(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

秋灯雑感 ”文学部など潰してしまえ”・・・?

2015-08-28 | 読書
秋灯雑感 ”文学部など潰してしまえ”・・・・?

 萬葉集の頃は萩が代表的な秋の花でした。その萩もちらほら咲き出しまた。そんな最近のこと、IIJのCEOである鈴木幸一氏が、掲題のような記事を日経の電子版(経営者ブログ)に書いておられました。なんとなく、うずぼんやりとこの事は知っていました。記事のタイトル見た時、一瞬ですが”文部省など潰してしまえ”と眼に映りました。もちろん、冗談です。(笑)
 これは最近の文科省の動きの関することです。人文系の学部の縮小、あるいは廃止につながることです。見過ごすことはできません。しかしこの事については、あまり勉強していませんので、いつものように時評としてとりあげることはできません。したがって単なる雑感にとどめる次第です。

 とはいえ重要な問題なので、鈴木さんの記事を要約するのではなく、肝心のところは、まず原文のまま全体を引用させていただきます。

その前に鈴木幸一氏のことですが、日本におけるインターネット事業の草分けで、今はIIJという会社のCEOをしておられます。経営者ブログでこれまでの発言を拝見してきましたが、なかなかの識見の持ち主、また大のクラッシクファンで、私財を投げ打って「東京・春・音楽祭」を立ち上げ、毎年上野でオペラを中心に数多くの公演を主導してこられました。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


”(高校、大学、同窓会も縁なし)

 高校、大学と一応は籍を置いて卒業までしたのだが、ほとんどの学習は独学だった。高校、大学と同窓生徒の交流もなく、当然、同窓会など、まったく縁がなかった。卒業後、たまたま、語学のクラスが一緒だった大学の同級生に会ったら、「鈴木さんて、4年間で4日しか大学に来なかったでしょ」と言われてしまった。授業はともかく、何人かの教授とは、食事をしたり、飲んだりしていたのだから、大学とまったく無縁だったわけではない。言語学の高名な教授とは、亡くなられるまで、折節、お目にかかっていた。そんな学生時代の過ごし方をした私は、およそ、教育問題については、知見、識見ともゼロに等しい。

 私たちの世代は、戦後の産業と経済の復興がなによりも優先していた時代で、教育の基本方針は、工学重視だった。大学に進学する割合が、まだ少なかった時代で、成績優秀でも、家庭が貧しかった子は、工業高校へ行ったり、中卒で就職して、夜間の工業高校へ行ったりしていた。何人かは技能オリンピックに出たりするほどの技能を身につけて、「落ちこぼれ」のまま、ふらふらしていた私など、立派だなあと、感心させられるばかりだった。

 中学までは、なんとか成績が優秀だったらしく、中学生時代の教師が「鈴木君はほんとに、ダメになったらしい」と言ったとか、近所の同級生から話が伝わってきたりした。学校も休みがち、上野の周辺をうろつくか、図書館に籠って、誰とも付き合いのなくなった私は、友人たちの記憶から消えてしまったようだ。還暦になった年に、高校の同窓会に顔を出してみたら、「あの鈴木さんなの」と声を掛けてくれた同窓生が何人かいるくらいだった。

 「鈴木さん、最後は文学部だよね。今に、文学部を始めとする人文系の学部をなくしてしまおうというのが、国の方針になった。行き過ぎだね」
(同級生の怒り)

 名簿上は同期だが、まったく違った人生で、大教授になり、大学のトップから博物館の館長になった知人と、久し振りに飲んだら、そんな話をしてくれた。私には、教育について語る資格など、まったくないのだが、話を聞くと、かなり深刻な状況になっているようだ。「あらゆる教育は真空の状況で成されるのではなく、時々の国の方針に沿った形で実施されてしまうもので、教育について、真空状態で論議をするのは過ちである」――。以前に、T・Sエリオットがそんなことを書いていたのを読んだ記憶がある。

 知人が危機感をもっているのは、文部科学大臣が出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知のことである。通知が出されたのは6月で、遅ればせながら知ったのである。その通知によると、組織の見直しについて、「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とある。

(知性に対する追い打ち)

 この通知に対して、日本学術会議幹事会が次のような声明を出した。「人文・社会科学系のみをことさら取りだして『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めることは大きな疑問がある」。門外漢の私が、この通知の問題をどこまで理解しているかは疑問なのだが、久し振りに会って、冷たい酒を口にすると同時に怒る知人の言葉から察するに、「文学部など潰しちゃえ」という国の乱暴な意志が、国立大学側に伝わっているのかも知れない。私の理解力がもどかしいと感じたらしく、小冊子をだして、その文章を読めと言う。

 「2015年6月、文部省が国立大学に伝えた通知は、文学部など人文系の学部・大学院に関して、廃止あるいは社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう求めている。経済界、財務省、官邸の意向も働いての要求らしい。(略)だいじなのは、過去につくられた文化は、絶えず新しい読みなおしを加えられることによってのみ生命を保ち得る。対象は古典でも視点は現在にある。そういう場で学生が本当の意味での批判の手続きに熟達するなら、その思考力は応用に堪える。現に文学部卒業生は多様な職業で成果を上げている」(佐藤康弘「近視眼」)

