(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

(予告編) 『半日の客 一夜の友』(丸谷才一 山崎正和)

2018-08-24 | 読書
座談の名手、二人の対談100回記念として出された本をご紹介します。香り高く、のびやかに語る対談は読んでいて、興味が尽きるところがありません。しばらく、お待ち下さい。







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時評 敗戦記念日に思う

2018-08-15 | 時評
時評 敗戦の日に思う


 毎年、八月十五日になると太平洋戦争での敗戦のことについて書き続けてきた。同じようなことを毎年、毎年というのは言わずもがなとは思うのだが、私たちが知っていることや感じていることを、若い世代のために伝えるのも、戦争のことを微かに記憶にとどめている私たちにとっては、努めではないかと考えた。ただ、毎年同じようなことを記事にするのも芸がないので、この夏は終戦にまつわる知られざるエピソードを紹介することにした

 本論に入る前に、これまでの記事から一点だけ書き抜いておく。それは終戦の年、8月15日に聞いた玉音放送のことである


 ”朕ハここにニ国体ヲ護持シ得テ・・・”

 という箇所である。この国体の護持というのは国家体制のことを言っていると思われるが、これがくせものである。天皇家を頂点として軍部に支えられた国家のことを言うのか? 戦時中も、しょっちゅう、お国のためと言われていた。ところが現実には若い人たちを戦場に引きずりだし、無意味な戦争で死に追いやっていた。こんな話もある。

 海軍大臣米内光政の密命により終戦工作に奔走していた東郷茂徳(外務大臣)著『時代の一面』によれば、特攻隊生みの親とされている大西軍令部次長は豊田軍令部総長らに対してー”今からでも、二千万人を殺す覚悟でこれを特攻に用うれば、決して負けることはありません」と強硬な意見を述べている。

二千万の国民の命を奪って護持する国体とはなんだろうか? 国体とは国とは、この美しい国土とそこに働く人々の総和であって、天皇家も軍もなにも関係がないである。国が、お国のため、と言う時は注意しなくてはいけない。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ローマがシーザーの死後、後継者として指名されたアウグストゥスによってローマの内乱に終止符を打ち、その後数百年続くローカ帝国の築いたことはよく知られたことである。いわゆるパックス・ロマーナである。その要因の一つとして上げらるのが、ローマの寛容政策である。そして多様性の確保であり、異質なものも排除せず受容したのである。

それに反し、日本はもともと多様性に乏しく、異質なものを排除する傾向がある。国際社会に向けて国を開くことも基本的には拒絶してきた。今でも、その傾向が強い。

平洋戦争を推進してきた日本軍の参謀本部は、なるほどエリートの集団である。しかし、異質なものを排除し、聞きたくないものは聞かない、見たくないものには目を向けない傾向が強かった。その結果、終戦間近い末期においても、避けられた悲劇を避け得なかったのである。以下に、その実例を紹介する。今後の日本外交を考える上での一助にでもなればと思う。


(ヤルタ密約の存在)

 『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書 岡部伸 2012年)という情報(いわゆるインテリジェンス)活動に関する優れたノンフィクションがある。これは、戦前、スウェーデンの首都ストックホルムで陸軍武官とし活躍していた小野寺信少将の活動を紹介したもので、著者が綿密な調査に基づいて重要な事実を明らかにしたものである。

 1945年、太平洋戦争も末期の頃、ソ連軍は破竹の勢いでベルリンを目指し、ヒトラーのドイツも風前の灯火であった。太平洋では硫黄島の玉砕が迫っていた。第二次世界大戦における連合軍の勝利はほぼ確実なものなりつつあった。その年の2月4日、戦後の世界秩序を協議するため、米英ソの三国首脳が、クリミア半島の保養地ヤルタで首脳会談をおこなった。アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン首相、英国のチャーチル首相の三首脳である。いわゆるヤルタ会談である。ドイツの分割統治やポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)など東欧諸国の戦後処理、さらに国際連合の設立などを決めて、11日に発表した。

もう少し詳しく言うと、日本については、中立条約のため太平洋方面で参戦していないソ連の日本への攻撃を、ルーズベルトが強く要求したのである。チャーチルもこれにノーと言わない。そこでスターリンは、その積もりでいる。帝政ロシアが日露戦争の敗北によって失った権益をすべて復活してもらいたい、と言ったのである。

