(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『冬の王』~『魂、そのめぐり会いの幸福』から

2009-01-31 | 時評
読書『冬の王』(ハンス・ランド/森鴎外訳)~『魂、そのめぐりあいの幸福』(尾崎喜八 1979年年9月 昭和出版))から

  ”あかるく青いなごやかな空を 春の白い雲の帆がゆく
  谷の落葉松、丘の白樺、古い村落を点々といろどる
  あんず、桜が旗のようだ。

  ほのぼのと赤い二十里の 大気にうかぶ槍や穂高が
  私に流離の歌を歌う、
  牧柵や 蝶や 花や 小川が
  存在もまた旅だと告げる
 
  だが、緑の牧の草のなかで 風に吹かれている一つの岩
  春愁をしのぐ安山岩の
  この堅い席こそきょうの私には好ましい。”   
               (春の牧場 尾崎喜八)

 尾崎喜八といっても、もうその名前を知る人も少なくなっているだろうが、ヘルマン・ヘッセやロマン・ローランと交遊もあった詩人にして文人である。。その著作のほとんどが絶版になってしまっている。山の自然を愛し、その中での人と人との心のふれあいやクラシック音楽を愛したこの詩人は、尾崎喜八詩文集(全十巻 創文社)など数多くの著作を残した。その本を読んでは、山歩きに想いを馳せた。ところが若い頃に買い集めた詩文集を、阪神震災の時になぜか捨て去ってしまい、その後著作のいくつかを買い戻す羽目になった。それが、『音楽への愛と感謝』(新潮社)であり、上記の『魂、そのめぐり会いの幸福』などである。

 その『魂、そのめぐり会い・・・』の著作のなかに、よく知られらた<たてしなの歌>という文がある。蓼科高原の自然やそこでの日々を描いた山歩きと思索の紀行文である。蓼科牧場での一夜の宿の時に、牧場の主任との歓談が発展し「ここへ小屋を建てないか・・」という話まで飛び出した。その時に著者の脳裏を去来したのは、鴎外の翻訳で親しんだ「冬の王」の主人公のことであった。

尾崎喜八の文をそのまま引用させていただく。

 ”北欧の海岸避暑地にひとりの労働者がいる。夏の盛りには避暑客のために色々とつまらぬ雑用をやっている。その男に一人の詩人が心を惹かれる。というのは、どうもその男の犯しがたい威厳をもった風貌やすることのいちいちが尋常一様の労働者のそれとは違っているのである。詩人は彼の人柄にゆかしさを感じて、どうかして近づきになろうと機会を待っているのである。しかしその男には人を避ける風が見える。頼まれた仕事は気持ちのいいほど迅速に果たすが、人をして狎れ親しむ機会は与えない。やがて北欧の夏が逝く。季節をすぎた索漠の時がくる。ついにある夜、詩人は砂丘の上のその男の小屋を訪れる。男は、いくらか困惑するが、悪びれるところもなく不意の客を室へ通す。一目で室内の光景を見た詩人の心に深い驚嘆の情と敬意が生まれる。その狭い部屋はあたかも哲人の隠栖である。

 無数の蔵書が棚を満たしている。書物は、古典、宗教哲学および自然科学に関するものが大部分である。片隅には天体望鏡も据えてある。ランプの輝く頑丈な卓の上には、今まで何かを書いていたらしく、大きなずっしりとし厚い帳面が両腕をひろげたように開いている。しかも主客が対座している部屋の一隅には、一羽の大鴉がじっと漆黒の翼を収めてとまっている。時が経つ。男はこれから水泳に行くのだという。詩人は暇を告げながら、ふと鴨居を見上げる。そのには、この男の余儀なくもった暗い過去を物語る荊棘の模様でかこまれた公文書が額にいれて吊してある。詩人は感動する。男は別れて海へ下りて行く。そしてたくましい腕に波を切って深夜の海へ出て行くその姿が、まるで北海の冬の王のようである・・・・・

 その夜更け、蓼科の円頂の上にアンドロメダの銀の鎖が斜めにかかり、霧ヶ峰の空へ十一日の月が大きく傾き、その青白い月光の流れる露もしとどの牧場に立った”

 読んでいて、ここで私はページを繰ることを忘れてしまった。この一文は、心に深く沈んでいった。

          ~~~~~~~~~~~~~~~

 この「冬の王」という短編は、じつは森鴎外の「於母影、冬の王 森鴎外全集12」筑摩書房 」にある。それに嬉しいことにオンラインで読むことができる。「インターネットの図書館 青空文庫」という。ありがたいことである。入力作業をされているボランティアのみなさんに深く感謝申し上げたい。それにしても若き鴎外が、どうやってこの短編を見出したのであろうか。その語学力には恐れ入る。是非ご一読をお奨めする次第です


