読書 『天文歳時記』(海部宣男 角川選書 2008年)
これは「星の歳時記」とでも呼ぶべき魅力的な本である。著者は国立天文台長にして電波天文学ならびに赤外線天文学の権威である。専門分野での研究業績もさることながら、星々にまつわる詩歌に造詣が深く、古代から近代にわたるさまざまな星の物語や伝説を引きながら、天文をテーマにした詩歌を紹介して私たちを楽しませてくれる。
天文台というと山頂などの閉じた空間にこもり観測を続けるイメージがある。が、徒然に読む読書量ははんぱではない。天文学の専門家である石田五郎さんも『天文台日記』という本を著しており、ご同様星についての詩歌に通暁しておられる。望遠鏡で星をみていると、ロマンチックになるからであろうか。いずれにしろ、そのお陰で私たちは天文と詩歌の世界に遊ぶことができるのである。以下、四季にわけてこの歳時記の魅力ある部分をご紹介してゆくことにしよう。(”~”マークで原文からの引用を示す)
<新年・春>
(オリオン座の物語)
”新春を飾る星空の王者といえば、なんといっても雄大なオリオン座だ。北斗七星とオリオンは、数ある星座の中でも親しみやすさでは双璧だろう。
”オリオンの盾新しき年に入る” (橋本多佳子)
きりりとしたさわやかさに姿勢を正したくなる、この句。年賀状に借用させてもらったこともある。山口誓子は、彼女を「男の道を行く稀な女流作家の一人」と評した。この句は、新春の宇宙に屹立する巨人・オリオンの姿を浮かび上がらせる。彼はギリシャ神話の半神の猟師、恋多き美男である。その盾は、襲いかかる牡牛座に向けられている。ひと目でそれとわかる三ツ星は巨人の腰のベルト。巨人の右肩に赤く輝くベテルギウス、左足にあたる白色のリゲルという二つの対照的な一等星に加えて、三星のベルトに下げられた短剣(小三ツ星)まで、心憎いほどに道具が揃った端正な星座だ。・・・・
明るい星が多いので、空が明るくなった今の都会でもなんとか親しめるオリオン座は、冬から春までが眺めどきである。”
”現代の天文学では、目に見える可視光だけでなく、波長が長くて眼にはみえない赤外線やもっと波長が長い電波なでで観測する。私も電波天文学を専攻し、眼に見えない電波の宇宙を追いかけてきたが、電波望遠鏡で見える宇宙では眼でみる可視光の宇宙とは違い、星はまったく主役ではない。爆発する銀河とか、暗黒で冷たい宇宙の雲とか、そんな天体から電波はやってくる。電波天文学は、わくわくするような新しい発見に満ちていた。
ところが観測技術が進んで、星など光で見える天体との詳しい対応がついてきたのだ。冷たい宇宙の雲から、星が生まれる。星が輝いて年老いると、爆発して電波を出す。そんなからくりも見えてきた。可視光と電波は、宇宙が織りなすドラマの、違う場面でみていたのである。
そんなドラマを代表するのが、このオリオン座だ。電波でみると巨大な宇宙の雲が集まって星を生み出し、雲の中では生まれかけた星々が微かな赤外線を放っている。集団で生まれた星々は元気に光り輝いて、やがて互いに離れ去って行く。同時に、たくさんの惑星も生まれているらしい。まるで星の誕生の見本市なのである。だからオリオン座の星々は、他の星座のように「偶然近くに見えるが関係のない他人同士」ではない。同じ宇宙の雲から何百何千と生まれて星座を形づくった若い兄弟・姉妹の星々だ。天文学者は新しい望遠鏡をつくると、まずオリオン座に筒先を向ける。・・新春の夜空を彩るオリオン座が私たちに語るのは古代ギリシャより遥かな昔、一千万年の過去から現在まで連綿と続く、星の誕生のドラマである。”
(ゆらぎの独り言)ずいぶんと長い間、月や星を眺めてきたが、それは目に見えるものに限られていた。電波望遠鏡のことなどほとんど知らなかった。しかし宇宙の神秘を探るには電波天文学のさわりくらいは勉強しなければならないと思った。
さらに、序ながら、星座から星像(しし座、牡牛座・・・)のイメージを創り出した古代ギリシャ(?)の人たちの想像力のたくましさには、ほとほと感心する。
(詩人たちの星)天文学がご専門の著者であるが、時にはそこから離れ粋な一節を用意した。題して「恋愛天文学」
”若い頃から愛唱した詩人・佐藤春夫に「恋愛天文学」と題する小品がある。
”われは北斗の星にして 千年(ちとせ)ゆるがぬものなるを
君がこころの天つ日や あしたは東 暮れは西”
中国の子夜という女性が詠んだとされる非常に古い「子夜歌」からの和訳である。私の心は北極星のようにかわらないのに、あなたときたら朝はあの人、暮れはあの人。今も変わらぬ恋人への恨みつらみ。中国の女流詩人の詩を集め「車塵集」としてまとめた中の一編だ。
佐藤春夫よりふたまわりほど若い立原道造は、第一高等学校で天文学を志した。
”夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしいむらに
水引草に風がたち くさひばりの歌いやまない
静まりかえった昼下がりの林道を・・・
夢は真冬の追憶のうちに凍るであろう
そして それは戸をあけて 寂寥の中に
星くづに照らされた道を過ぎ去るであろう
立原道造は、言葉の絶妙な建築家であった。”
(春星うるむ)
”牧の牛濡れて春星満つるかな” (加藤楸邨)
”湿気をふくむ暖かな春の夜も、晴れると底冷えがする。牛の毛が露でしっとり濡れるころ、空には満天の星が煌く。夜目にも緑濃い牧場の時間は、静かに移る。春の夜に誘われ、外へ出て星を見上げると、オリオンがなお西空に輝き、北天高く大きな北斗星がめぐっている。
黄道十二座のふたご座、しし座が中天を横切る。それを追って、乙女座のスピカの純白の光が、東からゆっくり昇ってくる。
”名ある星春星としてみなうるむ” (山口誓子)
春といえば、霞、月はおぼろに、星はうるむ。だが、春の空気の湿度は、夏や秋に比べて決して高くない。特に湿っているわけではないのだ。それに格別、霞んでいるということもない。空気の透明度は4月から9月は似たり寄ったりである。つまり「春霞」や「春のおぼろ」は、春特有の実態というより、冬の透明な空気が春になって霞んでくる、その変化なのである。其の変化を私たち日本人は、暖かくなる、春が来るという喜びとともに感じ取る。それが春霞であり、うるむ星なのだ。”
”春の星座の代表格であるしし座の前足の部分に、昔の中国の星座「酒旗」がある。南の空を東西に長く伸びる海蛇の頭のすぐ北の、めだたない三つの星である。それが作る三角形を、古代中国の人は酒旗とみた。ただし、これは杜牧の「水村、三郭、酒旗の風」の旗ではない。中国の星座が形成された漢の頃(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)、「酒旗」は宴会飲食を司る「酒官」の存在を示す印で、市場を管理する高楼の上に掲げられていたとか。古代中国では酒は神と縁を結ぶための特別なもので、きびしく管理されていた。そのころの「酒旗」は、ちょっといっぱいという気楽な場所ではなかった。とはいえ、何百年も後の唐の時代ともなれば、それが「酒屋の星」になってしまうのも当然の成り行きというもの。李白の「月下独酌」中の一節は、とりわけ有名である。”
”天若し、酒を愛せずんば 酒星は 天に在らざらん、
