秋灯雑感 ”文学部など潰してしまえ”・・・・?
萬葉集の頃は萩が代表的な秋の花でした。その萩もちらほら咲き出しまた。そんな最近のこと、IIJのCEOである鈴木幸一氏が、掲題のような記事を日経の電子版(経営者ブログ)に書いておられました。なんとなく、うずぼんやりとこの事は知っていました。記事のタイトル見た時、一瞬ですが”文部省など潰してしまえ”と眼に映りました。もちろん、冗談です。(笑)
これは最近の文科省の動きの関することです。人文系の学部の縮小、あるいは廃止につながることです。見過ごすことはできません。しかしこの事については、あまり勉強していませんので、いつものように時評としてとりあげることはできません。したがって単なる雑感にとどめる次第です。
とはいえ重要な問題なので、鈴木さんの記事を要約するのではなく、肝心のところは、まず原文のまま全体を引用させていただきます。
その前に鈴木幸一氏のことですが、日本におけるインターネット事業の草分けで、今はIIJという会社のCEOをしておられます。経営者ブログでこれまでの発言を拝見してきましたが、なかなかの識見の持ち主、また大のクラッシクファンで、私財を投げ打って「東京・春・音楽祭」を立ち上げ、毎年上野でオペラを中心に数多くの公演を主導してこられました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
”(高校、大学、同窓会も縁なし)
高校、大学と一応は籍を置いて卒業までしたのだが、ほとんどの学習は独学だった。高校、大学と同窓生徒の交流もなく、当然、同窓会など、まったく縁がなかった。卒業後、たまたま、語学のクラスが一緒だった大学の同級生に会ったら、「鈴木さんて、4年間で4日しか大学に来なかったでしょ」と言われてしまった。授業はともかく、何人かの教授とは、食事をしたり、飲んだりしていたのだから、大学とまったく無縁だったわけではない。言語学の高名な教授とは、亡くなられるまで、折節、お目にかかっていた。そんな学生時代の過ごし方をした私は、およそ、教育問題については、知見、識見ともゼロに等しい。
私たちの世代は、戦後の産業と経済の復興がなによりも優先していた時代で、教育の基本方針は、工学重視だった。大学に進学する割合が、まだ少なかった時代で、成績優秀でも、家庭が貧しかった子は、工業高校へ行ったり、中卒で就職して、夜間の工業高校へ行ったりしていた。何人かは技能オリンピックに出たりするほどの技能を身につけて、「落ちこぼれ」のまま、ふらふらしていた私など、立派だなあと、感心させられるばかりだった。
中学までは、なんとか成績が優秀だったらしく、中学生時代の教師が「鈴木君はほんとに、ダメになったらしい」と言ったとか、近所の同級生から話が伝わってきたりした。学校も休みがち、上野の周辺をうろつくか、図書館に籠って、誰とも付き合いのなくなった私は、友人たちの記憶から消えてしまったようだ。還暦になった年に、高校の同窓会に顔を出してみたら、「あの鈴木さんなの」と声を掛けてくれた同窓生が何人かいるくらいだった。
「鈴木さん、最後は文学部だよね。今に、文学部を始めとする人文系の学部をなくしてしまおうというのが、国の方針になった。行き過ぎだね」
(同級生の怒り)
名簿上は同期だが、まったく違った人生で、大教授になり、大学のトップから博物館の館長になった知人と、久し振りに飲んだら、そんな話をしてくれた。私には、教育について語る資格など、まったくないのだが、話を聞くと、かなり深刻な状況になっているようだ。「あらゆる教育は真空の状況で成されるのではなく、時々の国の方針に沿った形で実施されてしまうもので、教育について、真空状態で論議をするのは過ちである」――。以前に、T・Sエリオットがそんなことを書いていたのを読んだ記憶がある。
知人が危機感をもっているのは、文部科学大臣が出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知のことである。通知が出されたのは6月で、遅ればせながら知ったのである。その通知によると、組織の見直しについて、「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とある。
(知性に対する追い打ち)
この通知に対して、日本学術会議幹事会が次のような声明を出した。「人文・社会科学系のみをことさら取りだして『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めることは大きな疑問がある」。門外漢の私が、この通知の問題をどこまで理解しているかは疑問なのだが、久し振りに会って、冷たい酒を口にすると同時に怒る知人の言葉から察するに、「文学部など潰しちゃえ」という国の乱暴な意志が、国立大学側に伝わっているのかも知れない。私の理解力がもどかしいと感じたらしく、小冊子をだして、その文章を読めと言う。
「2015年6月、文部省が国立大学に伝えた通知は、文学部など人文系の学部・大学院に関して、廃止あるいは社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう求めている。経済界、財務省、官邸の意向も働いての要求らしい。(略)だいじなのは、過去につくられた文化は、絶えず新しい読みなおしを加えられることによってのみ生命を保ち得る。対象は古典でも視点は現在にある。そういう場で学生が本当の意味での批判の手続きに熟達するなら、その思考力は応用に堪える。現に文学部卒業生は多様な職業で成果を上げている」(佐藤康弘「近視眼」)
端的に言えば、若年人口が減少する日本で、産業を発展させるための社会的な要請は、人文科学系ではなく自然科学系の人材を養成すること、ということになるのだろう。もし、ことをそんな風に簡単に割り切るとすれば、人文系か工学系か不明な私から見ると、ずいぶんと乱暴な話である。教養といった言葉が、死語になりつつある日本にとって、文部省の通知する前提となる「社会的要請」そのものが、知性というものに対する追い打ちのようなもので、短絡的な発想だとしか思えない。
(ビジネス以外の会話ができない)
日本のビジネスマンが海外に行って、ほんとうに心を通じ合える友人を持ちにくい大きな欠陥として、ビジネス以外の会話ができないことにある。日本の文化についてすら、語るべき内容がない日本人に驚くことが多い。昔、ロンドンでパーティ会場のテーブルを囲んで飲んでいた折、英国人とシェイクスピアの話をしていたら、居合わせた日本の大企業の経営者の方が、セックスの話と間違えて、とんでもない冗談の場になった記憶がある。教養など「社会的要請がない」と片付けてしまいかねないような単純な発想が幅を利かせてしまう風潮が、今の政権にあるとすれば、心配である。「オックスブリッジ」では、歴史や音楽等の学問が、未だに大きなポジションを占めていることと比べると、文部省の今回の通知は、いかにも寂しい気がする。
音楽祭を主宰している関係で、海外の演奏家と食事をすることが多いのだが、彼らの経歴は多様で面白い。英国の代表的な歌手のひとりであるボストリッジさんと飲んだ時、彼はオックスフォードで歴史を学び、そこの教授もしていたという。彼の話題は幅広く、深更まで話が尽きなかったのだが、日本の演奏家の方の話題は、音楽に収斂(しゅうれん)して、広がりのない人が多い。それが悪いということではなく、日本の教育のあり方が、そんな風にしているわけである。自然科学系の人が文化や歴史といった人文系の学問に興味をもつようにしたり、人文系の学部の人が自然科学や工学のことに関心を抱くようにするといった教育こそ、本当の社会的要請にこたえる方向なのではないかと思うのだが、どうも、最近はなにかと短絡的に過ぎる気がする。・・・・
私のような門外漢と文部省の「大学のあり方」に関する議論は、打ち切って、彼の専門である地球や生物の歴史談義で、楽しい飲み会になった。蒸し暑い雨上がりの夏の夜、やり直しのきかない過去を思い起こしながら、ふらふらと家まで歩いて帰った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この記事を読んで共感を覚えた。ほとんど同感である。いくつか所感を述べるまえに、ある国際会議でのキッシンジャー博士の言葉を紹介したい。キッシンジャー博士は1969年代ニクソン政権下で国家安全保障担当補佐官・国務長官をつとめた。1973年にノーベル平和賞を受賞している。
”数年前、アメリカである国際会議があった時に、これからの政治責任者や国際企業の経営者は何をやるべきかということが話題になった。多くの提案が出されたが、最後にキッシンジャー博士が立ち上がって「まず世界の地理と歴史をよく勉強することだ。そしてリーダーは自分の哲学をしっかり持つことだ」と強調、これにボルカー前FRB議長など世界の識者たちが大いに賛同したという。地理と歴史を勉強するというもっとも平凡な提言が、もっとも共感を呼んだというのである。キッシンジャー博士の指摘は考えれば考える程に味わい深い。どんな分野のリーダーであれ、視野狭窄の陥ってはならぬことを深く戒めているのだ。” (飯塚昭男 1991年6月 AGORA)
これは大学などで専門分野の勉強に凝り固まらず、広い分野での教養をみにつけることの必要性を説いていると言える。キッシンジャーは、いわゆる地政学の専門家なので、こういう発言をしたのであろう。
さて文科省の意図するところであるが、上記の記事を読む限り、社会的要請として人文系の分野ではなく、自然科学系の人材を養成することに狙いをおいているようである。
とくに文学部は狙い撃ちされているのかも知れない。
最近京大総長の山極壽一さんのメッセージを読む機会があったが、彼は
”総合大学、研究型大学として京都大学がやるべきことは、教養・共通教育、専門教育、大学院教育を豊かに組み合わせて、創造力と実践力を持った人材を育てることです。そのためには、学問の多様性と階層性を整え、さまざまな選択肢を許容する教育体制が必要です。”
と言っている。そしてこういう風にも言っている。
”京都大学というのは千年の都と呼ばれる京都にあって、長い伝統の中でずっとユニークなことやってきた大学です。すべてはこの斬新でユニークな発想=「おもろいこと」を考えることから生まれます。京都大学はそのために分野を超えて学生も教員も対話します。それも、真剣に、全力で。それがきっと未来のイノベーションにつながり、この社会を豊かにしてくれるはずです。”
山極総長は理学系の出身であるが、このことばに見るように広い分野を越えた考え方を重視しており、決して自然科学系だけに取り組むべきと言っているのではない。
学部をみてみると、総合人間学部/文学部/教育学部/法学部/経済・理学・医学・薬学・農などとなっている。東の雄、東京大学でも同様であるが、そのなかでも教養学部というのがあって、最初の2年は全員ここに在籍してリベラル・アーツを学ぶことになっている。京大の場合、総合人間学部がこれにあたるのであろう。
ところで海外なかんずくアメリカの大学ではどうなっているか。ちなみにアメリカでは全国の教育をしきる文科省のようなものはない。政府の中に、そいう組織は存在しない。州ごとに教育問題と取り組んでいる。
代表的な大学としてスタンフォード大学とハーバード大学の学部構成がどうなっているのかチェックしてみた。その前に有名私立大学はほとんどがリベラル・アーツ系大学であり、全人教育、教養教育を目指している。もともと大学はリーダーを養成するための高等教育と位置づけられている。
ハーバード大学の場合、専攻科目はアフリカ・アフリカンアメリカン研究、人類学、応用数学、生化学、生物学、化学、化学物理、古典、コンピューター科学、地球惑星科学、東アジア研究、経済学、工学、英米文学と言語、環境科学と公共政策、伝承と神話学、政治学、歴史学、文学史、科学史、芸術史、言語学、文学、数学、音楽学、中東言語文化、哲学、物理学、心理学、宗教比較、ロマンス語と文学、サンスクリット・インド研究、スラブ語と文学、社会科学、社会学、特別専攻、統計学、視覚環境学、女性・性差に関する研究)。
スタンフォードの場合も同様で、多岐にわたっている。文学も学ぶ対象であるが、日本のように文学部として独立はしていない。日本の場合は戦前の大学のスタイルがそのまま引き継がれており、また大学設立の趣意にあるように、”西洋の文物を移入し・・”という観点からのカリキュラムの組み立てで、ほとんど進歩していないように思える。
言わずもがなであるが、鈴木幸一氏の言うようにリベラル・アーツ教育が、学生の人間形成にきわめて重要であり、それを無視して企業の活動に役立つ人材を養成しようとするのは、もっての他であろう。すぐ役にたつ人間は、すぐ役に立たなくなるのである。文系の学問は理系とちがって技術革新など「国益」に直結しにくいかもしれない。しかし、文系の学問からは批判する力、洞察する力などは想像力やさまざまな開発につながる。教育評論家で法政大学教授(教育心理学)の尾木直樹さんは、このように言う。
”混迷した時代であるからこそ、これまでの延長線上にはない新しい価値観を見いだしたり、洞察力を働かせたりして解決の方法を模索する。要は第三の道を探りだすことが重要なのです。そのために役立つものが哲学であり、倫理学、文学、社会学。つまり文系の学問なのです。スピーディに結論や成果を求めるだけが学問ではないのです”
産業界からも文系軽視に批判的な意見が聞こえる。ある大手メーカーの首脳いわく、
”国立大から文系をなくそうなんて愚の骨頂です。われわれが学生にもとめているのは、論理的に問題を解決する力、人の話を理解する能力、つまり文系でこそ学べる教養です。・・・スキルだけ持った学生なんて企業は要らない・・・”
とまあ、いろいろ見方があるが、では日本の大学の問題はないのか? ほとんどの文系では古い知識、海外からの知識のフォローが多く、あまりイノベーティブでない。自ら革新しなければならない。哲学にしても、いまさらカントやヘーゲルではないだろう。道元の著した『正法眼蔵』など世界最高の哲学書である。せめてその一端でも、学生の眼に触れさせてやりたい。宗教関係ももっと深く追求すべきだ。古典文学は日本文化の伝統を支える重要な柱である。『源氏物語』にしても、単なる注解にとどまらず、その現代的な存在意義を追求すれば興味ふかい。いや古典にとどまることもない。近代では近松の文学も見直されるべきだ。昭和に入って山本周五郎の膨大な作品などを追求するもの意味があろう。人間の心理的側面をここまで深く読み解いた小説はあまり知らない。もちろん、絵画や音楽も忘れてはいけない。アートがなければ新しいものは出ない。
すこし眼を他に転ずれば、地政学は日本の大学で取り上げるべきである。さまざまな国家に取り囲まれ、深く関係し、地政学的な論究なしに日本の外交はなりたたない。なにも外務省の官僚だけではない、一般のひとでもある程度の地政学的な知識は必要であるろう。
長くなったので、最後に聖路加国際病院の理事しておられる日野原重明氏が私淑したウイリアム・オスラー博士にちなむエピソードをご紹介して、本稿を締めくくります。
オスラー博士は、アメリカなどの医学の発展に貢献し、アメリカ医学の精神を育てた開拓者と言われています。
”オスラーは非常に教養の深く博学のひとだったので、著書をみてもシェークスピアやゲーテ、モンテーニュ、トマス・ブラウンやエマーソンは言うに及ばず、プラトンやアリストテレスなどの古典も一杯出てくる。オスラーは弟子たちにも、医師を志すものは学生時代に医学書以外の本を多く読むようにすすめた、という話をオスラの直弟子だったひとから聞きました。「医師が扱う仕事の三分の一は医学書に書いてないことだから」とオスラーは言っていたそうです。
オスラーは、「医学はサイエンスに基づいたアートである」と言っています。私もまさにその通りだと思います。ところが近代になってからの医学は、サイエンスの面ばかりが発達して、医者の中にはアートの面を忘れてしまうものも出てきました。アートを忘れてサイエンスに振り回されてしまうと、病む臓器ばかりみて、病む人間そのものに目がいかなくなってしまう。病んでいるのは人間なのだから、その人間を癒やすということを考えなくてはならない、と思うようになりました。
人間を大切に扱って、患者の心と身体をケアするには感性が大切なのです。だから、外国には、医学部の学生の半分を文科からとる医学校もある。理科的なものは医者にとって必要なものの半分にすぎないというわけです。
ところが日本はそれどころではありません。医学部を目指す熟の勉強の中に、感性の育成なんてこれっぽっちもない。物理学や数学ばかりやって、そういうのができる人間だけが医学部に合格する。これでは医学がアートになるのは、まだまだ先の事だと思います”
ー『生と死に 希望と支えを~全人的医療50年に想う』(日野原重明)より
またまた長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(余滴)この問題について、あまり新聞やTVのニュース解説などで報道されていないように思われますが、どうしたことでしょうか? オリンピックのための新国立競技場問題は予算規模が大きすぎるということで国会でも取り上げられましたが、本件も国会で大いに論戦を交わして欲しいものです。みなさんは、如何が思われますか?
萬葉集の頃は萩が代表的な秋の花でした。その萩もちらほら咲き出しまた。そんな最近のこと、IIJのCEOである鈴木幸一氏が、掲題のような記事を日経の電子版(経営者ブログ)に書いておられました。なんとなく、うずぼんやりとこの事は知っていました。記事のタイトル見た時、一瞬ですが”文部省など潰してしまえ”と眼に映りました。もちろん、冗談です。(笑)
これは最近の文科省の動きの関することです。人文系の学部の縮小、あるいは廃止につながることです。見過ごすことはできません。しかしこの事については、あまり勉強していませんので、いつものように時評としてとりあげることはできません。したがって単なる雑感にとどめる次第です。
とはいえ重要な問題なので、鈴木さんの記事を要約するのではなく、肝心のところは、まず原文のまま全体を引用させていただきます。
その前に鈴木幸一氏のことですが、日本におけるインターネット事業の草分けで、今はIIJという会社のCEOをしておられます。経営者ブログでこれまでの発言を拝見してきましたが、なかなかの識見の持ち主、また大のクラッシクファンで、私財を投げ打って「東京・春・音楽祭」を立ち上げ、毎年上野でオペラを中心に数多くの公演を主導してこられました。
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”(高校、大学、同窓会も縁なし)
高校、大学と一応は籍を置いて卒業までしたのだが、ほとんどの学習は独学だった。高校、大学と同窓生徒の交流もなく、当然、同窓会など、まったく縁がなかった。卒業後、たまたま、語学のクラスが一緒だった大学の同級生に会ったら、「鈴木さんて、4年間で4日しか大学に来なかったでしょ」と言われてしまった。授業はともかく、何人かの教授とは、食事をしたり、飲んだりしていたのだから、大学とまったく無縁だったわけではない。言語学の高名な教授とは、亡くなられるまで、折節、お目にかかっていた。そんな学生時代の過ごし方をした私は、およそ、教育問題については、知見、識見ともゼロに等しい。
私たちの世代は、戦後の産業と経済の復興がなによりも優先していた時代で、教育の基本方針は、工学重視だった。大学に進学する割合が、まだ少なかった時代で、成績優秀でも、家庭が貧しかった子は、工業高校へ行ったり、中卒で就職して、夜間の工業高校へ行ったりしていた。何人かは技能オリンピックに出たりするほどの技能を身につけて、「落ちこぼれ」のまま、ふらふらしていた私など、立派だなあと、感心させられるばかりだった。
中学までは、なんとか成績が優秀だったらしく、中学生時代の教師が「鈴木君はほんとに、ダメになったらしい」と言ったとか、近所の同級生から話が伝わってきたりした。学校も休みがち、上野の周辺をうろつくか、図書館に籠って、誰とも付き合いのなくなった私は、友人たちの記憶から消えてしまったようだ。還暦になった年に、高校の同窓会に顔を出してみたら、「あの鈴木さんなの」と声を掛けてくれた同窓生が何人かいるくらいだった。
「鈴木さん、最後は文学部だよね。今に、文学部を始めとする人文系の学部をなくしてしまおうというのが、国の方針になった。行き過ぎだね」
(同級生の怒り)
名簿上は同期だが、まったく違った人生で、大教授になり、大学のトップから博物館の館長になった知人と、久し振りに飲んだら、そんな話をしてくれた。私には、教育について語る資格など、まったくないのだが、話を聞くと、かなり深刻な状況になっているようだ。「あらゆる教育は真空の状況で成されるのではなく、時々の国の方針に沿った形で実施されてしまうもので、教育について、真空状態で論議をするのは過ちである」――。以前に、T・Sエリオットがそんなことを書いていたのを読んだ記憶がある。
知人が危機感をもっているのは、文部科学大臣が出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知のことである。通知が出されたのは6月で、遅ればせながら知ったのである。その通知によると、組織の見直しについて、「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とある。
(知性に対する追い打ち)
この通知に対して、日本学術会議幹事会が次のような声明を出した。「人文・社会科学系のみをことさら取りだして『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めることは大きな疑問がある」。門外漢の私が、この通知の問題をどこまで理解しているかは疑問なのだが、久し振りに会って、冷たい酒を口にすると同時に怒る知人の言葉から察するに、「文学部など潰しちゃえ」という国の乱暴な意志が、国立大学側に伝わっているのかも知れない。私の理解力がもどかしいと感じたらしく、小冊子をだして、その文章を読めと言う。
「2015年6月、文部省が国立大学に伝えた通知は、文学部など人文系の学部・大学院に関して、廃止あるいは社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう求めている。経済界、財務省、官邸の意向も働いての要求らしい。(略)だいじなのは、過去につくられた文化は、絶えず新しい読みなおしを加えられることによってのみ生命を保ち得る。対象は古典でも視点は現在にある。そういう場で学生が本当の意味での批判の手続きに熟達するなら、その思考力は応用に堪える。現に文学部卒業生は多様な職業で成果を上げている」(佐藤康弘「近視眼」)
端的に言えば、若年人口が減少する日本で、産業を発展させるための社会的な要請は、人文科学系ではなく自然科学系の人材を養成すること、ということになるのだろう。もし、ことをそんな風に簡単に割り切るとすれば、人文系か工学系か不明な私から見ると、ずいぶんと乱暴な話である。教養といった言葉が、死語になりつつある日本にとって、文部省の通知する前提となる「社会的要請」そのものが、知性というものに対する追い打ちのようなもので、短絡的な発想だとしか思えない。
(ビジネス以外の会話ができない)
日本のビジネスマンが海外に行って、ほんとうに心を通じ合える友人を持ちにくい大きな欠陥として、ビジネス以外の会話ができないことにある。日本の文化についてすら、語るべき内容がない日本人に驚くことが多い。昔、ロンドンでパーティ会場のテーブルを囲んで飲んでいた折、英国人とシェイクスピアの話をしていたら、居合わせた日本の大企業の経営者の方が、セックスの話と間違えて、とんでもない冗談の場になった記憶がある。教養など「社会的要請がない」と片付けてしまいかねないような単純な発想が幅を利かせてしまう風潮が、今の政権にあるとすれば、心配である。「オックスブリッジ」では、歴史や音楽等の学問が、未だに大きなポジションを占めていることと比べると、文部省の今回の通知は、いかにも寂しい気がする。
音楽祭を主宰している関係で、海外の演奏家と食事をすることが多いのだが、彼らの経歴は多様で面白い。英国の代表的な歌手のひとりであるボストリッジさんと飲んだ時、彼はオックスフォードで歴史を学び、そこの教授もしていたという。彼の話題は幅広く、深更まで話が尽きなかったのだが、日本の演奏家の方の話題は、音楽に収斂(しゅうれん)して、広がりのない人が多い。それが悪いということではなく、日本の教育のあり方が、そんな風にしているわけである。自然科学系の人が文化や歴史といった人文系の学問に興味をもつようにしたり、人文系の学部の人が自然科学や工学のことに関心を抱くようにするといった教育こそ、本当の社会的要請にこたえる方向なのではないかと思うのだが、どうも、最近はなにかと短絡的に過ぎる気がする。・・・・
私のような門外漢と文部省の「大学のあり方」に関する議論は、打ち切って、彼の専門である地球や生物の歴史談義で、楽しい飲み会になった。蒸し暑い雨上がりの夏の夜、やり直しのきかない過去を思い起こしながら、ふらふらと家まで歩いて帰った。
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この記事を読んで共感を覚えた。ほとんど同感である。いくつか所感を述べるまえに、ある国際会議でのキッシンジャー博士の言葉を紹介したい。キッシンジャー博士は1969年代ニクソン政権下で国家安全保障担当補佐官・国務長官をつとめた。1973年にノーベル平和賞を受賞している。
”数年前、アメリカである国際会議があった時に、これからの政治責任者や国際企業の経営者は何をやるべきかということが話題になった。多くの提案が出されたが、最後にキッシンジャー博士が立ち上がって「まず世界の地理と歴史をよく勉強することだ。そしてリーダーは自分の哲学をしっかり持つことだ」と強調、これにボルカー前FRB議長など世界の識者たちが大いに賛同したという。地理と歴史を勉強するというもっとも平凡な提言が、もっとも共感を呼んだというのである。キッシンジャー博士の指摘は考えれば考える程に味わい深い。どんな分野のリーダーであれ、視野狭窄の陥ってはならぬことを深く戒めているのだ。” (飯塚昭男 1991年6月 AGORA)
これは大学などで専門分野の勉強に凝り固まらず、広い分野での教養をみにつけることの必要性を説いていると言える。キッシンジャーは、いわゆる地政学の専門家なので、こういう発言をしたのであろう。
さて文科省の意図するところであるが、上記の記事を読む限り、社会的要請として人文系の分野ではなく、自然科学系の人材を養成することに狙いをおいているようである。
とくに文学部は狙い撃ちされているのかも知れない。
最近京大総長の山極壽一さんのメッセージを読む機会があったが、彼は
”総合大学、研究型大学として京都大学がやるべきことは、教養・共通教育、専門教育、大学院教育を豊かに組み合わせて、創造力と実践力を持った人材を育てることです。そのためには、学問の多様性と階層性を整え、さまざまな選択肢を許容する教育体制が必要です。”
と言っている。そしてこういう風にも言っている。
”京都大学というのは千年の都と呼ばれる京都にあって、長い伝統の中でずっとユニークなことやってきた大学です。すべてはこの斬新でユニークな発想=「おもろいこと」を考えることから生まれます。京都大学はそのために分野を超えて学生も教員も対話します。それも、真剣に、全力で。それがきっと未来のイノベーションにつながり、この社会を豊かにしてくれるはずです。”
山極総長は理学系の出身であるが、このことばに見るように広い分野を越えた考え方を重視しており、決して自然科学系だけに取り組むべきと言っているのではない。
学部をみてみると、総合人間学部/文学部/教育学部/法学部/経済・理学・医学・薬学・農などとなっている。東の雄、東京大学でも同様であるが、そのなかでも教養学部というのがあって、最初の2年は全員ここに在籍してリベラル・アーツを学ぶことになっている。京大の場合、総合人間学部がこれにあたるのであろう。
ところで海外なかんずくアメリカの大学ではどうなっているか。ちなみにアメリカでは全国の教育をしきる文科省のようなものはない。政府の中に、そいう組織は存在しない。州ごとに教育問題と取り組んでいる。
代表的な大学としてスタンフォード大学とハーバード大学の学部構成がどうなっているのかチェックしてみた。その前に有名私立大学はほとんどがリベラル・アーツ系大学であり、全人教育、教養教育を目指している。もともと大学はリーダーを養成するための高等教育と位置づけられている。
ハーバード大学の場合、専攻科目はアフリカ・アフリカンアメリカン研究、人類学、応用数学、生化学、生物学、化学、化学物理、古典、コンピューター科学、地球惑星科学、東アジア研究、経済学、工学、英米文学と言語、環境科学と公共政策、伝承と神話学、政治学、歴史学、文学史、科学史、芸術史、言語学、文学、数学、音楽学、中東言語文化、哲学、物理学、心理学、宗教比較、ロマンス語と文学、サンスクリット・インド研究、スラブ語と文学、社会科学、社会学、特別専攻、統計学、視覚環境学、女性・性差に関する研究)。
スタンフォードの場合も同様で、多岐にわたっている。文学も学ぶ対象であるが、日本のように文学部として独立はしていない。日本の場合は戦前の大学のスタイルがそのまま引き継がれており、また大学設立の趣意にあるように、”西洋の文物を移入し・・”という観点からのカリキュラムの組み立てで、ほとんど進歩していないように思える。
言わずもがなであるが、鈴木幸一氏の言うようにリベラル・アーツ教育が、学生の人間形成にきわめて重要であり、それを無視して企業の活動に役立つ人材を養成しようとするのは、もっての他であろう。すぐ役にたつ人間は、すぐ役に立たなくなるのである。文系の学問は理系とちがって技術革新など「国益」に直結しにくいかもしれない。しかし、文系の学問からは批判する力、洞察する力などは想像力やさまざまな開発につながる。教育評論家で法政大学教授(教育心理学)の尾木直樹さんは、このように言う。
”混迷した時代であるからこそ、これまでの延長線上にはない新しい価値観を見いだしたり、洞察力を働かせたりして解決の方法を模索する。要は第三の道を探りだすことが重要なのです。そのために役立つものが哲学であり、倫理学、文学、社会学。つまり文系の学問なのです。スピーディに結論や成果を求めるだけが学問ではないのです”
産業界からも文系軽視に批判的な意見が聞こえる。ある大手メーカーの首脳いわく、
”国立大から文系をなくそうなんて愚の骨頂です。われわれが学生にもとめているのは、論理的に問題を解決する力、人の話を理解する能力、つまり文系でこそ学べる教養です。・・・スキルだけ持った学生なんて企業は要らない・・・”
とまあ、いろいろ見方があるが、では日本の大学の問題はないのか? ほとんどの文系では古い知識、海外からの知識のフォローが多く、あまりイノベーティブでない。自ら革新しなければならない。哲学にしても、いまさらカントやヘーゲルではないだろう。道元の著した『正法眼蔵』など世界最高の哲学書である。せめてその一端でも、学生の眼に触れさせてやりたい。宗教関係ももっと深く追求すべきだ。古典文学は日本文化の伝統を支える重要な柱である。『源氏物語』にしても、単なる注解にとどまらず、その現代的な存在意義を追求すれば興味ふかい。いや古典にとどまることもない。近代では近松の文学も見直されるべきだ。昭和に入って山本周五郎の膨大な作品などを追求するもの意味があろう。人間の心理的側面をここまで深く読み解いた小説はあまり知らない。もちろん、絵画や音楽も忘れてはいけない。アートがなければ新しいものは出ない。
すこし眼を他に転ずれば、地政学は日本の大学で取り上げるべきである。さまざまな国家に取り囲まれ、深く関係し、地政学的な論究なしに日本の外交はなりたたない。なにも外務省の官僚だけではない、一般のひとでもある程度の地政学的な知識は必要であるろう。
長くなったので、最後に聖路加国際病院の理事しておられる日野原重明氏が私淑したウイリアム・オスラー博士にちなむエピソードをご紹介して、本稿を締めくくります。
オスラー博士は、アメリカなどの医学の発展に貢献し、アメリカ医学の精神を育てた開拓者と言われています。
”オスラーは非常に教養の深く博学のひとだったので、著書をみてもシェークスピアやゲーテ、モンテーニュ、トマス・ブラウンやエマーソンは言うに及ばず、プラトンやアリストテレスなどの古典も一杯出てくる。オスラーは弟子たちにも、医師を志すものは学生時代に医学書以外の本を多く読むようにすすめた、という話をオスラの直弟子だったひとから聞きました。「医師が扱う仕事の三分の一は医学書に書いてないことだから」とオスラーは言っていたそうです。
オスラーは、「医学はサイエンスに基づいたアートである」と言っています。私もまさにその通りだと思います。ところが近代になってからの医学は、サイエンスの面ばかりが発達して、医者の中にはアートの面を忘れてしまうものも出てきました。アートを忘れてサイエンスに振り回されてしまうと、病む臓器ばかりみて、病む人間そのものに目がいかなくなってしまう。病んでいるのは人間なのだから、その人間を癒やすということを考えなくてはならない、と思うようになりました。
人間を大切に扱って、患者の心と身体をケアするには感性が大切なのです。だから、外国には、医学部の学生の半分を文科からとる医学校もある。理科的なものは医者にとって必要なものの半分にすぎないというわけです。
ところが日本はそれどころではありません。医学部を目指す熟の勉強の中に、感性の育成なんてこれっぽっちもない。物理学や数学ばかりやって、そういうのができる人間だけが医学部に合格する。これでは医学がアートになるのは、まだまだ先の事だと思います”
ー『生と死に 希望と支えを~全人的医療50年に想う』(日野原重明)より
またまた長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(余滴)この問題について、あまり新聞やTVのニュース解説などで報道されていないように思われますが、どうしたことでしょうか? オリンピックのための新国立競技場問題は予算規模が大きすぎるということで国会でも取り上げられましたが、本件も国会で大いに論戦を交わして欲しいものです。みなさんは、如何が思われますか?