(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

年の瀬のご挨拶

2021-12-22 | コラム
                冒頭の写真は、六花亭の花柄包装紙から(画:坂本直行氏)
ブログ 年の瀬のご挨拶 

 この一年拙文「緑陰漫筆」をお読み頂きありがとうございました。
来年も引き続き、よろしくご愛顧賜りますようよろしくお願い申し上げます。過ぎ越し一年の中で、心に残ることがいくつもありました。その中から、特に印象に残ったことを記してみます。お目通しいただければ幸いです。

 ①印象に残った音楽。

  若い頃の合唱の仲間から教えてもらった多田武彦の男性合唱曲「雨」には、しみじみとしたものを感じました。詩は、八木重吉。

  ”世のために働いていよう、・・雨が上がるように静かに死んでゆこう” 、というフレーズには感動を覚えました。ちなみに八木重吉の没後、その妻とみは歌人吉野秀雄と再婚します。吉野は、とみの没後遺骨の一部をと    みの墓にも収めています。

   →男声合唱(スターボーイズ)
    

 ②印象に残った本

  『2040年の未来予測』(成毛眞)
  これは本来、『おいしいいニッポン 投資のプロが読む2040年のビジネス』(藤野英人)と合わせて読まれるべき本である。前者は、20年後の日本を見据え、”今から10年後の日本は世界の5流国家にまで落ちぶれることはないが、高度成長期のような二桁成長は望めず、よくて横ばい、またGAFAのような企業が日本から生まれる兆しはまるでない・・・”、といわば悲観論を展開する。そして、”しかし最悪の状態を想定しながら、未来を描いておけば、あなたの人生 はそれよりも悪くなることはない”、という

  後者は、20年ほど前に外資系運用会社で働いていた著者は、当時は日本に対して絶望的な気持ちを抱いていた。当時のアメリカでは、ハーバード 大学やスタンフォード大学などを卒業した優秀な学生のトップ層は自分で 起業したり、ベンチャー企業に入ったりするようになっており、大企業を 選ぶのはさらに下の層でした。そして成功した起業家たちが後に続く起業家を支援することで、多用な新興企業が続々と誕生していったのです。一 方 、当時の日本では最優秀層は官庁か大企業に就職するのが当たり前でした。 日本が変化のない社会を選択していることは明らかであり、急激に変化してゆくアメリカの状況と比較すれば、日本の明るい未来を思い描  くことは難しかったのです。

  しかし、著者は日本の将来について明るい見通し持っている。それは、2000年頃にアメリカ起きたへんかと似たような動きが日本でも見られ始めているという。近年日本でもベンチャー企業が上場し、起業家が社会的   にも経済的にも成功するケースが増えている。また超優秀層の中で、大企業や官庁には目もくれず起業にチャレンジする人が目立ってきたという。  著者は2年ほど前に東京大学と京都大学のトップクラスのデータサイエンティストが集まる場に行き、そこで”最近、優秀な学生は大企業に行きたがらないて聞くけど本当?と尋ねた。するみんな口を揃えて、”当たり前じゃないですか!”、という。日本の大企業など眼中ないようだ。

  そのようなことを踏まえて、著者は①テクノロジーを実装できる企業は伸びる②在宅ワークや多拠点生活サービスで地域を活性化する③成長の必須要件となるダイバーシティについて語っている。



 ③印象に残った絵画

 以前本ブログでも紹介した吉田博という人がいる。大正末期から戦後にかけて活躍した洋画家・木版画家であった。米国でなんど出展しており、彼の名前は米国ではよく知られていた。太平洋戦争後、総司令官のダグラス・マッカーサーの夫人も下落合にある吉田のアトリエを再三訪ねている。その妻の「ふじを」もまた画家であった。明治40年の第一回文展3年連続入賞し、第四回文展では「神の森」で褒状も受けている。そして水彩画家として着実な成長を遂げていった。ここにある「窓辺の花」は、レースのカーテンを通して差す光を背後から受け、花弁を透かせて輝く花々を繊細に描写する。花瓶やテーブルに映る光と影の微妙な交錯も、見事に描きだしている。


         



 ④印象に残った紅葉


  この秋は、コロナもほぼ収まったことで、あちこちへ紅葉を愛でにいった。丹波の高源寺、京都の光悦寺や正伝寺などなど。しかし、振り返ってみれば、見事な紅葉は身近にあった。茅渟の海を見はるかす六甲アイランド の紅葉である。六甲山頂にある森林植物園のシアトルの森から天津の森へと続く道の紅葉も素晴らしい。でも、身近にある六アイの紅葉にも素晴らしいものを感じた。

   →六アイの紅葉


 ⑤印象に残った出来事

  ボジョレ・ヌーボー(新酒)の解禁日に合わせてフランスから送られてき たワインを飲む風習があります。今年は、11月18日でした。いつも出かける京都の小料理屋では、「酒樽ボジョレの会」と題して酒樽から新酒を注 ぐという粋なはからいがありました。大勢の仲間たちとヌーボーを味わったことでした。ワインのおかげで、いつもより、一段と口も滑らかになり、初めての仲間とも旧知のごとくお付き合いしました。

   →

  
 ⑥印象に残った言葉

  映画などの配信会社ネットフリックスについて、面白い話を聞いた。(日経のコラム「春秋」より。

  ”成長中の動画配信会社、米ネットフリックスもデータ分析の部署がある。新規採用候補者の中で最適な人材をどう選ぶか。ヒントを得ようと、すでに在籍する社員で特に優秀な人たちの共通点を探す。答えは音楽をこよなく愛する点だった。以降、面接では音楽への関心や楽器の経験を、それとなく探るようにしたそうだ。論理的思考が軸となる業務だからこそ、創造性や感受性が発想の差を生む。議論好きが集まる職場には、無口だが独自の視点で発言する人を加えたこともある。こうして多種多様な人が集まり異文化への理解が育ち、「イカゲーム」など非英語圏のヒット作に結びついた。”

 こんな発想は、残念ながら日本の企業では出てきませんね。


     ~~~~~~~~~~~~~


次回のブログは、「歌人小高賢を偲んで」です。アップは、小寒の女正月の頃を予定しています。気長にお待ち下さい。

 みなさまどうぞ良いお年をお迎えください。
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コラム 絵の見方~ピカソの絵

2021-07-04 | コラム
コラム 絵の見方~ピカソの絵

 昨年の冬「絵の見方」という記事を書いたことがあります。そのいわんとするところを、かいつまんでご紹介しておきます。

 ”東京へ行くと渋谷にある「山種美術館」に立ち寄ることが多い。ここには、優れた日本画のコレクションがある。「奥入瀬渓谷の秋」と題する奥田元宋の絵を見た時は、あっ!といって、しばしその場に立ち尽くした。この絵に限らないが、絵は美しいもの、自然や草花や、また小磯良平のように美しい女性像を描くものが多い。 美が先立っている。西欧の絵にも、そういうものが多い。私の好きな「読書する少女像」(フラゴナール)もその最たるものである。

 

 ところで、西欧にはそういう範疇にはまったく入らない絵画がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」という絵がある。これは美的感動を描いたものではない。男たちが集まって、何やら話をしている。キリストという人物やキリスト教をしらない人間にとっては、なにを言おうとしているのかも分からない。

 

 また米国の画家トーマス・コール(ハドソン・リバー派)が描いた「破壊」と言う絵がある。これは架空の帝国の栄枯盛衰を描いたものだが、終末を思わせる光景が、迫りくる嵐を背景に繰り広げられている。立ち上がる炎、頭が落ちた巨像、兵士から逃げる女性・・・、かしいだモチーフからなる迫力ある構図が。混乱と残酷さを煽っている。

  

 この絵の詳しいことは、今回のコラムの本質から離れるので省略させていただく。いろんなジャンルの絵があるということだ。ところで今回取り上げたピカソの「酒場の女」という絵は、どんなジャンルに入るのであろうか。なかなか理解しがい絵ではある。この記事は、「祝祭の酒 日常の酒」と題するもので、画家にしてエッセイイストの玉村豊男氏が書かれたものである。それに、よれば、

 ”カウンターに置かれたアブサンのグラスを挟んで、二人の女の背中が揺れている。アブサンと通称される酒は、ニガヨモギやアニス、フェンネルなどの香草を加えて蒸留したリキュールで、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリを中心に爆発的に流行した。ニガヨモギ(フランス語=アプサント)は古来薬草として用いられてきたが、幻覚や精神錯乱を生じさせる中毒性があるとして問題にされ、1915年にアブサンの製造販売は禁止された(現在は疑いが晴れて復活している)。

「緑色の妖精」と称(たた)えられたこの酒には、多くの画家や文学者が夢中になり、さまざまな作品のテーマとした。若きピカソもその一人で、この絵は「青の時代」と呼ばれる20代前半の作品。
アブサンに酔って意識が遠のく女たちのからだが揺れているのか、アブサンで酔った目に女たちの姿が異形に映っているのか、

それとも数年後にはキュビスムに向かうピカソの筆がすでに写実の枠を外れようとしているのか、揺れながらこのまま異次元の世界にワープしていきそうな線の動きが魅力的だ。”
(1902年、油彩、カンバス、80×91.5センチ、ひろしま美術館蔵)

こういう絵は、これまでに取り上げた絵のカテゴリーとどういう関係があるのであろう。いや、全く違うような気がする。ピカソは、いったい何を考えて、この絵を描いたのだろうか? 何をいわんとしたのであろう
か。

ところで「青の時代」というのを調べてみると、そのころの背景が分かった。ピカソは19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け、鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。

 ということなのですが、皆さんは、もし財力がおありでしたら、この「酒場の女」と言うピカソの作品を手に入れたいと思われるでしょうか? 私は、そういう気持ちにはなりませんが・・・。

     ~~~~~~~~~~~~~

 この絵と関係はありませんが、17世紀オランダの静物画家ピーテル・クラ-スの描いた「朝食画」という絵があります。

       

この絵では、パンとワインのほかにレモンやブドウなどの果物、おそらくニシンと思われる魚の燻製(くんせい)が食卓に置かれています。が、朝食画には、果物のほかにもサーモンの燻製やブラックベリーのパイなど、メニューはさまざまである。が、パンが描かれていないことはあってもワインのない朝食はないとのことです。。

ワインが入っているのは古代ローマのグラスを模したレーマー(ローマン)グラスと呼ばれるもので、手づかみで肉などを食べていた古代ローマでは手がヌルヌルになるので、滑り止めのため脚に凹凸をつけたという。グラスは大型で、脚の部分にもワインが入る。古代ローマと同じように、みんなで回し飲みしたのだろうといわれています。
(1646年、油彩、板、60×84センチ、プーシキン美術館蔵)

 こんな絵を17世紀のオランダの人たちはでは愛好したたようですね。部屋に飾ってみたくなりますか? まあ、高橋由一の「鮭」という絵があるくらいですから、そのような絵を壁に飾ってみたくなる人がいるかも知れません。




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コラム ショーン・コネリー追悼

2020-12-07 | コラム
コラム ショーン・コネリーを悼む

 ショーン・コネリーは、初代ジェームス・ボンド役でさっそうと登場し、「ドクター・ノオ」や「ロシアより愛を込めて」などで活躍し、世界中の人気を集めた。しかし、彼の全50作品の映画のランキングをみると、第一位は「アンタッチャブル」、第二位が「ザ・ロック」、第三位が「インディージョーンズの聖戦」である。007役で有名になったものの彼はいろんな役をやりたがっていた。事実、マフィアとの戦いで主人公(ケビン・コスナー)を助ける老警官役を演じアカデミー賞を取っている。

 第二位の「ザ・ロック」は、私の最も好きな作品である。老年になって、ショーン・コネリーがニコラス・ケイジと共演、渋みと輝きを見せた作品である。詳しいことは、後述するが、俳優が年をとるにしたがって、ますます魅力を見せる人と、そうではなくただ演技も衰えてゆく場合に分かれる。日本の俳優でいうと、藤田まことがその一例。明るく親しみやすいキャラクターで多くの人に愛され、視聴率60パーセントを超える「てなもんや三度笠」、「必殺仕掛け人などなど。それが95年位から始まった「剣客商売」などで渋みもでてきた。「法廷荒らし弁護士 猪狩文助」では、ひょうひょうとした風貌ながら舌鋒鋭く犯人を追い詰める。年を重ねてからの藤田まことは、見るべき俳優であった。

