(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

ご挨拶

2014-10-24 | 読書
 いつも本ブログをご覧いただきありがとうございます。おかげさまで、なんとか続いてまいりました。もう8年の長きにわたります。これも、ひとえに皆様のご愛顧のおかげと、改めて厚く御礼申し上げます。例年のことですが冬ごもりと称し、しばしのお休みを頂戴しております。今年は、すこし早めですが冬に入る直前から一ヶ月余の休息と充電タイムを取らせていただきたく、よろしくお願いもうしあげます。

 再開の折は、田辺聖子の『文車日記』(ふぐるま・・)を取り上げ、日本の古典の素晴らしさを語るつもりです。掲載は12月1日を予定しております。



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エッセイ 私の愛するお地蔵さま

2014-10-13 | 読書
エッセイ 私の愛するお地蔵さま             
         (写真は、会津の写真家星賢孝さんが撮影されたもの)
 

 歌人岡野弘彦の本『歌を恋うる歌』(短歌ちなんだ随筆集。中央公論社 1990年)のページを繰っていたら、(小さな愛の心)と題する一文が目にとまった。それは昭和21~2年頃に起こった短歌否定論に関する記事である。日本の伝統文化に対するきびしい反省であり、批判であった。それに対し、”私たちより十年ほど上の歌人、宮柊二(しゅうじ)・近藤芳美といった人たちは、湧き出る泉のようなみずみずしい創作力を示して、第二芸術論よこの作品をみよ、というように、実作品をもって論に対した・・・”

さらに岡野は言う、

 ”しかし今になって考えてみると、あの第二芸術論から受けた衝撃と、その衝撃の中から感じた短歌への共感が、その後の私の心を支えてきたのである。”

 ”十年ほど前、佐渡の北端の賽の河原の洞窟で、小さな石地蔵の立ち並ぶのを見て、ドイツの学生が涙ぐみながら「今の西洋にこの小さな愛の心、もうありません」と言った時、私は、ああそうだ、短歌も失われてはならない日本の小さな愛の心の一つなのだ、とつくづく思ったのだった。”

 
 これを読んでいて、ふと、これまでに見たお地蔵さまや、まだ見ていないが気にかかっているお地蔵様のことを思い出したので、メモワールとしてまとめてみた。神戸に住んでいると古都奈良は至近距離にある。近鉄と阪神電鉄が相互乗り入れをするようになり、最近では便利になった。一時間すこしで奈良へ行くことができる。すこし脱線するが戦前の旧制高等学校の学生たちは、歌人会津八一の『鹿鳴集』(ろくめいしゅう)を携えて古都を逍遥したようだ。今も、それは貴重なガイドブックではある。これに加え、近来は紀野一義師の『仏像を観る』(1991年 水書房)が私の好きな手引書である。再々出かけて行って会う仏さまは、十一面観音・聖観音・阿修羅・月光菩薩・薬師如来・阿弥陀仏・弥勒菩薩・・・などなど。どれも立派な仏様たちである。いかめしいもの、厳かなもの、優しい目をしているもの、叱咤激励されそうなもの・・。でもなにか、偉い人がいて、上から見下されている感じがしないでもない。でもお地蔵さまは、違うのである。私たちと同じレベルで、気軽に耳を傾けてくれる。苦しみ、悩みを共に分かちあってくれそうなのである。


 まずはJR名古屋駅近くにある<愚痴聞き地蔵>さま。駅から5~6分歩いたところにある。大都会の真ん中にあるのは珍しい。詳しいことは分からないが、曹洞宗のお寺、桂芳院という、小さなお寺の一角にある。平日の朝とて静かな佇まい。目をつぶり、右の耳を傾け、”さあ、何でもお話・・”といっているようだ。話をじっくりしたい人のために、腰掛ける石まで用意してある。

          

ここを訪れたきっかけは、こうである。時代小説作家の宇江佐真理に『聞き屋与平~江戸夜咄草』という本がある。江戸は両国の大店、薬種屋の主人の与平が主人公の話である。夜になると店の裏側の黒板塀の通用口が開き、行灯をのせた小机と藍染めの小座布団をのせて腰掛けを用意する。与平は、そこで、黙って客の話を聞く。客は様々。一人暮らしの寂しさを語るもの、姑の愚痴をこぼす嫁、嫁の悪口をいう姑、主人への不満をもらす奉公人。冷たくなった恋人への未練の気持ちを露わにする女。それを聞くだけの物語り。この小説をたまたま同じ頃に読んでいた、名古屋の親しい友人がこの地蔵尊のことを教えてくれ、早速足を運んだ次第である。この今の時代に大都会の一角にある愚痴聞き地蔵さまも、今様の「与平」である。少し洒落ていえば、心理カウンセラーかもしれない。まあ、このお地蔵さまの表情は、親しみやすい。ついつい、立ち寄ってストレスを発散させる人も少なくないのではないか。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 次は、奈良の郊外桜井の聖林寺(しょうりんじ)のお地蔵さまである。奈良の南、大和・桜井の南、多武峰(とうのみね)街道が、ようやく山懐に入ろうとするところの右手にある前山の中腹にある。小高いところにあり、美しい三輪山の山稜と盆地が眼前に広がる。訪れる人も少なく、のどやかでまたとない美しい眺めである。ここには白州正子が、昭和7~8年頃に和辻哲郎の『古寺巡礼』を頼りに訪れている。そしてここの十一面観音を見て、あまりの美しさにしばし茫然としたという。

     

 ”さしこんでくるほのかな光の中に、浮かび出た観音の姿を私は忘れることができない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった・・・”

     

いやいや脱線しました。お許しの程を。肝心のお地蔵さまは、寺の入り口から石段を上ったところに立っておられる。
         


立派な立像である。ちょっと見た目には埴輪のような雰囲気があるが、美しく、端然としている。そうそう愚痴を聞いてね、という訳にはいくまい。優しいお姉さんに甘えてみたくなる、そんな雰囲気である。いつ頃、どのような経過を経て造られたのかは知らない。次に再訪したおりにでも聞いて見ようと思う。大乗仏教の中では男神であるが、このお地蔵さまはアーリア民族が持っていた最古の女神の雰囲気をたたえている。好きなお地蔵さまである。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

  さて次は会津八一ゆかりのお地蔵さまである。夕日地蔵と言われる。

 ”ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
  こさめ ながるる はる は き に けり”


奈良坂とは東大寺の北、般若寺(はんにゃじ)を経て南山城の木津へ出る坂をいう。般若寺は飛鳥時代に建立され、平城京の鬼門を鎮護する寺であった。やはり歴史を感じる坂である。八一は、ここに来て石仏を見た時に春雨が降っていた。その雨は夕日地蔵を濡らし、憂愁の表情をしていたのであろう。ここは、やはり”春”でなければなるまい。秋や冬では寂しすぎる。夏では風情がない。この石仏に、ふと芥川龍之介の歌を思いだした。

 ”また立ち返る水無月の 嘆きを誰に語るべき
  沙羅のみづえにはな咲けば かなしきひとのめぞ見ゆる”

八一の自注によれば、 ”奈良坂の上り口の路傍に俗に「夕日地蔵」となずけて七八尺の石像あり。永正6年(1509年)四月の銘あり。その表情笑ふがごとく、また泣くが如し。またこの像を「夕日地蔵」というは、東南に当たれる滝坂に「朝日観音」というものあるに遥かに相対するがごとし”   會津八一の歌ゆえに、その歌碑を求め歩いている私としては会いに行きたいと思うお地蔵さまである。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
  今度は、まだ見たことがないお地蔵さまのことを語る。冒頭に書いた紀野一義の『仏像を観る』の中で取り上げられている。それは東大寺の公慶堂の中にある。東大寺第二の中興の開山(第一は重源)といわれる公慶上人がつくった勧進所がある。そこには名だたる仏像が立ち並ぶが、そのなかに地蔵菩薩がある。

 ”オン・カーカカビサンマーエー・ソワカ” (お地蔵さまの真言)

これはめったに観ることができない。それもそのはず、10月5日の転害会(てがいえ)の時にのみ、このお堂が開扉され、五刧思惟阿弥陀如来や公慶上坐像などと共に見ることができる。そしてここにある地蔵菩薩は、まだ見たこともない。運良く、入江泰吉の撮った写真をみると、なんとも流麗で優しく美しく、そして相手の心の底まで見透かすていのきびしく涼しい眼をしておられる。紀野一義の言葉をかりると、

 ”このお地蔵さまの顔は淡麗で、しかも現代風である。強く曲線を描いた眉と、
  波打つ切れ長の両眼は、菩薩のお顔というよりは、アラビアの麗人のごとくである。 中に情熱を秘めながら、しかも外はあくまでクールな美しさを持っている。快慶のまわりにこんな顔をした美しいひとがいたのだろう、きっと”

     
  
そして紀野一義は、「私はこのお顔にそっくりなお嬢さんを知っている}と言って、カソリック修道院付属の幼稚園のかわいい先生のことを書いている。なんといういう偶然の一致か。私のまわりに、同様にそっくりなお嬢さんがいたのである。神戸女学院の英文科を出た人で、実は彼女が卒業したあと私たちの職場で採用して働いてもらったのである。まあ、そっくりだ。紀野は、この地蔵菩薩像についてさらに言う、

 ”お顔の保存は実によく、唇の丹朱の彩りは鮮烈を極め、まこと目がさめるようなお地蔵さまである。私は思うのだが、男でも、女でも、お地蔵さまでも、観音様でも、目の覚めるような鮮やかさが大切ではあるまいか。それは内なる生命力のあらわれだ。命の火が燃えているということだ。大勢の子どもたちを幸せにしようというのに、寝ぼけたような顔をしていていいはずがない。鮮烈な美しさと爽やかさが大切だ。”

 ちょっと思い込みの強いような気もするが、一度是非お目にかかってみたいと思う。

 すこし横道にそれて、この地蔵菩薩のエピソードをご紹介したい。東大寺の開山は良弁僧正と言われるが、その高弟に実忠という和尚がいた。実忠は東大寺の造営に異常な熱意を注いで尽力した。白洲正子が、その法師のことを『十一面観音巡礼』の中でとりあげ、(木津川にそって)という一文を書いている。ちなみに、実忠は新羅人ともインド人ともいわれ日本人でなかったようである。

 ”彼にはこういう逸話もあった。~ある時、光明皇后が東大寺講堂の地蔵菩薩を拝され、こんな美しい沙門がいたら、会ってみたいと仰せになった。宮人がいうには、実忠法師こそこの像よりひときわ優れて美しいと教えたので、皇后は彼を招いて、お風呂にいれ、ひそかに裸の姿を見て、恋慕の情を起こした。折しも仮寝の夢に、実忠が現れ、皇后と枕を交わしたが、ふと気がつくと実忠は頭上に十一面観音を頂いていた。思わずひれ伏した皇后は合掌して、浅ましい心を起こしたことを懺悔したという。・・・真偽はともかく、右の逸話は、十一面観音と地蔵菩薩が、いわば夫婦の間柄にあり、男女の仲をとりもった陰陽神であったことを暗示している。・・・”


 地蔵菩薩信仰については梅原猛の『仏像のこころ』(1981年 梅原猛著作集第2巻)に詳説されているので、ここでは、その中の一文を掲げるに留める。

 ”今 地蔵の世界について論じようとする時、われわれは日本の民衆の底辺に達した感じがする。地蔵は、もはや御厨子の中に収まっている仏ではない。それは野の傍らで、雨にあたり風に当たって立っている仏なのである。・・・民衆の中に定着した地蔵の形は左手に宝珠を持ち右手に錫杖をついて、どこにでも行き、庶民の苦を救い幸福をもたらす坊さんの姿となった。それが日本の民衆が地蔵に見た救済者のイメージであった。”

 ”地蔵菩薩も(観音と同じく)現世利益を説いてはいるが、さらに過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰される。地蔵は、どうやら民衆の苦悩をいやすことを専門とする仏なのである。しかも生者の苦悩のみでなく、死者の苦悩をもいやす仏なのである・・・・”

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、最後にファンファーレを鳴らしつつ登場する(笑)のは、日本の原風景を未だにふんだんに残す奥会津のお地蔵さまである。会津若松の西に位置する奥会津。、その一角に山に囲まれた三島町がある。三島町あたりを流れる霧幻峡は水面も緑に染まる美しい流れである。そこを渡った山あいに三更(みふけ)集落がある。正しくは、あった。50年前の山崩れで押し流され、家々は崩壊した。そのとき集落の小高い所にあるお地蔵さまにところで山津波はとまり2軒の民家が残った。この集落で生まれ育った人のなかに奥会津の写真家である星賢孝という人がいる。奥会津をこよなく愛する星さんは、写真家集団(写好景嶺 しゃすけね)を率いて奥会津の美しい風光を紹介するととに、未だに水害から復活できていない只見線の保存・復興に力を尽くしている。星さんは、この三更集落の生まれである。みずから和船の建造もして、訪れる人々の求めに応じ対岸に渡している。その対岸にある霧幻地蔵はかつて子どもたちを見守り、山崩れから人々を助けたとして今も愛されている。多分、年に二、三回のことであろうが、星さんたちは渡し船で対岸にわたり、昔この集落で育った仲間とお参りをし、お地蔵さまの衣装も替えてやるのである。如何です? この写真のお地蔵さま。なにか嬉しそうでしょう。とても親しみを覚えるお地蔵さまです。

     
     

     (これらの写真は、いずれも会津の写真家星賢孝さんの撮影になるもの)

 この記事の冒頭でドイツ人学生が石地蔵を見て、”小さな愛の心”と言ったのをご紹介したが、この霧幻地蔵を見ていると、そんな気持ちが湧いてくるのではないか。そして思うのである。このようなお地蔵さまを愛する日本人の心にこそ、小さな愛の心が、いまだにあるのではないか。

 実は、このお地蔵さまにはまだお目にかかっていない。会津を訪れること回を重ね、今や第二のふるさとになりつつある会津、今年もその一部分を見た奥会津。そこに現存する、このお地蔵さまには、どうしても会いたいと思っている。いずれ・・・その時は、星さん渡し船を漕いでやってくださいね!


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。梅原猛と紀野一義のお二人の地蔵菩薩への受け止め方は必ずしも一致していません。それを整理もせず取り上げてしまいました。お許しください。これらのお地蔵さまのなかで、みなさんが気に入った、会ってみたいと思われる地蔵菩薩がありましたでしょうか?














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(予告編) エッセイ 私の愛するお地蔵さま

2014-10-12 | 日記・エッセイ
最近出会ったお地蔵さま、前から気にかかっているお地蔵さまなど気侭に書き散らします。みなさまの好きなお地蔵さまがあればいいのですが・・・。アップは、週の半ばになる予定です。






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読書 またまた『ベスト&ブライテスト』に関連して~ベトナム戦争に学ぶ(九分九厘)

2014-10-10 | 読書
ハルバースタムの著書『ベスト&ブライテスト』につき3回にわたってご紹介しましたところ、畏友九分九厘さまより、長文のコメントを頂きました。この夏に、gacco で共に「国際安全保障論」を学んだ仲間であります。貴重なご意見を開陳いただきましたので、ここに全文を紹介させていただきます。

    
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ゆらぎさんの「ベスト&ブライテスト」を読ませてもらった。なかなかの健筆である。ヴェトナム戦争の教訓から、政治家を補佐する官僚のあり方についての論に興味をもって読ませてもらった。
 
 手許にポール・ジョンソン著『現代史』(上下巻/1917~1991年、共同通信社、1992)の大部作がある。内容はすっかり忘れているが、’90年台の半ばに読んだものだ。Paul Johnson はイギリスのジャーナリスト。歴史に関する著作で有名。イギリスの保守派を代表する知識人で、サッチャ-のスピーチライターを務めた。

 ゆらぎさんのベトナム問題を読んで、この本を引きずり出してきてベトナム関係の著述を再読してみた。以下はこの本による筋書きである。日本人の私が読むと、この著作の文脈に違和感が伴うものであるが、この本の発売時に賛否両論の意見が出たというのも当然と思われる。この本を本欄で引用した理由は、ハルバースターの見たヴェトナム問題とジョンソンの見たヴェトナム問題の切り口が少し違うという点である。ジョンソンは最高司令官のアメリカ大統領の意思決定が如何に頼りなかったかということを暴露している。周りには補佐官がいたはずであるが、補佐官の言ううがままに動いていたのか、大統領自身の意思決定だったのかははっきりしない。ルーズベルトは6人の補佐官を抱えていたが、ケネディーは最初は23人の補佐官を有し、次第にその数を増やした。ホワイトハウスの要員は時代を追うごとに増えたことを書いている。大統領制のもとでは、最終の意思決定は大統領の責任のもとで行われるわけだが、本著によると意外に頼りないことがわかってくる。「戦争は政治の失敗で起こる」という格言が、こうした過去の戦争の経過を知ることによって改めて認識される。

 著者は、ケネディー・ジョンソン両大統領を優柔不断な、半ば無能な指導者として一刀両断している。しかし、軍人で戦略家のアイゼンハワーは、慎重居士であって核兵器と通常兵器の両方に目を配り、当時ソ連に先行されていた人工衛星などには気にもかけなかった現実家として評価している。ただ、ヴェトナムに関する混乱の一番の責任のあるアメリカ人はこのアイゼンハワーであるとする。1954年ディエンビエンフー陥落時にフランスが提唱したジュネーブ調停の調印を拒否し、自由選挙をゴ・ジン・ジェムが拒否したことを黙認した、アメリカ大統領の決断がその後のベトナム戦争をアメリカが肩代わりをする結果となり、フランスは政治的に撤退に成功する。当時、アチソン、ケナンも介入に消極的であったにも拘らず、東南アジアでの共産勢力進展を恐れ、アイゼンハワーは迷った上でのこの判断を行ったとする。
   
 1961年、高齢のアイゼンハワーに変わった若きケネディは、既にヴェトナム問題を抱え込んでいたことになる。ケネディの優柔不断の政治的無能は、キューバへのCIAクーデター作戦の失敗に始まり、結果的にはフルシチョフにしてやられたミサイル問題(この問題の帰着は、キューバに堂々とソ連と軍事同盟を結んだ共産主義政権を存続させたことにあって、安全保障という具体的問題に関しては、ケネディーはミサイル危機で敗北を喫した)にみられたが、さらに宇宙計画とヴェトナム問題に進展する。(宇宙計画に関しは省略するが)ヴェトナムに関しては、その関与がアメリカの威信と技術的リーダーシップを再び取り戻すためにも、恰好な場所であるとNSC(国家安全保障会議)が入れ知恵をしたとする。既に、アメリカにとってヴェトナムは世界のどこよりも大規模で金のかかる、共産主義を叩き勝利を収め面目を保つための大きな仕事になっていた。ド・ゴールはケネディにヴェトナムから手を引くように勧告するが無駄であった。ケネディの就任時1961年にはベトコンは事実上南に侵攻していた。ホーチミンはラオス・カンボジアを含めたインドシナ全土の支配を決断してその勢力を潜ませていたわけだが、アメリカは決定的にならない中途半端な軍事援助を南のゴ・ジン・ジェムに与え続け泥沼に入っていく。1963年アメリカCIAはクーデターを企てゴ・ジン・ジェムは殺され、新たな軍事政権を援助することになるが、このことがアメリカの第二の大罪である。その後すぐに、ケネディ自身が暗殺され、ジョンソンが副大統領から昇格する。

 1964年トンキン湾でアメリカの駆逐艦が攻撃され、議会は大統領に「トンキン湾決議」と称する、大統領が承認抜きで戦争をする権利を与える。ションソンは選挙に圧倒勝利を得た後すぐに1965年北爆に踏み切る。これがアメリカの第三の致命的な誤りである。戦争を始めた以上、早々に北を占領すべき事であったにも拘らず、ようやくにしての空爆であり、その後12万5千人の兵士をダナンに上陸させることになる。その時、ホイラー参謀長は勝つためには、70万から100万の兵力と7年間を要すると大統領に上申していたという。優柔不断のジョンソンは毎週火曜日に標的と爆撃量を決定し、戦争はジョンソンの道徳的抑制という政治的理由により、最初から最後まで制限されることになる。メディアの論調も好戦的なものから反戦に次第に変わり、1966年に「タイムズ」翌年「ポスト」やTVが反戦に転じ、偏向報道とも思われるものまで出現することになる。特に「テト攻勢」がヴェトコンにとって決定意的に優勢であったとする報道は、アメリカの指導者たちに世論に対抗できない弱気を起こさせた。国防長官クリフォードやアチソンも戦争反対に傾き、上院の戦争強行派も兵力増強に反対し始めた。1968年にヴェトナムの司令部が20万6千人の追加派遣に対し財務長官は財政理由を盾にとって反対をする。世界で一番豊かな国が財源の壁に突き当たったのである。防衛費に加え福祉に多くの予算を使ったジョンソン時代の政府の出費は、対GNP33.4%まで膨れ上がっていた。加えて、この時期には黒人人権問題が頂点に達し、暴動が起こる内政問題を抱え込む。

 1969年に大統領になったニクソンは巧妙に戦争を縮小しながら、北ヴェトナムと和平交渉を画策する。 その背景には当時の中ソ対立を利用して中国と対話を始めることであった。新しい中国対策と縮小戦略への転換がハノイとの和平を可能とした。ヴェトナム駐留米軍は4年間で55万人から2万4千人に削減され、出費も250億ドルから30億ドルまで減少する。1973年に「北ヴェトナムにおける戦争終結と和平回復のための協定」が調印されることになる。ただ、ニクソンはハノイが協定破りをした場合は制裁攻撃をする権利を留保していた。ここまでのニクソンの政治処理は評価できるものであったが、この頃既に「ウォーターゲート事件」に彼は巻き込まれていた。

 大統領が電話盗聴などの汚い手段を使うのはルーズベルト時代まで遡る。ケネディ時代のホワイトハウス職員は1664人であったが、ニクソンのもとでは5395人となり費用は7100万ドルまでに膨れ上がる。増加分の殆どが国家安全保障担当補佐官キッシンジャーの仕業であり、そもそも電話盗聴作戦を拡大した張本人はキッシンジャーであった。世論は魔女狩り裁判の典型の様相に変わり、民主党が過半数を占める議会調査委員会が大統領に公然と正面攻撃を仕掛けることを容認するまでに至った。弾効による長期政治不全を恐れたヒクソンは1974年に辞任することになる。このニクソンの失墜は権力のバランスを一挙に立法府に傾ける好機となり、以降大統領の権限がかつてないほどに制限され、軍事を含む外交政策に対し議会の承認が必要となった。上院・下院に多くの委員会を作り大統領の権限の監査監督を行う用になり、その専門職員の数が3000人以上となった。ニクソンのヴェトナム撤退作戦は、あくまでアメリカの抑止力を北に誇示し、アメリカの標榜する自由主義の保持にあった。しかし、「ウォーターゲート事件」は大統領の権威の失墜を招き、南に対する援助の全面的削減を打ち出したため、北ヴェトナムは曖昧な「戦争終結と和平回復のための協定」を破棄することに踏み切る絶好の機会を得ることになった。1973年の暮には北は全面的な侵略を開始する。1975年はじめには中部地域を占領配下に収め、4月にサイゴンを陥落することになる。この間フォード大統領は議会との軋轢の中で身動きが取れない状況にあった。

 以上が、P・ジョンソンのアメリカのヴェトナム戦争に関する概要であるが、大統領の意思決定が如何なる経過を辿ったかの一面がわかる。gacco「國際安全保障論」で学んだ戦争の原因なるものが実例で教えられたといえる。
                                       以上




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読書 余滴の余滴~ノーベル賞受賞に思う

2014-10-09 | 読書
読書日記『ベスト&ブライテスト』の余滴の中で朝河貫一博士のことをご紹介しました。この誇るべき日本人である朝河は、年少の頃より秀才のはまれが高く、福島尋常中学での卒業式で彼が総代として読んだ答辞は、英語で演説されたもので、列席していた英人教師はその文章の見事さの驚嘆し、”やがて、世界はこの人を知るであろう”と言ったということです。彼は、その後アメリカダートマス大学からエール大学へと進み、その過程で『日露衝突』、『日本の禍機』などの著者を表しつつ、日本と米国の交流の大きく貢献してゆくのです。このように朝河が大きく伸長していったのは、やはりアメリカでの自由な学風や環境におかれたからと思います。

(ノーベル賞受賞に思う)
UCSB Professor Shuji Nakamura Wins Nobel
Invention of Blue LEDs Paved the Way for Low-Cost, Energy-Efficient Lights

話は変わりますが、青色レーザーダイオードの開発・実用化で日本人三人がノーベル物理学賞を受賞されました。昨夜このニュースを聞いた時はとても嬉しく思いました。が、まてよ、そのうちのお一人中村修二博士はアメリカ人なのです。(アメリカ国籍)中村さんは言っておられます~”日本ではのびのびと研究ができない・・・”、と。だから米国へ流出したのです。研究環境が劣悪であることもありますが、新しいことに取り組む人間を馬鹿にしたり、少し成果が出ると足を引っ張ったり、要するに出る杭は打たれるのです。そういえば先日亡くなられた経済学の権威である宇沢弘文教授も米国に渡り、スタンフォード大学・カリフォルニア大学からシカゴ大学で教育・研究に携わられていました。優れた人たちが流出しているのです。こんな社会は、おかしいですよね。日本の社会・風土を変えてゆかねばなりません。


(参考まで)
ノーベル賞中村教授談

(Q.中村教授は2000年からアメリカにわたって活躍、研究されていますが、アメリカに出てみて、今後の日本の研究環境について何があったら、より良いとお考えですか?)
 「研究者はやはり自由が一番です。アメリカというのは、日本に比べたら仕事環境が非常に自由で、やる気さえあれば、何でもチャレンジできるシステムができ上がっているんですね。ところが、日本はいろんなしがらみとか年齢とか、極端に言えば年功序列とかがあって、本当に自由にのびのびと研究ができるような環境ではないと思います。私もですが研究者、開発者というのは、やっぱり自分でベンチャーを自由にできるようなシステムが必要なんです。日本はそういうシステムがないんですよね、ベンチャーをやるようなシステムが。いいアイデアがあれば、即ベンチャーをやると。例えば、アップルのスティーブ・ジョブズみたいに簡単にできるかといえば、日本ではできないですよね。ですから、日本では大手企業のサラリーマンしか生きる道はないんですよね。ですから、そういう意味でベンチャーを日本でもできるようなシステムにしてほしいですが、実際はできない。非常に日本の科学者、技術者は永遠のサラリーマンみたいになっちゃうという悪いシステムで、そのあたりを今後良くしてほしいです」





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予告編 「余滴」の余滴と次の記事

2014-10-08 | 読書
余滴でご紹介しました朝河貫一博士のことと今回のノーベル賞受賞のことくを合わせて考えてみました。はて、何のことでしょう。また次回の記事では、私の愛するお地蔵さまと題してミニエッセイを書いてみました。どうぞお楽しみに。






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読書 『ベスト&ブライテスト』(デイヴィッド・ハルバースタム)余滴

2014-10-05 | 読書
(余滴) 『ベスト&ブライテスト』

(初めに少し復習を・・・)アメリカの行ったベトナム戦争は、つまるところケネディ・ジョンソン政権下のスーパー・エリートたちが、ベトナムという国の国情や国民性を理解せず、共産主義の高まりを防ぎ、民主主義による自由世界を守るのは自らの責務と考えて遂行したものである。傲慢さもあった。

その結果、14年間に及ぶ戦争によって戦死者約6万人、ベトナムの犠牲者は200万人強という、惨憺たる結果を招いた。なおかつ、大規模爆撃それもナパーム弾あるいはクラスター爆弾さらには対人地雷の使用、また枯れ葉剤の散布も行い、ベトナムの国土を荒廃に帰せしめた。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 こういう事実を踏まえた上で、デイヴィッド・ハルバースタムの著書から読み取れる教訓や今日の私たちが学ぶべきことがあるかどうか、少し考えてみた。

 まずスーパーエリートのことである。ケネディ政権下に参集したのは、まばゆいばかりのエリートである。勲章ともいうべきローズスカラシップをもらっていたものもいた。、国家の知性ともうべきバンディなどもいた。しかしたとえばバンディにしてもその思考と行動はあまりにも戦術的で、長期的展望に欠いていた。マクナマラにしても英知を欠いた。みな、所詮アメリカ”東部”という世界しか知らぬエリートであった。自信過剰でもあった。

今、ひるがえって日本に於ける官僚などのエリートについて考えると、彼らは大学を極めて優秀な成績で卒業し、上級職公務員試験(昔の、”高文”)をくぐり抜けてきた連中である。それほど民間の世界を知っているわけではない。知識はあるが、見識はどうか?
将来を見透す眼力はあるか? 打倒され罵詈雑言を浴びてでも、自ら行うべきところを
主張し、実行する粘り強さがあるか。・・・少なからざる官の人間と接触した経験からすると、真に使命感を帯びた優秀な人間もすくなくないが、一方で単に傲慢である官僚もまた少なくない。

 では、私たちはどう対応するのか。そのことに触れるにあたって「最後の日本人」と呼ばれた朝河貫一のことに触れておきたい。

朝河貫一は、薩長の大軍が会津を攻めた時から6年後、藩士朝河正澄が会津の二本松を立ち、福島へ向かった時、妻のウタの背中にいた赤ん坊である。生を受けてわずかに二百日。生来体は弱いうえ、その言語機能の発育が遅れていた。正澄の後妻(ウタは2歳の時に亡くなった)のエヒは、それに気付き昼も夜も熱心に発音の練習を繰り返させ、ようやく4歳の時には正常になった。その後も父正澄は日本外史、四書五経などを教えた。その結果、もう12歳頃には神童といわれるようになった。その彼が後に渡米し、アメリカでダートマス大学で教育を受ける、さらにはエール大学でアメリカの歴史科学の洗礼を受け、『日露衝突』などの優れた著作を表すに至った。朝河は日露戦争の講和交渉でも、陰で貢献し、その後日本軍部の満州でのファシズム的活動に批判的であり、『日本の禍機』を出版して、日本外交を批判した。また太平洋戦争末期には、トルーマン大統領の親書を天皇に送ろうと尽力したことは、よく知られるところである。朝河はかつて言った。

 ”言論を統制する国の戦争の惨害はそれだけ甚大である。また全体主義国家イタリア・ドイツ・日本は敗北するであろう。願わくば日本の敗北がドイツに遅れるならば、日本の指導者たちも、己の愚かさを反省するにいたるであろう。”(実際は、反省していなかった)

 また朝河は、日本の共同体における自己否定の精神を摘出したあとで、こう言った。

 ”日本においては、共同体や国家への忠誠心は、各個人の積極的な信念の上に築かれたものではなかったため、日本人は、愚かな指図や悪い指揮にも、かんたんに従うようになったのである。”

 この朝河の的確な指摘こそは、日本および日本人にとって、平和への道標でなくてなんであろう。朝河が亡くなった時(1948年8月)エール大学のシンプソン教授は大学を代表して遺族に弔文を送っている。それには「朝河は、終生日本国民とアメリカ国民の善意をつないだ誠実な大使でありました。そして彼はアメリカの地で生涯を通じ、栄誉に輝いたばかりでなく、人々は将来にわたって、彼の生涯を感動と尊敬をもって記憶することでありましょう」と書かれていた。なお当時、AP電もUPI電も、現代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士が・・・、と打電した。占領されていた日本でも横浜の横須賀基地では半旗を掲げた。これに反し、日本の新聞界は、右の訃報電文を新聞の片隅に三、四行割いて載せたものの、その名前の綴り方すら知らなかった。
『最後の日本人~朝河貫一の生涯』(阿部善雄 岩波書店 1983年9月)は、改めて読み返すべき優れた著作である。
 
 このような野にある逸材を見逃すことなく活用すべきであろう。これは政府の仕事でるが、私たちもまたここに書かれたことを読み返し、自らの信念・考えかたをもつべきである


 (余滴)といいながら長くなっています。(政府による情報のコントロール)には、余程の注意を払い、コントロールされないよう注意が必要である。昨今の政府情報の機密保護には、いい面と悪い面がある。幸いインターネット上で情報が拡散されるので、戦前のように大新聞によって影響をうけることもかなり少なくなっているようではあるが・・。日本の自衛力の必要性は、朝河も説くところで、それがいざと言う時に発動もできないような現状には、問題がある。日本国憲法の前文にには、次のような記述がある。

 ”日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。”

 「諸国民の公正と信義にに信頼して・・・」国が守れるなら苦労は要らない。前出のキッシンジャヤーの『外交』を読むまでもなく、またモーゲンソーの『国際政治』を読むまでもなく、政治は常に国家間の権力闘争であって、絶えず力と国益が働いている。そういう意味でも、軍事力は欠かせない、しかし、読んできたハルバースタムの本に書かれているように、軍部はいったん動き出したらコントロールが容易ではない。したがって、シビリアンコントロールのありかたについては、政治サイドが指導権を握るよう、注意の上にも注意が必要であろう。

 こういうことを書いてくるとジャーナリズムの重要性を考えさせられる。昨今の某大新聞のように誤った判断を積み重ねて報道するのは問題外にしても、報道一般としては、ニュースを掘り下げて報道する、いわゆる”調査報道”の重要性を今一度見直すべきであろう。


     ~~~~~~~~~~完~~~~~~~~~~






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読書 『ベスト&ブライテスト 上・中・下』(デイヴィッド・ハルバースタム)(その②)

2014-10-04 | 読書
読書 『ベスト&ブライテスト 上・中・下』(デイヴィッド・ハルバースタム 1999年7月 朝日文庫)(その②)

(9月19日の記事、その(1)と合わせてお読みいただければ幸いです)

承前

 著者ハルバースタムは、ケネディついでジョンソン政権下で、ベトナム戦争に関する政策形成や意思決定にかかわった人々を評価・分析する。その生い立ちから始まって政権に加わるまでの行動・言動、性格分析、またそれらの人々の資質・長所と短所などなどを緻密に分析する。その上で、当時の政権がいかなる過ちを犯したかを詳述するのである。あまりにも長文にわたるので、ここではいくつかの例を挙げるに留める。


(ベトナムという国家についての理解の欠如)
 1961年は、キューバ侵攻事件のあとを受け、ソ連とのミサイル・ギャップを埋めるという公約のもとで国防費の増大を図らねばならなかった。ソ連と相手の出方を見守るなかで冷戦がさらに進行した。ラオスでは緊張が高まり、コンゴで暴動が発生した。ベルリンの壁をめぐって殆ど毎日紛争が絶えず、ベトナムもやがて問題となるかもしれないという予備的報告が入りつつあった。

 ある意味でキューバ事件は、1965年のベトナム戦争エスカレーションのリハーサルであった。ケネディの事件は四日で終了したが、ジョンソンの事件は四年かかっても終わらなかった。だが両者に共通する要素があった。

 ”非白人社会の希求と願望を完全に読み違えたこと、西欧的白人社会の主義主張を、それがなじまぬ社会に持ち込んだこと、政策決定機構がその立場を追求し正当化するために、国家全体の利益を犠牲にして勝手に突き進んだこと、相手の国や自分の国についてさえ驚くほど何も知らないにもかかわらず、専門家をもって任じた人々があまりにも秘密主義に走りすぎたこと、政府部内でしかるべき権限を持たない人間があまりに多くの決定を下したこと、道徳的配慮をあまりに欠いたこと、そしてなかんずく、あまりにも常識に欠けたことなどである。

 1961年、ソ連のフルシチョフとの会談でケネディはフルシチョフから激しいことばを浴びせかけられ、不意を打たれ反論した。その後、ケネディは国防予算を増額し、また世界の中で一番挑戦をうけている場所はベトナムだと、ニューヨークタイムズのコラムニストであるジェームズ・レストンに語った。

 ”われわれは、アメリカの力がいい加減なものでないことを示さなければならない。ベトナムがその舞台になるだろう”

 しかしその頃はベルリンが中心的問題であり、ベトナムは遥か彼方に垣間見るくらいの問題であった。ポツダム宣言では、実質的な協議なしにベトナムについての一つの決定がなされた。アジア植民地問題の将来について自ら鍵を握っておきたいイギリスはフランスが、日本の降伏後フランスがインドシナに戻ることを認めた。フランスは再びその支配権を主張し、現地住民の意向を汲んで欲しいというアメリカの要請に面従腹背し、やがてフランスによるインドシナ戦争がはじまり、ベトナム人は武器をとって自らの独立を確立することになるのである。

 1945年国務長官のジェームズ・バーンズが作成させたアジアの将来に関する報告書では次のように言っている。

 ”1930年代より高まりつつあるベトナム人の政治意識と政治的希求が今やその最高潮に達しており、それがフランスに対する武力抵抗を導くであろうこと、またその過程でフランスが、この反抗を抑え、フランス支配を再確立することは著しく困難であること」をきわめて正確に予測している。

 にもかかわらずアメリカはヨーロッパにおけるフランスの弱体化を恐れており、弱いが気位の高い同盟国に圧力をかけようとはしなかった。大戦中この地域に従軍し、その後国省職員としてとどまったコーネル大学の人類学者リストン・シャープは当初から、アメリカが指導性を欠き、真空状態を生み出したことを強く避難していた。


(反共レトリックの虜)

     

中国の崩壊、マッカーシーの台頭(マッカーシズム)、朝鮮戦争の勃発という三つの事件は一つの大きな流れとなって、アメリカの国や政治に、そしてやがて対外政策に深刻な影響を及ぼしていくのである。その流れの中で、

 ”フランスの戦争を植民地戦争とする見方は後退し、共産主義に対する西側の戦争、ベトナムに自由を付与するための戦争という見方が前面に押し出された。”

 朝鮮戦争が進行し、フランスのインドシナ戦争がたけなわの1950年代において、、東南アジアに対する政策を全面的な反共主義に基づいて律することには、それなりの理由もあった。だがアメリカ国内も世界も様相を大きく異にしていた1961年において、それらの政策の前提を安易に受け入れてしまうとなると、問題は別である。 問題の本質は、彼ら自身が当時の政策の前提、とくに東南アジアについての前提を再吟味しなかったところにある。

 1961年1月、ベトナムについての最初の警鐘を鳴らしたのは、アメリカ政府でも異色の人物、ランズデール准将(CIA)であった。1950年代初期、フィリピンのゲリラを一掃する上でマグサイサイの片腕となって働き、やがて海外における「醜いアメリカ人」ではなく、「よきアメリカ人」のひな形となった。彼は、無神経で傲慢な物質主義的人種差別者である官僚がおおげさな援助計画を振りかざすことに我慢ならなかった。多少とも田舎臭く謙虚なアメリカの青年が現地のことば、風俗、文化を学び、現地に溶け込めるような小規模な計画を数多くすすめなければだめだ、と彼は主張していた。アイゼンハウアーの政権末期、ランズデールはベトナムに戻り、愕然とした。今やベトコンと呼ばれる解放勢力が地方におけるゲリラ戦で勝利を重ねているのに対し、アメリカ軍事使節団は、依然として朝鮮型の侵入の備えてベトナム政府軍を訓練していた。ジエム大統領は殆ど孤立していた。しかし、ランズデールの報告は活かされることはなかった。

 1950年アメリカはフランスの戦争を財政的に支えるに至るのである。4年間、毎年5億ドルにのぼる援助をつぎ込んだが、戦争の帰趨を変えるに至らなかった。1954年、仏軍はディエンビエンフーで降伏した。


この調子でえんえんと続くのであるが、要は

 ・”小さな黄色人たち”を相手にするには、フランスは余りにも気位が高かったし、ベトナム人たちの政治意識と政治的希求は最高潮に達しており、それがフランスに対する武力抵抗を導くであろうことは理解できなかった”  つまりアメリカ政府もそれを知りつつ、弱いが気位の高い同盟国フランスに対し、圧力をかけようとしなかった。

 (そしてアメリカも)
   ベトナムにはベトナム固有の勢力が遥かに強く、遥かに現実的なものであった。ベトナムの国家を掌握し、その統一をはかる闘争に、彼らはすでに1 5年もの長い試練に耐えてきたのである。このことをアメリカ政府は十分に把握していなかった。
これらの判断の根底には、1947年当時、イギリスが二つの世界大戦によって完全に疲労困窮の極みに陥り、”たいまつの炎”がアメリカの手に移ったことがある。トルーマン政権の偉大な人物であったアチソン(国務次官補から国務長官)は、”あたかも一つの腐った林檎が樽全体を腐らすように、共産主義の病毒が諸国を次々冒しているのが、今日の世界の姿であると描いた。すべての西欧文明を脅かすこの最新の全体計画のまえに、敢然と立ちはだかり自由を守れるのは、アメリカにおいてない。アメリカが行動しなければ、暗黒に時代がくるであろう・・”と力強く、熱をこめて語った。
 

(戦争の実態)

 ”まだ水平線にわずかに頭を持ち上げてきた小さな黒雲に過ぎなかったベトナムは、
  人類の生存か死滅かという中心課題からははるかに離れて遠い、しかも処理可能な問題に見えたのである。”

  1961年1月、ベトナムについて警鐘を鳴らしたのは、政府でも異色の人物、エド  ワード・ランズデール准将である。空軍将校からCIAに出向しているランズデールは ベトナムに赴いて愕然とした。今やベトコンと呼ばれる解放勢力が地方におけるゲリラ戦で勝利を重ねているのに対し、アメリカの軍事使節団は依然として朝鮮型の侵入に備えて、ベトナム政府軍を訓練していたのである。

 45万の大軍を擁したフランス軍がディエンビエンフーで敗れたが、アメリカにおいて は空爆で事足りると考えていた。そしてアメリカがベトナムで戦っているときも、徹底 的な空爆があれば無敵であると信じられていた。しかし、ベトナム政府軍は、かつての フランス軍と同様、日中に村々を襲い火器爆薬を惜しみなく使い、農民を収奪したが政 府軍が去った夜中にはベトコンが村に入り、その絶妙な政治宣伝工作を展開した。また 密林の中では空爆もあまり効果をあげなかった。後にジョンソン政権下では、北ベトナ ムそのものに対し、空爆(いわゆる北爆)を行うが、様々な設備・基地もあちこちに分 散されており、効果的ではなかった。それどころか1961年9月にはそれまで蓄えていた力を発揮し始めた。ゲリラ活動はその件数において一挙に3倍になり、また首都サイゴンからすぐ近くの省都を攻略して、サイゴンに大きな衝撃を与えた。

 ワシントンでは新たな軍事行動を要求する声が高まり、北からの浸透を阻止するため、2万五千の軍を派遣することがロストウらから提案された。しかし、それはベトナムの地形についての理解のないものであった。さらにマクナマラと統合参謀本部は20万余の投入が必要としたが、最終的には、その2倍ものアメリカ軍を投入したのである。

       ~~~~~~~~~

 いささか脱線するが、1996年にヘンリー・A・キッシンジャー(1969年ニクソン政権下で国家安全保障担当補佐官、73年国務長官)が、『外交』(上下)いうアメリカ外交分析の傑作を著した。そこに書かれていることは、本編の著者ハルバースタムが、まだベトナム戦争の最中に書いているのに対し、戦争終結後に書かれていることもあり、非常に的確に事態を分析し、ベトナム戦争についても冷静な目でみて事態を捉えている。
それによれば、

 ”アイゼンハワー政権の終わり頃まで北ベトナムはゲリラ戦に全力を投球しなかった。  北ベトナムが大きなゲリラ戦を支えるための補給態勢を設立できるまでにはさらに若干の時間を要した。これを達成するために、彼らはラオスという小さく平和で中立の国家に侵入した。そこを通じて、彼らは後に”ホーチンミン・ルート”として知られるものを建設した。”


 ”ハノイは戦争に勝つことしか考えておらず、南ベトナムの民主化にも、交渉にも、妥協にも何の関心もなく、冷徹な軍事的勝利だけを追求した。ファン・バン・ドンが「アメリカははるかに強力だが、アメリカ人より多くのベトナム人がベトナムのために死のうとし、またアメリカ人よりも長く戦う用意があるので、アメリカは結局負けるだろう」と言ったとおりになった。

    注)ファン・バン・ドン・・・ベトナムの政治家。ホー・チ・ミンの側近。1955年から1976年までベトナム民主共和国(北ベトナム)の、1976年の南北ベトナム統一後は1987年まで、合計32年間にわたり首相を務めた。

    注2)ソ連・中国は資金援助や軍需物資ならびに軍事顧問団を送ってベトナムを支援した。
 

(現地情報の操作)
 
 現地のアメリカ軍の司令部からの情報は、大統領側近の機嫌を損ねぬよう、またワシントンにいる軍のお偉方の気持ちを損ねぬようコントロールされていた。さらに、時折、
”そんなに上手くは運んでいない”と実情を報告するものは、軍司令部から、ポジションを外され、関係のない部署に飛ばされ、ひどい時は軍隊あるいは官僚としての生命すら危ういポジションに追いやられていた。文官が、詳しく現地の軍事情報を得ようとすると、”それは軍の問題だ”といって軍司令部から手厳しい抗議が出た。軍部のみならず、アメリカ政府はその決定を正当化するために、事実を操作し、報道を歪曲し、そしてそれが功を奏さないと、悲観的な記事を送りつづけたベトナム駐在の特派員らに対する攻撃を始めるのであった。
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 太平洋戦争中の日本軍のありさま、とよく似ているのである。著者はこの辺りを関係者の実名を挙げて詳述しているが、ここでは省略する。

 サイゴンの司令部は、前線からの異論を系統的に握りつぶした。軍部の報告には、対立意見や消極論の入り込む余地はなかった。もし新聞が、ある大佐を悲観論者として名指しで紹介すれば、それは彼にとって軍歴の最後を意味したのであった。

 ”ベトナムで何が起きているかは、そのつもりになれば明確に知ることができた。ただ、だれひとり、緊急の問題としてそれを明らかにしようとしなかったのである。”

(軍部のコントロールはできるのか?)

 ”ケネディが、そして後にジョンソン学ぶように、軍部はいったん敷居をまたがせると、一筋縄では言うことを聞く相手ではなかった。その後あらゆる時点で、軍部によるあらゆる見通しは誤りを犯したが、そのことで遠慮をするような軍部ではなかった。ふつうならば、彼らは信用を失い、その圧力をも減退していきうものと考えられるのだが、軍部については事は逆であった。圧力はむしろ高まり、要員・兵器・攻撃目標すべてについて要求は増大していった。核兵器の使用に至らぬかぎり、軍部のツケはすべて文官に回されるのである。

 戦争を小規模に抑えるとこができると考えた文官にとって。一つの大きな教訓は、軍部を御してゆこうとするならば、最初から手綱をしっかりと引いて置かねばならない、ということであった。少しでも軍部のいうことをを聞けば、そのあとは彼らの思うとおりに事態が進むのである。彼らは、議会や強硬派のジャーナリストに有力な見方を抱えており、彼らに特有な即決断行、あるいは愛国的情熱や雄々しさが、慎重熟慮する人々の議論を圧倒するのである。

 文民統制(シビリアン・コントロール)ということがよく言われるが、これは幻想にしか過ぎない。政策・情報・目的・手段・すべての領域において、軍部が容赦なく確実に支配的な地位を築き上げていくというのが現実である。そして、軍部を統制できると考え、仲間同士でが軍部の考え方を軽蔑している文官は、無意識に一歩二歩土俵を割っているのだ。

 太平洋戦争の時代のの日本でも、軍部が、何かといっては統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)だと唱え、と政党の反対意見にに反駁(はんばく)して、彼らの主張を抑えこんでいた。これが無意味な戦争へと突き進んでいった原因であった。

 注)1930年に、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口内閣に対し、野党政友会が、「これは統帥権の独立を犯すものだ」と攻撃したことがあった。(大日本帝国憲法第11条・・天皇は陸海軍を統帥(とうすい)する)その後、これに軍部・右翼が乗っかる形で政府を攻撃し、政府は軍事を統率する力を失っていった。こういう事態を招いたのは政党自身であり、軍部の姿勢を言う前に、そのことが問題なのである)

 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(ベトナム戦争の持つ意味)


 本書の記述はケネディ政権からジョンソン政権、そしてニクソン政権下での動きへと続いてゆく。1968年、ニクソン新政権が誕生するのであるが、その時政権の外交政策の最高首脳となったキッシンジャーは、訪れたアジア人のグループから、「ニクソン政権はベトナムについて前政権と同じ過ちを繰り返すのか」と問われ、ノーと答えていた。

 ”だがキッシンジャーは間違っていた。驚くほどニクソン政権の人々は、ジョンソン政権の過ちと誤算を繰り返すのである。・・・・・ やがて彼らは彼らの政策を妄信するにいたり、その政策を支持するもの以外には耳をかさなくなるのであった。ここにおいても、懐疑派は次第に閉めだされていった。キッシンジャーのスタッフからは、政権発足当時、彼と共に参画した有能なアジア専門家のほとんどすべてが去っていった。カンボジア侵攻やラオス侵攻についての楽観的な見通しを公表し、撤退と勝利に時間表を早めながら、ニクソン政権は、ベトナム政府軍の敗北と北ベトナム軍の執拗さの前に恥をかくのであった。”

 ニクソン政権下での最終章は描かれていない、それは本書が、ベトナム戦争のまだ渦中にある1969年に出版されたからである。それより後年の1994年にキッシンジャーが書いた『外交』(上下)の第27章<ベトナム撤退>中の一文をもって、この拙いブログの記事を締めくくることにしたい。そこで彼キッシンジャーは数ページにわたってベトナム戦争の教訓を反芻(はんすう)しているのである。


 ”ベトナムでは、アメリカは道徳的観点から正しいのかどうかはっきりせず、またアメリカの物質的な優位性が利点とならない戦争に巻き込まれていた。1950年代のテレビ画面に登場した、絵に描いたような完璧な家族が、ダレスの高い道徳的な意識と、ケネディの高揚する理想主義を支えてきた。こうした士気が萎えたアメリカは、自国の存在意義を探しあぐね、自らを責めた。いかにバラバラになっても最終的には結束できることに自信を持ち、再びまとまることができると信じて、あえて自らを引き裂くような社会は、アメリカの他にはありえないであろう。再生を促すたに分裂する危険を冒すような大胆な国民は、アメリカ人のほかにはありえないであろう。”

 ”ベトナムをめぐるアメリカの苦悩は、アメリカが道徳的なものにこだわることの驚くべき証左であり、そのこと自体が、アメリカの経験の持つ道徳的な意味合いに関するあらゆる質問に対する十分な答えなのである。さほど時間がかからずに、アメリカは1980年代にアメリカらしさを取り戻した。1990年代には、自由世界の国民は、アメリカに対して、また別の新たな世界秩序の建設に際しての指導を再び求めるようになった。そして、彼らの最大の恐怖は再び、アメリカによる世界への過剰コミットメントではなく、世界からアメリカが身を引くこととなった。インドシナの悲惨な記憶は、アメリカが分裂しないでいることは義務であり、世界の希望であることを思い起こすために役立たせるべきものなのである。”

 
     ~~~~~~~~終わり~~~~~~~~


 ここまでの長文にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。あつくお礼を申し上げます。長文ついでに、アメリカのベトナム戦争の経緯・実態から、今日私たちが学ぶべきことがあるか、いささかの私見を述べてみたくなりました。数日中に<余滴>と題してアップいたします。
















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