(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ日記/豪州と中国とジム・ロジャーズ

2007-11-27 | 時評
気まぐれ日記/豪州と中国とジム・ロジャーズ

 今月の24日にオーストラリア行われた総選挙で保守連合のジョン・ハワード氏はみずからの議席も失って一敗地にまみれた。11年ぶりの政権交代である。次期首相に就任するのは、ケビン・ラッド労働党首である。親日家であったハワード首相の退任により、これからの日豪関係がどう変化してゆくか気になるところである。アジア地 域において、豪州は、京都議定書にかかわる環境聞題、資源面、貿易面、安全保障面などなど地政学的にも重要なパートナーである。

 新たに首相となるラッド氏は中学生のころから古代中国の文明に憧れて、オーストラリア国立大学ではアジア研究学部の籍をおいて中国語と中国史を学んだ。
外務貿易省に入省し、北京駐在の経験もある。この9月に、中国の胡錦濤国家主席がシドニーを訪問した時には、通訳なしで中国語で会談したそうである。長女は、中国系豪州人と結婚し、長男は上海に留学している。資源大国の豪州にとって最大の貿易国は日本から中国に移りつつあるなかで、豪州はより中国への傾斜を強めていくだろう。

(追記 11月29日)
 今日のフィナンシャル・タイムズにラッド新首相の閣僚指名の記事がでている。それを見ると、女性の副首相、ジュリア・ジェラールドや、有名なロックバンドのミッドナイト・オイルのリードシンガーであったピーター・ギャレットの水担当大臣などなど、なかなかユニークなラインナップである。その中で、ペニー・ウオンというマレーシア生まれの中国系豪州人が、気候変動担当で選ばれている。中国系の豪州人が閣僚に入るのは初めてのことだそうだ。こんな芸当は、日本では出来ないだろう。


 さてジム・ロジャーズのことである。以前の読書日記(2003年、印刷版)でも書いたがかの有名なクオンタム・ファンド(オフショア・ファンド)をジョージ・ソロスと組んで驚異的な成果を上げたこの男は、37才で引退し、黄色いベンツを駆って世界を回った。1999年間から3年間にわたる旅の記録は「Adventure Capitalist」 と題する著作となった。その旅からNYにかえったジムと旅のパートナーであるペイジとの間には可愛いお嬢さんが生まれた。2年程前に前に放映されたTVの画面には、中国人のメードから中国語を習っているお嬢さんの姿が映っていた。パパに似ている!

 ジムは、その著書のなかで、中国について30頁弱を費やしている。そして”中国の最高の資本主義を見た”と言って、上海では取引口座をつくった。ちなみにこの時の首相は、あの朱熔基である。彼の言葉にしたがって、中国の元に大枚を投じていたら、今頃ニューヨークかシドニーに豪華なアパートを所有することになっていただろう!

 60才を過ぎてはじめて授かったわが子のために、ジムはTo My Beloved
Daughter という本を出した。(『娘に贈る12の言葉』 日本経済出版社 07年4月)この本のタイトルにだまされてはいけない。優しい言葉で語られてはいるが、その内容はむしろ、彼の人生哲学や相場観が語るもので、結構興味深い。その中の一章で、彼は

 ”中国の時代、中国語を身につけてほしい。なぜなら中国語が、君の世代では英語にいで重要な言葉となるからだ”

と語っている。ハードランディングは、避けられないものの中国の未来に期待をかけている。ちなみにジムが、この本の原稿を書いたのは、2年ほど前のことである。彼のサイトをチェックすると、近々『A BULL IN CHAINA』という中国について書いた新作がNYのランダムハウスから出版されるとのこと。待ちきれず、予約をいれてしまった。

 これからは英語と中国語の時代だなあ。日本も、もっと海外から投資を呼び込まないといけない。東京証券取引所から外国の企業が逃げ出すようでは、駄目だ。
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読書/俳句『俳句のいのち』

2007-11-23 | 時評
読書メモ『俳句のいのち』(森澄雄 角川書店 98年2月)

 森澄雄の句に接したのは、ごく最近のことで、この夏びわ湖に吟行をしたときが初めてである。なにしろ”近つ淡海”が大好きなひとなので、びわ湖にまつわる句もたくさんあって、勉強させてもらった。それ以来森澄雄の本、とくに随想をさがしているけれどなかなか見つからない。
古書店でみつけた、この本『俳句のいのち』は平成10年の著書なので、かなりの晩年に書かれたものである。まだまだ元気な時のもので、読んでいて印象に残る文が少なくない。

(芭蕉という男)
「時おり、こうして芭蕉の句が、まるでむこうからやってくるようにやってきて、ふかぶかと胸のしみることがある」と書いているように、芭蕉には相当の思い入れがあるようで一節、90頁近くを費やしている。この節の芭蕉の句を引用しながらの文は、森澄雄の俳論を展開しているようで、俳句の初心者の私には共感を覚えるものがある。

 ”子規の近代は、芭蕉のもっていた無常も造化も切り捨てたが、それはそれとしていいとしても、現代俳句は未だそれにかわる大きな思想も哲学も持ち得ていないのではないか。ことに戦後の俳句は自我の定着という方向にその新しさと鋭さを増したが、この「行く春を」(を近江の人とおしみける)のもつ芭蕉のおおらかで豊かな呼吸を失ってきたこともまた事実であろう。 ぼくは度重なる近江の旅の間、この行く春を惜しんだ芭蕉の一句を話さず持ち歩き、また「去来抄」の「湖水朦朧として春を惜しむに便有るべし」の一句を呪文のように胸につぶやいていた。いわば、この芭蕉がもつ、やさしく、しかもはるかなものを抱え込んだその豊かな呼吸を、もう一度自分の作品の呼吸として呼び込んでみたかったからだ”

  「米のなき時は瓢におみなえし」(芭蕉)
”「この句を学者や注釈者は、芭蕉庵の俗塵を払った簡素で清貧な生活がうかがえるというふうに解釈してしまう。いかにも観念的なきれいごとの解釈だが、それでいいのか・・ぼくには「をみなえし」が何ともいい。「をみなえし」は、一名粟花といって、そこか米とも似通うイメージがあって、「をみなえし」を挿すところが何ともうまいと思う。何度も腹を減らした経験があって、いまも腹をならしているかも分からない。そうした人生の辛酸を経てきた上での「をみなえし」にはそうした男のやさしさがある。単に「芭蕉庵の清貧な生活」では足りないだろう。やはり人生を知った者の、やさしさ、そしてユーモアがあり、芭蕉の句としてもいい句だと思う。こういう句は、子規以来の写生句には絶対出てこないと思う。・・・
そういう意味で、近代の子規が唱えた写生だとか、虚子がいった客観写生だとか、そういうものは俳句の全幅、俳句を覆う方法として僕は信じない。しかし、虚子はたとえば、<去年今年貫く棒の如きもの>にしろ<龍の玉深く蔵すといふことを>の句にしても、これはいわゆる客観写生ではない。虚子は大人物だから、そういうことを十分心得て写生を説いた。虚子のいう写生は、信じてもいいけれど、その末流のもの、見ては写すだけのこまごました写生をぼくは信じない。
一句の抱える世界、つまり<米のなき時は瓢に>という、大きな人生で何かを包むような詠み方を忘れた、と同時に、<米のなき時は瓢にをみなえし>には、ある種の滑稽と、大きな人生の味を包んで、切ないものがあるけれども、現代俳句はおおかた人生的な詠み方が消えてしまった感じがする。写生も必要だろうが、いわば自然なり人生を大きく包んで、この句の「をみなえし」のような切なく、余裕のあるやさしさ、そういう詠い方が現代の俳句にあってもいいと思う”

 芭蕉の句だけでなく、古い俳諧の句の引用もある。好きな其角の<小傾城行きてなぶらんとしの昏(くれ)>という句に関連して、こんな事を語っている。

”謡曲「現在江口」に「小傾城どもになぶられて・・」という文句があってて・・・・それにしても若い傾城、お女郎さんを<行きてなぶらんとしの昏>というのが何ともいい。<行きてなぶらん>に遊び心も浮き世の所作もいっしょに出てうまいし、それに<としの昏>に華やぎとあわれもある。許六は、「普子が風伊達を好んで細し」(俳諧問答)と言っているが、このほうがよっぽど有り難い。単なる俳句つくりではなく、浮き世をよく知った男の作品だ。
冗談のようだけど、人生を見渡し、人生を渡っている男の思いがしみこんでいる。そこに俳諧の面白さがあろう。芭蕉はじめ古俳諧には近代の単なる写生を超えた、いわば人生で詠んだ深さと面白さがある。滑稽にも遊びにも大きな人生がある。”

 森澄雄は、こんな調子でひろやかな俳諧の世界への憧れを語っている。

(同時代のひとたちのことー無頼としての花鳥諷詠)
 虚子の花鳥諷詠について、俳句の対象を単なる花鳥風月に狭く限定するのでなく、もっと大きな思想としてつかまなければ、俳句そのものが見えてこないだろう、として歌人前登志夫の言葉を引きながら、こんな事を言っている

 ”歌人の前登志夫氏が「諷詠というのは、ぼく好きなんだ。風に触れて詠うというのは、いい言葉です」とある時言ったが、この言葉に感銘した。それもやはり大きく造化につながっていく言葉であろう。「風に触れる」ということは、いわゆる人間探求派の真面目さからは出てこない。風の感触を楽しんで遊ぶというところがないと、花鳥の、そして造化の生きた大きな空間はつかめないだろう。人間探求派は、主として生活の苦しみや悲しさにポイントを置いて詠んできたから、意識が非常に狭くなったが、諷詠というのは、悲しみよりむしろ、喜びも悲しみもふくめて、もっと大きな世界をもつ言葉だ。無論、生活の上には、悲しいこと、苦しいこと、いろいろあるが、風に触れるということに、そこに解放されたよろこびがあり、むしろ深く人間存在の根本にふれてゆくところがある。言ってみれば、そこに一種の無頼の精神がなければ喜びとならないし、もっと大きく人生を遊んでおかないと、喜びとはならないだろう”

 虚子の<龍の玉深く蔵すといふことを>という句に関しては、別途これを引用・解説して”俳句は「深く蔵すべき」もので、多くしゃべるものではない・・”と語っている。
なかなかに懐が深く、また味わいのあるエッセイを楽しませてもらった。


 たまたま4年程まえに生地の姫路で開かれた特別展<森澄雄の世界>の開催記念の冊子を手に入れることができ、この詩人の全貌を知ることもできてより深い興味を覚えた。また縁があって、ある俳人から、さらに古い『俳人句話ー現代俳人たち風貌と姿勢』を拝借して読んでいる。これらのことについては、またの機会に譲りたい。

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読書『板極道』

2007-11-13 | 時評
読書メモ『板極道』(棟方志功、中公文庫 04年5月第21冊)

 棟方志功にまつわる思い出は、幾つもある。 2002年の冬、小雪ちらつく京都でみた「河井寛次郎と棟方志功展」で知った二人の交友の深さ、倉敷の大原美術館でみた棟方の版画(流離抄版画柵)とそれに刻まれた吉井勇の流麗な調べ数々、棟方と交友のあった仏教者暁烏敏(あけがらすはや)のこと、などなど。

これは、世界的な版画家として活躍した棟方志功の自叙伝である。彼の人生、人となり、交友のか数々が、語られているが、どの文からも志功の熱い思いが噴き出してくるようである。

 その中身にふれる前に、解説として添えられた草野心平の文には心打たれるものがあった。その中の、草野心平の詩をご紹介しておきたい。

 ”鍛冶屋の息子は 相鎚の火花を散らしながら  
  わだばゴッホになる

  裁判所の給仕をやり むじなの仲間と徒党を組んで
  わだばゴッホになる とわめいた

  ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし 
  ゴッホにはならずに

  世界のMunakata になった

  古希の彼は つないだ和紙で鉢巻きをし
  板にすれすれ独眼の そして近視の眼鏡をぎらつかせ

  彫る 
  棟方志功を彫りつける”


      ~~~~~~~~~~~~~~~~

 青森に生まれ育った棟方は、ねぶたの強烈な色彩に影響を受け、絵描きの道を歩み、ゴッホに夢中になっていた。そして26才の時、帝展に入選した。しかし、そのうち帝展の油絵のありかたに疑問をいだくようになる。ある時、天啓のようなものが、棟方の思いの中に、
ひらめいた。

 ”ひところわたくしの絵を赤一色に塗らせたゴッホが、この時も先達であったのです。ゴッホが発見し、高く評価して、賛美を惜しまなかった版画があるではないか。よし版画で、それを表現しよう。自分の全部をそのことに展開しよう。これこそ現代の世界画壇に贈る日本画壇の一本の太い道だ。その橋を架けよう。私は、こう心の中で、叫喚しました”

 そのころから棟方は、己の心の中に、”宗教の世界が潜んでいることを感じ取り、美と宗教、いいかえれば版画と宗教とは同律の道にある”、と自覚していた。

 昭和11年、国画会に「大和し美し」を出品した。それは、西洋モダニズムをしばし放擲し日本回帰へと向かった棟方の渾身の作品である。佐藤一英の詩を彫り、絵をつけた全20柵になるもので、「大和は国のまほろば たたなづく青垣山隠れる大和し美し・・・」という倭建命(やまとたける)を歌った長編詩に感動した棟方は、文字で埋めつくした版画を彫った。この会場で浜田庄司の目にとまり、柳光悦、河井寛次郎、らと巡りあう。柳は、この版画を絶賛しただけでなく、駒場に新しくできた日本民芸館に陳列するために作品を買い上げている。(現在は、大原美術館蔵)

 そこで柳から河井寛次郎を紹介された棟方は、京都にもどる河井について京都へ行く。暖かい歓迎をうけた棟方は、河井邸に40日間滞在した。国画展で、衝撃をうけた河井は京都の自宅あてに電報をうっている。いわく、「クマノコヲツレテカエル」 皆は、本当に熊の仔がくると思っていたらしい。この河井と棟方の交友は、じつにうるわしい。河井は、若き才能を見いだしてかわいがり,棟方は父のごとき、兄のごとく河井を慕う。上記の二人展では、これを歓喜の友情と題し、二人の書簡がて展示されていた。棟方のそれからも熱い思いがほとばしり出ていて、感動を覚えたものだ。

 ”お会いもうしたくたまりませぬ。 お話致してお手を握りたくなりました”

この河井邸滞在の間に、河井は禅書「碧巌録」の講義を通して、名誉や自らの欲のために制作するのではなく、ただ純粋に仕事に仕える姿勢を棟方に説いたといわれる。


 その後棟方は、「華厳譜」、「釈迦十大弟子」、また戦後すぐの頃「鐘渓頌」などの傑作を送り出す。昭和28年には、”色即是空の大世界が漂っている”と惚れ込んだ吉井勇の歌31首に絵をつけた「流離抄」を国展に出品する。この絵をみた吉井勇は、大いによろこび、そのことを谷崎潤一郎に話をする。作品の中の、「かにかくに祇園は恋し・・」、は吉井勇から谷崎に贈られる。昭和27年頃から、アメリカなど海外での個展が開かれた。昭和31年には、スイスのビエンナーレに出品した「柳緑花紅」などに対し、国際版画大賞を贈られる。

 こういう遍歴のこととは別に、「忘れ得ぬ人人々」という章がある。大原総一郎、高橋偵二郎(東急副社長)、五島慶太などとの交流のエピソードが書かれている。高橋は、青森の市役所にかかっていた棟方の鯉の絵をみて、惚れ込み、傾倒する。

 ”棟方ってのは小学生の様ような絵を描いて、禅の道を歩いている。道元さんに通ずるものを持っている。・・・” (高橋偵二郎)

戦時中に疎開していた富山にいる間に、、俳人の前田普羅、仏教者の暁烏敏(あけがらすはや)などといった人との交友が始まる。また小説家葛西善蔵、詩人の福士幸次郎などとも交友を深める。読んでいると、棟方がみなに愛されたのがよく分かり、興味深い著述である。

 とつとつと語る棟方の言葉は、心に染みいってくるようだ。ちなみに、この本のことを教えてくれたのは、句友にして画友のsenji兄である。改めて謝意を表したい。本のことより、棟方その人の事を語ってしまった。この点、お許しいただきたい。


 
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読書『サンディ・ワイル回顧録』(上・下)

2007-11-08 | 時評
読書メモ『サンディ・ワイル回顧録』
(サンディ・ワイル、J.S.クラウシャー、日本経済新聞社 07年8月)

 『ルービン回顧録』のメモを書いたところ、Tack様より、ワイルのも書いて欲しいとのご要望がありましたので、アップロードいたしました。すこし急ぎ働きの感がありますが、ご容赦ください。


 1998年4月、トラベラーズ・グループとシティコープが、1500億ドルという超大型の経営統合をおこなった。これによりリテールの顧客数1億人、法人顧客数は3000万、売り上げおよそ500億ドル、収益80億ドルという世界的に最強の金融機関が誕生した。この大胆な計画を着想し、そして実行に移した男、サンディ・ワイルの波瀾万丈の人生物語が、本書である

 本書は、ワイルの活躍の歴史と人となりを詳述したものであるが、同時代の金融情勢の変遷や、ワイルが変化の激しい時代に巧みに対応して組織を発展・運営してきた手法や考え方も詳述されているので、企業経営の観点からも学ぶところが少なくない。


     ~~~~~~~~~~~~~

(ワイルの辿った道)
 1950年代後半、アメリカでは宇宙時代がはじまろうとしていた。若手ブローカーとして働いていたワイルは、投資銀行業に関わっていた友人と語らって、自己資金を出し合い、小さな金融会社カーター・バーリンド・ポトマ&ワイルを立ち上げた。ワイルは、この時から、「業界をリードするような会社、そしてなによりも尊敬を勝ちうるような会社」にしたいとビジョンを抱いていた。
 1960年ケネディが大統領となり、株式投資が盛んになたったが、キューバ危機で暴落。そのころから、一つの業種にかたよることのないようビジネスモデルを拡大することにして、機関投資家向けのビジネスを手がける。同時に調査部門も設立。

 1965年組織としてのパートナーシップに見切りをつける。株式の公開に踏み切る。少し前からNY証券取引所の規制の変化を読んで、準備を進めていた、こういう時代の流れを見る目が鋭い。一方、企業基盤の拡大のため、精算業務に進出。またオペレーション業務の重要性を強く認識し、その基盤を固めている。当時の証券大手では、新時代のコンピューター技術がよく分かっていなかったので、証券業務の拡大にともないに大変な混乱をおこしていたが、ワイルの会社は、びくともしなかった。ワイルは、”ウオール街の経営幹部は、ともすればこうしたオペレーション部門の人々を軽視する”、と書いている。

1970年には、名門の証券会社ヘイドン・ストーンを救済合併し、従業員1500人、売り上げ1200万ドルの中堅会社に成長していた。このヘイドン・ストーの買収で、資本を大部分よそから調達し、ほとんど費用をかけずにかなりの大手を買収できる可能性を実証したことから、さまざまなビジネスモデルを考えるようになった。

 1971年ニクソン大統領は、金本位制を廃止、ドルを切り下げた。インフレと金利上昇、ウオーターゲート事件、第4次中東戦争などで、ウオール街が大打撃を蒙った。他社は、証券株の下降は一時的と判断して過剰な反応をしなかった。しかし、ワイルは、この状況に即座に対応すべきと判断し、キャッシュフローが崩れぬようコスト削減に努めた。彼は、つねに財務面でのリスクを制限することを基本としていた。

 1973年FRBが利上げに踏切、プライムレートは、10%に急上昇した。ワイルは、固定費の吸収のためには、規模を拡大する買収が不可欠と判断し、販売力のつよいセールス網を擁する全国的な大会社シェアソン・ハミル(投資銀行)の買収をおこなった。引き続き1978年にはローブ・ローズを買収、シェアソン・ローブローズとなった。株式市場も順調で、シェアソンは大きな利益をあげ、株価も急上昇した。この買収のことで、ワイルは、”絶望に負けてはいけないという大事な教訓を胸に刻んだ”、と云っている。
   注)その前に、クーン・ローブというユダヤ系の名門投資銀行の買収などに失敗したことを指してのことばである。

 1980年代にはいり、インフレの波が激しく打ち寄せ、物価は急速に上昇した。ちなみにこのころのプライムレートは、なんと21%だ! 経済は、制御を失ってきりもみ状態に陥っているとみたワイルは、金融サービス業界はまもなく、いまよりも強力な形で融合する方向に進むとの予感をもった。そして、「さまざまな革新的商品によってビジネスの規模を拡大すれば、利益率の低下などものともしなくなる」、と考えた。そして大手金融機関の一つであるアメリカン・エクスプレスに目をつけた。
   注)98年に、日本国内では、北海道拓殖銀行が巨額の不良債権問題で経営破綻しているが、護送船団方式といわれた金融行政の崩壊の空気も読めずにいた経営者がいた。他力に頼る、こんな考え方はワイルならとらないだろう。

 1981年シェアソンを10億ドルでアメックスに売却し 同社取締役となる。その後83年に社長に就任するも、権力闘争に敗れて退任するにいたった。このとき、すでに52才。本書の後半では、その後小さな消費者金融会社(コマーシャルクレディット)の再建に携わり、これを基に買収を繰り返し、93年大手保険会社トラベラーズを買収、アメックスからシェアソンも買い戻し、証券・保険分野で確固たる地位をきずいたこと、そしてシティコープとの統合と共同経営の問題などその後の動きなどが描かれているい。

 
 主として シェアソンを成長させたところまでを中心にワイルの軌跡を追ったが、これ以降の部分も丹念に読んでいくと、ワイルのビジネスに取り組む姿勢や、金融業界の変遷も分かって興味深い。長くなるので、割愛させていただく。他にも、人間関係の確執、NY司法裁判所との戦い、などなど興味深い記述がある。また。99年のサウジやインドをまわった海外歴訪談も面白い。2週間にわたる出張期間中、各国の政治指導者とあって親交をあたためている。
  注)日本の金融・証券界のトップに、こんなことができるだろうか。
 
それにしてもワイルが、失敗を繰り返しながらも、次第に企業を発展させ、最強の金融グループを作り上げたのは、なんによるのであろうか? ひとことで云えば、大きな理念を抱いて、絶えず夢を追い続ける持続力と情熱によるものではないか。その一方で、リスクを徹底的に抑えるという考え方は、理想を追い求める基盤として重要な要素である。本書は、かなり赤裸々にワイルを取り巻く人間模様も描かれている。自分をさらけ出して語るという姿勢は、ふつうの回顧録にはあまりみられないものである。

余談になるが、今回シティの会長になったルービン元財務長官を同社に引き抜いたのは、ワイルである。退任したチャック・プリンスは、コマーシャルクレディットの法律顧問であったが、2001年末のエンロン破綻に端を発した司法・金融当局との対立問題で、社内体制の立て直しに大いに貢献し、ワイルによって後継に指名された。金融の現場での経験がすくないということが、サブプライム問題で巨額の損失を招いた遠因になるのかもしれない。
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読書『ルービン回顧録』

2007-11-05 | 時評
読書メモ『ルービン回顧録』(ロバート・E・ルービン 日本経済新聞社 05年9月)

 アメリカ最大の金融グループであるシティコープは、11月4日、チャック・プリンス会長の辞任を発表した。サブプライム・ローン(低所得者向け融資)問題で、110億ドルの損失を出し、株価は今年に入って30%に下落した。後任には、元財務長官のルービン氏が就任した。

 ちょうどとシティコープを誕生させた立て役者のサンディ・ワイルの回顧録(上下)を読み終えたところであったが、ルービン氏があらたに表舞台に出ることになったので、彼の事を書いた本を、改めて取り上げることにした。私がシティ・グループの名前を知ったのは、1980年代の後半のことであった。そしてその実力を知らされたは、それから数年たってからである。なにがしかの投資を日本の証券会社のファンドとシティのファンドに投じていた。、何年かたってバブルがはじけ、ファンドの償還時期が来たときに、日本のファンドは、大きく値下がりしていたが、シティのそれは、値上がりこそほとんどなかったが、損失も出ていなかった。彼我の運用の実力差を改めて認識した。

 サンディ・ワイルは、ポーランド系ユダヤ移民の子として生まれ、証券会社の事務員からディーラに転身、自ら全財産3万ドルをなげうって、証券会社を立ち上げた。そこから、失敗、とM&Aの連続で夢を実現し、とうとうシティコープの会長に就任して、同社の成長の基盤を確立した。その波乱に満ちた人生を描いた回顧録も、また興味深いものである。

 しかし今回会長兼CEOに就任したルービン氏の回顧録は、その舞台の広さ、また世界的な通貨危機を乗り切った実力もあいまって、より深く、興味深いものである。500頁余の大冊であるが、退屈することなく一気に読み切った。(下手な小説より遙かに面白い)

 ロバート・E・ルービンは、’60年ハーバード大学(経済学部)を首席で卒業後、イエールのロースクールを卒業、、法律事務所を経て金融グループ&投資銀行のゴールドマン・サックスに入社。90年には同社会長になる。第一期クリントン政権のおりに、請われて財務長官に就任。数々の通貨危機をのりきり、好景気をもたらした経済運営の手腕は高く評価された。

 本著は、金融と政界という二つの世界にまたがって活躍した男の貴重な証言である。93年にクリントン政権の発足と同時に、経済政策担当の補佐官となっていたルービンは、95年1月第70代財務長官に任命された。その彼を待っていたのは、メキシコの通貨危機であった。メキシコ政府が、大規模なデフォルト(債務不履行)に陥るかも知れない、、そしてそれが発展途上国ひいてはアメリカ経済に悪影響を及ぼしかねない、と判断したルービンは、大統領に「支持率を落とす可能性があり、リスクが大きいけれど大規模な支援に踏み切る必要があります」と説いた。グリーンスパン(FRB議長)、ラリー・サマーズ財務省国際問題担当と議論の末の提案である。これは政府関係者・議会さらには、IMFなどさまざな抵抗があったが、ルービンは、これらを説得し、メキシコ政府に巨額の支援するに至った。ここでルービンたちは、いわゆる「パウエル・ドクトリン」を適用した。すなわち”アメリカは国益がかかっている場合にかぎり介入すべきであり、その介入が圧倒的な兵力(このばあいは、資金量)をもってしなければならない”と考えた。 この巨額な介入の結果、メキシコ危機は、一年分の経済成長が失われたにとどまり、メキシコはわづか7ヶ月で資本市場へのアクセスを取り戻した。この間の政府内の動きはつぶさに、率直に語られていて興味深いものがある。
その後、ルービンは1997年のアジアの通貨危機、韓国の経済危機、ロシアのデフォルト、ヘッジファンドLTCMの破綻などなど様々な問題に的確に対応した。それらの詳細は、本書を参照頂きたい。

 ルービンがこの著書を書いた本当の理由がある。それは彼が、ゴルドマン・サックスで携わった裁定取引(アービトラージ)の経験などから、彼の基本的な思考論理となったものを、後世につたえようとの思いである。すこし難解であるがもっとも重要なことであるので、若干の引用をお許し願いたい。

 ”ビジネスの世界でも政府にあっても、私は確実だと証明できることはなにもない、という根本的な世界観にしたがってキャリアを積み重ねてきた。このようなものの見方をすれば、当然の結果として蓋然的な意志決定をするようになる。”

 ”メキシコに介入すべきかどうかという問題に直面したとき、背景にあった事情はこんなふ  だった。数え切れないほど対立する考え方がある場合、できる範囲で最良の決定に辿り着くのに最も重要なのは、それらをすべて見極め、それぞれがどんな勝算と重要性があるか を判断すること、つまり蓋然性思考を行うということだ”

 なかなか分かりにくいが、なんの判断基準も持たず、体系だてずにあるいは直観にもとずいて決断するのではなく、いろんなケースのプラスとマイナス、とくにリスクをどの程度重視すべきかを評価するという態度である。このリスクを最小限に抑えるという考え方は、最近の資金運用理論の中核ともなっている。

 今後、ルービンが、シティグループをどんな方向に引っ張ってゆくか、興味深い。
 

 余談だが、日本政府の関係者(宮沢首相や橋本総理など)の名前も出てくる・

 ”われわれがアジア経済危機のさいに日本に促したように、先進国は、自国のためばかりでなく世界のほかの国々のためにも、健全な経済成長を導く政策を実行する責任がある”

こういう人物の動きや考え方を見ていると、我が国の政治家や官僚が矮小に思えて
しかたがない。
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