 これは表向きに発表されたことで、この他に密約がかわされていたのである。・・・
”ソ連はドイツの降伏より、三ヶ月後に連合国側にくみし、日本に参戦する”という密約である。

 米英の西側民主主義陣営との戦いで敗色濃厚であった日本にとって、同盟国ドイツと角を突き合わせているとはいへ、中立条約があったソ連は、最後の拠り所であった。だから、ついにソ連が参戦するという「ヤルタ密約」は日本の敗戦を決定づける最高機密であった。

 ヤルタ会談が行われた頃、日本政府は、外務省/モスクワの大使館/陸海軍のあらゆる諜報機関を総動員して、その協定の中身の入手に全力をあげていたが、ソ連の対日参戦んお企みを暴くことはできなかった。それも知らずにソ連に対し、米英との和平の仲介を依頼し続けた。 ところが、この機密情報を会談後密かに入手して、北欧の中立国スウェーデンから機密電報で日本の参謀本部に打電した男がいた。第二次大戦を通して、帝国陸軍のストックホルム駐在武官であった小野寺信(まこと)少将である。彼は、欧州における日本の情報収集の中心と恐れられた伝説の「インテリジェンスジェネラル」であった。しかし、苦心に苦心を重ねて入手した機密情報は、東京の参謀本部には届いていなかった。詳しいことは省くが、届かなかったというより、握りつぶされていたのである。ちなみに、この他の機密情報もふくめ、小野寺が陸軍に送った暗号電報はすべて、英国の情報機関によって解読されていた。

 では、なぜ小野寺の機密情報はみぎりつぶされたのか? 今となっては知る由もないが、『消えたヤルタ密約緊急電』の著者である岡部伸(のぶお)は、このように述べている。”ソ連の対日参戦は敗戦をも意味する情報ゆえに、大本営作戦課の奥の院は、本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事機密と判定し、これを握りつぶしたのである。もちろん、その背景には、ソ連を仲介とする和平工作の動きがあった。”

 ”瀬島龍三が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、どうにもならないど硬直化していた。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹殺していたのである。この許しがたい官僚主義こそ情報軽視の本質であった。それは日本型官僚機構の持つ倨傲であった。” 

 余談になるが、良質なインテリジェンス(情報)が届きながら、それを冷静に正確に分析して国を率いる指導者が揺るぎな決断に生かすことがなかったケースは、2011年の東日本大震災のときにも起こった。福島第一原発で発生した原発事故においても、菅直人首相がとった対応も同じ文脈にある。「民間事故調」は、報告書で官邸の初動対応を”無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で泥縄的な危機管理”と断定した。官邸地下の危機管理センターでは、放射性物質の拡散予測システムによる情報を政府首脳に上げたが、適切に汲み上げて住民の避難に生かすことはなかった。

 元へ戻ろう。ストックホルムからの「ヤルタ密約」の情報を得ながらも、、これを無視し、参戦直前のソ連を仲介とする和平工作ばかりを進め、日本は米英との戦争を継続したのである。まったく意味のない終戦工作を行ったことになる。敗戦に直結するソ連参戦の意志を政府首脳が見抜けなかったため、終戦の時期が遅れ、結果的に広島や長崎に原爆が投下された。ひめゆり部隊のことなど沖縄戦での悲劇も避けられたかも知れない。焼夷弾による都市への無差別攻撃による多大な犠牲も避けられたかも知れない。そしてソ連参戦による悪夢のようなシベリア抑留問題も避けられたかも知れない。



(終戦の遅れについて)
 1945年7月26日、日本に降伏を勧告した、いわゆるポツダム宣言が発せられ、27日には日本に届いた。

  注)ポツダム宣言 Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にアメリ カ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対し て発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である。

