(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『ローマ亡き後の地中海世界』

2008-12-29 | 時評
今年一年、ご愛顧ありがとうございました。深く感謝申し上げます。これが本年の最終記事となります。またお正月の松がとれます頃にお目にかかります。

        ~~~~~~~~~~~~~~~~~

読書『ローマ亡き後の地中海世界』(塩野七生 新潮社 2008年12月)

 イスラエル軍が、27日パレスチナ自治区のガザ地域を空爆した。さる9月22日に中東和平の問題について記事(9月22日)を書いたが、またもやこんな事が起こ留とは、残念なことである。この交戦ががつづけばハマスとの全面衝突になる可能性もある。

 そんな時に、これまで『ローマ人の物語』(全15巻)を書き続けた塩野七生さんの続編ともいうべき本が出た。300頁余の大作が2巻つづく。その上編が出たばかりで、しかもまだ、その3分の1も読み終わっていない。しかしその出だしからして衝撃的である。紀元6世紀に東ローマ帝国が衰亡し、イタリア、地中海世界に政治的・軍事的空白が生じたころ、イスラム勢が勢いをました。その後13~14世紀の中世という時代にいたるまで、サラセンと呼ばれるイスラムの海賊が、地中海周辺での簒奪を繰り返し、それらの地域を混乱と恐怖に陥れる。その様をつぶさに描き出した本書はこれまで私たちがあまり知らない歴史の世界に誘ってくれる。現代のニース、カンヌ、モナコなど平和な地中海しか知らない私には、驚愕の連続である。

9世紀にはサラセンの海賊はアドリア海を北上、南イタリアでは内陸深く侵攻し、そこに拠点をおいて、各地を強奪した。守るものが、ほとんどいなかったのである。塩野は、(はじめに)でパクス・ロマーナを打ち立てたローマ初代皇帝アウグストゥスを描いたパテルクロスの言葉を紹介している。

 ”人間ならば誰でも神々に願いたいと思うことのすべて、そして神々も人間に恵んでやりたいと思うであろうことのすべては、アウグストゥスが整備し、その継続まで保証してくれたのであった。
 それは、正直に働けば報酬は必ず手にできるということへの確信であり、その人間の努力を支援してくれる神々への信心であり、持っている資産をだれにも奪われないですむということへの安心感であり、一人一人の身の安全であった。-”

 このパクスロマーナが崩れさったのである。

 9世紀には、ポワティエ(今のフランスの中西部)の野でイスラム軍を完敗させて神聖ローマ帝国のシャルル・マーニュ皇帝も没し、ふたたび地中海沿岸でのイスラム海賊の横行がはじまったのである。・・・・


 久しぶりに興味深々で読み進んでいる。そんな途中で本書をご紹介するのは、おかしなことであるが、あまりに平和に慣れきった私たちにとって、こんな時代があったのだと認識をすることは、意味があろう。そしてイスラエルのように、またもや戦乱・混乱の時代に引き戻す愚かさを認識し、平和のありがたさを再認識することは意義があろうと、あえてご紹介する次第である。

シャルル・マーニュの死後のヨーロッパ世界の低迷に関連して、塩野七生はこんな文を書いている。

 ”平和とは、求め祈っていただけでは実現しない。人間性にとってはまことに残念なことだが、誰かがはっきりと、乱そうものならタダでは置かない、と言明し、言っただけでなく実行して初めて現実化するのである。ゆえに平和の確立は、軍事ではなく政治意志なのであった”

 現代にも通じることばである。そしてさらに対立を乗り越え、共存を計ろうとする人間の叡智を望みたい。先般書いた免疫の世界のように。(11月27日記事 読書『邂逅』)

 

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読書『A Way of Life』~オスラー博士のことなど

2008-12-25 | 時評
読書メモ『A Way of Life』~オスラー博士のことなど思い出すままに
 サマセット・モームの『人間の絆』といえば、20世紀の生んだイギリス散文小説の最高作品のひとつといわれている。それが初めて出版されたのは、1915年のことである。この味わい深い長編小説には、哲学者アミエルや詩人アルフレッド・テニソンや哲学者のハーバート・スペンサー、さらには画家のエル・グレコなど当時の時代を代表するような人々の名前がいくつも出てくる。本の後半にはオスラー博士の名前も出てくる。

 ”(フィリップは)オスラーの「内科学」を読んでいた。長いあいだ、一番よく使われていた教科書であるテイラーのに代わって、近頃では、もっぱらこれが、医学生たちに人気があった。”

 オスラー博士(サー・ウィリアム・オスラー)は、19世紀後半から20世紀の初めにかけてアメリカで活躍し、”アメリカ医学の開拓者”、”近代医学の父”として、多くの人の尊敬を集めた。医術的な問題にも大きく貢献しているが、むしろ医学のありかたやその全人的な心身医学の基礎、医学教育の考え方を築いたところに、その偉大さがあり、今もなお敬愛されている。

 聖路加国際病院の理事長である日野原先生は、、戦後来日していた米軍のバウアー軍医から、オスラー博士の『平静の心』という著作をもらい読みふけった。以来日野原さんは、オスラー博士の著作、そしてまたオスラー博士が愛読したトーマス・ブラウン(17世紀の医学者・神学者)の『医師と宗教』、脳外科医のクッシング博士の書いた『ウイリアム・オスラー卿の生涯』などを次々と読んで傾倒していったのである。その後オスラー博士の著作やスピーチ・論評などをあつめ、デューク大学より出版するに至った。そしてさらにオスラーの伝記を著し、さらに聖路加病院内に<オスラー・ライブラリー>を開設するまでに至った。数年前の初夏のある日、私は聖路加病院を訪れた。日野原理事長(当時)の直接のご指示で、ライブラリーに案内され、そこで半日過ごすことができた。オスラー関係の著作を次々にページを繰っては読みふけり、感動と心の安らぎを感じたものである。

 その著作の一つが「A Way of Life」と題された20頁程度の小冊子のような本である。たまたま医学関係の親しい友人の縁でその原本(The Norman Remington Co, 1932)に触れる機会を得た。後年出版されたものは、手元にあるが、原本を読むのは初めてである。

出版の年次から分るように1932年というのは、アメリカの大恐慌(1929~1932)の直後のことである。元々は1913年イェール大学での学生に対するスピーチであった。今おりしも金融危機に端を発したアメリカの、そして世界的な経済危機の最中にある今日、この書を読み返すのは、なにかの縁であろうか。

 この本は、なかなか難解な著である。日野原理事長もこう言っている。

 ” オスラーの文章には難解な部分があり,さらにギリシャ,ローマの古典,旧約および新約聖書からの引用,中世から近世にわたる欧米の文学や哲学,トマス・ブラウン,テニスン,シェイクスピアの作品などが講演の至る所に引用されており,その出典の意義を理解することなしには,オスラーの言わんとする所を正しく把握することが困難であると知った・・・・”  

 たしかに英文としては難解なところもあるが、その説くところは平易である。
オスラーは学生に呼びかけているが、実は医学関係者だけでなく、老いも若きへも、また女性にも男性にもすべての人々に呼びかけているのである。

オスラーの言うところは、大きく言って三つ。現在に注力せよ。心の平静、そして日頃の節制・健康維持による健全な身体である。

 ”医者としていちばん大事なことは、いついかなる時でも心を平静に保つことだ” そしてゆったりと構え、眼前の物事に集中せよ、と言っている。

この平静ということは、言うのは易しいが絶えず心がけておかないと保てない。また修養に努めないとなかなか身に付かない。『呻吟語』(呂新吾 守屋洋編 中国の古典))でも再三、”沈静なるは最もこれ美質なる”と言っているが、今から400年余も前、明の時代の言葉と同じようなことを20世紀初頭のアメリカの医学者が言っているのは興味深いことである。守屋洋の現代語訳を下記に示す。

 ”気持ちを沈潜させることができれば、どんな道理でも究め尽くせないものはない。やらんかなの気力を奮いおこすことができれば、どんなことでも成し遂げられないものはない。だが現代の人間は、浮ついた心で道理に接し、萎縮した心で仕事に向かっている。これでは、なんらなすところなく、ぼんやりと一生を終わってしまうだろう”

また現在というものを大事にせよ、と繰り返し説いている。それはオスラーがまだ
カナダのマギル大学の医学生であった頃、、たまたま恩師ハワード教授のライブラリーでカーライルの有名な言葉に出会ったというエピソードから来ている。
 
 ”将来のことをいたずらに思い煩わないで今日なすべきことを精一杯やりなさい”
("Our main businessis not to see what lies dimly at a distance,but to do what lies clearly at hand")
 過去に起こったことにいたずらにこだわったり、将来の事に要らざる心配や愁いをいだいたりしないように、そんな事をしていると、自分というものが揺れ動いてしまう、というのである。

オスラーは当時ある種のスランプに陥っていたが、この言葉との出会いで、ハッと
立ち直った、という。ちなみにトマス・カーライルはイギリスの思想家、「雄弁は銀、沈黙は金」という有名な言葉でも知られているが、もっと印象に残るエピソードがある。それはフランス大革命についての大作を書いた時のことである。日野原さん"の『生と死に希望と支えを』(婦人画報社 1990年)によれば原稿を友人のJ・S・ミルに見せてくれと言われ渡したところ、ミル家のお手伝いさんが書き損じた書類とおもってストーブで燃やしてしまった。もうやめた、と茫然自失としたカーライルであったが、奥さんから、書かないで済むくらいなら初めから書く必要はなかったのではないかと言われた。そして「どうしても書こうと思ったから書いたんじゃないか。よし、もう一度書くぞ」といって再び著作にかかり、あの傑作をものにした。

           ~~~~~~~~~~~~~~

 少し難しいことを書きましたが、政治も経済も混乱した今の日本を見ている自らの心を平静に保つための心覚えとして書いたものです。お許しください。同時に職を失い、また決まっていたいた就職を取り消された若い人が多くおられますが、その人たちにも、オスラーの言葉をエールとして贈りたいと思います。現役の頃、少なりといえども経営の一端に関わったものの目から見ますと、本当に優れた人、一生懸命誠実に働く人は、いつかは必ず目に留まります。そんな人は逆に求められているのです。どこかのハンバーガーの店で、いつも笑顔で対応し、売り上げナンバーワンを誇った若い女性もいましたね。

注記)オスラーの語るところを簡潔に伝えることは至難の業です。ご興味があれば、日本語訳があるようですから、全文に当たられることをお奨めします。「平静の道」というタイトルで検索すれば、いくつか出てくると思います。

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気まぐれ日記/伝説のテノール、奇跡のカムバック

2008-12-20 | 時評
日々雑感/伝説のテノール、奇跡のカムバック

 昨夜のNHKのニュース・ウオッチで「奇跡のテノール」というテロップが流れた。白血病で手術をうけたホセ・カレーラスのことかと、すこし気になったので見ていると、それは韓国人テノール、ベー・チェチョリという歌手のことであった。イタリアオペラで活躍し、逸材として将来を嘱望されてたベーさんは、2005年に甲状腺ガンにかかった。その手術の過程で、手術自体は成功し、一命をとりとめたものの、声帯を動かす神経、のどの筋肉などにダメージを受け、「声」を失ってしまった。

 ベーさんは、なんとか歌声を取り戻したいとの強い思いを抱いていた。そんな彼をサポートしてきた日本人の音楽プロデューサーの輪嶋東太郎氏は、ベーさんを日本に招いて、最高のドクターによる喉の手術を受けさせるべくサポートした。
その詳しいことは輪嶋さんのブログをご覧頂きたい。手術である程度、声を回復することのできたベーさんは、必死のリハビリとトレーニングに励んだ。その苦闘が続いているある日、声がしかも高い音域の声が出るようになった。治療に当たった會田ドクターも驚いた。ニュースの説明によると、信じられないことに声帯をささえる横隔膜の神経が切れていたのが、再生されたということである。以前11月27日の読書メモ『邂逅』という記事のなかで、神経細胞の再生という新しい医学的な知見をご紹介したことがある。今回のベーさんのことは、その現象とはすこし違うかもしれないが、人間の自然治癒力の強烈さと願望の持つ威力を知らされた。その後もトレーニングをつづけ、苦悩の日々は、希望へつづく道へとつながっていった。そしてベーさんは、輪嶋さんの応援を得て東京で復活コンサートを行った。ニュースは、その様子を報じたものである。

もちろんまだ本格的なオペラの舞台にたつまでには、まだ時間と努力が必要ではあろうが、彼の歌った<アベマリア>では柔らかく、艶のある声が響いて感動を覚えた。番組では、あるコンサートの時の司祭の言葉を紹介していた。。

 ”苦しみや困難を克服した人の歌には、心に訴えかける力がある”

この混乱した経済危機の世相のなかで、嬉しいニュースであった。そのコンサートのすべてを聴いてみたいと、早速ディスクを手にいれるべく手配した。





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読書『正法眼蔵』より~愛語ということば

2008-12-14 | 時評
読書メモ『正法眼蔵 菩提薩捶四摂法から』~愛語

 「愛語」という言葉を詠み込んだ俳句を一句作り、別ブログ(ゆらぎの日記)に載せた。愛語というのは、道元の『正法眼蔵』の中の、菩提薩捶四摂法(ぼだいさったししょうほう)の巻に出てくる言葉である。一言でいえば、”やさしい言葉をかけること”であるが、その意味するところは深く、しかもその原文は印象に残る名文である。

 ”愛語というは、衆生(しゅじょう)をみるにまず慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。・・・・徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語を好むよりは、ようやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられず見えざる愛語も現前するなり。現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし。・・・・しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(しゅうじ)とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり。ただ能を賞するのみにあらず。”

(最後の部分の現代語訳)知るべきである。愛語は、必ず愛の心から起きるものであることを。愛の心は慈悲の心を種子としている。愛語は、天をひっくりかえす超越的な力であることを学ぶべきである。愛語は相手の長所を絶賛する以上の功徳があるのである。ー「全訳正法眼蔵」(巻四 中村宗一著) より

 もちろん単に「やさしいことば」とか「あたたかいことば」というのではない。相手のことを深く思いやっての愛語である。この愛語ということは、頭の中では理解できてもなかなか実際に事に当たると言えないものである。しかしもし、そんなことばをかけることができたら、その愛語は、たった一言でその人の一生を変えてしまうような力を持っているのである。

日本最高の宗教哲学書である『正法眼蔵』には、とても難解な本である。しかし幸いこの「愛語」については酒井大岳師が、自分の体験に基づいて語った、非常に分かりやすく親しみやすい本がある。(『愛語に学ぶ』(酒井大岳 すずき出版 1986年12月) その一節を書き抜く。

          ~~~~~~~~~~~~~~~

(五と五のちから)
 ”(昭和47年母の入院、長男の交通事故、妻が結核で療養所へ入院、そして自分も車の事故で大けがをするという悲風の連続であった時)

 三人の幼い子供をおいて、妻が療養所に入院したその日、わたしはそこの担当のお医者さんから、すばらしい「愛語」をいただきました。
 「ご主人、ちょっとこちらへ」
先生はそう言って、別部屋へわたしを連れてゆき、椅子にかけると、こう言ったのです。
 「奥さんの病気は、2年かかるか5年かかるか、それはわかりません。空洞が小さいのですからそう長くはかからなと思いますが・・・・。私は医師ですから最善を尽くして奥さんの病気回復のためにつとめます。しかしですね、私のちからは十のうち五しかありません。あとの五は何だと思いますか。それはご主人のちから・・・あなたのちからです。聞けば奥さんには三人のお子さんがあり、三番目のかたはまだ一歳と三ヶ月・・・。そんな可愛いお子さんを家に置いてこられ、奥さんはここで、いつ退院できるかわからない療養を続けてゆくんです。三人のお子さんのことばかりが気になって、、もし眠れない日がつづいたらどうなりますか。病気はあっというまに進んでしまいます。そこでご主人のあなたにお願いですが、どうか三人のお子さんを、母親がわりになってしっかり育ててください。爪ひとつ切り忘れない面倒見をして欲しいのです。そうして、ときどきはお子さんたちを車の乗せて連れてきて、その元気な姿を奥さんに見せてあげてください。奥さんの病気は軽い方ですから、少しすれば外へも出られるようになります。お子さんたちに会うこともできるのです。その時、母親というものは、瞬間すべてを見抜きます。お子さんたちがどんな日常を送っているか、だんなさんがどんな面倒見をしてくれているか、一瞬のうちに見抜いてしまうものです。見抜かれてください。堂々と胸を張って見抜かれてください。見抜かれても恥ずかしくない育て方をして欲しいのです。そうすれば奥さんの病気は早いうちに治ります。だんなさんを信頼し、すべてをだんなさんに任せ、安心しきって療養につとめられる。それが奥さんの病気をぐんぐんよくしてしまうのです。ご主人、わかってくれますね。私のちからは五、あなたのちからも五。五と五のちからで奥さんの病気を治してしまいましょう。がんばってください・・・・」

 これが「愛語」でなくてなんとしましょう。お先真っ暗で、おろおろしていた私は、この言葉によって救われたのでした。先生は言い終わって、わたしの両手を大きなその手でしっかりと包んでくれました。「しっかりしよう」と心の底から勇気が湧いてきたのはその時です。・・母親がわりになって、一家を守ってゆくということは、実際に大変なことでした。しかし、どんな苦しい時でも、このときの先生の言葉を想い出すと不思議に力が湧いてくるのでした。”


           ~~~~~~~~~~~~~~

 では、どうしたら「春風」の愛語を吐けるか。それについて、こんな一文がある。

”それは、自分が受けた愛語を忘れることなく、いつも心の深くに生かしつづけ、人の非をせめないであたたかく接してゆこう、といつもいつも思いつづけている。これに尽きるでしょう。”

 「愛語をこのむよりは、ようやく愛語を増長(ぞうじょう)するなり」

 ちょうど機を同じくして、ブログメートの柳居子さんが、(善行二件)と題して若者を励ます言葉を<柳居子徒然>に書いている。それも愛語である。
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読書~漱石忌にちなんで<余滴>

2008-12-11 | 時評
(余滴)『漱石俳句探偵帖)』(半藤一利 角川書店 1999年11月)
 
漱石の俳句については、以前『俳人漱石』(坪内稔典 岩波新書)という本について紹介したことがある。(2007年3月) それも味わい深いものがあったが、今回の半藤さんの本(探偵帖)は、漱石の流れを引く人のものだけあって、漱石に対する暖かい思いが感じられてとても読んでいて好ましい。これが、あの歴史小説「ノモンハンの夏」や「昭和史」を書いた人とは思えない。それは、あたかも漱石の小説が後年になるにしたがいシリアスな描写が多くなっていくのに対し、俳句は軽妙洒脱なものが多く、楽しんで詠んでいるのと似ている。

そうなんです。今回の種本は、この『漱石俳句探偵帖』であります。はじめに言及しなかったことを謹んでお詫び申し上げます。半藤さんもお許しください。

さて先に掲げた俳句が、シェークスピアのどの劇に題材をとっているか先に種明かしをする。

 ”雨ともならず唯凩の吹き募る”   (リア王)
 ”小夜時雨眠るなかれと鐘をつく”  (マクベス)
 ”白菊にしばしためらふ鋏かな”   (オセロ)
 ”女郎花を男郎花とや思ひけん”  (ベニスの商人)
 ”骸骨を叩いて見たる菫かな”    (ハムレット)
 ”見るからに涼しき島にすむからに”(テンペスト)

半藤さんは、いちいち名解説を書いている。その中から「菫」の句の部分をご紹介しよう。なにせ、菫が好きな漱石なのだから。


 ”なかんずくわたくしが好きなのが「ハムレット」の、「骸骨を叩いて見たる菫かな」の一句である。

 " The skull had a tongue in it,and could sing once" (第五幕 第一場)

この場はご存じのように、人足が卑猥な歌を陽気に歌いながら墓を掘るところにはじまる。漱石が最も好んだ場面であろうと勝手に決めている。悲劇的な雰囲気のいよいよ高まるところに、ぽいとユーモラスな一景を入れる。漱石がウムとうなったところとみる。以下は、平川祐弘教授の名解説をそのまま引用する。
「もちろん(菫には、オフェーリアのイメージも重なっている。第4幕第5場では気が狂ったオフェリアが国王や王妃らに花を配るが、その中には菫もまじっていた。また第5幕で牧師が、自殺した女にたいしてこれ以上おつとめすることはまかりならぬ、言い出した時、オフェリアの兄は激怒して、『墓穴の中へ、オフェリアを埋めろ。あの美しい無垢の身体から、菫の花が咲くように!』・・・・”

 余談になるが漱石の小品には、「夢十夜」や「永日小品」など味わい深いものが多い。「文鳥」というのもよく知られているが、その中に、こんな一文がある。

 ”文鳥はくちばしを上げた。喉のところで微かな音がする。またくちばしを粟の真ん中に落とす。また微かな音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くてこまやかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金(こがね)の鎚で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけさまに叩いているような気がする”

 すっかり脱線してしまったが、この『俳句探偵帖』は、漱石の俳句から、その人となりに触れ、また句を詠んだ当時の背景に及んで、ユーモラスで暖かみのあるエッセイとなっている。「われ風流という趣を愛す」という一節には、「思い出す事など」の中の文を引いている。

 ”余は平成事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となるとおっくうでなを手を出さない。ただかように現実界を遠くにみて、遙かな心にいささかのわだかまりのない時だけ、句も自然に湧き、詩も興に乗じて種々の形のもとに浮かんでくる。そうして後から顧みると、それが自分の生涯の中で一番幸福な時期なのである。”

 ”酒なくて詩なくて月の静かさよ” (明治29年)

半藤さんによれば、漱石は甘党でほとんど酒をのまなかったとか。それにしては
酒の句が少なからずある。《「下戸がうたう「菊花の酒」》の節の最後の文では、熊本五高時代のエピソードが描かれている。

 ”熊本の五高時代に借家に余裕があったので、同僚の長谷川先生を同居させてことがある。この同僚が酒飲みであったので、晩酌を出すことにした。ところが漱石は「それなら毎晩猪口一杯づつだしたらよかろう」といい、鏡子夫人はそのようにした。弱り果てたのは長谷川先生である。しかし漱石はいとも平気で澄ましていたという。”
 

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読書~漱石忌にちなんで

2008-12-09 | 時評
 今日12月9日は夏目漱石の忌日である。子規と親しかった漱石は多くの俳句を詠んでおり、岩波文庫に『漱石俳句集』というのがあるくらいである。風流を楽しみ、遊びを楽しむ風情が横溢していて好きな句が多い。そのリズムの良さ、流麗な言葉遣いに入れ込んでいる次第である。

 ところで明治36年、漱石は東大英文科でシェークスピアの講義を行っている。
「マクベス」に始まり、「リア王」と続くが、大変な人気を呼び教室は押すな押すなの大盛況であったとか。その頃、文科大学の学生の小松武治がラム兄弟の『シェークスピア』を翻訳した。訳稿について漱石に見てもらった上、その序文を依頼した。漱石がまだ小説にとりかかる前のことである。漱石はシェークスピア劇のなかから、せりふの一節を原文のままとりだし、それに合わせて句をつくるという独創的なことをやってのけた。

 たとえば、「ロミオとジュリエット」からは、
"Lady,by yonder blessed moon I swear ,that tips with silver all these friut-treetops."  というロミオのせりふ(ジュリエットよ、私は祝福された月、果樹の梢を銀色に光らせているあの月にかけて誓います)を前において、

 ”罪もうれし二人にかかる朧月”

とやるのである。ロンドンの下宿で引きこもってばかりの漱石の英語など、なにほどの事やあらん、と以前は思いこんでいた。ところがところが漱石先生、シェークスピアを相当読んでいたらしく、その英語力たるたいしたものであるようだ。あれこれ説明をする前に、その英語劇に題材をとった句をご紹介しよう。

 ”雨ともならず唯凩の吹き募る”
 ”小夜時雨眠るなかれと鐘をつく”
 ”白菊にしばしためらふ鋏かな”
 ”女郎花を男郎花とや思ひけん”

そして漱石の好きな「菫」の入った一句。

 ”骸骨を叩いて見たる菫かな”

半藤一利さんによると、漱石の残された蔵書に書き込みをみると、なんとも真剣に
シェークスピア劇を原文で読んでいるのが分かる。書き込みの一番多いのは「マクベス」で、次が「ハムレット」だそうだ。

さらに一句。

 ”見るからに涼しき島にすむからに”

いつも当ブログをお読み頂いているフェニックス様からリクエストがあり、これらの句が、シェークスピアの劇のどれから来ているか、とりあえずは伏せておきます。次の<余滴>にて謎解きをさせて頂きます。これらの俳句を見つけだした人のご紹介ともども。

 漱石が英語読みの達人であることは、「草枕」など漱石の小説の中にでてくる文を見れば、よくわかる。森鴎外といい漱石といい明治の頃の人の語学力、文章力には感嘆する。

 「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石(とんぼだま)の空のなかに円き柱が、ここかしこと立つ。遂には最も高くそびえたる鐘楼が沈む」

(原文:"Venice dropped lower and lower,breasting the water, until it was a thinline in air.The line was broken,and rain in dots with here and there a pillar standing on opal sky. At last the topmost campanile sank."

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読書『句帖の余白』

2008-12-05 | 時評
読書日記『句帖の余白』(藤田湘子 角川書店 2002年7月)

藤田が主宰していた「鷹」に毎月連載された文を集めたものである。どうしても俳句のことが中心になっているが、俳句とは関係もない雑文もすくなからずある。季節のことや鳥たちこと、旅のことや鹿島槍など山のこと、そしてもちろん秋桜子や兄弟子波郷のことから画家曽宮一念のことなどもあり、なかなか味わいの深い随筆集となっている。つい先頃の南紀への旅には、この本を持って行き海を見るのに飽きたら、寝転がってこの本を眺めたりしていた。

 湘子は、専用の句帖をもっている。一日十句を始める前に、自分専用の句帖を百冊つくったという。そし頑として縦書にするという。横書きにしたら、俳句の妙味がついにわかるはずがないと言う。うなずけるような気がする。

《基礎構築》という一文がある。いちいち胸に応えてくるので、ほぼ全文をご紹介する。

 ”近藤芳美氏が「未来に連載の「机辺私記」を、私は愛読している。毎号一頁、ちょうど私のこの雑文とおなじという親近感もあるが、内容が犀利で、短詩型文芸のあり方を考える示唆に富んでいる、というのが大きな理由だ。十二月号のそれは
 「音楽家であろうとするものが、バッハやベートーヴェンを学ぼうとはしないういうことはないはずである。画家であることを志すものがセザンヌとかピカソの画集に触れた事もないなどとは考えられないはずである」に始まって、歌人であろうとする人たちの、近代古典作品の読みの不足を嘆いておられた。
 「今日の短歌世界に、そのような基礎構築ともいうべきものがあまりにも忘れられている」という結びの三行には、あの大きな近藤氏の身体が、歯がゆさでうちふるえているような思いさえした。

 この文中に出てくる左千夫、節(たかし)、茂吉、文明という歌人の名を、たとえば虚子、蛇笏、秋桜子、誓子に置き換えれば、近藤氏の嘆きはそのまま私たち俳人の嘆きになる。短歌も俳句も、実作者の不勉強は今や底をついたと言えるかも知れない。「名句を朗唱しよう」と私はしきりに言う。けれども、それを実行していると思われる作者はそれほど多くない。

 「秋桜子の『近代の秀句』(朝日選書)は必読の鑑賞書である」と薦める。これもあまり手応えは感じられない。「投句数の数倍は作句しよう」と言っても、「俳句は意味よりリズムだ」と教えても、「ものを見つめるのだ」と力説しても、それを自分なりに実作に反映させている作者が、はたして何人いるのか、とも思う。すべて「ないないづくし」、それでいて良い結果だけを求めている。すこし虫がよすぎるのではない。

 私が名句の朗唱を言うのは、これが近藤氏の書く、バッハを学びセザンヌに触れる、ということに相当するからである。多くの近代古典に手がまわらぬならば、せめて秋桜子、誓子、青畝、素十の四Sと人間探求派の楸邨、波郷、草田男くらいはよく読んでもらいたい。このうち秋桜子は私の師、波郷は兄事した先輩、二人の作品を朗誦するだけで、私が俳句になにを求めているか、やがて感ぜられるようになるに違いない。・・・・・・・”

 「けれども、私が何を言っても、究極は作者個々のやる気である」と湘子は、突き放す。私は、あわてて書架から『近代の秀句』をとりだしてきて、眺めはじめた。

 次は俳句における言葉の使い方。結構きびしい批判が出てくる。
《秋思など》と題する一文を書き抜いてみよう。

 ”「畔」平成元年11月号をひらいたら、上田千石氏の次のような短文がすぐ目にとびこんできた。
  ー“「日向ぼこ」というのは冬の人事季語であるから、犬猫のそれではない。
    「秋思」また人(作者)のもので、「秋思の何々」とは言えない。ことに「秋思の仏」のような用い方はない。「仏」に「秋思」などはなのだ。”

五千石氏の言っていることは、私もあちこちの句会で何回話したことか。日向ぼこでいえば、犬はおろか虎、河馬、獅子、亀等々、日溜まりでじっとしている動物はみなひとくくりである。秋思のほうも「秋思の海」「秋思の波止場」なんてのが出てくると、おれたちはいつから艶歌をやっているのだろう、といった錯覚に陥る。・・・・”

 こんな調子で、汚いことばとして「芽木」(→木の芽、このめ)も、こんな美醜の差が分からずに俳句を読むのは到底無理、と血祭りに上げられている。「こだわる」という語も、本来マイナスイメージの言葉なので、「本物にこだわりたい」というのは、ちょっとおかしいんじゃないの、との江国滋氏の言を紹介している。

 俳句と関係のないエピソードでは、《千年釘》という話が語られる。昭和10年松山生まれの鍛冶職人、白鷹幸伯(ゆきのり)さんのことである。湘子は、薬師寺西塔が再建されたころ大工の西岡棟梁の名を知り、宮大工のことに関心を持ち出した。そして西岡棟梁のもとで、薬師寺西塔、中門、回廊、大講堂再建のための白鳳型和釘の鍛造を行った白鷹さんの名を知った。子供の頃、職人の多い町に住んでいた湘子は、いつも手仕事のを見て楽しんでいた。そんな下地があったので、「たとえば千年生きよった木は、切ってからまだ千年生きよんねん」という西岡棟梁の言葉にしびれている。

