(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書/映画/エッセイ  ラストシーン~別れのきめぜりふ

2013-04-28 | 時評
読書/映画 ラストシーン~別れの決めぜりふ

 映画<ザ・ロック>のラストシーンは。本当によかったですね。何度も繰り返し見ました。アルカトラス島でテロリストたちを倒したメイソン(ショーンコネリー)とグッド・スピード(ニコラス・ケイジ)が、いよいよ別れることになります。そのシーンで、メイソンは言うのです。


 ”旅をすることになったら、フォート・ウオルトン、カンザスシティをすすめるよ”

 ”マウイ島へ行くことを考えているんだが?”

 ”いやフォート・ウオルトンがいい”、

 と言ってスタンレーは、紙切れをグッド・スピードに渡します。それには、「フォート・ウォルトン、カンザス。セントマイケルズ教会、最前列の椅子の右の脚・・・・」と記されていました。

 その言葉にしたがって、セント・マイケルズ教会へ行ったグッドスピードは そこで国家機密の詰まったマイクロフィルムを見つけます。恋人の運転する車で教会を離れるグッド・スピードは言うのです。”ケネディ暗殺の秘密を 知りたいかい・・・・”。

幸いYouTubeに、このラストシーンが記録されています。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今度は俊寛のお話です。時は平安時代。平氏の天下の時です。俊寛僧都は、後白河法皇の側近ですが、平氏打倒の陰謀に加担したとして、鬼界ヶ島に流されます。そこで流された成親、康頼、俊寛の三人は絶望に日々を送るのです。そのうち二人は赦免になり許されて都へ帰るのですが、俊寛のみは密議の張本人とみなされ、島に一人取り残されます。悲嘆に暮れた俊寛は、やがて自害してはてます。芥川龍之介の『俊寛』は、ほぼその史実に忠実なストーリーとなっています。

 しかし、その十年近く後に発表された菊池寛の『俊寛」では、新しいストーリーというかラストシーンを用意したのです。前向きに生きる人間を描く、むしろハッピー・エンディングです。(これは「青空文庫で電子版で読めます)どんなストーリー展開か見てみましょう。

 赦免の使者が成経と康頼を連れ帰った後で、地獄の日々を送る俊寛は、目の前の海に身を投げることを考えるのです。しかし、菊池寛の『俊寛』はそこからが違うのです。生に対し、前向きな感情が湧いてきます。巧みな描写です


 ”ふと、そこに、大きい岩を背後うしろにして、この島には珍しい椰子やしの木が、十本ばかり生えているのを見た。そしてその椰子に覆われた鳶色とびいろの岩から、一条の水が銀の糸のように滴したたって、それが椰子の根元で、小さい泉になっているのを見た。水は、浅いながらに澄み切って、沈んでいる木の葉さえ、一々に数えられた。渇し切っている俊寛は、犬のようにつくばって、その冷たい水を思い切りがぶがぶ飲んだ。それが、なんという快さであっただろう。それは、彼が鹿ヶ谷の山荘で飲んだいかなる美酒にも勝まさっていた。彼が、その清冽せいれつな水を味わっている間は、清盛に対する怨みも、島にただ一人残された悲しみも、忘れ果てたようにすがすがしい気持だった。彼は、蘇よみがえったような気持になって立ち上った。そして、椰子の梢を見上げた。すると、梢に大きい実が二つばかり生なっているのを見た。俊寛は、疲労を忘れて、猿のようによじ登った。それを叩き落すと、そばの岩で打ち砕き、思うさま貪むさぼり食った。

 彼は、生れて以来、これほどのありがたさと、これほどのうまさとで、飲食したことはなかった。彼は椰子の実の汁を吸っていると、自分の今までの生活が夢のように淡く薄れていくのを感じた。清盛、平家の一門、丹波少将たんばのしょうしょう、平判官たいらのはんがん、丹左衛門尉たんさえもんのじょう、そんな名前や、そんな名前に対する自分の感情が、この口の中のすべてを、否、心の中のすべてを溶かしてしまうような木の実の味に比べて、まったく空虚なつまらないもののような気がしはじめた。

 俊寛は、口の中に残る快い感覚を楽しみながら、泉のほとりの青草の上に寝た。そして、過去の自分の生活のいろいろな相そうを、心の中に思い出してみた。都におけるいろいろな暗闘、陥擠かんせい、戦争、権勢の争奪、それからくる嫉妬、反感、憎悪。そういう感情の動くままに、狂奔していた自分のあさましさが、しみじみ分かったような気がした。船を追って狂奔した昨日の自分までが、餓鬼のようにあさましい気がした。煩悩を起す種のないこの絶海の孤島こそ、自分にとって唯一の浄土ではあるまいか。”

 そして俊寛は魚を採り、弓を作って鳥を獲った。畑も耕した。自分が拓いた土地に種が生えるのをみて、「人間の喜びの中で一番素晴らしいものだと悟った」のです。やがて俊寛は、土着の少女と出会います。俊寛は、少女が愛おしくなり、少女も好意を持つようになり、やがて俊寛の従順な妻となるのです。子供もできる。そして次には女の子が、その二年後には男の子が生まれます。

 そうしていよいよエンディングです。故主の俊寛を訪ねて有王が鬼界ヶ島にやってきます。俊寛を探し求めた有王は、人里を遠く離れた海岸で人の声を聞きます。それは大和言葉でした。

 ”「俊寛僧都そうずどのには、ましまさずや」
そう叫ぶと、飛鳥のように俊寛の手元に飛び縋すがった。その男は、大きく頷いた。そして、その日に焼けて赤銅しゃくどうのように光っている頬を、大粒の涙がほろほろと流れ落ちた。二人は涙のうちに、しばらくは言葉がなかった。
「あなあさましや。などかくは変らせたまうぞ。法勝寺の執行しぎょうとして時めきたまいし君の、かくも変らせたまうものか」
 有王は、そう叫びながら、さめざめと泣き伏した。が、最初邂逅かいこうの涙は一緒に流したが、しかしその次の詠嘆には、俊寛は一致しなかった。俊寛は逞しい腕を組みながら、泣き沈む有王の姿を不思議そうに見ていた。

 彼は、有王が泣き止むのを待って、有王の右の手を掴つかんで、妻をさしまねくと、有王をぐんぐん引張りながら、自分の小屋へ連れて帰った。有王は、その小屋で、主しゅに生き写しの二人の男の子と三人の女の子を見た。俊寛は、長男の頭を擦さすりながら、これが徳寿丸とくじゅまるであるといって、有王に引き合せた。その顔には、父らしい嬉しさが、隠し切れない微笑となって浮んだ。
 が、有王はすべてをあさましいと考えた。村上天皇の第七子具平親王六世皇孫である俊寛が、南蛮の女と契ちぎるなどは、何事であろうと考えた。彼は、主あるじが流人になったため、心までが畜生道に陥ちたのではないかと嘆き悲しんだ。
 彼は、その夜、夜を徹して俊寛に帰洛を勧めた。平家に対する謀反の第一番であるだけに、鎌倉にある右府殿が、僧都の御身の上を決して疎そかには思うまいといった。
 俊寛は、平家一門が、滅んだと聞いた時には、さすがに会心の微笑えみをもらし、妻の松の前や鶴の前が身まかったということをきいたときには、涙を流したが、帰洛の勧めには、最初から首を横に振った。有王が、涙を流しての勧説かんぜいも、どうすることもできなかった。
 夜が明けると、それは有王の船が、出帆の日であった。有王は、主の心に物怪もののけが憑ついたものとして、帰洛の勧めを思い切るよりほかはなかった。俊寛は、妻と五人の子供とを連れながら、船着場まで見送りに来た。
そこで、形見にせよといって、俊寛が自分で刻んだ木像をくれた。それは、俊寛が、彼自信の妻の像を刻んだものだった。俊寛の帰洛を妨げるものは彼の妻子であると思うと、有王はその木像までが忌いまわしいものに思われたが、主の贈物をむげにしりぞけるわけにもいかないので、船に乗ってから捨てるつもりで、何気なくそれを受取った。

 別れるとき、俊寛は、
「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。松の前が、鶴の前が生き永らえていたらまた思うようもあるが、今はただひたぶるに、俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」
 そんな意味をいった。その大和言葉が、かなり訛なまりが激しいので、有王は言葉通りには覚えていられなかった。有王の船が出ると、俊寛及びその妻子は、しばらく海辺に立って見送っていたが、やがて皆は揃って、彼らの小屋の方へ歩き始めた。五人の子供たちが、父母を中に挟んで、嬉々として戯むれながら帰って行く一行を、船の上から見ていた有王は、最初はそれを獣か何かの一群ひとむれのようにあさましいと思っていたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、自分の頬を伝っているのに気がついた。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いかがですか? このエンディングは。私は大好きです。人生肯定の歌、人間肯定の歌をを聞くのが好きな人間ですから。

 ではもう一つ、楽しいエンディングを用意した短編をご紹介しましょう。それは芥川龍之介の『杜子春』です。芥川龍之介は、短編の名手です。文藝春秋社主であった菊池寛は、彼の早すぎる死去を悼んで、芥川の名を冠した文学新人賞を設けました。

 『杜子春』のイントロはいいですね。

 ”春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。若者は名は杜子春(とししゆん)といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費つかひ尽つくして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつているのです。

 杜子春は門のところで片目の老人と出会います。そして、俺がひとつ好いことを教えてやろう、というのです。

 ”老人は暫しばらく何事か考へているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」

 その黄金を掘り起こした杜子春は大金持ちになりました。毎晩才人、美女をあつめては飲めや唱えの大騒ぎです。しかしいつまでもそんなことがつづくわけはありません、三年立つうちに、杜子春は一文無しになっていました。

 今一度、片目の老人(じつは仙人)にすがった杜子春は、またもや黄金を掘り当て大金持ちに。そして3年後には一文無しになります。今度は、杜子春は老人に「贅沢には飽きました。あなたの弟子にしてください。仙術修行をしたいのです」と頼みます。そうして仙人に連れて行かれ、峨眉山(がびさん)に放り出された杜子春は、魔性にいたずらを仕掛けられ、挙句の果ては神将に矛で突き殺されてしまいます。

 杜子春の身体から魂が抜け出し、地獄まで降りていってしまいます。そこではさんざんな責め苦に会います。しかし、仙人から「一言でも口をきいたら仙人にはなれない』と言われている杜子春は何も喋りません。手をやいた閻魔大王は、杜子春の父母を連れてきて、馬にされた父母を鉄の鞭で打ちのめすのです。二匹の馬となった父母は、杜子春にいいます。

 ”心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるのならそれより結構なことはないのだから、大王がな何とおっしゃっても言いたくないことは黙っておいで”

 杜子春はそれを聞いて、老人の戒めを忘れ、思わず「お母さん」と一言叫んでしまったのです。

 そして感動的なラストシーンです。

 ”その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、かへつて嬉しい気がするのです。」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急におごそかな顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまおうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもつていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には会わないから。」

 鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この桃の花というところがいいですね。それは桃源郷を指しているのです。
 余談ですが、私の好きなサスペンス作家のジェフリー・ディーヴァーもこんな事を言っています。”毎回、私の本を手にとってくれる読者のために小説の最後で、かすかなことでも光や希望とつながることを書きたい・・”


 如何でした。お楽しみいただけたでしょうか? 長文をお読み頂き、ありがとうございました。



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読書 『グーグル、ディズニーよりも働きたい「教室」』

2013-04-22 | 時評
読書 『グーグル、ディズニーよりも働きたい「教室」』          (ティーチ・フォー・ジャパン 松田悠介)

 最近ファンドマネージャーたちと交流する機会があった。自分たちと、全く異なる世界にいる人たちの話を聞いて見たいと思ったからである。経済の話、金融の話、為替のこと、優れた企業活動を続けている企業のことなどを話すると想像していたのだが、すこし違う話題が出た。その中で印象に残ったのが「社会貢献」のことであった。

 アメリカに「Teach for America」(TFA)という名のNPOがある。今から20年も前に女子学生だったウエンディ・コップが立ち上げた。事業モデルは、こうだ。ハーバードやスタンフォード、プリンストンといったトップクラスの大学を卒業する優秀な学生や既卒生を集めて選抜し、独自のトレーニングをする。その後、彼らに貧困地域や教育困難校といわれる学校で2年間教師をしてもらう。ただそれだけの仕組みだが、貧困地域では劇的な効果がある。たとえば文字さえも読めない子が、やる気にあふれた教師のおかげで、高校や大学に進学できるようになった実例には事欠かない。ある中学ではTFAから3,4人の先生が派遣されて、2割前後だった進級率が9割に改善している。・・

 ”つまり、優秀な人材を巻き込んで、すべての子供達に、質のいい学習環境を提供する。それが私たちの使命です”ーウエンディ・コップ

 そんなことを言ったって、誰が資金を提供するのか?、教育委員会など教現場は、それをう受けれるだろうか? ・・・それに優秀な学生がNPOという場に、就職をする機会を犠牲にしてまで、身を置くだろうか? さまざまな疑問が湧いてくる。

 本書はそんな疑問をひとつひとつ解き明かし、アメリカでのTFAの現状をまず伝える。

(TFAは、なぜ、グーグル、ディズニーよりも就職先として人気なのか)
 2010年、全米就職ランキング(人文学系)でグーグルやアップル、ディズニーといった名だたる大企業を抑えて、一位になったのが、このTFAだ。2011年、20012年もランキング3位に入っている。今どきの理想の就職先として学生の間に認知され、定着しているのだ。

 TFAに採用されるためには、非常にきびしい審査をパスする必要がある。ハーバードの卒業生5人に1人がTFAで働くことを望むが、採用されるのは、その10分の1。非常に狭き門だ。その選抜で重要なのは「リーダーシップ」があるかどうかだ。先頭にたってみなを率いるようなリーダーとしての素質もあるが、集団を引っ張ってゆくのでなく、目標を設定、共有してその集団をまとめられるかどうかというのもリーダーシップだ。その選抜後、トレーニングをうけて最後まで残った人だけが、教育困難校に派遣される資格を得られる。学生にとってみると、仕事にやりがいが得られるだけでなく、自己成長の場として人気を集めている。実際、企業はTFAの卒業生を非常に高く評価している。クレディ・スイスやデロイト・トウシュ・トーマツ、GEやゴールドマン・サックス、グーグルやマッキンゼーといった名だたる企業が、自社が内定をあたえて学生が同時にTFAで内定を取った場合、内定者に2年間の入社猶予を与えている。つまり、内定はそのままで、2年間TFAでの活動を行えるのである。

 この本の著者は、元体育教師、当時ハーバードで教育大学院に留学していた。2009年の秋、大学でウエンディの話を聞いて、「日本の教育に足りないのはこれだ」と感じた。著者は云う、

 ”僕がもっと問題として感じているのは、日本の教育システムが50年前とほとんど変わっていないことだ。・・・こういった授業では、今のグローバル化が進んで、より複雑で変化の激しい時代に求められる「課題解決能力」や「リーダーシップ」などを育むのは極めてむずかしい”

 ”学校の内側から教育を変え、新しいムブメントを起こしていく。これだ。  このしくみを日本にも取り入れる ティーチ・フォー・アメリカの日本版をつくろう”

 それから3年立ち、著者はティーチ・フォー・ジャパンを立ち上げ、代表理事として奮闘している。彼の考え方に共感した多くの理解者、支持者、協力がいるようである。

 最後に著者の言葉で締めくくりたい。

 ”この本を読んで、何か感じたことがあればぜひ行動して欲しい。一人ひとりの活動が日本の社会を変えていく大きなムーブメントになって いくと思うからだ。”
 
 深い共感を覚えた私も行動を起こすことに決めた。

 詳しいことは、本書なり、あるいはTFJのウエブサイトにアクセスしてみてください。
  

 余談になるが、今日の日経紙の「経営の視点」というコラムで、「ツイッター生まれない日本」という記事を見た。新経済連盟(代表理事・三木谷楽天会長)が開いた「新経済サミット2013」のパネルディスカッションのことについて報じていた。テーマは「破壊的イノベーションは何か」

 その会合で最も印象に残ったものとして、編集委員の大西氏は、マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボ所長の伊藤穣一氏のコメントをあげている。

 ”僕が成功したのは、日本で一切、教育を受けなかったから。幼児は
  好きな時に好きな絵を描くが、小学校に入ると、勝手なことをしちゃ
  だめ、とクリエーティビティ(創造性)を潰される。だから日本人は
  大人になると誰も絵をかかない”

日本の教育のあり方を真剣に見つめなおす必要性を強く感ずる次第である。



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絵画~古都逍遥

2013-04-15 | 時評
絵画 古都逍遥~「東大寺本坊襖絵」(小泉淳作画)
  (興福寺をおもふ)
 ”はる きぬ と いまか もろびと ゆき かへり 
   ほとけ の には に はな さく らし も” (会津八一)

 (東大寺にて)
 ”おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
   おほき ほとけ は あまたらしたり”     (会津八一)

 奈良を訪れるからには、やはり会津八一の歌集「鹿鳴集」(岩波文庫)を携えてゆかねばならない。今回はほとけ様を見るのでなく、小泉画伯渾身の力作である東大寺本坊の桜を描いたふすま絵をみることに眼目があったのではあるが、岩波文庫を一冊バッグにしのばせた。

 まことに好天。興福寺から奈良公園あたりをそぞろ歩き、東大寺に向かう。あちこちの家々、寺院などの土塀の向こう、依水園のあたりに枝垂れ桜が今まさに繚乱と咲き誇っていた。東大寺の大仏殿を横切り、勅使門をくぐって本坊に入る。そこには、いくつかの部屋にわかれ全40面の襖絵があった。


大宇陀の又兵衛桜をモチーフとしたしだれ桜、東大寺本坊の桜、そして吉野山の桜があった。それぞれ襖4面に描かれている。丹念に描きこまれた桜の絵を、すこし離れてみる立体感をもって見るものに迫ってくる。もの凄い迫力である。染井吉野ではなく、いずれもシロヤマさくらのようである。その三作とも画伯86歳の時(2010年)に完成されている。”白鳥の歌”とも言うべきもので、絶筆である。その前には、おなじく東大寺襖絵の「鳳凰」、「飛天」、「散華」が描かれている。これも展示されている。さらに「蓮池」の絵16面が襖を埋め尽くしている。寺院の絵としては、珍しく色彩豊かで、眼を楽しませてくれた。

 襖絵を見ていて印象に残ったことが二つある。一ツ目は、この「東大寺障壁画プロジジェクト」は、小泉画伯と東大寺だけで出来上がったのではない。横河電機という企業がメセナ活動の一環として推進したのである。2002年の鎌倉・建長寺の「雲龍図」も、そして2006年の「聖武天皇・光明皇后御影」も。

 それから壁にはられていた小泉画伯の言葉に強い印象を覚え、しばしその前で立ち尽くしておりました。

 「己を無にして」

 ”私も、まず描こうとするものをじっくり見つめてから描く。山でも、その 山の良く見える場所を探して、それから一日とか二日とかかけ て写生する。80歳近くなってから東大寺本坊の部屋のふすま絵を描け、という話が起き た。森本別当から突然、東大寺は華厳宗で華やか な宗派だから墨絵でなく、全部色彩で描いてくださいとお願いされ、呆然としたのだが・・・・

 その結果このように出来上がったのだがその毎日、毎日は同じ事の積み重ねで、辛抱の連続でこれは己を無にして仕事する以外にないと思っ た。

 終わった時、今や86歳。あとは今までと同じ、冬になれば蕪を見つめ、夏になれば茄子を見つめる生活に戻るだけである。”ー小泉淳作

 こう語る小泉画伯の白黒の写真が架けられていた。仕事をし尽くした男の顔である。いい顔をされていた。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 本坊を出てから、鹿の戯れる公園を横切り、戒壇院に足を運んだ。もとは鑑真和上が築いた戒壇があり、堂内には持国天、増長天などの四天王の像が見られた。またこの戒壇堂の西には千手堂があり、千手観音菩薩立像と厨子の極彩色の扉絵をみることができた。その絵の意味を聞いてみたが、よく知らないと、云う。ちゃんと勉強しておいて欲しい。

 門を出て石段を降りるとスケッチをしている一団がいた。みな上手である。なかでも指導者らしき人のスケッチをみんなで見ている。その先生に断って写真を撮らせてもらった。先生いわく、”家で仕上げておいて下さい”



 土塀の小径を辿って町中にもどり、昼食。落ち着いた小体な日本料理屋で。奈良の酒「春鹿」を少々呑んだ。あっさりとしたお酒である。上機嫌で「もちいど」あたりを散歩。餅を臼でついているところがあったので、草餅をひとつ頬ばった。よもぎの香りがした。極上の一日。




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読書 『別れる力』(伊集院静)

2013-04-08 | 時評
読書 『別れる力』~大人の流儀3(伊集院静 講談社)
 奈良の桜井へ行った帰り、大和路快速の車中で読みました。


 ”国民的ベストセラー”というキャッチフレーズはおおげさですが、面白く読みました。伊集院という人の作品は『なぎさホテル』位しか読んだことがありません。この本は奥様だった夏目雅子が亡くなられた後、送った放埒な日々を描いたものです。私小説的な本です。さて『別れる力』は、伊集院が自分の思いを言いたい放題語ったものです。よく言えば正論を吐いています。何者にも気兼ねせず、ずばり物事の核心をついて。そして爽やかであります。さだまさしの『本気で言いたいことがある』(新潮新書 2006年)と似たところがあります。二つ三つ本文から引用してみます。

 (愛する人が残してくれたもの)
 ”人間は別れることで何かを得る生きものなのかもしれない。別れるということには、人間を
  独り立ちさせ、生きることのすぐ隣に平然と哀切、慟哭が居座っていることを知らしめる力
  が存在しているのかもしれない。
   人は大小さまざまな別れによって力を備え、平気な顔で、明日もここに来るから、と笑っ
  て生きるものである。人間の真の姿はそういう時にあらわれる。”


 (大人の男だけが座れる場所)
 ”少し前にラジオ番組に出演して、その折、子供を鮨屋のカウンターに座らせるな、と私が書
  いていたことを相手のキャスターが、
  「伊集院さん、子供を鮨屋のカウンターに座らせてはいけませんか?」
  とあらためて聞いた。
  「ダメですね」
  「何年も修行した職人の前で、子供が、トロのサビ抜きなんていうのは
   失礼ということですよね」
  と言われ、どうも誤解を受けてるので、
  「それも勿論あるが、根本はそんなバカみたいなことではない。夕刻以降の鮨屋は大人のいる
   場所だから(もっと正確にいうと、大人の男がだ)子供が入る場所ではないということを言
   ってるんです。大人の男が懸命に働いた後、酒を、肴を鮨をつまんで愉しむところに子供が
   (さらに正確に言えば、若い女、子供がだ)居てはならないと言っているんです」・・・・

   銀座の、赤坂の、神楽坂の鮨屋でオヤジお前に平然と座って、酒が呑めるようになるまで、
   ー俺がどれだけ懸命に働いてきたかが、おまえたちにわかってたまるか・・・”

  (なぜアメリカが正義なんだ)
  ”・・さらに言えば、アメリカの大学教授がやってきて、”これからの正義の話しをしよう”な
   んて言っとったが、あれだけ戦争を起こした国が持ち上げる”民主主義”とは”正義”とは何
   なのだ? 民主主義は21世紀の柱となるべきイデオロギーなのか。資本主義と民主主義は成
   立するのか。
    経済、企業にとって大切なのは利他を考えることではないのか。ならそれは資本論、マルク
   ス主義との共通点があるのではないか。
    ゴールドマン・サックスの中枢にいた者が、この会社は自分たちの利益しか考えていない、と
   言って退職したが、この会社だけではなく、何ひとつ物を創造してない金融業者がなぜあんな
   に儲かり、若いエコノミストがなぜ私たち大人の前でわかったような口をきくのだ。

  (恥知らずな行為は生死にかかわる)ー2011年の東日本大震災に・
  ”被災地の瓦礫を拒絶した市町村がある。
   なぜ平然と拒絶ができるのか。自分たちの子どもや年寄りに放射能が・・・・。
   では聞くが、自分たちとは何なのだ。
   日本人ではないのか。それともすでに日本人を捨てているのか。
   瓦礫を引き受けないと口にちた市町村にはまともな大人が一人としていなかったのか。
    赤子を抱えたり、子供を育てている母親は子のために文句を言う。しかし今、自分たちだ
   けのことを優先する時ではないだろう。  人の子は自分の子だろう、と言って聞かせる大人がな
   ぜ市町村にいなかっ  たのか。
   日本中の各戸が一斗缶に瓦礫を刻んで入れて、密封し、”震災はここにも”とでも書いて孫
   の代まで触れてはならぬものと置いておけば済むのではないか。
   瓦礫も、両親を失った子供も、日本人の大半はは同等に考えているのではあるまいな。そう
   いうおそろしい精神が今、日本人のこころの中にはびこっているということははないのか。
   恥を知れ、人間としての恥を知れ。・・・

    なら日本中の若者に被災地の瓦礫を取りに行けと、言いなさい。
   恥知らずな行為をすることは、大人の男に取って生死にかかわることである。

   注)大阪で、瓦礫受け入れに反対する運動をおこしたグループがいた。放射線量などの点で、安全と確認されたにもかかわらず。
      これに対し、橋下知事は敢然と押し切った。
  

江戸っ子が、啖呵を切ってるみたいだなあ。
 


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気まぐれ日記 奈良・安倍文殊院へ行く

2013-04-03 | 時評
気まぐれ日記 奈良へ 安倍文殊院に行きました
 好天に誘われ、これは吉日とばかり奈良は桜井へ花見にでかけました。いつもの車でなく、沿線の景色を見たいので電車に乗って。大阪から大和路快速、王寺で乗り換えて桜井線へ、別名”万葉まほろば”線として親しまれています。”まほろば”とは、なんと美しい日本語でしょう。沿線には、桜の並木がつづいていました。

 桜井駅から、少しづつ坂道を歩くこと小1時間で目指す、安倍文殊院につきました。想像を超えた凄いお寺です。何が凄いか、一に桜、ニに文殊菩薩像、そして石積みの古墳です。まず桜ですが、全山桜の海という様相を呈していました。すこし高みからみると文殊池に浮かぶ浮御堂は、花の雲に包まれているようでした。八重の枝垂れ桜の淡いピンクが印象的でした。

 つぎに文殊菩薩ですが、高さ7メートルの巨大なもので、鎌倉時代に快慶によって作られてから、いくたの戦火をくぐり抜け今にいたっています。この二月に国宝に指定されたのですが、すぐ近くで見ることができます。色合いもよくとても800年以上もの年月を経たものとは思えません。この文殊さんは、智慧を司る仏として崇められていますが、最近では受験生が試験前に押し寄せるそうです。さらに加えて、ぼけ防止の仏様としてのご利益を期待してご祈祷をうける人が多いとか。私たちも丁寧に拝んできました。ちなみに日本三大文殊はこのほかに丹後の智恩寺、山形の亀岡文殊がありますが、いずれも1メートル程度の小さいものです。ここの菩薩のように大きなものは、ほかにありません。

 

3つ目の凄さですが、飛鳥時代につくられた石積みの古墳が大事に保存されています。古墳内部に入ってみるとわかりますが、丁寧にに加工された花崗岩を積み重ねたもので、石の巨大さ、加工の精密なることに唖然としてしまいました。高度の加工技術があったのでしょう。

 いやいや、こんな辺鄙なところに、こんな素晴らしいお寺があるとは驚きました。高台から西の方を見下ろすと、大和三山~畝傍/耳成/天の香具山が見られました。このおとなりの三輪からは奈良に向かって山の辺の道が走っており、まさに古代ロマンを掻き立てられます。余談ですが、佐藤一英という人の長編詩に「大和し美し」というのがあり、古事記に題材を得て書いた長編詩です。それを棟方志功が読んで、感激し同名の柵(5枚の版画)にしていす。詩、版画ともに素晴らしいものです。



 ”大和は国のまほろばたたなづく
 青垣山隠れる大和し美し
                        (倭建命)

 黄金葉(こがねば)の奢りに散りて沼に落つれば 鋺(もが)くにつれて底の泥その身を裹(つつ)み
離連つなし・・・・
 われもまた罪業重くまといたる身にしあればいかでか死をば遁れ得む
 されどわれ故郷(ふるさと)の土に朽ちざる悲しさよ

 ああ陽はいまや大和なる山の紅葉(もみじ)を耀(かがや)かし
 昔わが遊びし野辺や河岸に子供らの影ゆらめかす思いあり・・・・

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 実りある一日でした。帰りの車中では伊集院静の本『別れる力』(大人の流儀3 講談社)を読んでいました。次回にご紹介します。


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