(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 旅にでかけよう

2017-02-10 | 日記・エッセイ
エッセイ 旅に出かけよう

  ”春なれや漫ろ(そぞろ)もよおす旅心” (ゆらぎ)


 春も立ち、なんとなく旅にでようと思った。でも、まてよ。どんな旅にするか。そんなことで旅についての思いを巡らしてみた。さて、その行くへはどうなることやら・・・。
このエッセイを書き出そうとしていたところ、親しい句友が、台湾のある離れ小島へ、まことに珍重すべきというか、ユニークな旅をした。その旅行記の書きはじめには、こう書かれている。

 ”明治25年10月、正岡子規が26歳の時、都内から箱根、修善寺、三島、熱海そして小田原へと徒歩で俳句を作りながらの旅に出た。その旅は気の赴くままに、峠の茶屋でうまい団子があれば食べ、山谷で日が暮れれば宿を探し、足を引きずり、駕籠かきに嘲笑されても気ままな旅を、当人は楽しみながら続けた。その紀行を「旅の旅の旅」という短い手記に彼はまとめた。出だしの句は

       ”旅の旅その又旅の秋の風” (子規)

 どうやら子規は旅に出る時、行先の他は何も決めず、旅の道中で起きるハプニングや色々な人との出会いこそ又旅であり、旅の面白さであると悟ったようである。これを「旅の旅の旅」と称したのでないかと思うのである。”

 いやいや秀逸なエピローグである。そういえば、月にちなんだ旅の歌がある。

 ”とまるべき宿をば月にあくがれて明日の道ゆく夜半の旅人”(京極為兼、玉葉集)

夜に旅の道を急いでいたが、余りにお月さまの眺めが素晴らしいので、ゆっくり楽しみながらゆこうと、決めていた宿にとまらず、もう少し歩いてゆこう、という今の時代では考えられないような優雅な旅である。

 さて、ここでとりあげる旅は、基本的には一人旅である。家族旅行でもなければ、親しい友人たちとわあわあ騒ぎながらの旅でもない。大勢いると、決められた線で動くことになり、なかなかハプニングは期待し得ないのである。

 1980年代、仕事で多忙を極めていた頃、ふと一人になりたくなり旅に出た。伊豆長岡のさる小体な宿である。朝食は、はめころしの大きなガラス窓のあるカウンター席で料理人が調理して出してくれた。風呂も、大きくはないが緑に囲まれゆったりとくつろげた。大変気に入って二三日のんびりした。ところが、あれこれ感じることを話す相手がいないということは、まことに心淋しいものである。思わず家人に電話をしてしまうという失態をしでかしたものである。今では、もうそういうことはない。一人旅でも町や村の情景を楽しみ、時間が空けば句を詠み、旅の日記を書き、本も宿に数冊を宅急便で送っておけば、いくらでも時間を送れる。写真撮影やスケッチをゆっくり楽しんでもいい。 

 それはともかく、色々手元にある幾冊の本から、旅のスタイルを拾って見た。まずは、『空の名残 ぼくの日本十六景』(森本哲郎 新潮社)から。この人は、朝日新聞の編集委員をした人であるが、退任後数多くの旅行記を書いている。この本と同じ流れのものに、『旅は人生~日本の風景を歩く』(PHP文庫)というのがあって、日本各地を歩き回っている。

たとえば『徒然草』の作者である兼好法師の墓を探して、三重県伊賀上野に行ったり、津軽の山内丸山遺跡を訪ねたり、蕪村が三年間滞在した宮津(与謝)へ行って遺跡の見性寺を訪ねたりして、単なる観光ではなく、その地にゆかりのある故人や故事を偲んでの旅である。兼好のことでは、予め調べ尽くし、現地へ行って遺跡などを訪ね歩き、”兼好がぼくを呼んでいる”、と言って突如旅に出るのである。

そして兼好の「家集」の至るとこころに歌われている”無常を悲しいと思う人間の心もまた現実”、として徒然草第20段の文をひいている。

 ”某(なにがし)とかやいひし世捨て人の、「この世もほだしもたらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言いしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。”

著者森本哲郎は、この「空の名残」という言葉に強く惹かれ、『ぼくの日本十六景』でも冒頭に、この言葉を据えて、空の名残、つまり夕暮れの景に魅了されて旅に出る。

「夕暮れを見にゆく」というプロローグでは、諏訪湖の彼方におちてゆく夕日をじっと見送る歌人・島木赤彦の心象を思いやる。

 ”信濃路はいつ春ならん夕づく日 入りてしまらく黄なる空の色”(島木赤彦)

さらに、印象に残る夕景として、アイルランドのゴールウエイ湾の入日を思い出す。これはジョン・フォードが監督した映画「静かなる男」の主題歌をビングクロスビーが歌ったいた。

 ”いつの日にか私はあの島へ帰ろう。その日が、私の人生の最後の日であっても。・・・そして。ゴールウエイ湾の入日を、じっと見つめたい”

          

またギリシャ半島の突端、スニオン岬の先端に立つポセイドン神殿を訪ねたときの落日、そしてアレクサンダー大王がついにインドへの東征を断念して、そこから引きかえしたインダスの流れが映した夕焼けの空などなど。
ついでながら、わが日本の夕焼けもいいものである。一つ、二つご紹介する。まずは奥会津絵原湖の夕景。会津の写真家星賢好さんの撮影さたものを、ご本人のお許しを得て掲載させていただく。月が三ヶ月。二日月ではないのが、残念だが。

          

さらに、もう一枚。和歌山県の西岸、紀淡海峡に面した海岸ぞいで、春秋の彼岸の中日、真西に沈む夕日の周辺にきらきらと光の花びらが舞うようにみえる。「はなふり」と云う。いつでもみえるというわけではない。ある年の春、車を雑賀崎(さいがさき)の突端まで走らせた。花ふり、は見られなかったが、素晴らしい夕景であった。

     


 そして私にとって今行きたいのは、「冬の日の伊良湖岬」である。森本哲郎は、その著『ぼくの日本十六景』の中で愛知県渥美半島(あつみ)の突端にある伊良湖岬を訪ねる。ここで、かの有名な国民歌謡「椰子の実」にまつわるエピソードを紹介している。そのエピソードを民俗学者の柳田国男から聞き、40年以上もたってから思い出して伊良湖へ行くのである。実は、この伊良湖岬の砂浜で、流れついた椰子の実を発見したのは柳田国男である。そのことを友人の島崎藤村に語って聞かせたところ、藤村が、”この話しをぜひ譲ってくれ”と言われ、そこからあの有名な歌が生まれたのである。(作曲は大中寅二)若き日の柳田国男を伊良湖岬へ誘ったのは、一体なんであったのだろう。

 ”伊勢の海の青い渚に遊び、たぐいない夕凪夕月夜の風情を身に沁む・・・”ということらしいが、(「紀行 伊勢の海」)、本当にこの地で彼の関心を誘ったのは詩歌の世界よりも、人々の暮らしそのもの、土地の風俗だった。さらにこの地にゆかりのある芭蕉の愛弟子杜国の墓も訪ねている。森本哲郎は、それらの跡地を辿って旅をする。杜国の墓も芭蕉翁の石碑も、そして「民俗学者柳田国男逗留の地」の石碑も見るのである。

 ”やっとホテルにたどりつく。部屋に入ってカーテンを開くと、すでに太陽は落ちている。ぼくは、しばらく茫然と黄昏に沈んでゆく伊良湖岬を見下ろしていた。やがて、薄明の彼方に灯がちらつきはじめた。対岸は鳥羽である。右手は伊勢、二見ヶ浦。その二見ヶ浦に庵を結んだ西行は、この伊良湖へ渡って何首か歌を詠んでいる。・・・深く西行に傾斜していた芭蕉は西行の歌に詠まれている鷹をひと目みたいと思っていたのではないか。”
 ”鷹ひとつ見つけてうれしいらこ崎”

 ちなみにこのホテルというのは伊良湖ビューホテルといい、今でもある。では、私がここを旅の地として挙げるのはどういう理由であろうか。ひとつには、前述した「空の名残」つまり夕景であるが、もうひとつ異なる理由がある。それは俳人渡辺水巴(すいは)の二日月(ふつかづき)の句のことからである。

  ”あかね雲ひとすじよぎる二日月”

この二日月というのは陰暦二日の繊月のことである。あまりに細すぎて、それと知っていて、目を凝らさないと認識できない。もちろんよく晴れた夕方でなければならない。この二日月とそして水巴のことを知ったのは比較的最近のことである。月を見ることに関心が深い友人(以下 ”K”)がいて、月のことを色々教えてくれたが、なかでも二日月と云うのが印象に残った。毎月1回、いつでもみられるかというとそうではない。西の空にかかるのはそれなりのタイミングがある。また晴れていなければなあぬ。薄雲がかかっていると、消されてみえない。毎月、国立天文台の「今日のこよみ」をチェックしている。そして繊月の時で、空が晴れているとカメラを持って、海辺へ行き、西の方角が広がっている場所に陣取る。秋から冬にかけてが、空が澄んでいるので見やすい。

Kは、たまたま所用で渥美半島がある田原市にでかけた。せっかく来たのだから、海の眺めを楽しみたいと半島の先端の高台にある宿に泊まることにした。フロントで、”お部屋は朝日の見えるほうがいいでしょうか? それとも夕日の景色が楽しめるほうがいですか?”、と問われ、Kは夕日の見える方を選んだ。夕方になり、宿の窓から夕日が沈んでゆくのを眺めていた。そうすると、遥か遠方の茜空にに、ぽっと光のようなものがみえ、そしてそれが次第に下がってゆく。月だった、繊月なのだと気がついた。そして色々その現象を調べてみると、二日月とわかり、またそれを詠んだ水巴の句に行き当たったのである。ただ、この時は水巴が句に詠んだような、二日月に茜雲がそれを横切っているような光景ではなかった。

それやこれやで、この宿に泊まって、夕焼けの空~空の名残~を見てみたい。そして、西行も見たかも知れぬ二日月を、運がよければ見てみたい願っている。ちなみに、永井荷風はヴェルレーヌの詩「ぴあの」の中で、”おぼろに染まる薄薔薇色の夕に輝く”、と夕映えとその反射の色を表現している。空の名残の色も、どのようなものか、それをも鑑賞してみたいのである。

     
        (写真は、六甲アイランドにて昨年の秋撮影)




 次に訪れてみたいのは甲斐の国、甲州である。今の山梨県。山梨といえば、まず俳人飯田龍太のことが頭に浮かぶ。端正な句を詠む俳人飯田龍太は、また随想・エッセイの名手である。彼の著書『遠い日のこと』を読むと、俳句についてのエッセイとともに、彼が生まれ育ち愛してやまない境川村や裏富士のことが再々でてくる。

ある日、作家の井伏鱒二から、”今年も桃の花見にどうだろう”との手紙が届く。桃の季節には少し早かったが、せっかくのことなので、井伏鱒二に作家の三浦哲郎などのこじんまりした同勢で出かけることになった。

 ”桃の花見のコースは、いつもおおむね決まっている。中央線石和(いさわ)から東南向かって、御坂(みさか)山系の麓の道をぐるっとまわり、私の在所の境川に出る。この道は、ちょうど盆地を桟敷から眺めるような塩梅。桃の花もさることながら、盆地の西空に連なる南アルプスの諸峰と、金峰山・瑞垣から大菩薩峠などの秩父連山まで一望。むろん白根三山も、赤石山脈もまだ白雪を頂いているから、背景として申し分ない”
そして「わが裏富士賛」では、東海道筋からの表富士の眺めに負けじと、裏富士を讃えるのである。

 ”とりあえず季節が春なら、御坂峠からの眺めが難のないコースだろうか。峠の上の木々の芽がうす緑にほころび始めるころ。林中のところどころにキブシやサンシュユの?花。眼をあげると、碧空いっぱいに白雪の富士が高々とそびえる。太宰治ならずともいささか照れくさいほどの麗容だが、ときに向かいの山から雉子の声が響くと、途端に風景は艶を帯びて親しみを増す。峠を下って河口湖畔にでると、サクラの花はいまや満開。湖光を浴びた花の向こうに眺める富士は、にわかに母情の優しさを宿して旅心に寄り添ってくれる。・・・・もっと素朴な風景を、というなら御坂峠を越えて甲州の国中に来てもらいたい。甲府盆地なら、どこでも富士山がつつましく会釈して迎える。・・・盆地を抜けると、路は釜無川の渓谷を眼下にしてゆるい上り坂となる。やがて左に鳳凰三山と甲斐駒ケ岳の峻峰がそばだつ。わけても標高2966メートルの甲斐駒は、わが身に倒れかからんばかり。まさに男性美そのものの威といっていいが、右に眼を向けると、ゆるやかな裾をひいてゆったり八ヶ岳が据わる。この対比が絶妙である。しかも振り返って東方盆地の彼方を眺めると薄墨色のもすそのような御坂山系の上に艶然と富士が浮かぶ。”

          

 と、言うわけで、山梨はまず、飯田龍太おすすめのエリアを回りたい。さらに、以前「無用な時間は黄金時間」で書いたエッセイにあるように白州(サントリーの蒸溜所のあるところ)も訪れてみたいところである。ここからの南アルプスの眺めもいいだろう。

     

 と、ここまではごくありふれた旅のプランである。ところが、白洲正子の『行雲抄』にある「甲斐の国」の一節を読むと、この国が千数百年もつづいた歴史の国であることを知り、その歴史を辿る旅も魅力があるように思へてきた。

 ”甲斐の国は、四方を三千メートル級の山々で囲まれた「隠り国」(こもりく)である。東には大菩薩峠、また金峰山を主峰とする秩父連峰がつづき、北には八ヶ岳、西には峨々たる南アルプスがそびえ、南には富士の霊峰が。それらの山塊をえぐるようにして、笛吹川と釜無川が流れ・・・”

 ”旧石器時代や縄文人の人々は、主として八ヶ岳から笛吹川周辺にかけて住んでいた。甲斐の国が歴史上に姿を見せるのは、景行天皇の時代で天皇の命をうけた倭健命(やまとたけるのみこと)が、東夷を滅ぼすために諸国を遍歴した後、甲斐の国を訪れている。古代、笛吹川の沿って開けた甲斐の国では、古墳もそのあたりに密集しており、古い神社やお寺も多い。銚子塚からおびただしい副葬品が出土しているし、狐塚からは赤烏(せきう)元年(238年)の銘のある四神四獣鏡が発見され、この国は古代豪族が偉大な勢力を蓄えていたことがわかる。

 白洲正子は、石和(いさわ)から東に行った一宮(甲斐一宮 富士山の木之花咲耶姫が祭神、近くに国分寺と国分尼寺跡が見出されれる)を訪れ、さらにあちこちの古刹。神社を歩き回った。勝沼の大善寺を訪ねたが、その東方にあたる柏尾で、康和(11世紀末)の銘のある経筒が出土したことを知る。(昭和30年) ちなみに経筒というのは、陶製や石製あるいは金銅製のものがある。経典をおさめる筒で、胴体部分には銘文が彫られる。無名の僧、寂円が足掛け4年を費やして書写した如法経の容器である。
           注)如法経とか、精進潔斎して書写した経のことで、多くは法華経を写したものである。平安中期から鎌倉時代にかけて、末法思想が世の中に広まっており、当時の人々はそういう不安を写経に託し、経塚をつくって地下に埋めることで来世に救われることを願ったものである。

 白洲正子は、金峰山からさらにその周辺の牧丘金桜神社などなどを訪ね歩く。その旅の記述の中で、塩山から東北の山中にある雲峰寺に至る。ここは甲斐の国の鬼門に当たり、戦国時代に武田家の祈願所に選ばれた。かの有名な「風林火山」の旗のほかに武田家累代の日の丸の旗、武田菱の馬印、など眼も綾な遺品が所蔵されている。

 ”ことに日の丸の旗は実に美しいもので、白地の薄絹に、紅(くれない)の日の丸が大きく染めてあるのだが、これは天喜4年(1056年)に後冷泉天皇から源頼義に賜ったものを新羅三郎義光が受け継ぎ、甲斐源氏の重宝になったと伝えている。また、武田菱の馬印もーこれは紅地に黒漆で染めてあるが、今私たちが知っている菱形ではなく、花菱文になっており、藤原時代の優美な文様に名残をとどめている。このような見事な宝物に接すると、信玄の武勇が一朝一夕で培われたものでなないことに気がつく。私は、美しいものに出会って、感動しないと、その時代の精神も、人間も、とらえることができない性分なのだが、ここ雲峰寺において、武田氏の経てきた歴史と、ひいては甲斐の国の文化が、おぼろげながらつかめたように思うのである。”
 
 と、いうような訳で、塩山の雲峰寺、飯田龍太の愛した境村の土地、そして甲斐駒を望む白州を、いつか訪れてみたいと思うのである。あちこち回ることになるので、多分レンタカーが要るだろう。それに、できればその時は一人旅ではなく、同好の士がいれば楽しい旅となるだろう。

     
          (山梨県立美術館にて。ここには当地にゆかりのある文人・墨客にちなんだ展示がある。



 さて最後の旅の目的は、福井県の越前大野である。第二の故郷を見つける旅の行く先のひとつとして選んでみた。私事にわたって恐縮であるが、生まれ故郷は四国の松山である。しょっちゅう出かける京都は、今やわが町と化しており、故郷とは呼びにくい。第二の故郷に近いのは会津とくに奥会津である。定宿もあり、様々な形でつながっている知人もいる。しかし、何と言っても少々遠い。そこで、愛車を走らせて気軽に行けるところをあれこれ探してみた。選ぶ条件としては、

 ①空気がよく、自然が美しい、四季折々の風情がある。
 ②美しい星空を眺めることができる
 ③食材が豊富で、郷土料理が美味い。

 ④民家・町並みに歴史の重みがある。
 ⑤親しみやすい宿がある、余り高くないこと。
 ⑥住民が親切で、人情味がある。

 近いところでは、郡上八幡がほとんどこの条件を満たしている。何度も訪れており、定宿もある。あえて贅沢を言えば、町が小ぶりであるのでもう少し広がりのある方が望ましい。

 そういう中で浮かび上がってきたのが、越前大野である。福井市からJR越美北線で東へ30キロ、九頭竜川の流域にある城下町である。町並みが碁盤の目にように整い、「奥越の小京都」と呼ばれているらしい。織田信長が朝倉氏を滅ぼしたときに、部下の金森長近が大野郡の領主になった。彼は天正4年に城を築き、京風に6本の道路を東西南北に通し、用水路を設けた。

     

 ほぼ毎日ある朝市が有名である。福井三国港から紅ずわい蟹や、たらの白子、など新鮮な魚介が届けられる。町に夕闇が迫る頃はまるで、映画「三丁目の夕日」を思わせるような懐かしい風景があると聞いた。南部酒造という酒造りの老舗もあり、「上撰 花垣」という銘酒をつくっている。和服文化が尊ばれ、呉服店も多い。「東湯」(あずまゆ)という木造の銭湯もある。大野城に登れば、星空も美しいのではないか。

 実は、この場所を選んだのには、もう一つの理由がある。それは、この越前の山深い小藩と蘭学の関係である。

大阪に適塾という私塾があった。蘭学者にして医者の緒方洪庵が江戸後期船場に開いたもので、ここから多くの人材を輩出した。現在の大阪大学医学部ならびに慶應義塾大学の源流の一つと言われている。大村益次郎、福沢諭吉、また時代が下がっては高峰譲吉も門下生である。今でも大阪へ行けば、史跡として保存されている。私自身も、実際にここを訪れ、先人たちの学問への情熱をと熱意に感銘を受けたことがある。

 幕末に越前大野藩は他藩と同様、財政難に苦しんだが、藩主土井利忠は藩政改革に取り組んで成功、そして実学として蘭学を奨励した。そしていち早く、藩医の土田玄意ほかを適塾に入門させている。安政2年には、藩は適塾の第5代目塾頭を務めた大野慎蔵を蘭学教授として招聘し、洋学館を創設した。伊藤慎蔵は、この地で6年にわたって教育に携わり、近隣の藩や四国・九州から参じた多くの学生たちを教え導いたのである。

 平成11年、大野市は伊藤慎蔵の顕彰碑を建立している。その伊藤が小藩に蘭学の花を咲かせた昔を偲んでみたいと思っている。


 いかがでしょう? 訪れる価値があるでしょう? 第二の故郷になるかも知れません。


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 今回も長々と書き綴りました。ご精読ありがとうございました。













 
 




コメント (4)
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