(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ写真日記 みやこに遊んだ春の一日

2014-03-30 | 読書

(お詫び)本来は予告編に書いたように、櫻男笹部新太郎と桜のことを書く予定でありました。それが京都に遊んだ一日がとても楽しく、かつ印象に残ろことがいくつもあったので記録に残しておこうと、急遽アップロードする次第です。いつものわがまま勝手な振る舞いをお許しください。桜のことは、次回に掲載させていただきます。


       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 フェイスブックでつながっている京都の友人が、”京都御苑の桜が見頃です”と教えてくれた。岡崎での「時あかり~プロジェクション・マッピング」も夜に予定されていることでもあるし、いそいそと出かけた次第である。花だけでなく、人をふくめ様々な出会いを楽むことができたので、ここに記録を残しておくことにした。

 JR京都駅で地下鉄烏丸線に乗り継ぎ、丸太町で下りればそこはもう京都御苑である。明治になってから整備されたもので、広さ65ha、周囲やく4キロは東京の新宿御苑と似通っている。しかしここには御所があり、また2005年に日本建築の粋を集めて建てられた迎賓館がある。京都の人々は、誇りに思っていることであろう。

          

 堺町御門から入った。西側を南北に走る路を散策した。白雲神社ではまず可憐なサトザクラが、私たちを出迎えてくれた。連翹の黄も。中央より北に御所があるが、その西は蛤御門である。幕末に薩摩・桑名・会津連合軍が長州藩と激戦を戦ったところで、今もご門に弾痕の跡がある。しかし現在は、のどかな平和な地で穏やかな空気が流れており、戦いがあったとは想像もできない。正に隔世の感がある。少し歩くと,枝を広げた枝垂れ桜があるが、一本だけぽつんと立っていた。

 すこし先に歩くと、桃園があった。園丁の方が、”今は桜より桃が見事です”と教えてくれたので、そこでゆっくりした。茜色にも似た紅の色の桃、また白い花と紅色の桃の花が入り混じり、御所の土塀をバックに咲き誇っている姿は、風情があった。また桃の白い花がこんなに清澄で可憐だとはこれまで気が付かなかった! 大判の写真機を持って、構えている人がいた、スウェーデンの名機大判カメラのハッセルブラッドだ。憧れの的である。しばし写真談義花が咲いた。ビューファインダーのぞかせてもらったが、画面の美しいことに驚嘆した!




          

 少し先に行くと木蓮のエリアがある。これがまた見事だ。白木蓮そして紫木蓮も。

     

ここで、地面に座ってスケッチしている人がいたので、気になりついついのぞき込む。”見事なスケッチですね”と声をかけたところから、会話が始まった。聞いてみると、まずスケッチ用紙に日本画の水肥(すいひ)でバックを塗る。そこに鉛筆でスケッチをし、色鉛筆で色彩をおいてゆく。水は一切使わないとのこと。更に聞くと、これはある人から”この公園のこの木蓮をピンポイントで描いて欲しい”と頼まれたそうだ。もう、これはプロだ、うまい訳だと思った。ここから絵を描きおこし、本画を描く。やはり、プロの日本画の画家だった。名刺を交換し、今後のお付き合いをお願いした。さらに会話は弾んだ。お互いの住まいから、この方は、今は大阪の川西に住んでおられるが、本来は京都の人と分かった。さらに聞くと、白沙村荘(はくさそんそう)、あの橋本関雪が住んだところである。この画家の曽祖父は橋本関雪と聞いて、びっくりした。この敷地の一角の洋館は、今ヨーロピアンレストランとなっている。のぞいてみたいところである。



この一角で紺のロングドレスのようなものを着た若い女性がいた。見慣れぬ衣装なので、声をかけて聞いてみた。もう人畜無害の年頃のせいか、若い女性にも最近はあまり警戒されないのである。台湾からの女子学生で、卒業記念に訪れているとか。いい雰囲気であった。ふたり一緒の写真を撮ってあげた。

     

 中立売から宮内庁京都事務所を過ぎ、近衛邸跡に向かう。もうこの北は同志社大学のエリアになる。この近衛邸あとには、何本もサトザクラ系の枝垂れが植えられている。どれも大きく枝を張って、見応えのある景である。



拾翆亭(しゅうすいてい)は池のほとりに建てられた茶室である。ここの桜は池に向かって大きく枝を張り出しているが、その植え方には綿密な細工が施されている。根のまわりを広く地中掘り下げ、そこに根を張るようにし、さらにその上にアーチ状に石組をおいている。見る人が踏んでも、根そのものには負荷がかからないようになっている。素晴らしい智慧である。なお、ここの茶室は貸し切り可能と聞いた。ここで、一度句会の席を設けたいものだ。九条家の別邸を使っての句会、とは優雅極まりないもの、とその機会を渇望している次第である。

     
     

ぐるりと回って外周に出ると、黒い大きな犬がいた。”熊みたい・・”という声も。主人に連れられ、ゆったりと歩いている。聞けば、スタンダード・プードルとか。観光客の目を集め、ポーズまでとる次第。愉快な光景をみた。なを、そこの東西に走る大きな路の東の向こうには、東山がみえるのだが、一箇所木のないようなところがある。大文字だ。ここのベンチに腰をかけ、大文字焼きを楽しんではどうかと思った。ビールでも飲みながら・・・。許されるかな? ここのほか、母と子の森と言うのがあり、小鳥たちの水浴び場もあるので、バードウオッチングにいいだろう、とまたの訪問を願った。



 桜や桃、それに木蓮など春の眺めを満喫したあとは、祇園花見小路へ足を運んだ。休日なので、すごい人出である。日本語以外、とくに中国語と思しき言葉を多く聞いた。お目当ては、ドイツのカメラLEICA(ライカ)が、この三月に開いたばかりの京都店である。祇園甲部歌舞練場の前と聞いているのに、なかなか店が見つからない。みつからぬ訳だ。なんの変哲もない町家。青いのれんが下がっている。その下の方に、オレンジ色のライカのマーク。

          

入ってみると、中は改装され落ち着いた雰囲気である。ライカのシリーズが、ずらり。レンジファインダーのM-システムを触らせてもらったが、ピント合わせに慣れが必要だ。風格を感じさせるカメラだが、お安くはない。手頃なコンデジのライカXバリオのほうがいいかも。2階に上がると、ロバート・キャパなどの写真が並んでいた。白黒の写真に郷愁と魅力を感じた。外にでると、店の前に超シニアが立っている。”いいカメラはありましたか”、と話しかけてくる。そのうちバッグから一台のふるいライカを出してくる。もう80年も前のモデルだ。ほかにもライカが。合計3台を持っているそうだ。写真機を通じての、花見小路の会話を楽しんだ。

 くたびれてきたが、そこからぶらぶら歩く。高瀬川沿いを北上。姉小路を西へ。そしていつもの御池通りは高倉上がるの<M長>へ。途中の御池ザクラも満開になっていた。お店の前の御池通りでは、陽光桜もぎっしり花をつけていた。

     

青ぬたや出汁巻きで、一杯やりつつ次々に出される料理に舌鼓をうった。若女将のこまやかな気配りで、気のおけないいい店だ。大阪に行っている、アマチュア写真家のKさんに電話をかけ、戻ってきてもらうように頼んでくれた。

     

 時間の関係で、本日のもうひとつの目的である岡崎の<時あかり>、いわゆるプロジェクション・マッピングを見にゆく。京都市立美術館の壁面に、予めプログラミングされた映像を投影するもの。東京駅のPMがすごく印象的だった。洗練され、音響効果もしっかりと出来上がった作品であった。


     


さて今回の京都のそれはもともと昨年秋に予定されていた行事であったが、荒天のため涙を呑んで中止になった。それのリベンジ版。なんとか雨もクリアして行われた。学生さんや若いクリエーターの作品が投影された。いずれもカラフルで楽しい作品があって、人気を呼んでいた。中心役のひとりとして旗振りから関係各所との折衝役など、苦労された”O"さんや、関係者の努力が実って、いささかのご縁があるものとしても嬉しかった。

 仕上げは、M長に戻って、大阪から帰ってきたKさんにご挨拶。ハワイから来日している夫妻とも再びの出会いを楽しむことができた。

 神戸に戻る快速電車の車中では、児玉清のエッセイ集『すべては今日から』を読みふけった。知らないミステリーなどを教えてくれる。充実した春の一日であった。

 

          ~~~~~完~~~~~




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(予告編) エッセイ~桜男のこと

2014-03-26 | 読書
もうそろそろ桜が咲き出します。それに、ちなんで生涯を「さくら」に生きた櫻男笹部新太郎のこと、これまでに見た桜で印象に残っているところなどなどを語ります。

