(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

予告編

2024-05-31 | 料理
諸事情により、「不倫という問題」の記事は、削除いたします。
次回の記事は、”セルリアンブルーという色”、あるいはゆらぎの夏の日々を描く
「緑陰漫筆」を掲載する予定です。しばらくお待ちください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「不倫」という問題について

2024-05-28 | コラム
 今回の記事は、長文になります。適宜、適度に読み飛ばしてください。

 今回、本ブログで「不倫」の問題を取り上げようと思ったのは、長谷川時雨という人が書いた『近代美人伝(上)』を手にしたのがきっかけである。
長谷川時雨は、劇作家であり小説家。佐佐木信綱に師事、短歌を学ぶ。明治38(1905)年戯曲「海潮音」が『読売新聞』懸賞で特選となる。日本初の女性歌舞伎の作家となり、44(1911)年に『さくら吹雪』が上演され、劇作家として地位を確立する。大正12(1923)年岡田八千代とともに雑誌『女人芸術』を出すも関東大震災のため2号で廃刊。昭和3(1928)年第2次『女人芸術』を創刊し、林芙美子や円地文子等、多くの女流作家を登場させた。 

 この本の上巻には、樋口一葉・川上貞奴・松井須磨子・平塚らいてうなど
9名の評伝が収録されている。念のために言うと、この9名が現代の感覚からいって本当に美人かどうかは、私の知るところではない。そしてこれらの美人伝の中に、芳川鎌子(明治24年~大正10年)という人の名がある。東京府知事・文部大臣・司法大臣・枢密顧問官などを歴任した芳川顕正の四女である。彼女は、子爵曾禰荒助(そねあらすけ)の息子曽根貫治を婿養子に迎えて、結婚。一女をなした。明治17年三月、お抱え運転手の倉持陸助と千葉市内で心中。倉持は即死したが、鎌子は一名をとりとめた。

 著者の長谷川時雨は、30頁以上を割いて、事件の詳細ならびに世間の反応を記している。 長谷川時雨は、世間の轟々たる非難の声に対して、それがあまりにも一方的で、心中しようとした鎌子の側に立って事情を理解しようとしなかった世間の人々の問題の受け止め方について大きな疑問を呈したのである。

(以下に世間の声をいくつかあげて見る)

 この事件は、二人の人間の死を報じたのだが、そのうちの一人が生き返ったのと、その死に方が自殺だったのと、その間に性的問題が含まれていたこと、そして身分位置というものがもたらす複雑な事情があった、その上にその女性が華族の当主の夫人であるという上流階級の出来事であったため、世間の耳目を集めたので、各階級の立場によって解釈され、かつ論じられた。ことに新しい思想界の人々と、古い道徳の見地にたつ人との間には、非常に相違した説を互いに発表したりした。そうした立場の人たちの間にこそ、同情と理解をもって論じられもしたが、その他では、事件は侮蔑と嘲笑の的となった。ことに淪落した女たちは、鬼の首でもとったかのように、得々揚々として、批判も同情もなく、ほとんど吐き出すような言葉であげつらうのを聞いた。

 いうまでもなく、その事件は爪弾きするのも余儀ない人妻の心中事件である。けれどもそれほどの不倫行為と言う人たちが、男女相殺の恋愛の苦悩を述べ嘆き訴えるものには、同情を寄せるのはどうしたものだろう。浄瑠璃に唄われ、劇化され、小説となってその道筋を語るときには納得し、正しく批評し、涙を惜しまない人たちが、何故現実のものに触れると、そうまで冷酷になるのであろう。

 私が不思議でならないことは、昨日あった事柄にあわせて、さもあろうかとの推測をまとめあわせて、早速記事を書いた新聞記者の敏腕に信頼するのはよいが、あまり引き込まれ過ぎて、よくもこう探り出されたものであるかと思うほど明細で、もれなく活字にされるが、それは表面だけの事実ではなかろうか。すくなくともことの真相、死のうとした二人より他に知らない秘密についてはまったくの無言だ。その一人は、絶息し、その一人は死の手からほんのこの世へ取り戻されたというだけの、命も覚束ない重症に呻吟しているおり、その真相が知りうるような訳が無い。(以下、詳細は省く)・・・・このように筆者は今回の新聞報道に多いなる疑問を呈しているのである。

 そのまた、片方には、新聞記事を予審調書にようにして、検事のように論じるものもあれば、弁護士以上の熱弁を振るって弁護するものもあった。いずれも憶測の限りを尽くして、この問題は長いこと社会の興味を引いた。大正6年中の出来事で、一般人の人心に、これほどまで注意された出来事はなかった。で、相共に死のうとした二人の内、どちらが世間の同情を引いたといえば、それは「車の運転手」であった倉持という青年であった。彼は、即死したことに加え相手より身分が低いこともあって、多くの人から同情された。

