり。愛語を好むよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存せられんあいだ、このんで愛語すべし。
 
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。 むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(しゅうじ)とせり。。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。


 ~お互いが愛語をかわしあうことによって、人間関係も相通ずるものになり、またこの精神は世界平和に基礎にもなりうるのである。

     ~~~~~~~~~~~~~~


(哲学を学ぶべきか?)日本の高校や大学でも哲学の勉強を教えるべき、と思う。しかしながら、

 それは難解な哲学思想ではなく、物事の本質を洞察し、その問題を解き明かすための考え方を身につける営みであろう。このことについて、苫野 一徳
(とまのいっとく、熊本大学准教授 哲学者)は、私たちにもわかるような言葉で説明している。


 ”たとえば教育について考えてみよう。もしも私たちが、その本質について十分な共通理解を持っていなければ、教育論議は、それぞれがそれぞれの“教育観”をぶつけ合うだけの、ひどく混乱したものになるだろう。実際、ちまたの教育論議は、激しい対立に満ちている。

その意味でも、哲学が「そもそも教育とは何か?」と問うことは、とても大事なことなのだ。もちろん、哲学者でなくても、「教育とは何か?」と考えることはある。でも、こうした「そもそも」を考えるための“思考法”を、2500年もの長きにわたってとことん磨き上げてきたものこそが、哲学なのだ。だから、私たちがその“哲学的思考法”を身につけているといないとでは、思考の深さと強さにおいて圧倒的なへだたりがある。”

“本質”をとらえる
 そんなわけで、哲学とは何かという問いにひと言で答えるなら、それはさまざまな物事の“本質”をとらえる営みだと言うことができる”


     ~~~~~~~~~~~~~

 ながながと、とりとめもない話をしてきましたが、多少はご理解をいただけたところもあったでしょうか? 私自身は、まだ「哲学」についてよく分かっていません。よりよき理解のために、まずは鷲田清一さんの『哲学の使い方』(岩波新書)を読んでみようと思っています。フランスにおける哲学教育の具体的な内容も知りたいところです。その上で、カントの『純粋理性批判』にもチャレンジしてみたいと思っています。 それから、なんと云ってもヘーゲルの『法の哲学』は読まなければなりません。 あの有名な、”ミネルバのふくろうは迫り来る黄昏に飛び立つ”、という言葉を心底から理解したいと思うのです。

 (余滴)京都にある青課堂(錫製品の店)のウェブサイトでは、「哲学」が語られています。こんな哲学を語るというような店が他にあるでしょうか?

 ”現在、世の中はモノで溢れています。モノ、モノ、モノの中にいると、モノの重要性や価値さえ忘れ、モノから離れて生活したくさえなります。そのモノたちの影には、隠れた文化や伝統、芸術・技術、また関わってきた多くの人々の心があります。私共は良いモノヅクリを心がけるだけではなく、この目には見えない、モノの陰に隠れた部分を大切にし伝えてまいりたいと思います。”

 追記 美瑛にあった「哲学の木」は、畑に傾いてなにかを考え込んでいるように見えるところから、そう名付けられました。ところが心ない写真家(アマチュア)や国内外の観光客たちが、無断で農地に入り込み踏み荒らすので、近年持ち主は思い余って切ってしまったそうです。残念なことです。







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エッセイ わが町東灘

2020-05-27 | 日記・エッセイ
わが町東灘   

 私の住んでいる東灘(区)は、気候温暖にしてまことに住みやすいところである。南は眼前に茅渟の海が広がり、北には六甲の山なみが宝塚から須磨の方まで連なっている。

 ”菜の花や月は東に日は西に” (蕪村)・・・これは六甲山の一角、摩耶山から海のほうを見下ろした時の風景である。

江戸時代は、その菜の花で埋め尽くされているだけの、いわば寒村であったその菜の花を六甲山から流れてくる急流を利用して、水車による菜種絞りによって油をつくり、それが灯の火となった。そのうち、水車を利用して米の精米がはじまり、灘五郷による清酒の生産へとつながっていった。その中心が住吉村である。しかし、町といってもまだそれほど整備されてはいなかった。

 その後、明治も後半になる頃には、大阪あたりから富豪たちが続々移住してきて、いわゆる大富豪村と言われるようになった。そのきっかけをつくったが朝日新聞社(明治12年創刊)の創業者であった村山龍平である。村山は、明治33年(1900年)頃に、当時は六甲山麓の荒れ地であった御影郡家(ぐんげ)に土地を取得し、屋敷を構えた。広さは、数千坪。それまで大阪の高麗橋に住んでいた村山は、その環境のよさに目をつけた。後に一般的になる「都市部で働いて、郊外で暮らす」という考えをいち早く実践したのである。