 端的に言えば、若年人口が減少する日本で、産業を発展させるための社会的な要請は、人文科学系ではなく自然科学系の人材を養成すること、ということになるのだろう。もし、ことをそんな風に簡単に割り切るとすれば、人文系か工学系か不明な私から見ると、ずいぶんと乱暴な話である。教養といった言葉が、死語になりつつある日本にとって、文部省の通知する前提となる「社会的要請」そのものが、知性というものに対する追い打ちのようなもので、短絡的な発想だとしか思えない

(ビジネス以外の会話ができない)

 日本のビジネスマンが海外に行って、ほんとうに心を通じ合える友人を持ちにくい大きな欠陥として、ビジネス以外の会話ができないことにある。日本の文化についてすら、語るべき内容がない日本人に驚くことが多い。昔、ロンドンでパーティ会場のテーブルを囲んで飲んでいた折、英国人とシェイクスピアの話をしていたら、居合わせた日本の大企業の経営者の方が、セックスの話と間違えて、とんでもない冗談の場になった記憶がある。教養など「社会的要請がない」と片付けてしまいかねないような単純な発想が幅を利かせてしまう風潮が、今の政権にあるとすれば、心配である。「オックスブリッジ」では、歴史や音楽等の学問が、未だに大きなポジションを占めていることと比べると、文部省の今回の通知は、いかにも寂しい気がする。

 音楽祭を主宰している関係で、海外の演奏家と食事をすることが多いのだが、彼らの経歴は多様で面白い。英国の代表的な歌手のひとりであるボストリッジさんと飲んだ時、彼はオックスフォードで歴史を学び、そこの教授もしていたという。彼の話題は幅広く、深更まで話が尽きなかったのだが、日本の演奏家の方の話題は、音楽に収斂(しゅうれん)して、広がりのない人が多い。それが悪いということではなく、日本の教育のあり方が、そんな風にしているわけである。自然科学系の人が文化や歴史といった人文系の学問に興味をもつようにしたり、人文系の学部の人が自然科学や工学のことに関心を抱くようにするといった教育こそ、本当の社会的要請にこたえる方向なのではないかと思うのだが、どうも、最近はなにかと短絡的に過ぎる気がする。・・・・


 私のような門外漢と文部省の「大学のあり方」に関する議論は、打ち切って、彼の専門である地球や生物の歴史談義で、楽しい飲み会になった。蒸し暑い雨上がりの夏の夜、やり直しのきかない過去を思い起こしながら、ふらふらと家まで歩いて帰った。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この記事を読んで共感を覚えた。ほとんど同感である。いくつか所感を述べるまえに、ある国際会議でのキッシンジャー博士の言葉を紹介したい。キッシンジャー博士は1969年代ニクソン政権下で国家安全保障担当補佐官・国務長官をつとめた。1973年にノーベル平和賞を受賞している。


 ”数年前、アメリカである国際会議があった時に、これからの政治責任者や国際企業の経営者は何をやるべきかということが話題になった。多くの提案が出されたが、最後にキッシンジャー博士が立ち上がって「まず世界の地理と歴史をよく勉強することだ。そしてリーダーは自分の哲学をしっかり持つことだ」と強調、これにボルカー前FRB議長など世界の識者たちが大いに賛同したという。地理と歴史を勉強するというもっとも平凡な提言が、もっとも共感を呼んだというのである。キッシンジャー博士の指摘は考えれば考える程に味わい深い。どんな分野のリーダーであれ、視野狭窄の陥ってはならぬことを深く戒めているのだ。” (飯塚昭男 1991年6月 AGORA)

 これは大学などで専門分野の勉強に凝り固まらず、広い分野での教養をみにつけることの必要性を説いていると言える。キッシンジャーは、いわゆる地政学の専門家なので、こういう発言をしたのであろう。


さて文科省の意図するところであるが、上記の記事を読む限り、社会的要請として人文系の分野ではなく、自然科学系の人材を養成することに狙いをおいているようである。
とくに文学部は狙い撃ちされているのかも知れない。

 最近京大総長の山極壽一さんのメッセージを読む機会があったが、彼は

”総合大学、研究型大学として京都大学がやるべきことは、教養・共通教育、専門教育、大学院教育を豊かに組み合わせて、創造力と実践力を持った人材を育てることです。そのためには、学問の多様性と階層性を整え、さまざまな選択肢を許容する教育体制が必要です。”

 と言っている。そしてこういう風にも言っている。

”京都大学というのは千年の都と呼ばれる京都にあって、長い伝統の中でずっとユニークなことやってきた大学です。すべてはこの斬新でユニークな発想=「おもろいこと」を考えることから生まれます。京都大学はそのために分野を超えて学生も教員も対話します。それも、真剣に、全力で。それがきっと未来のイノベーションにつながり、この社会を豊かにしてくれるはずです。”

山極総長は理学系の出身であるが、このことばに見るように広い分野を越えた考え方を重視しており、決して自然科学系だけに取り組むべきと言っているのではない

 学部をみてみると、総合人間学部/文学部/教育学部/法学部/経済・理学・医学・薬学・農などとなっている。東の雄、東京大学でも同様であるが、そのなかでも教養学部というのがあって、最初の2年は全員ここに在籍してリベラル・アーツを学ぶことになっている。京大の場合、総合人間学部がこれにあたるのであろう。


 ところで海外なかんずくアメリカの大学ではどうなっているか。ちなみにアメリカでは全国の教育をしきる文科省のようなものはない。政府の中に、そいう組織は存在しない。州ごとに教育問題と取り組んでいる。

 代表的な大学としてスタンフォード大学とハーバード大学の学部構成がどうなっているのかチェックしてみた。その前に有名私立大学はほとんどがリベラル・アーツ系大学であり、全人教育、教養教育を目指している。もともと大学はリーダーを養成するための高等教育と位置づけられている。


ハーバード大学の場合、専攻科目はアフリカ・アフリカンアメリカン研究、人類学、応用数学、生化学、生物学、化学、化学物理、古典、コンピューター科学、地球惑星科学、東アジア研究、経済学、工学、英米文学と言語、環境科学と公共政策、伝承と神話学、政治学、歴史学、文学史、科学史、芸術史、言語学、文学、数学、音楽学、中東言語文化、哲学、物理学、心理学、宗教比較、ロマンス語と文学、サンスクリット・インド研究、スラブ語と文学、社会科学、社会学、特別専攻、統計学、視覚環境学、女性・性差に関する研究)。

 スタンフォードの場合も同様で、多岐にわたっている。文学も学ぶ対象であるが、日本のように文学部として独立はしていない。日本の場合は戦前の大学のスタイルがそのまま引き継がれており、また大学設立の趣意にあるように、”西洋の文物を移入し・・”という観点からのカリキュラムの組み立てで、ほとんど進歩していないように思える。

 言わずもがなであるが、鈴木幸一氏の言うようにリベラル・アーツ教育が、学生の人間形成にきわめて重要であり、それを無視して企業の活動に役立つ人材を養成しようとするのは、もっての他であろう。すぐ役にたつ人間は、すぐ役に立たなくなるのである。文系の学問は理系とちがって技術革新など「国益」に直結しにくいかもしれない。しかし、文系の学問からは批判する力、洞察する力などは想像力やさまざまな開発につながる。教育評論家で法政大学教授(教育心理学)の尾木直樹さんは、このように言う。

 ”混迷した時代であるからこそ、これまでの延長線上にはない新しい価値観を見いだしたり、洞察力を働かせたりして解決の方法を模索する。要は第三の道を探りだすことが重要なのです。そのために役立つものが哲学であり、倫理学、文学、社会学。つまり文系の学問なのです。スピーディに結論や成果を求めるだけが学問ではないのです”
 産業界からも文系軽視に批判的な意見が聞こえる。ある大手メーカーの首脳いわく、
”国立大から文系をなくそうなんて愚の骨頂です。われわれが学生にもとめているのは、論理的に問題を解決する力、人の話を理解する能力、つまり文系でこそ学べる教養です。・・・スキルだけ持った学生なんて企業は要らない・・・”

 とまあ、いろいろ見方があるが、では日本の大学の問題はないのか? ほとんどの文系では古い知識、海外からの知識のフォローが多く、あまりイノベーティブでない。自ら革新しなければならない。哲学にしても、いまさらカントやヘーゲルではないだろう。道元の著した『正法眼蔵』など世界最高の哲学書である。せめてその一端でも、学生の眼に触れさせてやりたい。宗教関係ももっと深く追求すべきだ。古典文学は日本文化の伝統を支える重要な柱である。『源氏物語』にしても、単なる注解にとどまらず、その現代的な存在意義を追求すれば興味ふかい。いや古典にとどまることもない。近代では近松の文学も見直されるべきだ。昭和に入って山本周五郎の膨大な作品などを追求するもの意味があろう。人間の心理的側面をここまで深く読み解いた小説はあまり知らない。もちろん、絵画や音楽も忘れてはいけない。アートがなければ新しいものは出ない。

 すこし眼を他に転ずれば、地政学は日本の大学で取り上げるべきである。さまざまな国家に取り囲まれ、深く関係し、地政学的な論究なしに日本の外交はなりたたない。なにも外務省の官僚だけではない、一般のひとでもある程度の地政学的な知識は必要であるろう。

 長くなったので、最後に聖路加国際病院の理事しておられる日野原重明氏が私淑したウイリアム・オスラー博士にちなむエピソードをご紹介して、本稿を締めくくります。
オスラー博士は、アメリカなどの医学の発展に貢献し、アメリカ医学の精神を育てた開拓者と言われています。

 ”オスラーは非常に教養の深く博学のひとだったので、著書をみてもシェークスピアやゲーテ、モンテーニュ、トマス・ブラウンやエマーソンは言うに及ばず、プラトンやアリストテレスなどの古典も一杯出てくる。オスラーは弟子たちにも、医師を志すものは学生時代に医学書以外の本を多く読むようにすすめた、という話をオスラの直弟子だったひとから聞きました。「医師が扱う仕事の三分の一は医学書に書いてないことだから」とオスラーは言っていたそうです。

 オスラーは、「医学はサイエンスに基づいたアートである」と言っています。私もまさにその通りだと思います。ところが近代になってからの医学は、サイエンスの面ばかりが発達して、医者の中にはアートの面を忘れてしまうものも出てきました。アートを忘れてサイエンスに振り回されてしまうと、病む臓器ばかりみて、病む人間そのものに目がいかなくなってしまう。病んでいるのは人間なのだから、その人間を癒やすということを考えなくてはならない、と思うようになりました。

 人間を大切に扱って、患者の心と身体をケアするには感性が大切なのです。だから、外国には、医学部の学生の半分を文科からとる医学校もある。理科的なものは医者にとって必要なものの半分にすぎないというわけです

 ところが日本はそれどころではありません。医学部を目指す熟の勉強の中に、感性の育成なんてこれっぽっちもない。物理学や数学ばかりやって、そういうのができる人間だけが医学部に合格する。これでは医学がアートになるのは、まだまだ先の事だと思います”
         ー『生と死に 希望と支えを~全人的医療50年に想う』(日野原重明)より




 またまた長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

(余滴)この問題について、あまり新聞やTVのニュース解説などで報道されていないように思われますが、どうしたことでしょうか? オリンピックのための新国立競技場問題は予算規模が大きすぎるということで国会でも取り上げられましたが、本件も国会で大いに論戦を交わして欲しいものです。みなさんは、如何が思われますか?















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(予告編) 秋灯雑感~”文学部など潰してしまえ”

2015-08-27 | 読書
最近話題の文科省の動きについて感じるところを”つぶやき”ます。

(しばらくお待ち下さい)




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読書 『京都「五七五」あるき』~旅ゆけば俳句日和(2002年2月 池本健一)

2015-08-21 | 読書
読書 『京都「五七五」あるき』~旅ゆけば俳句日和(池本健一 2002年2月 実業之日本社

                                               (冒頭の写真は、大長鉾)

 この本の題名だけでは、何の本なのか分からないかもしれない。五七五、とあるから俳句のエッセイかな、ともとれる。たしかに俳句が数多く盛り込まれている。しかし、この本はまちがいなく優れて京都の観光案内書である。寺社仏閣を中心とし、それに哲学の道など訪れてみたくなるスポット、かと思えば『源氏物語』のゆかりのところ、あるいは伏見など歴史にいろどられたところどころが次々に現れる。。著者の言葉をかりれば、

 ”京都に関する書物が多いなかで、私は次のことに留意した。ひとつは、観光客がどっと押し寄せる名だたる名刹のひしめく京都にあって、それらに比べれば目立たないが、何かきらきらと輝く、珠玉の寺社にスポットを当てること。円通寺、金福寺、石峰寺などがそれである。一方、よく知られた寺社や行事については、できるだけ言い習わされたこととは異なるアプローチを試みるよう心がけた。・・石庭が喧伝される竜安寺についいては、花の寺としての魅力を強調し、石庭そのものについても多様な見方を紹介した・・・”
 京都に生まれ育って、そこに多年住み京都の歴史、文化などの背景を知り尽くした著者が、気が向くとページが何ページにもなるのを厭わず、語り尽くす。そこに著者がなじんだ俳句を中心とした詩歌が散りばめられる。並みのトラベルライターでは到底書けないような、魅力に溢れた京都案内なのである。

 「プレジデント」などの経営誌に、”人に教えたくない店”というコラムがある。自分ではとても気に入っている料理屋やレストランあるいはバーなどを紹介している。正直にいうと、この本もそれに近い。“人に教えたくない本”に近い(笑) そう、遠来の友人を京都を案内するとき、あるいは京都のお寺などについての小文を書くときのタネ本のひとつである。そういうわけで京都の知人を通じて、この本を頂戴して以来愛用しているのである。最近でこそ、フェイスブック上での京都の知人、友人が多くなり、四季折々に京都の風物についての情報がタイムリーに入ってくるが、それでもこの本の深さにはかなわない。では、この本の魅力の一端にふれてみよう。


(洛中は祇園祭ではじまる)祇園祭はだれでも知っているだろう。しかし著者が7ページを費やして祇園祭りの魅力を語るとき、いくつの知られざる面が顔をだす。

 (宵山)
  ”鉾谷鉾に旧約聖書タペストリー”(田部みどり)

  ”鉾はそれぞれ由緒ある調度によって美しく飾られるが、そうしたベルギー製のタペ ストリーやペルシャ、トルコ、中国などの段通などの豪華な装飾品も幾星霜を経て傷み も見られることから、各山鉾の鉾やぐら、天井幕、前かがりなどとともに順次新調され ている。・・・・

 それから四条通りから鉾町に「狭い通りへ入ってゆき、気ままにぶらつく。見落とせないのは室町通りや新町通りの「屏風祭り」である。ここら鉾町の家々では「宵飾り」といって秘蔵の屏風や書画などを飾り、格子をはずし、通りに面した部屋を開放して自由にみせてくれる。「どうぞ、見とくれやす」」と家の人々はにこやかに招じ入れてくれる。

     

  “京格子はずして屏風祭りかな” (原澤京子)
  ”下京や大和絵浮世絵屏風祭” (池本一軒)

          (写真参照 以下いずれも ゆらぎ撮影)

 (辻まわし)本来直進しかできない山鉾は巡行の途次、河原町四条の交差点と河原町御池の交差点の二箇所で直角に左折する。大変な作業である。そのことを著者は裏方さんへの暖かい眼差しを注ぎっつ、次のように描写する。

 "一切の動力を使わずに巨大な鉾を四ツ辻で九十度の方向転換をさせる。この重労働を円滑にすすめるため、鉾が交差点にくると、積んできた沢山の割った青竹を道路にばらばらとならべ、それにバケツで十分な水を打つ。こうした周到な準備を行うのが裏方さんである。引手がググっと綱を引く。これを二三度繰り返すと鉾は方向転換し終える。

 "裏方に徹するがいて鉾まわる”

 ”大勢の見物人は鉾を飾る豪華絢爛たるゴブラン織りや妙なる鉾囃子に耳目を奪われ、多くの俳人は祭りの華やかさを詠む。しかし、稚児や囃子方や音頭取りだけでは鉾は進まない。裏方さんには、日本一の夏祭りをささえているのは自分たちだという自負と自信と誇りがある・・・”

 ”洛中のいずこにいても祇園囃子” (山口誓子)



(洛中 竜安寺)著者は”花の寺として次のように描写している。山門を入ってすぐの左 手に広がる鏡容池について。

 ”春は桜、椿。涅槃堂の左の桜苑では、素晴らしく大きな枝垂桜の数樹が見事に咲き、散桜が苔を覆い隠す。・・シャクナゲも多い。初夏から夏にはツツジ、藤、睡蓮、蓮、花菖蒲、あやめ。百花繚乱に中にあって、睡蓮はその代表である、5月から9月ころまで、鏡容池に黄、赤などの花が咲き乱れる。

 ”睡蓮の花の布石のゆるがざる” (木内彰志)
 ”竜安寺池半分の菱紅葉” (高浜年尾)

 ”竜安寺は花の寺である。といえば石庭派の反発を買うかもしれない。しかし、実際、鏡容池のまわりと境内を含めて竜安寺には花が多い。・・・先に挙げた以外にも馬酔木、ゆきのした、小手毬、キリシマツツジ、皐月、杜若、山吹、紫陽花、木槿、百日紅、すすき、山茶花などが咲く。書院中庭には秀吉が絶賛したと伝えられる侘助椿が今も咲き続けている。”

          

 ”侘助を活けて「知足」といふことを” (水野久代)


 これだけの花の名前を書き連ねるのは、なかなかできないことである。何度も足を運び、また樹々や花々についての知識、好奇心がないと書けぬものである。このことは法然院の椿、四季折々の25花など記述をみればよく分かる。

 では花のことでお終わりかというと、そうではない。もちろん石庭についても5ページを程を費やして、石とその配置に関してうんちくを傾けている。石庭に西洋文化の遠近法の手法がとりいれられているという指摘も紹介する。石庭そのものの見方については、見方はさまざま、何も分かっていないとして、その代わり、句を10句近くも載せている。

 ”石庭の不可解縁に昼寝の徒” (山口誓子)
 ”寒庭に在る石さらに省くべし” (山口誓子)
 ”石の庭よりも聳ちしもの雲の峰” (鷹羽狩行)

こうやって寺社、場所ごとに縦横に句や歌を引いてくる。著者の素養の深さを思う。



(洛中 源氏物語)
 作者は京都市内の『源氏物語』ゆかりの地を訪ね歩き、また宇治十帖の古跡を巡って、紫式部と『源氏物語』について語っている。全9ページにわたる。少なくとも『源氏物語』を現代語訳、いやあわせて原文で読まれたことと思う。かつまた、イギリスの詩人アーサー・ウエイリーの英訳、さらにはサイデンステッカーの全訳、またロイヤル・タイラー氏の新たな英語訳にまえ言及されており、驚嘆以外のなにものでもない。

 『源氏物語』ゆかりの地として、嵯峨の野々宮神社、また紫式部の墓所として市内中心部にある五条大橋西詰め近くの六条河原院あとを挙げる。”木屋町通りの五条下がるに「この付近、源融河原院跡」の石碑が、二本のおおきなケヤキの木に挟まれてたつ” 源融(みなもとのとおる)は光源氏のモデルと言われている。河原町通の渉成園(枳殻邸)は源融が塩釜の風景を模して難波から海水を運ばせた六条河原院苑の遺跡とか。

 ”十薬も咲ける隈あり枳殻邸” (高浜虚子)

”ついで市内の北部に足を運ぶ。大徳寺にほど近い堀川通北大路下がる西側に紫式部の墓がある。入り口から奥へ進むと、苔の生えた盛り土に紫式部の墓と小野篁(たかむら、平安前期の歌人)の墓がならび、向い合って文学博士角田文衛選の大きな石の紫式部顕彰碑が建つ”

 ”(廬山寺)京都御苑の東に隣接して梨木神社があり、そのすぐ東の寺町通りに面して蘆山寺がある。源氏物語執筆地~紫式部邸宅跡などの看板のかかる高麗門をくぐると正面に大きな歌碑がある。

     

 ”めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月影” (式部)

紫式部はこの邸宅で育ち、結婚して賢子を産み、『源氏物語』などの主要な書著をほとんどこ邸宅で過ごした。・・・廬山寺の「源氏の庭は明るくて開放的だ。桔梗の季節がとくにいい”

     

 ”桔梗(きちこう)や男は汚れてはならず” (石田波郷)
 ”桔梗やおのれ惜しめといふことぞ” (森澄雄)



さらに著者は「宇治十帖」の古跡を追っている。宇治には「源氏物語ミュージアム」があり、著者のいうように古跡をめぐりその昔に思いをいたすのは源氏ファンにとっては楽しみなことであろう。

 ”宇治十帖十碑をめぐり青き踏む” (駒木逸歩)



(哲学の道)この誰でも知っている、そして歩いた人もすくなくないであろう道を著者はどのように描写しているのであろうか? 「四季の遊歩道」と題し、春/夏/秋/冬にわけてその魅力を紹介している。

<春>

 ”遊歩道を南に向かうと、やがて路傍に素十の句碑に出会う。

   ”大いなる春というもの来たるべし” (高野素十)

 この「来たるべし」の春を待望する強い気持ちが溢れている。”

魅力の筆頭は何といっても桜だ、ということで桜の句がならぶ。

 ”ひたすらに哲学の道散るさくら” (古堀豊)
 ”今はただ落花を浴びて佇めり” (水原春郎)

しかし花は咲くだだけではないとして他の花の句がならぶ。
 
 ”哲学の道濡れるかに花三椏” (田口一穂)
 ”仰ぎ見る疎水のみちの藤の花 (中尾映像)

<初夏>京都市が昭和59年にこの疎水の蛍(源氏蛍)を天然記念物に登録し、以来環境を整えその保護に乗り出した事実を紹介している。ホタルの句が何句もならぶ。

 ”蛍火や女の道をふみはずし” (鈴木真砂女)
 ”大蛍飛んで北斗の杓に入る” (佐藤美恵子)
 ”君といて殖えゆくものに蛍の火” (黛まどか)

 ”闇に書く蛍の文字をloveと読む” (鵜野達二)

<秋>

     

 ”この道は風の湧く道法師蝉” (岸田稚魚)
 ”哲学の道燃えはじむ曼珠沙華 (徳岡蓼花)

<冬>

 ”片道の哲学散歩枯れてこそ” (平畑静塔)
 ”瀬音聞く哲学の道寒明くる” (池本守)


 そして哲学の道は琵琶湖疏水に沿ってゆるやかにカーブする道であるが、この疎水のことについてつぶさに紹介している。それはともかく、哲学の道と同じく琵琶湖疏水の一部でありながらそれほど知られておらず、ゆっくり散策できるところを紹介している。

 ”ひとつは、洛北の京都府立植物園の東、松ヶ崎浄水場あたりの「疎水分流」である。・・・隠れた桜の名所というよりも静けさを考えれば桜の屈指の見どころと言っても過言ではない、次は、琵琶湖疎水が洛東の山科を蛇行して流れる「山科疎水」。疎水に沿って、よく整備された遊歩道が続き、天智天皇稜まで散策できる。”

 ”陵の御垣のうちの月の道”


 哲学の道も、このような楽しみ方があるのだと、感じ入った次第である。



この他、法然院、寂光院、祇王寺、長岡の光明寺あたり、そして大原野などご紹介したいところがいくつもあるが、紙数の関係で締めくくらねばならない。最終バッターは・・?


(伏見深草の石峰寺)このそれほど知られていない石峰寺に、なんと10ページを費やしている。何故か? それは画家伊藤若冲と彼が制作に関わった五百羅漢の石像そしてそれに魅入られた耽美派の歌人吉井勇の五百羅漢を詠った歌の故であろう。それらを、この本の著者は好きなのである。

 伊藤若冲の名前は、世界的コレクターのジョー・プライス氏のコレクションが日本で公開されたこともあって相当有名になった。また2009年にはミホ・ミュージアムでも展示されている。しかし、この本の出された20002年1月、石峰寺などを回ったのは2000年前後、今から15年ほど前のことである。そのころから若冲に傾倒し、若冲の墓のある深草の里の石峰寺を訪れている。詳しいことは省くが、画家の生涯、その絵のの特徴などなどを詳説している。

 石像五百羅漢・・・”本堂の右脇からけやきや杉の参道を行くとまもなく参道入り口となる。右手に墓地をみて石段を25段ほど上がると赤門があり(黄檗宗)、このあたりから釈迦の誕生から涅槃までを表す一大石仏群がはじまる。「釈迦誕生」~「苦行}~「出山の釈迦」~「十八羅漢」~「説法の釈迦」~「托鉢修行」と続く。・・・やがて「諸羅漢座禅窟(五百羅漢)}に至る。羅漢さまは草かげに、薮かげに、樹の下に、広まった空間に、あるいは三々五々に、あるいは幾体も固まって、あるいは一体だけ孤立してぽつねんといらっしゃる。・・・石仏群は、若冲が下絵を描きそれによって石工に彫らせたものだという。・・・・これらの羅漢石像を眺めながら、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の微笑を思う。。その、深い思索を思わせる推古仏の近寄りがたい崇高さを思う。それに比べれば、石峰寺の羅漢さまは人間の喜怒哀楽の表情を豊かに現している。瞑想にふける羅漢、片目を閉じた羅漢、笑ったり泣いたり、怒ったりと表情がさまざまである。眼をむき出し、拳を振り上げた、ものすごい憤怒の表情の仁王様とも異なる。

・・・釈迦の一生を多数の石像によって造形化したこの石仏群は、若冲の唯一、最大の人間表現と言うべきかも知れない。同時に、人の一生をこのように石像に造形化し、それを自然の山に据えるという発想は「奇才」若冲なればこそ可能であったのかもしれない。”

      (写真は、橋本関雪邸の竹やぶの中の羅漢さん)

 さてこの五百羅漢をみた歌人吉井勇は、よほど石仏に魅入られたのであろう。38首ほどの歌を詠んでいる。そのいくつかを、

 ”おほどかに落ち葉の谷を見下ろせる 欠伸(あくび)羅漢に夕日あたるも”
 ”来よといひて手招きすれど石なれば 寝ぼけ羅漢はたちもあがらず”
 ”肩の落ち葉払いてやれでど石なれば 半跏羅漢はもの言はずけり”
 ”羅漢にもたまたま欺くことやある 悲しき横頬見るに堪えずも”

 ”世の中に何の不平かあると眺めいぬ 頬ふくれ羅漢ものを言はねば”

それらの歌を口ずさみながら、この本の著者もまた吉井勇の心の世界と一体化してゆくのである。読んでいて引き込まれるような素晴らしい文章である。

 ”これらには、半眼の羅漢、あくびする羅漢、寝ぼけ顔の羅漢、渋面の羅漢、思案顔の羅漢、あるいは半跏の姿勢の羅漢、頬杖をつく羅漢、寝転ぶ羅漢さらにはほろ酔い気分の羅漢など、表情や姿態が実に見事に描かれている。それにもまして心に染みるのは、羅漢に対する吉井勇の思いやりであり、羅漢と一体になった詠みようである。羅漢の肩の落ち葉を払ってやる優しさ、自分の方へくるようにと手招きしたが、考えてみると石の羅漢ゆえに立ち上がれないことに気づく思いやり、羅漢の悲しそうな横顔を見るに耐えないと思う心、山を下りながら振り返ると、すべての羅漢がこちらを見ていたという心。別れを惜しむのは作者自身なのだ”


 これはもう行くしかないなあ! いいところを教えて頂きました。余談ながら、ごく最近のこと京都は嵯峨野に愛宕念寺(おたぎねんぶつじ)というお寺があることを知りました。ここは荒れ放題の境内でしたが、復興のために思いついたアイデアが、五百羅漢。仏師ではなく、一般の人に呼びかけて羅漢像を彫ってもらったところ人気を呼んで、今や1200体の羅漢で境内が埋まった。現代の人々が心自由に彫った石仏がどんなのかは、ここへも一度足を運んでみたい。(写真は、その一部)

     


     ~~~~~~~~~~~~~~~

 長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

(余滴)
たまたまご縁があって、著者の知人の方を通じ、「侘助」と題した句手帳を頂きました。もとより浅学非才の私にとって、俳句に通暁した方の句をうんぬんすることは到底できません。そのかわり好きな句をいくつか挙げさせて頂きます。著者の人生、真摯に生きる姿勢、亡き母上への思いなどなどを感じさせられた句が多く、心に残りました。


 ”侘助の咲けば追慕を深くせり”(池本一軒 、以下略)

 ”涼風の葷酒許さず法然院”
 ”下京や大和絵浮世絵屏風祭り”
 ”秘仏句碑巡りて釣瓶落としかな”

 ”ブランデー紅茶に二滴夜半の秋”
 ”ふとおもひ春燈消してまたおもふ”
 ”腑に落ちぬことはさておき水を打つ”

 ”春の灯の母の鼓に父謡ふ”
 ”春の夜のはんなり母の京ことば”
 ”渾身の力みなぎる老い桜”

 ”鈍行の旅や書を読み案山子見て”







 
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(予告編) 読書 『京都「五七五」あるき』~旅ゆけば俳句日和

2015-08-20 | 読書
素晴らしい京都のガイドブックをご紹介します。

(ただいま制作中。しばらくお待ち下さい)




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時評 玉音放送を振り返って

2015-08-14 | 時評
(長らくのお休みおゆるしください。 再開いたしますので、これまで同様ごひいきにお願いいたします)
8月14~15日は奈良春日大社の万燈籠の灯がともされます。たまたま親しい友人がそれを見に奈良へ行っています。羨ましく思いながら、この記事を書いております。



     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 玉音放送を振り返って

 昭和20年の8月14日、終戦(敗戦)が決まった最後の御前会議で昭和天皇は”国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にたつ”とその決意を明らかにした。そして陸軍の一部将校によるクーデターも画策されたが、無事玉音盤は確保され、15日の正午大東亜戦争終結に関する詔書が放送された。

 当日は暑いよく晴れた日であった。外では蝉の耳をろうするような鳴き声があった。まだ小学校の一年生であった私には、すべてのことを理解するにはいたらなかったが、”朕(ちん)は時運の赴くところ 堪え難きを堪え 忍びがたきを忍びもって万世のために・・・”というところが耳に残った。何がなんだかよくわからなかったが、なにか将来に明るさのようなものを感じた。その後来た食糧難のことは及びもつかなかった。(余談ながら次の年昭和21年の5月には食糧危機に関する第2の玉音放送が行われている)


さて今回改めてその詔書全文を読み返してみた。そうするといくつかの点で、”おや?”と引っかかるものを感じたのである。その事を取り上げて批判や非難をしたり、あるいはこうすべきだったのでは、と主張するものではない。ただ、70年を経て、感じたことを記しておく次第である。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ”・・曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 この後段とくに「他国の主権を排して領土を侵す(おかす)ごときは朕が志にあらず、はやさしく言い換えると「私がもともと考えていたことではなかった”となる。これはおかしい。太平洋戦争は、あなたの御名御璽(ぎょめいぎょじ)ではじまったのではないですか、と言いたくなる。責任逃れに聞こえる。すこし脱線するが、最近の企業犯罪でも責任逃れが多い。以前堀江貴文氏のライブドア事件では、検察は氏を執拗に追い詰め、とうとう投獄までに至っている。ところが最近の東芝の不正取引事件はひどいもので、同社の歴代経営幹部がよってたかって粉飾決算に走った。ところが、どうしたものか大きすぎる企業のせいか、どうも経営責任をはっきりとらせる方向には動いていない。弱気をくじき、強きを助ける風潮である。まして国家レベルの犯罪となると、戦前から当たらず触らずである。日本の戦死者300万人、アジアの死者2000万人。海外にあった領土をすべて失い、工場はほとんど焼失または倒壊、国全体は焦土と化した。この責任は誰が、どうとったのか?

 天皇の発言は、当時のお気持ちがそのままでたのであろう。太平洋戦争当初はまだ、発現しようにも、情報は側近から入ってこず、さらに戦争末期には軍部に暗殺されるとの危機感も抱いておられたようだ。

 天皇責任論はともかく、本来の国家経営の責任をとらねばならない人間ははっきりしている。いいかえれば国家的な犯罪をおかしたのは誰か? A級戦犯という言葉はともかく軍部の主導的な地位にあった人間である。B、C級もおそらく大半。とくに陸軍を中心としてあらゆる情報を得て、解析し、それを元に執るべき戦略・計画・戦術を進言し、また命令を実行させた人たちである。またそれだけではない、戦地で戦うことなく病や栄養失調で亡くなった多くの戦士、彼らは現地のまた中央の無益な、無意味な作戦指示によるものである。インパール作戦、ミンダナオの戦い、サイパンでの全滅、アッツ島の玉砕・・・。企業経営という観点からみれば、これらの人的損失を發生させた中央の幹部は責任をとらねばならない。すこし脱線するが、靖国神社にはこういう責任をとるべ人間の魂も合祀されているのである。お国のためと言われて戦死した無辜の若者の霊に祈りを捧げるというならわかるが、こんな戦争犯罪人と一緒にされてはかなわない。中国や韓国からの反発以前に、国家レベルの犯罪としてまず国内で指弾さるべきである。

 (ご参考までに昨年のこの日に書いた一文を再掲させていただきます)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに太平洋戦争では、将兵や一般民間人300万人が犠牲になった。アジアの人々も2000万人近い数字の人々が戦争の犠牲となった。畑元帥の言葉の関連でいえば、職業軍人なかんずく、戦争を指導した高級軍人は、いわば犯罪人にもひとしく、戦争の責任を取るべきで、到底”お国のために命を捧げた”などという存在ではないことを付記しておく。それまで得た領土を失い、多くの人命を奪い、また日本の国土を焦土と化し、産業を壊滅に追い込んだ。企業経営でいえば、全責任をとらなければならない。

こうしたことを考えれば、靖国神社問題は下記の石橋湛山の言葉のごとく、その帰趨は明らかである。

 ”《石橋湛山の言葉》”

 リベラリスト石橋湛山(たんざん)が、敗戦直後の1945年10月に、自らが主宰する『東洋経済新報」の社論で、靖国神社の廃止を提言した。60年余をすぎた今日でもその説得力はは失われていない。

”靖国神社はいうまでもなく、明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、・・・・しかし今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も果たして将来これまでの如き儀礼を尽くして営みうるや否や、疑わざるを得ざるに至った。ことに大東亜戦争の戦没将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功をたたえることは、我が国の国際的立場において許されるべきや否や。

”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」いま日本国民が必要とする のは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”
 
この石橋湛山(昭和31年 内閣総理大臣)の言葉を意識されたかどうかは不明だが、昭和天皇は昭和63年4月、当時の富田宮内庁長官に対し、A級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に対し強い不快感をしめした。”だから私はあれいらい参拝していない。それが私の心である”と発言した。これに関し、当時の小泉首相は”あれは個人の問題でありますから”と言い放った。ちなみに”靖国神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場”としているが、上記で説明したように、国家のために尊い命を捧げたどころではなく、日本という国家を壊滅に追い込んだ張本人が祀られているところが問題なのである


 もう一カ所、ひっかかるところは、

 ”朕ハここにニ国体ヲ護持シ得テ・・・”

 という箇所である。この国体の護持というのは国家体制のことを言っていると思われるが、これがくせものである。天皇家を頂点として軍部に支えられた国家のことを言うのか? 戦時中も、しょっちゅう、お国のためと言われていた。ところが現実には若い人たちを戦場に引きずりだし、無意味な戦争で死に追いやっていた。こんな話もある。

 海軍大臣米内光政の密命により終戦工作に奔走していた東郷茂徳(外務大臣)著『時代の一面』によれば、特攻隊生みの親とされている大西軍令部次長は豊田軍令部総長らに対してー”今からでも、二千万人を殺す覚悟でこれを特攻に用うれば、決して負けることはありません」と強硬な意見を述べている。

 ー二千万の国民の命を奪って護持する国体とはなんだろうか? 国体とは国とは、この美しい国土とそこに働く人々の総和であって、天皇家も軍もなにも関係がないである。国が、お国のため、と言う時は注意しなくてはいけない。



 玉音放送のことばに対して、二三つぶやいてきました。本格的な戦後責任論についてはほとんどふれておりません。これに関しては『戦後責任論』(高橋哲也著 講談社学術文庫2005年4月)という優れた著作がありますので、それをご紹介するにとどめます。ただその中の言葉から一二、付け加えておきます。

 日本国内のことのみ語ってきました。2000万といわれるアジアの被害者の問題はまだ解決されていません。これは国際法の対象になると思いますは、国際法上、戦争犯罪や人道に反する罪には時効はないとされています

 またギリシャ悲劇の「アンティゴネーの悲劇」という戯曲を例に引いての議論があります。たとえA級戦犯の父であっても、子供にとっては父であり、手厚く弔いたいというのは自然でしょう。どんな死者でも遺族や友人には哀悼する権利があります。けれどもそのような弔いによって戦争責任が曖昧(あいまい)にされてはならないのです。


 ご清読ありがとうございました。




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