地若し 酒を愛せずんば 地にはまさに 酒泉なかるべし”
<夏>
(金銀の箔を散らして)
”星の俳句のあまたある中で私が一句あげるなら、やはり
”星空へ店より林檎あふれをり” (橋本多佳子)
である。夜の果物店から路地に流れだす黄色い明かり。山盛りになった林檎。それを包む町並の上には、紺色の空が広がる。華やかでほがらかで、やさしい星空だ。「私の目に浮かぶのは、なぜか南欧の街角」と、私はゴッホの「夜のカフェテラス」の絵を念頭において書いた。(『宇宙をうたう』) 野尻抱影もこの句について、ゴッホの「夜のテラス」の星の名画を連想すると書いている。美人の誉も高かった橋本多佳子は野尻抱影の14歳年下で明治32年生まれ。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「星の俳人」としても知られた山口誓子のもとで星の句もしっかり詠んだ。
万葉集の時代から日本文学をリードした女性たちの文学は、役目と規則にがんじがらめの男どもと違い、人と世界とのこまやかな交感を掘り下げた。詩歌の世界で宇宙を愛で、星に親しむ感覚も、じつはまず女性が開拓してきたものと思っている。そのパイオニアに、たとえば「夕づつ」や「すばる」の美しい詩を残した古代ギリシャの女流詩人、サッポーがいる。日本では「星は、すばる」と、男社会の厳かな星の感覚を引っくりかえしてみせた清少納言、それに平安末期に生きた建礼門院右京太夫をあげたい。
”月をこそながめ馴れしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる”(建礼門院右京大夫)
歌に添えられた詞書にも、率直な驚きが満ちている。嘆きふしていた、秋深いころの夜更け。ふとかけていた布を引きのけてみると、素晴らしい星空だった。月ならば眺め賞するのは習いだったけれど、星の世界がこんなに美しいものだったとは。明るい大きな星が空一面に出て、まるで花をすきこんだ紙に金銀の箔を散らしたよう。これまでも星空は何度もみてきたのに、まるで違った景色のような気がして、吸い込まれそうに見入ってしまった。華やかな宮廷生活も恋人も失ってただ一人嘆き暮らす時間にふと訪れた、星との出会い。それが、星といえば七夕や宮廷でのおごそかな星祭だった八百余年まえの一人の女性に、星空そのものの美しさに眼を開かせることになった。・・・じつは彼女のこの歌も、当時の世には知られていない。120年後の鎌倉末期、勅撰和歌集「玉葉和歌集」に、はじめて載せられた。建礼門院右京太夫を「星のパイオニア」と呼ぶ所以である。その頃から室町にかけて、権威ある歌集もようやく「星を愛でる歌」をのせるようになった。そこでもやはり、活躍したのは女性だったのである。
”星おほみはれたる空は色濃くて吹くとしもなき風ぞ涼しき”(十二位為子 風雅 集)
(消え入りしもの)
”明星派である与謝野晶子は、大いに星の歌を詠んだ。若い頃は比喩的なものがほとんどだが、何と言っても中年に達してからの歌に、実感のこもった星の歌が多い。
”流星も縄跳びすなる子のように優しく見えて川風ぞ吹く”
歌集『深林の香』には星の遺作が24首ある。
”身とこころつねに一つに光るとて星をいみじく思はるるかな”
”飛び去るもみ空の星の本性の一つとすれば人と変わらず”
これは星に託して頼りなく変わりやすい人の心を歌っているが、それはもちろん恋多き鉄幹の心である。一方で晶子の鉄幹への想いは生涯変わることなく熱烈だった。
”明星を目指して青きひとすじの煙ののぼる夏の夕ぐれ”
晶子は彼の天才をふくめ、鉄幹に心底ほれていたのだ。
”むらさきの魚あざやかに鰭ふりて海より来しと君をおもひぬ”
鉄幹に先立たれてからの晶子はとりわけ、鉄幹を思っての心深い歌が多い。星の歌ではないが、最後に一首あげたい。彼女の大きな温かい生命感が伺える。”
”ほのぼのと消え入りしもの帰り来ぬ命と云ふはこれにかあらん”
(ゆらぎの独り言)『千すじの黒髪』という田辺聖子の与謝野晶子伝がある。これを読むと、晶子は心底与謝野鉄幹に惚れ抜いていたことが分かる。鉄幹は、ある意味自分勝手な男である。それでも晶子は彼が死んだ後でも想っていた。やはり
”詩の子、恋の子、ああ悶えの子”である。
(宇宙)
”万有引力とは ひきあう孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめあう
宇宙はどんどん脹らんでゆく それ故みんなは不安である。
二十億光年の孤独に 僕はおもわずくしゃみをした”
”谷川俊太郎の処女歌集『二十億光年の孤独』から。俊太郎は宇宙の中の自分をうたう。自分自身が、宇宙という空間と時間の中に今存在していることの不思議さ不可解さ。二十億光年の言葉が印象的だが、じつはこの詩が書かれた1950年ころ、宇宙の大きさは200億光年だった。つまり、光が届くのに20億年かかるあたりが宇宙の果ではないかと考えられていたのである。ちなみに、太陽から放たれた光が地球に届くのには8分。夜空に輝く恒星の光は、星によって違うがおよそ10年から1000年かけて宇宙を旅してきて、私たちの眼に入る。
星々の彼方には無数の銀河が散らばる。太陽のような恒星が一千億個も集まって渦をなす巨大な天体が銀河だ。遠くの銀河ほど、速い速度で私たちから遠ざかっている。エドウインハッブルが銀河の距離を測定したところ20億光年くらい前にはすべての銀河がひとところに集まっていたという結論が導かれた。これが1930年頃の宇宙膨張の発見である。そこでパロマ山に5メートル望遠鏡の建設が始まった。観測の開始は1984年。このニュースは宇宙の不思議とともにいやがうえにも世間の耳目を集め、若き詩人の心を揺り動かしたに違いない。(注 今では、宇宙膨張の始まりは137億年前とされている)
いっぽう東洋では、二千年余の昔に中国は淮南で編まれた書『淮南子』(えなんじ)には、宇宙の素晴らしい解説がある。”(注 俊太郎が「二十億光年の孤独」を出したのは21歳の時。パロマ山の望遠鏡にニュースは1984年。ちょっと時間的にあわないが、まあ、宇宙スケールということで許しておこう)
”往古来今これを宙をいい、四方上下これを宇という”
過去現在未来すなはち時間のすべてと、空間のすべてとが、宇宙だ。自然は「自然(じねん)」であって、作られたものではない。まさに、現代の天文学が考える宇宙の基本だ。
”宇宙から宇宙に帰る旅半ば” (清水和子)
これは素敵だ。宇宙から宇宙に帰る....そんな気持ちになれたら人生は楽しくいとおしい。地球は宇宙の冷たい暗黒星雲から生まれ、地球で生命が生まれた。そのようにして宇宙からやってきた私たちは、とりあえず地球に帰り、やがて遠い未来には地球とともに宇宙に帰る。その間、何百億年の中のただ一度の旅、私の人生。”
<秋>
”アジアでは星も恋する天の川” (だれの句でしょう?・・・記事の最後で種明かしします)
(伝統的七夕)
”江戸時代の俳諧を眺めていると、実にいきいきと七夕の情景を捉えた句が多いことに驚く。
”大勢で硯をつかふ天の川”
”星さまのささやき給ふけしき哉” (一茶)
”星の恋いざとて月や入り給ふ” (長斉)
”星あひや月入るまでは何の陰” (千代)
江戸時代の七月七日は、新月である一日(月立ちーついたち)から数えて七日目で、ほぼ月齢七日。半月である。七夕の日暮れに半月が中天にかかり、星の光も多少かずむ。けれど後半には月は完全に沈んで、天の川が輝き満天の星々がきらめく星月夜。七夕の夜は、月も星も天の川も楽しめる、最適のシチュエーションだったのである。子供と星空を眺めれば、星を指していろいろ話も出ようというもの。(七夕は、陰暦七月七日、陽暦七月七日では、まだ梅雨のころで季節感が合わない)
”星の名を覚えて空も伽(とぎ)になり” (武玉川)
今も七夕は、保育園や学校で子供に人気の行事である。でも実際に星を眺める機会は、残念ながらあまり訪れない。せめて七夕は自然にあわせ、昔の伝統に帰ってはどうだろう。私はそう提唱して、国立天文台でも旧暦で計算した「伝統的七夕の日」を広く知らせ、梅雨時を避けて星に親しむキャンペーンをすすめている。この夜は、月と星と、そしてできれば天の川を、都会の子どもたちにも見て欲しい。そのために、「伝統的七夕」の夜のライトダウンを、できるところから進めていってはどうか。今、日本の夜空は、人工の光で埋まって明るい。都会の子供は、天の川を見たことがない。年に一度、七夕の夜だけでよい。ライトダウンで、星と天の川を存分に楽しみたい。沖縄の石垣島が全島を挙げて取り組む「伝統的七夕ー南の島の星祭」をはじめ、関心も少しずつだが広がっている。”
(月は変われど)
”平安以後江戸時代にかけての日本は、月を愛でること、こよなき国ではなかっただろうか。
”花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは”
と、早くから清少納言は書いている。満月だけでなく、十六夜/立ち待ち月/居待ち月/寝待月/更待月/宵待月/有明月・・・。と、日毎の月にそれぞれ名前をつけて楽しんだ。月とともに暮らしていた江戸の時代、七夕と並んでお月見は実に盛んだった。金持ちたちはただの月見では飽き足らず、川に船を浮かべて流れに映る月と天上の月をともに楽しんだ。清長描くところの「角田川月見船」では、屋根船に立って月を見上げる美人を描き、次の句が添えられている。”
”名月やけぶりはひ行く水の上” (嵐雪)
”船に寝そべる男の目線はしかし、天の月でもなく水の月でもなく、美人にくぎ付けのようだ。
ところが、万葉集のころは、お月見はまったく登場しない。古代日本では、呪力を持った神のような存在としての月が卓越していた。地球上どの民族もその文化を遡れば、潮の干満を支配し、形の満ち欠けで時の経過を教える月への信仰にゆきあたる。そうした月の力は万葉人には圧倒的だったらしく、『万葉集』には月そのものを愛でる歌はない。月が登場するのはおもに相聞歌。つまり恋の歌だった。魑魅魍魎(ちみもうりょうう)が跋扈(ばっこ)する夜道を妻問いに行くとき、男は呪力のある月の光で守られねばならなかったのである。
”闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや” (紀郎女)
仲秋の月見の風習は、中国・唐の後半期に隆盛を極めた。それが七夕にやや遅れて日本の朝廷にもたらされた結果、月は畏れ敬うものから愛でるものへと変わっていったのである。菅原道真が865年に観月の式宴を催したのが、日本での十五夜の最初だったといわれる。月だけでなく、月の住人も移り変わる。その昔、月は蛙の天下だったが、中国の始祖的な神のひとりである西王母の侍女の嫦娥(じょうが)が不老長寿の仙薬を盗んで月に逃げ、月の仙女となった。月では、今も嫦娥の家来のうさぎが臼をついて仙薬を作っている。日本では、それが餅つきになった。”
”名月やうさぎのわたる諏訪の海” (蕪村)
注)海や湖で白い波頭が走ることを古来「兎が走る」という。
(秋の星空)(星空劇場)
”暑い暑いと言っているうち、いつしか秋の風が立つ。
”星きらきらあすなき秋と照る夜かな” (塊翁)
”秋から冬は、星がよく詠まれる季節である。旧暦の七夕が楽しいスタートで、夕涼みは星に親しむチャンスでもある。乾いて透明感を増す空気。天の川をはじめ、射手座や白鳥座、カシオペア。やがてオリオン座へとつづく豪華な星座である。星月夜といいたくなる明澄な星空も、やはい秋のものだ。”
”星月夜空の高さよ大きさよ” (尚白)
”毎年旧暦の七夕の直前の週末に、沖縄南端にある石垣島(八重山諸島)で楽しいイベントがある。「伝統的七夕ライトダウン 南の島の星祭」である。晴れて月もよい旧暦の七夕の夜、国立天文台のよびかけに石垣市が応えてくれた。港の広場には夕方から屋台がならび、ボランティアで参加する人気バンドの演奏などを楽しむ。夜8時、カウントダウンでいっせいに街のライトが消える。満天の天の川が冴え渡ると、広い芝生を埋めた参加者から、いっせいに歓声があがる。思い思いに芝生に寝転んで、星の解説を聞きながら天の川を堪能するのだ。人気は高まり、参加者は一万人超える。
もちろん昔は、星はどこでもよく見えた。だから星の民話や伝説が世界中で残されている。オーストラリアの先住民アボリジニたちは、天空には創造主ビアメが住み、稲妻の男女やさまざまな星、死んだ部族も暮らす場所と考えていた。
”そしてセブンシスターズが天空を 横切って旅している。
彼女たちは冷たい霜をつくる。平原でキャンプしていると彼女たちの声が
聞こえてくるのだ。天空から眼下を眺め、焚き火を見つける。すると、
「マイ、マイ、マイ」と天空を駆け巡るように叫ぶ・・・”
秋から冬への季節の移り変わり、星と人間のかかわりが伝わる。霜をもたらす「セブンシスターズ」は、もしかして北斗七星ではないか。オーストラリア中南部では秋に当たる4月から5月、北の地平線すれすれに低く、まさに旅人のように東から西に旅するのがみられることがわかった。いわゆる「柄杓」が下を向き、頭を先にゆっくり回ってゆくのを、平原のアボリジニたちは「セブンシスターズ」が天空を横切って旅している」とみたのではないか。もちろんこれは想像にすぎない。いずれ現地で調べてみよう。私の楽しい宿題だ。
”
”ところで中原中也の「山羊の歌」に「秋の夜空」と題する詩がある。おしゃべりに余念がない、秋の夜空の素敵な貴婦人たち。大小色とりどりの星々のさざめき。”
”これはまあ、おにぎはしい、 みんなてんでなこといふ
それでもつれぬみやびさよ いずれ揃って夫人たち
外界は秋の夜といふに、上天界のにぎはしさ
ほんのりあかるい上天界 遠き昔の影祭り
しずかなしずかな賑わしさ
上天界の夜の宴 私は下界で見ていたが 知らないあいだに退散した”
<冬>
(ゴッホの星)
”晩秋から冬にかけて、オリオン座が夜空を圧倒しはじめる。三ツ星を中心とするギリシャ神話の巨人は、夏のさそり座と好一対だ。二つの星座はさそり座が沈むとオリオン座があがり、オリオンが見えなくなる頃サソリが輝くという関係にある。
”オリオンと店の林檎が帰路の栄” (中村草田男)
ちなみにこの句は、橋本多佳子の<星空へ店より林檎あふれおり>を思い出させるが、草田男の句は、多佳子の句より10年ほど早い。”
”ゴッホといえば向日葵、糸杉、麦畑が思い浮かぶが、星もよく描いたことは有名だ。星は微かで絵になりにくいけれど、ゴッホの星は、「星月夜」の絵のように格別明るく、不思議な光を放っている。ある時、「ローヌ川の星月夜」をつくづく眺めていたら、広い川の真上に大きく描かれた星空に、まさしく北斗七星が輝いていることに気づいた。
これは秋の季節と思われる夜景である。もう地中海も近く、ローヌ川は海の入江のように広い。向こう岸には町あかり。川の上は、豪華な星空だ。ひときわ光る七つ星が、ひしゃくを上に向けて横たわる北斗七星である。サンレミ(ゴッホはここの療養所にいた)からローヌ川越しにみた星空を調べてみると、10月はじめ頃なら、夜10時前後の星空にぴったりである。北斗だけではない。ゴッホは星々を、実に正確に写していたらしい。・・・ゴッホは川の上に輝く北斗を描きながら、どの星に行こうと考えていたのだろうか。”
(すばる)
”「星はすばる・・・」と清少納言が書いたのは10世紀末だから、千年前だ。『枕草子』はその理由を語らず、”彦星、夕づづ(太白星)、よばひ星・・・」と書き継ぐが、なぜ清少納言が星の項の筆頭に「すばる」を挙げたかを想像するのは、難しくない。 すばるは、冬の星である。寒い夜半には、中天高く輝いている。英語名では、プレアデス。星の集合ー星団だから、よく目立つ。平安の時代、夜を徹しての宴(星をまつる厳粛な星まつりもあった)や管弦の遊びは貴族にとって欠かせない生活の一部だったから、大宮人たちは現代人よりもずっと星空に親しんできた。すばるは古くから有名な星であり、6~7個の星がきらきらと一所に集まって光るのは、見るからに美しい。星の景として鑑賞するなら、まずすばる、というのは、いかにも女性らしい選択だ。”
”青貝の櫛買うて出づ寒昴” (文挟夫佐恵)
すばるは星がぎゅっと集まった星団だから、一つだけの星とは違い、ほかの星との位置関係を見ないでも、すぐそれと見当がつく。雲の切れ間からでも見分けられる。夜の海上では、舟人のまたとない道標。プレアデスという英語名も、語源はギリシャ語で航海に関係が在るらしいと、野尻抱影は『星の民俗学』で書いている。実体としてのすばるは、たくさんの若い集団だ。一番明るいアルキオーネが、三等星。五つの四等星がそれをとりまき、この六星が見分けやすいので「むつら星」などとも呼ばれる。双眼鏡でみれば、何十もの星が真珠を散らばしたように光って、美しいことこの上ない。地球からの距離は、約4百光年。
2008年にハワイ島マウナケアの山頂に完成した口径8メートルの望遠鏡は、今最高性能の望遠鏡として宇宙の解明に活躍している。この望遠鏡は、公募によって「すばる望遠鏡」と名づけられた。”
(星のおしゃべり)
”冬の星はなんとなく、おごそかに仰ぐ。もちろん冬の寒さ厳しさがそうさせるのではあるが、そればかりではないだろう。古来信仰の対象となってきた北斗七星が、北天にひしゃくの首をかかげる。冬の夜空を圧する巨大なオリオン座の佇まいも荘厳なものだ。
”北斗星四温の水をこぼしけり” (有馬朗人)
日本の太平洋岸の冬は、空気はおおむね乾燥して透明である。冷たく澄んだ夜空に、星々はひときわ鋭く輝きを放つ。
”雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと” (松本たかし)
これはまた、冬の星ながら仲間気分。「星さまのささやきたまふ景色かな」という一茶の句はあるが、星がぺちゃくちゃというのは、この句くらいだろう。雪の道を照らすのは星明かり。おびただしい星がきらきら揺れ動くさまは、なるほど星たちのおしゃべりである。草田男は、星を見て和む気分をこう詠んだ。
”身の幸や雪やや果てて星満つ空” (草田男)
冬の日本では、星の瞬きが夏に比べて格段に大きい。星があんなふうにきらきらチラチラするのは、空気の乱れが風で運ばれながらおこす、揺らぎのせいである。遠い星からはるばる旅をしてきた光だが、地球の大気を通過して地上に達するまでに空気の揺らぎのため方向が絶えず乱され、ふらつく。おかげで、きらめく星の美しさが詩や俳句に詠まれる。美しくはあるが、星のあの瞬きは天文学者には困りものである。星の像はぼやけ、詳しい観測ができない。口径8.2メートルのすばる望遠鏡をマウナケア山頂に作ったのはこのためだ。山頂は空気が薄く、星のまたたきは大変少ない。それこそおびただしい数の星々はじっと光っている。あまりおしゃべりは聞こえてこない。”
”星満つる冬の夜のそら饗宴のごとくありけり廂の間(あひ)に” (宮柊二)
(とき)
”皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝(い)ねかてぬかも”
(笠女郎)
”人々は当時、鐘の音で時刻を知った。「日本書紀」によれば、一日の時刻を知らせる制度をはじめたのは天智天皇だった。「漏刻を新台に置き、始め、候時を打ち、鐘鼓をとどろかす」という。西暦671年4月25日。これが「時の記念日」の根拠ともなった。「漏刻」は水時計で、これに先立つ660年につくられた。中国からの技術によったものだろう。
中国は日本にとって、雲の上の先進国だった。とくに宋から元にかけての技術革新はめざましく、高度な天文観測や時間の計測が行われたことが知られている。実はその最高の実例が、なんと長野県は諏訪の町で見られるのだ。諏訪大社の下社秋宮にほど近い、「諏訪湖・時の科学館、儀像堂」の「水運儀像堂」がそれだ。11世紀に北宋の都・開封でつくられた巨大な自動機械を、当時の記録に基づいて細部まで再現し、実際に動かしてみせる。高さ12メート、四階建ての構造は巨大な時計、カレンダー、天球儀などのすべてをすべて水力で動かし(今は電動)、人形が月日や時刻を知らせたり、天文の観測台も備える。セイコーエプソン社のきもいりで、科学史家の山田慶児さんが復元したものである。東洋の技術を今に伝える貴重な復元である。”
”蕪村に”涼しさや鐘を離るる鐘の声”という句がある。さわやかな早朝、空へ広がってゆく鐘の音を立体的に捉えた。
”時間よおれはおまえに聞くが。おまえの未来はぎらぎら光るか”(草野心平)
現代の時間は変化を孕み(はらみ)、不安にも満ちている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
長い間、長文をお読み頂きありがとうございました。退屈されたかもしれませんね。私自身は記事を書きながら、星のこと星座のこと、またそれらと人々の関わり方などあれこれ勉強をしました。こんなに豊穣な世界があったのかと、著者に改めて感謝する次第です。余談ですが、”アジアでは星も恋する天の川”の句は評論家の丸谷才一の作です。『星のあひびき』という本の冒頭にでてきます。また天の川のイラストは、和田誠さんの作品。
(余滴)『本当の夜を探して』という本があります。2016年に出版された本ですが、光害(ひかり害)の実情を欧米を中心に広範囲に調べたものです。夜が闇とならず、あまりにも光に照らされ、今では美しい星空を見ることは困難になっています。1989年、日本でも「光害防止条例」という条例が岡山県の美星町で制定されました。このような運動は、その後甲府などへも広がっています。
これは「星の歳時記」とでも呼ぶべき魅力的な本である。著者は国立天文台長にして電波天文学ならびに赤外線天文学の権威である。専門分野での研究業績もさることながら、星々にまつわる詩歌に造詣が深く、古代から近代にわたるさまざまな星の物語や伝説を引きながら、天文をテーマにした詩歌を紹介して私たちを楽しませてくれる。
天文台というと山頂などの閉じた空間にこもり観測を続けるイメージがある。が、徒然に読む読書量ははんぱではない。天文学の専門家である石田五郎さんも『天文台日記』という本を著しており、ご同様星についての詩歌に通暁しておられる。望遠鏡で星をみていると、ロマンチックになるからであろうか。いずれにしろ、そのお陰で私たちは天文と詩歌の世界に遊ぶことができるのである。以下、四季にわけてこの歳時記の魅力ある部分をご紹介してゆくことにしよう。(”~”マークで原文からの引用を示す)
<新年・春>
(オリオン座の物語)
”新春を飾る星空の王者といえば、なんといっても雄大なオリオン座だ。北斗七星とオリオンは、数ある星座の中でも親しみやすさでは双璧だろう。
”オリオンの盾新しき年に入る” (橋本多佳子)
きりりとしたさわやかさに姿勢を正したくなる、この句。年賀状に借用させてもらったこともある。山口誓子は、彼女を「男の道を行く稀な女流作家の一人」と評した。この句は、新春の宇宙に屹立する巨人・オリオンの姿を浮かび上がらせる。彼はギリシャ神話の半神の猟師、恋多き美男である。その盾は、襲いかかる牡牛座に向けられている。ひと目でそれとわかる三ツ星は巨人の腰のベルト。巨人の右肩に赤く輝くベテルギウス、左足にあたる白色のリゲルという二つの対照的な一等星に加えて、三星のベルトに下げられた短剣(小三ツ星)まで、心憎いほどに道具が揃った端正な星座だ。・・・・
明るい星が多いので、空が明るくなった今の都会でもなんとか親しめるオリオン座は、冬から春までが眺めどきである。”
”現代の天文学では、目に見える可視光だけでなく、波長が長くて眼にはみえない赤外線やもっと波長が長い電波なでで観測する。私も電波天文学を専攻し、眼に見えない電波の宇宙を追いかけてきたが、電波望遠鏡で見える宇宙では眼でみる可視光の宇宙とは違い、星はまったく主役ではない。爆発する銀河とか、暗黒で冷たい宇宙の雲とか、そんな天体から電波はやってくる。電波天文学は、わくわくするような新しい発見に満ちていた。
ところが観測技術が進んで、星など光で見える天体との詳しい対応がついてきたのだ。冷たい宇宙の雲から、星が生まれる。星が輝いて年老いると、爆発して電波を出す。そんなからくりも見えてきた。可視光と電波は、宇宙が織りなすドラマの、違う場面でみていたのである。
そんなドラマを代表するのが、このオリオン座だ。電波でみると巨大な宇宙の雲が集まって星を生み出し、雲の中では生まれかけた星々が微かな赤外線を放っている。集団で生まれた星々は元気に光り輝いて、やがて互いに離れ去って行く。同時に、たくさんの惑星も生まれているらしい。まるで星の誕生の見本市なのである。だからオリオン座の星々は、他の星座のように「偶然近くに見えるが関係のない他人同士」ではない。同じ宇宙の雲から何百何千と生まれて星座を形づくった若い兄弟・姉妹の星々だ。天文学者は新しい望遠鏡をつくると、まずオリオン座に筒先を向ける。・・新春の夜空を彩るオリオン座が私たちに語るのは古代ギリシャより遥かな昔、一千万年の過去から現在まで連綿と続く、星の誕生のドラマである。”
(ゆらぎの独り言)ずいぶんと長い間、月や星を眺めてきたが、それは目に見えるものに限られていた。電波望遠鏡のことなどほとんど知らなかった。しかし宇宙の神秘を探るには電波天文学のさわりくらいは勉強しなければならないと思った。
さらに、序ながら、星座から星像(しし座、牡牛座・・・)のイメージを創り出した古代ギリシャ(?)の人たちの想像力のたくましさには、ほとほと感心する。
(詩人たちの星)天文学がご専門の著者であるが、時にはそこから離れ粋な一節を用意した。題して「恋愛天文学」
”若い頃から愛唱した詩人・佐藤春夫に「恋愛天文学」と題する小品がある。
”われは北斗の星にして 千年(ちとせ)ゆるがぬものなるを
君がこころの天つ日や あしたは東 暮れは西”
中国の子夜という女性が詠んだとされる非常に古い「子夜歌」からの和訳である。私の心は北極星のようにかわらないのに、あなたときたら朝はあの人、暮れはあの人。今も変わらぬ恋人への恨みつらみ。中国の女流詩人の詩を集め「車塵集」としてまとめた中の一編だ。
佐藤春夫よりふたまわりほど若い立原道造は、第一高等学校で天文学を志した。
”夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしいむらに
水引草に風がたち くさひばりの歌いやまない
静まりかえった昼下がりの林道を・・・
夢は真冬の追憶のうちに凍るであろう
そして それは戸をあけて 寂寥の中に
星くづに照らされた道を過ぎ去るであろう
立原道造は、言葉の絶妙な建築家であった。”
(春星うるむ)
”牧の牛濡れて春星満つるかな” (加藤楸邨)
”湿気をふくむ暖かな春の夜も、晴れると底冷えがする。牛の毛が露でしっとり濡れるころ、空には満天の星が煌く。夜目にも緑濃い牧場の時間は、静かに移る。春の夜に誘われ、外へ出て星を見上げると、オリオンがなお西空に輝き、北天高く大きな北斗星がめぐっている。
黄道十二座のふたご座、しし座が中天を横切る。それを追って、乙女座のスピカの純白の光が、東からゆっくり昇ってくる。
”名ある星春星としてみなうるむ” (山口誓子)
春といえば、霞、月はおぼろに、星はうるむ。だが、春の空気の湿度は、夏や秋に比べて決して高くない。特に湿っているわけではないのだ。それに格別、霞んでいるということもない。空気の透明度は4月から9月は似たり寄ったりである。つまり「春霞」や「春のおぼろ」は、春特有の実態というより、冬の透明な空気が春になって霞んでくる、その変化なのである。其の変化を私たち日本人は、暖かくなる、春が来るという喜びとともに感じ取る。それが春霞であり、うるむ星なのだ。”
”春の星座の代表格であるしし座の前足の部分に、昔の中国の星座「酒旗」がある。南の空を東西に長く伸びる海蛇の頭のすぐ北の、めだたない三つの星である。それが作る三角形を、古代中国の人は酒旗とみた。ただし、これは杜牧の「水村、三郭、酒旗の風」の旗ではない。中国の星座が形成された漢の頃(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)、「酒旗」は宴会飲食を司る「酒官」の存在を示す印で、市場を管理する高楼の上に掲げられていたとか。古代中国では酒は神と縁を結ぶための特別なもので、きびしく管理されていた。そのころの「酒旗」は、ちょっといっぱいという気楽な場所ではなかった。とはいえ、何百年も後の唐の時代ともなれば、それが「酒屋の星」になってしまうのも当然の成り行きというもの。李白の「月下独酌」中の一節は、とりわけ有名である。”
”天若し、酒を愛せずんば 酒星は 天に在らざらん、