 では、世間は女性の方に対してどういう解釈をもったか。


世人は、侮蔑と反感を持って、つばをも吐きかけまじき見幕であった。因習に囚われ、、不遇に泣いているような細君たちまでも、無智からくる、他人の欠点を罵(ののし)れば我が身が高くでもなるような眺め方で、彼女を不倫呼ばわりして、そういう女のあったのを女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった。けれどもそういう女たちの中には、卑屈な服従も美徳であると思い違え、恋愛は罪悪だと信じられているからでもある。

 立派な紳士でさえ、”沙汰の限りだ”、という言葉で眉をひそめただけで、彼女に対する一切を取り片付けてしまったのが多かった。

 ことほどさように、世間の声が続くのであるが、この本の著者(長谷川時雨)は、どのように考えていたのであろうか。


 ”私は知らないことを、はっきりと言うだけの勇気は持っていない。また、その代わりに、独断で彼女を悪い女としてしまうことも忍び得ない。私はいつでも思うことであるが、、人間はその人自身でなければ、なんにも分からない。ある点までの理解と、あるところまでの心の交渉はあるが、すべてが自分の考え通りにゆくものでもない。自分自身すら「、心が思うに任せず返って、反対にそれてゆく時のあることを知っている。であるから、推察はどこまでも推察に過ぎない。ゆえに独断は慎まなければならないと思っている。ことに複雑した心理の、気の変わりやすい、動きやすいじょせいの心の奥の解剖はとても不可能だと思っている。

 この鎌子夫人についても、私はその是非をあげつらうのでなければ、その心理の解剖者とのでもない。数奇の運命に弄ばれた一人の美女を記すだけでよいのであるが、もし筆が不思議な方面に走ったとすれば、その当時の彼女へ対するあまり同情のなかった言説が、いつか私に不満を感じさせていたのかも知れない。”

 そして著者は、いまわしい事件の起こりになったことについて、その初めから下記に記している。

 鎌子夫人は、伯爵芳川顕正(あきまさ)の四女に生まれた。鎌子夫人にとっては、参三人の姉がいるが、その人達は皆生家に帰っていて、別に再婚しようともしない。また男子の家督のない家で、長女が外へ出て末女が家を継いでいる、何処となく間違ったところがあるような気がする。そうした家庭の主婦である鎌子の夫は子爵故曽根荒助氏の息で、若く華やかな貴公子たちの間にも名高い派手者で、花柳界に引っ張り凧のお仲間であった。


 鎌子は淑女としての素養はすべて教育された。その上彼女は麗質美貌であり、押し出しの立派な伯爵夫人であった。夫の寛治氏は、彼女も好んで迎えた人であり、五歳になる女の子をさえ儲けていた。夫に対する愛が、彼女にあれば、子を思う誠があれば、そうした間違いがどうしてしでかされようとは、誰も思うところであるし、寛治氏が妻を愛しむ心が深ければ、そうした欠陥が穿たれるはずはないとも思う。しかし人間は生きている限り、わけても女性は感情に支配されやすい。そうした夫妻のい間にすら、こんな事実が起こったのは、何からだと考えなければならない。


 信頼するに足りる当時の記事を書き抜くと、最初は東京朝日新聞の千葉版が次のように報道した。

 ”七日六時五十五分千葉発本千葉駅行機関車に、機関手および火夫が乗組み、県立女子師範学校側を進行中、年若き女性飛び込み跳ね飛ばされ重傷を負ひしより、機関手は直ちに機関車を停めたるに、飛び遅れたる同行の青年はかくと見るや、直ちに同校の土手によりかかりざ短刀にて喉を突きて打倒れたり。届けでにより千葉警察署より、猪俣警部補・刑事・医師が出張。検死せるに、女は左頭部に深さが骨膜も達する重傷を負い苦悶しをり、男は咽喉部の気管を切断し、絶息した。女は、直ぐに県立千葉病院に入院せしめたるが、命覚束なし。

 男は赤靴を履き、頭髪を分けをり、年頃は26.7歳くらいで運転手風の好男子なり。男の外套と女のお召コートの袂(たもと)には、それぞれ遺書一通あり。なお女のコーとの袂には白鞘の短刀を隠しあり。

 以上のような状況を下に本社は各方面に向かって精査した結果、婦人は麻布に住む勲一等伯爵枢密院議長である芳川顕正氏の養子である曽根泰輔氏の実弟である寛治氏の婦人鎌子(二七歳)にして、長女(明子)あり、男は同邸の自動車運転手倉持陸助(二四歳)であることが突き止められた。
列車の機関手は、次のように語っている。

