(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 年の始めの読書

2017-01-21 | 読書
読書 年の始めの読書

 年始にあたって手にした本の中から深い感動を呼び起こされたもの、また千年もの長きにわたり変わらないということに驚嘆したもの、そして心にほのぼのとしたものが残った本、それらの印象に残ったところをご紹介します。


まず劇作家にして評論家の山崎正和の『文明の構図』(1990年3月 文藝春秋)から。その中に「もうひとつの学校」という一節がある。山崎は満州で生まれ育った。終戦の年は11歳、その時に受けた満州の中学校の暗い仮設教室での光景を次のように描写している。

 ”外は零下二十度におよぶ日もあるなかで、倉庫を改造した校舎には満足にガラス窓もなく、寄せ集めの机と椅子のほかには教室らしい設備なにもなかった。すでに日本人の故国への引き揚げが進んでいて、生徒の数は日々に減っていたし、教師のなかにも、教員免許を持たない技術者や大学教授が混じっていた。なによりも、それは「瀋陽中学校」と名づけられていたものの、日本はもちろん、どの国の制度にもよらない純粋な私学校であった。中国政府に残留協力を命じられた日本人が、もっぱら親から子へ、人間が人間であるために必要な知識と文化をできる限り伝えようと開いた学校であった。 
 教科書は戦前の古本があったが、教師には教授法も指導要領もなく、授業はまったくの無手勝流で行われた。一年生がキングズ・クラウン・リーダーの三巻を教わったり、数時間をかけてマルティン・ルターの伝記だけを聞かされたりした。中国語の授業はあっても漢文という教科はなかったから、「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」という詩句を、私はまず中国音で習っていまだに覚えている。ある冬の午後、ひとりの教師が古い手回し蓄音機を持ってきて、音楽といえば小学唱歌しか知らない少年たちに、西洋音楽のレコードを聞かせてくれた。掠れがちに針の下から響くラヴェルの『水の戯れ』と、ドヴォルザークの『新世界』に耳を傾けながら、私はどこか遠い世界に、そのときは名も知らぬ芸術というものの存在を感じとっていた。

 戦後50年の日本の教育を振り返ったとき、もっとも欠けていたものは、私にはあのような教室ではなかったかと思われてならない。あのとき教室の外には法も制度なく、新聞も放送も書店もなく、人間を野獣に返すような野蛮が広がっていた。文化は個人としての教師の内面にだけあって、それを伝えようとする努力には、ほとんど死にもの狂いの動機が秘められていた。なにかを教えなければ、目の前の少年たちは人間の尊厳をうしなうだろうし、文化としての日本人の系譜が息絶えるだろう。そう思った大人たちは、ただ自分一人の権威において、知る限りのすべてを語り継がないではいられなかったのである。”
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 この涙を禁じ得ないような一文を読んで諸兄姉はどのような感想を抱かれるであろうか? 私たちの年代は、旧制高校での教育を微かに感じとることができる時代に生きてきた。そこでは、絶えずということではないが、教師たちが文化にたいする疼くような情熱をもって、彼らが感じていたものを伝えようとする時があった。以下は、私が学んだ高校(愛知県立旭丘高校、旧制愛知一中の流れを汲む)でのできごとである。

たとえば、高校二年の時、英語の教師であった稲垣先生はベートーヴェンの生涯についての英文を読み聞かせていたとき、私たちに、”君たちベートーヴェンの音楽を聴いたことがあるか?”、問いかけた。バンカラの学生たちの殆どは、知るものもほとんどいなかった。その次の授業の時、稲垣先生は重い蓄音機を抱えて教室にやってきた。針をカートリッジにはめて、SPのレコード盤の上においたとたん、流れでたのは交響曲第三番「エロイカ」(英雄)であった。そして、この大作曲家が、聴力を失い、様々な病に悩まされ、経済的にも苦しい境遇のなかで、いくつもの傑作を生み出したのだとベートーヴェンの生涯を語った。英語の授業は音楽の授業となり、人生いかに生きるべきかを語る授業と化したのである。