 

 
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読書『日本史を読む』(余滴)

2009-01-26 | 時評
読書メモ『日本史を読む』(丸谷才一・山崎正和 中公文庫(余滴)

 原著は、10年ほど前の本であるが、まったく古さを感じさせない。中央公論誌上で行った、様々な本を読みながら20世紀を考えるという趣向の対談につづくもので、世界史の中で日本史を読もうとした二人の柔軟な思考、バックグラウンドにある幅広い教養の下での対談は限りなく興味深かった。

 江戸時代の章の中で採り上げられた本の一つに『時計の社会史」(角山栄 中公新書)というのがある。山崎は、その著から芭蕉の俳人曽良(「旅日記)の時間意識の高いことを指摘する。では17世紀頃、どうやって皆が時間を知ったのか?日時計か香時計か、いな鐘と太鼓か・・・など時を計り、知る仕組とその背景についての話が展開してゆく。

 ”(山崎)ひとことで言うと、、この本は科学技術を愛する国民の好みと、社会に共同の時間が存在するという精神が、二つながら日本に古くから日本にあって、それが近代を用意したというわけで、大変ポジティブに江戸と近代明治をつないだ本になっています。”

 また京都の機巧堂という仕掛け物や時計を製作する店があって、それをやっていた、からくり儀右衛門は佐賀藩によばれて精錬所の技師として活躍、やがて昭和8年には銀座に進出、田中製作所となる。後年三井の資本を導入して、現在の東芝となる。そんなエピソードもある。


 さらに明治の章では、活躍した留学女性、津田塾大学を創立した津田梅子のことや、それに協力しさらに日本ではじめて看護婦学校の設立にも尽くした大山捨松のことが語られる。(「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松ー日本最初の女子留学生」(中公文庫 1993年) 余談になるがこの捨松は、帰国後大山巌夫人となる。賊軍といわれた会津藩士の娘と、薩摩藩士の結びつきである。しかし山崎が注目して語るのは、鹿鳴館の華としての捨松ではなく、アメリカ留学中のエピソードである。ヴァッサー大学の卒業生総代のひとりとして演説をした捨松は卒業論文である「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行い、

 ”(山崎)英帝国主義の暴虐と、それに対する民族自決の正義を語ったんです。そうしたら会場拍手鳴りやまず、彼女の英語もうまかったんでしょうけれども、時のアメリカの新聞が大きく書いているんです。・・・・

 私が感心するのは、そのことを教えたのは多分、兄の山川健次郎(後に東大総長)だと思うんです。・・・二十代の青年や十代の娘までちゃんと日本の置かれた国際情勢を知っていて、外国人のどこを刺激すればうまくいくかという外交感覚にたけていたわけです。これは感動的だと思うんです”

           ~~~~~~~~~~~~~~

 山崎さんのみならず、私にとっても感動的な話です。時計の本も、この捨松のことを書いた本もみんな手にして見たくなりました。時間が足りませんね。
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読書『日本史を読む』(その二)

2009-01-24 | 時評
読書『日本史を読む』(その二)~足利時代は日本のルネサンス

原勝郎の「東山時代における一縉神の生活」(筑摩選書)、伊地知鐵男「宗祇」、(林屋辰三郎の「町衆」(中公新書)など、

「「東山時代における一縉神(しんしん)の生活」を書いた原勝郎は、もと南部藩士の生まれ、尚武の心をもった律儀で厳格な人柄と大正リベラリズムがうまく混合してその精神をつくっていた。京大教授として西洋史をおしえ、和辻哲郎も一高時代に教わっている。山崎は、”原勝郎は、実は足利時代は面白い時代だったと言い出したということで採り上げた。

 ”彼の定義によると、足利時代は王朝文化のもっていた優美さが、鎌倉時代を経過したことで、武士のエネルギーによって日本全体に広がった時代である。実際の「源氏物語」「伊勢物語」は足利時代にわが国民の文学となり、古今伝授の習慣が確立して「古今集」が日本人の中心的な好みになりました。原さんは、西洋史学者らしく、この時代を「ルネッサンス」と名付けました”

 ”乱世、乱世というけれど、この時代は貴族であれ市民であれ、毎日の生活が手につかないような大混乱や飢餓のどん底という事態ではなく、市民たちが結構平和な生活をしていた。全国あちらこちらで戦乱が起きて盗賊たちも跳梁するけれども、一方この時代に船旅が確立して地方の産物が都に、都の文化が地方に流れ、日本全体の交流がむしろ盛んになった時代である”

