(おことわり)時系列で書きましたので、祇園祭のことは後半になってしまいました。お急ぎの方は、ずうーっと下の方をご覧ください)
この1~2年京都に足を運ぶ回数が増え、知人・友人も多くなった。いまや、”半分、京都人”と冷やかされることもある。しかしお祭りの時は、時代祭りであれ葵祭りであれあまり行っていなかった。雑踏の物凄さに辟易もし、またゆっくりしたくても宿がとれない。それに昨年の祇園祭のように、なぜか雨にたたられることがある。そう、京都は天候の急変することが少なからずある。
しかし、このたびは天候も安定し、フェイスブックを通じて京都の仲間から懇切丁寧なお誘いもいただいたので、祇園祭それも今年から再開された後祭りを見にゆくことにした。結果は・・・? 暑さも何のその、最高に楽しむことができた。
せっかくなので前日に行って宵山もみることにして、宿を抑えた。四条烏丸に新しくできたホテルの部屋を確保することができた。できたばかりなので、まだ知る人も少なく予約ができたのは幸いであった。神戸を出てJRの快速で京都へ。車中で住吉駅のコンビニで買った弁当を使う。時間の節約になるし、それにここの2段弁当はうまいのだ。焼き鯖の味噌漬け、野菜のかき揚げなどなど。ワンカップでも欲しくなるくらい。京都駅からは、JRの山陰線で花園に向かう。この経路は、洛西に向かうときは、市中の喧騒もさけることができ、かつ早いので好都合である。
(法金剛院の蓮の花)
花園駅前からすぐのところのある<法金剛院>に向かう。ここは、京都の写真仲間のKさんから、”蓮の花が咲いている”と教えてもらったスポットである。妙心寺の近くにある。ところで、京都に行くときは、必ずといっていいほどチェックする本がある。ふつうのガイドブックではない。『京都「五七五」あるき』と題する本である。”旅ゆけば俳句日和”という副題が示すとおり、著者(池本健一氏)が訪ねあるいた京都のスポットの数々を、そこを詠んだ俳句を引きながら案内するという素晴らしいガイドブックである。後で述べる祇園祭のところでは、その一節をご紹介する。が、この法金剛院は洛中・洛外をカバーしたこのでもとりあげられていな。目立たぬ穴場といえよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/7b/5555869d405854f5ce488d9aecb4e8f8.jpg)
さてこのお寺は、花沙羅双樹のを愛でる会で知られる東林院のある妙心寺近くにある。関西花の寺第十三番霊場である。平安時代の終わりに、鳥羽天皇の中宮である待賢門院が、衰退した天安寺を復興して法金剛院を創立した。双が丘の東にあり、衣笠山を望む。西行法師が、この美貌の待賢門院璋子を恋い慕っていたことはよく知られるところである
”たづぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君がゆくへを”
この歌を中宮璋子に渡すために受け取った女官の待賢門院堀河の歌碑が庭におかれている。 ”長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ ”
余談ながら、この中宮璋子は恋愛に関してはそうとう自由奔放であったようで、48歳年上の白河法皇にも可愛がられています。西行は一度はこの璋子に受け入れたものの、すぐ捨てられたようです。このあたりの皇室の裏面史には、『待賢門院璋子の生涯』(角田文衛)という、ものすごい名著があります。なにが、”ものすごい”って? いや、白河天皇(白河法皇)と璋子の情交に関して徹底的に科学的考察をしているのですから。語りだしたら止まりそうにもありません。このへんで本論に戻ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/b5/2b31ef984d52baa68d16677739dcf345.jpg)
小振りではあるが、落ち着いた構えの門を入ったところの受付で、”蓮の花は朝開くので、もう殆ど閉じておりますが・・・”、と申し訳なさそうに言われる。”いや、構いませんよ。全体の佇まいも見たいし、なんと言っても十一面観音を拝ませていただければ・・・”と答えて、中に入らせてもらう。そう、この寺には本尊阿弥陀如来をはじめとして重文がずらりと並んでいるのである。最近、あちこちの十一面観音を見てまわり、気に入っている私としてはどうしても拝謁しなければならぬ、ちょっと珍しい像である。なんとも可愛らしい表情で、四手の坐像である。瓔珞のきらびやかなこと。全体のつくりが繊細にして豪奢な、こんなに美しい観音像は最近見た記憶がない。誰もこない、静かなお堂でじっくり拝む事ができ、心の愉悦すら感じた次第である。写真撮影は禁止、他のソースにも画像はないのでお見せできないのは残念である。白州正子が、その著『十一面観音巡礼』の中で、桜井にある聖林寺の十一面観音を見た時の印象として、
”さしこんでくるほのかな光の中に浮かび出た観音の姿を私は忘れることができない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。・・世の中にこんな美しいものがあるのか・・・・”
と、語っている。しかし、白州正子は、この法金剛院の観音像は見ていないようである。私自身は、白州が語っている聖林寺の十一面観音を、この春に見ているが、その云うところの美しさを、法金剛院の観音像は遥かに超える(と、勝手に思う)美しさである。大事に後世に残しておきたい仏像の一つである。(写真は、聖林寺の観音像。光背を復元したときの予想である)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5e/101241be08701f8d45a09ae9b7554d14.jpg)
もうこれだけでも満足なのであるが、当初の目的である蓮の花のことも愛でねばなるまい。この法金剛院は、様々な蓮の花をあつめており、別名「蓮の寺」と言われている。中門を潜って参道の奥には庭園が広がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/e6/3967043ab146b4875818dffbce1bf1c7.jpg)
左手には礼堂がある。参道の両側、礼堂の前には鉢植えの蓮がある。その前には蓮池という池泉回遊式庭園が広がる。池には、水面が見えないくらい蓮がびっしりと水面を埋め尽くしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/08/b80ede2bd7d14b4f1716a09d29cfbba5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/69/d933600f97fcf216de4e14d731c42377.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/a1/9879fda21af3a939d87773194c5ae833.jpg)
あまりに多い蓮の花に仰天する。写真を並べだしたらきりがないので、ほんの数枚のみ。白、紅、それと礼堂を望む蓮池の眺め、さらにはこんな素敵なせせらぎさえある。蓮の花が広がる朝ではなかったが、すっかりその圧倒的な眺めを堪能した。次の機会には、十一面観音について語りあえる友と、紅葉の季節にでも再訪したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/ea/a665c6a6a10907e9ba04a9b9f6437afb.jpg)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
(祇園祭のこと)
”祇園祭では、前夜の宵山もいいものですよ”、と京都の知人に案内をされた。好天でもあるので、いそいそと出かけた次第である。日の盛りの暑いときに洛西まで赴いて蓮の花をみてきたが、宿で汗を流して、さっぱりするとまた元気がでてきた。それでなくても昏れなずむころには紅灯の巷を漫ろきたい私である。フロントに聞くと、日没は7時過ぎというので、それに合わせて宵山を見にでかける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2a/c66cd7f85d6be890f63c4959d083c1e8.jpg)
御池通りと河原町通りの間、烏丸通りより二三本西に入った新町通り、室町通の細い通りに山鉾が並び、駒形提灯に灯が入る頃、道はびっしりと人の波で埋まってゆく。山鉾の一つ一つが造り方が違う、鉾にはられた飾り~タペストリーや段通などの調度品も様々。コンチキチンの祇園囃子の音が胸に心地よく響いてくる。南観音山/鯉山/役行者山/北観音山/函谷鉾/月鉾・・・・。見ているひとには、着物姿・浴衣姿、子供には甚平などなども多い。外国人の女性で着物姿をあちこちで見かけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/7e/b71b97c143adcf8c140bc5d626df6673.jpg)
見落とせないのは、室町通りや新町通りの<屏風祭り>である。それぞれの家々では、宵飾りといって、秘蔵の屏風や書画を飾り、格子を外して、通りに面した部屋を開放して自由に見せてくれる。光琳百花図にはには驚かされた。
この宵山を詠んだ句や歌があるので、少しご紹介する。
”函谷鉾(かんこぼこ)に旧約聖書タペストリー” (田部みどり)
”京格子外して屏風祭りかな” (原澤京子)
”宗達の屏風ありやと鉾町を めぐりて歩く京の宵山” (吉井勇)
”ゆくもまたかへるも祇園囃子の中” (橋本多佳子)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/44/ed70040d1c46c8e9b9fd1d080540c6e2.jpg)
この山鉾がゆるゆる動く新町通りまたそこから東、烏丸方面に伸びる小路には多くの店ができていて、賑がありました。中には洒落たグルメスポットが少なからずあります。それも町家を改装したのが。フレンチ・ダイニングのある店のメニューをみると、富山の氷見漁港から直送してくる魚介や朝採り野菜をふんだんに使っての料理。ボルチーニ茸のパスタや黒ムツのグリル・・、涎が出てきそう。しかし、その夜はひとりなので、いつもの高倉御池上がるの「M長」へ。若女将以外に顔なじみはいない。しかし、すぐ打ち解けて話は弾んだ。隣の席のシニアからは宵山エリアにある地蔵菩薩の話しを聞かされた。腹が朽ちたので、再び宵山に戻る。人の波で身動きもままならぬ。しかし幸い新町通りを南下すると150年ぶりに復活した大船鉾の雄姿を見ることができた。それにしても、このあたりは人の往来もおおく、建物・店の賑いもあって、新しいパワーのようなものを感じた。
そしていよいよ24日は山鉾巡行である。朝早くから御池通の市役所前近くに陣取る。ちょうど道端の手頃な高さ縁石が点在しているので、そこに腰掛けて山鉾を待つ。カメラを持つ私のすぐ近くに淡い紫の着物を着た妙齢のご婦人がひとり鉾を待つ。口紅の赤がなんともいえず艶かしい。おそらくは、どこかの鉾を引く男衆の中に、想い人がいるのであろう。そんな風情。個人情報保護の観点から(笑)、写真をお見せできなのは残念である。久々の眼福である。そうこうするうちに遥か西の彼方、御池烏丸あたりでは山鉾がズラリ並んでいたのが、動き出す。かすかな祇園囃子の音が次第に大きく聞こえてくる。祇園會/弁慶山/北観音山/鈴鹿山/南観音山/役行者山・・・・・。そして最後は大船鉾である。船体も大きい。それを支える真っ黒な車輪も人の背丈を超す。パワーを感じる。重量10トン余。地上から鉾頭まで高さが25メートル前後。この巨体を40~50人の綱方が引く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/c55348b6a61408075f22c24cef8688f8.jpg)
”白炎天鉾の切っ先深く許し” (橋本多佳子)
”裏方に徹するがいて鉾回る” (伊東敬子)
行列は河原町御池の交差点で「辻まわし」~方向転換をする。積んできた沢山の小さく割った青竹を道路にばらばら並べ水をかける。そうした準備のあと曳き手がぐっと引いて、方向を変える。稚児や囃子方や音頭取りだけでなく、曳き手の彼らこそ巡行を支えているのだ。回った鉾は河原町通を南下していった。
蝉しぐれの降る暑い日ではあったが、道端のけやきの大樹の緑陰のおかげで、長いあいだ持ちこたえることができ、満足しきった。二日間、祇園祭り見せてもらったが、京都人の心意気、誇りのようなものを感じた。
この1~2年京都に足を運ぶ回数が増え、知人・友人も多くなった。いまや、”半分、京都人”と冷やかされることもある。しかしお祭りの時は、時代祭りであれ葵祭りであれあまり行っていなかった。雑踏の物凄さに辟易もし、またゆっくりしたくても宿がとれない。それに昨年の祇園祭のように、なぜか雨にたたられることがある。そう、京都は天候の急変することが少なからずある。
しかし、このたびは天候も安定し、フェイスブックを通じて京都の仲間から懇切丁寧なお誘いもいただいたので、祇園祭それも今年から再開された後祭りを見にゆくことにした。結果は・・・? 暑さも何のその、最高に楽しむことができた。
せっかくなので前日に行って宵山もみることにして、宿を抑えた。四条烏丸に新しくできたホテルの部屋を確保することができた。できたばかりなので、まだ知る人も少なく予約ができたのは幸いであった。神戸を出てJRの快速で京都へ。車中で住吉駅のコンビニで買った弁当を使う。時間の節約になるし、それにここの2段弁当はうまいのだ。焼き鯖の味噌漬け、野菜のかき揚げなどなど。ワンカップでも欲しくなるくらい。京都駅からは、JRの山陰線で花園に向かう。この経路は、洛西に向かうときは、市中の喧騒もさけることができ、かつ早いので好都合である。
(法金剛院の蓮の花)
花園駅前からすぐのところのある<法金剛院>に向かう。ここは、京都の写真仲間のKさんから、”蓮の花が咲いている”と教えてもらったスポットである。妙心寺の近くにある。ところで、京都に行くときは、必ずといっていいほどチェックする本がある。ふつうのガイドブックではない。『京都「五七五」あるき』と題する本である。”旅ゆけば俳句日和”という副題が示すとおり、著者(池本健一氏)が訪ねあるいた京都のスポットの数々を、そこを詠んだ俳句を引きながら案内するという素晴らしいガイドブックである。後で述べる祇園祭のところでは、その一節をご紹介する。が、この法金剛院は洛中・洛外をカバーしたこのでもとりあげられていな。目立たぬ穴場といえよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/7b/5555869d405854f5ce488d9aecb4e8f8.jpg)
