(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 奈良スケッチブック~法華寺からならまちへ

2016-05-06 | 読書

 初春は雨水のころ、思い立って奈良へでかけた。それには訳があって、<ならまち花あかり>というお遊びに参加したからである。それはともかくその結果、絶世の美女たちとお目にかかることになった。

  ”玉砂利を軽やかに踏み春の寺”

     


 法華寺とその周辺のことである。阪急電車の大宮駅近くの宿(奈良ロイヤルホテル)から北の方へ春の朝日を浴びながら歩くこと十数分。法華寺の門が見えてくる。門跡寺院であるが、簡素ともいうべき山門である。藤原不比等が没したとき、その次女である光明皇后が総国分尼寺として建立し法華滅罪の寺とした。が、次第に寺運も傾きさらに15世紀には西の塔の炎上などがあって、ほとんど荒れてしまった。後年豊臣秀頼が母淀君のために再興されたが、創建当時の面影はなくなっている。ただ、本尊に十一面観音があり、また光明皇后ゆかりの浴室(からふろ)跡があって、今なお訪なう人も少なくない。門を入ってゆくとまず目につくのは会津八一の歌碑である。


      

 ”ふじはら の おほき きさき をうつしみ に 
  あひみる ごとく あかき くちびる”

 この像(十一面観音)に相対すれば光明皇后を目のあたりに見るようだ。と、言っているわけだが、これを深く理解するには光明皇后その人のことについて知らなければならない。聖武天皇のお妃であるが、当時絶世の美女と伝えられた。そのことが北天竺(インド)のガンダーラ国に伝わり王が彫刻家の問答師というものを日本に遣わして皇后に要請して写生をし、それに基に像を造ったという。

     

 本堂にある十一面観音像は秘仏であり、春と秋の年に2回しか公開されない。ただ、おなじようのものが造られていて、像を目のあたりにすることができる。唇は赤く塗られている。長い裳裾を持ち上げ、右の足をすこし開いている。一歩踏み出さんとする構えである、堂々たる体躯であり、端正な顔立ちであるが、絶世の美女であるかどうか、意見が分かれるかもしれない。それはともかく、実在した女性であり、後述する”からふろ”伝説とあいまって、さまざまな想像を生んだ。

 名著『古寺巡礼』の中で著者である和辻哲郎はこの観音の事に多くのページを費やしている。その描写するところによれば、

 ”法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。かすかな燈明に照らされた暗い逗子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光った目と朱の唇とがわれわれに飛びついいてくる。豊艶な顔ではあるが、何となくものすごい。この最初の印象のためか、この観音はなんとなく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感じられた。胸のもりあがった女らしい乳房。胴体の豊満な肉付け。その柔らかな、しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の丸さ。腕の先の腕輪をはめたあたりから、天衣をつまんだふくよかな指に移ってゆく間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しかしその美しさは、天平の観音いずれにも見られないような一種隠微なこわく力を印象するのである。 観心寺の如意輪観音に密教風の神秘性が遺憾なく現れているとすれば、あの観音に似た感じのあるこの像も密教芸術の優秀なものに数えていいであろう。密教芸術には特にいちじるしく肉感性が表れてくるように思われるが、あらゆるものに唯一真理の表現を見ようとする密教の立場からいえば、女の体の官能的な美しさにも仏性を認めてしかるべきである。・・・”


 そうなのだ。この観音様は少しグラマラスである。そういえば薬師寺の吉祥天女像も丸々とした豊頬の美人である。中宮寺の如意輪観音さま(飛鳥時代)は、私たちの情念に訴えかけてくるような美しさがあるが、それとは違う。この天平時代の美女の基準がいかなるものか知らぬが、聖武天皇のお妃である光明皇后は絶世の美貌の人であったかもしれないが、血なまぐさい闘争を戦い抜いてきた藤原不比等一族の娘であるという業を背負っていた。紀野一義は、それゆえ”重く暗い美貌の人”と表現している。

 光明皇后には「からふろ」にまつわるエピソードがある。会津八一は、その著『南京新唱』のなかで法華寺温室懐古と題して二首歌っている。

 ”ししむら は ほね も あらはに とろろぎて 
  ながるる うみ を すひ に けらし も”

 ”からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへに
  うみ に あきたる あかき くちびる”

そして次のような訳注をつけている。

 ”光明皇后は仏に誓ひて大願を起こし、一所の浴室を建て、千人に浴をほどこし、みずからその垢を流して功徳を積まんとしに、九百九十九人を経て、千人目に至りしに、全身かいらい(くずれかかった膿やできもののようなもの)を以て覆われ、臭気近づきがたきものにて、あまつさえ、くちをもってその濃汁を吸いとらむことを乞う。皇后意を決してこれをなし終わりし時、そのもの全身に大光明を放ち、自ら阿閦如来なる由を告げて昇天しさりしよし・・・”
  

 この寺のすこし東に、その浴室(跡)がある。三間四方くらいの小さいものである。床は瓦をしきつめ、床板から蒸気が湧出してくるしかけである。蒸し風呂、いまでいえば蒸気の充満したサウナであろう。そこで皇后はやってくる民の垢を流してやった。そのうち最後の一人が、長の病で苦しんでいる、この瘡(かさ)のうみを誰かに吸ってもらえばきっと治ると、慈悲の心で救ってくださいと懇願したのである。皇后はいかに慈悲のためとはいえ、ライ病人の肌に唇をつけるというのは耐え難い。しかし、それをしなければ今までの行はごまかしに過ぎなくなる。意を決した皇后はライ病の体に美しい唇をつけ、肩から胸、胸から腰、そしてついに足の先にまで及んだ。膿を吸っては美しい歯の間から吐き出した・・・。 そうしたら病人の体が荘厳なものに変わって明るく輝きだしたのである。阿閦如来というのは、金剛界において五智如来(大日、阿閦如来,宝生、阿弥陀、不空成就)の一人とされ大円鏡智をあらわしてている。

 これはもちろん伝説である。しかしこういう伝説がうまれた皇后がおられたこと自体、後世の私たちにとっても誇るべきことである。紀野一義は、”醜の極致であるライ患者の膿に、美の極致である光明子の美しい唇が触れたとき、醜は聖の極致に転換した”と表現している。一体、誰がこのような素晴らしい伝説を生んだのであろうかか。

 十一面観音に見入り、から風呂跡で光明皇后のことを思い、古を偲びながらそぞろ歩くのがこのお寺の楽しみ方であるが、そのほかにも手づくりの庭園に咲く四季折々の花を見るのも一興である。私が訪れたときはまだ時期が早く、ミモザ/マンサク/蝋梅/しだれ梅などが咲いていた。五月のカキツバタもまた見事と聞く。京都の庭園のように、見事に手入れされた庭ではなく、どうやら尼僧たちの手作りのようなものである。枝垂れ梅の樹下には橋本多佳子の句碑が立っていた。このミスマッチも面白い。橋本多佳子は美貌の人であった。その句を眺めると、情熱の歌人ともいえる。

 ”雪はげし抱かれて息のつまりしこと”

ほかにもいい句が多い。

 ”生き堪えて身に沁むばかり藍浴衣”

こういう句を詠んだ多佳子の歌碑がなぜこのお寺にあるのか。やはりミスマッチか。あるいは庵主さんに心の底に様々な想いがあるのか。伺ってみたい気もする。

 ”古雛おみなの道ぞいつくしき”


 ところで、このお寺では長さ4センチほどのまことに小さく可愛らしいお守り犬を頒布している。土を塗りかためたようなもので、悪病よけまた安産のお守りとされている。もとは光明皇后がつくられたとかで、1300年ものあいだそれが連綿として続けられているというのは、はやり尼寺であるからか。

          

                          
 この法華寺から少し歩くと同じく光明皇后が建立したとされる海龍王寺があるが、昔日の面影はない。ただこの寺については、僧玄にまつわる興味深い話がある。716年ごろ遣唐使として唐に赴いた僧玄は貴重な法経5千余巻を持ち帰った。帰りの船が難破しかけたとき、彼は海龍王経を必死で読み唱え、苦難を乗り切った。これにより、玄は聖武天皇および光明皇后から厚く遇せられこの寺を賜った。ただあまりに眉目秀麗であったので光明皇后と密通したという噂もある。光明皇后は、それほど美しかったのであろう。海龍王寺は平城京の東北隅に位置し、そのため隅寺とも呼ばれた。


 ”法華寺に見ざりし土筆隈寺に”
          (森澄雄 海龍王寺にて)

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(話は変わって、現在の奈良のこと)

 大正から昭和の初期にかけて奈良にも花街があり、全盛期には200人ほどの舞妓・芸妓で華やいだという。とろこが、いわゆる旦那文化が衰退し、さらに奈良の産業活動自体が衰退していった。「大仏商法」といわれる待ちの姿勢の観光産業、進取の気風にかける企業活動。また工場の新築や改築にしても、なにかといえば発掘調査を義務づける行政のフレキシビリティに欠ける姿勢、個人にしても収入の割に消費にはあまりお金を使わないという気風。今日、奈良市内にはほとんど本店をおく企業がない。地政学的にみても、大和川の水運が土砂の流出で大量輸送ができなくなった。また奈良は貨物列車の走っていない唯一の県と言われている。

 伝統文化・伝統芸を支える花街が衰退したのは残念なことである。そこで活性化を図ろうと最近になって様々な動きが出始めている。その一つが奈良町芸者のひとり、菊乃さんによる「奈良元院林花街復興プロジェクト」。クラウドファンディング(*)により資金をあつめ、花街の魅力とおもてなしの心を再興し、芸子・舞子を育成するとともに、地域芸能を伝承しながら、文化の継承・発展を目指すことを目的として活動している。

     

 (*)クラウドファンディングとはネット上で、自分の夢や目指す活動を発信し、それに共感を覚えたり応援をしたいという人を募る。それによって支援金を集める仕組みである。一例を上げると、大きなものでは、沖縄離島の患者を救うための医療活動飛行機を購入するというプロジェクトがあり、3600万円を集めている。


      (老舗の料亭、菊水楼)


 これに刺激を受けて、今春「ならまち花あかり」という花街伝統芸能イベントが催された。全国花街伝統芸能シンポジウム(菊乃さんも舞った)、舞踊公演~大和をどり、それに次の日の花街日本酒バルである。同日開催で元林院大宴席(菊水楼)が行われ、全国八つの花街から美女連が集まった。いわく、奈良元林院/京都祇園甲部/京都上七軒/福井浜町/金沢ひがし/東京浅草/東京品川/岐阜鳳川伎連。芸妓・舞妓さんの踊りの披露があり、宴席では彼女たちのお酌を受けて、食事も楽しんだ。一緒に写真を撮らせてもらったのは言うまでもない。驚いたのは会場である菊水楼の舞台の立派なこと! 文様の入った屏風もふくめ、まさに文化財だ、こういう素敵な舞台は京都でも見たことがない。長く残したいところである。いささかの小遣いをはたいての参加であったが、若い美女たちの笑顔とエネルギーをもらって大満足! 紫乃さん/もりあさん/菊乃さん・・・またお会いしましょう!

     

     



 次の日は快晴の陽光の下、昼酒を。<花街日本酒バル>ということで、もちいどの商店街にある受付で参加の申し込みをすると、小さなオリジナル升をくれる。これをもって奈良町界隈にある日本酒の販売店、飲み屋、小料理屋をまわる。おつまみと日本酒一杯を500円で飲める。

           

もちろん、昨夜の芸子さんがいて、お酌をしてくれる。なら泉勇斎/酒肆春鹿/よばれや・・・などの10店。。回るのは数軒にとどめた。その中でもなら泉勇斎はきちんとした店で、試飲もできる。中に入ると座敷があり、掛け軸がかかり花も飾られていた。昨夜、会った芸子さんにお酌してもらい陶然となったのは言うまでもない。



このエリア、ならまちは奈良の旧市街の一角で、今も古き良き時代の面影を残している。楽しみ方は、まずもちいどの商店街を南下する。出口付近に古書店があり、結構掘り出し物がある。ふつうはここで終わりとするひとがおおいが、さらにどんどん南へ歩いてゆく。町屋を利用した小さな宿屋やお寺が散在する。相当歩いたところで、大通りにでるが、そこを飛火野方面にゆく。二つ目の角あたりには、<秋篠の森>というオーベルジュを運営してたところがカフェや観光案内所、またごはん処などをやっていて、若い人に人気がある。さらにそこから北へ戻ってゆくと、和菓子の店や洒落たイタリアンの店、また猫が”なんかようか?”と呼び掛けている大暖簾をかかげている得たいの知れぬ店、なら格子の町や、酒どころなどなど見ているだけで楽しい。

      

  ”なまけ猫のれんの中は目借時”

神社仏閣もいいが、こんな何気ないエリアの散策もいいものである。帰りは、もちいどの商店街の角で、年中餅を臼と杵でついている中谷堂で草餅などもらって、頬ばりながら近鉄奈良駅を目指すのが常である。


 




   
コメント (4)
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