 そして原は、「公家文化はあるいは宮廷の権威ー文化にほかならないがーの支配力が想像するより遙かに強かったと指摘している。この縉神(しんしん)と呼ばれる主人公の三条西実隆は、中流公家でのちに内大臣になるが、80余年の寿命に恵まれ、「実隆公記」とう表題でしられる日記を延々と書き続けた。

 山崎は、原がこの人の日記を材料に、当時の一人の中流公家がどんな生活をし、どういうことを考え、どんな信仰をもっていたなどを克明に復元したところに注目した。残り少ない荘園からどういう収入があったか、毛筆で書き写した本を売る文筆家としての生活、食事のことや通っていた蒸し風呂のこと~それも割り勘で入る~など実隆の生活ぶりが浮かびあがってくる。

 ”原さんの考えによれば土佐派の画家とも仲が良かった。なによりも注目されるのは、当時の連歌師・飯尾宗祇と深い交流をもち、宗祇を助け、かつ宗祇に助けられるという、身分を越えた交際をしています。”

 (旅する情報家・宗祇)
 ”(丸谷)面白いのは、この東山時代に京都という町は、何を得るべきかを発見した。つまり文化を売ればいいんだということを京都が発見したのが東山時代だったでしょう”
 ”(山崎)文学を職業として飯を食ったのは、おそらくこの時代の宗祇をもって初めてとするんじゃないですか。”

 三条西実隆はほとんど京都だけで暮らしているので、外へ出たことがない。一方宗祇は日本中を歩き回る。
 ”(丸谷)ところが上昇してきた東国および西国の情報がはいるルートが確立していなかった。そのルートをつくったのが連歌師であって、その代表が宗祇だったと思われるわけです。宗祇は話が大変上手で、こうい話があった、ああいう話があったと、実隆はチラっと題目だけ書いている・・・”
 ”(山崎)原さんの本の中には、宗祇を講師として「源氏物語」「伊勢物語」などの古典の研究会が公家を集めて催され、実隆も弟子になって聞きにゆく話がでてきますね。・・・どのみち両方とも好色文学ですからね”(笑)

 そんな話が展開し、北山時代の世阿弥のことを山崎が語る。
 ”世阿弥は京都を高く評価した人で、「自分たちは地方にも公演にゆく。しかし田舎の趣味は偏っている。都会にきてこそ、田舎で曲がったものが真っ直ぐになる、といい京都の批評家的能力を買っていた。

 さらに山崎の論はつづき、それをうけて丸谷は、源氏物語の読者が東山時代に誕生したと言い切る。

 ”(山崎)最後に世阿弥の到達した境地は「リアリズムか幽玄かどっちかとれと言われたら、幽玄の方に寄れ」という言い方をしている。そこまで王朝文化が復活してくるんですね。おそらくその辺で、われわれが今思いうかべるあの「源氏物語」の世界というものが、成立したんだと思う。「源氏物語」が成立したのは藤原時代じゃなくて、室町になって思い出されたときに成立したという気がするんです。”

 いや面白い見方だなあ。ところで林屋辰三郎の「町衆」では、林屋が町衆を発見したと山崎は言う。

 ”この本の功績は日本における市民の発見であるといってもいいかと思います。ちなみに原さんは、足利時代における多面性をこれほど見事に描き出したにも関わらず、一つ見落としていたのが商人です”さらにいう。

 ”いずれにせよ長い歴史のなかで市民らしきものが成立して行く過程を跡づけたのがこの本です。これを原さんの本と重ねて読むと、実にこの時代がいきいきと見えてくるんですね。林屋さんは、のちの豪商たちー後藤、茶屋、角倉の王朝趣味について肯定的な書き方をしている。たとえば角倉了以や素庵らの古典教養に対して絶賛にちかい言葉で述べている。角倉家について、金貸しであり、技術者であり、測量技術などの発明家、貿易業者であり、出版業者であり、藤原 惺窩(ふじわら せいか)の友人として学問のパトロンであり、自分自身も大変な学者であると、まさにルネサンス人として書いているわけです。”

         ~~~~~~~~~~~~~~

 まあこれ位にして。あとは(余滴)にて、江戸時代の時計のことや開国日本をささえて女性のエピソードを、かんたんに触れす。
 


 
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読書『日本史を読む」(その一)

2009-01-23 | 時評
読書メモ『日本史を読む』(丸谷才一・山崎正和 中公文庫 2001年1月)