アップは週末です。しばらくお待ち下さい。






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絵画/エッセイ 一枚の絵~「雨あがりのふたり」(仮題)

2014-03-21 | 読書
絵画/エッセイ 「雨上がりのふたり」(仮題)について思うこと

 (冒頭の写真はビクトリア女王の肖像画)

 何の説明もつけない。いつの時代の絵か、誰が描いたのか、またその背景と画家の描こうとするその意図は・・・。とにかくご覧頂いて、何を感じるか? 絵画の鑑賞は、本来そういうものではないだろうか。最近絵画展に行くと、気になるのはかなり多くの人がまず解説を読んでいる。それが悪いというわけではないが、どこか山に行って美しい風景を見たときに解説が要るだろうか? 美しい花を見たときに、花の名前が気にはなるかも知れないが、その名を知らぬからといって、花の美しさが変わるわけではなかろう。

 はじめてこの絵に触れたのは、日経新聞のコラム<ビクトリア朝絵画十選>であった。それは9センチ×11.5センチの小さなモノトーン(白黒)の写真であった。画像はあまり鮮明ではなかった。しかし、なぜか印象に残った。若い男を見あげる女の、パートナーを信頼しきったような眼差し、ひたむきな思いと愛情。そういうものが伝わってきてわたしの心に残った。山本周五郎の短編時代小説などに登場するような女性像にもにたものである。もう30年近く前のことである。以来、この絵の本物がどこにあるのか、原画でじっくり見てみたいと思い、フォローしてきた。それがやっと最近になってわかってきた。新聞の記事に書かれていた<バービカン・アート・ギャラリー>ではなく、おなじロンドンの<ギルドホール・アートギャラリー>でこの絵の原画を見つけるに至ったのである。


          


 画家の名は、H.G.リビエール(ヒュー・ゴールドウイン・リビエール)。”The Gardenn of Eden ”と題するもので、1901年の作品(油彩)である。この年は英帝国が隆盛を極めたビクトリア朝の最後の年である。ビクトリア朝は、産業革命によって英国経済は発展し、ある意味英帝国の絶頂期であった。水に浮かぶ女を描いた「オフィーリア」(写真)で知られるジョン・エヴァレット・ミレイ、ラファエル前派のロセッティなどなど。もちろ、ターナーやコンスターブルも。一つふたつご紹介しましょう。

          

 画家に寄り添う新婚の女性を描いた「画家の蜜月」(フレデリック・レイトン)や、同じレイトンの「燃え立つ六月」などはなやかな女性の絵が多くある。

          


今、六本木ヒルズの森アーツセンターでテート美術館の至宝ラファエル前派展が開かれているが、その中にリビエールの名前はない。しかしビクトリア朝の絵画の特色は備えているように思われる。可愛らし女性というだけでなく、宗教的あるいは物語画ともいえる。
この絵のタイトルは、じつは、「エデンの園」なのである。では、エデンの園とはどういうことか。

”アダムとエバが犯した「罪」の重さ・・・東大阪エルム キリスト教会の聖書入門講座によれば

”アダムは神様に「園のすべての木からとって食べてよいが、①永遠の命の木と②善悪の知識の木の実からはとってたべてはいけない。それを食べたら死ぬ」と忠告されていました。 2本の木の実からだけは食べる事が禁止されたのです。ちなみに禁止の「禁」は2本の木を示すと書きますのでとても聖書的ですね・・・。ところが、蛇が言葉たくみにエバを誘惑します。その実を食べても決して死なない。むしろ神のようになれるとささやいたのです。「決して死なない。それを食べると、目が開かれ、神のように善悪をしるものとなる」そのように言ったのです。アダムとエバは神のようになりたいと思ったのでしょうか。2人は神様が禁止していた善と悪の知識の木の実を食べてしまったのです。神との約束を破った2人はエデンの園から追放されてしまいました。何もかも整っていた環境から追い出され、苦悩と痛みを体験するようになりました。 ここに人類最初の罪があります。この罪を「原罪」というのです。”


 キリスト教のことはよく知りませんが、少なくとも二人が罪をおかして、エデンの園から追放されたということは確かなようです。おそらくこの絵の主人公である二人は、少なくともこの段階ではお互いに信じ合い、愛し合っています。雨でぬかるんだ道を歩く二人ですが、雨も上がり次第に明るい陽が差してくるでしょう。明るい未来をも期待できるように思われます。しかし、そこへ、「エデンの園」というタイトルです。どんな行く末が待ち受けているか。なにかドラマが起こるかもしれない、というビクトリア朝の絵画の特色をも感じます。二人に子どもができて、三人いや四人家族になり、幸せな家庭を築くでしょう。しかし、そのうちに男の仕事上の問題がおきたり、あるいはひょっとして不倫を働いたり・・色々な展開があって、幸せな人生に終わりを告げる。つまりエデンの園から追放されるのかもしれません。


 まあ、そんなむつかしいことは、どうでもいいのです。万葉集の大伴家持も歌で言っています。”いまののまさかを愛(うる)はしみすれ” つまり今の今こそ、いちばん大切というのです。

  ”さ百合花 のちも逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ”
                           ~大伴家持 (万葉集・4088)
よき将来。それは今の今を大切にする心から生まれるものですよ、と言っているのです。

 そういう意味で、素直にこの絵をみれば、若い二人が信じきって、愛しあい明るい未来を築いていこうとしている。そんなように思えます。だからこそ惹かれるのです。みなさまは、どのように感じられたでしょうか?

 ついでに、もう一枚の絵いや彫刻をご紹介します。メトロポリタン美術館の彫刻の部屋のある作品です。ジョバンニ・マリア・ベンゾーニの手になるものです。

          

タイトルは「Innocense Protected by Fidelity」 忠実さに守られる無邪気な、いや汚れのない存在とでもいえばいいでしょうか? 少女と愛犬の図です。こういう関係は、本題の「エデンの園」の二人とはちょっと違います。なんのためらいもなく、ただひたすら、ひたむきに愛するものを守る、という図式です。「エデンの園」の絵よりも、もっと純粋で、好きな作品です。これもビクトリア朝中期の作品です。(1852年)



(余滴)あれこれ書き綴ったのであるが、この絵の実物はまだ見たことがない。それが、陶板画ではあるが淡路島にある大塚国際美術館に掲げられていることが分かった。近々、足を伸ばすつもりにしている。







 


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(予告編) 絵画 一枚の絵~「雨の中の二人」(仮題)

2014-03-18 | 読書
もう百年以上まえの絵画ですが、ビクトリア朝はなやかなりし頃の絵をご紹介します。なぜか、心に残っています。


(しばらくお待ちください)





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詩歌 詩歌のことば/「なほざりに」~書にちなんだ歌

2014-03-13 | 読書
すこし前から、書を再開しましたので、それにちなんで別ブログに書いた記事を改めて掲載させていただきます。冒頭の写真は『四季草花下絵和歌巻』、書は本阿弥光悦、下絵は俵屋宗達。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つい先頃の「今日の俳句」で”なほざりに”というのを詠み込んだ句を載せた。
 
     ”なほざりに えがきし手のあと 八一の忌” 

敬愛する歌人会津八一の忌日(11月21日)にちなんだものである。己のつたない句を再掲するなど厚かましいことではあるが、お許し頂きたい。この「なほざりに」という言葉は、”いい加減な”というような意味ではない。会津八一の歌から引いている。

  ”なほざりに えがきし らんの ふでに みる
        たたみ の あと のなつかしき かな”

八一は書家としても有名である。誤解を招かぬように、あえて説明させていただくと(これは本人自身の語るところであるが)、”なほざりにというのは、「気楽に 深く苦心の風もなく」という意味である。さらに歌意については、”あまり厚からぬ毛せんの上にて、奔放に筆を揮えば、畳の目がその筆触の中に鮮やかに見ゆることあり・・・・”と自解している。

 さて句が書のことに及んだので、もう一人の敬愛する歌人吉井勇の自選歌集から書について詠んだ歌を書き抜いてみた。(「先達賛歌」より)

(小野道風)

 道風が自在の筆のあと見れば玉泉帖は字ごと飛ぶらし
 三跡の一人と思へば道風の文字はかしこしほのぼのとして

          


(本阿弥光悦)

 光悦のすぐれし文字の冴えも知る本阿弥切れのたふとさも知る

(池大雅)

 いまもなほ書の仙としておほらかに九霞山樵(きゅうかさんしょう)うそぶきたまへ

  余談になるが、日本画の大家池大雅とその妻でやはり画家である玉蘭のことを漱石が詠んだ句があるー「玉蘭と大雅と語る梅の花」

(良寛)

          
  つくづくと良寛の字を見ておれば風のごとしも水のごとしも

 こうして書の名手たちの歌をみてゆくと、やはり良寛の字が”なほざりに”という言葉にふさわしい様に思われる。いや、独酌の酔いに任せているうちに筆が滑って、あちらこちらと話が飛んでしまいました。お許しください。また書を再開したいな、と思っています。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、書を再開したのです。しかし王羲之や顔真卿などの書に本格的に取り組むのではなく、フランスの詩人ポール・クローデルの詩や、気に入っている箴言を小筆で書いています。凝りだすとキリがない。そのうち辻邦生の『嵯峨野明月記』に描かれていう豪華本、いわゆる「嵯峨本」のように、デザインに凝った料紙に好き放題、書き散らしてみたいと思っています。いつか見た画家ベン・シャーンの絵のように。






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読書/エッセイ 『京の寺 奈良の寺』(竹西寛子)と古都逍遥

2014-03-04 | 読書
読書/エッセイ 『京の寺 奈良の寺』~四季折々の往還の記(竹西寛子、2006年9月淡交社)

 作家にして文学評論家の竹西寛子さん、古典とくに王朝文学を、そして詩歌を語れば、その香り高い世界に引きずり込まれてゆく。彼女が京都・奈良・宇治・初瀬・吉野などなどの地を訪れ、それらの地の四季の移り変わりや、背景となる古典文学などについて語った自選随想集である。

 本論に入る前に著者である竹西寛子さんとの出会いについて語らねばならない。もう10年以上も前のことであるが、敬愛する芳賀徹さんが『詩歌の森へ~日本詩へのいざない』(中公新書)という素晴らしい本を出された。そこに「少し春ある心地して」という一節があった。それは竹西寛子さんの短いエッセイについてであった。彼女は前から「埋み火に少し春ある心地して」という句が気に入って、懐かしい思いでくちずさんでいたのだが、誰の作だか思いだせない。あるとき勅撰集のひとつ『風雅和歌集』を読み返していたら、この句に出会った。俳句ではない。藤原俊成の冬歌の一首だったのである。

  ”埋み火にすこし春ある心ちしてよふかき冬をなぐさむる哉”

竹西さんは、この上の句には典拠があることを推測していた。調べてみると、『枕草子』百六段の話である。

 ”風寒く小雪散る日、殿中の清少納言のもとに、あの『和漢朗詠集』の編者藤原公任から歌一首の下の句がとどけられた。「すこし春あるここちこそすれ」」これにすぐ上の句をつけて返せという。さすがの才女も窮しかけたが、身をふるわせながらもあっぱれ、「空をさむみ花にまがへて散る雪に」と返した。”しかも、公任、青女、どちらの句も白楽天の『文集』(もんじゅう)の一詩に典拠をもっている。竹西氏はそこに「時代の文化の水位」を感じるという”

 そうして芳賀徹さんは、俊成から白楽天までをさらりと語る竹西さんご当人こそ、今日の日本の「文化水位」を支えてくれている、と言うのである。この言葉に触発されて竹西さんの本をあれこれ手に取るようになったのである。


(もう少し、雑談がつづきます)古都を逍遥するとき、戦前の学生たちは、会津八一の歌集『自注鹿鳴集』(岩波文庫)を持ち歩いたとか。

      

これは昭和15年に創元社から世に送り出されたものであるが、彼の歌に一つ一つ著者の解説がついていて、古都奈良とその近辺のよき案内書でもある。愛唱する歌がいくつも散りばめられている。

 ”はつなつ の かぜと と なりぬ と みほとけ は 
  をゆび の うれ に ほの しらす らし”

 ”あめつち に われ ひとり いて たつ ごとき 
  この さびしさ を きみ は ほほえむ”ー法隆寺 金堂の夢殿にある救世観音に

 ”おし ひらく おもき とびら の あひだ より
  はや みえ たまふ みほとけ の かほ”ーおなじく法隆寺金堂にて

     

今回、とりあげた竹西さんの本は、散文であるが、訪れた寺てらの様子、歴史、おさめられている仏像、そして取り巻く風光を、語って魅力的な文章になっている。會津八一の本とあわせ、優れた古都の案内書でもある。それらの文を読めば、訪れてみたくなり、以前に行ったところでも再訪したくなってくる。では、その語るところをいくつか見てみよう。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(京の道)
 ”何ひとつ計画をもたないで駅についても、決して退屈しないのが京都の町だ。それは必ずしも名所旧蹟が多いということではない。・・・見よう、見ようと思って歩くとものが見えにくくなり、ただ行き合ったものだけを見ようと思っていると、かえっていろいろなものがよく見える。後々までも忘れ難いような姿や形を見せられる。まして、ところが京都となればなおさらだ。

 鷹ヶ峰の麓を歩いていて、ふと道端の桜の枝ぶりに目をひかれ、石畳に誘われるまま古木に門に寄ってみると、これが名前も知らないお寺である。お堂も小さく、境内も広くはない。それなのに、落ち着いた気分になって、居れば居るほど立ち去りにくくなる。”

 ”糺の森を行くのは早朝がよい。・・・もっとも、早朝がいいのは糺の森だけではない。いったいに、社寺をたずねるのは、早朝か日が落ちてからのほうがいいと思う。・・・夜明け前にホテルを出て、鴨川沿いの道に車を走らせたり歩いたりする。糺の森に入って下鴨神社に詣でることもあれば、鴨川が高野川と鴨川に分岐するあたりからは賀茂川沿いに上り、上賀茂神社にだけお参りをしてホテルの朝食時間までには戻ってくる。同じ朝を二度と見せない自然の不思議は、東山三十六峰、比叡の山々の夜明けにも、鴨川の流れにも、岸の木々にもこまやかで。見慣れている景物のはずなのに、幾度ここを通ってもはじめてのような新鮮さにみとれてしまう。”

 注)余談になるが、賀茂川の左岸(東側)は、「半木(なからぎ)の道」と呼ばれる。京都在住の元ビジネスマンである池本健一氏の著書『京都「五七五』あるき』~旅ゆけば俳句日和、にでもこのあたりのシーンが描写されていいる。

     

   ”下鴨神社から賀茂川堤を散歩しよう。「半木の道」と呼ばれる散歩道がつづく。好天の日、ぶらりと散歩にでかけ、自転車を走らせたり、随所に設けられたベンチに腰掛けるにもよいところだ。芝生に気ままに寝ころべば賀茂川の流れが耳 に心地よく、行く雲の変化をみつめるのも楽しい。紅桜と八重桜が70本植えられ、四月に美しく咲く。”


   春になったら歩いてみたくなる。


(大原の里)建礼門院右京大夫のことに触れた、この章にも心ひかれる。

   ”なべて世のはかなきことをかなしとはかかる夢みぬ人やいひけん”

 ”壇ノ浦で、二位の尼に抱かれて入水したわが子安徳帝を追い、海中に身を沈めた徳子(平清盛の娘)は敵方の手に救われて京に連れ戻され、東山長楽寺で出家する。大原寂光院は、その徳子が、先帝、一族の菩提を弔い、念仏の明け暮れを過ご したところで、「建礼門院右京太夫集」には、作者が、後年この地にかつての女主人を訪ねたことなども記されている。・・・

  晩秋の一日、陽が落ちるのを待って大原に入る。山峡の細長い田畑を二分する大原川  に沿った若狭への道を途中で左に折れ、稲株の刈り口の寒々とつづく田圃を左右にみて、枯尾花の道を寂光院の山手に向かう。山峡の日暮れは早い。それに、いったん陽が落ちると、山も田圃もじきに宵闇に沈んでしまう。手足の先から凍みてゆくような感覚は、もう冬である。誰が灯したのか、道端の石燈籠の裸火が、ところどころで風に逆らっている。・・・・
 
  翌朝早く、東山連峰がまだくろずんでいる時分に京の町を出て、ふたたび山峡を大原 川沿いに上がる。花尻橋を過ぎてまもなく、左手の尾根に陽光がわたった。・・・
 民家の庭先の、南天の赤い実に指先を触れながら、落ち葉の濡れている寂光院への道を 上がる。建礼門院大原西稜入り口、寂光院入り口を右に見てそのまま通り過ぎ、まだ戸 をしめきっている茶店の間を抜けて、赤土の道を上りつづける。阿波の内侍ら、女院に 仕えた四人の侍女たちの墓はもう間近い。左手の、細い流れを裾にもつ老杉の木立は、 折からの陽光を幾条にも割って静かにその肌を温めている。まだ暗い寂光院側の木立で 、音色の違う小鳥が力いっぱいさえずり交わしているのも清々しい。立ちどまって大き く一息つき。坂下を振り返る。寂光院本堂の柿葺(こけらぶき)の屋根を、鐘楼の屋根 が、霧が、濃く薄くゆっくりと這いのぼってゆく。

   ”今や夢昔やゆめとまよはれていかに思へどうつつとぞなき”

 洛北に女院を訪うた右京大夫の一首を心に読み返しながら、四人の墓所を見届けたら、人影を見ないうちに山を下りよう、と思った”

          


(浄瑠璃寺)こういう文を読むと、また行ってみたくなるのである。

 ”青葉どきの浄瑠璃寺は、池の睡蓮がいい。白と薄紅色の花の、寂しくないほどにまばらなのもいい。池を中にして、九体仏、吉祥天をおさめる阿弥陀堂と高みの三重塔が向い合っている。私は、人を立ちすくませたり、とまどわせたりしないこのお庭の、大様であってしかも端正なつくりにひかれるが、平安末期の様式を伝える堂や水の上の花が、樹木の若緑の底に、静かに降り沈められてゆくような雨の日も又わるくないと思っている。”

          



(奈良の道)奈良を語る第二章では、正倉院・正倉院裂、と初瀬・長谷寺の項が白眉ともいうべく、読むものに魅力をもって迫ってくる。


(正倉院)

 ”京都から奈良への道は、静かな秋雨であった。木津の流れは少しばかり濁ってはいたが、沿線の茶畑の中で、彼岸花が細い朱の指をからませていたのはいかにもところを得た景物の印象である。薄墨をほんの少し溶き流したような乳白色の雲は切れそうな気配もない。それならば、雨の正倉院もまた結構ではないか・”

 ”「藤三娘」という闊達な筆跡の皇后(光明皇后)の自署を知り、また多少の文献や歴史家の案内を得て、一人の人間としての皇后の喜怒哀楽を思いみることを覚えた今となっては、東大寺、国分寺の建立、盧遮那仏の鋳造、ひいては正倉院の実現、そのいずれもが、自力を超えるはかりがたいものへの皇后の怖れに発していたろうことは疑わないにしても、皇后の不安一つでこのような大事業が行われたとは思われないし、正倉院宝物の主要な物件となった聖武天皇の遺品が盧遮那仏に献納されたについても、献物帳あとがきの一筋通りとも思わない。
 万葉集に残されている光明皇后の歌が、同年の亡き夫、聖武天皇ひとすじのものであるのに対し、聖武天皇の「道に逢ひて咲まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ふとふ吾妹」などの歌が、海上女王あ(うなかみのおおきみ)に贈られたものであったり、酒人女王を思う歌であったりするのは、上代人の生活様式をはなれては考えられないことでもあるが、悲田院や施薬院の設置をふくむ皇后の幅広い事業のみなもとに、萎えない自尊心や妬心、独占欲、名誉欲が、あの怖れと分かちがたくないまま、まざっていたろうこともつい想像したくなるのである”

    ”夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉のとはに立つ国” (森鴎外)

 ”ひとことの解説もなくただそこに在り、そのように在ることだけがかけがえのない自己主張でもある美しい表現を寄せて黙々と立つ校倉に、時として人が狂気に近づく興奮を誘われたとしても不思議ではないと思う。撥面に亀の甲を貼った螺鈿紫檀の五弦琵琶、おなじく螺鈿紫檀の四弦げんかん、漆地に金銀の文様を塗りこめた平文琴(ひょうもんのきん)、十七管の笙、唐草の透かし彫りを施した銀の薫炉、紺の玉帯、礼冠の玉飾り、螺鈿花鳥背の円鏡・・・”


 (正倉院裂) 1300年以上も前の染織品は正倉院裂と呼ばれている。この復元には、美智子皇后が丹精こめて育てられた繭(小石丸)が役に立った。京都の川島織物が、その復元に貢献したと聞く。
          

 ”正倉院裂の整理、修復の事業は、明治の末からはじめられて、戦時中中断したが、今日でも正倉院によってつづけられているという。・・・
いかに贅沢な綾、錦といえども、分解してゆけば経糸と緯糸の組み合わせに過ぎない。その組み合わせに様々な工夫を凝らし、知恵をはたらかせて、古代人は、現代人の目をうっとりさせる美をつくりだした。そこには、人間の祈りや願いがあり、恐れがあり、この世とあの世に対する解釈があり、想像の世界への果てしない飛翔もある。”



(長谷寺)

 そして何といっても、長谷寺あたりを語った一文に心を惹かれた。再三訪れている初瀬だがまた行ってみようという気になってきたのである。


(初瀬の王朝


 ”初瀬は、この目でみるより早く、王朝の歌や日記、物語でなじんだ土地である。こういう土地はなにも初瀬だけとは限らないが、女の旅と参籠への関心は、「蜻蛉日記」や「源氏物語」の初瀬詣でにいきおいわが身を添わせて読むようになり、長谷観音への様々な思いを秘めて旅だった女たちの、その目に見、耳に聞いた初瀬を、いつのまにか自分の見聞きした初瀬と思い込んでいるようなことも少なくないのだった。

 当時の貴族の参詣や参籠、ことに姫君や女君、女房たちのそれは、清水寺、広隆寺、雲林院、清凉寺、鞍馬寺などの京近辺のお寺から、石山寺、長谷寺などのよく及んでいる。片道だけでも京から三日、四日とかかる初瀬詣は、当時にすればかなり大掛かりな旅を伴う物詣である。「蜻蛉日記」の作者は車を使っていて、それでも京を出て三日目にやっと長谷寺くの椿市に来たことを記しているが、それとても決して楽な旅ではない。それまでにしてなぜ初瀬詣でをということになれば、女たちに自覚された苦悩の深さと、難儀な長旅をも当然と思い込ませるだけの長谷観音の霊験のあらたかさということになろう。”

 ”居ながらにしての祈願よりも、苦しい長旅の果てに、山に囲まれた、川の水音も清々しい霊場に入って祈願するほうが、敬虔の情はよりつのりみ仏のありがたさもまさるというのは、中世ならぬ王朝の女たちの心情の自然だったかもしれない”

 ”人との交わりを断ち、雑念を断って祈願に篭もるというなら、なるほど初瀬こそ女たちの籠もりの場にはふさわしい。四年まえの冬に初めて、段には違いないが、段というには少々低すぎる燈籠の階段を三百九十九踏み登って本堂の十一面観音に掌をあわせ、振り返って礼堂の舞台から今登ってきた登廊や仁王門を見下した時、右手の方向西を残して三方を山に囲まれた初瀬の地勢の中に、山懐の立体的な広さがそのまま境内でもある長谷寺がはじめて収まり、初瀬川の水音を聞きながら、まさに幾重もの山なみに囲まれて女たちの籠もるにふさわしい土地としての初瀬が、わが目と耳に納得できたのであった。”

          

 そして著者は、秋にも訪れる。

 ”この秋、年来の望みが叶って、長谷寺の門前町に宿泊した。たとえ一夜だけでもよい、あの礼堂の吊り燈籠や、回廊の球燈籠に灯が入ってから登りたいという願望の中には、玉鬘(源氏物語の)や藤原道綱の母の長谷寺の夜を、そこにいて偲びたいという気持ちも強くあって、しきりに時をうかがっていただけに、それが叶うと知った時のよろこびはひとしをであった。

 昼間、右手に錫杖、左手に宝瓶を持たれるご本尊の前に跪き、そのおみ足に触れて拝ませていただいたあと、寺側の案内で、七千株は越すといわれる牡丹の剪定と施肥の現場を見て、専従者の鮮やかなわざと労力に今更のように感嘆したが、幸運にも、この初夏に寺蔵から見出されたという秘宝「長谷版曼荼羅版木」を宝物館で目のあたりにした時には、その図像の精緻精妙に思わず息をのんだ。”


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 これらの文章の香り高いこと、その情景描写の巧みさには目を見はる思いである! みなさんは、お読みになってどこかへ行きたくなられましたでしょうか?

 長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。余談ながら、大原の里、寂光院への旅については、時季を異にした晩春の一日を描いた大原富枝さんの名文があります。『建礼門院右京大夫』(朝日文芸文庫)。 機会を改め、星の歌人、悲恋の歌人について書きたいと思っています。その折に、大原の里紀行文もご紹介いたします。








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