大阪の商人たちは、あっけに取られたが、これが阪神モダニズムを下支えする郊外住宅地の先駆けとなった。商人たちも続々と村山にならって、この地に別荘や大住宅を構えた。今では、それらの邸宅跡に大きなマンションが建っているが、敷地を囲う石積みの塀が多く残っている。

     

 これより少しあとになるが、東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)の中興の祖の一人である平生釟三郎(はちさぶろう)が、明治38年、大阪・神戸支店長に就任、その後家庭の事情もあり、健康的な住まいを求めて大阪から住吉村に移り住んだ。

 注記)東京海上保険は、今でこそ超優良企業であるが、明治のはじめ華族たちの金禄公債(家禄を奉還するものに産業資金として渡したもの)を元に海上誕生した会社で、初のうちは1割6歩の配当をしていたが、傘下のロンドン支店での大赤字などで本社経営にとって累卵の危うき事態に立ち至った。。経営トップがロンドンに渡ったものの複雑なイギリス保険引受業の実態などまったく把握できなかった。この時、東京工商(のちの一橋大学)から入社した各務(かがみ)謙吉と平生釟三郎が、まだ30歳前後。この名コンビは、ロンドンでの事情の調査、把握の後、日本に戻り、重役会で”今後の経営のことは二人に任せていただきたい”との爆弾発言を行った。事後、ふたりの活躍によって再建の礎がきずかれ、次第に優良企業として発展していった。


 当時の住吉村は住吉川に沿う反高林(たんたかばやし)、観音林が開発され分譲が始まった頃だった。そんな折、住吉は優れた住環境があるが教育環境が整えられていないので開発も進んでいなかった。そこで先住の実業家有志で小学校を建設しようということになり、以前兵庫県立商業学校の校長の経験がある平生釟三郎が発起人となり、明治44年甲南幼稚園、次いで甲南小学校が開校した。その後伊藤忠商事の伊藤忠兵衛や安宅産業の安宅弥吉から援助と協力を得て、甲南中学さらには大正12年高校を開設、戦後は甲南大学へと発展していった。

釟三郎は数々の社会事業に尽力し、御影山手に甲南病院も開院した。さらには第一次大戦後の世界的不況で倒産の危機にあった川崎造船所を救い、社長に就任して労使一体で危機に挑み、危機を脱することになった。現在のコープ神戸(生協)の立ち上げにも尽力した。

財界の著名人も平生の誘いで続々と住吉村に移ってきた。ちなみに文豪谷崎潤一郎は関東大震災のあとに関西に移住。住吉川西岸に居を構えた。のちに倚松庵と呼ばれるこの居で「細雪」が書かれた。

 
 現在の住吉は、その中心を清流住吉川が流れ、海に近いところでは鮎の姿も見ることができる。住吉地区を中心とした東灘区には、灘五郷と呼ばれる酒造会社が林立している。菊正宗/白鶴酒造/剣菱/桜正宗/白鷹などがある。 余談になるが、江戸時代から戦前までは、灘の酒は「下り酒}といって珍重された。 東京の神楽坂にある酒亭<伊勢藤>では、白鷹の四斗樽をおいて、そこから五合枡に注いで主人が飲ませてくれたものである。ところが、時代が移り、大量に生産するため外部の酒造メーカーから桶買いをするようになり、灘の酒も品質的には落ちた。そして代わってでてきたのが、十四代を始めとする地酒である。 今は、灘の酒がそれに待ったをかけようと海外進出を図ったり、また高品質の酒を出すようになった。ごく最近では、菊正宗が「百黙」(ひゃくもく)というネーミングの純米大吟醸酒を出した。まさに満を持して市場に送り出した。今のところ兵庫県限定であるが、さわやかにして、まことにうまい酒である。
     
       

白鶴酒造七代目の嘉納治兵衛が建てた白鶴美術館には日本などの古美術品が数多く収納されている。また山手にある弓弦羽神社は神功皇后が三韓より凱陣のおりに弓矢甲冑を納めて熊野大神を祈念した故事により建てられたもので、神社の背後の豪壮な建物と楠の大木には今も圧倒される。


 毎年五月になると「だんじり祭」が行われる。弓弦羽神社に8基、綱敷天満宮に2基、東明八幡宮に1基。合わせて11基が保存されている。阪神淡路大震災のあと、「御影は一つ」の掛け声のもと、11基が一同に会するパレードが行われるようになった。時には近隣の芦屋、西宮からの参加もあり、これらの山車(だし)が荒れ狂う。老若男女から幼い子どもたちも参加、まことににぎやかである。

       