さてこのお寺は、花沙羅双樹のを愛でる会で知られる東林院のある妙心寺近くにある。関西花の寺第十三番霊場である。平安時代の終わりに、鳥羽天皇の中宮である待賢門院が、衰退した天安寺を復興して法金剛院を創立した。双が丘の東にあり、衣笠山を望む。西行法師が、この美貌の待賢門院璋子を恋い慕っていたことはよく知られるところである
”たづぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君がゆくへを”
この歌を中宮璋子に渡すために受け取った女官の待賢門院堀河の歌碑が庭におかれている。 ”長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは ものをこそ思へ ”
余談ながら、この中宮璋子は恋愛に関してはそうとう自由奔放であったようで、48歳年上の白河法皇にも可愛がられています。西行は一度はこの璋子に受け入れたものの、すぐ捨てられたようです。このあたりの皇室の裏面史には、『待賢門院璋子の生涯』(角田文衛)という、ものすごい名著があります。なにが、”ものすごい”って? いや、白河天皇(白河法皇)と璋子の情交に関して徹底的に科学的考察をしているのですから。語りだしたら止まりそうにもありません。このへんで本論に戻ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/b5/2b31ef984d52baa68d16677739dcf345.jpg)
小振りではあるが、落ち着いた構えの門を入ったところの受付で、”蓮の花は朝開くので、もう殆ど閉じておりますが・・・”、と申し訳なさそうに言われる。”いや、構いませんよ。全体の佇まいも見たいし、なんと言っても十一面観音を拝ませていただければ・・・”と答えて、中に入らせてもらう。そう、この寺には本尊阿弥陀如来をはじめとして重文がずらりと並んでいるのである。最近、あちこちの十一面観音を見てまわり、気に入っている私としてはどうしても拝謁しなければならぬ、ちょっと珍しい像である。なんとも可愛らしい表情で、四手の坐像である。瓔珞のきらびやかなこと。全体のつくりが繊細にして豪奢な、こんなに美しい観音像は最近見た記憶がない。誰もこない、静かなお堂でじっくり拝む事ができ、心の愉悦すら感じた次第である。写真撮影は禁止、他のソースにも画像はないのでお見せできないのは残念である。白州正子が、その著『十一面観音巡礼』の中で、桜井にある聖林寺の十一面観音を見た時の印象として、
”さしこんでくるほのかな光の中に浮かび出た観音の姿を私は忘れることができない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。・・世の中にこんな美しいものがあるのか・・・・”
と、語っている。しかし、白州正子は、この法金剛院の観音像は見ていないようである。私自身は、白州が語っている聖林寺の十一面観音を、この春に見ているが、その云うところの美しさを、法金剛院の観音像は遥かに超える(と、勝手に思う)美しさである。大事に後世に残しておきたい仏像の一つである。(写真は、聖林寺の観音像。光背を復元したときの予想である)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5e/101241be08701f8d45a09ae9b7554d14.jpg)
もうこれだけでも満足なのであるが、当初の目的である蓮の花のことも愛でねばなるまい。この法金剛院は、様々な蓮の花をあつめており、別名「蓮の寺」と言われている。中門を潜って参道の奥には庭園が広がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/e6/3967043ab146b4875818dffbce1bf1c7.jpg)
左手には礼堂がある。参道の両側、礼堂の前には鉢植えの蓮がある。その前には蓮池という池泉回遊式庭園が広がる。池には、水面が見えないくらい蓮がびっしりと水面を埋め尽くしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/08/b80ede2bd7d14b4f1716a09d29cfbba5.jpg)
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あまりに多い蓮の花に仰天する。写真を並べだしたらきりがないので、ほんの数枚のみ。白、紅、それと礼堂を望む蓮池の眺め、さらにはこんな素敵なせせらぎさえある。蓮の花が広がる朝ではなかったが、すっかりその圧倒的な眺めを堪能した。次の機会には、十一面観音について語りあえる友と、紅葉の季節にでも再訪したい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/ea/a665c6a6a10907e9ba04a9b9f6437afb.jpg)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
(祇園祭のこと)
”祇園祭では、前夜の宵山もいいものですよ”、と京都の知人に案内をされた。好天でもあるので、いそいそと出かけた次第である。日の盛りの暑いときに洛西まで赴いて蓮の花をみてきたが、宿で汗を流して、さっぱりするとまた元気がでてきた。それでなくても昏れなずむころには紅灯の巷を漫ろきたい私である。フロントに聞くと、日没は7時過ぎというので、それに合わせて宵山を見にでかける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2a/c66cd7f85d6be890f63c4959d083c1e8.jpg)
御池通りと河原町通りの間、烏丸通りより二三本西に入った新町通り、室町通の細い通りに山鉾が並び、駒形提灯に灯が入る頃、道はびっしりと人の波で埋まってゆく。山鉾の一つ一つが造り方が違う、鉾にはられた飾り~タペストリーや段通などの調度品も様々。コンチキチンの祇園囃子の音が胸に心地よく響いてくる。南観音山/鯉山/役行者山/北観音山/函谷鉾/月鉾・・・・。見ているひとには、着物姿・浴衣姿、子供には甚平などなども多い。外国人の女性で着物姿をあちこちで見かけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/7e/b71b97c143adcf8c140bc5d626df6673.jpg)
見落とせないのは、室町通りや新町通りの<屏風祭り>である。それぞれの家々では、宵飾りといって、秘蔵の屏風や書画を飾り、格子を外して、通りに面した部屋を開放して自由に見せてくれる。光琳百花図にはには驚かされた。
この宵山を詠んだ句や歌があるので、少しご紹介する。
”函谷鉾(かんこぼこ)に旧約聖書タペストリー” (田部みどり)
”京格子外して屏風祭りかな” (原澤京子)
”宗達の屏風ありやと鉾町を めぐりて歩く京の宵山” (吉井勇)
”ゆくもまたかへるも祇園囃子の中” (橋本多佳子)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/44/ed70040d1c46c8e9b9fd1d080540c6e2.jpg)
この山鉾がゆるゆる動く新町通りまたそこから東、烏丸方面に伸びる小路には多くの店ができていて、賑がありました。中には洒落たグルメスポットが少なからずあります。それも町家を改装したのが。フレンチ・ダイニングのある店のメニューをみると、富山の氷見漁港から直送してくる魚介や朝採り野菜をふんだんに使っての料理。ボルチーニ茸のパスタや黒ムツのグリル・・、涎が出てきそう。しかし、その夜はひとりなので、いつもの高倉御池上がるの「M長」へ。若女将以外に顔なじみはいない。しかし、すぐ打ち解けて話は弾んだ。隣の席のシニアからは宵山エリアにある地蔵菩薩の話しを聞かされた。腹が朽ちたので、再び宵山に戻る。人の波で身動きもままならぬ。しかし幸い新町通りを南下すると150年ぶりに復活した大船鉾の雄姿を見ることができた。それにしても、このあたりは人の往来もおおく、建物・店の賑いもあって、新しいパワーのようなものを感じた。
そしていよいよ24日は山鉾巡行である。朝早くから御池通の市役所前近くに陣取る。ちょうど道端の手頃な高さ縁石が点在しているので、そこに腰掛けて山鉾を待つ。カメラを持つ私のすぐ近くに淡い紫の着物を着た妙齢のご婦人がひとり鉾を待つ。口紅の赤がなんともいえず艶かしい。おそらくは、どこかの鉾を引く男衆の中に、想い人がいるのであろう。そんな風情。個人情報保護の観点から(笑)、写真をお見せできなのは残念である。久々の眼福である。そうこうするうちに遥か西の彼方、御池烏丸あたりでは山鉾がズラリ並んでいたのが、動き出す。かすかな祇園囃子の音が次第に大きく聞こえてくる。祇園會/弁慶山/北観音山/鈴鹿山/南観音山/役行者山・・・・・。そして最後は大船鉾である。船体も大きい。それを支える真っ黒な車輪も人の背丈を超す。パワーを感じる。重量10トン余。地上から鉾頭まで高さが25メートル前後。この巨体を40~50人の綱方が引く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/07/c55348b6a61408075f22c24cef8688f8.jpg)
”白炎天鉾の切っ先深く許し” (橋本多佳子)
”裏方に徹するがいて鉾回る” (伊東敬子)
行列は河原町御池の交差点で「辻まわし」~方向転換をする。積んできた沢山の小さく割った青竹を道路にばらばら並べ水をかける。そうした準備のあと曳き手がぐっと引いて、方向を変える。稚児や囃子方や音頭取りだけでなく、曳き手の彼らこそ巡行を支えているのだ。回った鉾は河原町通を南下していった。
蝉しぐれの降る暑い日ではあったが、道端のけやきの大樹の緑陰のおかげで、長いあいだ持ちこたえることができ、満足しきった。二日間、祇園祭り見せてもらったが、京都人の心意気、誇りのようなものを感じた。