読書 『ベスト&ブライテスト 上・中・下』(デイヴィッド・ハルバースタム 1999年7月 朝日文庫)(その②)
(9月19日の記事、その(1)と合わせてお読みいただければ幸いです)
承前
著者ハルバースタムは、ケネディついでジョンソン政権下で、ベトナム戦争に関する政策形成や意思決定にかかわった人々を評価・分析する。その生い立ちから始まって政権に加わるまでの行動・言動、性格分析、またそれらの人々の資質・長所と短所などなどを緻密に分析する。その上で、当時の政権がいかなる過ちを犯したかを詳述するのである。あまりにも長文にわたるので、ここではいくつかの例を挙げるに留める。
(ベトナムという国家についての理解の欠如)
1961年は、キューバ侵攻事件のあとを受け、ソ連とのミサイル・ギャップを埋めるという公約のもとで国防費の増大を図らねばならなかった。ソ連と相手の出方を見守るなかで冷戦がさらに進行した。ラオスでは緊張が高まり、コンゴで暴動が発生した。ベルリンの壁をめぐって殆ど毎日紛争が絶えず、ベトナムもやがて問題となるかもしれないという予備的報告が入りつつあった。
ある意味でキューバ事件は、1965年のベトナム戦争エスカレーションのリハーサルであった。ケネディの事件は四日で終了したが、ジョンソンの事件は四年かかっても終わらなかった。だが両者に共通する要素があった。
”非白人社会の希求と願望を完全に読み違えたこと、西欧的白人社会の主義主張を、それがなじまぬ社会に持ち込んだこと、政策決定機構がその立場を追求し正当化するために、国家全体の利益を犠牲にして勝手に突き進んだこと、相手の国や自分の国についてさえ驚くほど何も知らないにもかかわらず、専門家をもって任じた人々があまりにも秘密主義に走りすぎたこと、政府部内でしかるべき権限を持たない人間があまりに多くの決定を下したこと、道徳的配慮をあまりに欠いたこと、そしてなかんずく、あまりにも常識に欠けたことなどである。
1961年、ソ連のフルシチョフとの会談でケネディはフルシチョフから激しいことばを浴びせかけられ、不意を打たれ反論した。その後、ケネディは国防予算を増額し、また世界の中で一番挑戦をうけている場所はベトナムだと、ニューヨークタイムズのコラムニストであるジェームズ・レストンに語った。
”われわれは、アメリカの力がいい加減なものでないことを示さなければならない。ベトナムがその舞台になるだろう”
しかしその頃はベルリンが中心的問題であり、ベトナムは遥か彼方に垣間見るくらいの問題であった。ポツダム宣言では、実質的な協議なしにベトナムについての一つの決定がなされた。アジア植民地問題の将来について自ら鍵を握っておきたいイギリスはフランスが、日本の降伏後フランスがインドシナに戻ることを認めた。フランスは再びその支配権を主張し、現地住民の意向を汲んで欲しいというアメリカの要請に面従腹背し、やがてフランスによるインドシナ戦争がはじまり、ベトナム人は武器をとって自らの独立を確立することになるのである。
1945年国務長官のジェームズ・バーンズが作成させたアジアの将来に関する報告書では次のように言っている。
”1930年代より高まりつつあるベトナム人の政治意識と政治的希求が今やその最高潮に達しており、それがフランスに対する武力抵抗を導くであろうこと、またその過程でフランスが、この反抗を抑え、フランス支配を再確立することは著しく困難であること」をきわめて正確に予測している。
にもかかわらずアメリカはヨーロッパにおけるフランスの弱体化を恐れており、弱いが気位の高い同盟国に圧力をかけようとはしなかった。大戦中この地域に従軍し、その後国省職員としてとどまったコーネル大学の人類学者リストン・シャープは当初から、アメリカが指導性を欠き、真空状態を生み出したことを強く避難していた。
(反共レトリックの虜)
中国の崩壊、マッカーシーの台頭(マッカーシズム)、朝鮮戦争の勃発という三つの事件は一つの大きな流れとなって、アメリカの国や政治に、そしてやがて対外政策に深刻な影響を及ぼしていくのである。その流れの中で、
”フランスの戦争を植民地戦争とする見方は後退し、共産主義に対する西側の戦争、ベトナムに自由を付与するための戦争という見方が前面に押し出された。”
朝鮮戦争が進行し、フランスのインドシナ戦争がたけなわの1950年代において、、東南アジアに対する政策を全面的な反共主義に基づいて律することには、それなりの理由もあった。だがアメリカ国内も世界も様相を大きく異にしていた1961年において、それらの政策の前提を安易に受け入れてしまうとなると、問題は別である。 問題の本質は、彼ら自身が当時の政策の前提、とくに東南アジアについての前提を再吟味しなかったところにある。
1961年1月、ベトナムについての最初の警鐘を鳴らしたのは、アメリカ政府でも異色の人物、ランズデール准将(CIA)であった。1950年代初期、フィリピンのゲリラを一掃する上でマグサイサイの片腕となって働き、やがて海外における「醜いアメリカ人」ではなく、「よきアメリカ人」のひな形となった。彼は、無神経で傲慢な物質主義的人種差別者である官僚がおおげさな援助計画を振りかざすことに我慢ならなかった。多少とも田舎臭く謙虚なアメリカの青年が現地のことば、風俗、文化を学び、現地に溶け込めるような小規模な計画を数多くすすめなければだめだ、と彼は主張していた。アイゼンハウアーの政権末期、ランズデールはベトナムに戻り、愕然とした。今やベトコンと呼ばれる解放勢力が地方におけるゲリラ戦で勝利を重ねているのに対し、アメリカ軍事使節団は、依然として朝鮮型の侵入の備えてベトナム政府軍を訓練していた。ジエム大統領は殆ど孤立していた。しかし、ランズデールの報告は活かされることはなかった。
1950年アメリカはフランスの戦争を財政的に支えるに至るのである。4年間、毎年5億ドルにのぼる援助をつぎ込んだが、戦争の帰趨を変えるに至らなかった。1954年、仏軍はディエンビエンフーで降伏した。
この調子でえんえんと続くのであるが、要は
・”小さな黄色人たち”を相手にするには、フランスは余りにも気位が高かったし、ベトナム人たちの政治意識と政治的希求は最高潮に達しており、それがフランスに対する武力抵抗を導くであろうことは理解できなかった” つまりアメリカ政府もそれを知りつつ、弱いが気位の高い同盟国フランスに対し、圧力をかけようとしなかった。
(そしてアメリカも)
ベトナムにはベトナム固有の勢力が遥かに強く、遥かに現実的なものであった。ベトナムの国家を掌握し、その統一をはかる闘争に、彼らはすでに1 5年もの長い試練に耐えてきたのである。このことをアメリカ政府は十分に把握していなかった。
これらの判断の根底には、1947年当時、イギリスが二つの世界大戦によって完全に疲労困窮の極みに陥り、”たいまつの炎”がアメリカの手に移ったことがある。トルーマン政権の偉大な人物であったアチソン(国務次官補から国務長官)は、”あたかも一つの腐った林檎が樽全体を腐らすように、共産主義の病毒が諸国を次々冒しているのが、今日の世界の姿であると描いた。すべての西欧文明を脅かすこの最新の全体計画のまえに、敢然と立ちはだかり自由を守れるのは、アメリカにおいてない。アメリカが行動しなければ、暗黒に時代がくるであろう・・”と力強く、熱をこめて語った。
(戦争の実態)
”まだ水平線にわずかに頭を持ち上げてきた小さな黒雲に過ぎなかったベトナムは、
人類の生存か死滅かという中心課題からははるかに離れて遠い、しかも処理可能な問題に見えたのである。”
1961年1月、ベトナムについて警鐘を鳴らしたのは、政府でも異色の人物、エド ワード・ランズデール准将である。空軍将校からCIAに出向しているランズデールは ベトナムに赴いて愕然とした。今やベトコンと呼ばれる解放勢力が地方におけるゲリラ戦で勝利を重ねているのに対し、アメリカの軍事使節団は依然として朝鮮型の侵入に備えて、ベトナム政府軍を訓練していたのである。
45万の大軍を擁したフランス軍がディエンビエンフーで敗れたが、アメリカにおいて は空爆で事足りると考えていた。そしてアメリカがベトナムで戦っているときも、徹底 的な空爆があれば無敵であると信じられていた。しかし、ベトナム政府軍は、かつての フランス軍と同様、日中に村々を襲い火器爆薬を惜しみなく使い、農民を収奪したが政 府軍が去った夜中にはベトコンが村に入り、その絶妙な政治宣伝工作を展開した。また 密林の中では空爆もあまり効果をあげなかった。後にジョンソン政権下では、北ベトナ ムそのものに対し、空爆(いわゆる北爆)を行うが、様々な設備・基地もあちこちに分 散されており、効果的ではなかった。それどころか1961年9月にはそれまで蓄えていた力を発揮し始めた。ゲリラ活動はその件数において一挙に3倍になり、また首都サイゴンからすぐ近くの省都を攻略して、サイゴンに大きな衝撃を与えた。
ワシントンでは新たな軍事行動を要求する声が高まり、北からの浸透を阻止するため、2万五千の軍を派遣することがロストウらから提案された。しかし、それはベトナムの地形についての理解のないものであった。さらにマクナマラと統合参謀本部は20万余の投入が必要としたが、最終的には、その2倍ものアメリカ軍を投入したのである。
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いささか脱線するが、1996年に
ヘンリー・A・キッシンジャー(1969年ニクソン政権下で国家安全保障担当補佐官、73年国務長官)が、『
外交』(上下)いうアメリカ外交分析の傑作を著した。そこに書かれていることは、本編の著者ハルバースタムが、まだベトナム戦争の最中に書いているのに対し、戦争終結後に書かれていることもあり、非常に的確に事態を分析し、ベトナム戦争についても冷静な目でみて事態を捉えている。
それによれば、
”アイゼンハワー政権の終わり頃まで北ベトナムはゲリラ戦に全力を投球しなかった。 北ベトナムが大きなゲリラ戦を支えるための補給態勢を設立できるまでにはさらに若干の時間を要した。これを達成するために、彼らはラオスという小さく平和で中立の国家に侵入した。そこを通じて、彼らは後に”ホーチンミン・ルート”として知られるものを建設した。”
”ハノイは戦争に勝つことしか考えておらず、南ベトナムの民主化にも、交渉にも、妥協にも何の関心もなく、冷徹な軍事的勝利だけを追求した。
ファン・バン・ドンが「アメリカははるかに強力だが、アメリカ人より多くのベトナム人がベトナムのために死のうとし、またアメリカ人よりも長く戦う用意があるので、アメリカは結局負けるだろう」と言ったとおりになった。
注)ファン・バン・ドン・・・ベトナムの政治家。ホー・チ・ミンの側近。1955年から1976年までベトナム民主共和国(北ベトナム)の、1976年の南北ベトナム統一後は1987年まで、合計32年間にわたり首相を務めた。
注2)ソ連・中国は資金援助や軍需物資ならびに軍事顧問団を送ってベトナムを支援した。
(現地情報の操作)
現地のアメリカ軍の司令部からの情報は、大統領側近の機嫌を損ねぬよう、またワシントンにいる軍のお偉方の気持ちを損ねぬようコントロールされていた。さらに、時折、
”そんなに上手くは運んでいない”と実情を報告するものは、軍司令部から、ポジションを外され、関係のない部署に飛ばされ、ひどい時は軍隊あるいは官僚としての生命すら危ういポジションに追いやられていた。文官が、詳しく現地の軍事情報を得ようとすると、”それは軍の問題だ”といって軍司令部から手厳しい抗議が出た。軍部のみならず、アメリカ政府はその決定を正当化するために、事実を操作し、報道を歪曲し、そしてそれが功を奏さないと、悲観的な記事を送りつづけたベトナム駐在の特派員らに対する攻撃を始めるのであった。
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太平洋戦争中の日本軍のありさま、とよく似ているのである。著者はこの辺りを関係者の実名を挙げて詳述しているが、ここでは省略する。
サイゴンの司令部は、前線からの異論を系統的に握りつぶした。軍部の報告には、対立意見や消極論の入り込む余地はなかった。もし新聞が、ある大佐を悲観論者として名指しで紹介すれば、それは彼にとって軍歴の最後を意味したのであった。
”ベトナムで何が起きているかは、そのつもりになれば明確に知ることができた。ただ、だれひとり、緊急の問題としてそれを明らかにしようとしなかったのである。”
(軍部のコントロールはできるのか?)
”ケネディが、そして後にジョンソン学ぶように、軍部はいったん敷居をまたがせると、一筋縄では言うことを聞く相手ではなかった。その後あらゆる時点で、軍部によるあらゆる見通しは誤りを犯したが、そのことで遠慮をするような軍部ではなかった。ふつうならば、彼らは信用を失い、その圧力をも減退していきうものと考えられるのだが、軍部については事は逆であった。圧力はむしろ高まり、要員・兵器・攻撃目標すべてについて要求は増大していった。核兵器の使用に至らぬかぎり、軍部のツケはすべて文官に回されるのである。
戦争を小規模に抑えるとこができると考えた文官にとって。一つの大きな教訓は、軍部を御してゆこうとするならば、最初から手綱をしっかりと引いて置かねばならない、ということであった。少しでも軍部のいうことをを聞けば、そのあとは彼らの思うとおりに事態が進むのである。彼らは、議会や強硬派のジャーナリストに有力な見方を抱えており、彼らに特有な即決断行、あるいは愛国的情熱や雄々しさが、慎重熟慮する人々の議論を圧倒するのである。
文民統制(シビリアン・コントロール)ということがよく言われるが、これは幻想にしか過ぎない。政策・情報・目的・手段・すべての領域において、軍部が容赦なく確実に支配的な地位を築き上げていくというのが現実である。そして、軍部を統制できると考え、仲間同士でが軍部の考え方を軽蔑している文官は、無意識に一歩二歩土俵を割っているのだ。
太平洋戦争の時代のの日本でも、軍部が、何かといっては統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)だと唱え、と政党の反対意見にに反駁(はんばく)して、彼らの主張を抑えこんでいた。これが無意味な戦争へと突き進んでいった原因であった。
注)1930年に、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口内閣に対し、野党政友会が、「これは統帥権の独立を犯すものだ」と攻撃したことがあった。(大日本帝国憲法第11条・・天皇は陸海軍を統帥(とうすい)する)その後、これに軍部・右翼が乗っかる形で政府を攻撃し、政府は軍事を統率する力を失っていった。こういう事態を招いたのは政党自身であり、軍部の姿勢を言う前に、そのことが問題なのである)
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(ベトナム戦争の持つ意味)
本書の記述はケネディ政権からジョンソン政権、そしてニクソン政権下での動きへと続いてゆく。1968年、ニクソン新政権が誕生するのであるが、その時政権の外交政策の最高首脳となったキッシンジャーは、訪れたアジア人のグループから、「ニクソン政権はベトナムについて前政権と同じ過ちを繰り返すのか」と問われ、ノーと答えていた。
”だがキッシンジャーは間違っていた。驚くほどニクソン政権の人々は、ジョンソン政権の過ちと誤算を繰り返すのである。・・・・・ やがて彼らは彼らの政策を妄信するにいたり、その政策を支持するもの以外には耳をかさなくなるのであった。ここにおいても、懐疑派は次第に閉めだされていった。キッシンジャーのスタッフからは、政権発足当時、彼と共に参画した有能なアジア専門家のほとんどすべてが去っていった。カンボジア侵攻やラオス侵攻についての楽観的な見通しを公表し、撤退と勝利に時間表を早めながら、ニクソン政権は、ベトナム政府軍の敗北と北ベトナム軍の執拗さの前に恥をかくのであった。”
ニクソン政権下での最終章は描かれていない、それは本書が、ベトナム戦争のまだ渦中にある1969年に出版されたからである。それより後年の1994年にキッシンジャーが書いた『外交』(上下)の第27章<ベトナム撤退>中の一文をもって、この拙いブログの記事を締めくくることにしたい。そこで彼キッシンジャーは数ページにわたってベトナム戦争の教訓を反芻(はんすう)しているのである。
”ベトナムでは、アメリカは道徳的観点から正しいのかどうかはっきりせず、またアメリカの物質的な優位性が利点とならない戦争に巻き込まれていた。1950年代のテレビ画面に登場した、絵に描いたような完璧な家族が、ダレスの高い道徳的な意識と、ケネディの高揚する理想主義を支えてきた。こうした士気が萎えたアメリカは、自国の存在意義を探しあぐね、自らを責めた。いかにバラバラになっても最終的には結束できることに自信を持ち、再びまとまることができると信じて、あえて自らを引き裂くような社会は、アメリカの他にはありえないであろう。再生を促すたに分裂する危険を冒すような大胆な国民は、アメリカ人のほかにはありえないであろう。”
”ベトナムをめぐるアメリカの苦悩は、アメリカが道徳的なものにこだわることの驚くべき証左であり、そのこと自体が、アメリカの経験の持つ道徳的な意味合いに関するあらゆる質問に対する十分な答えなのである。さほど時間がかからずに、アメリカは1980年代にアメリカらしさを取り戻した。1990年代には、自由世界の国民は、アメリカに対して、また別の新たな世界秩序の建設に際しての指導を再び求めるようになった。そして、彼らの最大の恐怖は再び、アメリカによる世界への過剰コミットメントではなく、世界からアメリカが身を引くこととなった。インドシナの悲惨な記憶は、アメリカが分裂しないでいることは義務であり、世界の希望であることを思い起こすために役立たせるべきものなのである。”
~~~~~~~~終わり~~~~~~~~
ここまでの長文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。あつくお礼を申し上げます。長文ついでに、アメリカのベトナム戦争の経緯・実態から、今日私たちが学ぶべきことがあるか、いささかの私見を述べてみたくなりました。数日中に<余滴>と題してアップいたします。