(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

(予告編)読書 『文車日記』(田辺聖子)

2015-04-24 | 読書
ひさびさに読書というこのブログ本来の記事をアップします。大阪のおかん、田辺聖子さんが日本の古典文学について自由奔放に語った文学論(ふぐるまにっき)をご紹介します。来週半ば頃のアップになります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い(その2)

2015-04-21 | 絵画
次にとりあげるのは、フランスの画家ラウール・デュフィである。リヴィエラなど南欧の光りあふれる風景を描いたデュフィは陽気な透明感のある色彩、リズム感のある線描で色彩の魔術師と呼ばれた。何でも明るいものが好きな私は早くから彼の絵に魅了され、いくつかのリトグラフを手に入れてきた。彼は、また音楽好きの家庭の中で育ち、そのせいか音楽をテーマにした絵を数多く描いている。絵画技法的にいうと、水に浸した紙に水彩絵の具を手早くおくことで透明感を出している。

 貧しい家庭にうまれたにもかかわらず、どの絵も明るい。音楽でいうとメンデルスゾーンの調べが聞こえてくるようである。好きな絵をいくつかあげる。青・赤・黄の、いずれも楽器や楽譜が描かれている。それから「アンフィトリテ」と題する海の女神というカラフルな絵がある。

     

これは兵庫県伊丹市の市立美術館が所蔵するもので、いくたびか目にしている。

     

さあ、この中でどれをとるか。黄色の好きな私としては、楽譜が中央におかれた黄色の絵をとることも考えたが、最終的には、すっきり青でまとめたモーツアルトの楽譜が描かれた絵を”一枚の絵”とする。

     


 最後の画家はアンリ・マティスである。2008年の夏『マティスを追いかけて』という題で、マティスのことを延々7回にわたって書き続けた。したがって詳しいことはその記事をお読みください。数多あるマティスの絵から、あえて”一枚の絵”を選ぶことには悩むことばかりである。そこをあえてするとすれば、第4回で紹介した「赤い食卓」がまず頭に浮かぶのである。なぜなら、”赤”は生命力、エネルギー、独立心の原動力と言われるから。そして、こ赤はぎらぎらするような赤ではなく静物・人物とマッチしていて、まったく違和感のない赤である。日本の色でいう「朱色」である。わずかに黄がかった鮮烈な赤。太陽の色とも思える。窓の外の緑とも、反発しあうのでもなく調和しているから不思議である。

                   


それから絵画ではないが、マティスの最高傑作はリヴィエラにあるロザリオ礼拝堂であろう。なんとも明るい、光りあふれる礼拝堂なら祈りを捧げてみたいと思う人も少なからずいるのではないか。 
 
     

ただ残念ながら”絵”ではない。そこで選ぶのは晩年の作品、「ジャズ」と題する切り絵であろう。マティスの頭の中で思いが自由自在に飛翔し、それを切り絵で表現したものである。晩年に到達した至高の境地かと。ビル・エヴァンスのリリシズム溢れるピアノ演奏が流れてくるような気もする。ごく最近、箱根のポーラ美術館で「紙片の宇宙 シャガール、マティス、ミロ、ダリの挿絵本」と題するとても洒落た美術展があった。挿絵本を集めたものである。その一角にマティスのこの絵があった。絵それ自体は何でも見ているが、こういう形で眺めるのは初めてなので、あえて美術館で撮った入り口の写真を載せることにした。

     

 
 さて、私が選ぶ”一枚の絵”、最後の作品は美術館で見るものではなく、自ら所蔵する絵である。今をさる2003年の秋、アメリカ東海岸に遊んだ。そのきっかけは、ワシントンにあるナショナル・ギャラリーが所蔵するオノレ・ド・フラゴナールの「読書する少女」という絵を見ることであった。もちろん、その目的は達成したのだが、旅行の大半はニューヨークで過ごし、なをかつニューヨークの日々の中でもメトロポリタン美術館通いに明け暮れた。ここは毎日開館しており、休日はない。館内は明るく、広々している。絵の前に座ってスケッチするのもいいし、写真撮影もOK。日本の美術館のように薄暗く、スタッフがあれこれ”ダメ”を言ってくるようなこともなく、快適に一日を過ごすことができる。セントラルパークを望むレストラン、カフェも素晴らしい。