 昭和天皇はこれを見て、”これで戦争をやめる見通しがついたわけだ。原則として受諾するほかはないだろう”、と東郷外相に告げた。ところが日本政府としては、ソ連仲介の返事を待っていたので、ポツダム宣言を呑んで依頼を断るわけにはいかない、ということで、とりあえずは無視をした。内閣情報局の指令のもと、ポツダム宣言について7月28日の朝刊で新聞発表した。ただし、国民の戦意を低下させるような条項は削除し、できるだけ小さく調子を下げて取り扱った。これを見た各新聞社は、逆に戦意高揚を図るような強気の言葉を並べて報じた。たとえば、読売報知は「笑止、対日降伏条件、戦争完遂に邁進、帝国政府問題にせず。それを受けて鈴木貫太郎首相は”ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである”、記者会見で述べた。そしてこれが海外に流れると、外国の新聞は”日本はポツダム宣言をreject したと報じたのである。

ところで米空軍による原爆投下は、じつはポツダム宣言の二日前の24日に、ポツダムにいるトルーマン大統領から正式に承認されていて、8月3日以降いつでも投下されるような状況にあった。

そして、実際、8月6日に広島に原爆が投下された!  爆心地から半径500メートル以内の人々や住宅は3000~4000度の高熱で焼き尽くされた。死者7万8000人強、行くへ不明約1万4000人。ソ連仲介による戦争の終結のみを念頭においてきた日本政府と軍部は、その事態に驚愕し、戦争継続は不可能との考え方に傾いた。しかし、そうなっても、あれこれと逡巡していたところ、さらに9日の午前零時を過ぎた頃、ソ連軍が満州の国境線を突破して侵入してきた。ソ連は中立条約を一方的に破棄した。このニュこれを受けて、最高戦争指導会議が午前10時半に開かれた。しかし、ポツダム宣言をどのように受諾するかで会議は紛糾。その会議の議論の焦点は、天皇制の危機、国体の護持、詳しいことは省くが、延々と議論は続いた。その最中、午前11時2分、長崎に第2の原爆が投下された。死者7万5000人。それでも、会議は続いた。

 最高戦争指導会議に出席していたメンバーには、国民の命のことなど、ほとんどなかったのではないか。そして真夜中の御前会議が、ようやく終わったのは8月10日の午前2時半過ぎ。鈴木貫太郎首相に求められての昭和天皇が発言に、よってであった。

 ”空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭に苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。今となっては、一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらうほか道はない・・・”

 10日の朝が明けると、中立国であったスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通じて、ポツダム宣言を受諾するとの電報を打ち、連合国に伝えた。それには天皇制の護持を保証してもらいたいとの条件がついていた。これを受け取ったアメリカは、それでは無条件降伏にならないなどの強硬論もあった。また日本の要求をイギリス、ソ連、中国に知らせると、イギリスと中国は、これ以上流血の惨事を避けたいということで了承した。ただ、ソ連はなかなか結論が出ず、またアメリカ内部でも議論が長引き、ようやく8月12日の夜、連合軍からの回答があった。それによると、”日本国の最終的な政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす”、となっていた。・・・

この最後の文言をめぐって、またまた会議が紛糾した。しかし、最終的に天皇に聖断をあおぎ、天皇が決断して終戦の証書を用意することになった。その後いくつかの手続きを経て、8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾との通達が連合国側に出された。したがって、戦争が終わったのは、8月14日である。8月15日ではない。それはともかく、ポツダム宣言を受諾して戦争をやめるといっても、「降伏の調印」をするまでは戦争は完全に終結していない。それを日本は、実ははっきりと認識していなかった。ソ連軍は、そのことを知っていて、攻撃態勢は継続していたのである。無知であった日本は関東軍も武器を投じて無抵抗になった。こうして日ソのいわゆる「一週間戦争」が続き、日本は軍隊のみならず一般民衆巻き込まれて悲惨な犠牲者を出した。戦死8万人、57万4500人余が捕虜となり、シベリアに抑留された。

9月2日、東京湾に浮かんだアメリカの戦艦ミズーリ号の上で、降伏文書の調印式が行われ、太平洋戦争を「降伏」というかたちで終えた。
こうしてみると、国際政治の実情に疎い参謀本部、ひいては日本政府の誤った判断と動きの影響に大きなものがあった。



(四島分割論)

アメリカの政府内では、早くから日本の占領統治政策について研究討議を重ねていた。その結果として、第一局面の三ヶ月間はアメリカ軍85万が軍政をしいて日本本土を統治する。第二局面の九ヶ月間は、米・英・中国・ソ連の四カ国が進駐し、これを統治する。その場合、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方を米軍31万5千、中国地方と九州地方を英軍16万5千、四国地方と近畿地方を中国軍13万(近畿地方は米中の共同管理)、そして東北地方と北海道はソ連軍21万が統治する。さらに東京は四カ国が四分割して統治をするという決定をみていた。これが成文化されたのが昭和20年の8月15日であった。

      

実際には日本の早期降伏で実現するには至らなかった。ところがソ連はスターリンがトルーマン(ルーズベルトの死を受けて1945年から大統領)に極秘の親展文書をしたため、日本軍降伏地域に北海道の北半分を含めるなどの要求を行った。しかしスターリン率いるソ連が東ヨーロッパを中心に勢力を拡大しているということに気付いたトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にし、これを真っ向から否定した。おかげで、日本はドイツのように分割されることなく、戦争を終結することができた。

 

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ”若い人たちに過去の歴史の過ちの責任はない。だが、その過ちがなぜ生じたのかを知ることは必要だ”ー(ワイツゼッカー ドイツ連邦大統領)



(余滴)なぜ終戦記念日ではなく、敗戦記念日という言葉を使っているかと不思議に思われるかも知れません。実際、負けたのであって終戦という言葉でごまかしてはならないとの見方からです。下記の引用をごらんください。



 ”終戦という言葉で敗戦をごまかそうとするのは、間違っており、職業軍人には敗戦の責任がある” (畑俊六 陸軍元帥、極東裁判のA級戦犯として終身刑)

 ”「何を言うか、”敗戦じゃないか。”敗戦”ということを理解するところから全てがはじまるんだ」”と一蹴した。(東久邇宮 昭和20年8月から10月の内閣総理大臣)
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絵画 東山魁夷の絵について

2018-08-05 | 絵画
絵画/ 東山魁夷の絵について

 山形へ向かう列車の車中で、いつものように一冊の本を読んでいた。画家である東山魁夷の随想集『風景との対話』である。作品の制作についての、心の旅と云うようなエッセイである。それを読んでると、”ああ、この人はとても内省的なひとである”と感じた。よく知られている「道」や「残照」という作品を制作するにあたっての心の内奥を語っている。そして今、この本に出会えたことに喜びを感じたのである。まるで電撃が走ったように感じた。一節、一節が心のひだに刻み付けられていった。なお、続いて随想集『唐招提寺への道』も読んでみた。


それらの内容を紹介しつつ、絵あるいは絵画制作というものへの取り組み方について感じたことをつづってみることにした

始めによく知られた作品「道」について。これは1950年、第六回日展に出品されたもので、比較的初期の作品である。そして多くの人々の共感を得て、画家東山魁夷が画家としても、また社会的にも認められるようになったのである。


     


 この絵を初めて見た人は、どういう感想をもらすであろうか? 単に”きれい”であるとかあるいは”上手く描けている”とかと云うようなものではあるまい。”この道は登っているのか、あるいは下がっているのか”、また”道の先には何があるのだろうか”・・といった感想、さらにはこれを描いた画家は”どんなことを考えて描いたのであろうか”などといった思いに至るであろう。

私自身もほんの手遊び(てすさび)程度の水彩画を習ったことがあるが、いつもどうしたらうまく写生できるか、というようなことが眼目であった。師匠の描く水彩画も、またご多分にもれない。仲間たちの絵の多くも、そのようなものである。写真もそうだが、本当に感動したことを伝えようとする作品はあまり多くはない。音楽の演奏でも、そうだ。チェロでバッハのメヌエットを演奏するべく、練習をしているが、たまたまあるプロが、それをバイオリンで弾いた演奏を聞く機会があった。そうすると、あの単純な練習曲が神への敬虔な祈りを思わせるような調べに聞こえたのである。冒頭で、東山魁夷は内省的な人と、述べたが、この「道」という作品もまた、その内省を辿って描かれたことがわかる。では東山魁夷は、どのような思いで作品にまで昇華せしめていったのか、つぶさに見てみよう。