地若し 酒を愛せずんば 地にはまさに 酒泉なかるべし”
<夏>
(金銀の箔を散らして)
”星の俳句のあまたある中で私が一句あげるなら、やはり
”星空へ店より林檎あふれをり” (橋本多佳子)
である。夜の果物店から路地に流れだす黄色い明かり。山盛りになった林檎。それを包む町並の上には、紺色の空が広がる。華やかでほがらかで、やさしい星空だ。「私の目に浮かぶのは、なぜか南欧の街角」と、私はゴッホの「夜のカフェテラス」の絵を念頭において書いた。(『宇宙をうたう』) 野尻抱影もこの句について、ゴッホの「夜のテラス」の星の名画を連想すると書いている。美人の誉も高かった橋本多佳子は野尻抱影の14歳年下で明治32年生まれ。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「星の俳人」としても知られた山口誓子のもとで星の句もしっかり詠んだ。
万葉集の時代から日本文学をリードした女性たちの文学は、役目と規則にがんじがらめの男どもと違い、人と世界とのこまやかな交感を掘り下げた。詩歌の世界で宇宙を愛で、星に親しむ感覚も、じつはまず女性が開拓してきたものと思っている。そのパイオニアに、たとえば「夕づつ」や「すばる」の美しい詩を残した古代ギリシャの女流詩人、サッポーがいる。日本では「星は、すばる」と、男社会の厳かな星の感覚を引っくりかえしてみせた清少納言、それに平安末期に生きた建礼門院右京太夫をあげたい。
”月をこそながめ馴れしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる”(建礼門院右京大夫)
歌に添えられた詞書にも、率直な驚きが満ちている。嘆きふしていた、秋深いころの夜更け。ふとかけていた布を引きのけてみると、素晴らしい星空だった。月ならば眺め賞するのは習いだったけれど、星の世界がこんなに美しいものだったとは。明るい大きな星が空一面に出て、まるで花をすきこんだ紙に金銀の箔を散らしたよう。これまでも星空は何度もみてきたのに、まるで違った景色のような気がして、吸い込まれそうに見入ってしまった。華やかな宮廷生活も恋人も失ってただ一人嘆き暮らす時間にふと訪れた、星との出会い。それが、星といえば七夕や宮廷でのおごそかな星祭だった八百余年まえの一人の女性に、星空そのものの美しさに眼を開かせることになった。・・・じつは彼女のこの歌も、当時の世には知られていない。120年後の鎌倉末期、勅撰和歌集「玉葉和歌集」に、はじめて載せられた。建礼門院右京太夫を「星のパイオニア」と呼ぶ所以である。その頃から室町にかけて、権威ある歌集もようやく「星を愛でる歌」をのせるようになった。そこでもやはり、活躍したのは女性だったのである。
”星おほみはれたる空は色濃くて吹くとしもなき風ぞ涼しき”(十二位為子 風雅 集)
(消え入りしもの)
”明星派である与謝野晶子は、大いに星の歌を詠んだ。若い頃は比喩的なものがほとんどだが、何と言っても中年に達してからの歌に、実感のこもった星の歌が多い。
”流星も縄跳びすなる子のように優しく見えて川風ぞ吹く”
歌集『深林の香』には星の遺作が24首ある。
”身とこころつねに一つに光るとて星をいみじく思はるるかな”
”飛び去るもみ空の星の本性の一つとすれば人と変わらず”
これは星に託して頼りなく変わりやすい人の心を歌っているが、それはもちろん恋多き鉄幹の心である。一方で晶子の鉄幹への想いは生涯変わることなく熱烈だった。
”明星を目指して青きひとすじの煙ののぼる夏の夕ぐれ”
晶子は彼の天才をふくめ、鉄幹に心底ほれていたのだ。
”むらさきの魚あざやかに鰭ふりて海より来しと君をおもひぬ”
鉄幹に先立たれてからの晶子はとりわけ、鉄幹を思っての心深い歌が多い。星の歌ではないが、最後に一首あげたい。彼女の大きな温かい生命感が伺える。”
”ほのぼのと消え入りしもの帰り来ぬ命と云ふはこれにかあらん”
(ゆらぎの独り言)『千すじの黒髪』という田辺聖子の与謝野晶子伝がある。これを読むと、晶子は心底与謝野鉄幹に惚れ抜いていたことが分かる。鉄幹は、ある意味自分勝手な男である。それでも晶子は彼が死んだ後でも想っていた。やはり
”詩の子、恋の子、ああ悶えの子”である。
(宇宙)
”万有引力とは ひきあう孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめあう
宇宙はどんどん脹らんでゆく それ故みんなは不安である。
二十億光年の孤独に 僕はおもわずくしゃみをした”
”谷川俊太郎の処女歌集『二十億光年の孤独』から。俊太郎は宇宙の中の自分をうたう。自分自身が、宇宙という空間と時間の中に今存在していることの不思議さ不可解さ。二十億光年の言葉が印象的だが、じつはこの詩が書かれた1950年ころ、宇宙の大きさは200億光年だった。つまり、光が届くのに20億年かかるあたりが宇宙の果ではないかと考えられていたのである。ちなみに、太陽から放たれた光が地球に届くのには8分。夜空に輝く恒星の光は、星によって違うがおよそ10年から1000年かけて宇宙を旅してきて、私たちの眼に入る。
星々の彼方には無数の銀河が散らばる。太陽のような恒星が一千億個も集まって渦をなす巨大な天体が銀河だ。遠くの銀河ほど、速い速度で私たちから遠ざかっている。エドウインハッブルが銀河の距離を測定したところ20億光年くらい前にはすべての銀河がひとところに集まっていたという結論が導かれた。これが1930年頃の宇宙膨張の発見である。そこでパロマ山に5メートル望遠鏡の建設が始まった。観測の開始は1984年。このニュースは宇宙の不思議とともにいやがうえにも世間の耳目を集め、若き詩人の心を揺り動かしたに違いない。(注 今では、宇宙膨張の始まりは137億年前とされている)
いっぽう東洋では、二千年余の昔に中国は淮南で編まれた書『淮南子』(えなんじ)には、宇宙の素晴らしい解説がある。”(注 俊太郎が「二十億光年の孤独」を出したのは21歳の時。パロマ山の望遠鏡にニュースは1984年。ちょっと時間的にあわないが、まあ、宇宙スケールということで許しておこう)
”往古来今これを宙をいい、四方上下これを宇という”
過去現在未来すなはち時間のすべてと、空間のすべてとが、宇宙だ。自然は「自然(じねん)」であって、作られたものではない。まさに、現代の天文学が考える宇宙の基本だ。
”宇宙から宇宙に帰る旅半ば” (清水和子)
これは素敵だ。宇宙から宇宙に帰る....そんな気持ちになれたら人生は楽しくいとおしい。地球は宇宙の冷たい暗黒星雲から生まれ、地球で生命が生まれた。そのようにして宇宙からやってきた私たちは、とりあえず地球に帰り、やがて遠い未来には地球とともに宇宙に帰る。その間、何百億年の中のただ一度の旅、私の人生。”
<秋>
”アジアでは星も恋する天の川” (だれの句でしょう?・・・記事の最後で種明かしします)
(伝統的七夕)
”江戸時代の俳諧を眺めていると、実にいきいきと七夕の情景を捉えた句が多いことに驚く。
”大勢で硯をつかふ天の川”
”星さまのささやき給ふけしき哉” (一茶)
”星の恋いざとて月や入り給ふ” (長斉)
”星あひや月入るまでは何の陰” (千代)