 住吉地区で忘れてはならないのが、香雪美術館。いち早くから住吉に住んでいた村山龍平は廃仏毀釈によって、日本から海外へ流出しはじめた仏像など貴重な美術品に危機感を覚え、私財をなげうって、国の宝を守ろうと仏教美術の名品を買い集めた。村山が”後世に遺すべき”と収集した美術品を収蔵、公開しているのが香雪美術館である。美術館は村山の邸宅のあった敷地の一部にある。周囲は石造りの塀で囲まれ樹齢数百年の木々に囲まれている。毎年4月初めには、珍しい枝垂れ桃が紅白の花をつける。これを見て、写真に撮るのが私の年中行事一つのである。まさに珠玉の美術館。

   

 もう一つ忘れてならないのが、御影(住吉のすぐ北西)にある<にしむら珈琲>。 まだ子供たちが幼い頃からのお付き合い。 この店は、終戦後まもない1948年に創業者の川瀬喜代子さんが、心に残る思い出づくりの場所を提供したいとの思いから立ち上げたものである。本店は三宮北野にあるが、私が通うのは御影店。 ここで味合う「オペラ」は、好物の一つである。 ちなみに、本店を立ち上げた時に、川瀬はまだ珈琲の淹れ方も知らなかった。この時、京都から「イノダ」の先代がわざわざ出向いて指導してくれたというエピソードが残っている。

さて現代の話。

六甲アイランドは住吉浜を埋め立ててつくった海上第二の文化都市である。できてから、ほぼ30年が経過した。その前例となるポートアイランでの経験と反省を踏まえて造られたのである。そして建築家宮脇檀さんが渾身の力を振るってコンセプトデザインをされただけのことがあって緑が数多く、学校・保育所・病院なの施設も充実していて、若い夫婦に人気のある素敵な町になっている。最近は、西の地区にマンション群が増設され、そのおかげもあって若い夫婦が流入している。朝、小さい子供たちが登校のためにあちこちの通路から続々と湧いてでてくる。こんな光景は、他の街では滅多に見られないであろう。御影山手地区の高級住宅地に対抗する意味で「海の手六甲」とのネーミングが付けられた。背後に六甲山、眼前には大阪湾(茅渟の海)を控え、はるか海の向こうには関空の「りんくうゲートタワーの白い塔がの望まれる。


 六アイの周囲をめぐるシティヒルは、小高い丘にあり、若い人たちも家族連れも、また恋人同士も周囲5キロほどのコースをジョギングしている。私が御影からここへ移り住んだのも、このジョギングコースがあったからである。それまでは、御影から車できてこの町を走っていた。

六アイには美術館もある。それもウオーキングディスタンス圏内に。まずは画家小磯良平を記念してつくられた小磯記念美術館。小磯の作品は常時展示されているが、その他に特別展が開かれる。昨年秋の「黄昏の絵画たち」は、このブログでご紹介した。もう一つは、神戸ゆかりの美術館。川端謹次画伯、川西英画伯や西村功画伯、亀高文子などの絵が飾られている。

     

 六甲アイランドは緑が多いと書いたが、むしろ緑の中に住宅群があるといっても差し支えないだろう。くすの木、ユリノキ、楓、大島桜、けやき、プラタナス、百日紅、花梨、ライラック(リラ)などなど。それらが、あちらに一本こちらに一本ということではなく、通り全体に植えられていて壮観である。春になって新芽が出る、また紅葉するのを見るのは楽しみである。

 町の中心部にはリバーモールという水が流れているところがあり、またバラ園もある。ボランティアの人たちのおかげで、五月になると黄色、白、赤などの薔薇が花をつける。タリーズのオープンテラスに座って、それを眺めるのは至極のひととき。



家のベランダから大阪湾が見える。真南には関空のゲートタワー。その左は紀淡海峡。ベランダには、小鳥もやってくる。ムクドリが多いが、時には白セキレイも。リバーモールには、住吉川の鴨も飛来する。何も言うことは、ない。こんな住環境をデザインしてくれた建築家の宮脇檀(まゆみ)さんに、感謝の意もこめて『最後の昼餐」と題する彼のエッセイの中の一文をご紹介させていただく。


          

 ”突然暖かくなった四月の日曜日、テラスで久しぶりに食事をする。体力がまだないから作りたい気力はあるがやはりスープストック以外はパートナーに作ってもらっての昼餐。うららかな陽、青い空、白い雲。真っ白な雪柳。パスタと白ワイン、サラダ。こういう時間と食事がまた持てるようになったという状態が嬉しい。これが最後の晩餐であってもよいと本気で思った” (1998年10月に亡くなられた)


なんだか東灘のことから脱線してしまいました。ご容赦ください。 東灘全体もいい、でも六甲アイランドはもっと好き!

   ”うみやまのあはいにありて星涼し”




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