 さて映画「ザ・ロック」は、サンフランシスコ湾に浮かぶ「アルカトラズ島」が舞台になる。ここは連邦刑務所になっていたが、そこをテロリストが人質を盾に、政府に1億ドルを要求した。それが果たされない時は、サンフランシスコ市内に向けて、高致死性のDXガスを搭載したロケットを発射すると言う。この有毒ガスを無力化し、かつ人質を開放させるべく。政府は海兵隊を水中から送り込む。しかしテロリスト集団と言っても、実は米政府から不当に扱われた部下の死に怒ったアメリカ海兵隊員の精鋭部隊であった。送り込んだ政府側の海兵隊も全滅。残されたのは、元英国諜報部員で政府の秘密を握る
メイソン(ショーン・コネリー)と化学兵器の専門家グッドスピード(ニコラス・ケイジ)の二人のみ。政府は最後の手段として、プラズマガス搭載の航空機を発信させ、島を焼き尽くす構えだ。もちろん人質もメイソン、グッドスピードも死ぬことになる。残された少ない時間の中で、二人はテロリストを倒し、グッドスピードはDXガスの無力化に成功する。しかし、間一髪でプラズマガスのミサイルが島に向けて発射される。グッドスピードはメイスンに助けられ、海中に飛び込んで難を逃れる。二人はお互いに別の道を歩むことになるが、グッド・スピードはメイスンに島から離れるための潜水艇の場所を教え、またサンフランシスコに用意してあるホテルの部屋の行くようにすすめる。そこには着替えと当座の費用がおいてある。メイスンはそれに感謝して、にっこり笑いながら、こう言う。

 ”もし旅をする気になったら、カンザスのフォート・ウオルトンに行くようにと勧め、一枚の紙を渡す。そこには、「聖マイケル教会の最前列の右端にある椅子の足に(国家機密の)マイクロフィルムがある、と書かれていた。グッド・スピードは年来の恋人と新婚旅行でカンザスシティにゆき、それを取り出す。”これがあれば、何でもできるぞ”と大喜び。そこにはケネディ大統領暗殺犯の名前もあった。めでたし、めでたし!


     (原子力潜水艦の艦長をつとめたショーンコネリー

 ところでショーン・コネリーはバハマでなくなったが、もとはスコットランドの首都エディンバラの労働者階級に生まれ、愛国心あふれるスコットランド人。英国の19世紀から20世紀にかけての殆どの技術がスコットラアンドで開発されたことや、経済学の父「アダム・スミス」、シャーロックホームズ生みの親であるコナン・ドイル、詩人ウオルター・スコット、電話を発明したグラハム・ベルなどの著名人もおおり、スコットランドの人々はみな誇り高い。ショーン・コネリーはアイルランドの独立を支持してきた。彼は、晩年になっても民族衣装のキルトをつけていた。またサーの称号を得た。

    
み霊よ、永遠なれ!









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コラム 絵の見方

2020-11-23 | コラム
コラム 絵の見方

 東京へ行くと渋谷にある「山種美術館」に立ち寄ることが多い。ここには、優れた日本画のコレクションがある。上掲の「奥入瀬渓谷の秋」と題する奥田元宋の絵を見た時は、あっ!といって、しばしその場に立ち尽くした。この絵に限らないが、絵は美しいもの、自然や草花や、また小磯良平のように美しい女性像を描くものが多い。 美が先立っている。西欧の絵にも、そういうものが多い。私の好きな「読書する少女像」(フラゴナール)もその最たるものである。

 ところで、西欧にはそういう範疇にはまったく入らない絵画がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」という絵がある。これは美的感動を描いたものではない。男たちが集まって、何やら話をしている。キリストという人物やキリスト教をしらない人間にとっては、なにを言おうとしているのかも分からない。

  


ところが、何を言おうとしているのかが明瞭にあらわれている絵がある。たとえば、ニコライ・プッサンの描いた「アシドドのペスト」は、パンデミック下の都市の壮絶な風景を描いている。恐怖映画さながらの緊迫感がある。この作品が制作された1630年、イタリアでは実際に17世紀最悪のペストの蔓延があった。悲惨な病を想像する精神的苦痛が、実際の病を引き起こす、いわゆる”病は気から”、との概念がルネサンス期から17世紀初頭の医学界における見解だった。この絵の作者、ニコライ・プッサンは、想像力は凶器にもなりうるとの認識下、彼はこの壮絶な作品を描いた。プッサンは、実はアリストテレスがに『詩学』に著した、”悲劇”は鑑賞者の精神を浄化させる、というカタルシス的逆説作用を絵にこめたと言われている。(1630年 ルーブル美術館臧)

          



さらにトーマス・コールが描いた「破壊」(”帝国の推移”連作より)と言う絵がある。これは架空の帝国の栄枯盛衰を描いたものだが、終末を思わせる光景が、迫りくる嵐を背景に繰り広げられている。立ち上がる炎、頭が落ちた巨像、兵士から逃げる女性・・・、かしいだモチーフからなる迫力ある構図が。混乱と残酷さを煽っている。

     

 1801年英国生まれのトマス・コールは十代で家族と共に米国へ渡る。産業革命最盛期の英国を知るコールの目には、定住地となったニューヨーク州の豊かな自然は、パラダイスと映った。しかし1936年に3年の欧州巡遊旅行から帰国したコールが目にしたのは、変わりつつある米国の姿だった。

 ジャクソン大統領下の経済最優先のスローガンであらゆるものの破壊が正当化された結果、貧富の差は拡大し社会は分断され、自然は荒廃の道をたどっていた。

 美と善と精神の向上の密接性が信条のコール。憂慮すべき国家の危機を悟った彼は、架空の『帝国』を描くことで現実に警告したのだった。悪か財か。富を握る上流1パーセントの選択に『帝国]の未来は委ねられている。

  注)コールの絵と解説は、日経電子版(11月2日朝刊)の記事によらせて頂きました。解説文はアートエデユケーターの宮本由紀氏。ニコライ・プッサンのペストの絵も宮本氏の解説による) 

 この絵を見て、ゆらぎは二重の衝撃を受けた。一つには、画家が、ある意味政治の世界にまで踏み込んできたことである。画家のトーマス・コールはアメリカの画家、ハドソン・リバー派の画家である。ハドソンリバー派は、19世紀中頃のアメリカ風景画家たちの美術運動。彼らはニューヨークを流れるハドソン渓谷などを描き、自然と共存する牧歌的な世界として描かれている。ハドソン・リバー派の画家たちは宗教上の信仰の深さはそれぞれであったが一般的にアメリカの風景という自然の中に神の偉大さの顕れを観ていた。

このハドソンリバー派の絵画は、ニューヨークのメトロポリタン美術館の一角に飾られており、ニーヨーク滞在中も鑑賞して、”アメリカの自然の美しさに感嘆を覚えた思い出がある。

 
 そしてもう一つは、この絵の描くところは現代の世相と酷似しており、私たちはコールの言うところに耳を傾けなければならないのではないか。たしかに貧富の差は拡大し、働こうにも職がみつからない若い人たちが多い。また高齢者への健康保険や介護保険給付への支払い負担も求められている。また、災害対策として大金が投じられているが、その陰で自然環境は歪められていく。まさに政治の問題である。さらに国際情勢に目をやれば、アメリカやロシア、中国は軍拡の時代に入っている。ロシア、アメリカ、中国などを筆頭にして核爆弾は世界に溢れている。憂慮すべき、日本の、いや世界という「帝国」の危機である。

     ~~~~~~~~~~~~~~


と、いう訳ですが、みなさんはどう思われますかか?私としては、やはり心安らぐ絵を見たいので美しい風景や美女を描いた絵がいいですね。もちろん、美女に限りません(笑)。 和田三造の「南風」に描かれた男のたくましさには、見とれます。 

              

さはさりながら、時には世相のあり方を考えさせられるような絵も、この目でしっかり見たいものです。









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読書 強烈な印象を残した本

2020-03-12 | コラム
強烈な印象を残した本

 この半年くらいの間に読んだ本の中で、堀田善衛の『方丈記私記』と永田和宏の『知の体力』の2冊は、私に強烈なインパクトを残した。いずれもかなり前に手にしていて、読み返したものであるが、再三再四読んでその訴えるところを思索し続けている。

『方丈記私記』(堀田善衛)

 高校生の頃、古典といえば『徒然草』や『枕草子』それに『方丈記』(鴨長明)などを勉強した。古典文学にふれるきっかけをあたえてくれたのだから感謝をしなければならない。しかし、それは原文をどう読み解くかということであって、その時代背景やその時代感覚に対する鋭い指摘などはなかった。

 ”行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。"

 なるほどなあ、人生は「テムズのあぶく」(竹谷牧子著)のように流転極まりなきものか!、と思うくらいだった。ところが堀田善衛の手にかかると、著者自身の戦争体験と重ね合わせて日本文化への鋭い批判となる。少し脱線するが、そもそも堀田善衛の本を手にしたきっかけは、定家の明月記を読んでみたいと畏友K氏にもちかけたところ、”それは難しい。難解なな漢文で書かれていて読み通すのは至難の業である”として、代わりに堀田善衛の『定家明月記私抄』を教えてくれた。かの有名な”世上乱逆追悼耳に満つといえども、これを注せず。紅旗征戎吾が事に非ず”、という一文で知られる日記である。それ深い感動を持って読み終えたあとで、この『方丈記私抄』を手に取ることになった。

     ~~~~~~~~~~~~~

 堀田善衛の『方丈記私記」を読んで、どこに衝撃を感じたのか? この本は、鴨長明の本の説明ではなく解釈でもなく、それは堀田自身の経験なのだ。方丈記に描かれた中世日本(ことに平安末期から鎌倉時代にかけて)のあれほど乱れきった世相について、そしてそれが戦後日本のどうしようもないあり様にオーバーラップした時、天皇や朝廷と一般民衆のあまりにも隔絶した様子が、奇妙に類似しており、時代は変わってもそのことは変わっていないことに改めて気づかされ、私は大きな衝撃を感じたのであ。では、そのいくつかのシーンを追ってみたい。

  ”1945年3月10日、東京大空襲。B29やく150機が来襲。波状、絨毯爆撃が行われ、東京の約4割が焼かれた。死者7万2174名。死者の大部分は黒焦げとなり、ほとんど炭化していた。この空襲が開始されて、私と友人K君は、このあたりにも焼夷弾が投下されたら一応の消火努力をしてみて、かなわぬことになったら近くの洗足池にそれぞれ逃げようと約束をし、要するに呆然と真っ赤な夜空を見上げていたにすぎない。

近くの、田園調布1~3丁目、東玉川町、玉川奥沢まちなどへ投下された焼夷弾は、あたかもトタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音をたたて落下してくる。あるものは落下途中ですでに火を噴出しているものであった。真っ赤な夜空に、その広範な合流大火災の火に映えて、下腹を銀色に光らせた、空中の巨大な魚類にも似たB29機は、くりかえしまきかえし、超低空を、たちのぼる火炎の只中へとゆっくりと泳ぎ込んでいくかに見上げられ、終始私は、火の中を泳ぐ鮫か鱶のたぐいいを連想していたものであった。憎しみの感情などは、すでにまったくなかった。感情の一種の真空状態がそこにあった。そしてそれらの火に巻き込まれている人々のことを思わぬ訳にはいかないのだ。

 そういう時に、真っ赤な夜空に、閃くようにして私の脳裏に浮かんできた一つの言葉が、(注 方丈記の一節)

 ”火の光に映じて、あまね紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる火焔(ほのを)、飛ぶが如くして一二町を越えっつ移りゆく、その中の人、現し(うつし)心”