 ”(西岡氏の亡くなった)2年後、白鷹さんの『鉄、千年のいのち』が出て、私はむさぼり読んだ。そして西岡棟梁以上に白鳳さんの生き方に傾倒した。・・・・平成12年2月、愛媛県宇和町の俳句フォーラムで講演した。頃日(けいじつ)私は、作句活動は目先だけ見て行ずるのではなく、草田男のように二百年生きる積りで、長い展望に立って作句しなければ、やせて稔りのとぼしいものになる、と考えていたので、これを講演のしめくくりに話した。ところがその途中で突然白鷹さんを思いだした。

 「松山には薬師寺再建のための、千年生きる和釘を打っている立派な方がおられる」と言って、一度訪ねたい、できることならその和釘を一本わけてもらいたい。それを書斎において俳句を想うのだ、と余計なことまでしゃべってしまった。それが実現したのである。11月10日、NHK俳句王国出演の前日、作業中の白鷹さんを訪ね、和釘を頂戴し、夜は大いに飲み語り合えたのである。”

とても豊かな幸せが薄れてしまう気がする、と湘子は事の詳細を書いていない。しかし今も、その和釘は湘子の机の上に置かれている。


          ~~~~~~~~~~~~~~

 湘子の遺句集『てんてん』(角川書店 2006年4月)を今、読みかえしているところである。

       ”春夕好きな言葉を呼びあつめ” (湘子)

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気まぐれ日記/ぶらり神戸下町散歩~葱焼倶楽部

2008-12-01 | 時評
 ときどき夕方家に一人取り残されることがある。そんな時、ぶらりと下町へ散歩がてら晩飯を食べに行く。いつもリュックサックを背に。

 三宮までの直行バスに乗れば午後の陽光に輝く海を見ながら20分ほどでセンター街につく。まずはコヤマカメラへ。今日は、前から欲しいと思っていた軽量のデジカメの最新機(キャノンのIXYDigital 920)を買う。1000万画素、液晶画面が3インチ、明るく画面が精細である。これまで量販店やアマゾンなどの通販で購入していたが、やはり人とのふれあいが好ましいので、古くからあるカメラ屋さんに寄る。ひとしきり夕陽の海の撮影談義に話が弾んだ。撮影した作品を沢山みせてくれた。さあ、これで立木義浩のような「俺たちだけの神戸を探す」写真が撮れるかな。

センター街のジュンク堂に寄る。神戸発の書店で、いま日本で最も元気が溢れている本屋、この三宮店が原点だ。斉藤孝の新作『ブレない生き方』、福田和也のこれも新刊「東京の流儀ー贅沢な街歩き』を求める。前者は、12人の日本のロールモデルを描いたもので、マーケティングでめざましい活躍をした菊池寛の話などとても面白い。ついでに文芸の新刊のところで見慣れぬ本をみつけた。「たまや」というタイトルのついた本というより冊子だ。詩歌、俳句、写真、批評・・とある。ジャンルを越えて編集される不定期刊行物だ。嬉しくなるなあ。

 ”秀句なぞちゃんちゃらをかし不夜庵忌” (炭大祇忌)・・・(加藤郁乎)

穂村弘の「秀歌を守る歌」という掌文がある。読むのが楽しみだ。

すこし肌寒くなりかけた夕方の商店街を抜け、JRで神戸駅まで足を伸ばす。山側(こういうと神戸では、北側のことを指す)にある湊川神社前の多聞通りまで足を運ぶ。時折のぞくオーディオ専門店の<ルーツサウンド>は、残念ながら今日はお休み。そのちかくのジャズとお好み焼きの店<葱焼倶楽部>へ。階段入り口の看板が素敵なイラストの絵があって見るのも楽しい。オーディオは、マッキントッシュのアンプに、タンノイのSPバークレーというラインナップだ。




時間が早いので、一人占めだ。壁の柱時計が時を刻んでいる。ビル・エヴァンスのリリカルなピアノが静かに流れている。牛すじのオムレツで芋焼酎を飲む。そしてここの目玉の葱焼き。円盤2枚が重なった広島焼のようなお好み焼き。真ん中に刻んだ葱がたっぷり入っている。その上に、ぱりっと薄い皮のようなお好み焼きが乗っかっている。豚の味わいと葱の香り。逸品についつい箸が進む。今度は、ライブのある日に来てみよう。店を出れば、もう暗くなっていた。紅い灯を通り抜けながら、帰路についた。余談になるが、このお店のイラストもふくめ、神戸のジャズスポットを紹介した素敵なサイトがある。題して<神戸ジャズ> ジャズのお好きなかたも、これから聞いてみようという若い方も是非のぞいて見てください。





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