 ”私の列車が進んでゆくと、男女はしっかりと抱き合い、一つになってうずくまっていた。変だなあと思って言いると、件(くだん)の男女はしっかりと抱き合い、一つになって蹲っていたので、へんだなあと思っていると、その男女は抱き合ったまま線路に飛び込み、あわやと思う間に男女共一緒に跳ね飛ばされたが、女は倒れたけれど男はあまり負傷しない様子で女の上に乗りかかり泣きながら、やや高い声で、『貴女一人は殺しません、私も死にますからご安心なさってください』、としきりに女の耳に口をあてて言っていたが、そのうち大勢の人が騒ぎ出しだので、女から離れて土手のところに行って喉をついたのです。生命危篤の彼女は出血多量であったにも命はあることになった。”

~~~~~~~~~~~~~

 この事故についていろんな事が世間では言われた。女流の中では、与謝野晶子氏や、平塚雷鳥(らいてう)氏が、流石な立派な意見だと、うなづかれた。
与謝野晶子氏は次のような意見を開陳された。

 ”しかし夫人がせっかくその肯定するところまで乗り出しながら、愛の肯定はすなはち情死であると言うより以上の思案を見出されなかったことは、なにより残念な不甲斐のないことでした。もし夫人の行為が今ま少し意識的になされたものであったなら、、夫人は古い日本の婦人たちが、これまで少し行き詰まると、いつもすぐ決行したような安易な死を選ばずとも、もっと力強い積極的な態度をもって、愛による新しい生活を創造する事が出来たでありましょう。

 それは勿論非常な困難や苦痛を予想しなければならないことで、そこに並々ならぬ勇気と忍耐力と力を必要とすることは言うまでもありません。しかも全然不可能なことではなかった、と私は信じます。

 しかし醒めたものに望むような徹底を、因習をもって十重二重に縛られた貴族の家庭に、多くの愚かな多くの愚かな召使にかしずかれながら育った夫人に、そしてあの空虚な今日の女学校の形式的な教育より受けていない夫人に期待するのは、無理なのでしょう。”

 そして今回の事件について法律家や、また宮内省でも議論が沸騰した。県警からもいろんな意見が出た。

 また話は逸れるが、いつも男女間の愛とさえ言えば、すぐ劣情とか痴情とか言って、暗々浬に避難の声とともに葬り去ろうという習慣を不快に思うと言い、、これは婦人の感情生活に対してあまりに理解を欠いた態度であり、そうした習慣がいろいろな意味で人間に道徳生活の向上を妨げ、社会によくない影響を与える、とある人は述べられた。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて事件についての様々な見方はさておき、世間一般の見方について考えてみたい。今の世も、人々の「不倫」については、某女性週刊誌などの報道に見られるように不倫については厳しい見方がされている。・・・・

 その前に、現代の不倫小説の代表先として、正確には不倫とは言い難いが、「曽根崎心中(”この世も名残、夜も名残・・・1703年)、また海外では『ボヴァリー夫人』や、『チャタレー夫人』、日本では『失楽園』(渡辺淳一)などがある。。

『失楽園』は、ふとしことから知り合った久木と凛子の濃密な性愛の物語。物語の最後では、二人はセックスの後、相互に結びあった状態で心中死する。渡辺淳一の得意とする性愛の物語。この二人の死について、世間がどのように診たか、それは述べられてはいないが、恐らく上述の鎌子と運転手の死のように、世間の相当に厳しい指弾・批判を浴びたものと推測される。


  しかし、不倫そのものは、そんなに厳しく世間が指弾すべきものなのだろうか?それは当事者及び関係者(家族、親族)などが、批判するようなものであって、世間一般があれこれ指弾するようなものではないのではないか。ましてや某週刊誌のように面白おかしく騒ぎ立てるようなものではあるまい。

 今回は、「不倫」問題に限って述べたが、それに留まらず今日の社会問題、政治問題について、世間はある意味、罵詈雑言というか強烈な批判から中傷を繰り返す。その問題に関する彼らの責任うんぬんにかかわらず、である。そのような状況は、yahooなどの投稿を見ればよく分かる。その場合、彼ら自身が、問題に向き合った時に、どのように対応するのか、触れられていない、いわば無責任な発言をしているのである。
 

 話は変わるが、平安時代に書かれた『源氏物語』は、ある意味不倫物語である。光源氏は、あちこちの女房・女官に手をだす。幼い女の子にも手を出す。挙句の果ては、己の父親の妻(光源氏にとっては義理の母親である藤壺の更衣)に手を出す始末だ!そして藤壺は、光源氏の子を生むに至るのである。なんという破廉恥な!

 余談になるが、某女子大の古代文学の講義の折に、教師はどのように光源氏の不倫問題を説明するのであろうか? いや、この問題はパスしているのであろう。いやパスせざるを得ないのだろう。(笑)
 そして、こんなことは宮中の男どもの話であって、地下人(一般の男女)には、縁のない話である。

 備考)『源氏物語』は、平安時代中期の1008年(寛弘5年)に成立した日本の長編物語。全54帖、

 というような訳で、不倫門題について、あれこれ述べてきましたが、皆さまは、どのように受け止められたのでしょうか?
 
ご参考)
①平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。

しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊した際、その創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。

第二次世界大戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒[2]、2005年(平成17年)に同大学は平塚らいてう賞を創設した。

与謝野晶子については、ご存知の通り。
 
 ”柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君”

 彼女が、結婚する前の事ですから、不倫の話ではありません。いずれ一緒になる与謝野鉄幹に対する歌であります。こんな歌を詠まれたら、男はイチコロですね!

長編を忍耐強くお読み頂き、ありがとうございました!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする