(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ日記 みやこに遊んだ日々~祇園後祭りと十一面観音のこと

2014-07-31 | 読書
(おことわり)時系列で書きましたので、祇園祭のことは後半になってしまいました。お急ぎの方は、ずうーっと下の方をご覧ください)



 この1~2年京都に足を運ぶ回数が増え、知人・友人も多くなった。いまや、”半分、京都人”と冷やかされることもある。しかしお祭りの時は、時代祭りであれ葵祭りであれあまり行っていなかった。雑踏の物凄さに辟易もし、またゆっくりしたくても宿がとれない。それに昨年の祇園祭のように、なぜか雨にたたられることがある。そう、京都は天候の急変することが少なからずある。
しかし、このたびは天候も安定し、フェイスブックを通じて京都の仲間から懇切丁寧なお誘いもいただいたので、祇園祭それも今年から再開された後祭りを見にゆくことにした。結果は・・・? 暑さも何のその、最高に楽しむことができた。


 せっかくなので前日に行って宵山もみることにして、宿を抑えた。四条烏丸に新しくできたホテルの部屋を確保することができた。できたばかりなので、まだ知る人も少なく予約ができたのは幸いであった。神戸を出てJRの快速で京都へ。車中で住吉駅のコンビニで買った弁当を使う。時間の節約になるし、それにここの2段弁当はうまいのだ。焼き鯖の味噌漬け、野菜のかき揚げなどなど。ワンカップでも欲しくなるくらい。京都駅からは、JRの山陰線で花園に向かう。この経路は、洛西に向かうときは、市中の喧騒もさけることができ、かつ早いので好都合である。


(法金剛院の蓮の花)

 花園駅前からすぐのところのある<法金剛院>に向かう。ここは、京都の写真仲間のKさんから、”蓮の花が咲いている”と教えてもらったスポットである。妙心寺の近くにある。ところで、京都に行くときは、必ずといっていいほどチェックする本がある。ふつうのガイドブックではない。『京都「五七五」あるき』と題する本である。”旅ゆけば俳句日和”という副題が示すとおり、著者(池本健一氏)が訪ねあるいた京都のスポットの数々を、そこを詠んだ俳句を引きながら案内するという素晴らしいガイドブックである。後で述べる祇園祭のところでは、その一節をご紹介する。が、この法金剛院は洛中・洛外をカバーしたこのでもとりあげられていな。目立たぬ穴場といえよう。



 さてこのお寺は、花沙羅双樹のを愛でる会で知られる東林院のある妙心寺近くにある。関西花の寺第十三番霊場である。平安時代の終わりに、鳥羽天皇の中宮である待賢門院が、衰退した天安寺を復興して法金剛院を創立した。双が丘の東にあり、衣笠山を望む。西行法師が、この美貌の待賢門院璋子を恋い慕っていたことはよく知られるところである

 ”たづぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君がゆくへを”

この歌を中宮璋子に渡すために受け取った女官の待賢門院堀河の歌碑が庭におかれている。 ”長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ ”

余談ながら、この中宮璋子は恋愛に関してはそうとう自由奔放であったようで、48歳年上の白河法皇にも可愛がられています。西行は一度はこの璋子に受け入れたものの、すぐ捨てられたようです。このあたりの皇室の裏面史には、『待賢門院璋子の生涯』(角田文衛)という、ものすごい名著があります。なにが、”ものすごい”って? いや、白河天皇(白河法皇)と璋子の情交に関して徹底的に科学的考察をしているのですから。語りだしたら止まりそうにもありません。このへんで本論に戻ります。

          


 小振りではあるが、落ち着いた構えの門を入ったところの受付で、”蓮の花は朝開くので、もう殆ど閉じておりますが・・・”、と申し訳なさそうに言われる。”いや、構いませんよ。全体の佇まいも見たいし、なんと言っても十一面観音を拝ませていただければ・・・”と答えて、中に入らせてもらう。そう、この寺には本尊阿弥陀如来をはじめとして重文がずらりと並んでいるのである。最近、あちこちの十一面観音を見てまわり、気に入っている私としてはどうしても拝謁しなければならぬ、ちょっと珍しい像である。なんとも可愛らしい表情で、四手の坐像である。瓔珞のきらびやかなこと。全体のつくりが繊細にして豪奢な、こんなに美しい観音像は最近見た記憶がない。誰もこない、静かなお堂でじっくり拝む事ができ、心の愉悦すら感じた次第である。写真撮影は禁止、他のソースにも画像はないのでお見せできないのは残念である。白州正子が、その著『十一面観音巡礼』の中で、桜井にある聖林寺の十一面観音を見た時の印象として、

 ”さしこんでくるほのかな光の中に浮かび出た観音の姿を私は忘れることができない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。・・世の中にこんな美しいものがあるのか・・・・”

と、語っている。しかし、白州正子は、この法金剛院の観音像は見ていないようである。私自身は、白州が語っている聖林寺の十一面観音を、この春に見ているが、その云うところの美しさを、法金剛院の観音像は遥かに超える(と、勝手に思う)美しさである。大事に後世に残しておきたい仏像の一つである。(写真は、聖林寺の観音像。光背を復元したときの予想である)

 
          


 もうこれだけでも満足なのであるが、当初の目的である蓮の花のことも愛でねばなるまい。この法金剛院は、様々な蓮の花をあつめており、別名「蓮の寺」と言われている。中門を潜って参道の奥には庭園が広がる。

          

左手には礼堂がある。参道の両側、礼堂の前には鉢植えの蓮がある。その前には蓮池という池泉回遊式庭園が広がる。池には、水面が見えないくらい蓮がびっしりと水面を埋め尽くしている。

     

     

あまりに多い蓮の花に仰天する。写真を並べだしたらきりがないので、ほんの数枚のみ。白、紅、それと礼堂を望む蓮池の眺め、さらにはこんな素敵なせせらぎさえある。蓮の花が広がる朝ではなかったが、すっかりその圧倒的な眺めを堪能した。次の機会には、十一面観音について語りあえる友と、紅葉の季節にでも再訪したい。


     
     


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(祇園祭のこと)

 ”祇園祭では、前夜の宵山もいいものですよ”、と京都の知人に案内をされた。好天でもあるので、いそいそと出かけた次第である。日の盛りの暑いときに洛西まで赴いて蓮の花をみてきたが、宿で汗を流して、さっぱりするとまた元気がでてきた。それでなくても昏れなずむころには紅灯の巷を漫ろきたい私である。フロントに聞くと、日没は7時過ぎというので、それに合わせて宵山を見にでかける。

           

 御池通りと河原町通りの間、烏丸通りより二三本西に入った新町通り、室町通の細い通りに山鉾が並び、駒形提灯に灯が入る頃、道はびっしりと人の波で埋まってゆく。山鉾の一つ一つが造り方が違う、鉾にはられた飾り~タペストリーや段通などの調度品も様々。コンチキチンの祇園囃子の音が胸に心地よく響いてくる。南観音山/鯉山/役行者山/北観音山/函谷鉾/月鉾・・・・。見ているひとには、着物姿・浴衣姿、子供には甚平などなども多い。外国人の女性で着物姿をあちこちで見かけた。

          


見落とせないのは、室町通りや新町通りの<屏風祭り>である。それぞれの家々では、宵飾りといって、秘蔵の屏風や書画を飾り、格子を外して、通りに面した部屋を開放して自由に見せてくれる。光琳百花図にはには驚かされた。

 この宵山を詠んだ句や歌があるので、少しご紹介する。

 ”函谷鉾(かんこぼこ)に旧約聖書タペストリー” (田部みどり)

 ”京格子外して屏風祭りかな” (原澤京子)

 ”宗達の屏風ありやと鉾町を めぐりて歩く京の宵山” (吉井勇)

 ”ゆくもまたかへるも祇園囃子の中” (橋本多佳子) 

          

この山鉾がゆるゆる動く新町通りまたそこから東、烏丸方面に伸びる小路には多くの店ができていて、賑がありました。中には洒落たグルメスポットが少なからずあります。それも町家を改装したのが。フレンチ・ダイニングのある店のメニューをみると、富山の氷見漁港から直送してくる魚介や朝採り野菜をふんだんに使っての料理。ボルチーニ茸のパスタや黒ムツのグリル・・、涎が出てきそう。しかし、その夜はひとりなので、いつもの高倉御池上がるの「M長」へ。若女将以外に顔なじみはいない。しかし、すぐ打ち解けて話は弾んだ。隣の席のシニアからは宵山エリアにある地蔵菩薩の話しを聞かされた。腹が朽ちたので、再び宵山に戻る。人の波で身動きもままならぬ。しかし幸い新町通りを南下すると150年ぶりに復活した大船鉾の雄姿を見ることができた。それにしても、このあたりは人の往来もおおく、建物・店の賑いもあって、新しいパワーのようなものを感じた。

 そしていよいよ24日は山鉾巡行である。朝早くから御池通の市役所前近くに陣取る。ちょうど道端の手頃な高さ縁石が点在しているので、そこに腰掛けて山鉾を待つ。カメラを持つ私のすぐ近くに淡い紫の着物を着た妙齢のご婦人がひとり鉾を待つ。口紅の赤がなんともいえず艶かしい。おそらくは、どこかの鉾を引く男衆の中に、想い人がいるのであろう。そんな風情。個人情報保護の観点から(笑)、写真をお見せできなのは残念である。久々の眼福である。そうこうするうちに遥か西の彼方、御池烏丸あたりでは山鉾がズラリ並んでいたのが、動き出す。かすかな祇園囃子の音が次第に大きく聞こえてくる。祇園會/弁慶山/北観音山/鈴鹿山/南観音山/役行者山・・・・・。そして最後は大船鉾である。船体も大きい。それを支える真っ黒な車輪も人の背丈を超す。パワーを感じる。重量10トン余。地上から鉾頭まで高さが25メートル前後。この巨体を40~50人の綱方が引く。

          


 ”白炎天鉾の切っ先深く許し” (橋本多佳子)

 ”裏方に徹するがいて鉾回る” (伊東敬子)

行列は河原町御池の交差点で「辻まわし」~方向転換をする。積んできた沢山の小さく割った青竹を道路にばらばら並べ水をかける。そうした準備のあと曳き手がぐっと引いて、方向を変える。稚児や囃子方や音頭取りだけでなく、曳き手の彼らこそ巡行を支えているのだ。回った鉾は河原町通を南下していった。

蝉しぐれの降る暑い日ではあったが、道端のけやきの大樹の緑陰のおかげで、長いあいだ持ちこたえることができ、満足しきった。二日間、祇園祭り見せてもらったが、京都人の心意気、誇りのようなものを感じた。














コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(予告編)気まぐれ日記 みやこに遊んだ日々~祇園祭など

2014-07-26 | 読書
今年から復活しました祇園祭の後の祭りを楽しんできました。いろんなシーンとの出会いがありました。記録にとどめて置きたく書いてみました。法金剛院の蓮とあわせてご報告いたします。


(制作中です、しばしお待ちください)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書 『本のある風景』(植村達男)

2014-07-16 | 読書
読書 『本のある風景』『神戸の本棚』(植村達男)

 ここに二冊の本がある。3年ほど前の本である。それは、いわゆるプロの作家が書いたものではなく、いわばアマチュアの人が、本を探しまた読む楽しみについて書いた私家版のようなものである。そして、この香り高い本のことはどうも忘れられずにいる。

 伝記作家の小島直記に、『出世を急がぬ男たち』(新潮文庫 1984年4月)という人物論を主とした著書がある。電力王松永安左エ門や宝塚歌劇を創立した小林一三、日本のケインズと言われた政治家石橋湛山、また財界総理と呼ばれた石坂泰三などなど出世を急がなかった男たちについて熱のこもった人物紹介を展開している。その中に2冊ほどの読書に関する掌編が含まれている。一つはギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』であり、もうひとつがここで取り上げる『本のある風景』である。

 植村達男というひとは保険会社に務めるごく普通のサラリーマンである。もう一冊の本の題名からも想像されるように神戸にゆかりの方である。本好きの楽しさを描いた、彼のエッセイについて小島直記はよほど深い印象を持ったようで、次のように書いて賛辞を送っている。

 
 ”著者はサラリーマンで、本が好きな人らしい。その本とのつながり方は、たとえば
 
  「私にとって一生のあいだに、是非とも探しだして読みたいと思っている本が何冊かある。神田あたりの大きな古本屋に頼めば、即座に見つけ出してくれるかもしれないが、それではあまりに面白みがない。また、見つけた時の喜びも小さい。それに、値段のほうも気になる。そこで本探しについては、のんびり構えることにしている」
     注)大正時代のハイカラな神戸の山本通・諏訪山などを背景に、幻想の文学を生み出した。稲垣足穂(たるほ)の「星を売る店」についての文から。

 という文章でも明らかである。つまり、銭にあかせて買い漁る人ではない反面、自分で本を探す人である。そして、一生のあいだに是非探して読みたい何冊かの本ーという心の世界を抱きながら、この索漠とした暮らしを耐えていく人である。そういう点が、われわれの親近感を掻き立てずにはいられない。

 ”本好きの楽しさは、「金木犀の香り」の一編にもうかがえる。”
(ここは、この本の最も印象的なところなので、小島直樹の要約ではなく、ほぼ原文のまま、全文をご紹介したい。)

 
「鎌倉の神奈川県立近代美術館の画家ムンクの展覧会を見に行った帰りのこと。不安、不死、憂愁の画家といわれるノルウエー人の灰色がかった絵に少々の疲れを覚えた私に、突然、金木犀も香りがパッと襲って来た。私は芳香の源をこの目で確かめようと思って、駅へ行く道を右へ折れて回り道することにした。商店街の雑踏を外れるとそこは閑静な住宅街であった。

 落ち着いた町並みのあいだを暫く歩いて元の通りをへ出ようとした処に、清潔そうな古本屋があった。最近開店したばかりの明るい感じの店である。私はある期待を抱いて書棚に目を凝らした。私は以前から、昭和初期に惜しくも四三歳で亡くなった画家あ小出楢重の残した三冊の随筆集を探していた。これらの本を発見することは、非常に困難であることは十分承知の上なので、古本屋の書架を見回すときは、何時もないことを確かめるようなつもりであったし、一生の間に捜し出せばいいやなどと、気の長いことを思ったりしていた。

 藝林荘というこの本屋には珍しくも鍋井克之・岸田劉生・中川一政の随筆が三冊並べてあった。いずれも戦前発行の本であり、ちょっとやそっとではお目にかかれない本である。多分、鎌倉に住む好事家が蒐集したものが死後売却されたものであろう。
 私は「やっぱり無かった」と半ば失望しながらも、一方では捜す楽しみが持続することに半ば安心を覚えたので、ガラスケースに収められたボロボロの古文書を見たり・・・・
 そして、もう一度「念のため」と思って、先ほどの随筆の並んでいる書架の前に立ってみた。 「あった!」 「あったのだ!」
白い背表紙に金箔で印刷された文字が、長い年月ため薄くなって殆ど読めないぐらいになっていたので、一度は見落としてしまったが、そこにあったのは、まぎれもなく、小出楢重三冊目の随筆集『大切な雰囲気』であった。

 ムンクの絵・静かな家並み・金木犀の香り・清潔な古本屋。いずれも、この発見に到るまでの素晴らしい光景であった。」
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 如何ですか? なんとも味わいのあるエッセイですね。それにこの筆者の、ごく普通の光景を楽しむ詩人のような目がいいですね。これを読んでいて、僕は以前ブログでご紹介した鎌倉の「俳句堂」という古書店のことを思いだしました。ぜひ、目を通してみて下さい。ああ、鎌倉のまちを歩きたくなってきました。



 もう一編ご紹介しましょう。著者の好きな小出楢重の本のことです。

 ”昭和45年、坂本勝著『佐伯祐三』が日動出版から出る。その本に匠秀夫著『小出楢重』の予告がのっている。爾来、著者はこの本の実現を待つ。待つ内に、結婚をし、東横線代官山近くに新世帯を持つ。渋谷まであるいて10分。日曜日には下駄をはいて渋谷まで散歩にゆく。三省堂、紀伊國屋、渋谷書店をぶうらつき、「トップコーヒー」で備え付けの新聞を五、六種類読み、二ヶ月に一度くらいの割で、開店間もない日動画廊渋谷店をのぞき、そのうちの三回に一度は受付嬢に『小出楢重』の出版はまだですかと尋ねる。返ってくる返事はいつも同じーそのような企画が進められていることは確かであるが、本の出来上がるのはいつになるか分からない、ということだ。
 昭和46年10月、銀座の日動画廊で小出楢重没後40年記念展。そのとき入手したパンフレットに、匠秀夫が「小出楢重研究ノート」を寄せている。「わたしが小出楢重の裸婦に出会わなかったならば、今でもイギリス中世史をほそぼそと調べていることであろう・・・」とという書き出しがとても印象的であった。人生行路を大きく変えてしまったという絵との出会い。その瞬間の匠の感動はいかなるものであっただろうか。著者は、ますますます出版を楽しみにするようになる。
 それから一年以上たつ。待ちきれなくなり、匠宛に葉書をだす。公正は終っているという返事がくる。この段階でもう一度日動画廊へ行って聞いてみると、今年の秋にはでるとの返事。

 著者はこの時点(昭和48年9月)で、「待つ」という一文を草する。
「出版まであと二ヶ月かかるという。そのとおりいけば、かろうじて48年秋に間に合うことになる。この原稿が活字になる頃にはきっと『小出楢重』が私の本棚に立っていることだろうと思うが、もし出版が遅れても、私は辛抱強く待ち続けるであろう。待つことにはもう慣れっこになっている。」

 この本がでたのは、昭和50年3月である。そのことを追記として一行書き加えただけの「待つ話」には、純粋で強固な精神がいぶし銀のように光っている。生きる叡智、そしてよろこびとは何かを、さりげなくわれわれの胸に染み込ませるものがある。”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この著者、植村達男は、それから8年たって、もう一冊の本を上梓した。それが同じ勁草出版からでた『神戸の本棚』である。これは、神戸にゆかりのある本のことや、著者が神戸で大学生活を過ごしたころの神戸の風景などが描かれている。神戸大学の経済学部を卒業されたのが1964年。私は、そのころ神戸の会社に就職をして、神戸の街に住み始めて3年経ったころであった。その頃の風景がでてきて、ひときわ懐かしい。阪急電鉄の六甲駅あたり、芦屋、神戸一中(今の葺合高校)、石屋川や御影あたり、外国船員を見かける元町周辺などなど。今も住吉川沿いに旧居が残されている谷崎潤一郎のことは、かなりの頁が割かれている。それは小説『細雪』の舞台でもある。


          


 ここでは私自身にとって、もっとも思い入れのある中川与一の小説『天の夕顔』に触れた一文を紹介するにとどめておく。「割れた魔法瓶ー甲陽学院と『天の夕顔』ー

 ”この学校(甲陽学院)に関する私の記憶が二つばかりある。・・・二つ目の記憶は、大学一年の終わりごろ読んだ中川与一『天の夕顔』に関するものである。こ小説のちょうど真ん中あたりに、たった一回だけ甲陽中学のことがでてくる。・・・この小説の梗概を述べることは本稿の目的ではないので省略する。しかしこの小説が中川与一の代表作であり、昭和13年に発表され戦中から戦後にかけて45万部もでたことは挙げておかねばならない。

 「わたしが初めてその人に逢ったのは、わたしがまだ京都の大学に通っていたころで、そのころ、わたしはあの人の姿を、それも後ろ姿など時々見てはまた見失っていたのです・・・

   注)文中に出てくる「その人」または「あの人」なる女性は、かつて神戸の熊内くもち)あたりに住んでいた。

 傾斜地の多い神戸の町を過ぎて、布引の山の弓なりに湾曲しているあたり、ちょうどその中に抱き込まれているような高みの所に出、それからガラス張りの洋風な家などの並んでいるあたりで、わたしは、やっとあの人のうちの門札を見つけたのです。」

 『天の夕顔』の「わたし」は、それから東京に転居した「あの人」の家を捜す。その手がかりが甲陽中学である。「あの人」の息子が甲陽中学に入学したという古い記憶から、学校に問い合わせるなどして住所をつきとめたのである。”


 ここに出てくる布引(ぬのびき)あたりは、私自身もよく散策もしたところで、この『天の夕顔』の舞台はここかなあ、などど想像しつつ歩いたものである。


 長々となりました。この本を読んで思ったのです。こういう「神戸の風景」を、それも今の姿を書いてとどめて置くのもわるくないな、と。それで、神戸元町の山手にある、小さな万年筆店を訪れることにしました。いずれ、それらを集めて、この本の続編とする積もりです、


          




 注)1938年(昭和13)に発表された『天の夕顔』はゲーテの『若きウェルテルの悩み』に比較される浪漫主義文学の名作として各国語訳され、西欧諸国でも高い評価を獲得。戦後、英語、フランス語、ドイツ語、中国語など6か国語に翻訳され、アルベール・カミュから激賞された。
 
 



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(予告編)読書 『本のある風景』『神戸の本棚』(植村達男)

2014-07-11 | 読書
作家の小島直記が、その著『出世を急がぬ男たち』の中で、”一冊のつつましい。よく澄んだ本が上梓された。・・・読後感の充実した手ごたえは、数千頁の本のそれと匹敵する”と絶賛した、香り高いエッセイをご紹介します。しばらく、お待ちください。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の日記 会津ふたたび~人のつながり

2014-07-03 | 旅の日記
旅の日記 会津ふたたび~人とのつながり
            (写真は会津木綿のデザイン)


 昨年の9月、初めて会津に地を踏んだ。大河ドラマ<八重の桜>などで描かれた会津、そこの今の姿を見てみたかったのである。(その時の様子は「旅の日記~福島・会津の旅」と題してアップしてあるので、興味のある方はご覧ください)

 その時お世話になった東山温泉の宿<芦名>の大女将から、”次は新緑の頃にいらっしゃい”と言われていたので、そのタイミングを見計らっての旅である。それともう一つ。お酒を一緒に楽しめる連れが欲しいので、大先輩のNさんをお誘いした。この人選には、もうひとつの狙いがあった。Nさんの曽祖父は、会津戦争の折、年長者で構成された玄武隊の一員であった。まさに会津ゆかりの人である。

 降りしきる雨も、郡山から磐越西線で会津盆地に入ったころには、すっかり上がり晴れ上がった。そこには長い間雨がなかったようで、土は白く光っていた。

 実は今回、会津を訪れるに当たってはフェイスブックを通じてデザイナーである京都の友人経由で会津の人とのつながりができていた。そのFさんとお会いするため道中もiPhoneのメッセージ連絡をとりつつ会津若松のメインストリート七日町通りへ行く。只見線の七日町駅近くに、奥会津の物産を販売するアンテナショップが出来てた。そこに物産品を納める会社の社長のFさんを待つあいだ、イタリアンの店<パパカルド>で昼食を楽しんだ。

          

ここは矢口一二三シェフと奥様のふたりで経営する小体なイタリアンレストラン。その質は、東京や大阪のイタリアンなどと比べても遜色がない。それどころか、会津地鶏や新鮮な会津野菜をふんだんに使いこなしたメニューは魅力的である。その日も、会津産のアスパラガスが旬なので、食べて見たいとお願いした。サーブされたのは、桜えびをいれたペペロンチーノ。それにアスパラが盛りつけられているが、そのソースの美味なこと。カルヴァドスを飲みながら、その味を楽しんだ。客あしらいもよく、また来てみたいと思わせる。


 新しく通りにできた奥会津の物産店<河内屋>さんでFさん、そしてそのパートナーのHさんと共に歓談する。奥会津のこと、町の振興のためのNPO活動、東北大震災復興後の動きとその問題点、はたまた会津文様のことなど、いろいろ聞かせていただき、有意義な一時であった。帰り際にお土産として赤べこの帽などを買った。奥会津の町の一つに柳津(やないず)というところがあり、そこのシンボルが赤べこ(赤い牛)なのである。幸せを運ぶ民芸品としてみなに愛されている。それが、帽子となった。

 同行のN先輩が、ゆかりの地鶴ケ城を改めて見てみたいいという。白亜の城は桜の新緑に包まれていた。たまたま来ていた修学旅行の小学生と挨拶を交わす。”どこから来たの?”と聞いてみる。・・・”おっちゃんたちは?”、”神戸だよ” ”神戸ってどこ?””君たち東京は知ってっるだろう、その向こう、京都より西に方だよ” ”ふーん、知らんわあ、行ったことない。東北の村に住んでいて、狭い世界しか知らない。日本全体のことは小学校5~6年にはまだ無理のようだ。弓を今も引いているNさんは、城郭の一角にある弓道場をのぞいて、ごきげんである。

 その日の宿は、会津若松の市内から30分ほどのところ東山温泉にある<いろりの宿芦名>である。わずか7室の小さい温泉宿であるが、食事もうまく、気持ちのよい宿である。好きな作家の池波正太郎が『よい匂いのする一夜』というエッセイを書いて、彼の愛好した宿を紹介していた。いわく、日光金谷ホテル、湯布院玉の湯、伊東市龍石、京都の俵屋などなど。それらと比べるのはいささかの無理があろうが、あちこち泊まった経験からすると、ここも勝るともおとらぬ、気持ちのよい宿である。”よい匂いのする一夜”をゆっくり、静かに味わうことができる。それは大女将の気配りであり、また若女将以下の、フレンドリーでかつ押し付けがましいところのないサービスのせいである。案内されたのは、二間続きの部屋。男二人の場合、お互いに遠慮しあうところもあり、寝るところがセパレートされているのはありがたい。早速、お風呂。小さな風呂だが、きちんとメンテされていて清潔そのもの。洗い場の入り口のところには青畳が敷かれている。今どき、珍しい。

          

 一休みしたところで、夕食。築120年の土蔵を改装した部屋で、いろりがきられている。献立は次のようなものであった。

    ・ぶりのお刺身(新潟まで僅か一時間なので、新鮮な魚介が入ってくる)
    ・かに寄せ/枝豆/数の子
    ・隠元の炊いたん
    ・イワナの炭火焼き(契約している岩魚取りの名人が釣ってくる)
    ・アスパラに塩焼き(これに秘伝の味噌が乗っている。乾した獅子茸をオリーブでオイルで炒めてある)

途中で酒は南会津の「国権」(生酒)「名倉山」(燗酒・・・。 Nさんはどんどん、私は少しづつ。

    ・にしん/高野豆腐/こんにゃくの炊いたん
    ・会津地鶏の炭火焼き(いろりの炭火の上に、水晶盤(直系30センチくらいの透明な円盤)に載せてじっくり焼く。適度に熱がまわり、それはそれは美味である)

                    

    ・鯉の洗い、酢味噌和え

酒は、「写楽」に移る。これは冷やで。充分に酒が回ったところで食事。無理を言って温かい蕎麦を用意してもらう。会津塗の大きなお椀で供された。いうことなし。
食事のあと、しばし休息。外は小雨がしとしと降っている。再び湯に浸かる。誰もいない深夜の露天風呂、青がえるでも居れば対話ができるのだが・・・。

    ”雨の湯に青蛙見る山深し”


(奥会津へ)
 奥会津へ足をのばしたのには、前述の赤べことの関係のほかにもう一つの理由があった。それは五月の末に東京・表参道の秋山庄太郎写真芸術館でみた奥会津写真家集団による写真展である。奥会津を縫って走る只見線を愛し、3年目前に水害でいまも分断されている鉄路の復旧を願っている人たちの写真展であった。


そこを訪れた時に、運良くそのメンバーが数人おられて、リーダーである星賢孝さんともお会いすることができた。写真撮影スポットなどのお話を伺って、ますます足を運んでみたくなったのである。

     

 奥会津と一口でいうが、とても広大なエリアである。どこへ行けばいいのか分からない。しかし、南会津に住むHさんはどんどん進んで行く。磐越自動車道をを坂下(ばんげ)ICで降り、柳津町に入った。雨がぱらぱら降る。ここでは福満虚空菩薩圓蔵寺に参拝する。1200年もの歴史を誇る古刹である。この境内に到る道を歩いて目を瞠ったのは、その新緑の鮮やかなこと、雨上がりということもあろうが、余程空気が澄み切っているからだ。

          

今から400年ほど前に会津地方を襲った大地震で柳津は大きな被害を受け、この寺も倒壊した。その後この本堂は現在の巌の上に建てられたが、その木材の運搬で難渋していたとこころ、どこからともなく赤毛の牛の群れが現れて木材の運搬を助けたという。以来、その牛に感謝の気持ちをこめて、撫で牛の像がたてられ、赤毛の牛を赤べこと呼び、福を呼ぶ牛として多くの人に親しまれるようになったとか。そこからこの柳津が、「赤べこ発祥の地」と呼ばれるようになった。そういうわけで、撫で牛の銅像をなで、赤べこと並んで写真を撮ってもらった。

          

 さらに車を走らせ、道の駅「尾瀬街道みしま宿」へ、ここで昼食。その後、近くにある只見線のビューポイントに登る。ほんの少し登るだけだが、はあはあ言う。年を感じさせられる。さはさりながら、眼下に只見川、それを渡っている第三鉄橋、その向こうの集落、さらに広がる奥会津の山々という絶景を眺めることができた。が、ここでは写真撮影に失敗した! 緑が白っぽく、今いちピントが甘い。遠近の強いコントラスト。円偏光フィルターを使うべき、とは後の祭り。最近コンデジに頼りきっていて、本格的な一眼レフでの使い方を忘れていたのである。その後は、雨が降りだしてきたこともあり、あまり写真が撮れていない。せっかくなので奥会津の風光は紹介したい。そこで前述の星賢孝さんの写真をシェアさせていただくことでお許し願いたい。上の只見川遠望は、ゆらぎの撮影。2枚目の小巻集落は星さんの写真から。


     
      

そして只見の第三鉄橋を走る列車。これも星さんの作品。

        
 
  本当はブナの原生林を見たかった。ちょうどわれわれが会津若松に到着した日の朝刊に奥会津の最奥に位置する只見町の生物圏保存地域が、ユネスコのエコパークに登録が決まったとのニュースが報じられた。手っ取り早くいえば、手付かずのブナの原生林である。天然林としては国内最大規模という。ちなみに白神山地は世界遺産であるが、面積の大きさでは、この只見町のものが最大である。

     

 時間がなかったので、その只見町や田子倉ダムの方面へ行くのは諦めた。その変わり会津盆地が見下ろせるという北方へ向かい雄国パノラマラインから、恋人坂を登って雄国沼へ車を走らせた。残念ながら、登るに連れ風雨が強まり、頂上の沼のあたりは濃霧に包まれていた。

 という訳で、フルに奥会津の風光を楽しむことはできなかった、しかしながら、出会った人たちの話などから、その素晴らしさを感じ取ることができた。ブナが紅葉する頃、今度は浅草から東武鉄道/野岩鉄道/会津鉄道と乗り継いで、でいれば途中で1~2泊して旅を楽しみたいものである。さらに付け加えれが、戊辰戦争で没した河井継之助の終焉の地は奥只見の塩沢であり、また江戸時代に疲弊した奥会津を立て直した保科正之の足跡も追ってみたい。自然だけでなく、歴史にまつわる話題も少なくない奥会津である。


(またまた酒とめしの話)奥会津から持ち込んだ泥のついた靴を脱ぎ、まずは玄関のいろり端で休息、お風呂に漬かって疲れを取る。その夜の夕食は、また場所を変え、もっともひろい囲炉裏の部屋で。まずは、南会津の銘酒花泉の「一ロマン」(冷や)からスタート。大女将もスタッフの江里ちゃんもつきっきりで世話を焼いてくれる。

    ・(初めの一品)サザエのお刺身/もずく/スナップ・エンドウのにんにく味噌和 え
    ・キンキの塩焼き(関西では食べられないね)
                 
    ・煮物(筍/高野豆腐/水菜)
    ・豆腐のみそ漬け
    ・生ふのえごみそ、炭火焼き
    ・おからのサラダ
    ・にしんの山椒漬け
    
ここでお酒は、天明酒造の「亀の尾」をぬる燗で。
    ・会津牛の水晶盤焼き、肩ロース(猪苗代の坂下(ばんげ)塩川より)
    ・サーモンの焼いたのをうるいの酢味噌で

と、いうような贅沢なメニュを堪能した。

 旅立ちの朝は、また違ったいろりの部屋で朝食。しっかりした、お仕着せでない朝食がサーブされる。”よい匂いのする宿”の必須条件である。

    ・しょうゆ麹をかけた納豆と漬物
    ・ダシに漬けたわらび
    ・なめこ
    ・地鶏の玉子
    ・鯖の塩焼き
    ・揚げだし豆腐などなど

どうしても、一献傾くたくなる献立に、「国権」を冷やで少々頂いてしまった。大満足で宿を出ようとすると、昨日泥だらけになった靴が、きれいに磨かれていた。そして宿が用意してくれたお馴染みのクラシック・カーで会津若松駅へ向かった。

     






コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする