(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評 石巻市大川小学校の津波への対応について

2016-10-30 | 時評
(石巻市大川小学校の津波へ対応につい)
  この記事はさる27日にフェイスブックで掲載しましたが、その後大幅に加筆し、一部修正したものです。

2011年3月11日午後2時46分、東日本に巨大地震が発生し、石巻市も想定超える津波に襲われました。海岸から約4キロ離れたところにある大川小学校では、地震発生後児童54名をを校庭にあつめ、50分以上もそこに待機させました。その後近くの堤防に避難しましたが、辺り一帯は津波に呑み込まれ尊い命が失われました。この責任問題で仙台地裁は学校側に過失あり、との判断を下しています。この判決文を読んで、また学校や市、また住民などの関係者の反応をニュースで知って、少し違和感を感じました。

 まったくの部外者が何をいうか、と思われるかも知れません。しかし、明治から昭和にかけて繰り返し三陸沿岸を襲った大津波の歴史と事実を知るに及んで、過去の歴史に学ぶべきとの思いからから思いをひとこと書き留めておきたくなりました。またこの現場には昨年の夏に足を運び、大川小学校の校庭にある慰霊碑にお参りをしてきました。友人とともにその碑の前に佇んだ時は、幼い子供たちの顔が浮かんでくるようで、涙がこぼれる思いでした。結論を申し上げましょう。校庭にすぐ裏手に小山があるのです。樹々が密集し、学校側がいうような倒木や崩落の危険性は感じられません。ここに駆け上がって救助を待てばよかったのです。そうすべきでした。私が子供であったら、そうしたでしょう。事実子どもたちのうちの数名は教師の手を振り切ったそうしたのです。彼らは助かりました。どうして、そのような行動を取ったのでしょうか。彼らは祖父母から、古老たち先祖の教えでそうするように叩き込まれていたのです。

     

 実は記録文学者の吉村昭さんが1970年に『三陸海岸大津波』という題名で明治29年、昭和38年、昭和35年にこれらの地域を襲った大津波の実態を各地方をあるき回り、綿密に資料を集め、多くの人々に聞き取りをすることによって、津波の様相を描き出しています。これを知っていれば、地震のときにどういう現象がおこるか、津波はやってくるのかこないのか、どうすべきかなどを知り得たのです。

     


(『三陸海岸大津波』の教えるところ)吉村氏の著によれば、近年三陸海岸を襲って津波は三度を数える。これに加えるに安政3年7月の津波があるが、ここでは省略する。

 (1)明治29年6月15日:宮古から東南方で海底地震が発生し、それによって起こった大津波は三陸沿岸を徹底的に破壊した。その時次のような前兆がみられた。
    ・少し前にマグロや鰯などの大漁があった。安政3年の津波でも、そのような現象があった。
    ・夜になると沖合に青白い火が出現した。
    ・潮流の乱れ
    ・井戸水が濁りはじめた
    ・午後にはまれなほどの大干潮がみられた。

   地震が起こって20分を経過した頃から海水が乱れはじめ、海岸線から徐々に引きはじめ、引いた海水が沖合でふくれあがると、満を持したように壮大な水の壁となって、海岸方向に動き出した。沖合からドーンという大音響があり、音響と前   後して海上に火箭(かせん、提灯の大きさ)も見られ、怪火が沖合に揺れた。これはジャワ島付近のクラカトウ火山の爆発による大津波であった。津波の高さは、平均10~15メートル。この押し寄せる津波は、湾の奥に進むに連れて高くな   り、最大で50メートルにも達している。

 (2)昭和8年3月3日の津波:岩手県釜石市東方200キロの海底を震源とする地震が発生し、三陸沿岸に点在する村落は、再び壊滅的な打撃をうけた。津波襲来の前には、明治29年の折と同様な前兆が見られている。地震が起こったのは午前   2時32分、よく晴れた厳寒の夜であった。強震に驚いた人々は家から、走りでた。しかし震動が止むと、家の中に戻り布団の中に潜り込んだ。じつは、三陸沿岸の住民には、ひとつの言い伝えがあった。それは冬季と晴天の日には津波の来襲   がない、ということであった。しかし、その頃海上は急激にその様相を変え、海水がひきはじめ、やがて沖合の海は盛り上がり、壮大な水の壁となって、始めはゆっくりと、やがて速度を増し海岸へ突進して行った。津波は、3回から6回まで   三陸沿岸を襲い、多くの人々が津波に圧殺され引きさらわれた。その上、厳寒のしかも深夜のことであったので凍死する者も多かった。

    過去に学ぶからと言って、単なる伝聞とファクト(事実)を混同してはならないという教訓でもある。

   この地震の後、いろいろな反省がされ、県庁からは「地震津波の心得」というパンフレットが一般に配布された。それにはまず津波を予知する必要が説かれてきる。
    ”一、緩慢な長い大揺れの地震があったら、津波のくる恐れがあるので少なくとも一時間くらいは辛抱して気をつけよ。

     一、遠雷あるいは大砲のごとき音がしたら津波のくる恐れがある。
     一、津波は激しき干き潮をもって始まるのを通例とするから、潮の動きに注意せよ。また避難方法としては、
     一、家財に目をくれず、高いところへ身ひとつでのがれよ。・・・

 (3)昭和35年5月24日のチリ地震津波:5月21日気象庁は南米チリの大地震をとらえ、ついで23日4度目の地震が極めて激しい地震であることも観測した。これはハワイ沿岸にも広がり、60名の死者を出した。しかし、気象庁では、チ   リ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。その後大船渡湾にいた漁師などから海面の異常な動き~潮が強い力で引きははじめた~などで異変を知ったのである。これは、明治29年、昭和8年の   大津波とは根本的に異なる奇妙な津波であった。つまり津波は、地震にともなって起こるものとされていたのだ。人々は悠長に構えていた。潮の動きを訝しんで、高潮らしいとの報が海岸  の各所から消防本部に入るようになった。 しか    し、それを津波と結びつけるものはほとんどいなかった。しかし、海面の上昇は想像以上のものがあり、陸にあがった海水は人家をのみこみ、奥の方に進んでいった。この津波は三陸海岸全域を襲った。「地震がなても、津波が来    た」のである。

  このような地震は例外的なもので、予知はできなかったのであろうか? いや、ここにも学ぶべき過去の歴史があったのである。詳しいことは省略するが、はるか遠く離れた地域の地震によって起こった津波の来襲が過去にもあった。元宮古測候  所長の二  宮三郎氏は、旧南部藩の古記録やその他の史料をあさって行くうちに、津波の記録にも接した。今から220年前の宝暦元年に大槌地方を襲った津波の記録である。それによれば、地震の記載がまったくみられないこと、また津波の  時間がかなり長く、緩やかであることなどから、後に昭和35年の津波の実地調査にあたった折、あらゆる点で宝暦元年の津波と酷似していることに気づいた。また外国の地震史を調査した結果、宝暦元年の津波来襲の前日に、チリ津波の元と   なった地震の震源地と同一海域で、巨大な地震による大津波が発生していることをつきとめた。この二宮氏の比較調査は、チリ津波が決して珍しいものではないことを立証したが、その襲来を予知し警告を発しなかった気象庁はひとつの大き   な過失を犯したことになる。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここで本論の仙台地裁判決に戻ります。石巻市側や学校関係者は、浸水想定区域外であったため、津波は予見できなかったと主張しています。しかし、想像を超える地震が発生したのです。だから、想定を超える事態が起こってもおかしくないのです。それに、”たいした津波もこないだろう”という希望的な甘い判断です。見たくないことには、目を向けようとしない、という感じすらします。これは私たち日本人の体質のようにも思います。

 大川小学校の校庭に児童を集めて、引率した女性教師は地元の人ではなく、区域外からこられていたと聞いています。おそらく津波の恐ろしさを十分に承知していなかったのではないでしょうか? そのため地震による建物の崩落から逃れるために校庭に児童を集めたのでしょう。いたずらに彼女を責めることはできません。学校全体としてこれまで繰り返された大津波の過去の歴史を系統的に学んでいれば、的確な判断ができたものと思われます。
     

 机上の空論のようなマニュアルを作るより、過去の歴史に学んで、現場の人たちが自己判断ででも行動を迅速に取れるようにすべきでしょう。また、それぞれの住民も、何処に過失があるのかなどという責任のなすりあいではなく、自らも過去の歴史に学んで、言われずとも各々で行動できるように勉強すべきでしょう。吉村さんの本は今は改定され、文庫本(文春文庫)で読むことができます。薄い本です。これを小学校の教材あるいは副教材として、必修すべきかと思います。

 最後になりますが、大川小学校の一部遺族や有志は震災の記憶を伝え残そうと「大川伝承の会(仮称)」を立ち上げたそうです。その会で津波で多くの犠牲者が出た名取市閖上(ゆりあげ)地区の資料館「閖上の記憶」を視察した時のことです。

 地区で息子を亡くした女性が1933年の昭和三陸津波について記した石碑が地域に残っていたことを紹介。”私たちは先人の学びを知ろうとしなかったのかもしれない。記憶の伝え方が重要だ”と訴えたそうです。


追記)平安時代の後期、869年には貞観地震と呼ばれるマグニチュード8.1の超巨大地震が発生しています。東京電力が原発の津波対策として、このことを十分に読み込んでいたのか疑問が残ります。やはり、過去の歴史には学ばなければならないと思うのです。





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エッセイ 秋に思う(続)~『この日、この空、この私』(城山三郎)を読みながら

2016-10-15 | 日記・エッセイ
エッセイ 秋に思う(続)~『この日、この空、この私』を読みながら

 秋になると、特に寒露がすぎ秋が深まってくると秋思というほどでもないが、何故か心にしみじみ染みるような本を手にとりたくなる。そんな時、ふと手元にあった城山三郎のエッセイ『この日、この空、この私』(99年3月 朝日新聞社)という本のタイトルが目に飛び込んできた。

 ”さりげなく聞いて身にしむ話かな” (冨安風生)

城山三郎は経済小説という新しいジャンルを切り開いた人で、ご本人自身が気骨のある人である。それかあらぬか、その著書も『もう君には頼まない 石坂泰三の世界』、国鉄総裁であった石田礼助の生涯を書いた『粗にして野だが卑ではない』などの硬骨の男たちを描いた小説が多い。私個人としては『逆境を愛する男たち』のような人物エッセイが好きなのである。その彼が最晩年になって生涯を振り返って、気楽に、つぶやいたいくつものエピソードが書かれている。「無所属の時間で生きる」というサブタイトルがついており、余暇の時間をどう過ごすのか、為すこともなく置いておかれるのか、あるいは無所属の時間の中でどう生き直すか、どのように生を充実させるのか、そのあたりの事を探ってみたいと思ったようである。 それらの内容をいちいちご紹介するのではなく、書かれていることを断片的にとりあげ、そこからあれこれ思いを巡らせてみようと思った。全体として脈絡のない話になるのは、お許し頂きたい。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(日帰りの悔い)
 著者は、ある日講演を頼まれ京都へ向かった。会場のホテルに早めに着いたので小一時間ほどの余裕ができた。

 ”その間、何をするというわけでもなく、窓に寄って立ち霧の流れる東山の木立をただ眺めていた。 淡い旅情。短いが、非日常の時間。あらゆるものから解き放されている。その思いも味わいながら、悔いも湧いた。なぜ、小一時間でなく、半日なり一日なり、こうした時間を持てるようにしなかったのか、と。”

そして財界人石坂泰三のエピソードを紹介している。(注 石坂泰三・・・東芝社長などをへて経団連二代目会長。財界総理の異名をとった)石坂は幾日か出張する時、空白の一日を日程に組み込んだとのことである。

 ”その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書をふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。”

城山は、それを『もう君には頼まない』の中で、「無所属の時間」と呼んでいる。京都からの帰りに城山は一日二本しかない小田原停車の「ひかり」を利用した。隣の席も空いていたので、弁当を肴にゆっくり酒を呑んだ。そうして霧の流れた東山の眺めを未練がましく思い浮かべた。

 何も旅に出た時に限ることではないかもしれないが、こういう非日常のゆったり流れる時間は貴重なものであろう。多忙であればあるほど、心にかけて、そういう時間を持ちたいと思う。

 この下りを読みながら、ふと鎌倉時代の歌人である京極為兼の歌を思い出した。

 ”とまるべき宿をば月にあくがれてあすの道行く夜はの旅人”                   ー玉葉集」巻八 旅歌

何日もかかる旅の道のり。今夜の宿はそこにあるが、月光を浴びて明るい道を楽しく歩いてみたくなり、歩き続けることにした。車も道端の照明もない時代、こんな旅の楽しみ方もあったのだ。秋の月夜を愛でる、なんと優雅なことか。現代ではこのような旅は望めないだろうが、ある意味羨ましい限りである。旅は急がず、あれもこれもではなく、ゆっくりと、できれば一箇所に少し腰を落ち着けて楽しみたい。芭蕉も旅の日記『笈の小文』で言ったではないか。

 ”よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまな  ど、心にせまり胸にみちて・・・・”

 いつぞや郡上八幡に旅をした時、あの小さい町に三日も滞在して旅を楽しんだ。おかげで、町並みのスケッチもできたし、山菜料理のあふれる小料理屋にも行き会えた。おまけに古書店で会津八一の大正13年の初版本を手にいれることができた。
 やはり旅の日取りは余裕を持って組みたいものである。


(渡世の掟)


 花王の中興の祖といわれた丸田芳郎のエピソードが紹介されている。

 ”丸田芳郎は、社長時代、新入社員に対する形式的な挨拶の代わりに、時間をかけて先輩としての忠告をじっくり話すことにしていた。(注 花王は今でも三期連続で経常利益増を果たし、ROE 14.2%という立派な会社である)

  その中で、丸田は二つのことを訴えた。一つは、会社の仕事とは別に、なにか研究なり、勉強を生涯持ち続けるようにすること。今一つは、「電話で済まさず、必ず手紙を書くようにすること」であった。「電話は、うわの空でもかけられるが、手紙は相手のことを思い浮かべないと書けない」というのが、その理由であった。”

 仕事と別の勉強か? どちらかと言えば仕事一筋であったので、あまり勉強というほどのことはしてこなかった。しかし、仕事に取り組む上で、ある時期人間学というようなジャンルの本を読みふけった。この本の著者城山も後で触れているが伊藤肇の辛口の人間エッセイはすべて、そして何度も読み返した。それからさらに進展して仏教学者の紀野一義師に辿りつき、さらに正法眼蔵に至った。至らぬ人間であったので、乾いた土に水が染み込むようにこれらの説くところを学び続けた。大げさに言えば人間形成のための勉強だったかもしれない。

この一連の流れの中で『呻吟語』という著作に巡りあったのは幸いであった。著者の呂新吾は明の時代の高級官僚であった。その時代は、現代と同じように混迷の時代であった。彼もまた、一人の社会人として、また組織の責任者として、悩んだり苦しんだりする事が多かった。その悩みや苦しみに反省を加えるとことによって、彼なりの確信に達していったらしい。それを折りにふれ記録にとどめたのが、この著作である。有名な古典、たとえば『論語』や『孫子』ほどには知られていないが、知る人ぞ知るで得難い著である。人間とはどうあるべきか、人生をどう生きるべきかなど切実な問題をさまざまな角度から解き明かしている。人間関係論に関してはデール・カーネギーの『人をどう動かすか』などの本もあるが、この『呻吟語』はもっと深く問題を追求しており、若い人にも手にとって欲しい本と思うし、またある程度人生経験を積んだ人たちに読まれてしかるべき、と思う。もっとも印象に残ったのは、心を沈静にすることである。沈静とは、たんに口を閉ざして沈黙していることをいうのではない。心が浮つかず、態度がゆったりしていること、これが本当の沈静である。”沈静なるは最もこれ美質なり”。しかし、いくら勉強しても、実際にそれを身につけるのは至難の技である。幾つになっても勉強は果てしない。

 次に丸田が指摘した手紙を書くことであるが、なかなかできるものではない。近年とくにインターネットの発達で、メールやスマホのメッセージでコミュニケーションをとるのが当たり前になっている。以前は、便箋に万年筆で文を認め、封書を送ったものであるが、昨今封書で返事がくることが少なくなった。それでも、印象に残ったことや感動したこと、あるいは季節の移ろいに感じたことなど認めて、親しい友人や知人に送りたい。墨書できれば、言うことはない。と言う訳で、この丸田芳郎の言葉に刺激を受けたので、「手紙の日」を月に少なくとも一回、設けることに決めた。さあて、実現するかどうか自信はないが、とにかくやってみよう。


(ニュージーランドの旅)

 同じ町に住む友人夫妻が、還暦を迎えて自動車学校に通い始めたエピソードを紹介している。退職して時間ができたので、夫婦でニュージーランドへの旅を思い立ったが、鉄道のない国なので、二人で交互にレンタカーを運転して回るためだどいう。交通量も少なそうだし、左側通行だから、初心者でもなんとかなると明るい。形式にとらわれぬハッピーリタイアメンとす姿をみた。

 ”ニュージーランドは緑の濃い美しい国である。とくに南島のミルフォード・サウンド界隈は絶景で、私の行ったときも、雨後ということもあって。道の両側の滝が美しく光りながら流れ落ち、車ごと滝に洗われながら走り続けると、ときう思いがした。

今の世では考えられない最高の贅沢を味わったわけだが、そのかいわいを、これまた年齢不問でトレッキングで走破した辰濃和男『太古へ』(朝日新聞社)を読むと、ニュージーランドでは海にや山に大自然を残すため、人々や行政がその枠を超えて心を配り、知恵と汗と金を惜しみなく注いでいるのが、痛いほど分かった。近代国家で手つかずの自然を残すというのは、それほどの大事業ということで、「太古の旅」と呼びうる程の旅を体験できるのだ、と。”

 実は私の親しい句友夫妻も、ニュージーランドへ出かけている。どうもハンドルを握るのは奥様、彼は地図を見るナビガイドであったとか。それはともかく、俳句を始めたばかりの頃であるが、帰国後の句会で次の句を投句した。

 ”陽炎や丘果つるまで羊群”

あの雄大な風景が浮かんできて、いい句だなあと、文句なしに特選に選ばせてもらった。この句はその後刊行した私たちの第一句集で彼の句の冒頭を飾っている。


 そういえばニュージーランドについてはいくつかの思いがある。まず星空の美しさ。

     

南島のテカポの星空は世界遺産として登録申請していると、聞いている。そこへも足を伸ばしてみたいが、何と言っても訪れてみたいのは北島のほぼ中央辺り、タウポ湖の近くにある「フカロッジ」である。以前に交遊抄で触れたことがある会社の後輩k君は、スコットランドのアイラ島を訪ね、ボウモアなどシングルモルトウイスキーを求めて旅をしたことがあるくらいの旅好き人間であるが、彼からこ教えてもらったのが、「フカロッジ」である。そして洒脱なエッセイで知られる江國滋さんが、お元気な頃に男三人でここに滞在し、読めば行きたくなるような素敵な旅行記を描いているのである。(彼のスケッチつきであるから、”描いている”ということになる)

ロッジというと安手の山荘のようなものを思い浮かべるのであるが、この国では全く違う。ロッジというだけで、すでに小規模で洗練されたエクスクルーシヴな宿泊施設がイメージされる。一般の人たちが自宅の一部を開放して、オーナー兼マネージャー、ときにはシェフまで務めて宿泊客をもてなす。オーナーは宿泊客を「わが家のゲスト」として扱う。食事の好き嫌いを確認し、ゲスト同士を紹介し、自らも話し相手になる。
 
 ”ロッジは、ニュージーランドの文化である”

その中でも、フカロッジは最右翼にある豪華ロッジである。タウポの市街地から車で20分ほど、満々と水を湛えるワイカト川の岸べの林間にある。マス釣りの穴場らしい。そのロケーションの素晴らしさ、佇まいの魅力的なこと。 

     
     

江國滋さんの旅行記<贅沢の本質>には、こんな描写がある。部屋が一流ホテルのスイートルームをさらに贅沢にしたような具合であるが、、この部屋にはもう一つの魅力がある、と。

 ”木目の美しい大きなテーブルの上に、こんな文言を印刷した紙が載っていた。

 <Unless requested, there is no telephone ,television or radio in the room>

”ソファにもたれて一服しながら、高い天井までのガラス戸越しに、芝生の向こうのワイカト川の清流を眺めていると、まるで別天地にいるようである。夜は7時からフロント棟のサロンでカクテルパーティ、8時から主食堂で晩餐会ということだけが決まっている。それまで、することは何もない。珠玉の無為。”

 いかがでしょう?行ってみたいと思いますか? 外国の人たちと交わるなんてイヤ、という人は資格はないかもしれなし。しかし、英語をあまりしゃべれなくたって、折り紙を折って見せてあげるとか、歌を歌ってみるとか、日本の美しい風景を写真に収め見せてあげるとか。やりようはいろいろ。なんなら刺身包丁を持ち込んで、鱒の刺し身をつくってやるのもいいかも。とにかく、”やってみなはれ、行ってみなはれ”できれば、仲間が欲しいなあ。ちなみに江國パーティご一行様は、カードマジクを披露したようである。


(五十代半ばにて)

去って行った友人知人の中で、激しい去り方をした親友として、伊藤肇(はじめ)の名前を挙げている。雑誌『財界』編集長を全力で短期間つとめた後、早々に一介の浪人になることを宣言し、文筆生活に入った。肩書のない身となっては昼間、企業を訪問することができず、夜に入っての酒食を伴う取材が多くなった。小島も同席した事があったが、「あ、その話おもしろい」「それはいい言葉だ」などとそのたびに箸をおいたり、盃をおろしてさりげなく、箸袋などにメモをとった。

末期に近いある日、伊藤はまるで遺言のように、信頼できる若い書き手として「左高信」の名前を城山につげた。その左高は、「朝日人物事典」に、つぎのような一文を書いた。

 ”財界人物論に独特の健筆を振るった。安岡正篤に学んだ東洋思想を軸に、人間の出処進退を問題にした『現代の帝王学』や『人間的魅力の研究』で多くの読者を獲得した”

安岡正篤については終戦の詔書にもかかわり、さまざまな見方はあるが、東洋思想に基づく彼の言葉には耳を傾けるべきものが少なくない。次の言葉は伊藤肇が取り上げ、そこから彼の著作『現代の帝王学』を完成させている。

  ”「行為する者にとって、行為せざる者は、最も苛酷な批判者である」という箴言を引用し、経営者が「行為する者」であり、ジャーナリストは「行為せざる者」である”

  すでに先に述べたように40歳頃から彼の著作に親しむようになり、そこには硬軟取り混ぜたエピソードもあって、読みふけったものである。城山三郎の親友であり、名古屋の出身とは知らなかった。懐かしい名前を見つけて、嬉しくなった。伊藤肇の著作には、きらりと光るような箴言が溢れているが、そ中の一つをご紹介しておきたい。それは、二流のボロ会社だった住友生命の弱小部隊を率いて日生、第一生命を凌駕する保険会社に育て上げた社長の新井正明との対談で出たものである。ちなみに新井正明は、ノモンハン事件の死闘で、ソ連の砲弾に吹き飛ばされ隻脚となった。

