(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

奈良紀行シリーズ(その二)~興福寺

2019-01-11 | 日記・エッセイ
奈良紀行シリーズ(その二)~興福寺


 奈良には、京都のような華やかなお寺や庭がふんだんにあるわけではない。わざわざ足を運びたくなるようなグルメスポットもあまりない。また、訪れる場所が、あちこちに散在していて足の便があまりよくない。それでも、なぜか奈良に行きたくなる。


 ”奈良がおおいなるまちであるのは、草木から建造物に至るまで、それらが保たれているということである。世界中の国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているとことはない。奇蹟といえるのではないか。” (司馬遼太郎) そして何といっても、本格的な日本という国の発祥の地であるから懐かしさを感じるのである。


 興福寺は、歴代の官寺である東大寺と対峙して奈良では二大勢力の一つであった。堂塔の数も百宇を越え、中世には近畿の最大勢力となった。しかし、享保2年(1717年)、金堂や西金堂、講堂、南円堂が罹災して伽藍の中枢を失い、また明治に入って廃仏毀釈の動きもあって衰退の一途をたどった。この廃仏毀釈後の興福寺の混乱を極めたありさまについては、以前にブログで取り上げたので、ここで省く。往時の威容はない。

また和辻哲郎の『古寺巡礼』では、興福寺のことは。なぜか取り上げられていない。魅力を感じなかったのであろうか? 何か、取り残された感じすらする。しかし、天平時代には盛況であった。万葉集の歌にもあるではないか。

 ”青丹よし奈良のみやこは咲く花のにほふがごとく今盛りなり” (小野老朝臣)

 では、なぜ今興福寺なのか? 一つには、あまりにも有名な阿修羅像ほかの存在があり、また昨今、興福寺貫主である多川俊英師が中金堂の再建や伽藍の復興に精力的に取り組んでおり、昨年秋に中金堂が再興されたことである。小春日和の一日、奈良に遊び、興福寺の最近の様子をつぶさに見てきた。また、ちょうど中金堂落慶記念・世界遺産登録20周年記念入江泰吉「古都奈良の文化財~興福寺~」展が、高畑にある入江泰吉記念写真美術館で開催されていたので、そこへも足を運んだ。


 近鉄奈良駅から東へ登大路を歩むと、すぐ右手に興福寺がある。寺域もまだまとまっていない。

      


鹿の群れの中を通り抜けて、まず中金堂へ向かう。

   


中金堂は伽藍の中心となる存在である。東西36.6M 南北23M、高さ21.2Mの堂々たる威容である。創建時の復元を目指し、遺跡の発掘調査や各種縁起などの資料の精査、検討を踏まえて伝統的な木工技法によって復元された。柱の木材の手当には苦労があったようで、カナダはバンクーバー島のヒノキなどを視察し、最終的にはアフリカはカメルーン産の木材を使用した。釈迦如来を本尊とし、薬王・薬上菩薩が脇侍におかれ、内陣では法相柱が再現されていた。日本画家島中浜亨氏の製作になるもので、方相の14人の祖師の姿が描かれていた。色彩鮮やかで、目を惹いた。

   


ところで法相(ほっそう)とはなにか? 存在のあり方を示すという。「唯識」(ゆいしき)とも言う。古代インドで発達した哲学体系の一つで、認識とはなにか。あるいは真理の本性、特質を考える学問である。宗教というより、哲学に近い。これは、空海などの平安仏教からみても。解脱の宗教体系とは言い難いし、鎌倉仏教のような救済の思想も入っていない。方相をインドから唐に持ち帰ったのは、玄奘三蔵で、彼はこれを翻訳し、その弟子が『成唯識論』という注釈書を書いた。この、ただ一冊の哲学書を、興福寺という大学とも言える組織が千数百年も研究しつづけたというのは、世界にも例のないことらしい。ちなみに薬師寺も、法相宗である。


いささか難しい話であるが、これを噛み砕いていうと、どうなるか。じつは、多川俊映貫主が、日経の私の履歴書」(24)の中で、次のように云っている。

 ”2001年8月に「はじめての唯識」と改題して終章「唯識と現代」を増補した。物事の認識は一人一人異なり、みな自分の世界に生きている。それを認めないと人間関係がぎくしゃくする。違いを認め合うには手間ヒマがいるが、唯識を学ぶと、豊かに楽しめる――。

「唯識仏教の教えを学ぶ最適の入門書」との望外の評価をいただいたので13年8月にずばり「唯識入門」と再改題して、さらに充実を図った。いかに生きるべきかを考察して難解な唯識を日々の暮らしの糧にするべく心がけた。幸い版を重ねて現在に至っている。”

     

 
 中金堂を見てから北円堂、さらに南円堂へ回った。。南円堂は、現存する八角堂のうち最も美しいフォルムと言われている。伽藍西側の端にあり、平城京を一望の下に見渡すことができる。南円堂前をすぎ、一旦南大門の出口をでて、西に行くと、三重塔がある。伽藍から離れた形になっているので、ここを訪れる人はあまりいない。興福寺の中では、最古の建物である。なんとも言えぬ優美な線が醸しだされている


     


     
もとの伽藍に戻って、国宝館をみる。2018年1月にリニューアルされ、以前は雑然と置かれてあった仏像が整然と配置され、見やすくなった。本尊の千手観音菩薩、十大弟子像、金剛力士像、天燈鬼、竜燈鬼、沙?羅像、さらには7世紀の銅製仏頭もみることができた。この仏頭は興福寺東金堂の本尊であったが、応永18年(1411年)の大火のため、頭部だけ残して溶けてしまった。さらに本を訪ねると、飛鳥の山田寺の本尊薬師如来であった。欽明天皇13年(641年)に蘇我倉山田石川麻呂が、飛鳥の山田に創建した寺である。この人は、孝徳天皇の世の右大臣であり、その娘蘇我造媛は皇太子中大兄皇子の妻の一人であった。それが同族の蘇我日向が皇太子に讒言したため、軍勢に囲まれ妻子もろとも殺害された。後に石川麻呂の冥福を祈って、天武天皇13年に37回忌の祥月命日に開眼供養されたものである、。石川麻呂は温和で善良な人間であった。しかも、彼は”願わくは、われ世々君主(きみ)怨まず”と誓って死んだ、この仏頭は、独特の気品の高さと周りに漂う哀感は、こういう歴史的事実に由来する。

     
 


そして、なんといっても天平彫刻の傑作と言われる阿修羅像をゆっくりと見ることができた。ところで、哲学者の梅原猛は、その著『仏像のこころ』のなかで、仏像の鑑賞法について次のように云っている。

 ”一つは仏像を対象とした抒情詩をつづる方法である。人生の途上でふと出会った人が、われわれの一生を支配し、決定することがある。一生に何回かかかわれば、自己の運命を支配する人に出会うわけであるが、時とすると我々は仏とも運命的な出会いをすることがある。大正6年、和辻哲郎は、奈良の古寺の仏像の美に感動をして『古寺巡礼』を書き、ヨーロッパ的教養で仏像をみる新しい仏像鑑賞の道を教えた。また、昭和12年、亀井勝一郎は思想転向によって傷ついた心を抱いて、ふと訪れた中宮寺の弥勒菩薩の微笑に一切の罪をゆるす慈悲を見て『大和古寺風物誌』を書いた。そして戦後の民主主義のかもしだす俗悪な空気に耐えかねて法隆寺を訪れた竹山道雄は、そこに精神の貴族のみが味わうことができる、ロマン的文化の崇高さを感じて、『古都遍歴・奈良』を書いた。

こにように己の精神の転機にあって運命的な出会いをした仏に対する感激を記すことは、たしかに人の魂を揺り動かすに違いない。そして、われわれは、結局仏に対して自己の心でふれるより他ないのである。・・・しかし、とかく主観的感動は、客観的な仏の持つ意味と食い違うことがある。とくに古都の仏像に伴う深淵で神秘的なムードは一様にただ甘美な陶酔に人を誘いこみがちなのである。たとえば、飛鳥仏の口もとに漂う微笑は、仏像そのものの象徴であるかのようにある神秘的気分に人を誘い、多くの冷厳な哲学者や文学者から、美しいが意味のとり難い嘆声のような賛美の言葉をもらさせるのである。いわく、「モナリザの微笑に似た微笑」とか「瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現の微笑」・・・と。・・・このように
仏像に対して、恋文にも似た賛美の言葉を送るより、仏像の持つ客観的な思想の意味を知り、その仏像に表された思想とわれわれの魂とを格闘させたらどうか。仏像の語る思想と真摯な哲学的対話をすることが必要ではないか”



 みなさんは、いかがでしょうか? 私の仏像鑑賞のレベルは、まだまだ低いので、上記の梅原説に傾きかかってはいるが、それほど確固たる自信があるわけではない。ただ、己の感ずるままに観ることになる。それがほとんどの人に当てはまるような気もする。いつぞや京都の広隆寺の半跏思惟像を見に行った時、若い女性がふたり、その像の前で座り込んでいつまでも観ていたのが記憶にある。梅原猛の言う説とは明らかに違う。多分和辻哲郎のいうようなこととも違う。この弥勒菩薩は、人間を超えたものだ。そして人間を苦しみの彼岸に渡すのであろうと思う。また、奈良の中宮寺の如意輪観世音を京都を去るまえに、どうしても見ておきたいと願って若い女性を知っている。彼女は、京都で長年働いていたがじん臓の病でどうしても実家のある博多に帰らなければならなくなった。見納めに、中宮寺に行きたいという。中宮寺のこの像は、日本人の情感・情念にしっとりと訴えかけ、浸透してくる。こうい自然体の鑑賞でいいのではないか? 


     


 この像に対した時、諸兄姉はどのように感じられるでありましょうか? 私は、この像を見た時に畏敬の念にかられるとか、愛や哀しみの眼差しに心を惹かれ立ち尽くすというようなことはない。むしろ、この天平という時期に、なぜこのようなある意味穏やかな童子(童女?)のような表情の仏像が出現したのか、その方に興味が惹かれる。

興福寺にある八部衆では須菩提や沙褐羅や婆娑羅などにも、若干そういう感じがする。
顔には幼さも残っている。この像を作ったのは天智天皇のお后である光明皇后である。彼女は、母親を亡くす前に、生まれてまもない子供をなくしている。その子の死を悼み、あのような仏像を作らせたのではないか。あるいは彼女の気持ちを察して、仏師が作ったのかもしれない。そう思うと、”あの可愛かった子が・・・”との光明皇后の思いも伝わってくるような気がする。

 この像を入江泰吉が写真に撮っているが、その写真の横には、次のような、彼の言葉が記されている。

 ”興福寺の阿修羅像は、悪伸が仏道に帰依して仏教を守護する善神に転じたのであるが、12~3歳の少年をモデルにしたと伝えられているが、清純な乙女のイメージが強いのである。もっとも、それは私の色彩に対する主観があるせいかもしれない。あの阿修羅像には、古代人の憧れている紫の色のイメージがある。(高貴な色という意味か?)その美しさが非常に艶に映るからだろう。そうして惹きつけるものがありながら、どこかで視るものを拒んでいる。そこが、またいいのだ”


     
                                (阿修羅の三面の顔、 九分九厘さん提供。 下記のコメントとあわせてご覧ください。)



 ちなみに司馬遼太郎は、その著『近江散歩奈良散歩』の中で、興福寺の阿修羅像にふれ、こん一文を残している。

 ”興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に、無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情が浮かべられている。多量の愛がなければ困惑はおこらない。しかし、その愛はそれを容れていうる心の器が幼すぎるために、慈悲にまでは昇華しない。・・・阿修羅は、相変わらず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心もとなさが腰から下のはかなさに漂っている。眉のひそめ方は、自我に苦しみつつも、聖なるものを感じてしまった心の戸惑いをあらわしている。すでに彼あるいは彼女は合掌しているのである。といって、目は求心的ではなく、ひどく困ってしまっている。元来、大きな目が、ひそめた眉のために、うわまぶたが可愛く歪んで、むしろ小さく見える。これを造仏した天平に仏師には、モデルがいたに違いない。貴人の娘だったか、未通の采女だったか。

  ”阿修羅像 愛たたえしや 小六月” (ゆらぎ)

 
     


 あれこれ考えながら阿修羅像を観て、国宝館から外へ出ると五重塔が姿を現していた。ここの五重塔は、法隆寺や薬師寺の塔とは、趣が違う。それらは上へゆくほど構造が小さく縮めてあり、天を目指すシャープさがある。ところが、興福寺の五重塔は、各層がほぼ同じであり、最上階の屋根も、勾配がずっしりと深い。しかし、若草山を背景とした景観に溶け合っているという意味で、この塔の重い感じは、いいと思う。


 興福寺から足を伸ばして高畑にある「入江泰吉写真記念美術館」を訪れた。ここには入江泰吉の作品もふくめ、奈良の風光を撮影した写真が展示されている。素晴らしい記念館で、私はことの他気に入っている。ここのカフェ・フルールでやすんでいる時、浅い池があってそこに日が差し込んできて水面がゆれるのをみててぼんやりすることがある。シフォンケーキも美味しい。ちなみに1月14日から2月17日まで、「古都奈良の文化財~総集編」と題して世界遺産登録20周年記念展が開催されている。


     


入江泰吉は、仏さまの前に立って、4時間でも5時間でも納得のいくまで仏さまに相対し、よしと思った時、たった一度シャッターを押すだけで写真を撮り終わったそうである。浄瑠璃寺の釘隠しを撮るのに機関銃のようにシャッターを押し続け、36枚撮りのフィルムを湯水のように消費した土門拳とは天と地くらい作風の違いがあったそうである。

     


帰りは、下り道をぶらぶらと歩いて。天気がよくて日差しが暖かければ、飛火野で寝ころがって空を流れる雲を眺めるのも悪くない。

さらに、ならまちを抜けて行くが、このあたりには元興寺もある。昔は仏教に関する一大研究所であったとか。リンクを張っておくので、詳しいことはそちらをご覧いただきたい。また、ならまち散歩をされる時は、詳しいことは以前のブログ奈良スケッチブック~法華寺からならまちへ)に書いたのでそちらを参照いただきたい。


     
                                                  (五重塔暮色 入江泰吉撮影)



(結び)いずれの日にか、興福寺の伽藍もできあがり、昔のように賑わってほしいものである

  ”はる きぬ と いま か もろびと ゆき かえり
  ほとけ の には に はな さく らし も”  (会津八一)



     ~~~~~~終わり~~~~~~~~~~




コメント (5)
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