読書『冬の王』(ハンス・ランド/森鴎外訳)~『魂、そのめぐりあいの幸福』(尾崎喜八 1979年年9月 昭和出版))から
”あかるく青いなごやかな空を 春の白い雲の帆がゆく
谷の落葉松、丘の白樺、古い村落を点々といろどる
あんず、桜が旗のようだ。
ほのぼのと赤い二十里の 大気にうかぶ槍や穂高が
私に流離の歌を歌う、
牧柵や 蝶や 花や 小川が
存在もまた旅だと告げる
だが、緑の牧の草のなかで 風に吹かれている一つの岩
春愁をしのぐ安山岩の
この堅い席こそきょうの私には好ましい。”
(春の牧場 尾崎喜八)
尾崎喜八といっても、もうその名前を知る人も少なくなっているだろうが、ヘルマン・ヘッセやロマン・ローランと交遊もあった詩人にして文人である。。その著作のほとんどが絶版になってしまっている。山の自然を愛し、その中での人と人との心のふれあいやクラシック音楽を愛したこの詩人は、尾崎喜八詩文集(全十巻 創文社)など数多くの著作を残した。その本を読んでは、山歩きに想いを馳せた。ところが若い頃に買い集めた詩文集を、阪神震災の時になぜか捨て去ってしまい、その後著作のいくつかを買い戻す羽目になった。それが、『音楽への愛と感謝』(新潮社)であり、上記の『魂、そのめぐり会いの幸福』などである。
その『魂、そのめぐり会い・・・』の著作のなかに、よく知られらた<たてしなの歌>という文がある。蓼科高原の自然やそこでの日々を描いた山歩きと思索の紀行文である。蓼科牧場での一夜の宿の時に、牧場の主任との歓談が発展し「ここへ小屋を建てないか・・」という話まで飛び出した。その時に著者の脳裏を去来したのは、鴎外の翻訳で親しんだ「冬の王」の主人公のことであった。
尾崎喜八の文をそのまま引用させていただく。
”北欧の海岸避暑地にひとりの労働者がいる。夏の盛りには避暑客のために色々とつまらぬ雑用をやっている。その男に一人の詩人が心を惹かれる。というのは、どうもその男の犯しがたい威厳をもった風貌やすることのいちいちが尋常一様の労働者のそれとは違っているのである。詩人は彼の人柄にゆかしさを感じて、どうかして近づきになろうと機会を待っているのである。しかしその男には人を避ける風が見える。頼まれた仕事は気持ちのいいほど迅速に果たすが、人をして狎れ親しむ機会は与えない。やがて北欧の夏が逝く。季節をすぎた索漠の時がくる。ついにある夜、詩人は砂丘の上のその男の小屋を訪れる。男は、いくらか困惑するが、悪びれるところもなく不意の客を室へ通す。一目で室内の光景を見た詩人の心に深い驚嘆の情と敬意が生まれる。その狭い部屋はあたかも哲人の隠栖である。
無数の蔵書が棚を満たしている。書物は、古典、宗教哲学および自然科学に関するものが大部分である。片隅には天体望鏡も据えてある。ランプの輝く頑丈な卓の上には、今まで何かを書いていたらしく、大きなずっしりとし厚い帳面が両腕をひろげたように開いている。しかも主客が対座している部屋の一隅には、一羽の大鴉がじっと漆黒の翼を収めてとまっている。時が経つ。男はこれから水泳に行くのだという。詩人は暇を告げながら、ふと鴨居を見上げる。そのには、この男の余儀なくもった暗い過去を物語る荊棘の模様でかこまれた公文書が額にいれて吊してある。詩人は感動する。男は別れて海へ下りて行く。そしてたくましい腕に波を切って深夜の海へ出て行くその姿が、まるで北海の冬の王のようである・・・・・
その夜更け、蓼科の円頂の上にアンドロメダの銀の鎖が斜めにかかり、霧ヶ峰の空へ十一日の月が大きく傾き、その青白い月光の流れる露もしとどの牧場に立った”
読んでいて、ここで私はページを繰ることを忘れてしまった。この一文は、心に深く沈んでいった。
~~~~~~~~~~~~~~~
この「冬の王」という短編は、じつは森鴎外の「於母影、冬の王 森鴎外全集12」筑摩書房 」にある。それに嬉しいことにオンラインで読むことができる。「インターネットの図書館 青空文庫」という。ありがたいことである。入力作業をされているボランティアのみなさんに深く感謝申し上げたい。それにしても若き鴎外が、どうやってこの短編を見出したのであろうか。その語学力には恐れ入る。是非ご一読をお奨めする次第です
”あかるく青いなごやかな空を 春の白い雲の帆がゆく
谷の落葉松、丘の白樺、古い村落を点々といろどる
あんず、桜が旗のようだ。
ほのぼのと赤い二十里の 大気にうかぶ槍や穂高が
私に流離の歌を歌う、
牧柵や 蝶や 花や 小川が
存在もまた旅だと告げる
だが、緑の牧の草のなかで 風に吹かれている一つの岩
春愁をしのぐ安山岩の
この堅い席こそきょうの私には好ましい。”
(春の牧場 尾崎喜八)
尾崎喜八といっても、もうその名前を知る人も少なくなっているだろうが、ヘルマン・ヘッセやロマン・ローランと交遊もあった詩人にして文人である。。その著作のほとんどが絶版になってしまっている。山の自然を愛し、その中での人と人との心のふれあいやクラシック音楽を愛したこの詩人は、尾崎喜八詩文集(全十巻 創文社)など数多くの著作を残した。その本を読んでは、山歩きに想いを馳せた。ところが若い頃に買い集めた詩文集を、阪神震災の時になぜか捨て去ってしまい、その後著作のいくつかを買い戻す羽目になった。それが、『音楽への愛と感謝』(新潮社)であり、上記の『魂、そのめぐり会いの幸福』などである。
その『魂、そのめぐり会い・・・』の著作のなかに、よく知られらた<たてしなの歌>という文がある。蓼科高原の自然やそこでの日々を描いた山歩きと思索の紀行文である。蓼科牧場での一夜の宿の時に、牧場の主任との歓談が発展し「ここへ小屋を建てないか・・」という話まで飛び出した。その時に著者の脳裏を去来したのは、鴎外の翻訳で親しんだ「冬の王」の主人公のことであった。
尾崎喜八の文をそのまま引用させていただく。
”北欧の海岸避暑地にひとりの労働者がいる。夏の盛りには避暑客のために色々とつまらぬ雑用をやっている。その男に一人の詩人が心を惹かれる。というのは、どうもその男の犯しがたい威厳をもった風貌やすることのいちいちが尋常一様の労働者のそれとは違っているのである。詩人は彼の人柄にゆかしさを感じて、どうかして近づきになろうと機会を待っているのである。しかしその男には人を避ける風が見える。頼まれた仕事は気持ちのいいほど迅速に果たすが、人をして狎れ親しむ機会は与えない。やがて北欧の夏が逝く。季節をすぎた索漠の時がくる。ついにある夜、詩人は砂丘の上のその男の小屋を訪れる。男は、いくらか困惑するが、悪びれるところもなく不意の客を室へ通す。一目で室内の光景を見た詩人の心に深い驚嘆の情と敬意が生まれる。その狭い部屋はあたかも哲人の隠栖である。
無数の蔵書が棚を満たしている。書物は、古典、宗教哲学および自然科学に関するものが大部分である。片隅には天体望鏡も据えてある。ランプの輝く頑丈な卓の上には、今まで何かを書いていたらしく、大きなずっしりとし厚い帳面が両腕をひろげたように開いている。しかも主客が対座している部屋の一隅には、一羽の大鴉がじっと漆黒の翼を収めてとまっている。時が経つ。男はこれから水泳に行くのだという。詩人は暇を告げながら、ふと鴨居を見上げる。そのには、この男の余儀なくもった暗い過去を物語る荊棘の模様でかこまれた公文書が額にいれて吊してある。詩人は感動する。男は別れて海へ下りて行く。そしてたくましい腕に波を切って深夜の海へ出て行くその姿が、まるで北海の冬の王のようである・・・・・
その夜更け、蓼科の円頂の上にアンドロメダの銀の鎖が斜めにかかり、霧ヶ峰の空へ十一日の月が大きく傾き、その青白い月光の流れる露もしとどの牧場に立った”
読んでいて、ここで私はページを繰ることを忘れてしまった。この一文は、心に深く沈んでいった。
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この「冬の王」という短編は、じつは森鴎外の「於母影、冬の王 森鴎外全集12」筑摩書房 」にある。それに嬉しいことにオンラインで読むことができる。「インターネットの図書館 青空文庫」という。ありがたいことである。入力作業をされているボランティアのみなさんに深く感謝申し上げたい。それにしても若き鴎外が、どうやってこの短編を見出したのであろうか。その語学力には恐れ入る。是非ご一読をお奨めする次第です