というものであった。その中の人、現し心あらむや。生きた心地がすまし、などと言ってみたところでどうにもなるものでもない。”

 ”あるいは煙に咽びて倒れ伏し、あるいは焔にまぐれてたちまちに死ぬ。”

と言うことになっているに決まっているものであろうけれど、本所深川あたりの大火焔の中にいた親しい女の顔を浮かべてみて、私は人間存在というものの根源的無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸について何の責任もとれぬ存在であると痛感したことであった。


 ”鮫か鱶のように無表情に、その白銀の下腹に火の色をうつして入れ替わり立ちかわり、八方から泳ぎ込んできては大いなる火の塊を火の中に投げ込んでゆく巨大な魚類を見上げていて、ふと頭に飛び込んできた方丈記の一節を口の端に浮かべてみて、「その中の人、現し(うつし)心あらむや、何を言ってやがる、などどぶつぶつ独語していて、しかし、卒然としてその節の全文を思い浮かべてみると、それが都市に起こる大火災についての、意外に的確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマディックなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思いあたったのであった。

 ”去ぬる安元三年四月二八日かとよ、風激しく吹きて、静かならざりし夜、いぬの時ばかり、都の東南より火出できて、西北に至る。はてには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき、。火もとは樋口富小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出きたりけるとなん。吹き迷う風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたる如く末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てれば、火に光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる焔を、飛ぶがごとくして一二町を越えつつ移りゆく、その中の人現し(うつし)心あらむや。・・・”


 『方丈記』のごく一部のみをとりあげたのであるが、太平洋戦争末期の1945年3月の東京大空襲のありさまと、きわめて類似している。堀田善衛の体験を記すところによれば、

 ”私と友人の君は洗足池から電車で目黒駅まで出て、そこから新橋汐留駅近くのK君のお店まで歩いていった。東の方、下町一帯の上空には大火余燼の煙と灰燼の、実に分厚い雲のようなものが空を流れていて、おそらく地上の余熱のせいであろう、時々この雲のようなものが急上昇をする。焼け出されて着の身着のまま、焼け焦げて生身の露出した襤褸をまとった人々、あるいは最小限の荷物を持って逃げだしてきた人々とすれ違いはじめた。・・・新橋近くになってくると、黒焦げの死体も目に付き、消防自動車もトラックも電車もすべて焼け焦げて骨だけになっていた。私たちは管のような焼夷弾の燃えがらを蹴飛ばしながら歩いていった。・・・汐留のK君のお店は、ほとんど奇跡的に、まわり全部が焼け落ちてトタンと小さく盛り上がった壁土の上に、その一画だけがぽつんと立体的に立っていた。その家々のひとかたまりが明らかに眼に入り、ああ、残っていると確認した瞬間に、私は、よかった、と思うと同時に、なんと馬鹿げたこともあるものだ、と思った。

この”なんと馬鹿げた云々に関して、それは一つの啓示のようにしての私にやってきたものがあった。というのは、満州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまり難民のなってしまえば、それで終わりだ、終わりだということは、つまりはもう一つの始まりだ、ということが、なんと馬鹿げた云々の内容として、一つの啓示のようにして私にやって来たのであった。上から下まで、軍から徴用工まで、天皇から二等兵まで全部が、難民になってしまえば。・・・”

 ”辻風は常に吹きゆくものなれど、かかることやある。ただ事にあらず、さるべきもののさとしか、なぞ疑ひ侍りし。”

 これについて堀田善衛は、次のように認識する。

 ”さてしかし、「ただ事にあらず」と来て、その次に「さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りしというところであるが、日本中、兵営も宮城も政府も工場もみな燃えてしまって、すべて平ったい焼け跡となり、天皇をはじめ万民、死ぬものは死に、生きて残った者はすべてこれ平べったく難民ということになったら、どういうことになるか、という妄想にとりつかれた。

今、私は妄想と書いたが、いまでこそそういう見通しを妄想と書き、また書かざるを得ないという一種異様な悲しみのようなものをさえ感じるものである。しかし、この妄想は、当時においては妄想ではなくて、不気味なほどの迫力、ポテンシャルパワーを内にもった、必然性の高い現実であったのだ。少なくとも三月十日において私はそう思っていた。勝手至極な話だが、自分自身が死ぬことさへ勘弁してもらえるなら、むしろそうなることを望む、いや望みかねないという心境に追い込まれていたものである。そうしてかくなった暁に、たとえば『増鏡』に出てくる老尼のつぶやく「これより日本国は衰えにけり」、あるいは兼実にいう「言語の及ぶところにあらず。日本国の有無ただ今明春にるか」(『玉葉』)、さらには、たとえば米軍が上陸して必然的に内戦もが起こり、・・・ということになった暁に、新たに、いかなる日本が出現するかという、その新たなる日本を、ぶすぶす煙る焼け跡の土蔵や金庫のかげからはるかなるいやつい近くの海を見るようにして望み見たりとしたることではなくて、胸中の戦慄とともに盗み見るようにして熱望したるする瞬間はあったのである”


 ”(方丈記の)当時は学徒蜂起、僧兵狼藉、群盗横行、飢饉悪疫、地震、洪水、台風に大火などが起こっていた。大火に至っては、伊勢神宮炎上、神鏡焼亡、大内裏数度炎上、さらには仁和寺、賀茂社、園城寺、鞍馬寺、清閑寺、などなど軒並みやられている。「増鏡」の老尼ならずとも「これより日本国は衰えにけり」ち言いたくなるはずであり、日本国はたしかに衰えたが、和歌詩歌は、世界の文学史にも稀なほどに、最も高度な美的世界を闇の架空にきずいた。宗教思想においても、法然・親鸞においてもっとも高度なところにまで達した。

 関白九条兼実が、「言語の及ぶ所にあらず、日本国の有無ただ今明春にあるか」というのもまた無理はない。しかし、私は兼実のいう「日本国」というものが、兼実の心情としては彼らの貴族エスタブリッシュメントに限られたものであろうと注しておきたい。一般人民のことなどは彼らの「日本国」には入りはしない。”


一般人民のことなど、朝廷貴族たちの頭の中にはない。それは太平洋戦争を起こして牽引し、自滅した軍部たちにも、まったくない。そこのところを堀田善衛は、次のように記している。

 ”1944年2月14日に貴族院議長・内閣総理大臣の公爵近衛文麿は昭和天皇に上奏文を書いた。秘密裏に書かれたものであるが、その中で国民というものを敵視している。それによると、少壮軍人の多数も、右翼も左翼も、官僚も、みな共産主義者であり、そもそも満州事変、支那事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争まで導ききたれるは軍部革新派であり・・・意識的に共産革命にまで引きずらんとうする意図を包蔵しおり・・・。・・・満州事変、支那事変、大東亜戦争などについて責任があるのは、また中国の「国民政府」を相手にせずといったのは誰だったのであろう。近衛氏は、共産革命を防止し、国体と称するものを守るためにのみ、戦争終結を急いだ。そして、この国体と称するものも、要するに自分たちと天皇ということにほかならない。・・・

実体は以上のようなものであった。国民一般の、食い物さえないという苦難などは、明らかに二の次にという次第になっている。人民はつねに、「日本国は衰へりにけり」とか「日本国の有無」などと言い出す連中に対しては、長明にならって「疑ひ侍る」眼を持つべきものであろう。”


 そして堀田善衛は”この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という不気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待感を持っていた。”

 ”けれども、そういう国民っ生活の全面的崩壊、階級制の全的崩壊という、いわば平べったい夢想あるいは期待というものが、いかに現実離れをした、甘いものに過ぎなかったかっということを現実によって思い知らされるのに、そう長い時日はかからなかった。それは、一週間後の三月十八日に、その衝撃はやってきた”

 その衝撃とは、まだ暗いうちに洗足から深川まで歩いていった堀田善衛が、眼の当たりにしたものであった。

 ”本所深川は全滅ということは口伝えに伝えられていた。永代橋を徒歩でわたっていて、本当に私は驚いてしまった。橋の途中で立ち止まってみると、朝日が空の途中にまであがっていた。その朝日の下に、望み見る門前仲町や洲崎弁天町や木場の多いあたりは、実に何にもなかった。ずいと東に荒川放水路差へ見えそうな心地がした。平べったく、一切が焼け落ちてしまっていた。・・・多くの場合に、そこの住民が全滅したことを意味したであろう。生きながらの大量虐殺であった。

 時に朝の七時半頃であった。永代橋にかかるあたりから、へんに警官や憲兵が多く見られた。・・・焼け跡はすっかり整理されて憲兵が四隅に立ち、高位のそれらしい警官のようなものも数を増し、背広に脚絆巻の文官のようなもの、国民服の役人らしいものもいて、ちょっと人だかりがしていた。九時過ぎかと思われる頃に、驚いたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永代橋の方向からあらわれ、中に小豆色の自動車が混じっていた。それは焼け跡とは、まったくなんとも言えずなじまない光景であって、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日に光を浴びて光る車の中から、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りてきた。大きな勲章までつけていた。

私が歩きながら、あるいは電車を乗り継いで、うなだれて考え続けていたことは、天皇じたいについてではなかった。そうではなくて、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始された時に、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて、それが実は可成りな人数になり、それぞれが持っていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰の中に土下座した。これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼けてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、命を捧げまして」、と云ったことを、口々に小声でつぶやいていたのだ。

 私は本当に驚いてしまった。ピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちら眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものだろうと考えていたからである。こいつらのぜーんぶを海の中へ放り込む方法はないものかと考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある。・・・というのが私の考え込んでいたことの中軸であった。ただ一夜の空襲で十万人を越える死傷者を出しながら、それでいてなを生きる方のことを考えないで、死ぬことばかり考え、死の方へのみ傾いていこうとするとは、いったいどういうことなのか・・・

 人民の側において、かくまでの災わいを受け、しかもそれは天災などではまったくなくて、あくまで人災であり、明瞭に支配者の決定に基づいて、たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがある筈であった。

 この終戦を前にした、この出来事もまた、鴨長明が『方丈記』に記していたこと同様である。”「言語の及ぶところにあらず。日本国の有無ただ今明春にあるか」などと、かくなったについて自ら歴史に責任のある、京都貴族代表としての藤原兼実自身が、ぬけぬけと言い出す始末である。・・・けれども事のついでに日本国の有を、これまで独り占めしてきたのは、他ならぬ君たちだったのではないか・・・”


 まだまだ堀田善衛の『方丈記私記』の語りは、つづくのであるが、ここで角度を変えて天皇家さらには天皇と朝廷貴族たち(いまなら高級官僚たち)が、どのような形で国のまつりごと(政治)に関わってきたのか、そして民衆に対してどのように対応してきたのかを、眺めてみることにしたい。


(ゆらぎ思うに)
 新古今集に仁徳天皇の御製の歌がある。

   ”高き屋に登りてみれば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり”

仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半の、第16代の天皇である。彼は、民衆のかまどの煙があまり立っていない、すなわち民は困窮しているのであろうとして、3年間租税の徴収を取りやめた。その3年後も、まだ苦しんでいるのではないかとして、租税を取りやめた。やっと6年経って租税を取り立て、破れていた宮殿の修理をしたという。”百姓富めるは朕が富めるなり”、と云ったという。

668年には第38代の天智天皇が即位した。京都の山科にその稜がある。立派な稜で、彼が尊敬されていたことがわかる。その後を継いだ持統皇后(天皇)や天武天皇の時代には、日本国の統治機構、歴史h、文化などの原型が作られた。その頃は、天皇自らが、国造りに邁進していたのである。

時代が下がって、794年に桓武帝がみやこを京都に移した、いわゆる平安時代の始まりである。そのだいぶ後には、藤原道長が出て、”この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば”、と詠んでわが世を謳歌していた。その頃は『源氏物語』に描写されているように貴族王侯の世であって、民衆のことなどほとんど無視されていた。平安時代につづく鎌倉時代以降、明治のころまで天皇の影は薄かった。際立たった存在感はなかった。ようやく明治になって中央集権システムの設計にあたって天皇が利用された。裏で糸を引いていたのは、岩倉具視と言われている。以降、明治・大正・昭和と天皇制が続いたが、いわば担がれ、利用されていたといえる。昭和天皇(裕仁)は、太平洋戦争の責任者であったが、戦争中も軍事や国際情勢の情報は入ることなく、最終意思決定を迫られた。

 現在の上皇である明仁天皇や美智子皇后になると時代も変わり、国際情勢などに関する情報にも接することになり、様々な事象について明快なそして独自の見解をもたれている。さらに徳仁天皇と雅子皇后は、それぞれに国際留学の経験もあり、よりいっそう自分自身の考え方を明快にされている。徳仁天皇は、英国留学中の思い出を『テムズとともに』という本を書かれているくらいであって、国際派でもあり、また第一に自分の家族を大事にする、国のためなどとして家族を犠牲にするようなことはされないと聞いている。であればこそ、日本国民の統合の象徴としてふさわしい存在ではないかと思う。

 そのような状況であるが、日本政府首脳はこれまでほどではないが、適当に距離をおいて扱っているように見える。昭和天皇は、靖国神社参拝はしないといわれているが、最近の歴代総理はそれに対して必ずしも賛同してない。ちゅなみに戦後の昭和20年10月、総理大臣の石橋湛山は、平和日本の実現のためにもとして、靖国神社参拝を否定し、靖国神社そのものの廃止を訴えている。

一方で国際政治外交では、天皇を適宜利用しているように思える。そういう意味では、昔の朝廷に相当する政府中枢は、平安時代以降の天皇のありかた、と同じような考え方にあるように思われる。


      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この後は、歌人であり細胞生物学者でもある永田和宏氏の『知の体力」について語ることになるが、話題がまったく異なることなので、次章に譲ることにしたい。三月中の上梓を考えています。しばらくお待ち下さい。


補遺)作家堀田善衛について。・・・堀田善衛といっても、あまり馴染みのない方もおられると思うが、『ゴヤ』などの評伝や『インドで考えたこと』『上海にて』などなどアジアを歴訪して書いた文明批評など数多くの作品を残している。そこに込められた思いは、現代にも当てはまるものがある。作家池澤夏樹、鹿島茂、また映画監督宮崎駿などは、堀田善衛を敬愛しており、彼らは『堀田善衛を読む~世界を知りぬくための羅針盤』という本に寄稿して堀田の思い出を語っているくらいである。宮崎駿は、「お前の映畫は何に影響されたのかと言われたら、堀田善衛と答えるしかありません」とつぶやいた。 ご一読をおすすめする次第である。





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読書 『テロ』

2020-01-11 | コラム
読書 『テロ』(フォン・シーラッハ)

 イギリスの哲学者(18~19世紀)ジェレーミー・ベンサムの言葉に”最大多数の最大幸福”というのがある。彼は功利主義の創始者として知られている。「個人の幸福の総和が社会全体の幸福の総和であり、また社会全体の幸福を最大化すべきである”と主張している。いいかえれば、できるだけ多くの人々に幸福をもたらすことが善である、との説である。よくいわれる多数決ではない。ただ、実際の政治の世界で少数派の権利をどう守るのかという問題が残る。 この本の一つのテーマである。

 長い人生の間には、誰しも瞬間的に判断をし、意思決定を迫られることがあろう。たとえば、狭い道で車を運転していて、突然前方に二人の人間が現れた。左にハンドルを切ってそれを避けようとすると、そこには幼い子供がいる。ブレーキをかけても間に合わない。その時、あなたはどうするか? またある時は、高層ビルのホテルの一室で恋人と情事にふけっていた。そこに火災が発生、エレベーターも動かない。やむなく階段を登ってビルの屋上に出る。そこもままなく火に包まれれようとする。救助のために飛来したヘリコプターから縄梯子が降りてきた。男は、それにつかまって助かろうとする。そこへ、恋人の女が”私も一緒に連れてって”と男の足を掴む。二人一緒では、縄梯子を持っている手はこらえきれない。恋人を蹴落としてでも助かろうとするのか、いやふたりともビルの屋上に落ちて一緒に燃え盛る火に包まれるか? どこかの時点で意思決定をしなかればない。それも極めて短時間の間に。あなたならどうする?

『テロ』で描かれるのは、テロリストにハイジャックされた民間飛行機エアバスと、それを迎撃したドイツ空軍のラース・コッホ少佐の物語である。エアバス内のテロリストは外部と無線連絡がとれるようにした。その内容によると国際試合が行われているミュンヘン郊外のスタジアムに突っ込む手はずを整えている。そこには7万人の観衆がいる。彼らを助けようと、少佐は空対空ミサイルを発射して164名が乗っていた民間機を撃墜した。
 
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ラース・コッホ少佐は逮捕・勾留されドイツの法廷で裁かれることになった。以下に裁判の様子を順を追って記すことにする。なお、これには一般の市民から選ばれた参審員が裁判官とともに裁判を行い、犯罪事実の認定・量刑の決定などを行う。裁判の結果を踏まえ、裁判官は無罪か懲役刑などを言いわたすことになる。


<第一幕>
 検察側は検査官ネルゾン女史、弁護人はビーグラー弁護士、被告人は拘置所から出頭したラース・コッホ少佐。証人はラウターバッハ中佐。

 (検察官)ラース・コッホはオーバーアッペルドルフ上空にて2013年7月26日に乗客164人を危険物によって殺害したことで、起訴されています。同日20時21分、空対空ミサイルによって、ベルリン発ミュンヘン行のルフトハンザ航空のエアバスA320を撃墜し、乗客164人を死なせた罪に問われています。刑法第211条第2項および第1項第1項の規定による殺人罪です。


 (弁護人)・・・被告人の代りに説明する。
参審員のみなさん、2001年9月11日に自分がどこいたか、誰もが覚えていると思います。ミューヨークの世界貿易センタービルに激突した2機の旅客機、アメリカ国防総省の本庁舎で爆発した3番めの旅客機・・その映像を見たら誰も忘れられないでしょう。テロによる大量殺人でした。・・・私たちはこれらの事件から学びました。身を守らなければならないと。ですから2005年、新しい法律が施行されたのです。航空安全法です。わが国の議会は、最悪の場合、国防大臣の判断による武力行使を容認することで一致しました。無辜の人たちが乗る旅客機に対してもです。事態が逼迫した場合、ハイジャック機の撃墜もやむなしとされました。議員の過半数がこの航空安全法に賛成票を投じました。・・・

航空安全法が公布された一年後、連邦憲法裁判所(ドイツの最高裁)がこの法律の中でもっとも重要な条文を無効としました。そして連邦憲法裁判所は、無辜の人を救うために他の無辜の人を殺すことは違憲であるとしました。生命を他の生命と天秤にかけることは許されないという判断です。参審員のみなさんには今日、決断していただかねばなりません。テロリストは旅客機をハイジャックしました。そしてサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人を殺害しようと目論みました。しかし一人の人、ここにいるこの人が行動する勇気と力を持っていたのです。・・・

検察が言う通り、ラース・コッホがそれを実行しました。コッホは旅客機の乗客を殺害しました。男も女も子供も。コッホは罪のない164人の命を罪のない7万人の命と天秤にかけたのです。・・・もちろん今回の1件はとても信じられない恐ろしい事件です。しかし、あってはならないことだから存在しないと信じるのは素朴であるだけではなく、危険です。肝心なのは、想像を絶する恐ろしいことがとっくに現実ものになっている世界に私たちは生きていて、そうした事実と折り合いをつけなければならないということです。

憲法の原則に限界があることを、わたしたちは理解しなければなりません。参審員のみなさん、そうした現実を認識し、評価することがみなさんに求められています、みなさんが義務を果たせば、この刑事訴訟手続きの終わりにラースコッホは無罪をいいわたされるでしょう。これは殺人ではありません。検察が導きだした結論は間違っています。


(証人ラウターバッハ中佐の登場)主に裁判長が証人に質問をする。その後、検察官や弁護人が質問をする。裁判長の質問に対するラウターバッハ中佐の回答は多岐にわたり、いちいち記すことは、かえって煩雑であり理解しにくくなるので、まとめてその要点のみをまとめて記すことにする。

 (ラウターバッハ)昨年の7月26日、空軍の参謀将校として勤務につきました。ドイツの空域では航空機がハイジャックされた時は、NATO軍の管轄を離れ、国家安全指揮・命令センターに移行します。ここには連邦国防省の代表つまり空軍の軍人が勤務し、空域を監視しています。全員で60人から65人です。私たちは第一・第二レーダーによって監視をしています。そこには航空安全局と州警察および連邦警察のすべてのデータが集まっています。民間航空機がハイジャックされテロ攻撃の道具になること、監視するのです。そうした事件が起きた時は、すべての航空機と無線で連絡を取り、異常がないか監視します。7月26日は、旅客機がハイジャックされたことを無線で知らせるようテロリストが機長にその旨のテキストを読むよう強要しました。

 ”神のご加護により、当機はわが制圧下にある。ムスリム同胞よ、喜べ。ドイツ、イタリア、デンマーク、イギリスの十字軍政府は我らの同胞を殺した。今度は我々がお前たちの家族を殺す番だ。われわれが死んだように、死ぬがよい”

それからテロリストは旅客機をミュンヘン近郊のサッカースタジアムに墜落させる積りだ。と機長は言いました。アリアンツ・アレーナでは当日、ドイツ対イギリスの国際試合が行われていました。スタジアムは満席、観客数7万人。

 その無線通信を聞いたあと、センター内にいる全員に情報を伝え、NATO軍との呼び出しシーケンスを遮断し、即刻、空軍総監ラートケ中将に電話連絡しました。中将は、警戒飛小隊の緊急発進と、ルフトハンザ機目視を命じました。戦闘機ユーロファイター二機が飛行中でした。両機は11分でルフトハンザ機を補足しました。・・・ラートケ中将は、ルフトハンザ機の進路を妨害して強制着陸させるよう命令しました。ルフトハンザ機は反応せず、飛行進路を維持しました。航空安全局からの情報では、機内には男性98人、女性64人、子供がふたりの乗客がいました。さらにラートケ中将は国防大臣に電話をし、同時に連邦軍の統合幕僚長にも連絡をしました。国防大臣は警戒している飛行機に警告射撃を命じました。

私から飛行小隊に命令を伝え、少佐は航空機関砲で発砲しました。しかし、テロリストの乗った飛行機からは反応はありませんでした。改めてラートケ中将に報告しました。中将は国防大臣にルフトハンザ機撃墜を進言しました。国防大臣は却下しました。「撃墜してはならない」と飛行小隊に伝えました。コッホ少佐から、”ルフトハンザ機が降下している”との報告がありました。スタジアムとの距離はおよそ25キロ。その時、コッホ少佐がマイクに向かってさけびました。”今。撃墜しなければ数万人が死ぬ”、と。


 (検察官)次に検察官が証人ラウターバッハに質問する。とくにハイジャック機が墜落する前に、スタジアムからの全員の脱出可能性があったのではないかと。それに対し、証人ラウターバッハは、その可能性について意見を述べる。

(検察官)ラウターバッハさん、あなたは国家航空安全指揮・命令センターの全員がハイジャックの発生を知っていたと言いました。スタジアムからの避難を決定したのは誰ですか?センターにいた誰一人、スタジアムからの避難命令を出さなかったのです。満席のスタジアムは15分以内に全員がスタジアムから出ることができたのではないでしょうか?では、なぜ誰もスタジアムからの避難を指示しなかったのか、その理由が知りたいのです。その理由は、いざとなったら被告人がミサイルを発射すると分かっていたからではないのですか? 元国防大臣フランツ・ヨーゼフ・ユングは連邦憲法裁判所の判決はあってもハイジャックされた航空機の撃墜を命じると発言しました。そして、パイロットには緊急時に航空機を撃墜する覚悟を持つものだけが選抜されるであろうと。だから誰もスタジアムに避難指示を出そうとしなかったのではないですか?

(ラウターバッハ)スタジアムからの避難に責任は負っていません。スタジアムにルフトハンザ機が接近した時、スタジアムは満席でしたが、その状況を変える力はありませんでした。スタジアムの避難についてはバイエルン州の防災本部の管轄です。


 次に裁判長と被告人とのやり取りになる。
(裁判長)ルフトハンザ機を撃墜する数分前のことについて話してくれすか?

(被告人)飛行進路の妨害と警告射撃にルフトハンザ機の機長は反応しませんでした。その数分後DC(ラウターバッハ)から、”撃墜してはならない”と命令を受けました。国家航空安全指揮・命令センターには二度問い合わせました。数分後にルフトハンザ機がスタジアムに到達することが分かっていましたので。私は命令に背くべきかを考えました。数万人を救うために数百人を犠牲にすると。ルフトハンザ機の背後にまわり、少し後方の高位置からサイドワインダーを発射しました。

(裁判長)ブラックボックスの解析の結果、旅客機が爆発してとき、乗客乗員がコックピットに突入しようとしていたことが分かっています。

(被告人)その可能性は排除できません。
 
 ここから検察官と被告人のやり取りになる。
(検察官)コッホさん、あなたは連邦憲法裁判所の判決に反対していましたね?あなたが命令に背いてよいのは、その命令が違法な場合に限ることを知っていますね。そしてあなたは、国家による実力行使が部分的に連邦憲法裁判所の判決に縛られることを知っていますね?

(被告人)基本的にはそうですが、連邦憲法裁判所の判決は間違いだと思っています。問題は、特殊なケースで無関係な人々の殺害が許されるかどうかにあります。一方に乗客164人、もう一方はスタジアムの7万人の観客。この場合、両者を天秤にかけるべきでないというのはあり得ないことです。7万人を救うために164人を殺すことは正しいと信じているだけです。(検察官)いわば、あなたは決断に際して神にも近い立場にいるわけでしょう。あなたは、どのような状況下なら人は行き続けられることがゆるされるか一人で決断するのです。誰が生き、誰が死ぬかをきめるのはあなたです。

(被告人)乗客はあと数分しか生きられなかったでしょう。旅客機はスタジアムで爆発する見込みでした。私が撃墜しなくても、乗客は全員死んでいたでしょう。

旅客機の乗客はとくに危険にさらされています。民間人は武器になりうるのです。テロリストの武器です。テロリストは航空機を武器に変えるのです。

(検察官)あなたは乗客は武器の一部だという。だとすると、乗客は物、物体になってしまいますよ。あなたは、人間をそういうふうにしか見られないのですか?武器の一部としか見なされなくなった人は、それでもまだ人間ですか? 人間であることは、私たちにとってもっとも大事なことだと思うのですが?

(被告人)そういう美しい思想を、あなたなら展開できるでしょう。しかし、私は上空で責任を負うのです。わたしには、人間であることの本質はなにかなどと考えている時間のゆとりはありません。決断しなければならないのです。

(被告人)私がいいたいのは、国家は人を犠牲にすることを厭わないということです。共同体を守るための犠牲者、あるいは共同体の価値を守るための犠牲者。昔からずっとそういうものです。軍人は公共のものに被害が及ばないよう守る義務を帯びています。それも命がけで。そこでも命が他の生命と天秤に掛けられます。軍人の生命と民間人の生命。軍人として、私は日々、種々の危険について考察するよう求められています。国民をどうやって守るか? どうすれば私たちの国守れるか? それが私の任務です。

 連邦憲法裁判所の判決が実際に何を意味するか(検察官は)考えたことはありますか?あの判断が実際には何を意味するかということです。上空で戦闘訓練をする時、敵の立場にたってみる必要があります。敵が何をするか先読みしなければならないのです。連邦憲法裁判所の判決について考察したら、テロリストが何をするか明白です。

テロリストは無辜の人を常に利用するでしょう。そうすれば国家はお手上げです。裁判所が私たちを無力にしてしまったのです。テロリストのなすがままです。国家は武器を置き、私たちは観念する。 あなたは乗客164人を殺害したことで私を告発しています。あなたは、私がこの愚かな決断に従わなかったことを非難しています。私の義務だったはずだと。この決断でわたしたちがお手上げになるから、それに従わなかったのです。・・・


 このあと被害者参加人を証人として召喚し、裁判長が色々質問する。煩雑になるので、それはここでは省く。



<第二幕>以下は、もっとも大事な場面になるので、できるだけ詳しく説明する。
 検察官による論告と弁護人による弁論が展開される。

(検察官)みなさん、被告人には非の打ちどころがありません。被告人の考えは誠実で真摯です。ラース・コッホはすべて自覚をもってきわめて明晰な精神のもとに実行しました。正しいと確信をもっていたのです。今回の公判で問題になっているのは、わたしたちが無辜の人を救うために他の無辜の人を殺してもいいのかということです。そしてそれが数の問題かどうかということです。とっさの判断では恐らく誰もがそうするでしょう。一見正しいように思えます。・・・・しかしみなさんは、私たちの憲法が別のことをわたしたちに要求していることをすでに耳にしました。連邦憲法裁判所の裁判官はこう言っています。命は他の命と天秤にかけるこは許されない。絶対に許されない。たとえそれが大量の数でも。それでいいのか、そのことについて、より正確に考える責任があります。・・・

 1951年、ドイツ法哲学者ハンス・ヴェルツエルがいわゆる「転轍機係の問題」を書きました。急な山の線路で貨物列車暴走した。列車な全速力で谷間の小さな駅へと疾走する。そこには旅客列車が停まっている。このまま貨物列車が衝突すれば数百人が死ぬことになる。みなさんが転轍機係だとします。みなさんは、転轍機を操作して貨物列車を別な線路に引き込む事ができます。そこには線路の修理をしている5人の線路作業員がいます。貨物列車を別な線路に引き込めば5人作業員を殺すことになりますが、数百人の乗客は救える。あなただったらどうしますか?実際、大抵の人は貨物列車を別な線路に引き込むでしょう。そういう行動をとることは正しいとみなせます。

私たちは過ちを犯します。それも再三にわたって。それが私たちの本性です。私たちは、その時々にとっさに確信すること以上に頼れるなにかを必要としています。どんなに困難な状況でも有効な指針。私たちは原則を必要とするのです。それが私たちの憲法です。私たちは個々のケースを憲法に照らして判断すると決めたのです。あらゆるケースが憲法という秤にかけられ検証されます。検証の基準は憲法であって、私たちの良心やモラルではありません。憲法よりも上の権力があると考え、それを基準にすることは論外です。そこが法治国家の本質だと。・・・私たちの憲法とは、モラル、良心、その他の理念よりも優先しなければならない原則の集合体です。その中でもっとも重要原則こそ人間の尊厳です。・・・・

 注)さらに続く裁判官の言葉の中に、”国家安全指揮・命令センターにいる軍人のことを考えてください。そこにいた軍人が全員、憲法に忠実に対応していたら、このような状況にならなかったはずです。なぜならスタジアムからの退去が行われ、誰一人危険にさらされることはなかったはずだからです”、という発言が出ています。結果的にはそうなるかも知れないが、ルフトハンザ機が、もっとスタジアムに接近して退去の時間がなかったらどうするのか、そのあたりが曖昧なので、記述から外しています。またスタジアムではなく、他の大きな高層ビルに激突して数多くの人が死亡したかもしれない。

 参審員のみなさん、コッホは英雄ではありません。殺人を犯しました。その手で人間をただのモノと化したのです。あらゆる決定の機会を奪いました。尊厳を犯したのです。有罪になること求めます。


(弁護人)参審員のみなさん、検察官ははっきり言いました。原則のために被告人を無期懲役にすべきだと主張したのです。原則ゆえに7万人が死ぬべきだった、と。原則を基準にすることは果たして意味があるかどうか、もう少し考えてみましょう。イマヌエル・カントが、奇しくも原則について短い論文を書いています。(1797年)カントは、そこでこう主張しました。”人殺しが斧を持ってあなたの家の玄関にたちます。あなたの友人がちょうどその人殺しから逃れて、あなたの家に逃げ込んだところです。その友人を殺すつもりだ、どこにいるか知っているか、と人殺しはあなたに問います。なんとカントは、嘘をつくことはいけないことなので、この状況でも嘘をつくことは許されなとしたのです。つまりみなさんは、こういわなければならないのです。「もちろんです、人殺しさん、友人はソファに座ってスポーツ番組を見ています。どうぞお好きにんさってください」
カントは本当にそう要求しました。そして検察官はみなさんに同じことを要求しているのです。原則は個々の事例に優る、原則は生命より重要だ、と。おそらくたいていの場合正しくもあるでしょう。しかし、今回の事件で原則に準じるのは、常軌を逸していなでしょうか? 私はその人殺しに嘘をつくでしょう。友を救うことを優先します。

人間の尊厳という原則が生命を救うことに優るというのは正しいでしょうか?個別かつ具体的なことを見ていきましょう。航空安全法が合憲かどうかについて、連邦憲法裁判所が下した判決をご存知ですね。しかし、航空機を撃墜した時、軍人は罪を背負うことになるのかどうかについては明言していないのです。航空安全法自体は違憲かもしれませんが、ラースコッホが罪を負うことになるかどうかは、別問題なのです。

連邦憲法裁判所裁判官とわたしたちの憲法は、生命の価値を無限に大きなものとみなしています。だとすれば、生命を他の生命と天秤かけることはできません。この基本的な考え方は、私には疑わしいものであり、健全な人間の考えと矛盾するように思います。それにより小さな悪を優先させることは正しいとする判決が過去に何度も出されています。
 
2000年にイギリスの法廷が判決をくだした事件があります。シャム双生児は生まれてから一緒に成長しました。医師団は、このままではいずれ二人共死ぬと表明し、分離することをすすめました。しかし分離手術は、どちらか一人の確実な死を意味しているとも言いました。両親は反対し、この問題は裁判所の判断に委ねられました。その結果、控訴院はより生命力のある子を生かし、生命力の弱い子を殺す判決を下しました。これも、命を他の生命と天秤にかけることにほかなりません

「人間の尊厳と「憲法の「精神」という概念については長時間議論することができます。しかし、世界は学生向けゼミナールではありません。実際のところ、私たちは以前にもまして大きな脅威にさらされています。テロリストは私たちを破壊したいのです。テロリストの狙いはひとえに死と破壊にあります。彼らが連邦憲法裁判所の判決を読むことになります。彼らはどん結論を出すでしょうか? 「なるほど、人間の尊厳か。たしかにそのとおりだ。テロはやめておこう」などと考えると思いますか?彼らは連邦憲法裁判所が定めたことを逆手にとるでしょう。できるだけ多くの無関係な人々が乗っている航空機をハイジャックするはずです。私たち上品な法治国家はテロリストになんら手をださないと保証されているからです。連邦憲法裁判所は降伏したのです。ラースコッホの有罪判決は、私たちの命を守りません。そして私たちの敵であるテロリストを守り、私たちの敵であるテロリストの命を奪う攻撃に手を貸すことになるのです。

(裁判長)みなさんは被告人と証人の言葉、検察官と弁護人の最終陳述を聞きました。被告人の最後の言葉を胸に刻んで評議してください。正しい裁きが下るかどうかは、あなた方にかかっています。 評議では、被告人が連邦憲法裁判所とその憲法が課した義務に違反したことは許されるのかどうかを問題にしてください。そこが核心です。



(評決)裁判長によって以下の判決が言い渡される。

(有罪判決)被告人ラースコッホを164人の殺害によって有罪とする。判決の根拠は以 下の通り。

 2013年7月26日、被告人は空対空ミサイルによってルフトハンザ機を撃墜し、機内にいた乗客164人を殺害しました。法的根拠については次のように説明できるでしょう。われわれの法は、自分自身、家族あるいは親しい人物の危険を取りのぞいた者の罪を許す。つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合は罰せられないのです。しかし被告人とスタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。したがって被告人が無罪となる根拠は条文にはありません。ここで問題になるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。当法廷は、その数にいかなる差があろうとも、人間の生命を他の人間の生命と天秤にかけることは過ちであるという立場をとります。天秤に掛けようとするこの考え方は、私たち共同体のの基本に抵触します。極端な状況下でもドイツ基本法は存続しなければなりません。人間の尊厳は最上位の原則です。これは人為的に定められたものですが、だからといって遵守する価値が減ずるというものではありません。この原則は市民共同体にとって絶対的保障です。

