(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『天文歳時記』(海部宣男 角川選書)

2018-01-29 | 料理
読書 『天文歳時記』(海部宣男 角川選書 2008年)

 これは「星の歳時記」とでも呼ぶべき魅力的な本である。著者は国立天文台長にして電波天文学ならびに赤外線天文学の権威である。専門分野での研究業績もさることながら、星々にまつわる詩歌に造詣が深く、古代から近代にわたるさまざまな星の物語や伝説を引きながら、天文をテーマにした詩歌を紹介して私たちを楽しませてくれる。

 天文台というと山頂などの閉じた空間にこもり観測を続けるイメージがある。が、徒然に読む読書量ははんぱではない。天文学の専門家である石田五郎さんも『天文台日記』という本を著しており、ご同様星についての詩歌に通暁しておられる。望遠鏡で星をみていると、ロマンチックになるからであろうか。いずれにしろ、そのお陰で私たちは天文と詩歌の世界に遊ぶことができるのである。以下、四季にわけてこの歳時記の魅力ある部分をご紹介してゆくことにしよう。(”~”マークで原文からの引用を示す)


<新年・春>

(オリオン座の物語)

 ”新春を飾る星空の王者といえば、なんといっても雄大なオリオン座だ。北斗七星とオリオンは、数ある星座の中でも親しみやすさでは双璧だろう。

    ”オリオンの盾新しき年に入る” (橋本多佳子)

きりりとしたさわやかさに姿勢を正したくなる、この句。年賀状に借用させてもらったこともある。山口誓子は、彼女を「男の道を行く稀な女流作家の一人」と評した。この句は、新春の宇宙に屹立する巨人・オリオンの姿を浮かび上がらせる。彼はギリシャ神話の半神の猟師、恋多き美男である。その盾は、襲いかかる牡牛座に向けられている。ひと目でそれとわかる三ツ星は巨人の腰のベルト。巨人の右肩に赤く輝くベテルギウス、左足にあたる白色のリゲルという二つの対照的な一等星に加えて、三星のベルトに下げられた短剣(小三ツ星)まで、心憎いほどに道具が揃った端正な星座だ。・・・・
明るい星が多いので、空が明るくなった今の都会でもなんとか親しめるオリオン座は、冬から春までが眺めどきである。”

 

”現代の天文学では、目に見える可視光だけでなく、波長が長くて眼にはみえない赤外線やもっと波長が長い電波なでで観測する。私も電波天文学を専攻し、眼に見えない電波の宇宙を追いかけてきたが、電波望遠鏡で見える宇宙では眼でみる可視光の宇宙とは違い、星はまったく主役ではない。爆発する銀河とか、暗黒で冷たい宇宙の雲とか、そんな天体から電波はやってくる。電波天文学は、わくわくするような新しい発見に満ちていた。
ところが観測技術が進んで、星など光で見える天体との詳しい対応がついてきたのだ。冷たい宇宙の雲から、星が生まれる。星が輝いて年老いると、爆発して電波を出す。そんなからくりも見えてきた。可視光と電波は、宇宙が織りなすドラマの、違う場面でみていたのである。

そんなドラマを代表するのが、このオリオン座だ。電波でみると巨大な宇宙の雲が集まって星を生み出し、雲の中では生まれかけた星々が微かな赤外線を放っている。集団で生まれた星々は元気に光り輝いて、やがて互いに離れ去って行く。同時に、たくさんの惑星も生まれているらしい。まるで星の誕生の見本市なのである。だからオリオン座の星々は、他の星座のように「偶然近くに見えるが関係のない他人同士」ではない。同じ宇宙の雲から何百何千と生まれて星座を形づくった若い兄弟・姉妹の星々だ。天文学者は新しい望遠鏡をつくると、まずオリオン座に筒先を向ける。・・新春の夜空を彩るオリオン座が私たちに語るのは古代ギリシャより遥かな昔、一千万年の過去から現在まで連綿と続く、星の誕生のドラマである。”

 (ゆらぎの独り言)ずいぶんと長い間、月や星を眺めてきたが、それは目に見えるものに限られていた。電波望遠鏡のことなどほとんど知らなかった。しかし宇宙の神秘を探るには電波天文学のさわりくらいは勉強しなければならないと思った。
          さらに、序ながら、星座から星像(しし座、牡牛座・・・)のイメージを創り出した古代ギリシャ(?)の人たちの想像力のたくましさには、ほとほと感心する。



(詩人たちの星)天文学がご専門の著者であるが、時にはそこから離れ粋な一節を用意した。題して「恋愛天文学」

 ”若い頃から愛唱した詩人・佐藤春夫に「恋愛天文学」と題する小品がある。

    ”われは北斗の星にして 千年(ちとせ)ゆるがぬものなるを
     君がこころの天つ日や あしたは東 暮れは西”

中国の子夜という女性が詠んだとされる非常に古い「子夜歌」からの和訳である。私の心は北極星のようにかわらないのに、あなたときたら朝はあの人、暮れはあの人。今も変わらぬ恋人への恨みつらみ。中国の女流詩人の詩を集め「車塵集」としてまとめた中の一編だ。

佐藤春夫よりふたまわりほど若い立原道造は、第一高等学校で天文学を志した。

    ”夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしいむらに
     水引草に風がたち くさひばりの歌いやまない
     静まりかえった昼下がりの林道を・・・

     夢は真冬の追憶のうちに凍るであろう
     そして それは戸をあけて 寂寥の中に
     星くづに照らされた道を過ぎ去るであろう

立原道造は、言葉の絶妙な建築家であった。”     


(春星うるむ)
 
   ”牧の牛濡れて春星満つるかな” (加藤楸邨)

 ”湿気をふくむ暖かな春の夜も、晴れると底冷えがする。牛の毛が露でしっとり濡れるころ、空には満天の星が煌く。夜目にも緑濃い牧場の時間は、静かに移る。春の夜に誘われ、外へ出て星を見上げると、オリオンがなお西空に輝き、北天高く大きな北斗星がめぐっている。

黄道十二座のふたご座、しし座が中天を横切る。それを追って、乙女座のスピカの純白の光が、東からゆっくり昇ってくる。

   ”名ある星春星としてみなうるむ” (山口誓子)

春といえば、霞、月はおぼろに、星はうるむ。だが、春の空気の湿度は、夏や秋に比べて決して高くない。特に湿っているわけではないのだ。それに格別、霞んでいるということもない。空気の透明度は4月から9月は似たり寄ったりである。つまり「春霞」や「春のおぼろ」は、春特有の実態というより、冬の透明な空気が春になって霞んでくる、その変化なのである。其の変化を私たち日本人は、暖かくなる、春が来るという喜びとともに感じ取る。それが春霞であり、うるむ星なのだ。”

      

”春の星座の代表格であるしし座の前足の部分に、昔の中国の星座「酒旗」がある。南の空を東西に長く伸びる海蛇の頭のすぐ北の、めだたない三つの星である。それが作る三角形を、古代中国の人は酒旗とみた。ただし、これは杜牧の「水村、三郭、酒旗の風」の旗ではない。中国の星座が形成された漢の頃(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)、「酒旗」は宴会飲食を司る「酒官」の存在を示す印で、市場を管理する高楼の上に掲げられていたとか。古代中国では酒は神と縁を結ぶための特別なもので、きびしく管理されていた。そのころの「酒旗」は、ちょっといっぱいという気楽な場所ではなかった。とはいえ、何百年も後の唐の時代ともなれば、それが「酒屋の星」になってしまうのも当然の成り行きというもの。李白の「月下独酌」中の一節は、とりわけ有名である。”

   ”天若し、酒を愛せずんば 酒星は 天に在らざらん、
    地若し 酒を愛せずんば 地にはまさに 酒泉なかるべし”


<夏>

 (金銀の箔を散らして)