 ”(新井)暗いところばかり見つめている人間は暗い運命を招きよせることになるし、いつも明るく、明るくと考えている人間は、おそらく運命からも愛されて、明るく幸せな人生を送ることができるだろう


(楽しみを求めて)

 年を重ねてからの楽しみということで、色んなことが書かれているのだが、その中にまあ、楽しい話が登場した。

 ”私に似合いの気楽な楽しみは、やはり読書くらいかと、書棚に手をのばし、松下竜一『潮風の町』(講談社文庫)を読んでいるうち、これはこれはと、天にも上る、いや天を見上げる楽しみを教えられた。

  「虹を見たら、すぐ電話で教えてください。どの方向の空に虹と、ひとこと
   告げてくれるだけでいいのです」

  と同じ町に住む八人の友人に葉書を書き送り、次々にさまざまな虹をみることになる。夢のような話というか、大人の童話とでもいった楽しさ。一方的に教えてもらうだけではと、松下さんは「虹の通信」をその仲間たちに送っている、という。こちらも読むだけで、十分楽しませてもらった。 

 子供っぽい、というなかれ。いくつになってもこういう詩心(うたごころ)のような気持ちは持ちたいものである。 そういえば来月の14日の満月は、滅多にみられぬスーパームーンとか。夜空に上ったら、だれかに教えてあげて喜びを分かち合いたいものだ。

  ”人の世もかく美しと虹の立つ” (虚子)


(この日、この空、この私)
 
 ”人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。深く生きた記憶 をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く 生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう”

  この本には、いろいろな人生の楽しみかたを紹介している。好きな本を読む、うまい肴で酒を飲む、たまにはゴルフをする・・だがそれでは、それまでの生活の微調整にしか過ぎない気がする、として海外旅行や本で埋まり尽くした家を造りなおしたり・・・ 。しかし、あまり老いとか年齢を意識すつことも少なく、相変わらずの筆一本の生活が続く。と、言いながら「かもめのジョナサン」を書いたリチャード・バックの”年齢とは 、just a number という生き方を気にしたり、”どうせ一回しかない人生である。今、 楽しまねばあす楽しめない”と、劇団を立ち上げたり、ラインダンスもやり、コーラス グループを組織するし、碁も楽しむ。その他、漢詩/俳画/書道/社交ダンス/ピアノなど の習い事・・・という多彩な趣味生活を繰り広げる遠藤周作の老いの人生にも、ちらり と目を向けてはいる。ある意味羨んでもいる。


 だが、人生の生き方は人それぞれ。なにもかくあるべきと決めつける必要はない。己自身のことを考えてみると、多分に狐狸庵遠藤周作先生的なところもあって、いろんな趣味をもち、心楽しい友人もいて、今の人生を十分に楽しんでいる。

 しかし、ふと考える時がある。果たして、それでいいのだろうか? これまでも、ある 意味で、恵まれた人生を送ってこられたのには、両親・家族や長い間お世話になった会 社、あるいは学生生活をおくった小・中・高や大学の存在があった。いや、少し敷衍し て考えると社会そのもののおかげであるともいえよう。そう考えると、さまざまな形で の社会貢献を視野にいれて、考えるべきではないか。震災遺児への教育資金に寄付をしたり、多少のことはやってきた。しかし、もっと・・・。また、さらに広い意味で考え ると、日本経済の発展・成長のためにも、なにがしかの資金を成長する企業に投ずる  ・・。一人ひとりの資金の規模は小さくても、多くの人が投ずる事になれば、それは 大きな貢献になりうる。 いつまでも銀行預金や郵便貯金などにお金を寝かせておくようなことは考えなおす必要があると思う。またこれまで積み重ねた人生経験や知識を、若い人たちに伝えることができれば、よりよい社会への貢献になるのではないかと、思案している。それで、社会のお役に立つための自分のエクスパティーズはなにか、改めて考えているところである。



          ~~~~~お終い~~~~~













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