江戸時代の七月七日は、新月である一日(月立ちーついたち)から数えて七日目で、ほぼ月齢七日。半月である。七夕の日暮れに半月が中天にかかり、星の光も多少かずむ。けれど後半には月は完全に沈んで、天の川が輝き満天の星々がきらめく星月夜。七夕の夜は、月も星も天の川も楽しめる、最適のシチュエーションだったのである。子供と星空を眺めれば、星を指していろいろ話も出ようというもの。(七夕は、陰暦七月七日、陽暦七月七日では、まだ梅雨のころで季節感が合わない)
”星の名を覚えて空も伽(とぎ)になり” (武玉川)
今も七夕は、保育園や学校で子供に人気の行事である。でも実際に星を眺める機会は、残念ながらあまり訪れない。せめて七夕は自然にあわせ、昔の伝統に帰ってはどうだろう。私はそう提唱して、国立天文台でも旧暦で計算した「伝統的七夕の日」を広く知らせ、梅雨時を避けて星に親しむキャンペーンをすすめている。この夜は、月と星と、そしてできれば天の川を、都会の子どもたちにも見て欲しい。そのために、「伝統的七夕」の夜のライトダウンを、できるところから進めていってはどうか。今、日本の夜空は、人工の光で埋まって明るい。都会の子供は、天の川を見たことがない。年に一度、七夕の夜だけでよい。ライトダウンで、星と天の川を存分に楽しみたい。沖縄の石垣島が全島を挙げて取り組む「伝統的七夕ー南の島の星祭」をはじめ、関心も少しずつだが広がっている。”
(月は変われど)
”平安以後江戸時代にかけての日本は、月を愛でること、こよなき国ではなかっただろうか。
”花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは”
と、早くから清少納言は書いている。満月だけでなく、十六夜/立ち待ち月/居待ち月/寝待月/更待月/宵待月/有明月・・・。と、日毎の月にそれぞれ名前をつけて楽しんだ。月とともに暮らしていた江戸の時代、七夕と並んでお月見は実に盛んだった。金持ちたちはただの月見では飽き足らず、川に船を浮かべて流れに映る月と天上の月をともに楽しんだ。清長描くところの「角田川月見船」では、屋根船に立って月を見上げる美人を描き、次の句が添えられている。”
”名月やけぶりはひ行く水の上” (嵐雪)
”船に寝そべる男の目線はしかし、天の月でもなく水の月でもなく、美人にくぎ付けのようだ。
ところが、万葉集のころは、お月見はまったく登場しない。古代日本では、呪力を持った神のような存在としての月が卓越していた。地球上どの民族もその文化を遡れば、潮の干満を支配し、形の満ち欠けで時の経過を教える月への信仰にゆきあたる。そうした月の力は万葉人には圧倒的だったらしく、『万葉集』には月そのものを愛でる歌はない。月が登場するのはおもに相聞歌。つまり恋の歌だった。魑魅魍魎(ちみもうりょうう)が跋扈(ばっこ)する夜道を妻問いに行くとき、男は呪力のある月の光で守られねばならなかったのである。
”闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや” (紀郎女)
仲秋の月見の風習は、中国・唐の後半期に隆盛を極めた。それが七夕にやや遅れて日本の朝廷にもたらされた結果、月は畏れ敬うものから愛でるものへと変わっていったのである。菅原道真が865年に観月の式宴を催したのが、日本での十五夜の最初だったといわれる。月だけでなく、月の住人も移り変わる。その昔、月は蛙の天下だったが、中国の始祖的な神のひとりである西王母の侍女の嫦娥(じょうが)が不老長寿の仙薬を盗んで月に逃げ、月の仙女となった。月では、今も嫦娥の家来のうさぎが臼をついて仙薬を作っている。日本では、それが餅つきになった。”
”名月やうさぎのわたる諏訪の海” (蕪村)
注)海や湖で白い波頭が走ることを古来「兎が走る」という。
(秋の星空)(星空劇場)
”暑い暑いと言っているうち、いつしか秋の風が立つ。
”星きらきらあすなき秋と照る夜かな” (塊翁)
”秋から冬は、星がよく詠まれる季節である。旧暦の七夕が楽しいスタートで、夕涼みは星に親しむチャンスでもある。乾いて透明感を増す空気。天の川をはじめ、射手座や白鳥座、カシオペア。やがてオリオン座へとつづく豪華な星座である。星月夜といいたくなる明澄な星空も、やはい秋のものだ。”
”星月夜空の高さよ大きさよ” (尚白)
”毎年旧暦の七夕の直前の週末に、沖縄南端にある石垣島(八重山諸島)で楽しいイベントがある。「伝統的七夕ライトダウン 南の島の星祭」である。晴れて月もよい旧暦の七夕の夜、国立天文台のよびかけに石垣市が応えてくれた。港の広場には夕方から屋台がならび、ボランティアで参加する人気バンドの演奏などを楽しむ。夜8時、カウントダウンでいっせいに街のライトが消える。満天の天の川が冴え渡ると、広い芝生を埋めた参加者から、いっせいに歓声があがる。思い思いに芝生に寝転んで、星の解説を聞きながら天の川を堪能するのだ。人気は高まり、参加者は一万人超える。
もちろん昔は、星はどこでもよく見えた。だから星の民話や伝説が世界中で残されている。オーストラリアの先住民アボリジニたちは、天空には創造主ビアメが住み、稲妻の男女やさまざまな星、死んだ部族も暮らす場所と考えていた。
”そしてセブンシスターズが天空を 横切って旅している。
彼女たちは冷たい霜をつくる。平原でキャンプしていると彼女たちの声が
聞こえてくるのだ。天空から眼下を眺め、焚き火を見つける。すると、
「マイ、マイ、マイ」と天空を駆け巡るように叫ぶ・・・”
秋から冬への季節の移り変わり、星と人間のかかわりが伝わる。霜をもたらす「セブンシスターズ」は、もしかして北斗七星ではないか。オーストラリア中南部では秋に当たる4月から5月、北の地平線すれすれに低く、まさに旅人のように東から西に旅するのがみられることがわかった。いわゆる「柄杓」が下を向き、頭を先にゆっくり回ってゆくのを、平原のアボリジニたちは「セブンシスターズ」が天空を横切って旅している」とみたのではないか。もちろんこれは想像にすぎない。いずれ現地で調べてみよう。私の楽しい宿題だ。
”
”ところで中原中也の「山羊の歌」に「秋の夜空」と題する詩がある。おしゃべりに余念がない、秋の夜空の素敵な貴婦人たち。大小色とりどりの星々のさざめき。”
”これはまあ、おにぎはしい、 みんなてんでなこといふ
それでもつれぬみやびさよ いずれ揃って夫人たち
外界は秋の夜といふに、上天界のにぎはしさ
ほんのりあかるい上天界 遠き昔の影祭り
しずかなしずかな賑わしさ
上天界の夜の宴 私は下界で見ていたが 知らないあいだに退散した”
<冬>
(ゴッホの星)
”晩秋から冬にかけて、オリオン座が夜空を圧倒しはじめる。三ツ星を中心とするギリシャ神話の巨人は、夏のさそり座と好一対だ。二つの星座はさそり座が沈むとオリオン座があがり、オリオンが見えなくなる頃サソリが輝くという関係にある。
”オリオンと店の林檎が帰路の栄” (中村草田男)
ちなみにこの句は、橋本多佳子の<星空へ店より林檎あふれおり>を思い出させるが、草田男の句は、多佳子の句より10年ほど早い。”