 谷沢永一は、現代日本の名文家としては、硬軟それぞれ梅棹忠夫・丸谷才一・山崎正和を挙げている。このうちの二人が歴史対談をした。それも古代日本から近代日本まで、37冊の本を採り上げて。一見かたくるしい本のようにも見えるが、読み進んでゆくと知らないエピソードや創造力に富んだ推測が展開されて興味は尽きない。二三ご紹介することにした。

(院政期の乱倫とサロン文化)角田文衛の「椒庭秘抄 待賢門院璋子(たまこ)の生涯」(朝日新聞社)、五味文彦「院政期社会の研究」など

 「浮気の五原則」というのがある。(注)ブリジストン鑑査役であった成毛収一氏は、江戸文学に精通し、そこからこの原則を帰納した。上記の著書とは関係はない)
 
 一 ただ一度だけであること
 二 ヤラトラ(金銭のやりとりをしない)であること
 三 人目をしのぶ仲であること
 四 お互いに好いたらしい気持ちがあること
 五 ふたりとも新品でないこと

 どうも西行と待賢門院璋子の関係は、これにあてはまるのではないか、という趣旨の丸谷発言がこの節の最後にある。同感である。西行の”吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりけり”は、璋子のことを歌に詠んだものと、私も勝手な推測をしている。

 丸谷は、院政というものが前から気がかりだとして角田文衛の本と五味の本を採り上げる。まず、角田の本について”椒庭というのは御殿という意味で、鳥羽天皇のお后であった璋子さんの伝記なんです。この方は白河法皇の愛人として有名な祇園女御の養女であります・・” と語り出す。関白忠実の日記によれが、璋子は「奇っ怪なる聞こえ」「乱行の人」と書いている。

 ”(丸谷)養父格である白河法皇と関係があったのです。したがって璋子の入内は、一人の女が養父とその孫との双方に関わりを持つ、ということになって、親子どんぶりの上の、いわばスーパー親子丼という乱倫もきわまる話になるんでした・・・”
 (いささか品のない表現はお許しください。ゆらぎは引用しているだけですので)

 こういうことを角田は、実に詳しくしらべ、さらには法皇の邸にいった時期と荻野式理論をつきあわせ、崇徳天皇が父帝鳥羽天皇の子ではなく、祖父白河法皇の子であることを実証してしまった。丸谷はそのことの紹介に留まらず、さらに権力の象徴としての性的放縦にまで及んで持論を展開する。

 ”・・・・たしかレヴィ・ストロースの説に、「原始社会においては、民衆は一夫一婦を守らなければならないが、その代り政治に関しては一切の責任を免れている。・・・ところが、王は、政治に関しては全責任は負うけれども、その辛さの代償として数多くの妻を持つことができる、というのがありました。つまり性的放縦は権威と権力の象徴として絶好のものです(笑)・・・・”


 さらに対談は天皇家・藤原家、並立(「藤原氏千年」(朧谷寿)にまで及んでゆき、山崎は”日本人の政治思想には、統治というのは権威と権力の二重構造をもっていなかればならない、二つはできるならば純粋に分けて、立憲君主と総理大臣のような関係をつくるほうがいいという、近代的な感覚がどこかにあった。それを、藤原家と天皇家が相争うことによって、現実に強化していくんですね・・・・”という。

 さらに初めの白河院のことに戻って、
 ”性的放縦をご指摘になったけれども、女性のほうも結構放縦だということなんですね。女性がこんなに性的自由を許されていて、、また奔放にそれを隠しげもなく楽しみ、みずから歌にして平気で公表するというような文化は、まず日本の十世紀をもって嚆矢とするでしょうね”
 
 もっと面白いサロン文化論などが展開されているが、この章はこの辺で。


(足利時代は日本のルネサンス)原勝郎の「東山時代における一縉神の生活」
(筑摩選書)、伊地知鐵男「宗祇」、(林屋辰三郎の「町衆」(中公新書)など、により東山時代とそのすこし先の時代を論じる。

 足利時代~室町時代はあまり日本史のなかであまり注目されていなかった。脚本家の市川森一さんはそこに着目し、大河ドラマ「花の乱」(1994年)の脚本を書いた。ところが資料を集め出すと、あまりない。詳しいのが、東京大学資料編纂所の「大日本資料」だった。神保町の古書店でみつけ、室町時代にあたるのが十冊くらい見つかった。ところがばら売りはしない、という。思わず全巻337巻に大枚800万円を払って衝動買いをしてしまった。奥様から、涙目で「半年、どうやって生活してゆけばいいの」とぼやかれたとか。プロは凄い!もちろん、この対談は貴重ではあるが、安価な文庫本や単行本に基づいている。

          ~~~~~~~~~~~~~~

 ということで話をつづけようと思ったのですが、長くなりそうなので冊を分けることにします。足利時代の話は、すぐ続きます。

 