 その高校の三年生のとき、まだ若く気鋭にして熱血漢の大野先生のクラスに入った。国語の先生である。古文・漢文いろいろ教えていただいた。今でも、『源氏物語』『方丈記』『徒然草』『増鏡』などなどを読むのに、なんの違和感も覚えず親近感を持って読めるのもその指導のお陰である。私たちが卒業して、数年後の昭和37年の6月のことである。彼は三年の国語の授業で、薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)の「ああ 大和にしあらましかば、いま神無月・・・」の授業中、みんなが”法隆寺へ行ったことがない”というので、有志で見学に行こうという話が発展し、国語科・社会科・美術の先生たちが協力し、3年生のほとんど全員と2年美術科も加わり、各担任も参加して、実力テストの終わった次の日曜日、バス8台を連ね日帰りで、法隆寺・薬師寺・唐招提寺・平等院と回って暗くなって帰ってきた、と当時の思い出を語っている。こんなことは今では考えられない。当時の栗山校長と教師生徒の一体した気持ちがあってはじめて実現したことである。今、思い返してもこの熱意は凄いことだと思う。満州の暗い仮設教室での授業とも相通ずるものが
ある。教育とは、まことに何かを伝えようとする熱い思いがあってこそできることと思う。



 次は司馬遼太郎の「街道ゆく」シリーズから『近江散歩奈良散歩』の一節をご紹介したい。この後半の奈良についての記述は、まことに秀逸。奈良を訪れる人、とくにその歴史に興味のある人には一読することをおすすめしたい。私が印象を深く持ったのは、廃仏毀釈後の興福寺と東大寺二月堂の修二会についての記述である。

 明治の太政官政権は「廃仏毀釈」というとんでもない勇み足をした。(後に明治政府も正気に戻り、これを引っ込めたのであるが・・・)なぜこんな事が起こったのか。幕末の倒幕勢力の中に国学派(主として平田神道)という層があり、彼らはほとんど宗教的な攘夷思想を持っていた。明治政府は内心は迷惑を感じていたであろうが、彼らの革命の功を切り捨てるわけにはいかず、なんらかのポストを与えねばならなかった。そこで太政官と並列するものとして神祇官を置き、そこに彼らを入れた。彼らは仕事をしたがった。激烈な国粋主義から、仏教も仏寺もすべて外国のものだとして排斥したのである。従来の仏とも神とも言いがたかった神仏混淆思想を糾弾し、神仏分離を命じた。たった一片の命令で、興福寺の僧たちは春日大社の神職にさせられた。この時期、五重塔はわずか25円で売りに出された。

 その興福寺の顛末を、司馬遼太郎は次のように描写している。

”現存する寺としての興福寺には、往時の威容はない。この寺は、明治初年、旧興福寺のを自ら捨てたのである。この場合、官に強制されたということも言いにくい。当時、旧興福寺の僧徒が真に仏教徒であったら、戦国期、織田信長に対して抵抗した一向一揆のように、明治の太政官政権に抵抗することもできた。明治までに日本には、「守護不入」という慣習法があった。歴世、中央・地方の政権は大寺に対して介入しないということが建前だったから、その慣習法をたてにとって、太政官政権と争うこともできたはずである。もし聞かれなければ、興福寺の長大な土塀(今はない)を胸壁とし、堂塔伽藍、塔頭子院を砦として、仏法を守るために戦い、仏とともに砕かれて死ぬという道をえらんでもいい。日本人の精神ということについて考えている。一向宗だけでなく、キリシタンの場合も、自らを砕いた。豊臣期から江戸初期にかけて、大勢のひとびとが転宗よりも天国にゆくことを望んだという大量殉教の事件は、世界キリスト教史にも珍しいほどの現象だった。・・・それに比べると、明治維新成立当時の神仏分離(廃仏毀釈)という暴政に対する興福寺僧侶の態度は溌剌とした精神から遠い。

伝説では、僧侶をやめて春日神社の神職になった連中か、あるいはその配下の下司僧が、仏像たちの魂抜きをしておいてから叩き割って薪にし、風呂を焚いて「ホトケ風呂」だと言って喜んだという。あまり上等な所行とはいにくい。” ”淡雪が溶けるように興福寺は消滅した。”

 さてこれに対して東大寺の修二会のことである。お水取り(修二会)は、天平の昔から境内の二月堂で修される。昔は陰暦三月、今は三月に修される。まだ天寒く、堂内・堂外の闇は凍てつくようである。行法は、夜を徹して行なわれ、明け方に及ぶ。

戦後まもない昭和25年3月に司馬は記者クラブのひとたちとこの行事を見ている。

 ”修二会は千年以上ものあいだ、一年も休むことなく、しかも前例と違うこともなく、平板印刷のように動作が繰りかえされている。それも、澱みの水のようにとりすました動作でなく、この行法には気迫と讃仰への熱意が必要なのである。それが百年一日どころか、その十倍の歳月のあいだ、つづけられている。敗戦どころではなかったのは、明治初年である。かれらは、興福寺の僧がこぞって興福寺を捨てた明治維新の廃仏毀釈のときでさえ二月堂にこもってこの行法を修していたのである。また戦国乱世のころも日が来れば夜々それをやり、応仁の乱のときも欠かさずやり、また公家が日本国の支配者である機能を奪われた鎌倉幕府の成立のころもそれをやめることがなかった。

どういう変動期にも、深夜、二月堂のせまい床の上を木沓(きぐつ)で走り、また跳ね板の上に自分の体を投げて五体投地をやり、あるいは「達陀」(だったん)という語意不明の激しい行法で堂内で松明を旋回させてまわりに火の粉を降らせるのである。 私は思った。様変わることが常の世の中にあって、千年以上も変わることがないと
言うことがひとつでもあったほうが~むしろそういうものがなければ~この世に重心というものがなくなり、人々はわけもなく不安になるのではあるまいか。・・・自然だけでなく、人事においても修二会のような不動の事象が継続していることは、山河と同様、この世には移ろわぬものがあるという安堵感を年ごとに確かめるに相違ない。”

 ちなみに修二会というのは、二月を修する、「二月を美しいものにする」という意味のことであるらしい。そしてこれを始めたのは天平の世に実在した実忠という人である。大仏開眼の年に、実忠はこの行事を始めた。この人は、まったくの余談ながら光明皇后となにやら怪しき関係にあったとか、なかったとか。それはともかく、時代の変遷にあわせて右往左往した興福寺と微動だにせず揺るがなかった二月堂(東大寺)との対比は、ことのほか私の興味を引いたのである。


      ~~~~~

 最後に童話の絵本のことを。”休日には絵本を一冊ゆっくりと”、と作家の柳田邦男が言っている。子どものための心得ではない、私自身のための心得だという。そして2002年に彼が書いた『言葉の力、生きる力」の中で、最近出会った翻訳ものの「この一冊」として、『きりのなかの はりねずみ』(ノルシュテインとコズロフ作、ヤールブソワ絵、こじまひろこ訳 福音館書店)を紹介している。心のぬくもりを感じられるこの絵本、矢も盾もたまらず、すぐに手に入れて読んでみた。いや、眺めて見た。これが、たまらなくいいのである。結びの言葉「こぐまくんと いっしょは いいなと おもいました」には、強く心を惹かれた。おおよそのストーリーは次のようなものである。

 《はりねずみは、夜になると大好きなこぐまの家に出かける。一緒に星を数えるのが大好きなのだ。手にはこぐまの大好物の「のいちごのはちみつ」を器にいれ、赤い水玉模様のハンカチーフに包んで持っている。途中、水たまりに映る星に感動したり、霧の中に幻想的な白馬を見たりする。怖いおばけも出てくる。霧が深く、足を滑らせて川に落ちてしまう。仰向けになって流されるはりねずみは、こぐまへのプレゼントの赤い水玉模様のハンカチーフの包を、お腹の上にしっかりと持って離さない。そのはりねずみの姿の可憐で可愛らしいこと。・・・はりねずみは、水中から現れた大きな魚に救われて、背中に乗せてもらう。無事にこぐまの家にたどりつくと、二人は並んで座り、星を眺める。》

最後のページには、並んで座っているはりねずみこぐまの後ろ姿がある。

 ”はりねずみは、こぐまの おしゃべりを ききながら、こぐまくんと いっしょはいいなと おもいました。”

          


 なんともほのぼのとしたものを感じ、心が暖かくなった。そして佐々木信綱の歌を思い出したのである。


  ”幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ”



           ~~~~~おわり~~~~~











コメント (4)
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