 当法廷は、被告人が真摯かつ良心に鑑みて正しい判断をしようと心がけたことを疑うものではありません。被告人が決断を誤ったことは嘆かわしいことです。しかし、その誤りが先例になることを認めるわけにはいきません。

ルフトハンザ機の乗客の生死はテロリストのみならず、ラースコッホ被告人の手の中にありました。乗客は無防備で、身を守る術はありませんでした。乗客は殺害されました。人間としの尊厳、譲渡不能の権利、人間としての全存在が軽視されたのです。人間はモノではありません。人命は数値化できません。市場原理に準ずるものでもありません。したがって、当法定に本日の判決は憲法に保証された恐ろしい危険への警告として理解されるべきでしょう。それゆえ被告人に有罪を言い渡します。


 
 (無罪判決)被告人ラースコッホを無罪とする。判決の根拠は以下のとおり。

  被告人は2013年7月26日、被告人は空対空ミサイルによってルフトハンザ機を撃墜し、機内にいた乗客164人を殺害しました。法的根拠については次のように説明できるでしょう。われわれの法は、自分自身、家族あるいは親しい人物の危険を取りのぞいた者の罪を許す。つまり父親が自分の娘を避けようとして車のハンドルを切り、自転車に乗っている人を轢いた場合は罰せられないのです。しかし被告人とスタジアムの観客のあいだにはそうした近しい関係はありませんでした。

したがって被告人は条文にない根拠によってのみ無罪となります。ここで問題になるのはいわゆる「超法規的緊急避難」です。この超法規的緊急避難なるものは、ドイツ基本法、刑法以下いかなる法律にも規定されていません。当法定はその点に看過できない評価上の矛盾を見出します。つまり、行為者が自身あるいは近親者を救いたい、ただそれだけのために自己中心的に行動すれば、法はその行為者を無罪とし、逆に無私の心で行動したとき、その行為者は法に抵触するという矛盾です。しかしながら、無私の心を持った者よりも自己中心的な者を優遇するというのでは理に適いませんし、私たちの共同体の目指すものとも一致しません。
 当法廷は被告人が真摯かつ良心に鑑みて正しい決断をしようと心がけたことを疑うものではありません。ラースコッホ被告人は個人的な理由ではなく、スタジアムのいる人間を救うために旅客機を撃墜しました。客観的により小さな悪を選択したのです。したがって刑法上の欠点はありません。

乗客がコックピットに突入するか、機長が旅客機の機首を上げたのかも知れないという検察の主張は興味深くはありますが、説得力に足るものではありません。第一にそうすることが可能だったとは証明できません。第二に奇跡が起きる可能性もありますが、それを計算に入れることはできません。私たちが検討すべきなのは事実です。さもなければ裁判は不可能でしょう。

 まとめるとこうなります。耐え難いことではありますが、私たちは、わたしたちの法がモラルの問題をことごとく矛盾なしに解決できる状態にはないことを受け入れるほかないのです。ラースコッホ被告人は生死を分かつ者となりました。被告人の良心に基づく判断に遺漏なく検討を加えるための法的基準を私たちは持っていません。航空安全法もドイツ基本法も裁判所も、彼ひとりに判断をさせました。そのことをもっていま、被告人に有罪を言い渡すことは間違いであると確信するものです。ゆえに被告人を無罪とします。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 さあ、みなさんの判断はいかがでしょうか? ラース・コッホ少佐は有罪でしょうか、それとも無罪でしょうか? ここでは非常に重い問題を扱っています。ゆっくりとお考えください。長文にお付き合い頂きありがとうございました。



 

追記 
 このシーラッハの小説は戯曲として、海外も含め各国の舞台で演じられました。その一つを後ほど追補でご紹介します。みなさまのコメントを頂いた後に。
 最後になりましたが、この小説の作者ジェレミー・フォン・シーゲルはドイツの小説家にして弁護士です。法廷劇を描かせたら、この人の右にでる人はいません。私は、『コリーに事件』という短編を読んで衝撃を受けました。この事も追補で触れるつもりです。




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読書 『ある禅者の夜話』(正法眼蔵随聞記)

2019-10-31 | コラム
読書 『ある禅者の夜話』(正法眼蔵随聞記)
もう40年以上前に手にとった本を読み返してみると、いまだにその時の熱い思いが蘇ってくる。それを語ることは、人様にお見せするようなものではないかもしれないが、私のプライベートなメモワールのようなものであるとしてお許しいただきたい。

 平安末期から鎌倉時代にわたって新しい仏教が澎湃として興ってきた。浄土宗/浄土真宗/日蓮宗/臨済宗/曹洞宗などなど。このうち曹洞宗は中国で学んだ道元禅師により、興されたもので、彼は『正法眼蔵』(全95巻)という厖大な書物を書き残した。

 私は長い間にわたってこの本を読み、また紀野一義師(故人)の講演を聞き、正法眼蔵の深い世界に分け入った。13世紀に書かれたこの本は宗教書というよりは、世界最高の哲学書・思想書の一つと受け止めている。しかし、これは極めて難解なものであり、その源流である法華経にまで遡らねばならない。幸い昭和46年に禅文化学院長の中村宗一氏が、その意訳を原文と併記する形で4巻にわたる書物にまとめられた。それでも読み通すには、深い思索と忍耐が必要である。

 ここに掲題の「正法眼蔵随聞記」が登場する。道元禅師の弟子の孤雲懐奘(えじょう)が、道元が夜、何気なく話されたことを記録にとどめたもので、文庫本にして130ページに満たないものである。それでも、その真髄を深く理解するのは、そうたやすいことではない。仏教学者紀野一義師は、その倍ちかいページを費やして、私たちが理解できるように『ある禅者の夜話』と題した書にまとめてくれた。今回は、その本の中からいくつかの印象に残ったところを引きつつ、私自身の感想も含めてご覧に供することにしたい。

     ~~~~~~~~~~~~~~~


 『ある禅者の夜話』の表表紙の裏には、次のような感想をメモしてあった。

 ”初めて読んだのは、豪州はモーウエルのモーテル<ファーナムコート>の一室。石炭液化プロジェクトで、人間の問題に頭を痛めていた時である。まさに、食い入るようにして読んだ。書かれている内容は、いちいち胸に染み入るように入ってきた”


(切に思ふことは必ず遂ぐるなり)随聞記第三の十四の一節

 ”切に思ふことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝なれども、切に思ふ心
  深かれば、必ず方便も出來る(いでくる)様はあるべし。これ天地善神の冥加もありて必ず成するなり”


 (ゆらぎの解説)この前段で、ある僧が道元に、「親ひとり子ひとりであるが、世間からの扶持によって生活している。恩愛も深く、孝順の志も深い。もし私が遁世籠居すれば、母は一日の活命も難しい。それでも(仏)道に入るべきというならば、どういう道理で言われるのであろうか」、と聞いている。道元は、たしかにそれは難しい。しかし、よくよく考えて、さまざまな支度や方便(やりかた)も考えて母御の安堵も支度して仏道に入れば、両方ともによいことである。しかし、もし母親が長寿をたもち、(仏道にはいる)支度ができないときは、自分自身は仏道に入る事ができないのを悔やみ、老母はそれを許さなかった罪に沈む。もし今生を捨てて仏道に入ったのであれば、老母はたとえ餓死するとも、吾が子を道に入らしめた功徳は得道の良縁であろう。


 この問いかけの背景は別として、私は、「どんなに困難なことでも、いずれは実現するあるいは解決できると信じていれば、必ずやりようはある」と受け止めたのである。強い願望を持ち、希望を保ってやり続けることが大事である


紀野一義師はこの一節を『ある禅者の夜話』の冒頭で、取り上げている。
「正法眼蔵随聞記はわたしの座右の書である。17歳のころから49歳の今日まで実に三十年以上もひもとき続けて来た。最初に打たれたのは第三の十四の一節にある、「切に思ふことは必ずとぐるなり」という一語であった。あっと思ったきり、目が放せなくなったのは昨日の日のようである。戦争に行くときも、『万葉集』『歎異抄』とともに行李の底に入れていった。そのころ切に思いつづけていたことは、部下を殺さぬこと、自らは日本人らしく死ぬことであった。死ぬことなく故国へ帰還してから25年、今私が切に思うことは、世界に戦争がなくなり、有縁の大勢の人々が天命を全うしてくださることである。


(玉は琢磨によりて器となる)随聞記第四の五の一節

 ”嘉禎二年臘月除夜、始めて懐奘を興聖寺の首座に請す(こうす)。すなわち小参の次いで、初めて秉払(ひんぼつ)を首座に請う。これ興聖寺最初の首座なり。小参のおもむきは、宗門の仏法伝来の事を挙揚(こよう)するなり。・・・当寺始めて首座を挙揚し、今日初めて秉払を行わしむ。衆の少きを憂うることなかれ。身の初心なることをかえりみることなかれ。扮陽(ふんようは僅かに六七人、薬山(やくざん)は僅かに十衆(じゅっしゅ)に満たざるなり。しかあれども皆仏祖の道を行じき。これを叢林のさかんなるといいき。見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹あに利鈍あり迷悟あらんや。花なんぞ浅深あり賢愚ならんや。花は年々に開くれども人皆得悟するにあらず。竹は時々に響けども聞くものことごとく証道するにはあらず。ただ久参修持の功により弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。これ竹の声の独り利なるにあらず。また花の色の殊(つと)に深きにあらず。竹の響き妙なりといえども自ら鳴らず、瓦の縁をまちて声を起こす。花の色美なりといえども独り開くるにあらず、春風を得て開くるなり。学道の縁もまたかくのごとし。この道は人人具足なれども、道を得ることは衆縁による。人人利なれども、道を行ずることは衆力をもってす。ゆえに今心を一つにして志をもっぱらにして、参究尋覓(さんきゅうじんみゃく)すべし。

 人は練磨によりて仁となる。いずれの玉か初めより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれを琢磨し練磨すべし。みずから卑下して学道をゆるくすることなかれ。、古人の云わく、光陰空しくわたることなかれと。今問ふ、時光は惜しむによりてとどまるか惜しめどもとどまらざるか、すべからく知るべし。時光は空しくわたらず、人は空しくわたることを。人も時光と同じくいたずらに過ごすことなく、切に学道せよと云うふなり。”

 紀野一義師は『ある禅者の夜話』で、次のように言っている。

 「この一節は、日本人にとって書かれた男性的な文章の代表ともいうべきものである。和辻哲郎先生はこの第四の五に『随聞記』のもっとも高揚したところがあると言われている。・・・さてその正法が今日にひろまっているひとつのあらわれとして、当興聖寺においてはじめて首座を定め、その首座に私の代りに説法をさせるのである。自分がまだ初心者であることを心配してはならぬ。薬山禅師には、わずか十人の弟子しかいなかった。
それでも皆仏祖の道を行じた。これこそ叢林のさかんな時といったのである。見よ、香厳智閑は、掃除をしている時瓦が竹の林の中に飛び込んでカチンと鳴る音を聞いて悟りを開いた。竹に利鈍、迷悟があるだろうか。霊雲志勤は、山の麓から村里を眺め、桃の花が咲いているのを見て悟り開いた。花に浅深、賢愚があるだろうか。花は年々開いているけれどもその花を見た人が皆悟りを開くわけではない。・・・なぜ悟るかといえば、長いあいだ参禅して努力することにより、、道をわきまえ、修行の労を一生懸命やることによって、道を悟り心を明らめるのである。花の色が美しいからといっても独りで開くということはない。春風が吹き来たってはじめてひらくのだ。学道の縁もかくのごとしである。・・・玉は磨くことによって本当玉になる。人も練磨することによって本当の人になる。どんな玉が最初から光があるか。どんな人が初めから聡明であるか。石頭希遷禅師は、光陰空しくわたることなかれ、と言っている。お前たちに言おう。時光(時間と空間)は惜しむことによってとどまるのか。惜しんだとてとどまらないのか。時間も空間も移ってゆくというけれども、時間や空間が空しくわたるのではなく、人間が空しくわたるのである。時間や空間は人間に関係なく動いている。空しくわたっているのは人間なのである。だから時間が空しく過ぎたなどと言ってはならない。時間は空しく過ぎてゆくのでない。勝手に人間が空しくわたっているだけである。人も時光もおなじくいたずらに過ごすことなく、、切に学道せよというのである。」


 (ゆらぎ思うに)初めから”玉”のように光を放ち、出来上がっている人は、あまりいないが、常に学びつづけることによって、人間的に完成してゆく。できないと、思って努力を惜しむようなことがあってはならない。 

 京都大学の総長であった平澤興(昭和32年)は、”人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ”、と言っているが、その彼がそこに至るまでには限りしれない努力を積み重ねている。そして、愚直な人間でもでも、その努力の積み重ねによっていつのまにか凡人の域を超えることがあり得るのだ、ともいっている。このことばには、大きく励まされたという思いがある。「ミスター半導体」こと東北大学総長であった西沢潤一氏も”愚直一徹”と同様なことを言っている。仏教の教えからは離れるが、ここの道元の言には強い共感を覚える。


 
(ただ心身を放下して)随聞記第五の六 

 ”一日示していわく、仏法のためには身命(しんみょう)を惜しむことなかれ。俗なを道のためには身命をすてて、親族をかえりみず忠を尽くし節を守る。・・・
いわんや納子(のっす)の仏道を存するも、必ずしも二心なきとき、まことに仏道にかなうべし。

仏道には慈悲智慧 もとよりそなわる人もあり。たとひ無きひとも学すれば得るなり。ただ心身ともに放下して、仏法の大海に回向して、仏法の教えに任せて、私曲(しきょく)を存ずることなかれ。また漢の高祖の時、ある賢臣のいわく、「政道の理乱は縄の結ぼれおるを解くがごとし。急にすべからず。よくよく結び目を見て解くべし」と。仏道もまたかくのごとし。よくよく道理を心行ずべきなり。”

 紀野一義は、次のように解説している。
「納子(のっす)の仏道、というのは達磨大師以来ずっと続いている禅宗のお坊様の仏道ということである。その仏道を行ずるには、二心があってはならない。絶対に二心がないときにまことに仏道の叶うのである。仏道を修行する人たちの中には、慈悲や智慧がはじめから備わっているひともある。たとえそれがない人でも、仏道を学んでいるうちにそれを得ることができる。

「ただ心身をともに放下して」という時の、この「ただ」が大切である。「只」ということを道元禅師は非常に重んじた。「只」というのは「もうそれしかない」ということである。道元禅師は、座禅するときに「只管打座」(しかんたざ)といわれた。「只管」を「ひたすら」と読む人がいる。しかし「ひたすら」と読んではいけないと思う。「ひたすら」というと、それは一生懸命ということになる。無理をしてでも一生懸命にやる。それが「ひたすら」である。「ひたすら勉強する」といえば、あまり勉強したくないけれども、しかたがないととにかく一生懸命やらなくては、という気持ちが入っている。そこには一点、濁りがある。それと「ただ座る」というのとは違うわけである。ただ勉強する、ただ何々する、その「ただ」というのが大切なのである。

だからこの「只管打座」は、ひたする座禅をする、ということではないのである。ひたすら座禅するのは、本当の座禅ではない。ひたすらとか、ひたむきにというから、座ったらどうなるかなどということを考えるようになる。それではならぬのである。

親切にするということを考えてみよう。ひたすら親切にするというのと、ただ親切にするというのは違うであろう。ひたすらという方は、これはやっぱり親切にしてあげなくてはいけないと考えながら親切にしている。ただ親切にしているというのは、親切にしてあげたらどうなるとか、この人は好きだから親切にしてあげるとか、そういう引っかかりがまるっきりない。引っかかりがあると、親切が親切にならぬのである。ただ愛するというのもその中に入る。私が好きな人だから、誰それを愛する。これはひたすらの方に入る。これは、いつ憎しみに転換するか分からない愛し方である。そうではなくて、ただ愛するのである。なにか大きな力にうながされて、ただ愛するのである」 

 後半の部分に触れて紀野一義は次のように云っている。後半の冒頭にある私曲というのは、自分だけの間違った考えかたという意味である。自分勝手に考えた間違った考えかたをもつような事があってはならない、はじめから師匠の云うとおりにすべきと、言っている。ここのところは詳しくは省略する。

 「漢の高祖に、ある賢臣がこういうことを言った。「政道の理乱は縄の結ぼれおるを解くがごとしと」 理乱とは乱れをただすことである。政道の乱れをただすことは、縄が結ぼれたのを解くようなものである。「急にすべからず。よくよく結び目を見て解くべし」。縄の結び目というものは、丁寧に小口から引っぱっていって、するするとほどいてゆくのが一番である。結局そのほうが早い。癇癪をおこして無理に引っ張れば、もう解けなくなる。だから腹をたてないでどうしてそうなったか考えることだ。結ぼれるには時間がかかっているのだから、解くにももっと時間がかかると思うべきである。

 自分の心の中のしこりもまた同様である。何年もかかってできたしこりを、すぐに取ろうという方が無理である。だから時間をかけてだんだんい解くというのも楽しみである。少しづつ少しづつ解けてゆくのがいいのである。「仏道もまたかくのごとし。よくよく道理を心得て行ずべきなり。・・・」



 (ゆらぎ思うに)随聞記のなかの、「只管打座」というときの、”ただ”という言葉は、紀野一義は繰り返し述べているが、仏の道の修行から離れ、一般論として考えてみるなかなか難しい。”ただ愛する”というのは、どういう場合を指すのであろうか?ある女性を、美しいとか可愛いとか思って愛するのは、ひたすら愛するということになる。母親が、生まれたばかりの幼児を可愛がるのは、理屈抜きに可愛いから愛する。可愛くても、見た目に可愛くなくても可愛がる。これは、”ただ”愛するのであろう。最近は、その幼児を痛めつけて死に至らしめてしまうケースが多々あるが、まことに理解に苦しむ。そういう行動をとる母親は、その母親から”ただ”愛されてはこなかったからではないか。

少し脱線するが、プロゴルファーに例をとると、彼もしくは彼女は、上手くなって人よりも上に立ちたい、また人から認められたい/尊敬されたいと思ってハードな練習をする。これは、”ひたすら”の方である。道元先生に反論するようだが、”ひたすら”な取り組みも意味がある。話は変わるが、世の中に絵を描くのを楽しんでいる人は数多くいる。彼らは楽しみで絵を描いている。そういう絵を絵画展に出品して人様にみてもらうのを楽しみにしている。そのような絵を見ていると、ほとんどの人が”上手な絵を描きたいと”と思って描いていることが、如実に伝わってくる。それも悪くない。しかし、美しい自然に感動して、それを伝えようとする気持ちよりも、うまい絵を描くという気持ちが伝わってくることが多い。そういう絵は、”うまいなあ”とは思うけれど、あまり印象に残らない。これは、”ひたすら”描いているからだ、・・・あまりいい例ではないかもしれない。間違っていたらご容赦ください。
具体的な絵ということで、マティスの絵(赤い食卓)について触れる。この絵は、”ひたすら”という域を遥かに越えているように思う。もちろん、巨匠マティスにとってみれば、一生懸命描くという域は遥かに越えており、遊戯三昧というような境地で描いているのではないか。”ただ”、の境地であろう。だから心を惹かれるのである。

     



(よき言葉は耳に逆らう)随聞記 第五の十三

 ”一日示していわく。世間の人多くいう。「それがし師の言(ことば)を聞けどもわが心に叶わず」と。この言は非なり。・・・学道の用心というは、わが心に違えども、師の言、聖教の言理ならばまったくそれにしたがって、もとの我見をすててあらためゆくべし。こ心が学道第一に故実なり。われ昔日(そのかみ)、わが朋輩の中に我見を執して知識をとぶらいける者ありき。わが心に達するをば、心得ずといいて、我見の相(あい)かなうをば執して、一生むなしく過ぎて仏法を会(え)せざりけり。われそれを見て智発してしりぬ。学道はしかるべしと。かく思いて師の言にしたがって、まったく道理を得て、その後看経(かんきん)のついでに、ある経にいわく、「仏法を学せんと思はば三世の心を相続することなかれ」と。誠に知りぬ、さきの諸念旧見を記持せずして次第にあらためゆくべきなりということを。

書にいわく「忠言は耳に逆らう」いうこころは、わがために忠あるべき言葉は必ず耳に達するなり。違するとも強いて随い行ぜば、畢竟(ひっきょう)して益あるべきなり。”


 これについて紀野一義は次のように云っている。 

 「これもまた随分はっきりしたものの言い方である。世間の人はよく言う。「どうも先生の言うことは、わたしの気持ちにぴったりこない。」と。これに対して道元はぴしゃっという。こういう時、道元は、弟子の方にも道理があるだろう、などということは一言も言わぬ。「この言は間違っている」とはねつける。どういうわけかというと、師は経典に説かれている道理をきちんと踏んで教えを説いていうのであるから、その師のいうことがぴんと来ないのは、聖教の道理そのものが自分の心に違背しているということになる。・・・師の言うことがどうしても自分の心に叶わないというのなら、なんではじめから師匠に問うのか。・・・・これくらい手厳しくやらなければ教えるなどということはまずできないと思う。教えるということがただ知識を教えるというだけのことであったら、この間言ったことは違っていたよ、ですむであろう。 しかし仏教というものは、知識を教えるのではない。自分がこの人生を生きているという真実を教えるわけであるから、この間は言い違えた、今は考えが変わったというようなことではならぬのである。・・・・
 
 その後経典を開いていたところ、ある経の中に「仏法を学せんと思わば三世の心を相続することなかれ」と書いてあった。「三世の心」というのは、時間的に移り変わる心である。過去・現在・未来と時間的に移り変わって行く心を、同じものとして引き継いだりしてはならぬというのである。人間の判断とか、ふつう私たちが心と呼んでいるものをあまり信用するなというのである。                                                                 
さらに(忠言は耳に逆らう)という言葉について、次のように解説を加えている。

 『孔子家語』という本の中に、「忠言は耳に逆らう」ということが書いてある。「わがために忠なるべき言」というときの「忠」は、日本人が考える「忠」とは違う。中国人がいう「忠」は、「まごころ」のことである。まごころのあることばというものは、必ず耳に逆らうものだ。気に入らないものだ。しかしその心を押さえ、そのことばの通りに実行してゆけば、かならず利益があるのだ、という。

 世間には、わざわざこちらの腹を立たせるようなことをいう人間がいる。そうすると、あんないやな奴とはもう付き合わない、とすぐ考える。ところが「忠言耳に逆らう」であるから、いやなことをいわれたら、ああこれが本当の忠言、誠実な言葉は、真実わたしを大切にしてくれることばだなと考えて、いわれたとおりにせよというのである。しかし実際に自分の妻や夫から耳に逆らうようなことを言われると「何お」とすぐに反発する。それではなるまい。そういう時にこそ、この一節を思い出さなくてはならぬのである。 

 人は自分にとって大切な師を持たねばならぬ。自分にとって大切な人だと『思えば、その人にいやなことを言われてもありがたいと思える訳である。


 (ゆらぎ思うに)仏教の道においては、大切な師を持つことを強調している。そこから離れ、私たち凡人は日常生活において、どのように受け止めればよいのであろうか。
”自分にとって大切な師を持たねばならぬ”、と言われても、そうそう容易なことではない。私自身、大学の学部の時、”この教授について学びたい”と思うような師との出会いはなかった。自分が学んできた古い知識を振りかざす教授がほとんどで、絶望的になったこともあった。今なら、アメリカの大学へ行って勉強しようと思うかもしれないが、当時は学費にも事欠くありさまであった。よき師との出会いは、なかなか容易ではない。

吉川英治の『新書太閤記』を読むと、主人公である秀吉のあるエピソードが描かれている。”我れ以外みな我が師也”と、しているのであった。彼は一個の秀吉だが、智は天下の智を集めていた。周智を吸引して本質の中にろ過していた。・・・彼は自分を、非凡なりとは自信していたが、我は賢者なりとは思っていない。・・・秀吉は、卑賤に生まれ、逆境に育ち、とくに学問する時とか教養に暮らす時などは持たなかったため、常に接するものから必ず何かを学び取るという習性を備えていた。だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりではない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼はその者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとしてきた””我れ以外みな我が師”という言葉は、印象に残る。



 さらに紀野一義師は言う。(心の奥に木魂が鳴りわたるように)

 この頃は他人のことばに耳を傾けるということがなくなった。言葉を大切にしなくなった。これは現代人がテレビや週刊誌に耳目を奪われているからである。三十分の間の、人間の一生を描き出そうなどというつまらぬことを考えるから、しゃべってしゃべって、しゃべりまくるということになる。もう少し、みのりのあることをゆっくりしゃべってもらいたいと思う。ところが、ゆっくりしゃべると、知性の低い俳優はすぐに馬脚をあらわす。早くしゃべるからごまかせるので、ゆっくりやれといわれたら困るのである。・・・・能の舞台で、すぐに上手下手がわかるのは、動きが極端に遅いからである。あれを早くやったら変なものである。
 昔はおばあさまなどが、孫にゆったりとおとぎ話などしてくれたものであった。孫たちは、ゆったりと語りかけるおばあさまの話にゆったり耳を傾けて聞きほれ、それを生涯忘れなかったものである。言葉に耳を傾ける、という習慣がなくなった今日の日本人は不幸せなことである。・・・・

 いつか、何気なしにテレビをつけたら、長崎県下にキリシタン村の報道をやっていた。長崎には隠れキリシタンの村がたくさんある。その村の老婆が、教会へ行ってお祈りしているときの顔などを映していたのでじっと見ていたのでる。あとで、どうして自分は一生懸命見ていたのかな、と考えてみた。その番組は、言葉はほとんどなくて、祈っている顔だとか、お墓ばかり映しているのであった。その墓は、みんなキリシタンの弾圧で死んでいった人たちの墓である。あとは静かな海辺の村の風景が映っていた。ときどき詩のようなことばで、それを解説しているのである。その解説がまた実にいいのである。

 こういうテレビはこちらも黙って見入るようになる。ことばが少なければ少ないほど、人間は耳を傾けるようになるのではあるまいか。自分の言うことを人に聞かせたいと思ったら、あまり能弁にしゃべらぬ方がいいのである。・・・
 道元禅師はいつでも、どうしても聞いて貰わなくてなならぬと思っている。聞いてもらおうと思うときに、「そうではないでしょうか」とは言わぬ。「そうなのだ、そうなのだ」という。・・・本当に聞いて貰おうと思ったら、大切なことを、すこしずつゆっくりと、相手のこころの中へ木魂が響きわたるように、呼びかけるということしかない。道元禅師は、夜懐奘とふたりきりの時、あるいはちょっとした集まりのときに。弟子の心の奥に木魂が鳴り渡るように、短い、余韻の深い言葉で語りかけられたのである・弟子たちがわすれられなくなったのも当然である。・・・具体的のいえば、自分のそばにいる人にやさしい言葉で、ゆっくりと、語りかけなくてはならない。語りかけたことばがひとつずつ、相手の心に沈んで行き、木魂が鳴り渡るように相手の魂を揺り動かすようでなくてはならない。


  (ゆらぎ思うに)冒頭の文の中に、能の舞台のことが出てくる。舞台の上で、能役者は、ゆっくり足をすすめる、ということが出てくる。能の足の運び(運歩)は、すり足といい、つま先を少し上げつつ足を静かに滑らせる。やってみると分かるが、簡単なものではない。ゆっくりしゃべるというのも、そう優しいことではない。己の心が落ち着いていないと、どうしても話し方は早くなる。時々、テレビでアナウンサーや解説者などが話をしているのを聞くことがあるが、総体に早口である。そして、何でもかんでも伝えようとする。

”相手のこころの中へ木魂が響きわたるように、呼びかける”、という意識がある程度ないと、ゆっくりと話をすることはできない。ちなみに、チェロを弾く場合でも、ゆっくりと弾いて、音がぶれない、ゆれないのは意外にむずかしい。相当の意識が必要である。



     ~~~~~~~~~~~~~~~

 『正法眼蔵随聞記』の中の文の、ほんの一部をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

 仏教学者で駒沢大学名誉教授の酒井得元氏(故人)は、敗戦を北満の地で迎え、シベリアの地で捕虜になりました。ある時、書籍類の半焼の灰燼の中から『正法眼蔵随聞記』の文庫本を発見し、その奇跡に感激して肌身離さず持ち歩いた、とのことです。明日の運命が、どうなるかまったく保証のない不安な流浪の中で、この本は生きる勇気を与えてくれたと語っています。

 私にとっては、この本からさらに進んで『正法眼蔵』に親しむようになり、それはある意味人生のバックボーンとなったような気がしています。











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(予告編)エッセイ 旅に憧れる

2019-09-28 | コラム
以前「旅にでかけよう」と題して森本哲郎の『ぼくの日本十六景』をご紹介しつつ、いくつかの町への旅について書きました。今回は、嵐山光三郎の『芭蕉紀行』や藤沢周平の町、鶴岡への旅などにについて書きました。「居酒屋を求めて」、という駄文も書いています。アップは、10月の第一週かと。しばらくお待ちください。


















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コラム 風の音~原発処理水

2019-09-22 | コラム
コラム 風の音~原発処理水
                       (写真は、千葉県の停電の状況を示すマップ)


 このところ新聞はあまり読まない。単にあった事を報道するだけで、その背景や意味、問題点などについて掘り下げて報じられることはあまりない。では、国際政治や時事問題、金融や経済などなどは何によって知るのかというと、そのほとんどはSNS(フェイスブック、ツイッター、それらにつながるブログもふくめて)それから有料配信ニュース(NewsPick,WSJ・・・)によっている。

 最近、福島第一原発の処理水(マスコミはなぜか汚染水と書く)のことは前環境大臣の原田さんの発言からはじまった。”処理水は海洋放出しかない”、と。これは何の問題もないのであるが、後任の環境大臣に就任した小泉進次郎氏は、それを否定して福島漁連に陳謝した。余談になるが、この人の話しを聞いていると、なるほどとうなずくこともあるが、紙に書いてみるとほとんど中身がない。

 そもそも処理水は、原子炉を冷却する時に使用される水は、その時点では汚染されるが適切な化学処理(ALPS)によってトリチウム(三重水素)以外はすべて除去される。トリチウムは現在の技術では除去できないが、自然界にも存在するもので、一定の基準値であれば排出(放出)はもちろんのこと、飲料水としての利用も問題ない。 現在、福島の原発内のタンクに貯められている100万トンの水は、(一部は再処理してから)希釈すれば人体・環境に無害な水として対応(=海洋放出)できるのである。

それから処理水は、原発事故を起こした福島特有の問題ではない。
日本を含むあらゆる原子力発電所でこの冷却水は発生しているわけであり、充分な化学処理をした後に海洋放出が行われている。(下記の図を参照、経産省の資料から)


    
     




 では、なぜ経産省の小委員会で、まだえんえんと議論が続いているのか、それは福島での風評被害を恐れているからである。 

ことは、簡単だ。小泉環境相が、率先して福島の海で取れた魚を食し、議員会館の食堂で福島の魚を料理した食事を議員みんなで楽しめばいいのだ。風評被害など、どこかへ飛んでしまう!


 せっかくなので、千葉県での停電問題について。未だに停電は続いている。風速50メートルを越す未曾有の強風が吹いたからである。停電があるため、配水ポンプも作動せず、水のきていないところもある。千葉県市長の熊谷俊人氏は、毎日の状況をツイッターを含むSNSで毎日活動状況を発信し続けている。頭の下がる思いである。それに対し、千葉県知事の某氏は初動も遅れ、”電力関係者は不眠不休でやってほしい”、というばかり。ついでの思い出したが、太平洋戦争中の米軍では、あまりに激しい戦闘なので、定期的に交代で「休暇」をとったとか。

東電の復旧現場では作業員たちが真摯に働き続けている。その裏にはこの停電復旧の根本的な原因が隠されているとの指摘がある。電柱の立て直し、撤去、寸断された電線の引き直し、変圧器の交換など現場工事のスキルは社員はもはや持ち合わせていない。協力会社、あるいはプロジェクトごとに集められたスキルをもった熟練職人であった。それが、昭和60年代から平成に入る頃から、現場の作業を避け、技能労働を軽んじる風潮が生まれ始めた。3Kを避け、ホワイトな机の上での仕事につくことが人生の勝ちパターンという物語を皆が共有するようになった。

ある人が指摘するように、みんなが管理する側に回って、現場の熟練ノウハウが減衰すれば、工事の品質は落ち、作業が遅れていくのである。この問題を如何に解決するか?
熟練労働者の評価のあり方を考え直さなければならない。






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コラム 風の音~映画「散り椿」

2018-02-23 | コラム
コラム 風の音~映画「散り椿」

 今は、まだ見ぬ恋人に出会うのを待っているような心境である。映画「散り椿」のことである。なぜ、そうなるに至ったのか? 先ごろ親しい友人に誘われて加古隆という人のカルテットの演奏会に足を運んだ。(しらかわホール 名古屋)

 加古隆は長年映画音楽の作曲をしてきた人である。この名前におなじみではない方もおられるかもしれないが、あの映画「阿弥陀堂だより」のテーマ音楽を作曲した人といえば思い出されることであろう。彼は作曲活動のかたわら、長年に渡ってカルテットの演奏活動を続けてきた。加古隆がピアノを弾き、それにバイオリン、ビオラ、チェロという構成である。

 演奏会では、冒頭に「阿弥陀堂だより」のテーマ音楽「風のワルツ」が流れた。聴いていると、おだやかな春の日差しを浴びているような気持ちになってきた。それからいくつもの映画音楽が演奏された。その次のパートでは、「パリは燃えているか」など「映像の世紀組曲」を演奏した。第2部の「大河の一滴」に続いて、「散り椿」のテーマが演奏された。ほとんどがチェロの独奏であった。切ない愛にあふれたような調べにうっとりしてしまった。最後はオーケストラ曲の「熊野古道」の第一楽章の旋律が流れた。

 とても余韻が残る演奏会であった。そして演奏を楽しんだだけにとどまらず、次への発展につながっていったのである。まず映画「散り椿」ぜひとも見てみようと思った。今年の秋の公開される予定である。そして散り椿の花を、この目でみてみたいということにつながっていったのである。

 まず映画「散り椿」のこと。これは作家葉室麟の同名の小説を原作にしている。舞台は享保15年のある藩。かつて藩の不正を訴えたが、認められず故郷を去った男、瓜生新兵衛(岡田准一)は、連れ添った妻の篠が病に倒れた時、彼女から最後の願いを託された。それは、藩に戻って榊原采女を助けて欲しいと言うものだった。二人は良きともであり、良きライバルであり、また篠をめぐる恋敵であった。藩の不正を正そうとするして、かつての親友采女と対決する。・・・


     


この映画を貫く散り椿のテーマ音楽にしびれてしまった。そして二人の対決の場には五色の八重の椿が散るという、そのシーンを見てみたい。

 調べてみると、「散り椿」というのは普通名詞ではなく、実在する椿の固有名詞なのである。花弁が一片一片散っていく一木には白から紅までさまざまな色の椿の花が咲いているという。どこで見られるかと、さらに調べると京都の地蔵院という古刹にあることがわかった。花が咲くのは三月下旬という。

     




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