     
 
 ある日、一階の中央奥の彫像のあるエリアで黒人の画家が少女と愛犬の石像(大理石)をスケッチしていた。その周りには人だかりしている。像を見ながら、一本の鉛筆を遅滞なく紙の上にすべらせてゆく。寸法を測ったり、線を消して書きなおすこともない。ひたすら明暗をつけた線が走ってゆく。そのうちに像の絵が姿を現してゆくのである。あまりの旨さにみんな見入っていた。そのうち、一人の人が画家になにやら話しかけてゆく。その絵ができたら、譲ってくれないか・・とか。あるいは、自分の娘の肖像を描いてくれないかなどと交渉しているらしい。人だかりが無くなった頃を見計らって、”その像の絵を一枚描いてくれないか”とリクエストしてみた。そうしたら、”すぐには描けないが、一週間あまりくれれば描いてもいい”との返事が返ってきた。幸いこれからボストンに行くのでそれで構わないと、答え、制作を依頼したのである。それから9日あたり経ったころメトロポリタン美術館の前で彼(Dwight Williams)と再会し、絵を手に入れた。きちんと額装し、絵の手入れについての書かれた手紙が入っていた。絵のタイトルは「Innocence protected by Fidelity」 

         

 もともとの大理石像は、イタリアの彫刻家ジョバンニ・マリオ・ベンゾーニが彫りあげたものである。(1852年作)いたいけな少女の左横に愛犬が座っている。よく見ると、その前足で毒蛇を押さえつけている。忠実な下僕が主人を守っているという構図である。下僕に限らない。父親が、目にいれても痛くない愛娘をいつも見守っているシーンでもある。私自身、息子はやや突き放して見るが、娘はやはり小さな恋人のようなもので、この愛犬の主人を見守る”気持ち”は分かるのである。・・・・と、いうことで”一枚の絵”はこれを選んだのである。絵の巧拙とか、その価格ということではなく、その意味するところそして異国の地での画家との出会いということでの、思い出の一枚なのである。



 今回も長々とお話してきました。お付き合に感謝いたします。もしできれば、諸兄姉の”一枚の絵”についてのご意見をお聞かせいただければ幸いです。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(予告編) 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い(その2)

2015-04-17 | 絵画
「一枚の絵」の続編です。好きな画家、アンリ・マティス、ラウール・デュフィについて。そして最後には、ニューヨークのメトロポリタン美術館で出会った画家の絵のことにふれます。今すこしお待ちください。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画/エッセイ 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い

2015-04-08 | 絵画
絵画 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い

 以前、作家五木寛之の『知の休日』という本を紹介したことがある。その一部をここに再掲させていただく。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (アートと遊ぶ)という章では、絵画鑑賞について、”なるほど”と思うことをつぶやく。

 ”(ルーブルという広大な美術館のことに触れてからあ・・) いわゆる名画というやつは、立て続けに何点も見れば見るだけ感銘が薄くなっていく。本当は一点でいいのだ。<一期一画>というのは私の勝手な造語である。むかし、福岡で<一点だけの展覧会>という催しがあった。こじんまりしたホールの正面の壁に、名画を一点だけかけてその前にベンチや椅子を並べておく。人々は、その椅子に座って、眺めては考え、考えては眺め、気をとりなおしてはまた眺める。三十分あまりもそんなふうにして、一点の絵だけを眺めていると、絵画の良さというものがしみじみこちらにも伝わってくるような気がした。こういう展覧会も悪くない。

 人間が絵を鑑賞するさいに、発揮できるエネルギーの量というものは一定である。十点の名画を見れば、それぞれの作品に対する感動が十分の一になってしまう。まして五十点、百点と眺めてしまえば、ただ見た、というだけに終ってしまいかねない”

 
 ~その通り、と頷くのだ。そして、その一点の絵を選びだすアプローチについて、五木は次にように語っている。

 ”人気のない画廊や美術館の中で一日を過ごすというのは、なかなかいい休日の使い方というべきだろう。ニューヨークの近代美術館は、カフェやレストランがとても気分がいい。街なかにあって足の便もよく、庭にも風情がある。おおむね美術館のなかの食堂は、安くて実質的だ。大きなバッグを抱えた若い画学生たちが、三々五々、陽気なおしゃべりをしているのを横目で見ながら珈琲を呑み、アップルパイをかじる。そしてまた気をとりなおして絵を見にゆく。
 外国の美術館で絵を見るなら、すくなくとも一日たっぷりかけたほうがいい。そして自分の心に触れた一点を探し出し、その一点と徹底的につきあう。どういうふうにしてその一点を探すのか、というのが実は問題だ。

~そう言って五木寛之は、自分が国際的な美術品泥棒になったつもりで、絵をみることがある・・・とか、あるいはその美術館のオーナーが画家自身で、自分の無二の親友と想像し、「せっかく来てくれたのだから、記念にこの中で一点をあげよう、どれでも欲しいものを指さしたまえ、と言われたという仮定で絵を選び出す、というようなことを言っている。

 ~これはには共感を覚える。今年の早春、京都郊外にある大山崎山荘美術館で「光と灯り展」(クロード・モネほか)を見た時は、じっくり半日かけて鑑賞し、その一点を心に決めたことがあった。また昨年12月に福岡県立美術館で弧高の画家、高島野十郎の作品を鑑賞したが、それは名作「蝋燭」の絵を見るだけのために足を運んだのであった。やはり、絵を鑑賞する時は、1~2点に集中するのが、”いい”と思う。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

 さて今回の記事のタイトルを「一枚の絵」とした。どういう観点からの「一枚の絵」か? 思いつくままに考えを巡らせてみよう。まず、私の好きな画家の作品からの”一枚”を選び出すという不遜な考えである。洋の東西、時代の新旧などはこの際飛ばすことにする。まずは東山魁夷の作品。あまりにも有名な「道」を挙げる方は少なくないであろう。もちろんこれは好きな作品ではある。そして青や緑を基調とした作品を、みなさん選ばれるのではないだろうか? しかし私の好きな一枚は違う。「残照」である。これは戦後間もない1947年、第三回日展で特選を得た出世作。千葉県鹿野山の九十九谷の風景に甲州や上越の山々の情景を重ねあわせたものである。

          


 この絵を初めて見たのはいつのことか忘却の彼方であるが、見た時はなぜか懐かしさを感じたのである。デジャブー感覚があった。そして思い出したのだ。学生時代、山登りに明け暮れていた頃に燕岳から常念岳・蝶ケ岳を経て槍穂高へと縦走したことがあった。蝶ヶ岳の山上近くについたのは、もう午後の遅めであった。3時か4時頃であったろう。眼前に広がったのは穂高連峰。北穂、涸沢岳を経て奥穂高、前穂高岳とつづく山なみ。もう日が落ちかかっているのに、前方の穂高の山々は静寂の中に、まだ陽を浴びて輝いていた。その残照になぜか惹かれて、ずうっと腰をおろし眺めていた。心の安らぎのようなものを感じ、そこから離れがたかったのである。

 虚子の句にこういうのがある。”遠山に日の当たりたる枯野かな” 彼は自ら『虚子俳話』のなかで、こう書いている。

 ”自分の好きな句である。どこかで見たことのある景色である。心の中では常に見る景色である。遠山が向こうにあって、前が広漠たる枯野である。その枯野には日はあたっていない。落莫とした景色である。ただ、遠山には日が当たっている。私はこういう景色が好きである。わが人生は概ね日の当たらぬ枯野の如きものであってもよい。むしろそれを希望する。ただ、遠山の端に日の当たっていることによって、心は平らかだ。烈日の輝きわたっているごとき人世も好ましくないことはない。が、煩わしい。遠山に日の当たっている静かな景色。それは私の望む人世である”

 稲畑汀子は、これに関して、”寒々とした景のなかそこだけがあったかそうに明るく輝いている。そのことが荒涼とした枯野に立つ人に一点の心の火を点ずるのである。それは救いでもあり人生の希望でもある” と解説をしている。東山魁夷がそこまで思って、この「残照」を描いたのかは分からない。しかし、戦後まもない時期に人心も山河大地も荒れ果てていた時期に、なにがしか”心の明るさ”を思い描いていたように思う。


 がらり変わって。安野光雅さんの絵も大好きである。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、落ち着いた雰囲気の絵を描く。佐藤忠良と対談を聞いていても、またいつかNHKで放映されたヨーロッパでのスケッチ風景をみても、穏やかな温顔には惹きつけられる。安野さんの絵はずいぶん沢山みてきた。真似して描いて見たこともある。しかし、なかなかその雰囲気は絵に描けない。彼は日本の原風景をこよなく愛する。それを眺めながら、心温まる絵を描くのである。以前、奈良の明日香村へ出かけた時のことをこんな風に描写している。

 ”日本の各地から、あの段々畑に稲を植えるために、人が集まってくるという。春は野山が花で埋まり、やがて柿の葉の新緑が日に映えているかと思うと、秋には赤い実をつける。破壊されつつある日本の自然を、てをこまねいて見ていなければならないこのごろ、明日香に残す自然と、そこに生きる人々の志を、このうえなく美しいと思う”

 安野さんは生まれ故郷の津和野や安曇野の自然を数多く描いている。ところが、日本の風景にとどまらない。イタリアの陽光、イギリスの村、アメリカの風、スイスの谷、ドイツの森、ニューヨークの落ち葉などなど。その中にアメリカ東海岸のニューイングランドの景色を描いたスケッチがある。その中の一枚が、とても気に入っている。ボストンの西に位置するコンコード郊外でメープルウッドの黄葉に包まれた町を描いたものである。気に入っている理由・・・”黄色が好きなんや!” 単純なのである(笑)

     


 次はオーストラリの画家フレデリック・マッカビン(Frederic McCubbin)の絵をとりあげることにする。80年代に豪州で仕事に携わっていた頃、メルボルンには何度も、いや毎月と言うくらい出張していた。メルボルンヒルトンを定宿にしていたが、週末には歩いたすぐのところにナショナル・ギャラリー・オブ・ビクトリアがあった。そこで見たのが、F・マッカビンの絵「The Pioneer」であった。荒れた、未開拓の地を切り開いてゆく入植者たち。まさにパイオイニアである。こういう人たちの苦労があってこそ今日の繁栄するオーストラリアがある。どんな気持ちで大自然と対峙したのか、その苦労を思って、しばし絵の前に佇んでいた。また幼い赤ん坊を膝の上にのせた妻と、今火を熾している夫を描いた「On the Wallaby Track」などの名作もある。

     

そして私が選んだ一枚の絵は「Home comming」という作品である。失踪していたか、あるいは見捨てられたかとも思っていた夫が突然帰ってきた。女の表情は、喜びでは溢れてはいない。なんとも複雑な面持ちだ。ひとりきりになり、農家を支え赤ん坊を育て、苦労して生計を維持してきた女性に焦点が当たっている絵である。このあとどうなるか・・? 色んなドラマが読みとれる一枚である。絵画自体の巧拙もあるが、そこに込められたオーストラリア初期の入植者たちへの思いが伝わってきて好きな一枚となった。

          



 ところで高島野十郎という画家をご存知だろうか? この孤高の画家を知る人は多くはないかも知れない。私自身も一昨年の冬まで知らなかった。「月」や「蝋燭」の絵を描きつづけたことで知られている。そして彼の作品との出会いはまさに奇遇とも言うべきものであった。野十郎は明治23年生まれ。東京帝大農学部水産学科を首席で卒業しながら、画家への道を選んだ。そして”世の画壇と待ったく無縁になることが小生の研究と精進です”と本人が語るように美術の流行や画壇の趨勢(すうせい)に見向きせず、写実に徹した作画をおこなった。花や果実といった静物から信州などの風景画そして晩年は月だけが描かれている夜空を表現したり、また初めのころから一貫して火の灯された蝋燭の絵を描きつづけた。それゆえ「蝋燭の画家」ともいわれる。

                          

 その絵をかなり多く収蔵していいる福岡県立美術館が中心となり、2005年の12月に没後30年を記念して高島野十郎作品点を開き、その名が次第に世に知られるようになった。近年になってNHKの美術番組でも放映したりした。それを見ていた美術に造詣のある親しい友人が、一度実物を見てみたいと、仕事で福岡へ出張した際に、この福岡県立美術館を訪れた。が、残念ながら、野十郎作品が巡回中であったため、見ることが叶わなかった。

 一昨年の年末の頃、この野十郎作品のことがその友人との間で話題に上った。”そう。一体どんな絵なのかなあ”と興味を示した私は好奇心ついでにすぐ野十郎のことを調べてみた。そうしたところ東京の足立区の綾瀬美術館のウエブサイトの中に、”野十郎の”月”と”蝋燭に関する味わいのあるエッセイのような作品紹介の一文を見つけた。その中に野十郎の辞世の歌が引かれてあった。

  ”花も散り世はこともなくひたすらにただあかあかと陽は照りてあり”

 己の来し方を振り返った時、世の人と交わることもあまりなく、絵を描きつづけてきたそれでもその歩んだ道の上には太陽が照っていたのだ、といささかの自負も持っていたのではないか。 そうなのか、それならこの男の絵を実際に見てみようとの好奇心がうつぼつと湧いてきた。調べてみると、”今”、福岡県立美術館で野十郎作品展が開かれているではないか。ただし、あと三日を残すのみ。遠隔の地にいる友人と連絡をとりあい、すぐ福岡へ飛んだのである。ただ、野十郎の絵を見るだけのために。
 
  
 まずいくつかの野十郎作品をご紹介する。「月」の絵のことについては没後30年記念展の画集のなかに川崎とおる(早大名誉教授、ロシア文学)という人が次のような文章を描いている。

 "高島さんが月の絵を私のところに持参したのは、昭和38年。さらに私が月の絵を持って詩人の宇佐美英治氏を訪れると、「これは凄い」といって氏が中原佑介氏に連絡を してくださり、その年の「芸術新潮」8月号に、高島さんを他の数人の画家とともに紹介した。・・・高島さんが私の書斎でふろしきを解いて新しい月の絵を差し出したときには、出来たて の黄金のパンをもらったような香りがした。画家は「ぼくは月ではなく闇を描きたかっ た。闇を描くために月を描いたのです」と言った。野十郎の闇は青い緑をたたえた生命の海である・・・。

  ひところ私は、書斎の窓に満月が昇りはじめると、野十郎の眼になりきって、中天に 吊るされた巨大な球体をじっと凝視しつづけた・・・皓々と輝く球体の光に染まったあ とで、野十郎の月を見直す・・・画家の眼で捉えられ、描かれたイミテーションのはず の『月』がそれ自身の光輝を放ち、見る者を捉えて放さない…”

     


少し調べてみると、高島野十郎は仏教のこともよく学んでいたようで、いわゆる”日想観”に似た”月想観”とでもいうような心境があったのかも知れない。ところで俳句や和歌の世界では、月は秋を象徴するものとして捉えられており、古来数多くの秀句が詠まれてきた。それは月に関する季語を拾えば分かることである。

 名月(満月)/望月/十六夜/立待月/居待月/二日月/繊月・・・。そして名月の夜には縁側にでて、お供え物を食べながら、月の眺めを親しむ。

   ”たまさかに肩寄せあって十三夜”

 ところがそうした見方ばかりではない。「真如の月」という言葉がある。”衆生の真如仏性は、常の煩悩に包まれながら、その体、少しも染まらず、汚れず、たとえば、月の雲におおわれても、月の体は常に清く明らかなるごとし。これを真如の月というなり。”(年波草) 野十郎の描くところの月の世界も、そういうようなところかもしれない。そういう思いを持って、改めて野十郎の「月」の絵を眺めてみると、心に清澄を感じ、透徹したものが湧いてくるような気がする。ということで、この「月」の絵は気に入っている。


 次に「蝋燭」である。彼は、なぜ蝋燭を描くのか、蝋燭は何を意味しているのか、それについて彼は一切語っていない。揺らめく炎が演じる光と闇。これにも何か宗教的な意味合いがあるのであろうか?すこし考えてみたい。陶芸家河井寛次郎は、その著『火の誓い』のなかで、こんな言葉をつぶやいている。

 ”身体(からだ)に灯ともす 全身に灯す

 全身の明るさで自分の所在を示している提灯。暗闇の中の平和な穴をあけている提灯。 自分を明るくしているだけではなく、ぐるりも明るくしないではおかない提灯。自分を焼かないように、他をも焼かない提灯。向こうよりは足下を見さす灯。小さいけれども大きな夢を見させる提灯。穏やかではあるが、八方を照らさないではおかない灯”

     

 何も語らなかった野十郎ではあるが、案外同じようなことを思っていたのかもしれない。野十郎の「蝋燭」には何枚もの絵があって、少しずつ微妙に光の色も違い、好きか嫌いかと聞かれても、なかなか明快な答えをするのがむづかしい。確かに”気にはなる”絵である。たまたま冒頭で書いた親しい友人は、偶然の成り行きで、最近この『蝋燭』の絵を一枚知人から譲られた! 野十郎のことを分かってくれる人にもらってもらいたいと。そういうわけで、いずれこの友人とで一緒に『蝋燭』の絵をみながら、改めての品定めをしてみたいと思っている。

 最後の一枚は「萌え出づる森」と題された風景画である。他にも「林径秋色」という黄葉・紅葉の雑木林を描いた絵もある。こういうのに、弱いんだなあ! 雑木林そのものが好きなのである。そんなところに身をおいていると、心に安寧を感じるのである。と、言うわけで、今のところ、高島野十郎に関する一枚はこの「萌え出づる森」としたい。しかし、これから、かの友人と野十郎の作品について語り合う機会があれば、いくばくかの議論の末に見方は変わってきて「月あるいは「蝋燭」の絵を選ぶかもしれない。

     


 すこし長くなったので、ここでいったん筆をおかせていただく。続編では、好きな画家としてマティスそしてラウール・デュフィの絵について採り上げる。そして最後にはこのブログ記事の締めくくりとして、私の所有するところの一枚をご紹介させていただく。


 (次回をお楽しみに。週末にアップします)

















コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(予告編)絵画~一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い

2015-04-07 | 読書
わたしの好きな絵、印象に残る絵、そして忘れれない一枚についてご紹介します。 金曜日ごろのアップを予定しております。 TGIF!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時評(金融・経済) 米国の量的緩和縮小でどう動くか(その2)

2015-04-03 | 読書
(その2)時評(経済・金融) 米国の量的緩和縮小でどう動くか(その2)

 今年6月ないし9月ころには米国の量的緩和縮小が始まると予想される。その場合私たちの生活にどのような影響があるか? またどのとのように対処したらよいのか、具体的なことに立ち入って記します。その前にまず『未知のリスクにさらされる世界の経済』について、前編で書いたことを要約しておきます。


(米国の量的緩和縮小で何が起こりうるか


 FRBはゆっくり量的緩和を縮小することで金融市場への衝撃を和らげつつ、マネタリーベースの上昇に歯止めをかけようとしている。なんとしても金融市場からの反乱をおさえこみたいのだ。

 しかし量的緩和縮小後は、このマネタリーベースは再び横ばいになり、緩和縮小第3弾で堅調に推移してきた米国株価指数の勢いにも、足を引っ張られる局面が到来する懸念がある。世界経済に混乱の影もさす。

  注)マネタリーベースと株価指数がおなじ歩調で推移していることからも分かるように量的緩和による金融緩和に過度に依存している世界経済の姿がある。

 いつも中央銀行(FRB)が、なんとかしてくれると言う政策への信認(クレディビリティ)が持続するという幻想は捨て去るべきである。

 2015年以降の金融市場は一筋縄ではいかないことが予想される。

 世界の人口増加率もピークアウトし、低下傾向にあり、世界経済の成長率も低下してゆく(これはイノベーションやIT革命、エネルギー革命などにより経済マイナス効果を乗り越えなければならない)

 株価暴落(20%程度)や円安トレンドの継続を予想。そして米国の株価指数の変調は、海を越えてわが国の株価指数にも影響を与えることが予想される。



(マクロ面で見た、私たちの生活への影響は?)
 ”人口が減少する中、経済成長率を引き上げるためには、産業を育成し、投資を喚起していくことが必要だ。個人の所得や日常生活にとって、日本経済全体のことは関係ないという考え方もあるが、個人の所得も、その前提として日本経済が成長しなければ顕著な増加は期待できない。”

 この点を考え、大胆に経済や社会の構造を変えことを提案している。農業分野での規制改革、経済安定のための国際協調の一環としてのTPPの推進などをあげているが、詳細はここでは省く。

 ”世界経済の先行きは不透明だが、しかし経済そのものは常に動いており、中所得層が拡大すれば、新興国の消費は高まってゆくだろう。不確かだからといって
極度に慎重になり、将来を悲観することは、チャンスを逸することにもつながりかねない。

 ”緩和的な金融政策のマイナス面の影響は、先進国にも及ぶ可能性がある。特にわが国においては、米国よりも長期にわたり量的・質的緩和が継続される可能性が高い。米国の景気はゆるやかに回復しており、金利上昇への観測が高まりやすくなっていいるかである。貨幣の供給量(マネタリーベース)の観点でも、米国はゆっくり減少させる一方、わが国のマネタリーベースの拡大は持続せざるを得ない。 

 そのため、円は中長期的に下落する可能性がある。これは、わが国において、インフレ圧力が高まりやすいことを示唆する。しかしこのインフレ圧力は、消費に牽引されたものになるのだろうか。現状の日本経済を見る限り、消費が拡大せずにインフレリスクだけが高まる展開を否定できない。すでに貿易収支は赤字に陥り、経常収支も悪化傾向にある。そのため、円安を波及経路としたインフレリスクの台頭は、わが国の経済に
マイナスの影響を与える可能性がある”

  注)このインフレリスクの緩和のためにも貿易や投資に関する規制の自由化をすすめ、相対的に技術優位性のあるアジアでの地位を固め、輸出力を高めるなどの提案がされているが、ここでは省いた。


 では(個人々としてどう対応したら良いのか)この説くところは明快である。その是非については、後でコメントをする。「不安定な時代の老後の資産運用・・・」というタイトルになっている。したがって、すでに退職しある程度の資産が積み上がっている人を対象にした論である。資産形成はこれからという若い人たちのケースについては、そのあとで私見を述べる。

 資産運用のキーポイントは「ものを買うチカラ」の維持拡大という。購買力のことをいう。少しでもインフレが進んでゆくならば、購買力は低下する。基準はインフレ率である。2014年の消費者物価指数は、対前年比で3パーセントを超えている。今後もインフレ率がマイナスになる可能性は低い。今後の指数の上昇率が日銀の想定する2パーセントとすれば、資産運用によるリターンは2%は少なくとも確保しないと「買うチカラ」は維持できない。できれば、この2%に少し上乗せして「買うチカラ」の拡大も図りたい。

 その具体策の一つとして物価連動国債を挙げている。これは消費者物価指数の変動に連動して元本や利息が変動するため、インフレがあっても「買うチカラ」はそのまま維持されることになる。これまで個人で物価連動国債を買うことはできなかったが、本年1月から買えるようになった。一般的には物価連動国債ファンドがあり、証券会社で、これを購入することができる。

 ”圧倒的に日本国債のなかで発行額の少ない物価連動国債の価格は、国内機関投資家や金融機関の駆け込み購入により大きく相当することになるであろう。そのような時にこそ、無理をしない運用、背伸びをしないを心がける個人投資家にとっては、パニック的に買われる物価連動国債を、余裕を持って売却してゆけばよいのである”

 私見として付け加えるならば、この物価連動国債ファンドは、何も日本国債を対象としたものだけに留まらない。世界物価連動国債ファンドなど海外のものもあり、日本のそれよりもトータル・リターンは高い。これも証券会社で購入することができる。


 次いで「買うチカラ」の拡大については、米国の量的緩和の正常化の過程での不安定な時代であるため、維持を軸として、拡大部分は控えめにしておきたいことを強調している。(無理に株式などの高リスク資産への投資はあまりすすめていない)株価指数に連動するタイプの資産運用を軸とすることはすすめていない

しかしながら、一方でこのようにも言っている。

 ”むしろこのような時代には、買うチカラの維持を軸にして、金融環境が大きく変化しても安定的に増益が確保できる企業を選んで投資するスタイルで、補足的に買うチカラの拡大をするほうがよいだろう。株価指数全体に投資するのではなく、企業や業種を選んで投資するスタイルの株式投資である。”

 ここでこの優れた著作の紹介を締めくくる前にあたり、「おわりに」で著者らが結んだ言葉を記しておく。

 ”今、再び予測するならば、ITバブルにつづくサブプライムバブルの清算ーデレバレッジが終了したとは考えられない。現在は長い1940年代の途上にあり米国の量的緩和解除が順調に進んでいくと考えるのは楽観的すぎるであろう。さらに政府債務の圧縮など遠く及ばない環境にあるからだ。世界経済は、「未知のリスク」にさらされようとしている”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 さて本書の紹介は終わったが、個人が資産運用をする場合を想定して、次の二つの重要な点について私見をコメントさせていただく。

 (株価指数による運用か、あるいは成長株を選んでの投資か?)
 著者は、”株価指数全体に投資するのではなく、企業や業種を選んで投資するスタイルの株式投資”を推奨している。この点については意見が別れるところであろう。著者が指摘している株価指数による運用とは、いわゆるパッシブ運用である。従来の日経平均や東証株価指数(TOPIX)加え、収益性や値動きを加味した「進化した指数」のスマートベータなどが登場し、指数連動型の運用は雪崩を打つかの如く指数運用に傾いている。米国ではインデックス投信やFEFと呼ばれるファンドがかなりの勢いを占めている。コストが圧倒的に安いからであると同時に、大きな年金基金など巨額の運用にあたって、成長しそうな企業を選んの投資は管理コストも高く、運用がむつかしい。米国では、資金の9割が指数連動型のパッシブ型ファンドに流れ混んでいる。かの”ウォーレン・バフェットも、「現金のうち10%を米国の短期国債に、90%をS&P500種株価指数に連動する低コストのインデックスファンド(私はバンガードをすすめる)に投じれば、高い手数料を取るファンドマネージャーより長期で優れた運用成績をあげられる”と言っている。

 これに対し企業などを成長性などの点で選んで投資をするのは、アクティブ運用と呼ばれる。本書で著者がすすめているのは、この運用方法である。しかし、投資を少々勉強したくらいでは、現実にはなかなかできないのではないか。ある運用の専門家によれば、

 ”金融機関のセミナーで、「このままだと老後の資金が足らなくなる」などと脅かされ無茶な運用をする人がいる。特に高学歴の大企業OBに限って、投資に関する根拠のない自信を持ってしまうようだ”

 個別株ではなく、アクティブ運用をする投資信託を選ぶことも選択肢の一つである。その場合、証券や銀行の窓口を通すとコストも高いので、”直販”と呼ばれるファンドの運用を行っている会社から直接買う方がコストの点などから好ましい。なお補足すれば、いくつかの直販投信では、より良き社会を形成するに貢献する企業に投資を行うファンドがあり、投資の本質的な意味を考える上では望ましい姿と思われる。このアクティブ運用に関して、つい最近のことであるが、約137兆円の運用資産を持つGPIF(年金積立金管理運用独立法人)が、2015年度から成長企業を選んで投資するアクティブ運用の比率を高めることを決めた。

 (海外投資はどうなのか?)
 この著書では、今後の世界経済の成長率の低下傾向を指摘しているが、個別に見てゆくと米国経済あるいはアジア地域では6%超の成長が維持されるとの最新の経済が見通しがある。特にインドは構造改革が進み、域内最高の8・2%の成長が見込まれている。(アジア開発銀行ADB、2015年3月24日発表)であれば、そのような高い経済成長の見込まれる国、あるいは世界経済全体へのインデックスファンドやETFなどを通じて投資を行うことも考えられる。むしろ海外株や海外を投資対象とするファンドなどへの投資を主とする考え方もあろう。


 最後になったが、これから資産形成に務める若い世代の方々に対しては、然るべき直販投信を通じて、こつこつと長期投資に徹することをおすすめしたい。現役世代、それも若い人たちは、自分自身への投資(教育投資)が必須であり、もっとも重要であって、株だ外貨投資、FX運用などに時間とエネルギーを注ぐことはもったいない。

 
 2回にわたる長文におつきあいいただき、ありがとうございました。





(余滴)「マネー学」おすすめの三冊 

 (1)『投資家が「お金」よりも大切にしていること』
                   (藤野英人 星海社、2013年2月)

    これを読めばお金に対する見方が変わります。投資をすることがどういう意味合いを持つのか、よくわかります。
    薄い新書版ですが、その本書の値打ちはとても部厚いです。若い方も、またリタイアしてお金をただ抱えている方もお読みください。

 (2)『長期投資家の「先を読む」発想法』
                   (澤上篤人 新潮社 2014年11月)
    直販を日本で初めて導入した先駆者が長期投資の持つ意味、重要性を語った本。少々楽観的すぎるところもありますが、熱い思いを語っています。

 (3)『未知のリスクにさらされる世界の経済』 (本書)







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする