(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評 企業経営のあり方と教育問題

2021-03-09 | 時評
時評 企業経営のありかたと教育問題

 1990年代以降、日本は経済成長をしていない。このままでは、一人当たりの所得も減少し、健康保険制度も崩壊し、若い人は見えぬ先行きに不安を募らせるばかりだ。豪雨や山崩れに対応しようにもインフラ投資が十分にはできない。アジアの大国などといっている現状ではない。どうして、そうなったのだろうか。そこに至るまで現状を分析し、解決に至る道筋を探りたいと思案を巡らせた。

(日本経済の現状)
 感覚的には日本人は年々、貧しくなっている。サラリーマンの給与はあまり上がらなくなってきた。それに引き換え、健康保険料などの支払額は年々増えている。手取りは、減っているのだ。

 では定量的にはどうか。国民の経済的な豊かさを表す指標として、一人当たりの名目GDPランキングをみてみると、1990年代の前半では世界ランキングで3~4位であったのが、2000年代前半から落ち始め、2020年現在では、25位で、G7最下位。アジアでもトップ5に入れていないとうのが現実である。世界の実質経済成長率(インフレを加味しない)は、90年代以降、2~5%代で推移、ここ10年ではほぼ3%台半ばである。成長著しい中国の場合は90年代から2000年代にかけて毎年のように10%前後の成長を遂げた。最近でも6%台を維持している。ところが、日本はほぼ0~1%レベルで推移している。日本は年々貧しくなっているのだ。

 次にミクロ面ということで企業経営の実態をみてみよう。下記の表は世界の時価総額トップ企業を1992年と2019年で比較したもので、その27年間に大きな変化がある。(サウジアラムコは、サウジの証券取引所で発行済み株式数のほんの一部を公開しているだけなので、参考程度にみればいい。したがって実質的なランキングのトップはアップルということになる。詳しくいてゆくと、

 (世界時価総額ランキング)
     

 この表をみると、

①IT企業が上位を独占している。
トップ10のうち、いわゆるGAFA(グーグル・アップル・フェイスブック・ア マゾン)とマイクロソフトの米国IT関連企業が5社、アリババ・テンセント の中国IT関連企業が2社がランクインしている。グーグル・フェイズブック・アマゾン・アリババ・テンセントは1992年の時点ではまだ設立もされていない。米国の5社は革新的なサービスを掲げ、グローバルに展開し、世界中で大きなシェアを獲得している。このような新しい企業が短期間で世界のトップ企業となるところに米国株式市場の魅力がある。
②中国企業が大きく躍進している。
  注)テンセントより時価総額の大きいファーウエイが抜けている。恐らく米国のファーウエイ外しのせいだろう。
③日本企業は大きく減少し、25位までには入ってなし。このグラフにはないが、26位から50位のところでやっとやっとトヨタのみになっている。


 次に日本の企業の時価総額ランキングをみてみる。

     

 3年前よりは新しい企業が増えている。しかし本当の意味で新しいといえるのはキーエンス、リクルート、ファーストリテイリング、オリエンタルランド、信越化学工業。注)日本電産が、この表には抜けている。時価総額を計算してみると、767億ドルで、ほぼ第6ないし7位に位置するはずである。また、製薬会社が2社ランクインしているが、中外製薬はロッシュ傘下になり大きく株価が上昇しているのに対し、武田薬品工業は合併で時価総額が拡大しただけで、株価は上昇していない。また日本の大手銀行の時価総額減少は著しい。

 世界ランキング上位のGAFA(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン)のように革新的なビジネスモデルでグローバルに展開する企業が少ないことが時価総額が大きく伸びない要因である。

 日本人の生活スタイルを見ても、「iPhone」を使って、買い物は「Amazon」、分からないことがあれば「Google」で検索し、フェイスブックやインスタグラム・YouTubeを見る時間が増えている。これらは、すべてて米国企業のサービスだ。米国の企業は革新的な技術により生活スタイルを変えるようなイノベーションを起こすことで大きな成長を遂げているが、今のところ日本ではそのような企業は見当たらない。付け加えれば、伸長著しい中国の企業でも、アメリカのよう全く新しいコンセプトの企業は、まだ見られない。

ちなみに1992年12月末から2019年12月末で日経平均は約40%の上昇となっているが、S&P500指数は約7.4倍となっており大きな差を感じる。

 ところで『ビジョナリー・カンパニー』という名の知られた経営の書がある。1995年に初めて出版された。”時代を超える生存の原則”というサブタイトルがついていた。さらに数年して『ビジョナリー・カンパニー②飛躍の法則』という続編が出された。それから20年後の今、企業の実態は大きく変わっった。この本は、1950年以前に設立された企業で、卓越した企業(ビジョナリーカンパニーと称する)を選び出し、売上高数十億ドルのフォーチュン500社企業にまで幅広く広げて、それらの企業に共通する経営理念や経営への取り組み方などを調べた。

その結果、ビジョナリー・カンパニーとして上がったのは、3M、アメックス、ボーイング、シティコープ、フォード、GE、ヒューレット・パッカード。IBM、ジョンソン&ジョンソン、マリオット、メルク、モトローラ、ノードストローム、フィリップ・モリス、P&G、ソニー、ウオルマート、ウォルトディズニー。これらの企業のうち2019年の時価総額ランキングで残っているのは、25位まででは、ウォルトディズニーくらい。他は殆どランキングに入っていない。大きく変化したのである。翻って日本では、後述するように大きな変化はない。いつまでたっても、経団連を構成する企業はほとんど変わらない。

 もとに戻って、日本企業の事態をみてみよう。・・・・あまり変化がない。・・・ なぜ、そうなるのだろう。それには二つの面がある。

 一つは、”出る杭は叩かれる”というような風潮が日本にはあることだ。。今でも、ある。古くは、クロネコヤマトの宅急便に関して、時の運輸省は反対した。ヤマトは法廷闘争に持ち込んで勝利した。さらには日本鋼管が千葉に製鉄所を建てようとした時、時の日銀総裁一万田尚登は、”(そこに)ペンペン草を生やしてやる”、と揶揄(? 反対)したそうだ。(余談ながら、一万田総裁は戦後のインフレを防ぐのに大変尽力している立派な人物ではあった)


 時価総額のランキングに入っている企業では、優秀で個性的な経営者がいる場合が多い。たとえば、日本電産の永守会長、信越化学工業の金川千尋社長(のちに会長)、ファーストリテーリング(ユニクロ)の柳井正会長兼社長、など。彼らの強烈な指導力がなければ、ここまで発展しなかった。彼らの、過去のしがらみにこだわらぬ姿勢がそれぞれの企業を発展拡大させたのだ。

 もう一つの面は、会社を優れた企業に育て上げようとするところは少なくないが、まったく新しいものを創り出すことに、目を向ける企業は、ほとんどない。エムスリーなど新規な優良企業もあるが、規模が小さい。ちなみに、アメリカはニュヨークで高品質のいちご植物工場を立ち上げた男がいる。古賀大貴。「Oishi Farm」の代表、34歳。彼はニューヨークの三ツ星レストランにイチゴを売り込み、レストランはイチゴをメニューに取り入れた。あっと、いうまに名前が売れ、資金を調達して量産化に乗り出した。古賀は、世界最大のイチゴ植物工場の建設を進めている。もちろん、規模は大企業というものではない。しかし、日本の農協が、このような高品質農産品の生産販売に乗り出せば、海外市場で大きな地位を占めうるのではないか。

 なぜ新しいものに目を向けることをしないのであろうか? それは、おそらく小学校・中学校・高校に至る教育課程では、知識を教えることに偏重しているからではないか? いや、小中高だけではなく、私自身の経験でいうと大学教育それも学部課程で、教授は過去の習い覚えた知識を教えるのがほとんどであった。知識を教えることは無駄ではない、しかし、それだけでは十分ではない。それぞれの科目で、生徒や学生の好奇心を掻き立たせ、物事の本質を探りだそうとする姿勢を持つようにさせることが大事だ。例えば、日本の歴史を教えるにあたって、”いいくにつくろう鎌倉幕府”というような歴史的な事実のみを教えるのは意味がない。鎌倉幕府は、日本の歴史の中でどのような立ち位置をしめたのか、それが後世にどのようにつながっていったのか。そのようなことを生徒たちに考えさせることが重要だ。また文学でいえば、『源氏物語』の授業は大学あるいは高校や短大などでも、それぞれの巻の文章の読み方や解釈を教えることにこだわっている。源氏をとりまく貴族たちは、一体どんな仕事をしていたのか、貴族はたしかに日本文学美的世界では重大な意味があった。しかひ、地下人と言われる民衆たちはどんな生活を送っていたのか。彼らの日々の貧しい生活に対して何をなしたのか、そういうことには一切触れられていない。

 生物化学についていうと、私たちの頃は染色体の説明ばかりで、それが人間や社会にどのような意味を持つのかの説明には乏しかった。最近は遺伝子学の発展にともない、相当の進歩をしている。一例あげると、あるシンポジウムで「新教育課程と遺伝学:高校の授業で遺伝学をどのように扱えばよいのか」という発表があり、静岡県立浜名高等学校の芥川昌也という教師の方が、”分子生物学の基礎から応用までを教える過程で,DNA とバイオテクノロジー,ヒトの染色体と病気の遺伝子,出産に関わる案件,遺伝子差別と情報管理の問題に触れる等の工夫が可能である。その中で,教員は生徒たちに,知識以外に必要な倫理的な判断能力を育成する必要がある”、との意見を述べている。と、いうことは現状には、まだまだ問題があるということである。

 大学の経済学の分野について触れてみたい。30年近くも前のことである。神戸の大学の社会人相手のセミナーがあり出席したことがある。その時、大学の先生による講演がのあとで、”今のお話を大変興味深く聞かせて頂きました、ところでその発表された論文の内容は、今日の社会問題にどのような形で役立つのでしょうか?”、と。先生は立ち往生されてしまった。後で申し訳ないことをしてしまった、と反省はしたのだが・・・。

 ところで近代経済学では、宇沢弘文教授のことを忘れることはできない。宇沢弘文(1928年生まれで1997年文化勲章受賞)は、高校時代から数学が得意であった。宇沢は、友人との繋がりを基にアメリカの近代経済学者ケネス・アローと知り合い、1956年にアメリカにわたり彼の研究助手となった。アメリカで才能を磨き、数理経済学の分野で、資本主義の不安定さを数理経済学で証明する優れた研究を行い、ノーべル賞に最も近い人物とされていた。宇沢は、帰国後、自然破壊と人間の尊厳を無視した既存の経済学の再構築を自分の使命とした。彼のことを詳しくのべるつもりはない。ただ、彼の経済学の発展にはアメリカという舞台が役に立ったということを取り上げておく。

 注)ちなみに宇沢は文化勲章の受賞のあと昭和天皇の前で御前講演をしている。その時のエピソードをご紹介しておく。

 ”宇沢は、55歳で文化功労賞に選ばれ、恒例のお茶会に招かれ時、昭和天皇と対話した。宇沢はそのときの様子を概要次のように話している。「私はすっかり上がってしまって、夢中で新古典派経済学がどうのとか、ケインズの考え方がおかしいとか、社会的共通資本がどうのとか一生懸命になってしゃべった。支離滅裂だということは気付いていた。その時、昭和天皇は私の言葉をさえぎって次のように言われたのである。「君、君は経済、経済というけれど、つまり人間の心が大事だとそう言いたいのだね」。昭和天皇のこのお言葉は、青天の霹靂きであった。私はそれまで、経済学の考え方になんとかして、人間の心を持ち込むことに苦労していた。理論の中に心を持ち込むことはタブーとされていた。私は、この点については多少欺瞞的なかたちで曖昧にしていた。私が一番心を悩ませていた問題に対する昭和天皇のお言葉は、私にとってコペルニクス的転回とも言うべき大きな転機を意味していた」。宇沢はこれ以来、持続的経済社会構築のための社会的共通資本の概念に自信を深め、研究活動に力を注いだ。


 少し脱線をした。もとへ戻って、アメリカの大学の状況についての一文をご紹介する。20世紀を代表する天才的数学者であり、また経済学にゲーム理論を持ち込んで高く評価されたフォン・ノイマン『人類史上最恐の頭脳』(高橋源一郎)の中に、フレクスナーという有名な教育学者の名前が出てくる。1908年、フレクスナーは、その著書『アメリカの大学』を上梓し、”大学が専門化しすぎたカリキュラムで学生を押しつぶし、彼らの「独創性」の芽を摘んでいる、と批判した。アメリカの大学においてすら、こうである。いわんや日本においておや。日本のの大学の硬直的な状況は、是正されなければならない。

 日本の大学教育については、『自分の頭で考える日本の論点』(出口治明、幻冬舎新書、2020年11月)に詳述されているので、そこから若干の引用をしたい。まず日本の大学は、世界ランキングで、どのように位置づけられているのか。イギリスの教育誌(THE)によると2021年度でトップになったのは、オクスフォード大学、ついでスタンフォード大学、ハーバード大学・・である。中国は清華大学(20位)、北京大学(23位)。日本はといえば、東京大学が36位、京都大学が54位。200位以内に入っているのは、この2校だけだ。アジア地域での日本勢の見劣りが目立つ。なおこのランキングは、教育/研究/被引用論文/国際性/企業からの収入の5分野に渡る13の指標で各大学にスコアつけている。

 日本の大学のランキングが低いのには、それなりに理由がある。①勉強しない日本の大学生・・・全国大学生協連合会の調査によれば、日本の大学生の一日の平均学習時間(授業のぞく)は文系で33.4分、理系で57.9分。寝る暇を惜しんで課題をこなさなければならない英米の大学とは雲泥の差がある。②新卒一括採用という慣行のため、多くの企業は在学中にどんな勉強をしたのかをほとんど問わない。入社してから必要な教育をするというシステムが構築されている。③少子化で、大学全入状態になり、間口が広がれば学生の質は落ちていく。優秀な学生を選抜できるのは一部の難関校のみ。

 ランキングを上げるのが果たして意味あるかどうかについては、オックスフォード大学の刈谷教授の意見では、「非西洋圏で、ローカルな言語で学問的蓄積を社会や文化に対して行えているという意味では、日本は世界でトップ。歴史や文化の独自性と同時に、それを学問として残してきたことが強み」、として大学ランキングより日本の知がつくってきたコンテンツのほうが国際貢献できるはず」、という。

 そのことはともかく、日本の大学の質のレベルを違う見方でみてみる。OECDが行なっているPISAという学習到達度を調査する世界的なテストがある。(読解力/数学的リタラシー/科学的リタラシー)それによると、日本は15歳レベルでは、G7で最高ランクに位置してる。もっとも中国やシンガポール、マカオや香港に完敗しているが・・。ところが大学になると、その順位がガクンと落ちる。

どうしてそうなるのか? 15歳レベルの教育は、俗に読み書きソロバンと言われるような基礎学力を養うもので、先生が教室の前に立って板書きをしながら、一度に多くの生徒を教えるスタイルでできる。ところが、大学のような高等教育機関では学生一人ひとりのの能力・適正・興味関心に沿って指導をしていく必要がある。となると、どんなに優秀な教師でも10人程度の学生の面倒をみるのが限界だろう。オクスフォードやケンブリッジが高い評価を受けているのは、マスの授業ではなくほぼ1対1の指導を行っているからであろう。

端的にいえば、大学になるとランキングが落ちるのは、大学できめ細かい教育が実践されていないからであり、それだけのお金をかけられていないからと言える。 日本の教育予算はGDP比で、OECDの中でずっと最下位レベルである。下記の表をみると、涙が出そうだ!!!

     

小中学校では、予算の不足を先生の熱心さと優秀さでカバーして高い学力を涵養できているが、大学になるとそれだけでは立ち行かない。ある程度のお金をかけないとどうしようもない。

日本の大学の競争力を高めようと思ったら、国費をもっと投入するしかない。では、国はどうして教育に投資しないのか? 単純にいえば、国に新規投資を行うお金がないからである。日本の財政は歳入が少なく、歳出のほうが多い。歳入不足分は国債という借金で補っており、とても新規投資どころではない。その結果、教育への投資はなされないと言うわけである。

 それ故、経済成長が必要なわけである。ここで、改めて経済成長は必要かどうかについて、見てみたい。「もう経済成長はあきらめよう」という意見は、経済学者の中にもある。「成長しなけれなならない」という強迫観念から脱却し、ゼロ成長でも国民全員が豊かに暮らせる道を模索すべきではないかという。日本にはまだ1800兆円という個人金融資産もある・・・という。ベーシックインカムの導入は、このようなゼロ成長論と近い。出口治明氏は、云う。”ただ、それは、衰退する経済にどこまで耐えられるかという話でもある。成長を見込めない国は、海外から金と人を集めることができない。国内の資金や人材も、もっと成長を期待できる海外へ流出してゆくだろう。そうなれば経済成長はゼロどころかマイナスに陥るおそれがある。成長がマイナスなら税収もマイナスとなり、社会保障カットや公的債務の増大に直結する。そして、国民の生活水準は転落の一途をたどりかねない。”、と。

出口氏は、経済成長の鍵を握るのは、結局のところ人口と生産性の二つだという。確かに日本は、先進国の中で最も生産性が停滞している。私の考えるところでは、これらに加え、新しい産業や企業を生み出すことだと思う。そのためには、先にのべたように、教育投資、それも新しいものを創り出す企業を育てることつながるような教育が必要だと考える。

では、それにはどうするか? 一つは、小学校・中学・高校から大学に至る教育の仕方だ。小学校で、生徒が色塗りをする。空は、青と相場が決まっている。そこに紫色を塗ったら、”それは違います”と先生に言われるだろう。樹の色も、黒とか濃褐色が相場だ。そこへ、真っ赤に塗ったらどうなる。これも、否定されるだろう。一例だが、すべての答えに一律に枠をはめるのが、今の教育である。先に引用した出口治明氏は、その著書『自分の頭で考える日本の論点』の中で、正解のない問いを立てる力について、次のように言っている。”その背景には、「正解のある問題」だけを鍛える受験勉強や偏差値教育に対する疑問は反省があるのだろう。今のようなあ混迷の時代は、知識偏重の教育を受けた受験秀才ではサバイバルできない、たしかにこの世界には「正解のない問題」がたくさんある。「考えれば必ず答えの出る問題」しか知らない人間だけでは、未来を切り拓くことはできないでしょう。「正解のない問いを立て続ける力」を持つ人材を求める声が高まるのは、時代の必然でしょう”、と。

 さらに出口氏はいう、”これまでの日本の教育は①偏差値が高い②素直である③我慢強い④協調性がある⑤先生や上司のいうことをよく聞く。ということを重視してきた。一部の企業経営者は、こういう人間は「素晴らしい人材だ」という。でもこういう人間ばかり集めた組織が、新しいものを生み出すことができるでしょうか”、と。また物事を考えるときには、既存の「常識」にとらわれてはならない。特に新しい問題を解決するためには、常識を疑うことが何よりも重要だ。先に述べたクロネコヤマトの小倉昌男氏、日本電産の創業者永守重信氏などは、常識破りの連続で企業を伸ばしてきた。


 このように考えてきて、さて日本の教育はどうしたらよいのかを考えるに当たって、先進諸国に学ぶことを思いついた。明治のはじめに、時の政府は欧米諸国に岩倉使節団を派遣した。全権は岩倉具視、副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文。以下・・五〇名という大型の使節団であった。明治4年11月から明治6年9月の至る長期の派遣であった。その目的は①条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する②江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉③西洋文明の調査であった。

 久米邦武の『米欧回覧実記』(全五巻)をみると、諸外国とくにアメリカ、イギリスなどの主要国の実情については、微にいり再を穿った報告書になっている。その中から、教育についての記述を取り出してみる。ちなみに使節団の年齢の若さには驚く。木戸・大久保はそれぞれ35歳、42歳。伊藤は31歳という若さ。だから、見るもの聞くものを貪欲に吸収できたのだ。とくに木戸は底の浅い日本の文明の克服を目指して、教育制度に関心を払った。

それにしても、この時点ではまだ国内で政府大官の暗殺、農民一揆の頻発など重層的に内外の矛盾が噴出しつつあるときであった。1年10ヶ月という長期間、日本を後にしたのは、今や米欧諸国の実情をこの目でみ、国際社会の現実をくぐり抜けることを通して、万国対峙の近代国家の基礎固めをすることが喫緊至上の課題として意識されていたからである。 ~この頃の明治政府の使命感は物凄いと言わざるを得ない。

 岩倉使節団が最も関心の深かったのは米・英である。このうち、教育問題については、アメリカでの記述が多いので、それらを基に、「回覧実記」の解説を書かれた田中彰氏の文を引用する。

 ”使節団のアメリカへの関心をみる時、アメリカの建国の歴史もさることながら、この国が独立以後100年間に、いかに統一と開拓を推し進めていったか、そのプロセスのほうにいっそうの比重がかけられているように思われる。「回覧実記」は、この広大なアメリカ開拓の原動力を「物力」と表現した。これは、単なる「貨財」を意味するのではない。それは「生理に勤勉なる力」に他ならなかった。それが「国民の深謀と深慮と両の気力」をまって発揮されえることを米国開花の歴史にみた。・・・そしていかにキリスト教が彼らの精神生活の強靭にして不屈あバックボーンになっているかを思い知らされた。

使節団はまた、さきの「物力」の背景に、「高尚の学」よりも「普通の教育」を優先する実学的指向をみた。使節団の教育への関心が強かったことは随所に示されており、使節団はアメリカをはじめ各国で、とりわけ小学校教育に力点をおいて視察した。(その内容は、「使節団の西洋教育観察」(『季刊日本思想史』七)にまとめられている。)

また実学的指向といえば、使節団はアメリカでの綿花、ないし羊毛紡績場、蒸気車製造場、ドック・・などの諸公共機関から各種学校に至るまでの視察の過程で、そこを貫いている合理的・科学的精神を感じ取った。・・・しかも、この書が「米国は、欧州人民の開墾地なり」というとき使節団は、ヨーロッパにおける最も自主・自由の民が「不羈独立の精神」を伸ばそうとして新天地をアメリカに求めた、と観察している。

 ここに紹介した岩倉使節団のことは、今を遡ること150年ほど前のことである。このような使節団を、「どのようにしたら新しい発想ができるのか、そしてどのようにしたらこれまでになかった新しい事業を起こすことができるのか」、それを先進諸国に探り、教育問題もふくめ、今後の日本の経済発展のために役立ててはどうか。 なお使節団のメンバーとしては、若い優秀な人材を選ばなければならない。若い人は感受性が鋭く、物事を吸収するに躊躇しない。

 元に戻って、日本では教育投資の増強は不可欠である。それにはお金が要る。無い袖は振れないことは承知の上で云うが、高齢者は健康保険料を一割負担から三割負担に上げるなどして若者たちのために役立ててもらってはどうかと思う。懐に余裕のある人は寄付をしてはどうか。そのためには、寄付金にかかる税制を変更すべきであろう。一人が仮に1000万円を拠出すれば、100人で10億、1000人なら100億円が集まる。一人5百万円でも50億は集められる。少なからざる人が後世のために拠出するではないか。子や孫に残すより、将来の日本のために!


     ~~~~~~~~~~~~~~


 今回の記事は、ある意味で思考実験であった。ここから、何か前向きな政策を引き出せたらいいなあ、と思った。諸兄姉は、いかがお考えでしょうか?

 長文をお読み頂きありがとうございました。












コメント (4)
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