 ”星の俳句のあまたある中で私が一句あげるなら、やはり

    ”星空へ店より林檎あふれをり” (橋本多佳子)
 
である。夜の果物店から路地に流れだす黄色い明かり。山盛りになった林檎。それを包む町並の上には、紺色の空が広がる。華やかでほがらかで、やさしい星空だ。「私の目に浮かぶのは、なぜか南欧の街角」と、私はゴッホの「夜のカフェテラス」の絵を念頭において書いた。(『宇宙をうたう』) 野尻抱影もこの句について、ゴッホの「夜のテラス」の星の名画を連想すると書いている。美人の誉も高かった橋本多佳子は野尻抱影の14歳年下で明治32年生まれ。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「星の俳人」としても知られた山口誓子のもとで星の句もしっかり詠んだ。

万葉集の時代から日本文学をリードした女性たちの文学は、役目と規則にがんじがらめの男どもと違い、人と世界とのこまやかな交感を掘り下げた。詩歌の世界で宇宙を愛で、星に親しむ感覚も、じつはまず女性が開拓してきたものと思っている。そのパイオニアに、たとえば「夕づつ」や「すばる」の美しい詩を残した古代ギリシャの女流詩人、サッポーがいる。日本では「星は、すばる」と、男社会の厳かな星の感覚を引っくりかえしてみせた清少納言、それに平安末期に生きた建礼門院右京太夫をあげたい。

   ”月をこそながめ馴れしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる”(建礼門院右京大夫)

歌に添えられた詞書にも、率直な驚きが満ちている。嘆きふしていた、秋深いころの夜更け。ふとかけていた布を引きのけてみると、素晴らしい星空だった。月ならば眺め賞するのは習いだったけれど、星の世界がこんなに美しいものだったとは。明るい大きな星が空一面に出て、まるで花をすきこんだ紙に金銀の箔を散らしたよう。これまでも星空は何度もみてきたのに、まるで違った景色のような気がして、吸い込まれそうに見入ってしまった。華やかな宮廷生活も恋人も失ってただ一人嘆き暮らす時間にふと訪れた、星との出会い。それが、星といえば七夕や宮廷でのおごそかな星祭だった八百余年まえの一人の女性に、星空そのものの美しさに眼を開かせることになった。・・・じつは彼女のこの歌も、当時の世には知られていない。120年後の鎌倉末期、勅撰和歌集「玉葉和歌集」に、はじめて載せられた。建礼門院右京太夫を「星のパイオニア」と呼ぶ所以である。その頃から室町にかけて、権威ある歌集もようやく「星を愛でる歌」をのせるようになった。そこでもやはり、活躍したのは女性だったのである。

   ”星おほみはれたる空は色濃くて吹くとしもなき風ぞ涼しき”(十二位為子 風雅                                 集)


 (消え入りしもの)

 ”明星派である与謝野晶子は、大いに星の歌を詠んだ。若い頃は比喩的なものがほとんどだが、何と言っても中年に達してからの歌に、実感のこもった星の歌が多い。

   ”流星も縄跳びすなる子のように優しく見えて川風ぞ吹く”

歌集『深林の香』には星の遺作が24首ある。

   ”身とこころつねに一つに光るとて星をいみじく思はるるかな”
   ”飛び去るもみ空の星の本性の一つとすれば人と変わらず”

これは星に託して頼りなく変わりやすい人の心を歌っているが、それはもちろん恋多き鉄幹の心である。一方で晶子の鉄幹への想いは生涯変わることなく熱烈だった。

   ”明星を目指して青きひとすじの煙ののぼる夏の夕ぐれ”

晶子は彼の天才をふくめ、鉄幹に心底ほれていたのだ。

   ”むらさきの魚あざやかに鰭ふりて海より来しと君をおもひぬ”
鉄幹に先立たれてからの晶子はとりわけ、鉄幹を思っての心深い歌が多い。星の歌ではないが、最後に一首あげたい。彼女の大きな温かい生命感が伺える。”

   ”ほのぼのと消え入りしもの帰り来ぬ命と云ふはこれにかあらん”

   
  (ゆらぎの独り言)『千すじの黒髪』という田辺聖子の与謝野晶子伝がある。これを読むと、晶子は心底与謝野鉄幹に惚れ抜いていたことが分かる。鉄幹は、ある意味自分勝手な男である。それでも晶子は彼が死んだ後でも想っていた。やはり
           ”詩の子、恋の子、ああ悶えの子”である。


 (宇宙)

   ”万有引力とは ひきあう孤独の力である
    宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめあう

    宇宙はどんどん脹らんでゆく それ故みんなは不安である。

    二十億光年の孤独に 僕はおもわずくしゃみをした”

 ”谷川俊太郎の処女歌集『二十億光年の孤独』から。俊太郎は宇宙の中の自分をうたう。自分自身が、宇宙という空間と時間の中に今存在していることの不思議さ不可解さ。二十億光年の言葉が印象的だが、じつはこの詩が書かれた1950年ころ、宇宙の大きさは200億光年だった。つまり、光が届くのに20億年かかるあたりが宇宙の果ではないかと考えられていたのである。ちなみに、太陽から放たれた光が地球に届くのには8分。夜空に輝く恒星の光は、星によって違うがおよそ10年から1000年かけて宇宙を旅してきて、私たちの眼に入る。

星々の彼方には無数の銀河が散らばる。太陽のような恒星が一千億個も集まって渦をなす巨大な天体が銀河だ。遠くの銀河ほど、速い速度で私たちから遠ざかっている。エドウインハッブルが銀河の距離を測定したところ20億光年くらい前にはすべての銀河がひとところに集まっていたという結論が導かれた。これが1930年頃の宇宙膨張の発見である。そこでパロマ山に5メートル望遠鏡の建設が始まった。観測の開始は1984年。このニュースは宇宙の不思議とともにいやがうえにも世間の耳目を集め、若き詩人の心を揺り動かしたに違いない。(注 今では、宇宙膨張の始まりは137億年前とされている)
いっぽう東洋では、二千年余の昔に中国は淮南で編まれた書『淮南子』(えなんじ)には、宇宙の素晴らしい解説がある。”(注 俊太郎が「二十億光年の孤独」を出したのは21歳の時。パロマ山の望遠鏡にニュースは1984年。ちょっと時間的にあわないが、まあ、宇宙スケールということで許しておこう)

   ”往古来今これを宙をいい、四方上下これを宇という”

過去現在未来すなはち時間のすべてと、空間のすべてとが、宇宙だ。自然は「自然(じねん)」であって、作られたものではない。まさに、現代の天文学が考える宇宙の基本だ。

   ”宇宙から宇宙に帰る旅半ば” (清水和子)

これは素敵だ。宇宙から宇宙に帰る....そんな気持ちになれたら人生は楽しくいとおしい。地球は宇宙の冷たい暗黒星雲から生まれ、地球で生命が生まれた。そのようにして宇宙からやってきた私たちは、とりあえず地球に帰り、やがて遠い未来には地球とともに宇宙に帰る。その間、何百億年の中のただ一度の旅、私の人生。”


<秋>

  ”アジアでは星も恋する天の川” (だれの句でしょう?・・・記事の最後で種明かしします)

          

(伝統的七夕)
 
 ”江戸時代の俳諧を眺めていると、実にいきいきと七夕の情景を捉えた句が多いことに驚く。

   ”大勢で硯をつかふ天の川”
   ”星さまのささやき給ふけしき哉” (一茶)

   ”星の恋いざとて月や入り給ふ” (長斉)
   ”星あひや月入るまでは何の陰” (千代)

江戸時代の七月七日は、新月である一日(月立ちーついたち)から数えて七日目で、ほぼ月齢七日。半月である。七夕の日暮れに半月が中天にかかり、星の光も多少かずむ。けれど後半には月は完全に沈んで、天の川が輝き満天の星々がきらめく星月夜。七夕の夜は、月も星も天の川も楽しめる、最適のシチュエーションだったのである。子供と星空を眺めれば、星を指していろいろ話も出ようというもの。(七夕は、陰暦七月七日、陽暦七月七日では、まだ梅雨のころで季節感が合わない)

   ”星の名を覚えて空も伽(とぎ)になり” (武玉川)

今も七夕は、保育園や学校で子供に人気の行事である。でも実際に星を眺める機会は、残念ながらあまり訪れない。せめて七夕は自然にあわせ、昔の伝統に帰ってはどうだろう。私はそう提唱して、国立天文台でも旧暦で計算した「伝統的七夕の日」を広く知らせ、梅雨時を避けて星に親しむキャンペーンをすすめている。この夜は、月と星と、そしてできれば天の川を、都会の子どもたちにも見て欲しい。そのために、「伝統的七夕」の夜のライトダウンを、できるところから進めていってはどうか。今、日本の夜空は、人工の光で埋まって明るい。都会の子供は、天の川を見たことがない。年に一度、七夕の夜だけでよい。ライトダウンで、星と天の川を存分に楽しみたい。沖縄の石垣島が全島を挙げて取り組む「伝統的七夕ー南の島の星祭」をはじめ、関心も少しずつだが広がっている。”


(月は変われど)

  ”平安以後江戸時代にかけての日本は、月を愛でること、こよなき国ではなかっただろうか。

    ”花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは”
 
と、早くから清少納言は書いている。満月だけでなく、十六夜/立ち待ち月/居待ち月/寝待月/更待月/宵待月/有明月・・・。と、日毎の月にそれぞれ名前をつけて楽しんだ。月とともに暮らしていた江戸の時代、七夕と並んでお月見は実に盛んだった。金持ちたちはただの月見では飽き足らず、川に船を浮かべて流れに映る月と天上の月をともに楽しんだ。清長描くところの「角田川月見船」では、屋根船に立って月を見上げる美人を描き、次の句が添えられている。”

   ”名月やけぶりはひ行く水の上” (嵐雪)

     

”船に寝そべる男の目線はしかし、天の月でもなく水の月でもなく、美人にくぎ付けのようだ。

ところが、万葉集のころは、お月見はまったく登場しない。古代日本では、呪力を持った神のような存在としての月が卓越していた。地球上どの民族もその文化を遡れば、潮の干満を支配し、形の満ち欠けで時の経過を教える月への信仰にゆきあたる。そうした月の力は万葉人には圧倒的だったらしく、『万葉集』には月そのものを愛でる歌はない。月が登場するのはおもに相聞歌。つまり恋の歌だった。魑魅魍魎(ちみもうりょうう)が跋扈(ばっこ)する夜道を妻問いに行くとき、男は呪力のある月の光で守られねばならなかったのである。

   ”闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや” (紀郎女)

仲秋の月見の風習は、中国・唐の後半期に隆盛を極めた。それが七夕にやや遅れて日本の朝廷にもたらされた結果、月は畏れ敬うものから愛でるものへと変わっていったのである。菅原道真が865年に観月の式宴を催したのが、日本での十五夜の最初だったといわれる。月だけでなく、月の住人も移り変わる。その昔、月は蛙の天下だったが、中国の始祖的な神のひとりである西王母の侍女の嫦娥(じょうが)が不老長寿の仙薬を盗んで月に逃げ、月の仙女となった。月では、今も嫦娥の家来のうさぎが臼をついて仙薬を作っている。日本では、それが餅つきになった。”

   ”名月やうさぎのわたる諏訪の海” (蕪村)
           注)海や湖で白い波頭が走ることを古来「兎が走る」という。



(秋の星空)(星空劇場)

 ”暑い暑いと言っているうち、いつしか秋の風が立つ。

    ”星きらきらあすなき秋と照る夜かな” (塊翁)

 ”秋から冬は、星がよく詠まれる季節である。旧暦の七夕が楽しいスタートで、夕涼みは星に親しむチャンスでもある。乾いて透明感を増す空気。天の川をはじめ、射手座や白鳥座、カシオペア。やがてオリオン座へとつづく豪華な星座である。星月夜といいたくなる明澄な星空も、やはい秋のものだ。”

    ”星月夜空の高さよ大きさよ” (尚白)

”毎年旧暦の七夕の直前の週末に、沖縄南端にある石垣島(八重山諸島)で楽しいイベントがある。「伝統的七夕ライトダウン 南の島の星祭」である。晴れて月もよい旧暦の七夕の夜、国立天文台のよびかけに石垣市が応えてくれた。港の広場には夕方から屋台がならび、ボランティアで参加する人気バンドの演奏などを楽しむ。夜8時、カウントダウンでいっせいに街のライトが消える。満天の天の川が冴え渡ると、広い芝生を埋めた参加者から、いっせいに歓声があがる。思い思いに芝生に寝転んで、星の解説を聞きながら天の川を堪能するのだ。人気は高まり、参加者は一万人超える。

もちろん昔は、星はどこでもよく見えた。だから星の民話や伝説が世界中で残されている。オーストラリアの先住民アボリジニたちは、天空には創造主ビアメが住み、稲妻の男女やさまざまな星、死んだ部族も暮らす場所と考えていた。

   ”そしてセブンシスターズが天空を 横切って旅している。
    彼女たちは冷たい霜をつくる。平原でキャンプしていると彼女たちの声が
    聞こえてくるのだ。天空から眼下を眺め、焚き火を見つける。すると、
    「マイ、マイ、マイ」と天空を駆け巡るように叫ぶ・・・”

     

秋から冬への季節の移り変わり、星と人間のかかわりが伝わる。霜をもたらす「セブンシスターズ」は、もしかして北斗七星ではないか。オーストラリア中南部では秋に当たる4月から5月、北の地平線すれすれに低く、まさに旅人のように東から西に旅するのがみられることがわかった。いわゆる「柄杓」が下を向き、頭を先にゆっくり回ってゆくのを、平原のアボリジニたちは「セブンシスターズ」が天空を横切って旅している」とみたのではないか。もちろんこれは想像にすぎない。いずれ現地で調べてみよう。私の楽しい宿題だ。


 ”ところで中原中也の「山羊の歌」に「秋の夜空」と題する詩がある。おしゃべりに余念がない、秋の夜空の素敵な貴婦人たち。大小色とりどりの星々のさざめき。”

   ”これはまあ、おにぎはしい、 みんなてんでなこといふ
    それでもつれぬみやびさよ いずれ揃って夫人たち
    外界は秋の夜といふに、上天界のにぎはしさ

    ほんのりあかるい上天界 遠き昔の影祭り
    しずかなしずかな賑わしさ
    上天界の夜の宴 私は下界で見ていたが 知らないあいだに退散した”



<冬>

 (ゴッホの星)
  
  ”晩秋から冬にかけて、オリオン座が夜空を圧倒しはじめる。三ツ星を中心とするギリシャ神話の巨人は、夏のさそり座と好一対だ。二つの星座はさそり座が沈むとオリオン座があがり、オリオンが見えなくなる頃サソリが輝くという関係にある。

     ”オリオンと店の林檎が帰路の栄” (中村草田男)

ちなみにこの句は、橋本多佳子の<星空へ店より林檎あふれおり>を思い出させるが、草田男の句は、多佳子の句より10年ほど早い。”

”ゴッホといえば向日葵、糸杉、麦畑が思い浮かぶが、星もよく描いたことは有名だ。星は微かで絵になりにくいけれど、ゴッホの星は、「星月夜」の絵のように格別明るく、不思議な光を放っている。ある時、「ローヌ川の星月夜」をつくづく眺めていたら、広い川の真上に大きく描かれた星空に、まさしく北斗七星が輝いていることに気づいた。

          

これは秋の季節と思われる夜景である。もう地中海も近く、ローヌ川は海の入江のように広い。向こう岸には町あかり。川の上は、豪華な星空だ。ひときわ光る七つ星が、ひしゃくを上に向けて横たわる北斗七星である。サンレミ(ゴッホはここの療養所にいた)からローヌ川越しにみた星空を調べてみると、10月はじめ頃なら、夜10時前後の星空にぴったりである。北斗だけではない。ゴッホは星々を、実に正確に写していたらしい。・・・ゴッホは川の上に輝く北斗を描きながら、どの星に行こうと考えていたのだろうか。”


  (すばる)

 ”「星はすばる・・・」と清少納言が書いたのは10世紀末だから、千年前だ。『枕草子』はその理由を語らず、”彦星、夕づづ(太白星)、よばひ星・・・」と書き継ぐが、なぜ清少納言が星の項の筆頭に「すばる」を挙げたかを想像するのは、難しくない。 すばるは、冬の星である。寒い夜半には、中天高く輝いている。英語名では、プレアデス。星の集合ー星団だから、よく目立つ。平安の時代、夜を徹しての宴(星をまつる厳粛な星まつりもあった)や管弦の遊びは貴族にとって欠かせない生活の一部だったから、大宮人たちは現代人よりもずっと星空に親しんできた。すばるは古くから有名な星であり、6~7個の星がきらきらと一所に集まって光るのは、見るからに美しい。星の景として鑑賞するなら、まずすばる、というのは、いかにも女性らしい選択だ。”

     
          

   ”青貝の櫛買うて出づ寒昴” (文挟夫佐恵)

すばるは星がぎゅっと集まった星団だから、一つだけの星とは違い、ほかの星との位置関係を見ないでも、すぐそれと見当がつく。雲の切れ間からでも見分けられる。夜の海上では、舟人のまたとない道標。プレアデスという英語名も、語源はギリシャ語で航海に関係が在るらしいと、野尻抱影は『星の民俗学』で書いている。実体としてのすばるは、たくさんの若い集団だ。一番明るいアルキオーネが、三等星。五つの四等星がそれをとりまき、この六星が見分けやすいので「むつら星」などとも呼ばれる。双眼鏡でみれば、何十もの星が真珠を散らばしたように光って、美しいことこの上ない。地球からの距離は、約4百光年。

2008年にハワイ島マウナケアの山頂に完成した口径8メートルの望遠鏡は、今最高性能の望遠鏡として宇宙の解明に活躍している。この望遠鏡は、公募によって「すばる望遠鏡」と名づけられた。”


 (星のおしゃべり

  ”冬の星はなんとなく、おごそかに仰ぐ。もちろん冬の寒さ厳しさがそうさせるのではあるが、そればかりではないだろう。古来信仰の対象となってきた北斗七星が、北天にひしゃくの首をかかげる。冬の夜空を圧する巨大なオリオン座の佇まいも荘厳なものだ。

    ”北斗星四温の水をこぼしけり” (有馬朗人)

日本の太平洋岸の冬は、空気はおおむね乾燥して透明である。冷たく澄んだ夜空に、星々はひときわ鋭く輝きを放つ。

    ”雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと” (松本たかし)

これはまた、冬の星ながら仲間気分。「星さまのささやきたまふ景色かな」という一茶の句はあるが、星がぺちゃくちゃというのは、この句くらいだろう。雪の道を照らすのは星明かり。おびただしい星がきらきら揺れ動くさまは、なるほど星たちのおしゃべりである。草田男は、星を見て和む気分をこう詠んだ。

    ”身の幸や雪やや果てて星満つ空” (草田男)

冬の日本では、星の瞬きが夏に比べて格段に大きい。星があんなふうにきらきらチラチラするのは、空気の乱れが風で運ばれながらおこす、揺らぎのせいである。遠い星からはるばる旅をしてきた光だが、地球の大気を通過して地上に達するまでに空気の揺らぎのため方向が絶えず乱され、ふらつく。おかげで、きらめく星の美しさが詩や俳句に詠まれる。美しくはあるが、星のあの瞬きは天文学者には困りものである。星の像はぼやけ、詳しい観測ができない。口径8.2メートルのすばる望遠鏡をマウナケア山頂に作ったのはこのためだ。山頂は空気が薄く、星のまたたきは大変少ない。それこそおびただしい数の星々はじっと光っている。あまりおしゃべりは聞こえてこない。”

    ”星満つる冬の夜のそら饗宴のごとくありけり廂の間(あひ)に” (宮柊二)


 (とき)

    ”皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝(い)ねかてぬかも”
                                 (笠女郎)

  ”人々は当時、鐘の音で時刻を知った。「日本書紀」によれば、一日の時刻を知らせる制度をはじめたのは天智天皇だった。「漏刻を新台に置き、始め、候時を打ち、鐘鼓をとどろかす」という。西暦671年4月25日。これが「時の記念日」の根拠ともなった。「漏刻」は水時計で、これに先立つ660年につくられた。中国からの技術によったものだろう。

中国は日本にとって、雲の上の先進国だった。とくに宋から元にかけての技術革新はめざましく、高度な天文観測や時間の計測が行われたことが知られている。実はその最高の実例が、なんと長野県は諏訪の町で見られるのだ。諏訪大社の下社秋宮にほど近い、「諏訪湖・時の科学館、儀像堂」の「水運儀像堂」がそれだ。11世紀に北宋の都・開封でつくられた巨大な自動機械を、当時の記録に基づいて細部まで再現し、実際に動かしてみせる。高さ12メート、四階建ての構造は巨大な時計、カレンダー、天球儀などのすべてをすべて水力で動かし(今は電動)、人形が月日や時刻を知らせたり、天文の観測台も備える。セイコーエプソン社のきもいりで、科学史家の山田慶児さんが復元したものである。東洋の技術を今に伝える貴重な復元である。”

 ”蕪村に”涼しさや鐘を離るる鐘の声”という句がある。さわやかな早朝、空へ広がってゆく鐘の音を立体的に捉えた。

   ”時間よおれはおまえに聞くが。おまえの未来はぎらぎら光るか”(草野心平)

現代の時間は変化を孕み(はらみ)、不安にも満ちている。

 
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


長い間、長文をお読み頂きありがとうございました。退屈されたかもしれませんね。私自身は記事を書きながら、星のこと星座のこと、またそれらと人々の関わり方などあれこれ勉強をしました。こんなに豊穣な世界があったのかと、著者に改めて感謝する次第です。余談ですが、”アジアでは星も恋する天の川”の句は評論家の丸谷才一の作です。『星のあひびき』という本の冒頭にでてきます。また天の川のイラストは、和田誠さんの作品。


(余滴)『本当の夜を探して』という本があります。2016年に出版された本ですが、光害(ひかり害)の実情を欧米を中心に広範囲に調べたものです。夜が闇とならず、あまりにも光に照らされ、今では美しい星空を見ることは困難になっています。1989年、日本でも「光害防止条例」という条例が岡山県の美星町で制定されました。このような運動は、その後甲府などへも広がっています。



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コラム 風の音~バイオリニスト樫本大進

2018-01-14 | 料理
バイオリニスト樫本大進のこと

 バイオリニスト樫本大進(だいしん)、38歳。まだ若い!それが140年近い伝統を誇るベルリン・フィルのコンサートマスターを務めている。つい先ごろのNHKTV「プロフェッショナル仕事の流儀」で紹介されていた。コンマスは、120名近い団員を束ねて指揮者から最高の演奏を引き出すのが役割である。
 樫本は幼いころから天才的なバイオリニストと評されていた。1996年に最年少でロン・ティボー国際コンクールで第一位に輝いた。30歳の時に、ベルリン・フィルから声がかかりテストを受け、そこから2年間の試用期間を経てコンマスに就任した。非常に明るくさわやかな表情をした好青年である。(注 30歳でコンマスとして声がかかるのは何事も長幼の序を重んじる日本では考えられないことである。)
 
 樫本は常に前向きである。”ずうっと同じことをしてもつまらない”という。だから彼のが口ぐせは、”No Risk, No Fun ”である。リスクがなければ面白くないという。世間には、いつも石橋をたたいて、なを渡らないというタイプの人間が多い。しかも彼らは変化を嫌う。そこには進歩は、ないと思う。

 滅多に公開されることのないベルリン・フィルのリハーサル風景が映しだされた。そこには、演奏のサインを周囲に送り、身体を振って繊細な演奏内容やタイミングを指し示す樫本の姿があった。演奏中にも、バイオリンの指の動きを周囲に見せて、伝えていた。その結果が団員の一体感につながり、音に厚みを増す。

   ”変化があるから魅力がある”

 公演ではドヴォルイザークの交響曲第九番 新世界よりの光景が映されていたが、その直前のリハーサルで樫本は弓の動かし方に関して大胆な挑戦に打ってでた。それはバイオリンのボーイングを変えること、ふつう弓はダウンからアップへと動かす。弓を右手に弾き、そこから左方向に返す。カラヤンがベルリン・フィルを振ったころからそれが続いていたのだ。樫本は、そのやり方を第4楽章でバイオリンが主旋律をかなでるところで、10個所以上変更することを団員に、また指揮者に説得をした。その結果、弓はアップからダウンに弾くことに変更された。(左方向に、そしてついで右方向に弾く)この新世界よりの演奏では、そのほうが音の粒立ちがいいと樫本は考えた。

 その結果はどうなったか? それは演奏を聴いた聴衆からの声に如実に現れた。 ”こんな素晴らしい演奏は聴いたことがない”、”こんなに生き生きとした新世界ははじめてだ”と賛嘆の声が寄せられた。そう。樫本は”もっと先を求める姿勢を”と絶えず前向きである。樫本はいつもヨーロッパで演奏し、コンマスとして活躍しているが、いつかそれを聴いてみたいと思った。ちなみに、出身地である赤穂市では、世界から演奏家を集め音楽祭を開催している。







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(予告編)コラム 風の音

2018-01-11 | 料理
いつも長文の記事を書いて、諸兄姉を悩ませています。また書くのには、相当なデータを集めたりするので時間がかかっております。一方、日々感じることや、印象に残ることなどは、タイムリーにお伝えしたいとフェイスブックやツイッターで発信しています。これとブログとのつなぎを図ろうと、短文のコラム欄を設けることにしました。第一回は、ベルリン・フィルで活躍するバイオリニスト樫本大進にまつわるエピソードです。しばらくお待ち下さい。






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料理手帖~素材へのこだわり(続)

2018-01-03 | 料理
明けましておめでとうございます。旧年中は、勝手気ままなブログにおつきあいいただきありがとうございました。本年もよろしくおつきあいのほどお願いもうしあげます!

料理手帖~素材へのこだわり(続)

 今回の記事で。”素材へのこだわり”をとりあげたもう一つの訳は、辰巳芳子の『料理歳時記』という本にめぐりあったことである。いつも通っている京都のさる料理屋で、一年ほど前に「料理教室」があり、プロの料理人から和食の基本を習う機会があった。出汁の意味、とり方から魚の捌き方、盛りつけまで教わった。そんなこともあって、京都の烏丸御池にある大垣書店をのぞいた時に、この本が目に止まった。店頭の目立つところに平積みで並べられていた。著者の名前にはなんとなく見覚えがあった。いつも手にしているある意味での愛読書、辰巳芳子の『味覚旬月』『味覚日乗』のことを思い出した。そう、著者の辰巳浜子さんは、その辰巳芳子のお母さんである。ぱらぱらとページを繰ると、季節を春夏秋冬にわけて、さまざまな食材のことが紹介されており、どのようにそれらの素材を調理するのがよいのか、著者が長年研究しつづけた調理法について懇切ていねいに紹介されている。この本を読むと、祖母から母(浜子)へ、そして娘(芳子)へと和食の料理のしかたが、連綿と伝えられていることが分かる。これは和食というものを例にとり、日本の伝統を守り伝えるということにほかならない。

辰巳浜子の著書には、『手しおにかけた私の料理』や『娘に伝える私の味』などの本がある。これらを結婚に際して母から贈られたという一人の女性のことを思い出した。そして料理をふくめ家のことなどを連綿と伝えるということの大切さに思いをいたしたのである。

 では季節を追って、味わうべき素材とその料理法をいくつか紹介してゆくことにしよう。

 <春>
 
 (にら)”春の葱はとう立ちが早くて使い物になりません。新玉ねぎにはまだ少し早い、こうした葱の端境期に自然の恵みは素晴らしいものを寄せています。冬にもめげず青々と、なよやかに伸び上がっているのがにらです。朝の味噌汁の豆腐がひらひらと浮き上がる瞬間、きざんだにらを一握り放り込んで、煮立ちばなに七味を振って召し上がってみてください。急に元気がみなぎるようです。にらの卵とじ汁も風味がよく、手軽で好きなお汁の一つですが、にらのおひたしもまた格別美味しいのをご存知ですか? 
 にらをさっと茹でて、すぐ笊にとり、食べよい長さにきります。おろし生姜に醤油をさして少量の酒を加え、砂糖を加えます。砂糖の甘みが加わるのがにらのおひたしに必要なことで。ただそれだけです。よく混ぜてください。”

          
 
 ”ある年の春、娘が無性ににらレバーが食べたいと申しました。早速つくってやりますと、美味しいといいながらいつになくたくさん食べました。二三日してお医者さまにこの話をしますと、”それは素晴らしいことです。実は差し上げようと思った薬が同じ成分の薬です。そんなよい食べものを自然に要求されるなら、それにこしたことはありません。お薬はいらないでしょう”、といわれました。”

 ”肝は牛、豚どちらでも。子牛ならなをよろしい。鶏の肝も食べやすくて美味しいです。肝200グラムににら大束ひと束、にんにくのみじん切り、生姜みじん切りともに小さじ山いっぱい。鶏の肝なら食べよい大きさに、牛、豚は薄く切り、血抜きして細かく切る。水気をきって、醤油大さじ3,酒大さじ1、にんにく、生姜をあわせた汁に30分漬けます。鍋を強火にかけ、油大さじ2で肝を手早く炒めて直ちに取り出し、さらに大さじ2杯の油を加え、水気をきったニラを手早く炒め、先に炒めた肝を戻して塩胡椒を加えてできあがりです。手早く水気をださないようにするのがコツです。”

 (三つ葉)(切り三つ葉や糸三つ葉ではなく、根三つ葉について)”根元の白い茎を2センチほど残して根をざっくり切り落として、軸だけをよく洗います。根元のゴミは丁寧に取りのぞきます。三つ葉は、ぐらぐらの熱湯にひとつまみの塩を加えて、右から左へさあっと湯の中をくぐらせるような心づもりで茹で上げましょう。決してクタクタに茹でてはいけません。茹でた三つ葉は素早く冷水にとって、水が完全に水温に達っするまで冷やしてください。水からとりあげ、2センチくらいの長さにザクザクと切り、ほどよく水気を絞ります。このほどよさが、いわく言いがたしで、水気が足らなければ、おひたしが水っぽく絞りすぎれば筋ばって、三つ葉の香も茎の味もだいなしになります。酒と醤油を等分にあわせたかけ汁をかけ、花かつおを盛りつけます。根三つ葉の匂いと、酒の香りがうっすらと溶け合って春のひたしものの一級品と申せましょう。”

 (昆布、若布、天草)(昆布はグルタミン酸やヨードを多量に含んでいる。また鰹節は良質のタンパク源であり、カルシウムも含んだいい食べものである。結婚のお祝にこれらを結納などに揃えるのは、こういうものを食べて健康で幸福な家庭を気づきなさいとの心あっての教えである。これについて辰巳浜子は次のように記している)”一本昆布、一節のかつを節でも本物にして、食生活の重要なことを、新世帯のはじめに、まわりの大人たちが話し伝えるならば、初心忘れるべからずでよい伝統と食の知恵の歴史が語り継がれるのではないでしょうか。・・・”

 さて昆布。”昆布には出汁用と煮物用に二種があります。煮物用の昆布では出汁が思うようにとれないし、出汁用の昆布は煮ても美味しくないとお知りください。昆布出汁の取り方。昆布のよいものは砂などほとんどついていません。表面の白い、塩のようなものは大切な養分とうまみです。決して水であらたりしてはいけません。乾いたふきんで砂を思われる部分だけを拭きます。約1リットルの水に、幅5センチ長さ10センチくらいのものを二本入れ、冬なら4~5時間、夏なら2~3時間浸けます。昆布には2センチ位の切れ目をつけてください。水の中で昆布は柔らかく、ゆったりと伸びて、汁を試食するとなんともいえないうまみがしていれば上等です。これが昆布の一番出汁。お吸い物や煮物の土台になるものです。この昆布水を鍋にうつして火にかけます。沸騰直前、鍋の底から気泡がたちはじめて、出汁がぐらっとゆれる寸前、鰹節を加えます。鰹節が鍋の中に散って沈みかけますが、沈まずに盛り上がるように浮き立ったら、直ちに火をとめます。ひとつまみの塩を投げ入れ、鰹節が底に落ち着くのを待って静かに上澄みをこします。これが、昆布と鰹節の一番出汁です。出汁昆布、煮昆布を色紙または短冊に切って、ぬるい油で揚げ、揚げ昆布にして召し上がって「ください。お酒のおつまみにも好評です。”

 ”めのはのちょっと漬け・・・若布(めのは)をハサミでちょんちょん細かくきります。(カップ一杯) 花かつおカップ一杯、酒醤油同量と砂糖大さじ二、三杯を合わせて花かつおをびしょびしょになるくらい加え、めのはと混ぜ合わせ、くるみを刻んで二分の一カップを振込み、よく混ぜ、温かいごはん、おむすびに、お酒のツマミに最高です。”

 ”天草(てんぐさ)を取ったまま干しあげたものを煮出して飲むのは、動脈のよごれを取る妙薬です。中年以上のい老化現象、血圧、心臓の不調をきたしたら、だまされたと思って天草を煎じて召し上がってください。ひとつまみの天草を三合の水で煮出して、湯呑みに一日にいっぱい半も召し上げれば十分です。”

 (春の和えもの)”ひな祭りの向付は貝の酢味噌がおきまりで、貝柱、青柳、平貝、みる貝など可愛らしい色どりの貝づくしに、新わかめにわけぎ、あさつきを取り合わせて、白味噌のなんどりした酢味噌をとろりとかけたのや、あるいは混ぜあわせてぬたにするのです。女の子らしい、美しい和えもののためにと、古伊万里の深向こうを使うのがわが家の習慣です。”

               

 (余談)これは、新幹線の品川の駅で売っている貝づくし弁当です。色んな貝をうまく煮含めてあって、なかなかの味です。他のところでは買えません。ぜひお試しください。


 ”三月の声を聞くと独活も買いやすい値段になります。うどのごま和えはキュウリの胡麻酢和えとともに誰にでも喜ばれます。独活の皮は思い切って厚くむきましょう。歯ごたえのあるように、太めのマッチ棒くらいに切り、少量の酢を落とした水にさらして、十分に水気をきります。胡麻は油の出るまでよく摺って、ゆで卵の黄身だけ一個加えてよく摺り、味醂、酢、酒で味をととのえて和えます。すみれの花いちりん、桜草の一本も飾りましょう。”


 (鯛)”鯛のお刺身を食べる時の心得を一つお伝えしましょう。お刺身は先に醤油をつけてから、おろしわさびをちょっとつけて食べます。醤油にわさびを浸して食べるより、わさび、醤油の味がはっきりして、口にすきっと感じます。塩焼きの最高の食べ方は、30センチ位のたっぷり目の小鯛に霜降り程度の塩をして、やや強火で焦げ目をつけて一気に焼き上げます。別に酒(一級酒)を一匹あたり三分の一カップくらい、熱燗にしてアルコール分を抜き、鯛が焼きあがったところで、魚串を抜いてあつあつの熱燗をさっとかけましょう。食べるとき、ほんの少量の醤油をかけます。(潮汁について、お汁が透きとおるようなつくり方を紹介しているが、ここでは省きます)”


 <夏>

 (蓼、茗荷)”だれが こんな美しく風情があって、しかも毒消しになるものを刺身のつまにするのを考えついたのでしょう。真鯛の透き通った薄切り、乳白色のすみいかのつくり合わせに、新わかめのみどり。紅たでの赤、青じその新芽。日本料理の美しさは目で見るだけのものではなく、取合はとりもなおさず毒消し。食べ合わせの配合がほどよく盛り合わされているのです。鮎が解禁になる頃は、蓼がちゃんと大きくなります。蓼酢と鮎は切りはなせません。わが家では、夏の魚の塩焼きは、ほとんど蓼とレモンでいただきます。”

 (余談)ここで著者が云っているのは、紅たでですが、これとは別に柳たで(青たで)というのがあります。関西では、こなもんのひとつとしてたこ焼きが有名ですが、神戸の人間には明石焼きが好まれます。ふうわりと、柔らかく焼き上げられた明石焼き。これは出汁につけて食べます。その出汁には、きざんだ青みの蓼が入っています。こちらの方が洗練されていますね。えへん、(笑)

 次に茗荷です。”八十八夜前後、茗荷がぴんぴん芽をだします。夏茗荷と秋茗荷がありますから、秋まで花茗荷(茗荷の子)が楽しめます。ピーマンの薄切り、しそ、芽生姜、セロリの芽、パセリの芽、三つ葉の芽などとあわせてサラダにいたします。まさにサラダの王様。このサラダだけはどこのレストランに行っても食べらればないと、私の自慢の一つです。余分の茗荷は塩漬けのしておいて、秋茄子の出るのを待ってしば漬けにするのが例年の慣わしになっていっます。茄子を輪切りにして、茗荷と一緒にごま油で炒めて、砂糖、酒、醤油で濃い目に煮込むのは意外においしくてだれも驚きます。

 
 (鮎)”今年の鮎の初食べは4月26日、青葉薫る京都南禅寺の瓢亭でした。ぐちの昆布締めの向付、合わせ酢の加減のよさ、おろし山葵の薄みどりは、羨ましいほどのよいわさびを使って見とれるばかり。牡丹はもの煮物椀、筍とわかめの炊き合わせ、焼きものが鮎でした。・・・蓼酢の辛さもほどほどに、なにもかも忘れるような美味しさ、今年は苔のつきもよく、鮎は順調な成育とききました。何と言っても鮎は塩焼きに限ります。かと言って、胸、背、尾、ひれに岩石のように堅く飾り塩をしたのは困ります。せっかくの鮎の香が、あの塩が口の中にまぎれこんだ瞬間、苦虫を食いつぶしたかのような始末になってやりきれません。魚と塩のかね合いは、鮎に限らずすべては持ちつ持たれつのほどよさが決定するのではないでしょうか。”

     
                                                          (瓢亭のたたずまい)

”6月の末、亀岡から船に乗って保津川をくだりました。急に鮎が食べたくなって嵯峨の吉兆さんの玄関に立ちました。。・・・梅雨の中晴れとはいえ、のしかかるような空気の重さを一刀両断するかのような前菜の趣向の数々、銀一色の煮物椀、待望の鮎が透きとおる冷たさで、ギヤマンの器の中に細かく砕いた氷の上に涼やかに現れました。酢味噌と合わせ醤油と二種が添えられて、洗いの味の変化の演出でした。飛騨高山の小七輪の中には備長が三つ四つ、網のうえには骨抜きした鮎が二匹じゅうじゅう焼けながらお膳のわきに、蓼酢は定法、頭から尻尾まで食べられました。・・・”

 (胡瓜)”ビニールハウスつくりの促成栽培胡瓜が終わると、露地ものの半白が回り始め、追いつくように余蒔の地這が出回ります。私の畑の余蒔の地這も無事に成長を続けています。朝見たときには親指くらいの太さのいが、夕方には大きくなりすぎることがあります。大慌てではさみを入れます。ばんぱちに実の入った太い胡瓜は皮をむいて、種をとり、煮ることにしております。・・・子どもたちに夏の昼食に食べさせる「煮サラダ」と名付けているものがあります。材料はベーコンににんにく、月桂樹の葉、玉ねぎ、人参、胡瓜、茄子、ピーマン、どじょうインゲン、トマト。以上を山のように用意します。まず厚手の鍋でベーコンを弱火で炒めて油を十分出します。にんにくを加え、火が通ったらサラダ油を加え、トマトだけ後にして野菜全部を切っていれます。水は一滴も使いません。弱火にしておくと野菜からそれぞれ水が出て、たいそう具合がよいことになります。六分通り野菜が煮えてとき、塩コショウ、化学調味料で味をととのえ、最後にトマトを加えます。すべての野菜がほたほたに煮えたら、鍋を火からおろす直前に、酢を少量かけて鍋回しをします。材料と調味がほとんどサラダと同じなので煮サラダと名づけたのです”

  (余談)胡瓜は生で金山寺味噌をつけて食べるくらい。余り、煮るというようなことは聞いたことがない。ところが、知人に聞いてみると、富山では、胡瓜のお味噌汁が昔から出されているとか。丸に切った胡瓜と玉ねぎを出汁にいれて、お味噌を加えるだけ。やって見たくなった。


 (新牛蒡、新玉ねぎ)”新ごぼうが柔らかく、香り高いのも初夏の味です。香を歯ごたえで楽しむためには、笹がきごぼうの水をきって、胡麻醤油をかけ、花かつをかけていただくのが一番よいでしょう。”

 ”新キャベツが出回ると次が新玉ねぎです。薄切りを水にさらし、花かつおとおしたじで頂いたり、サラダにするのはみなさまご存知の通り。新玉ねぎを丸のまま、四、五個、キューブ一個(マギー)をカップ四杯の割合の水で一緒にことこと煮続けます。一時間以上。塩で最後の味を調え、白ぶどう酒、シェリー酒または日本酒をいれて出来上がりです。ぽっこりほったり、丸のままの玉ねぎを匙ですくいながら吸い上げます。 

       (余談)玉ねぎと言えば、葉たまねぎもいいですね。この葉をすき焼きなどに入れて煮ると、そのうまいことうまいこと。それから淡路島の新鮮な玉ねぎ、これを少し厚めに輪切りにして、バターで焼く。玉ねぎステーキに、ちょっぴり醤油をたらせば、人生の幸せを感じるような美味しさです。  


  <秋>

 (栗)栗は丹波の中生(なかて)、銀寄が大きさ、形、味ともによいのではないでしょうか?栗ご飯は申すに及ばず、栗おこわは一段とよろしいものです。・・・・20数年前ある風流な方のお宅で見事な渋皮煮をご馳走になりました。うっすらと白砂糖の化粧をして、初霜と銘されて出されました。器の竹籠に、黄葉しかけた栗の葉があしらってあったのも心憎いばかりでした。それ以来”渋皮煮”に取りつかれました。”

          

(と、云うわけで著者は渋皮煮に取りつかれま、いろいろ研究をされて、ついに工夫をこらした作り方を考え出しました。まず原料の栗は、9月10日から中旬頃のものを最上とする。その理由は、虫の出ない前のもの、つまり防虫加工をしないものであること。次にアク抜は必ず藁灰のアク水を使っています。この藁灰の上水で弱火で煮ることなどです。その後のことは省きますが、そこらのクックパッドなどのレシピとは手のかけ方が違います。)”


 (人参)”人参は東西を問わず国際的なお野菜で、有色野菜、カロチンを含む栄養価の高いものですね。台所の野菜かごには年間通して赤い姿のにんじんがあるわけです。子供の頃の生命力あふれる時は身体が要求しないためか、子供に好かれないのが人参で、年をとるにしたがい、人参が好きになるのも妙です。若いのに人参好きは助平とか今の方は知りますまい。 さて私は毎朝人参を一本、リンゴ(紅玉)を半個おろし金でおろして、布袋で絞り、人参ジュースにして飲んでいます。心臓の弱い者にはたいそうよいと聞きましたから。”


 (揚出し、茄子の丸揚げ)”揚出し。夏の間、口当たりのよい冷奴、滝川豆腐、ごま豆腐などを存分に召し上がったことと思います。九月ともなったら、お豆腐も揚出しと趣向を変えてみたら如何でしょう。木綿豆腐一丁を三つか四つに切って、乾いたふきんの水を吸い取らせ、胡麻油三にサラダ油七の割合の油でさっと揚げるだけです。一切れ揚げるのに片側30秒づつ、都合一分間くらいがちょうどよい加減です。揚げ過ぎぬよう、豆腐の表面がやや淡い黄金色になろうかな、というのが限度です。生醤油をかけて食べるのが身上ですが、薬味に細かい心遣いをすることで揚出しの値打ちが上がります。花かつおにさらし葱、おろし生姜にさらし葱、茗荷の子に花かつおなど、七色もまた乙です。”

”茄子の丸揚げ。油を使うついでに、お昼ごはんのお惣菜に茄子の丸揚げをおすすめいたします。秋の深まるにつれ、茄子の肌理が細かになって甘みを含んできます。ヘタをつけたまま水洗いをして、ふきんで水を拭き取りながら竹串を2本持って茄子の表面をぶつぶつ突っつき、油の中へくぐらせます。茄子の皮がパンクすると油がはねるからです。一度に七、八個は揚げられるでしょう。揚がるとぷうっとふくれあがり、油からだすとシューッとしぼみます。揚げたてのあつあつを、おろし生姜と生醤油でいただくのです。菊の葉や穂じそ、茗荷の子にごく薄い衣をつけて揚げるのも、また初秋の楽しみで、菊の葉の香、穂じその歯ごたえ、茗荷のしなやかさ、どれもこれも捨てがたい風味です。”




 <冬>

 (大根)”昨年は大根一本百円の値がでました。大根が高いので、葉の先からしっぽの末まで食べる工夫をしています。ことに大根の葉の栄養価の高いことは、白い部分の幾倍と聞いては、とてものことに捨てることはできません。
 青い葉の部分をしごいて、さっと湯通しをして、細かく刻ん塩味をして菜めしにしましょう。茎の部分は糠味噌に入れたり、刻んで大根のしっぽや皮を混ぜて大阪漬けにします。青い葉を温度の低い油で真青にからりと揚げて箸で細かくつぶし、大根おろしに混ぜあわせ、二杯酢または三杯酢で和えます。酢はゆず、レモン、すだちなどを使えば理想的な栄養食になります。(パセリやセロリの葉も同様にできます) 葉も茎もともに細かくきざみ、胡麻油で炒め、砂糖、醤油でやや濃い目に味付けをしてからからに煎りつけ、七味唐辛子をふりかけると、温かいご飯にうってつけで、まことに食欲をそそります。

   (余談)池波正太郎の『仕掛け人藤枝梅安』のシリーズの中には、食べものについて梅安と彦次郎が話し合う箇所がいくども出てくる。今の季節は真冬なので、大根鍋を二種紹介しておくことにしよう。

    ”火鉢に小鍋がかけられる。昆布をしいた湯のなかへ、厚めに切った大根が、もう煮えかかっていた。これを小皿にとり、醤油をたらして食べる。何の手数もかけぬものだが、大根さえよろしければ、こうして食べるのが梅安は大好物であった。

    ”「梅安さん。酒を買ってきたよ。」「それはすまねえ。もうじきに終わる、そこの炬燵へ入って「いてくれぬか」「いや、酒の支度をしよう」「そうかえ、ではやってもらおうかね。ついでに、そうだ。彦さんなら大丈夫だろうから、ひとつね、うす味の出汁をたっぷりと、とってくれぬか。」「何をするんだね」「大根を煮ながら食おう。そのつもりでね」 
 台所へ入ってきた彦次郎が、「こいつは豪勢な。昆布から味醂まである」台所で器用に働く出した彦次郎へ、梅安が居間から、「今日はどこへ行って来たね?」「女房・子の墓参りに、ね・・・」・・・・

 とっぷり暮れてから、梅安と彦次郎は、居間の長火鉢へ土鍋をかけ、これに出汁を張った。ざるに、大根を千六本に刻んだのを山盛りにし、別のざるには浅蜊のむき身が入っている。出汁が煮えてくると、梅安は大根の千六本をてづかみで入れ、浅蜊もいれた。きざんだ大根はすぐ煮えあがる。それを浅蜊とともに引きあげて小皿に取り、七色とうがらしを振って、二人とも、汁と一緒にふうふう云いながら口に運んだ。
 「うめえね。梅安さん。「冬が来ると、こいつ、いいものだよ」酒は茶碗でのむ。
「ああ、ずいぶんとのんだ」「飯にするかえ?」「ああ、そうしよう」「今夜は泊まっておゆき」「そうさせてもらってえね」
 それから二人は、炊きたての飯へ、大根と浅蜊の汁をたっぷりかけ、さらさらと掻き込むようにして食べた。香の物も大根である。・・・箸をとめて、藤枝梅安が、「とうとう、白いものが落ちてきたようだね」と云った。

    (余談)大根の煮たのは筆者も大好きです。ことに、”おでん”。輪切りに分厚く切ったものを、長い間出汁で炊く。大阪駅の近くにある新梅田食堂街。その(たこ梅)のおでんは、どれも一品だ。大根はようく味がしみて、白鹿の熱燗をやりながら、ふううふう言って食べるのはたまらない! 銀杏のおでんまである。ころもある!

          ”熱燗やちろりがありてころがあり” (ゆらぎ)・・・2006年の句。まさにこの光景が出現しています。ちろりは、錫の酒器。


 (小かぶ)(関東で主に生産される金町小蕪について書かれている。葉も柔らかて全部食べられる。では近畿地方で売られている小蕪はどのようなものであろうか? クックパッドなどにレシピが紹介されているところをみると、葉も食べられる小蕪がわたしたちのところでも手に入るのいではないか。その前提で、以下の文を紹介することにした)

 ”小かぶで煮物をしてみましょう。小かぶの茎を2センチほどつけて皮をむきます。茎と葉はよく洗って4~5センチの長さに切りそろえます。出汁は鰹節と昆布で濃い目にとれば上々です。鍋に葉つきのほうが上がわになるように並べます。出汁一、味醂四分の意一、醤油八分の一、塩少々、科学調味料で味付けをしえ、かぶがひたひたになるほど加え、中火で煮始めます。かぶに三分通り火が通ったとみたら茎と葉を加え、やわらかくなるまで煮つづけます。火が通ったら、酒粕を一握り、半カップの煮汁で溶いて加え、3~4分煮て火をとめます。ゆずの皮を細長く切って天盛りに添えます。煮汁はたっぷりかけてください。酒粕の代わりに西京味噌を使って白味噌にするのも喜ばれます。ただし白味噌は甘いので、味醂の代わりにお酒を使うように。小かぶの香味漬けも酒によし、ご飯によしで、なかなか重宝です。

 (ゆづ)”ゆづの木は、実ゆづの木と花ゆづの木がありますが、花ゆづのほうが味がいいように思います。ゆづの花の香は、5月の頃胸に深くしみわたり、なんともすがすがしいもので、花が鈴なりに咲くので間引くつもりで七分咲きくらいのものをちぎって、味噌汁、おすましに浮かべましょう。豆腐、焼き麩、あさりなど何でもないお清汁一輪の花ゆづでとても楽しくなります。

 ゆづは不思議な柑橘類で、年末までは皮も中身も張り切っていますが、、年を越すと、中身の汁が日に日に減って、薄皮や綿(表皮のうちがわ)がぽったりしてきます。こんな状態になったら、ゆづが最高に美味しいのをご存知ですか?つゆゆ気がなくなって、綿が分厚くホクホクししはじめたら、いろいろの保存法が始まります。まず第一に、そのまま二つに切り、さらに薄く薄く切って、種を取りさり、小鉢に盛ってグラニュー糖を小さじ二杯くらい、醤油を二三滴かけて、箸でよく混ぜてください。ねっとりしますのでそのまま食べてください。ゆづ、そのものずばり! こんな美味しい食べかたはまたとありますまい。ご飯によし、酒の肴によし、はじめて召し上がる方はびっくりします。また、蜂蜜につけてトーストにのせるのもよし、夜長の飲み物に熱湯をいれるのもよいものです。薄切りにして、ザラメを加えジャムにして保存します。”



 (白酢和え)(実は白和えがやや苦手な私である。出されてもあまり手が出ない。ヘンナやつとお思いでしょうが、仕方がない。ところがこの『料理歳時記』に白酢和えというのがでてきた。これは白和えの衣に酢を加えて、やわらかにとろりとしたものと、ある。それで、これを自分でつくって味を試してみようと思った次第である。辰巳さんのるる語られるところを読んでみると、なにか魅力がでてきたようである)
 
 ”豆腐は熱湯で静かに火を通します。決してがたがた煮立ててはなりません。火が通ったら、ふきんに包んで板の間に挟んで重石をおき、耳たぶほどの固さにしぼります。胡麻は香ばしく煎り、味噌状になるまでよく摺り、すり胡麻の倍ほどの白味噌を加え、豆腐を入れて、ネチネチすり鉢にすりこぎが吸い付くまでよくすり合わせ、味醂、砂糖、酢で味付けをして、とろりとなればいいのです。ほんの少量の塩、または二三滴の醤油をお忘れにならぬよう。
 大根と人参をこまかく刻み、ぱらりと塩をふりかけて、しんなりしたら、さっと水洗いして固く絞り、しいたけの薄切りにうすく下味をつけたものと合い混ぜにするのです。また、長ねぎの白い部分をしらが葱に刻み、、水にさらして、パリッとさせ十分の水気をきって、こんもりと小鉢に盛りつけ白酢を加えるのもよろしい”


   (余談)・・・・と、書いてきたのですがまだ十分に理解する至っておりません。 今すこし、研究の上、試食して、いずれ「余滴」としてご報告します。この段階では、チャレンジ精神のみ評価ください。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最後に、自分が実際につくったものを、料理といえるほどの「ものではありませんが、ご紹介して終わりといたします。長文お目通しいただきありがとうございました。

 (サーモンと玉ねぎのグレープフルーツあえ)
  スモークサーモンを食べやすく切る。玉ねぎはうすい輪切りにして、ざるに広げて薄塩をする。しんなりしたら、水洗いし、水気をよく拭く。グレープフルーツは袋から身を取り出し、食べやすく小切りにして半つぶしくらいにする。サーモンと玉ねぎを加えて、かる混ぜ、器に盛る。

これはさっぱりとして、口当たりもよく旨いです。白ワインでも飲みましょうか?


そうそう、この「料理手帖」シリーズはまだまだ続ける積りです。種がいくつもあります。料理のレシピが出てくる海外のミステリーがあります。それからお酒の大家にしてグルメの小泉武夫先生の「食あれば楽あり」シリーズ。、、これはずうっとファイルしてあります。また向田邦子の愛した料理などなど・・・。時にふれ、折りにふれ、ご紹介してゆきます。お楽しみに!





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