 


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読書『三艸書屋雑筆』(さんそうしょおく)

2009-01-17 | 時評
読書『三艸書屋雑筆』(山口青邨(せいそん) 求龍堂 1977年8月)


なにせ4Sを提唱し、東大俳句会を秋桜子・誓子・富安風生らとつくった俳人のエッセイなので相当に古い本である。古書店で拾ってきた。しかも肝心の山口青邨の句は知らないに等しい。ではあるが、なかなか味わい深いものがある。メモ的に二三ご紹介したい。

(五月)青邨は、みちのく人のである。五月は一年中でいちばんよい季節だという。そしていちばん好きな季節だという。 ”わらび・ぜんまい・しどけ・みず・独活、たらの芽などいろいろな山菜がでる。・ ・このころはまた牡丹も藤も咲く。若葉がどっと吹き出す。”

 ”私の郷里盛岡地方に山見という風習がある。男たちが酒樽をかつぎ重箱をさげ 、新緑の山にでかける。終日飲み食い唄い寝ころんで、夕方藤の花やつつじの枝を肩にかけて帰ってくる。北国のなにか共通なものだあるようだ。

 ーこんな山の自然の中で終日春を楽しむとは、なんと贅沢なものか。一年の労働が報いられる思いがするだろう。先年、知人夫妻と誰もこない桜の下で、花見弁当をひろげて半日歓談した時の楽しさを思い出した。


(初句会)青邨は、昭和6年に東京・杉並に居を構え終生そこで過ごした。雑草園と呼ばれた庭のある住まいである。杏の木も二本あった。

 ”私のところでも初句会がある。正月、二日。年賀の客が毎日昼夜を問わず、ばらばら来る。これでは私も家のものも疲れる。どうせわが陣営の人たち、いっそ日を定めて一緒に祝杯を挙がれば一遍に済む。句でもつくればなおよいという訳でそういうことにした。もう二十数年、二・三十人。みんな庭に出て、何かを物色、写生。私も気づかない曙という椿の花をみつけてねばったり、一輪の菫に純情を注いだり、紅粉花の苗床に立ったりーかと思うとストーブの側に座って動かず、じっと掛け物を眺めて深く想いを込めている人もある。今年は信州の墨達磨、どこかの山の木地師のつくった打出の小槌を飾った。誰か見つけて句にするだろう。披講が終れば私のつくったカクテルで祝杯、これは例年のとおりー。”

 ーやはり大きな家で集まるのはいいものだ。どうもマンションという住居形態は日本の伝統生活を壊してしまったのではないか。せめて今のスペースを2倍にすべきだと思う。こんな句会には憧れる。


(藪を愛す)雑草園の自然を愛した青邨(せいそん)であった。こんな一文がある。

 ”さて私の庭の藪ー萩・山吹・芙蓉・おかめ笹・紫式部・八手・がまずみ・さびた・きりん草・水引・野菊・鶏頭・山ウド・山ごぼう・やぶからし・あかざ・芒・猫じゃらし、雑草もあれば名草もある。山の木もあれば庭の木もある。こんなものがごちゃごちゃ。今はもう花を終えた残骸、これがまた私が大好き。たとえば萩ーその黄葉も美しいが落葉しつくした繊い(ほそい)まろやかなこまごました枝の姿が美しい。冬の何もない冷たい中にぼうっと明るさと暖かさを与える。それに時雨が降る。霰がこぼれる。雪が積もる、枯れ萩ただ一叢。その時々風情はなんとも言えない。山ウドの花も実も面白いがその残骸、四、五枚枯れくちたぼろの葉を垂れてたっているのもあわれ深い。山ごぼうの紅紫のたくましい茎。それぞれの木や草がもたれあってつくる特異な藪・・・・”

 枯れ園ゆかしみな隠し紅寝白粉(ねおしろい)


序でに、いくつか青邨の句を。

 外套の裏は緋なりき明治の雪
 凍鶴の一歩をかけて立ちつくす
 書を愛し秋海棠を愛すかな
 ダイアモンドを買はず福寿草を年の暮

 霜囲めおとのごとくそれは牡丹
 釣魚大全枕にしたり三尺寝
 ーアイザック・ウオルトンの釣の古典(The Complete Angler)にちなんだもの。

 東大教授(鉱物学)にして俳人。写真をみるととても端正な容貌で、その句も端正。すこし近寄りよりがたい感もあるが、エッセイは味わいを感じる。安曇野にある碌山美術館を訪れた時の紀行文は、彫刻家荻原守衛の人となりと作品によほどの感動を覚えたようで、かなりの長文を残した。これについては、新宿中村屋の女主人・相馬黒光のこととあわせ、別な機会にご紹介したい。その折りの句のみ書き置く。

 (作品「文覚」に寄す)
 腕を組む文覚血を噴くかん雪噴かん
 (作品「女」に寄す)
 俤(おもかげ)の天をあおげば雪の岳
 


 



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読書『ローマ亡き後の地中海世界』(余滴)~寛容~

2009-01-15 | 時評
(寛容”という言葉との出会いがつづきました。いくつか関連する本のことなどについて書きます)

読書メモ『ローマ亡き後の地中海世界』(余滴)『大国の明日』(ルムート・シュミット 朝日新聞社 2006年1月)

先日立ち寄った珈琲店で読売新聞の記事が目に入った。それはトルコの作家オルハン・バムクの言葉についてのものである。

 ”多民族・他文化の共存を理想と考えるからこそ。
 ー私はイスラム教徒が国民の大多数を占めるトルコが、キリスト教主体の欧州連合(EU)に加盟することを望む”

 バムクは、56歳。2006年にノーベル文学賞を受賞している。(「黒い本」「私の名は紅」など)

他民族の共生は、言うほど生やさしいものではない。しかしそんな思いで寛容の精神を発揮した歴史のひとこまは、実在したのである。先頃ご紹介した塩野七生の『ローマ亡き後の地中海世界」にその記述がある。1000年にも及ぶ中世の地中海世界は、イスラムの海賊に蹂躙され、その沿岸のみならず南イタリアまで侵略をうけていた。ところが奇跡とも言うべきことが起こった。後年ノルマン制服(コンクエスト)で有名になるノルマンの騎士たちは、進取の気性に富んでいたl。イタリア人たちの要請を受けてノルマン人が南イタリアを制覇した。そして1038年にはイタリアとシチリアを隔てるメーッシーナ海峡を越えて、長い時日を要したが、1072年には、アラブ支配の首都パレルモ、そしてさらに5年後シラクサも陥落させたのである。

 ”こうしてシチリアは200年ぶりに、キリスト教世界に復帰したのである。ところが、そのシチリアの新たな支配者となったノルマン人のルッジェロは、シチリア支配を、これまでアラブ人が実施してきた「イスラムの寛容よりな、なおも一層進んだ路線で進めてゆくのである。それは、「地中海の奇跡」と呼ぶに値する、異なる宗教を信ずるもの同士が共に生きていける社会実現であった。 (注 ただしこれは現実的な政策にすぎなかったとの塩野七生の注釈がついている・・)

 ルッジェロは、敗者になったアラブの有力者とその家族を、殺ししもしなければ奴隷にもしなかった。この人々にはイタリア内陸部に土地をあたえ、農園主として之生活がなりたつようにした。・・・・そしてこれらのイスラム教徒は二級市民にも落とされなかった。ノルマン支配下のシチリアで、地中海の奇跡は、より望ましい形で実現したのである。・・・・

 怨念をいだきつづけていると過去にばかり想いが行きがちで、現在や未来の可能性は眼に入らなくなってしまうのだ。この種の怨念に邪魔されなかったからこそ、真の意味の、古代では「カエサルの寛容(クレメンティア)」と呼ばれていた寛容に立った、統治政策を実施できたのだと思う。”

           ~~~~~~~~~~~~~~~

 『大国の明日』( ヘルムート・シュミット 朝日新聞社 2006年1月)

 時は移って21世紀初頭、ドイツ元首相のヘルムート・シュミットは、この紛争に明け暮れる現代にあって、いみじくも同じ「寛容」ということを、その著書の中で主張している。この本は、ヨーロッパの視点から今後20年間に世界の歴史を左右するような様々な要因を概観したもので、今なを意義深い著である。

 ”21世紀の世界は。かつてないほどの人口増を見るであろうから、相互の依存関係は一段と拡大されるであろう。相互依存の拡大は、紛争の増大意味する。紛争は妥協によってしか解決できないであろう。寛容と妥協する用意のある心構えは、すでに昨日そうであった以上に、明日もそれが一段と重要になる。いかなる個人にも、いかなる国家にも、もっぱら自己の利益と主張を貫き通す権利はない。・・・”


 今一度、寛容という言葉を国家も、個人も考え直すべき時ではないだろうか。どこからか声が聞こえてきました。「家の中でも、寛容でなくちゃね」 そうですね。


 

 

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読書『道三堀のさくら』

2009-01-10 | 時評
読書メモ『道三堀のさくら』(山本一力(いちりき) 角川文庫 2008年12月)

 日本橋・茅場町から地下鉄東西線で隅田川(大川)をくぐれば、そこは門前仲町。駅からすぐ近くに深川八幡や富岡八幡宮がある。このあたりから北に広がる一帯は池波正太郎の鬼平の世界であり、そしてまた山本一力描く時代小説の舞台である。大川につながって縦横に仙台堀川や小名木川、大横川などの大小の川が流れている。この深川の冬木という町に住んだことのある私にとっては、深川は江戸情緒もあってひときわ懐かしい。

 深川にすむ庶民の世界を数多く書いてきた山本一力の新作は、江戸時代の職業のひとつ、水売りを題材にした物語である。文政九年というから江戸も後期。100万都市としてのシステムはほぼできがあり、町には神田上水と玉川上水が町の地下三尺下を縦横に走る水道がすでに使われていた。しかし大川(隅田川)を越えることはできず、深川には水の道はなかった。しかも埋め立て地であるので井戸を掘っても塩辛く飲料水には適していなかった。そこで水売りという商売が生まれた。江戸城近くの道三堀の堀口には水道の余り水を吐き出す「吐き樋」がある。堀川を遡って、その樋から流れ出る水を汲み入れるのが水船である。

 主人公の若者龍太郎は、深川冬木町の暮らす水売りである。十歳の時から父親の水売りを手伝ってきた。毎日水船で水を汲みにゆき、その水を担ぎ桶に入れて売り歩く。天秤棒の前後に水桶を提げ、休むことなく長屋や商家の人たちや得意客である料理屋、菓子屋、一膳飯屋、蕎麦屋などに届けてきた。水が涸れてあまり届けられないこともある。梅雨時などで、水の需要が減り、売り上げの上がらない時もある。商売相手との紛争もある。しかし、元締めの虎吉や龍太郎は、深川の町のひとたちのために、ひたすら誠実に、顧客のために美味い水を届けることに腐心した。金儲けより信義という考え方は、今の世にこそ求められているものである。

 この小説では、龍太郎たちの働き振りを描き出している。第一部「水涸れて」では、水売りを人の暮らしを支える稼業とする龍太郎たちの奮闘を、そして第二部「水、満ちて」では、龍太郎と深川の蕎麦屋「しのだ」の看板娘おあきとの仲、そして料理につかうための旨い水をつくろうとの男たちの働きを描く。さらに最終の第三部「水 熟れて」では、龍太郎の挫折と、己の稼業を改めて見つめ、誇りと志を取り戻すシーンが描かれる。茜色の空をみながら、寒風に立ち向かってゆくような男の颯やかさを見るのは、清々しい感動を覚える。

 日本橋にある遠州屋吉兵衛の妾腹の息子団四郎は、「美味しい水」の商いを生涯の仕事にしようとしていた。遠州屋の跡取りにすわる気持ちは毛頭なかった。

 ”おのれの才覚で新しい商いを立ちあげることこそ、男が命を賭ける生き方だと、心に堅く決めていた。美味しい水の商いは、深川のひとのためにある仕事だ。汚れの少ない水を口にできれば、ひとの暮らしは大いによくなる。夏でも、いやな匂いのしない水。生水で飲んでも、美味しい水。料理の味が引き立つ水。今進めている「美味しい水」造りがうまく立ち上がれば、、かつてだれも興したことのない
商いが誕生する。それを成し遂げるためには、水売り衆の力を借りることが何にもまして肝要である。龍太郎は、腕利きの水売りだ。人柄もいいし、仲間うちの人望もあった。できれば仕事仲間として生涯の付き合いをつづけたいと、団四郎は本気で思っていたし、強く願ってもいた”
  
              ~~~~~~~~~~~~~

 ところで山本一力が初めてエッセイを書いた。『おらんくの池』(文春文庫 2008年11月) 土佐は高知の生まれの山本の語りは、さわやかで、しかも心がほのぼのするような味がある。これも山本ファンには、おすすめだ。オーディオ好きには、マッキントッシュのアンプや、パラゴンの巨大スピーカーに憧れたころの話も出てくる。(ことばは強し)では、満開の桜が「たががはずれて」咲いている話や、「心の敷居」でおのれを律する話がでてきて、興味は尽きない。幼い頃の思い出では、妹の仕事仲間のトモちゃんの話が微笑ましく、目がゆるんだ。

 ”トちゃんの家で、丸ごとのショートケーキを戴いたことがあったらしい。家族五人、母親が五切れに切り分けたが、大きさが揃っていなかった。三人姉妹はジャンケンを始めた。ふっと気づくと、手が四本でている。ジャンケンには、母親も加わっていた。 「あたしだって、大きいのを食べたいんだから」・・・・”

 こんな家庭には、非行少年少女などは出ないだろうなあ!

 

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読書『為替がわかれば世界がわかる』

2009-01-06 | 時評
読書/日々雑感『為替がわかれば世界がわかる』(榊原英資 文春文庫 05年4
月)

  明けましておめでとうございます。今年もご愛読のほど、よろしくお願いもうしあげます。

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もとは6年も前の2002年に書かれた本なのですが、読みかえしてみると色々含蓄の深いものがあります。といっても為替や金融の話をしようというのではないので、ご安心を。ちなみに著者は、1997年から1999年にかけて財務官をつとめ「ミスター円」の異名をとりました。その前の1995年には、大蔵省金融局長として当時80円台だった円高時代に危機感をいだき、市場にサプライズを与えるような大量の介入を行っています。なにやら今日の円高局面を思わせる話ではありませんか。

 さてこの本で最も印象に残ったのは、ヘッジ・ファンドの雄ジョージ・ソロスの事を語った一文です。いわゆる投機家ソロスではなく、哲学者ソロスのプロフィールを解き明かして、興味はつきないのです。その中で哲学者カール・ポパーのことに触れています。今までカール・ポパーという名前はかすかに聞いていても別世界の学者の話と、ついぞ思いこんいで、なにも知る機会がありませんでした。初耳に近い、不勉強な私です

 ソロスは1930年ハンガリーの首都ブダペストに生まれ、第二次大戦中はナチスに迫害され、さらにソ連占領下で苦しい生活を送りました。その後ハンガリーから脱出し、ロンドン大学スクール・エコノミクスに通ったのです。

 ”この大学には、ソロスが生涯尊敬してやまなかった哲学者カール・ポパー教授がいました。ポパーは、アンリ・ベルグソンが『道徳と宗教の二源泉』(白水社)の中で用いた「オープン・ソサエティ」の概念を発展させ、『開かれた社会とその敵』(未来社)という本を書いて、

   「物事は不確実で、人間は必ず間違う。だからその間違いを認めて、それを
   常に修正していくオープン・ソサエティこそ理想の社会である」

と論じました。”

 この物事は不確実という考え方は、財務長官をしたルービンも言っていることで、以前にも本ブログでも紹介したことがあります。そしてさらに重要なのは、失敗を認め修正してゆくという柔軟な考え方です。話は変わりますが、宋文洲という人のメルマガを時々読んでおります。中国生まれのベンチャー経営者である彼は、鋭い切い口の社会時評を書いていますが、。お正月の記事の中に、こんな一文がありました。

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(日本経済の復活のためにすべきは何か)より、

 ” 今、大手メーカーによって派遣社員がどんどん切り捨てられています。派遣業を批判してきた人々はこの事態をどうみているでしょうか。メーカーに派遣社員を正社員にするよう期待することが現実的でしょうか。それともほかに派遣を使ってくれる会社を見つけるよう、派遣会社に期待することが現実的でしょうか。

 批判のようなことを言ってきましたが、それが目的ではありません。失敗を認識したら、失敗してきた道から原点に戻ればいいのです。不況から逃げ出す早道はここ数年の「正義」と「正論」を疑ってみることです。”


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 カール・ポパーの考え方を継承したジョージ・ソロスのことに戻ります。榊原英資は、ソロスの考え方に共感し、ソロスの著作の中の「不完全なものは、改善することができる。・・・必要なのは誤謬を認めることだ」を引用して、つぎのように述べています。

 ”ソロスは誤謬性を自覚することで、自分の市場予測や解釈の誤りをいつも警戒し、誤りを発見すると迅速に修正するように心がけたといいます。成功はものごとが自分の思惑通りにいった結果ですから新しい情報は入らない。でも失敗した時は、思惑以外のことが起こったので、情報として新しい。つまり、失敗は成功より情報量が多いのです。”

 そこから榊原は、(失敗を許さない日本社会)を鋭く批判しています。

 ”失敗を飛躍と考える発想は、失敗を許容し、挑戦を賞賛する社会風土が前提になっています。アメリカでは、超優良会社のGEやIBMでさえも、一度は倒産状態になり・・・ それに比べると日本の経営者たちは、一度失敗すれば「あいつはもうダメだ」と言われ、二度と立ち上がれない社会システムに苦しめられています。その原因の一つに日本の金融システムの問題があることは間違いありません” 

 そして中小企業が失敗をおそれずに何回でも挑戦できるような社会にして行こうと提案していますが、この見方は時が移ったた今でも通用するものですね。
 
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 新年早々から、むつかしい話だとお叱りが飛んできそうです。また柔らかい話も書きます。新年第一声と言うことでお許しください。


コメント (6)
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