(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ日記ー豪州の女流画家とスウィーツ

2007-03-27 | 日記・エッセイ
 近くのホテルで、豪州の女流画家ジョアン・フック女史を招いてのディナーがあった。長い間仕事で関わり合いのあった国、そして90年代前半にはシドニーに住む機会があり、そこは今や第二の故郷でもある国、オーストラリア。懐かしさもあり、わがパートナーと揃って出席した。少人数の会だったので、画家ご本人や豪州領事館のスタッフなどとあれこれ話が弾んだ。

 オーストラリアの絵画というと、それほど知られていないが、荒野の開拓者たちを描いたフレデリック・マッカビンの傑作「The Pioneer」を先ず思い出す。近年は、イラスト画ともいうべき明るい色彩の絵が多い、ケンドーン、エヴァ・ハンナなどなど。深みのある芸術性とは無縁なものであるが、明るさ故に、結構人気があった。

 ジョアン・フックの絵は、グレートバリアー・リーフを泳ぐ魚たちや、熱帯雨林を飛翔する鳥たちなどをメルヘンチックに、しかしある意味リアルに描く。青い空、陽気なオージーの気質がでたような色彩豊かな絵は、なかなかチャーミングだ。若い人、女性に人気があるようだ。見ていても気持ちが明るくなる。今回は、日本の築城400年記念の年でもあり、熊本城の四季の絵も描いている。(なかなか商売がうまいなあ)

 彼女の絵は、すべて水彩画だ。これを写真でデジタル化し、ミストスクリーンという手法で刷り上げる。絵のぼかしやすかしといった質感がうまく表現できる。
原画とちがい、一枚の価格は比較的低く抑えられている。絵のビジネス感覚が
すぐれていると感じた。でもご当人は、純粋なアーティストだ。

 近年モナコ近くのフランスのまちのプロパティ(アパルトマン)を購入した、と言っていた。ここで一年の何分の一かは、過ごして絵の制作の専念するとの
こと。コート・ダジュールの紺碧の海の色が出てくるかも。
異なる土地に住んで、刺激を受け、創作イメージを醸成する。なかなか前向きな姿勢である。近々、パリで個展を開催する計画があるそうだ。伝統美術の本場で
どのような評価を受けるか、見てみたいものだ。

 この日の料理は、オーストラリアン・フェアということで、シドニーのシェフを招いての料理の数々が用意されていた。ビュッフェ型式だが、オージービーフのロストビーフ、タスマニアのサーモン、もちろんロブスターやスキャロップなどのシーフードも。美味いワインに食の進むこと。そして極めつけは、デザートだ。
いちはやくパヴァロヴァが、ひっそりと隠れているのを見つけたジョアンが、教えてくれた。木苺とキウイフルーツをのせ、生クリームのメレンゲがたっぷりのケーキ。ひさびさなので、二つも食べてしまった。このデザートは、オーストラリアとニュージーランドが、本家争いをしているとか。そんなことは、知ったことかと、満喫しました! ピーター・アレンの歌を思い出した。


      "I still call Australia a home"


注)写真は、『Flights into Fantasy』と題するジョアン・フックの画集の
  カバーから




 

 
 
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読書/俳句『俳人漱石』(追記)

2007-03-26 | 時評
『俳人漱石』に読書メモを書いたところ、思わぬ反響をいただきましたた。とりわけseiji様・百鬼様からは、様々なご意見を頂戴しました。お二方とも真剣に原本をお読みいただき、また関連する参考の書も考究されたうえで再三、この本の見方についてのご意見を披瀝頂きました。その真摯な姿勢と熱意もふくめ、あつくお礼申し上げます。ありがとうございました。
ほとんどお書きいただいことに同感、共感するものですが、この稿を閉めるにあたり、若干の感想を書かせていだきます。

私にとって、この本は今まであまり触れて来なかった漱石の句の世界を垣間見る機会を与えてくれ、その意味では楽しませてもらいました。しかし、著書の坪内稔典氏は、小林恭二が、『俳句という遊びー句会の空間』の中でも言っているように漱石・子規などの学術研究家としての顔と、もう一つは、”とんでもない句を書く人というイメージがあります。その飄逸な句作は、見る人によって評価の分かれるところです。今回の本は、どうも後者の立場に立って、”軽く”書かれたもののように思います。
それだけに見方が甘かったり、また誤解を招きかねない部分もあるように思われます。百鬼様から、鋭く指摘のあった「菫ほどな小さき人に生まれたし」の評は、全く表面的でもの足らないものがあります。

  注)余談ですが、稔典氏は、この句を漱石のベストスリーのひとつとしてているそうです。

それからお二人から指摘されました「漱石を18世紀に閉じこめている・・」、については小生は次の様に考えています。
私には、どうもこれは、稔典さんが、18世紀のドメインの高いレベルを越えることが出きないので、逆説的に云っているような気がします。考えてみれば、クラシック音楽の世界もいまだに、バッハ・バートーヴェン・モーツアルト・ワグナーなど過去の一時期の世界を本質的に越えるものは、ほとんどありません。絵画・彫刻の世界でもバロック・ロココの時代から、ビクトリア朝の絵画、印象派など、せいぜい20世紀前半までがピークで、それを超えるような作品はなかなか現れていません。俳句の世界でも、芳賀徹の『与謝蕪村の小さな世界』で描かれていいるような繊細で巧緻にして、かつ大胆な発想でなされる先端的な表現を越えるものは、なかなか現れていないような気がします。稔典氏は、新興俳句の日野草城の系統ですが、18世紀を超えられぬがゆえに、新興の世界、音楽でいえば現代音楽に相当するものに、取り組んでいます。つまり古典からの回避を、あえてあの様な表現で云っているのではないでしょうか?
いずれにしろ「三月の甘納豆のうふふ・・」の句は、面白いようにも見受けますが、後世に残ると云う代物ではないでしょうね。


最後に、4年程前に聞く機会のあった漱石の言葉をご紹介してこの稿のしめといたします。
 
(夏目漱石)明治40年3月 東大教授を辞職、文学で立つことを決断。大正3年の講演会で、自分の将来に希望と不安をいだく学生たちに言った

「私の個人主義」

  ”もし あなた方のうちで すでに自力で切り開いた道を
   持っている方々は例外であり、
   もし そうでないとしたら  どうしても自分のつるはしで
   掘り当てるところまで進んでいかなくてはいけないでしょう。

   ああ ここに俺たちの進むべき道があった!
   ようやく掘り当てた!
   こういう感投詞が こころの底から叫び出される時
   あなたがたは 初めて心を安んずる事ができるのでしょう”

   (NHK<その時歴史が動いたーそして近代ニッポン人が誕生した>
    筆とペンで、日本人の新しい生き方を求めて苦闘した人ー正岡子規、
        夏目漱石、与謝野晶子)・・・2004年2月

今、漱石の書簡・句集などが手元にあります。この一年は彼の足跡を追うことに
なりそうです。また小説「草枕」の中にある桃源郷的な世界については、蕪村と
共通するものがありますがーたまたま、それを絵巻にした『漱石世界と草枕絵巻』
という珍しい本を手に入れたので、あわせてその世界でも遊んでみたいと思って
います。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

コメントをお寄せいただいた我善坊様、senji様 百鬼様 、重ねてあつく御礼申し上げます。ありがとうございました。
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音楽/読書『鳥の歌』

2007-03-17 | 時評
『鳥の歌』(ジュリアン・ロイド・ウエッバー編 ちくま文庫(03・2第4刷)

 「鳥の歌」といえば、チェロ奏者のカザルスが、いつもコンサートの最後に弾いていた曲である。同時に、これは、彼のことを書いた本のタイトルでもある。この本のことを中心に、カザルスのことを少し書いておきたい。

 カザルスの演奏との出合いは、1961年にホワイトハウスでのケネディ大統領主催の演奏会の録音をしたLPを聴いたのが、初めである。この時、メンデルスゾーンのピアノ・三重奏曲やクープランのチェロとピアノのための小品などを弾いたあと、カザルスは、いつものように彼の故郷のカタロニア民謡の「鳥の歌」を演奏した。彼の息づかいも入っているこの盤は、いまとなっては古くなってしまったが、私の愛聴盤である。平和への祈りにも似た、この静かな調べは、いつまでも耳に残るメロディーである。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ”私は、カタロニアの古い祝歌(キャロル)「鳥の歌」のメロディーでコンサートを締めくくることにしています。その歌詞はキリスト降誕をうたっています。生命と人間に対する敬虔な思いに満ちた、じつに美しく心優しいことばで、生命をこよなく気高く表現しています。このカタロニアの祝歌になかで、みどりごを歌い迎えるのは鷹、雀、小夜啼鳥、そして小さなミソサザイです。鳥たちは、みどりごを、甘い香りで大地を喜ばせる一輪の花にたとえ
て歌います”・・・パブロ・カザルス

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この本は、カザルスの言行録とでもいうようなものだが、それを編んだのは、英国のチェリストのジュリアン・ロイド・ウエッバーである。余談になるが、彼は、キャッツやオペラ座の怪人などの作曲で有名なアンドリュー・ロイド・ウエッバーの弟である。


(カザルスのいくつかのエピソード)

バッハが大好きである。こう言っている。

 「まずバッハーそれからすべての作曲家」
 「バッハは永遠だ。あの偉大さと深遠と多様には、誰も達しない」
 「バッハの音楽は、若さを保つためのまたとない薬だ」
 「バッハは、私の親友です」
  ー96歳のとき、いまでもまだ練習なさいますか、と尋ねられたカザルスはこう答えた。 「もちろん演奏し、練習しているよ。あともう百年」生きたとしても、つづけるだろうね。チェロは私の一番古い友達だ。見捨てられるわけがないだろう」

 バッハの無伴奏チェロ組曲は、長い間埋もれていたが、カザルスが発見して世に送りたのである。毎晩寝る前にこの曲を、アイ・ポッドに入れて聴いているくらい好きな曲である。その楽譜との出合いの情景が、次のように描写されている。

 「私たちは港のそばの古い楽譜屋に立ち寄った。私は楽譜の束をめくりはじめた。ふいに、時の流れに黄ばみ、ふれるとぼろぼろになりそうな一束の楽譜がでてきた。ヨーハン・セバスティアン・バッハの無伴奏組曲だったーチェロだけの曲っだよ! びっくりして目をみはった。『チェロ独奏のための六つの組曲』だって? このタイトルの裏にはどんな魔法と神秘が隠れているんだろう? こんな組曲があるなんて、聞いたこともなかった。誰一人、私たちの先生ですら口にもしたことのないタイトルだ。私は、なぜその店にいるのかということも忘れてしまった。ただただ、いいまにも崩れそうなページを見つめ、そっとふれるばかりだった。あの時の情景はいつまでも色あせることはない。あの作品のタイトルページを見るたびに、かすかに海の匂いのする、あのかび臭い古い楽譜屋に引き戻される」

この楽譜の発見だけでない。”こんな練習曲を人前で演奏するのかなどと、様々な反対と非難があったが、それを押しきって世に出したカザルスに感謝、感謝。


 カザルスは音楽家であると同時に平和を愛するヒューマニズムに溢れた行動する人であった。スペイン内乱の年のエピソードが、この本の中に紹介されている。

 「1938年10月19日、フランコ軍がカタロニアへ着々と進軍していたとき、カザルスはスペインで最後のものとなったコンサートのリハーサルをしていた。オーケストラは、カザルスの指揮でグルックとウエーバーの序曲を演奏したのち、ハイドンとドヴォルザークのチェロ協奏曲の伴奏をした。リハーサルの最中に空襲があり、団員たちはあわててホール中に散った。しかしカザルスはステージに残り、チェロをとってバッハの組曲を弾き始めた。団員たちは一人また一人と定位置に戻り、リハーサルは続けられた。コンサートは、国境を「越えて放送され、休憩のあいだにカザルスはラジオに向かって感動的なスピーチをした。彼は、スペインの自由が重大な危機にあることを訴え、さらに同じメッセージを英語とフランス語で繰り返した。まだ共和派が掌握していた自由スペインの地域では、人々がこの放送を聞けるように、月曜の午後2時間の間、仕事が中断された。・・・

カザルスの人道主義的な行動に世界中から支持が寄せられた。1945年の(英国)アルバートホールでのコンサートには、会場の内外に押し寄せた群衆の数は1万人から1万2千人とふくれあがった」


 この本の訳者である池田香代子は、1950年の「プラド・フェスティバル」についてこう語っている。

 「1950年はバッハの没後200年にあたりました。当時カザルスは、フランコ独裁政権を拒絶してスペインをさり、ピレネーの西仏国境にへばりついているようなフランスの小村プラドに腰を据えていました。この記念すべき年に、当代随一のチェリストとかバッハの解釈者とかをとおりこして、比類ない音楽性と行動によって時代の良心の象徴となった人、カザルスを招いてバッハ音楽祭を開きたいと、沢山の申し出がアメリカ大陸からヨーロッパ大陸から、この僻村に押し寄せました。けれどもカザルスは、うんといいません。国境の村から動くわけには行かない、といいます。それならばこちらから行きましょう、と世界中から人々が集まって、ここに歴史的なプラド・フェスティバルが開かれたのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この時の「鳥の歌」の演奏を録音した盤も、幸い私の手元にある。

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読書/俳句『俳人漱石』(後編)

2007-03-11 | 時評
漱石の句と、三人の鼎談をもうすこしご紹介しよう。

(三十六峰我も〃と時雨けり)
稔典 この京都の東山三十六峰を詠んだ句はおもしろいですね。

子規 「我も〃と」がいいね、。山が舞台の中央に出てきて名乗っているよう。芝居がかっているところがおもしろい。

漱石 服部嵐雪の「蒲団着て寝たる姿や東山」に匹敵する名句といっていいかねえ。

子規 匹敵するかどうかはともかくとして、京都の冬の情緒を伝えるキャッチフレーズにはなってるよ。・・・・・・


稔典 このころから、漱石さんは一つの題で数句をつくるようになります。今の場合だと時雨で二句をつくったのです。漱石さんの作句が意識的になってきたということではないでしょうか。それに、この作り方は、体験や見聞にもとづく作り方ではなく、言葉から発想する作り方ですね。子規さんも一題で十句つくる「一題十句」を好まれましたが、おなじようなことを漱石さんも始めたようです。


〔余談〕子規は、短歌の革新に大きな業績を上げており、この鼎談でも印象深い歌が紹介されている。星の歌である。

   ”真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり” (明治33年)

 稔典さんは、漱石の言をかりて、こう言わしめている。
「子規君の歌は希望に満ちている。そのころは立つこともできない病人だったはずだが、気力が満ちた歌だ」
「子規君の短歌で私の好きなものがある。やはり『墨汁一滴』にある藤の花の歌だ。・・・・   
   ”藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ”

 子規君は、藤の花の歌をつくりながら、ごく自然に深々と『源氏物語』の世界に入っている・・」


(見送るや春の潮のひたひたに)
稔典 句稿〔明治29年10月)にあります。15句からなるこの句稿の作品は、すべて恋の句です。今回の句は、「別恋」すなわち恋の別れを題にしたもので・・

子規 その句稿を見ると、僕が丸をつけているのはどれも王朝風な恋の句だなあ。

稔典 そうですね。次の2句に二重丸がついています。

    君が名や硯に書いては洗い消す
    行く春を琴掻き鳴らし掻き乱す

   ・・・・・

稔典 体験から発想すること。それが近代俳句の基本になりました。だから、題で発想することは前近代的で古いと見なされるようになります。でも、体験だけに固執すると、俳句の世界が狭くなりますね。体験できることはおのずと限定されますから。「初恋」「逢恋」「別恋」などど言葉から発想して恋を詠むのは、、これ、古典和歌の方法ですから古いものですが、体験の狭さを破る方法になるかも知れませんね。


(湧くからに流るるからに春の水)
稔典 今回の句ですが、「湧くからに」と「流るるからに」の対句が効果的ではないでしょうか。対句の快いリズムが春の水そのものになっていますね。すっかり俳人になって、のびやかに詠む漱石さんがここには、いると思います。



 (秋立つや一巻の書を読み残し)
稔典 大正5年9月2日の芥川龍之介あての手紙に書かれている俳句です。・・・・龍之介は木曜会のもっとも若いメンバーですね。この年24歳です。ちなみに、この手紙では、小説「芋粥」を読んだ感想を細かく書いて龍之介を励ましています。さらに言えば、この年の12月、漱石さんは他界されます。

子規 この句、自分の後を若い人に託すという気分なのかねえ。「一巻の書の読み残し」は、まだ途中までしか読んでないのにもう立秋になった、と読める。また、読み残しがあるままに人生の秋も立ってしまった、とも読めるね。後者だと、後事を若い人に託す気分だ。・・・

  
         ~~~~~~~~~~~~

 読み通してゆくと、漱石の句の良さが分かり、惹かれるものを感じる。同時に、漱石を改めて追ってみたいとも思った。 句にとどまらず、全人的に、絵も文学の面でも、またデザイナーとしての漱石、そして書簡などを通じての人間像も。
稔典さん、いい本を書いていただき、感謝です。 あー、楽しかった!
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読書/俳句『俳人漱石』

2007-03-11 | 時評
『俳人漱石』(坪内稔典 岩波新書 2003年12月)

 かなりの間、夏目漱石にたいする私のイメージは、芳しいものではなかった。大文豪ではあるが、倫敦に留学してノイローゼになるなんて大和男子のすることか・・・と。それが芳賀徹の『詩歌の森へ」で、”ピトロクリの谷は秋の真下にある・・”という「永日小品」の中の文章を読んだころから、すこしづつ変わってきた。さらに、おなじく芳賀徹の大著にして好著の『絵画の領分』のなかの記述で、小説家としての漱石のみならず、画人と交友する漱石、絵を描く事の好きな漱石、そしてデザイナーとしての漱石など、様々な顔を通して親近感が高まっていった。 その中で、絵の好きな漱石らしい句がいくつか紹介されていた。

     京洛の水注(みずさし)買ふや春の町
     銀屏に墨もて梅の春寒し
     白き皿に絵の具を溶けば春浅し 
     活けて見る光琳の画の椿哉

     絵所(絵どころ)を栗焼く人に尋ねけり
     注)絵どころ、は画廊、美術館とでもいう意味か。ロンドン留学中の句

 角度を変えた漱石研究でもしようかなと思っている矢先に、この本を手に取った。稔典さんの本だからといこともある。すこし前に読んだ稔典さんの『季語集』は、まだ俳句に手を染めていなかった頃だが、新鮮な感覚があり、エッセイとして楽しんだ。余談だが、いずれも岩波新書だ。 岩波の赤本は、このほかに小林恭二の『俳句という遊び』などの本を出しており、俳句の世界でも注目してる。

 さてこの本は、2500をこえる漱石の俳句から、百句を選び出し、それを漱石と子規と稔典さんが鼎談の形で対話するという仕立てある。もちろん、すべて稔典さんのシナリオに沿っているわけだが、これがなかなか”おもろい”のである。 稔典節がとまらない!

いくつかの句と鼎談を引用してみたい。


(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)
漱石 あれっ、これは子規君の有名な句にそっくりじゃないか。例の、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」

稔典 ええ。そうですね。漱石さんの句は9月6日の海南新聞に、そして子規さんのは11月8日にやはり海南新聞に出ました。

漱石 私の句が先にできているのか。こりゃ、驚き桃の木柿の種だ。・・・

子規 二人で何を言ってるんだね。明瞭じゃないか。どちらが秀句であるかは。

稔典 鎌倉の建長寺に対して西の法隆寺。銀杏に対して柿。鐘つくに対しては柿喰う。この東西対決はたしかに西の勝ちですね。鐘をついたらはらはら銀杏が散るというのは、これ、寺の風景としては平凡です。はっとするものがありません。
     ・・・・・・
稔典 海南新聞の俳句は、子規さんを囲む会で生まれたか、あるいは子規さんが選んだ句だと考えられます。つまり子規さんは見ている。だから建長寺の句が  子規さんの頭のどこかにあり、法隆寺の句をつくるとき、それが無意識に媒介になったと思うのですね。

子規 それはあり得るね。僕は漱石君の句を大きく発展させたわけだ。


(夕月や野川をわたる人はだれ)
子規 ひゃっ! 恋だね。このようなロマンチックな句も漱石君の特色だ。

稔典 「何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」という歌を連想しました    。・・・漱石さんには、与謝野鉄幹や晶子の「明星」に近いものがありますね。ロマンティチックな感情です。たとえば「草枕」那美、「虞美人草」の藤尾は、いわゆる紫の女です。

漱石 鉄幹や晶子はあまり読んではいないんだ。でも、美なるものへの憧れは、たしかに晶子などに近いものがあるかも知れません。

稔典 ・・この句はですね、村上霽月(せいげつ)が日記に書き留めてくれていたので残ったものです。9月22日に霽月が子規さんを訪ねました。ちょうど   漱石さんも学校から帰ったところでしたが、碌堂もやってきて、四人で連座   したようです。

子規 霽月は漢詩文や蕪村が好きだった。奇抜な発想も得意だったから、漱石君を敬慕していたのじゃないかね。
   
  ”霽月とは何らの関係もなくしてしかも隠然霽月と対峙する者を漱石となす”
       ー「明治29年の俳句界」に載った子規の言葉


(唐黍を干すや谷間の一軒家)
稔典 ・・・晩秋の明るい風景ですが、明るいだけにシーンとさびしいよう   な・・・・

子規 たしかにシーンとさびしいが、でも、なつかしい気もするね。この小品画のような風景にある光は何百年も前の光と同じなのかもね。

稔典 そうですね。今、子規さんが言われた小品という言葉から連想したのです が、小品文を集めた『永日小品』に「昔」という短い作品があります。「ピトロクリの谷は秋の真下にある」と始まりますが、このピトロクリの谷は百年の昔、二百年の昔に帰っている感じで、空の雲も、「古い雲の心地」がします。仙郷、あるいはユートピアなのですね。そこは。
ピトロクリはスコットランドの小さな村だそうですが、明治35年10月上旬に漱石さんはそこに行ったようです。

漱石 古い話で覚えてはいないが、ピトロクリや河之内の風景は好きだな。心が安らぐからね。

稔典 その好きな風景が、小説「草枕」に結晶するのでしょうか。も一種の仙郷
ですね。しかも、那古井にはやもめではないが、バツイチの那美さんがいる。河之内をうんとふくらませると「草枕」になる感じがします。・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


余談なるが、このピトロクリは、英国スコットランドのハイランド地方にあり、漱石が訪れた明治35年10月、それを遡ること30年前に、日本の明治政府使節団が遊覧している。以前の読書日記にも書いたが、岩倉具視を団長とする特命全権大使のミッションである。それは、久米邦武編の『特命全全権大使米欧回覧実記』に詳しい。
    


・・・(つづく)


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映画<不都合な真実>

2007-03-06 | 時評
映画<不都合な真実> 原題:Inconvenient Truth

親しい友人のK氏が、見たとブログに書いていたので、それに誘発されて見に行った。地球温暖化問題にについてのドキュメンタリー・フィルム。はじめから、おわりまで、アメリカ元副大統領のアル・ゴアが壇上で、アップルのノートPCを操作してプレゼンテーションする。おりしも、地球温暖化とは、関係ないかも知れないが、神戸のわがまちでは大島桜が白い花をつけ始めていた。まだ3月もはじめ、というのに。

正直言って、はじめは退屈して眠りそう。でも科学的な調査に基づいた事実を淡々と説明してゆくうちに、温暖化の実態をはっきり理解するようになって、次第に引き込まれていった。

(わたしたちの回りの世界で、ものすごい変化がおきている)

○キリマンジャロなどの山岳氷河が、どんどん後退しており、30年後には
 消滅するとみられる。アラスカのコロンビア氷河でも後退している。

○過去1000年の北半球の気温を測ることができるが、この50年で急激に
 上昇している。

○65万年間の二酸化炭素(CO2)の濃度を測ると、産業革命が起こるまでは
 300ppmを越えることはなかった。現在では、350ppm。45年後には 600ppmレベルと急上昇する

○このような現象は、どんな影響を地球にあたえているか。
   
 ①海洋の温度上昇。海水温が上がると、暴風雨の勢力が強大になる
 ②異常気象の頻発ーこれにともなう経済損失も急激に増えている
 ③温暖化により、土壌からの水分の蒸発も加速され、砂漠化が起こって
  いる。干ばつも。

 ④北極の永久凍土も溶け始めている。氷冠の厚さも減少。北極が溶け出し
  てゆくと、地球の気候パターンが変化する。

 ⑤海水レベルの上昇により、多くの都市が水面下に沈む。
     
もし、グリーンランドまたは、グリーンランドの半分と南極の半分溶けたりして海中に滑り落ちると、世界中の海水面は5,5~6.0メートル上昇する。

2004年にベルリンで発表された報告によれば、サンフランシスコも多くの沿岸の街は、沈んでしまう。北京は2000万人以上が、上海では、4000万人以上が避難せざるを得なくなる。


このような衝撃的で、かつ説得力のあるデータが、写真や図などで次々に示される。もっとショッキングなのは、米国政府が、温暖化に関する情報をコントロールしている事実だ。

2時間弱の映画を見おわって、地球温暖化問題の重大性を改めて認識させられた。今すぐに動き出さないと、もう後戻りはできなくなるが、そのためには、ゴアの言うように「政治的な意志」が必要である。。そして、それを動かすには、マスのオピニオンの力だと思う。そういう意味で、みんなに見て欲しい映画である。映画に行く時間のないひとには、同一タイトルの本が、刊行されている。(講談社ランダムハウス、2007年1月)

1962年に、アメリカでレイチェル・カーソンという一人の女性によって『沈黙の春』という本が出版された。そしてケネディが、農薬の問題に言及したことから環境問題への取り組みが一変した。’70年にはEPA(米環境保護局)が発足した。それから30年後シーア・カルボーンは、『奪われた未来』という本を著し、環境ホルモンの問題の重大性を指摘した。この本の序文をあらためてみてみると、それを書いたのは当時の副大統領のアル・ゴア氏であった。 今度の映画は、それらの著書に匹敵する、いやグローバルな広がりを持つだけに、それ以上の意義のある警世の書と云えよう。。
最後に、ゴアはアフリカの言葉を紹介していた。

  ”祈る時は、行動を・・・”

そう行動しなければならない。どこかのお坊さんのように、南無阿弥陀仏と唱えているだででは、問題は解決しい。車は、ハイブリッドに買い換えようかな。
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