”ゴッホといえば向日葵、糸杉、麦畑が思い浮かぶが、星もよく描いたことは有名だ。星は微かで絵になりにくいけれど、ゴッホの星は、「星月夜」の絵のように格別明るく、不思議な光を放っている。ある時、「ローヌ川の星月夜」をつくづく眺めていたら、広い川の真上に大きく描かれた星空に、まさしく北斗七星が輝いていることに気づいた。
これは秋の季節と思われる夜景である。もう地中海も近く、ローヌ川は海の入江のように広い。向こう岸には町あかり。川の上は、豪華な星空だ。ひときわ光る七つ星が、ひしゃくを上に向けて横たわる北斗七星である。サンレミ(ゴッホはここの療養所にいた)からローヌ川越しにみた星空を調べてみると、10月はじめ頃なら、夜10時前後の星空にぴったりである。北斗だけではない。ゴッホは星々を、実に正確に写していたらしい。・・・ゴッホは川の上に輝く北斗を描きながら、どの星に行こうと考えていたのだろうか。”
(すばる)
”「星はすばる・・・」と清少納言が書いたのは10世紀末だから、千年前だ。『枕草子』はその理由を語らず、”彦星、夕づづ(太白星)、よばひ星・・・」と書き継ぐが、なぜ清少納言が星の項の筆頭に「すばる」を挙げたかを想像するのは、難しくない。 すばるは、冬の星である。寒い夜半には、中天高く輝いている。英語名では、プレアデス。星の集合ー星団だから、よく目立つ。平安の時代、夜を徹しての宴(星をまつる厳粛な星まつりもあった)や管弦の遊びは貴族にとって欠かせない生活の一部だったから、大宮人たちは現代人よりもずっと星空に親しんできた。すばるは古くから有名な星であり、6~7個の星がきらきらと一所に集まって光るのは、見るからに美しい。星の景として鑑賞するなら、まずすばる、というのは、いかにも女性らしい選択だ。”
”青貝の櫛買うて出づ寒昴” (文挟夫佐恵)
すばるは星がぎゅっと集まった星団だから、一つだけの星とは違い、ほかの星との位置関係を見ないでも、すぐそれと見当がつく。雲の切れ間からでも見分けられる。夜の海上では、舟人のまたとない道標。プレアデスという英語名も、語源はギリシャ語で航海に関係が在るらしいと、野尻抱影は『星の民俗学』で書いている。実体としてのすばるは、たくさんの若い集団だ。一番明るいアルキオーネが、三等星。五つの四等星がそれをとりまき、この六星が見分けやすいので「むつら星」などとも呼ばれる。双眼鏡でみれば、何十もの星が真珠を散らばしたように光って、美しいことこの上ない。地球からの距離は、約4百光年。
2008年にハワイ島マウナケアの山頂に完成した口径8メートルの望遠鏡は、今最高性能の望遠鏡として宇宙の解明に活躍している。この望遠鏡は、公募によって「すばる望遠鏡」と名づけられた。”
(星のおしゃべり)
”冬の星はなんとなく、おごそかに仰ぐ。もちろん冬の寒さ厳しさがそうさせるのではあるが、そればかりではないだろう。古来信仰の対象となってきた北斗七星が、北天にひしゃくの首をかかげる。冬の夜空を圧する巨大なオリオン座の佇まいも荘厳なものだ。
”北斗星四温の水をこぼしけり” (有馬朗人)
日本の太平洋岸の冬は、空気はおおむね乾燥して透明である。冷たく澄んだ夜空に、星々はひときわ鋭く輝きを放つ。
”雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと” (松本たかし)
これはまた、冬の星ながら仲間気分。「星さまのささやきたまふ景色かな」という一茶の句はあるが、星がぺちゃくちゃというのは、この句くらいだろう。雪の道を照らすのは星明かり。おびただしい星がきらきら揺れ動くさまは、なるほど星たちのおしゃべりである。草田男は、星を見て和む気分をこう詠んだ。
”身の幸や雪やや果てて星満つ空” (草田男)
冬の日本では、星の瞬きが夏に比べて格段に大きい。星があんなふうにきらきらチラチラするのは、空気の乱れが風で運ばれながらおこす、揺らぎのせいである。遠い星からはるばる旅をしてきた光だが、地球の大気を通過して地上に達するまでに空気の揺らぎのため方向が絶えず乱され、ふらつく。おかげで、きらめく星の美しさが詩や俳句に詠まれる。美しくはあるが、星のあの瞬きは天文学者には困りものである。星の像はぼやけ、詳しい観測ができない。口径8.2メートルのすばる望遠鏡をマウナケア山頂に作ったのはこのためだ。山頂は空気が薄く、星のまたたきは大変少ない。それこそおびただしい数の星々はじっと光っている。あまりおしゃべりは聞こえてこない。”
”星満つる冬の夜のそら饗宴のごとくありけり廂の間(あひ)に” (宮柊二)
(とき)
”皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝(い)ねかてぬかも”
(笠女郎)
”人々は当時、鐘の音で時刻を知った。「日本書紀」によれば、一日の時刻を知らせる制度をはじめたのは天智天皇だった。「漏刻を新台に置き、始め、候時を打ち、鐘鼓をとどろかす」という。西暦671年4月25日。これが「時の記念日」の根拠ともなった。「漏刻」は水時計で、これに先立つ660年につくられた。中国からの技術によったものだろう。
中国は日本にとって、雲の上の先進国だった。とくに宋から元にかけての技術革新はめざましく、高度な天文観測や時間の計測が行われたことが知られている。実はその最高の実例が、なんと長野県は諏訪の町で見られるのだ。諏訪大社の下社秋宮にほど近い、「諏訪湖・時の科学館、儀像堂」の「水運儀像堂」がそれだ。11世紀に北宋の都・開封でつくられた巨大な自動機械を、当時の記録に基づいて細部まで再現し、実際に動かしてみせる。高さ12メート、四階建ての構造は巨大な時計、カレンダー、天球儀などのすべてをすべて水力で動かし(今は電動)、人形が月日や時刻を知らせたり、天文の観測台も備える。セイコーエプソン社のきもいりで、科学史家の山田慶児さんが復元したものである。東洋の技術を今に伝える貴重な復元である。”
”蕪村に”涼しさや鐘を離るる鐘の声”という句がある。さわやかな早朝、空へ広がってゆく鐘の音を立体的に捉えた。
”時間よおれはおまえに聞くが。おまえの未来はぎらぎら光るか”(草野心平)
現代の時間は変化を孕み(はらみ)、不安にも満ちている。
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長い間、長文をお読み頂きありがとうございました。退屈されたかもしれませんね。私自身は記事を書きながら、星のこと星座のこと、またそれらと人々の関わり方などあれこれ勉強をしました。こんなに豊穣な世界があったのかと、著者に改めて感謝する次第です。余談ですが、”アジアでは星も恋する天の川”の句は評論家の丸谷才一の作です。『星のあひびき』という本の冒頭にでてきます。また天の川のイラストは、和田誠さんの作品。
(余滴)『本当の夜を探して』という本があります。2016年に出版された本ですが、光害(ひかり害)の実情を欧米を中心に広範囲に調べたものです。夜が闇とならず、あまりにも光に照らされ、今では美しい星空を見ることは困難になっています。1989年、日本でも「光害防止条例」という条例が岡山県の美星町で制定されました。このような運動は、その後甲府などへも広がっています。