 『風景との対話』という本の中に「ひとすじの道」という章がある。そのなかで東山魁夷は、このように述べている。

 ”ひとすじの道が、私の心にあった。夏の早朝の、野の道である。青森県種差海岸の牧場でのスケッチを見ている時、その道が浮かんできたのである。正面の丘に灯台の見える牧場のスケッチ、その柵や放牧の馬や灯台をとりさって、道だけを描いてみたら・・・と思いついた時から、ひとすじの道の姿が心から離れなくなった。

 道だけの構図で描けるものだろうかと不安であった。しかし、道の他の何も描き入れたくなかった。現実の道のある風景ではなく、象徴の世界の道が描きたかった。・・・”


ふつう私たちが景色を描く、写生をする時には、こういうことはあまり考えないだろう。種差海岸につづく道を、できるだけ忠実に描こうとするのではないか。 まるで、写真を撮影するように。しかし、東山魁夷は、そういう考えではなく、種差海岸への道を、スケッチを基にしながらも、いわば心象風景として描いたのである。

 ”道は、歩いて来た方を振り返ってみる時と、これから進んでいこうとする方向のに立ち向かう場合がある。私はこれから歩いて行く方向の道を描きたいと思った。ゆるやかな上り坂に向かった時、私たちには、これから、そこを歩いて行くという感じが起こる。それに反して下り坂を見下ろすと、今まで辿ってきた道を振り返った感じになりやすい。

この道の作品を描いている時、これから歩いてゆく道と思っている時に、時としては、いままでに辿ってきた道として見ている場合もあった。絶望と希望が織り交じった道、遍歴の果でもあり、新しく始まる道でもあった。未来への憧憬の道、また過去への郷愁を誘う道にもなった。しかし、遠くの丘の上の空を少し明るくして、遠くの道が、やや右上がりに画面の外へ消えてゆくようにすると、これから歩もうとする道という感じが強くなってくるのだった。”

 東山魁夷は、幼い頃から自分が歩んできた人生の道に、この種差海岸の道を重ね合わせて描いたのである。同時に、戦後まだまもない日本という国の将来にも思いを馳せたのではないか、と私は感じている。

作品にする時の描き方としては、東山魁夷はつぎのように述べている。

 ”「道」をその年の秋(昭和25年)、第6回日展に出品した。縦長の画面のほぼ中央に、ややピンク色がかったぐれ」ーの道、左右の草むらや丘は青緑色、空は狭くとり、青みがかったグレーにした。出品作としてはずいぶん小さい画面であるが、これ以上大きくすると画面の緊張感が薄れると思った。小さめの画面を充実させることが、この絵の場合必要であると考えた。こつこつと積み上げるような丹念な描き方で仕上げていった。

そして作品についての考えかたとして、こう結んでいる。

 ”人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、この本の始めに書いているが、・・・その考え方は今も変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。 いわば、私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。やはり、その道は明るい激しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、あるがままに在る、ひとすじの道であった。”




 
 次に好きなもう一つの作品「残照」について。この作品のような眺めをみていると、二つのことが浮かんでくる。一つは、北アルプス蝶ヶ岳から槍・穂高連峰を望んだ時の眺めである。学生時代は山歩きに没頭していたが、ある年の夏、燕岳から大天井岳、常念岳と縦走してきて蝶ヶ岳に至った。およそ午後三時か四時ごろであったような気がする。同行した友人と、”いい眺めだなあ”と言って、しばらく蝶ヶ岳の山頂付近で岩に腰をかけ、眼前の槍や穂高の山なみをあかず眺めていた。まだ前方の山なみは明るさを保っていたが、それは暮れてゆく前兆のような明るさで、山の静寂とあいまって、安息感のようなものを覚えたのである。

もう一つは、高浜虚子の明治33年11月の時の句である。

 ”遠山(とおやま)に日の当たりたる枯野かな

俳句をはじめた10年以上前の前の頃は、このような句にはあまり感興も湧かなかった。それが最近では、この句の良さを感じるようになってきた。『虚子百句』の中で、稲畑汀子は、この句は虚子独自の句境を確立した記念碑的な一句だと言っている。これは、枯野の向こうに山が見える、その遠山には日が当たっている、という平凡な風景句、写生句とも言える。しかし、深く考えてゆくと、単なる写生句ではなく、ある意味虚子の心象風景を描写したものともいえる。虚子が表した『虚子俳話』の中で、彼は次のように書いている。

 ”自分の好きな自分の句である。どこかで見たことのある景色である。心の中では常に見る景色である。

  遠山が向こうにあって、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は当たっていない。落莫とした景色である。ただ遠山には日が当たっている。私はこういう景色が好きである。 わが人生概ね日の当たらぬ枯野のごときものであってよい。むし  ろそれを希望する。ただ遠山の端に日の当たっていることによって、心は平らかだ。

  烈日の輝き当たったいるごとき人世も好ましくないことはない。が、煩わしい。遠山の端に日の当たっている静かな景色、それは私の望む人世である。”

 東山魁夷は、その著『風景との対話』の第二章「冬の山上にて」の中で、まるで虚子と示し合わせたかのごとく、山なみの風景を次のように描写している。

 ”山なみは幾重ものひだを見せて、遥か遠くへ続いていた。冬枯れの山肌は、沈うつな茶褐色の、それ自体は捉えがたい色であるが、折からの夕陽に彩られて、明るい部分は淡紅色に、影は青紫色にと、明暗の微妙な階調を織りまぜて静かに深く息づいていた。その上には雲ひとつない夕空が、地表に近づくにつれて淡い明るさを溶かし込み、無限の広がりをみせていた。”


     



 この絵の描かれた場所は、千葉県鹿野山(かのうざん)九十九谷である。昭和21年の冬、東山魁夷は佐貫駅から、三時間の山道を歩いてここへやってきた。

 ”この高濶な眺望。海原の波の起伏を見るように、心に響いてくる山と谷の重なり。つかの間の夕映えであるにせよ、安らいと救いを約束するかのような静かな空。谷間の夕影の中に、ひとすじ道が見える。独り山路を登ってきて、次々に浮かんでは消えていった想念の帰着点に私は立っている。しかし、今、私の心はいくつもの谷を越えて、青霞む遠くの嶺へ、さらにその向こうの果てしない空へと誘われてゆく。すると、ここはまた、新たな出発点でもあるというのか。”



ここで東山魁夷が、この絵を描いたころの時代背景に触れないわけにはいかない。東山魁夷は神戸の両親の家に住んでいた。

 ”下町の倉庫の並ぶ海岸近くにあった。・・・神戸の両親の許を離れて、東京の美術学校に通っていた頃、兄の死、ドイツの留学してイタリアやフランスに旅行した時、父の商売の破却、結婚、弟の病気、母の病気、戦争、父の死、疎開、招集~暗い谷間を歩いた時のほうが多かったようだ。・・・父は戦争が始まって、まだ軍艦マーチが勢いよく響いていた時分に死んだ。私の家族といえば、母と妻と私の三人だけで、画壇に認められないうちに戦争になってしまった私としては、復員してきても将来のことを思うと暗い気持ちになるはずであった。しかし、戦争が終わって、久しぶりに家族が一緒になり、自由に絵が描ける日が来た喜びに夢中になっていた” 

しかし、そのうち弟がなくなり、母親も衰弱して死んでしまった。

 ”間もなく、母の骨を納めたばかりの墓に弟のも納め、もうこれで私の喜びを親身になって喜び、私の悲しみを最も深く悲しんでくれる肉親は一人もいなくなった。家族といえば、いよういよ妻と私の二人きりになってしまった。住むところも、まだ定まらないありさまであった。私は、この時、どん底にいた。だが、これ以上落ちようがないと思うと、かえって気持ちが落ち着くのを感じた。これからは少しずつでも這い上がっていくのだと自分自身にいい聞かせた。”

 そういう時代背景の下で画家は、ようやく内奥の眼が開きかかってきた。そしてこの絵にある九十九谷を見渡す山の上に来たのである。

 ”ここへ私は偶然来たとも言える。それが宿命であったとも考えられる。足元の冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前にはてしなく広がる山と谷の重なり、この私を包む天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命にある。静かにお互いの存在を肯定しあいつつ無常の中に生きている。蕭条とした風景、寂寞とした自己。しかし、私はようやく充実したものを心に深く感じ得た。峰々の残紅は一つ一つ消え、夕べの霧が谷間にひろがっていった。”

 ”神野寺で数日過ごすうち、私はこの風景の上に、今まで私が歩き回っていた甲信や上越の山々の情景が重なりあい、雄大な構想となって展開されてくるのを感じた。中央のいちばん遠くに、八ヶ岳か妙高の遠望を連想させるような山嶺を置き、そこに、夕陽の最後の残影を明るく与えることによって、漠然としていた構図をひきしめることができた。光の明暗と、大気の遠近による階調、嶺々の稜線が作り出す律動的な重なり合いがこの作品を構成する要素であるが、それによって表そうと願ったものは、当時の私の心の反映、私の切実な祈り、索漠の極点での自然と自己との緊密な充足感とも云うべきものであった”
この作品は第三回日展(昭和22年)で特選となって政府が買い上げ、東山魁夷の仕事が世に認められるきっかけとなった。


 ここで余談を二つ。東山魁夷が、この本『風景と対話』を世に送り出したのは、昭和42年。一方美術評論家の小林秀雄が名著『美を求める心』を表したのが昭和32年。したがって、小林秀雄は東山魁夷の「残照」や「道」についての思いを知るよしもなかった。もし、彼が知っていたら、『美を求める心』の中で、画家の内奥的な思いにまで掘り下げて美術評論を書いたであろうか。それは、いさかか疑わしい。ただ、一点、奥村土牛の絵について、”奥村さんにとって、素描とは、物の形ではなく、むしろ物を見る時の心境の姿ということになる。”という短い文章を残している。


 ところで、以前に取り上げたことがあるが画家原田直次郎には、「靴屋の阿爺」(靴屋のおやじ)という作品がある。国宝にして重要文化財として東京芸術大学に蔵されている。

    


詳しいことには触れないが、直次郎はこのモデルとなった靴屋のおやじを単に写生しただけではあるまい。その人となり、精神の内面にまで踏み込んで写実をしたのであろう。でなければ、親爺の眼光炯々たる表情、己の仕事にもつ確固たる自信と誇り。そのようなものは描けるはずもない。ところが、原田直次郎がこの絵を描いたのは、若干23歳。ドイツはミュンヘンに留学していた時である。その若さで、肖像画の最高峰とまで言われるレンブラントにも匹敵する作品を創り上げている。東山魁夷の精神の内奥を写し取ったような作品をなぜ作り上げることができたのであろうか? 


  この秋に京都国立近代美術館で開催される東山魁夷生誕110年展には足を運び、これらの作品に相まみえることにするつもりである。この絵を見た時に、どのような事を感ずるか、今から楽しみにしている。ずいぶん前に見たときとは違う感想を抱くであろうか?




(余滴)このように書いてきて、重要なことを書き忘れていることに気がついた。

(その一)上掲の東山魁夷の絵は、どちらも印象に残った絵である。では、どちらが好きかといわれると、まだ現役の若いときは「道」を選ぶであろう。齢を重ねた今となっては、「残照」をとる。それは、晩年になったと云う意味もあるが、それでも、さらにこれからの先々にまだ尚明るさを残しているからである。


(その二)絵の鑑賞のしかたについて。今回の記事では、東山魁夷の心の内面にまで踏み込んで鑑賞した。しかし、絵画の楽しみ方としては、小林秀雄が『美を求める心』の中で云うように、絵を見てただ感動する、という見方もある。むしろそれが、ふつうかも知れない。

 ”極端にいえば、絵や音楽を、解るとか解らないというのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。”

 ”言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続けていれば、花は諸君に、かつて見た事もなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう・・・”

 ”美しい自然を眺め、あるいは、美しいい絵を眺めて感動したとき、その感動はとても言葉で言い表せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、なんとも言えず美しいというでしょう。この何ともいえないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。”


 そう言われれば、ふつうそのように絵を鑑賞していると思う。では、次の絵、レンブラントの最高傑作ともいわれる「夜警」はどのように鑑賞したらいいのだろうか?

     


たとえば上野の国立西洋美術館へ行って、初めてこの絵を見たとする。絵の描かれた時代背景も十分の承知していない。そんな段階で、画家の内面はおろか、絵の持つ意味すら分からない時に、どう反応するか。もちろんプロフェッショナルな画家たちは、レンブラントの描いた光と影とかリアリズムなど技術的な面に強く反応するであろう。しかし、吾人はいかん?









 
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