(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『さらば「受験の国」』

2008-05-31 | 時評
0『さらば「受験の国」』(池部敦 朝日新書 2008年5月)
         ー高校生ニュージーランド留学記

 日本の教育に不満、いや絶望感を覚えた高校生が交換留学生制度を利用してニュージーランドの高校に2年留学した。読んでいてニュージーランドの高校教育のレベルの高さ、また著者の視野の広さと知的レベルの高さに感嘆した。こんな留学を体験できたら、と羨ましく思う。

ニュージーランドといえば、まず美しい大自然を思い浮かべる。だからあの映画「ラストサムライ」も「ロード・オブ・ザリング」も、そして「ナルニア国物語」もみな野外シーンはこの国で撮影されている。

しかしその国が教育とくに中・高教育にこれほど力を注ぎ、高いレベルを誇っていることは知らなかった。著者は、高校1年の3学期にNZに留学、北島のハミルトンのボーイズハイの12年生(2年)に編入されたが、最終年次ではより優れたヒルクレスト高に移っている。

そこで著者が選択した科目の幾つかを見てみよう。(30数科目から5科目を選択すればよい)

(メディア研究)
”私がもっとも深い影響をうけたのは、メディア研究である。日本では聞き慣れない学問分野だが、メディアの深い構造を学ぶクラスである。単に新聞に書いてあることを鵜呑みにしないといった事だけでなく、幅広く、マスメディアが社会に与える直接的な影響、マスメディアが作り上げている社会について学ぶ授業だ”
メディア研究には、既存のメディアについて学ぶだけでなく、生徒たち自身でドキュメンタリーを制作するカリキュラムもある。テーマは、子供の発達に関する親の影響、知的障害者のケアなどさまざまだ。”

著者は、このメディア研究のクラスで、ミズ・アレンという教師に出会い、その語る言葉に深い感銘を受けている。すこし長くなるが、印象に残る言葉なのでここに全文を紹介する

 ”私はメディアについて知識をもっているから、メディアについてあなた達に伝えるけれど、だからといって私があなたたちより人間的に偉いとか、上であるなどということでは決してありません。私は、あなたたちよりも少しだけ先に進んでいるかも知れないけれども、あなたたちと同じように真理を追究する道を歩むひとりの人間です。私の人生の目的は、自分自身をよりよい人間にするための道をつづけること、そして生徒たちに私が歩んできた道をしめして、一緒に旅をすることです。社会をつくるのはすべての人なのなのだから、教育の重要性を強調しすぎることはありません。市民がメディアや広告の重要性に気づき、批判的に分析するようになれば、社会は劇的に変わるでしょう。それを実現させるのが私の使命だと思っています。あなたたちとともに、この世界を少しでもよりよい場所にするにはどうしたらよいか、一緒に考えて行きたい、それが私の教師としてできることです”

(古典研究) (西欧をつくったギリシャ・ローマを学ぶ)では、バートランド・ラッセルの「西洋哲学史」が当然のように出てくるし、プラトンの書いた「ソクラテスの弁明」やウエルギリウスの叙事詩「アエアネス」についても詳しくのべられており、それも現在の価値観との対比まで述べている。かなりのレベルの高さに驚く。それらを研究した著書は、こんなことを言っている。

 ”私は必ずしもソクラテスのように言論の自由に反する不当な判決に進んで従うことが、倫理的に正しいとは思わないが、彼の哲学でもっとも感銘をうけるのは『クリトン』に書かれた「倫理への不動の信念」である。彼にとって公正に生きることだけが生きるに値する人生なのだ”

  注)プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』の中で、彼がアテネ陪審員の下した死刑判決に従った理由が、おなじプラトンの著『クリトン」に述べられている。

このソクラテスの言葉を、吉兆の経営にも聴かせたいですね。


(歴史ーニュージーランド史)
3年生の歴史の授業では、年に1回リポートを書く大きな課題がある。長さは200ワードほどであるが、綿密に計画をたて、それに従って調査をしたうえで2ヶ月ほどかけてリポートを作成する。今回、著者が与えられたテーマは「第一次大戦の戦争記念碑の意味を分析し、今後のありかたについての提言を書く」というものであった。

 ”過去の戦争の扱いはどの国にとっても重要な問題であり、政治的な問題であり 、国としてのアイデンティティの根幹にも深くかかわる問題である”

第一次大戦で、NZはイギリスのために10万人が出兵し、トルコのガリポリでは英仏連合軍と共に激しい戦闘をおこなった。そしておよそ2万人が戦死、さらに5万人が負傷した。これらの基本的事実や背景を踏まえた上で、著書は、

 ”ただ戦死者を記憶し賛美するだけではなく、第一次大戦の不当さと悲劇を強調すべきだ」と結論づけた。そのリポートに対し(担当の)デンチ先生は、「こんなエッセイはナンセンスだ。あなたの論文の中で私が賛成できることなどほとんどないし、反論することはいくらでもある。しかし論理構成には文句のつけようがない、エクセレンス(優)に値する」と云った”

歴史のエッセイやリポートは、はっきり答えが存在する数学などとことなり、評価が非常に難しい。先生の偏見のせいで、不当に低いマークがつくもともある。

 ”そんな中で、「私個人の意見はあるが、それはまったく関係ない。どのような論理であっても、証拠をベースに積み上げることができることが重要である」と強調するデンチ先生の姿勢は公平であると感じた。「公平」はニュージーランド人が信じる徳である”

          ~~~~~~~~~~~~~

 クラスでの授業に加え、課外活動も多岐にわたり、いずれもきわめてレベルの高いものを感じる。またなければ、自分でクラブを立ち上げることもできる。

(ディベート)
小国ではあるが、NZはディベートの強豪国として知られている。高校生の世界ディベート選手権では3回優勝している。ちなみにオーストラリアは過去10年で8回優勝。日本は、残念ながら1回も参加していない。2007年の大会は韓国でおこなわれている。

 ”ディベートは日本ではなかなかできない活動のひとつだ。私はこ活動を続けることで、公衆を前にした演説、英語、論理的に議論を組み立てる能力などを向上させることができ、計り知れないほどの自信を得たし、時事問題への関心を高めることができた”

 著者は、2年間ディベートクラブのメンバーとして、市のディベート選手権や全国大会の予選なでで多くの経験を積んだ。トピックは、社会や政治にかかわるものが主であるが、なかには、「親になるためには免許が必要だ」といった斬新なアイデアや「愛は私たちが必要なすべてである」といった哲学的なものもある。

こんな活動で鍛えられた連中と外交折衝や企業間の交渉にあたるのだから、ひよわな日本人は大変だ。


(模擬国連活動)もっとも多くの頁が割かれた活動であり、著者の関心の高さを示している。模擬国連の前進はアメリカのハーヴァード大学で1920年代に始まった。学生たちが各国の代表に扮し、その時々の国連で討議しているテーマについて、割り当てられた国の政府がとる現実の主張をもとに、会議で発言し、討議をまとめるものである。縁あって首都ウエリントンでの模擬国連全国大会に出席、その後オーストラリアでの国連青年会議UNYCや、おなじくオーストラリアでの模擬国連全国大会に出席などにも出る機会を得た。この会議では、捕鯨問題で悪役の役割を果たしている。一連の活動を通じ、著者は様々な人に出会い、また様々な考え方にも接している。成長のための、大きな糧となったものと思われる


 著者は、ハーグでの模擬国連青年会議に参加した。その折り在ハーグのニュージーランド大使館を訪れ、そこでは大使自らがニュージーランド外交の実際の姿を紹介してくれた。1994年4月にニュージーランド国連大使であったコリン・キーティングは安全保障理事会の議長として、ルワンダでの虐殺(ジェノサイド)に言及し、ルワンダ人を救うことに消極的な大国に反対して、動いていた。最終的にルワンダの事態は「ジェノサイド」であるという議長声明は、大国の拒否権によって否決された。とはいえニュージーランド外交の「リベラルな国際主義と人道主義」の姿勢は一本筋が通っていた。著者によれば、国連憲章作成の交渉時に、大国に拒否権をあたえることに最も強力に反対したのが、第2次大戦中の首相だったピーター・フレイザーであった由。


(金融政策チャレンジ)
 「金融政策チャレンジ」と呼ばれる大会は、NZの連邦準備銀行の主催する高校生むけの試みである。経済の授業を選択した生徒たちが準備銀行の総裁となり、政府の貸し出し金利(公定歩合に相当する)を決定して、それを正当化するリポートを作成、準備銀行の担当者の前でプレゼンするものである。

 ”リポートの締め切りは6月、実際のプレゼンは8月なのだが、私たち5人1組のチームは、4月の秋休みからミーティングを始めた。単なる経済学の知識だけではなく、刻々と変わる経済情勢をチェックする必要があり、経済政策が実際の経済にあたえる影響などについての分析も問われる”

 ニュージーランドは世界でもあまり例がないインフレ・ターゲット目標を採用しているが、それを達成するための金融政策である。作成したリポート・プレゼンの審査のポイントは準備銀行の若手エコノミストとの質疑応答にある。政府の福祉政策の影響や、もしアメリカとイランの関係が悪化したらニュージーランドの経済環境はどう変わるか、といった高度の質問も出されたとか。

          ~~~~~~~~~~~~~~~

 後先になったが、著者がニュージーランドを選んだ理由を書いた一文を紹介して結び、としたい。。

ニュージーランドを何故選んだのかについて、著者は、原住民を征服せずに条約(ワイタンギ条約、1840年2月締結)を結んで国を作った歴史をもち、1839年には世界で初めて女性参政権と実現、1983年には世界に先駆けて包括的な社会保障制度を確立し、英国の「ゆりかごから墓場まで」政策の手本になったことなどを挙げ、偉大な国であると述べている。

 ”ニュージーランドの高校が充実している背景には、政府が教育を重視していることがある。ニュージーランドは理想を追求する社会であり、社会福祉でも非核政策でも環境政策でも世界の最先端を行こうとするスピリットがある。その結果、教育は観光と並んで国の重要な輸出産業となった。NZに留学する人は2005年には10万人に及び、人口の2.5%にあたる。もちろん、教育のレベルは高い。OECDの世界の学力調査では常に上位にあり、問題解決能力では世界の第5位である。”

 ”日本の高校ではノートと教科書をつかった記憶中心のやりかただが、NZでは
ディスカッションとエッセイ、調査を中心とするやりかたである。・・・・ニュージーランド人の価値観、それは自由にものを考え、多くの人と討論し、よりよい社会を作ろうと行動することであった。・・・私がそうであったように、ニュージーランドで学んだ多くの高校生は「目が輝いている」と言われる。・・・”

          ~~~~~~~~~~~~~~~

 ”目が輝いている”、なんていい言葉ですね。わが日本では、どうなのでしょうか。すこし長くなりました。ご静聴を感謝いたします。
 

 写真は、北島タウポにあるフカ・ロッジの前景。





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気まぐれ日記/島耕作 社長就任

2008-05-29 | 時評
気まぐれ日記/島耕作 社長就任

 (臨時ニュースです)

 弘兼憲志の漫画『島耕作』シリーズを愛読の方も、すくなからずおられるのではないだろうかか。漫画が連載されている週間漫画雑誌「モーニング」を手にすることはないが、文庫本になったものは、時折眺めることがある。とくに2002年から2005年には取締役として中国上海に赴任、新しい市場の開拓に奮闘した島耕作の姿を共感をもって見ていた。

 その島が着実に成長し、本社常務・専務とステップを踏んで、このほど初芝五洋ホールディングスの初代社長に就任した。本日発売のモーニングで社長としての島の活躍を描く連載が始まった。その記事が、今朝の日経紙に載った。ミーハーの私は、すぐモーニング26号を買いに行った。ついでのことに、単行本の最新シリーズ『専務島耕作4』まで買ってしまった。島の、自他ともに認めあ合う仕事相手・勝浦が率いる五洋電器が、韓国企業の買収攻撃にさらされる。敵対的M&Aである。次世代電池技術などトップシークレットの技術の流出は国益を損なうことになりかねぬと、初芝の経営陣を説いてホワイト・ナイト役を買ってでる。中国シリーズでもそうであったが、著者は、最新の経済動向・企業動向・技術動向の取材も怠りなく、ストーリーは現実性を帯びていて迫力がある。

この漫画がなぜ、かくも長い寿命を誇っているのか? 企業にはたらくものにとって常に誠実でひたむきで、しかも正義漢の島が前進し成長をつづけてゆく姿に、それぞれの希望を託すのではないか? 一種のカタルシスでもある。

なんて難しい事を書きましたが、とにかく格好いいのですよ!ラブ・ロマンスもしっかり描かれていて、これもサラリーマンの夢なのでしょうね。専務シリーズでは、越中おわらの風の盆も一場面となり、高橋治の『風の盆恋歌』まで出てきます。

 島のプロフィールを少し。山口県岩国市出身。早稲田大学法学部卒業。1970年に初芝電器入社。以来世界を飛び回って八面六臂の大活躍。

 すこし前は「のだめカンタービレ」を読みふけりましたが、今後は島の最後の活躍を見守るのが楽しみになりそうです。「ヤング島耕作主任編」も単行本化されたし、近々専務シリーズの後編4も出る予定。

 いつまでも、若い積りのゆらぎでした。たまには漫画、お許しください。ちなみに、この漫画をみながらのランチは、ぱりっと焼き上がったピッツアに豪州はバロッサ・バレーの白ワイン、ジェイコブス・クリークのシャルドネーでした。白桃のような味わいもあり、なかなかいけますよ。島の社長就任を祝って、もう一杯ゆきますか。
 
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読書『南京新唱』(余滴)

2008-05-19 | 時評
読書『南京新唱』(なんきょうしんしょう)(余滴)

私の好きな歌を2首ほど書き忘れたので、ここに記しておくことにする。

 ”ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
   こさめ ながるる はる は き に けり”  (奈良坂にて)

 (奈良坂の 石の仏の顎に 小雨流るる 春はきにけり)

 ”はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
   をゆび の うれに ほの しらす らし”

 (初夏の風となりぬと み仏は 小指の先に ほの知らすらし)


 会津八一は戦時中新潟に疎開していた。戦後のある日、昔の教え子である新潟日報の社長と会った。そのとき某社長いわく「先生 私も六十を大分過ぎました。余生は楽しく送りたいと思っています」 これに対して、会津八一はたった一言、

 ”人間に余生や残生(ざんせい)というものはものはありません”

と言い切った。余生なんてものはない、残った生もない、人生しかないということである。いい言葉ですね。


          ~~~~~~~~~~~~~~

初夏の風の吹きわたる野山を歩いみたくなりました。しばしお休みを頂戴します。
ブログ再開は、6月1日です。では、チャーオ!
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読書『南京新唱』

2008-05-16 | 時評
読書『南京新唱』(会津八一 春陽堂 1924年12月)

 ”みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の 
   やまとくにばら かすみて ある らし”      (香薬師を拝して)

 (み仏の うつら眼に 古の大和国原 霞みてあるらし)

 会津八一は、私のもっとも好きな歌人の一人である。彼は明治の終わり頃から大正にかけて古都奈良に再三再四遊び、詩魂を誘発されて多くの秀歌を吟じた。それらを集め大正13年に歌集『南京新唱』が世に送り出された。そのほとんどが、平仮名の分かち書きの歌は、奈良の風光と美術を愛した八一の絶唱ともいうべきもので、以来多くの人に愛され読みつづけられている。ちなみに「南京」(なんきょう)というのは、京都の南、奈良のことである。

この本を、郡上八幡に遊んだ時ふとしたきっかけで手に入れることができた。あの坪内逍遙が、序を書き、拓本や画家の絵などの入った洒落た袖珍本である。八一の歌は、岩波文庫の『自注鹿鳴集』(ろくめいしゅう)に納められており、愛読しているが、その基となる処女歌集の初版本を手に入れた喜びは大きい。

そして嬉しさのあまり、改めて八一のことを書いてみたくなった。ただ、あまりにも有名なこれらの歌を紹介したりすることは最低限にとどめ、むしろ彼の人となりやそのエピソードを語ることにしたい。

          ~~~~~~~~~~~~~~

 会津八一は早稲田大学文学部(芸術学専門科)で教鞭をとっていた。東洋美術の研究にいそしみ、その分野の講義も担当していた。ある日授業で斉藤茂吉のことが話題になった。八一と学生のやりとりの一こま。

 「諸君は斉藤茂吉の本を読んだことがあるか」ー「はい読んだことがあります」
 「どんな歌集を読んだか」ー「万葉秀歌であります」
 「お前、それを何処で読んだか」ー「はい帰省する汽車の中で読みました」
 「馬鹿者! 万葉秀歌は帰省する汽車の中で読むような本ではない。自分の書斎の机の前で正座して読むものだ」

 そして、”そんなことで俺の講義を聞いても分からぬから、出て行け”と教室から追い出されてしまったとか。


また会津八一は、万葉時代の瓦のコレクションで知られている。八一は、それをすべて早稲田大学に寄贈した。大学は扱いに困り、図書館の廊下に奥に積みっぱなしにしておいた。ある日の授業で、”今日は、私が集めた万葉時代の瓦を見せてあげよう”、と言って八一は瓦を指さして、絶句した。そこには埃がうずたかく積もった瓦があった。しばらくして、八一は言葉を発した。

 ”諸君、これがわが早稲田大学の「ほこり」である”

心中、会津八一は悲しい想いでいたのであろう。ちなみに東京大学では一枚一枚の万葉の瓦をうこんの布で包み担当の教授自らが管理をしていたとのことである。


 ”おほてら の まろき はしら の つきかげ を
   つちに ふみ つつ もの を こそ おもへ”  (唐招提寺にて)

 (大寺の 丸き柱の 月影を 土に踏みつつ 物をこそ思へ)
 
唐招提寺は、唐僧の鑑真和上が建立したものである。その金堂の丸い列柱が月の光をうけて落とした影を踏みながら、物思いにふけるという程の意味では、あるが、一方で色んな背景がある。。

八一は本来英文学が専門である。卒業論文ではイギリスの詩人キーツのことを書いた。「月の詩人」といわれたとか。当時東大を追われたラフカディオ・ハーンが早稲田の教授となり、その授業をのちに日本の文学を背負って立つ人々が聞いている。八一もそのひとりである。ハーンは、ギリシャ・ローマ文明について語ったが、また英国の詩人キーツのことも講義をしている。八一は、これを聴いてキーツが好きになった。 上記の歌の丸き柱は、唐招提寺の金堂の柱であるが、これらはギリシャの列柱(エンターシス)の影響を受けている。八一は、キーツのことやギリシャ文明のことなど様々なことを想い浮かべながら、この歌を詠んだのであろう。作者自筆の歌碑が、この金堂の左側にある。


 ”あめつちに われ ひとり いて たつ ごとき 
   この さびしさ を きみは ほほえむ”  (夢殿 救世観音に)

 (天地に われ一人いて 立つ如き この淋しさを 君は微笑む)

 法隆寺東院の建物である。聖徳太子の崇敬の厚かった飛鳥時代の仏像中、もっとも崇高なものであ。会津八一の一番の弟子である吉野秀雄は、この歌についてこのように言っている。「あめつちにわれひとりいてたつごとき、はむしろ救世観音を拝することによって誘発されたさびしさである。このきびしいさびしさは像そのものの持つものであるがゆえにこれを仰ぐ作者のさびしさとなったのである。つまり、われ、は一応作者自身には違いないが、また像そのものでもあるのだ。
仏教学者の紀野一義もまた、次のように言っている。「親鸞も会津先生も剛強の人である。しかも胸の深いところに、長く深い悲しみを抱いていた人である。そういう人がみな、この夢殿救世観音に惹かれる。世を救おうとする悲願が、ひとの心に長く深い哀しみを引き起こすのであろうか」


 ”ししむらは ほね も あらはに ととろぎて 
   ながるる うみ を すひ に けらしも”  (法華寺温室懐古)

 (肉体は 骨もあらわに ととろぎて(溶ける) 流るる膿を 吸いにけらしも)

光明皇后は聖武天皇の后であるが、悲田院を建てて貧しいひとに施しをするなど慈善事業をすすめた。また仏教の庇護者として伝説がいくつもある。その一つを唱ったものである。仏に誓って一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢を流して功徳を積もうとした。九百九十九人を経て千人目に至った時、骨も露わなほど肉の腐れとろけた病人がきて、ただでさえ悪臭を放って近づくがたいのに、あまつさえ、その膿(うみ)を口で吸い取ってくれという。意を決して光明皇后が、吸い取ったところ、たちまちに病者は大光明を発して、自らは「あしゅく如来」である、と言って昇天したという伝説がある。伝説そのままの歌であるが、この表現は絶妙なフィーリングを持ち、施浴伝説が光輝を放つ叙情詩と化している。

書き出すときりがないので、好きな歌をあと二つだけ。

 ”くわんおん の しろき ひたひ に ようらく の
   かげ うごかして かぜ わたる みゆ”   (奈良博物館にて)

 (観音の 白き額に 瓔珞の 影動かして 風わたる見ゆ)

  ”おし ひらく おもき とびら の あひだ より
   はや みへ たまふ みほとけ の かほ”  (法隆寺の金堂にて)

 (押し開く 重たき扉の 間より 早や見え給う み仏の顔)


 この会津八一の第一の弟子である吉野秀雄は、昭和21年に『秋艸道人 會津八一』 を著した。『鹿鳴集』のうち、大和地方を詠んだ歌を中心に読み解いたもので、八一の解釈・鑑賞の書としては、最も優れたものの一つである。この二人の子弟としての交流は、きびしくも心温まるのもであるが、その詳しいことはまたの機会に譲りたい。昭和21年に刊行された本書は、その後吉野秀雄が、師会津八一について書いた文章・書簡をことごとく集め、上下二冊の本となった。(求龍堂 昭和55年) 幸い、先年奈良に遊んだおりに、「もちいどの通り」の古書店でこれをみつけ、今は手中にある。

歌人吉野が、初めて会津八一の門をたたいてから20年、その間”自分も歌について誰からも指導されなかった”と直接的な指導をしなかった八一が20年たって初めて吉野秀雄の歌に評釈を加えている。その間一度も朱肉を取って添削も批評もしたこともないのである。本人が自分で苦労し努力して、自分で自分を教えるしかない、というのが八一の姿勢である。それに応えて20年間、専念・精進した吉野秀雄もすごい。吉野が、後年雑誌に発表した百余首の短歌作品(歌集寒蝉集のなかの「玉簾花」などなど)に接した会津八一は、”声をあげて朗読してみたが、感激のために何度も声を呑んで、涙を押しぬぐった」と告白している。

 最後に会津八一が、自分の弟子の中でこれぞと思う男に与えた言葉
(学規)を紹介して、この稿を閉じることにする。

 ”深くこの生(しょう)を愛すべし 省みて己をしるべし
  学芸をもって 己の生を養うべし 日々新面目(しんめんぼく)
  あるべし”

果たして惰性に流されず、日々に新面目があるのかどうか、心もとない。
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映画「ザ バケット リスト」

2008-05-12 | 時評
映画「ザ バケット リスト」~「最高の人生の見つけかた」
     ー(ジャック・ニコルソン&モーガン・フリーマン)

 人生の大半を過ぎた時に、あと半年か一年の余命と宣告されたらあなたはどうししますか? これは、そんなあなたに贈る映画です。いや、映画会社の宣伝のようになりましたね。

10日から公開された映画「ザ バケット リスト」に早速行ってきました。アカデミー賞の名優二人が共演する破天荒で、ハートフルなコメディ。見過ごす訳にはいきません。実業界で成功を収めた大富豪エドワード(ジャック・ニコルソン)が医者に言われ、自分の経営する病院に入院する。病室に入ると、そこには年取った黒人のカーター(モーガン・フリーマン)がいて、TVを見ながらぶつぶつつぶやいている。エドワードは気に入らないが、1室二人という病院の規則なのでしょうがない。医者から二人は、あと半年か1年の命と宣告をうける。そこで登場するのが、バケット・リストです。

Bucket List・・・・これは”kick the backet” 死んでしまうという言葉からきたもので、そこから死ぬ前にやるべき事、やりたい事を意味しています。カーターがなにかメモに書いている。大学の時に哲学の教授に教わったリストを書いているのです。在学中に妻が妊娠したため、大学教授になる夢をあきらめ、自動車のメカニックとしてひたすら家族のための働き続けてきたカーター。そのリストには、いかにも真面目人間らしい、ささやかないや控えめな事がリストアップされていたのです。

 ”You only live once, So why not go out in style”

人生のグランド・フィナーレを豪勢に過ごそうぜ、人生を楽しむのに遅すぎるということはないと、とエドワードは言い、カーターを説得してリストを二人で書き直すのです。そして二人は、プライベートジェットに乗って破天荒な世界一周の旅に出るのです。家族や病院関係者の反対を押し切って。

そのリストにいわく、

 *飛行機からのスカイダイビング
 *名車シェルビー・マスタングを駆ってレーシングサーキットを疾走する
 *インドのタージマハール、そしてガザのピラミッドの頂から夕陽を見る
 *エベレストに登頂する
 *アフリカの大草原でライオン狩りをする
 *世界一の美女にキスをする
 *タトゥーを入れる・・・などなど

二人は旅を通じて次第に友情を深めてゆく。これもいいですね。国に戻ったカーターは家族の温かみい中で、”最高の人生だった”と感じながらこの世を去ってゆきます。エドワードも、最後に人生最高の喜びを得てこの世を去ってゆきますが、それが何であったかは、見てのお楽しみ。

 →http://thebucketlist.warnerbros.com/

明るくて、さわやかで、ユーモラスで、いやー、映画って本当にいいですね。

余談になりますが、来日したジャック・ニコルソンが会見でこんな事を言っています。

Q:モーガン演じるカーターが生涯奥さん一筋というセリフに、とても驚くシーンがありましたね。あれも元祖プレイボーイのあなたのアイデアですか?

わっはっは。そうそう。2人の恋愛観はかなりずれていたからね。男というのはいろんなタイプがいてね。実はあるシーンでも出てくるセリフなんだけど、カーターはクオリティーを追求していて、エドワードはボリュームなんだ(笑)。もちろんボリュームもクオリティーも両方追求できれば最高だけど(笑)。わたしが演じたエドワードと違って、カーターは妻一筋。そんな生き方もナイスだとは思うけど、わたしはエドワード流の生き方の方が楽しいよ(笑)。

Q:プレイボーイでいることの、楽しさってどんなところにあるんですか?

そうだね。プレイボーイでいることはとってもナイスだよ(笑)。女性は生きるエネルギーをくれるから。これはわたしが軍隊にいたときに感じたことなんだけど、男が孤独に生きたり、男ばかりの環境にいたりすることは、精神衛生上とても良くないんだ(笑)

Q:今でも恋はしていますか?

もちろん! 今、人生最後の大ロマンスを探しているところだからね。この前も、とてもすてきな女性に出会ってね。今でも、すてきな出会いがあった夜は、プッチーニを聞いてしまうんだ。


        ~~~~~~~~~~~~~~

 うーん、なかなかの遊び人ですね。でもプッチーニの、どんな曲を聴くのでしょうか? やはりトゥーランドットでしょうね。”誰も眠ってはならぬ”・・(笑)私は、マノン・レスコーが好きですね。今はなき、パヴァロッティがロンドンはハイドパークでのコンサートでこれを唱っています。その中でマノンの美貌に陶然としたデ・グリューのアリア”こんな美しい人をみたことがない”、をつややかに歌い上げたのです。「この歌をレディ・ダイアナに捧げます」と言って・・・。会場は大歓声に包まれました。



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読書『てくてくカメラ紀行』

2008-05-10 | 時評
読書『てくてくカメラ紀行』(石川文洋 (えい)文庫 2004年10月)
         
 北海道/宗谷岬に端を発し、南は沖縄の那覇市までのほぼ3300キロを149日をかけて歩き通したしたフリー・カメラマンの旅の記録である。それも65才のときの挑戦である。

 ”日本を徒歩で旅したいという夢を持ち始めたのは何年前だっただろうか。ちょっと思い出せないが15年前か20年前、あるいはそれ以上だったかも知れない。
生活や仕事のこともあってなかなか実現できなかったが、65歳を機に実行に移すことにした。(中略)北海道から故郷の沖縄へ向かって日本海川を歩く。後は気の向くまま足の向くままと、呑気な気持で家を出発したのだった” 


カメラマンのレポートであるから写真が多い。村や町の写真、出会った人々、見かけた植物や動物たち、祭りの景色、働く女性の姿、海や漁港。どれも何気ないシーンを切り取ったものであるが、著者のそれをを見詰める目は、暖かいものがある。そしてあたたかいい心の持ち主であったからこそ、色んな出合いに恵まれた。そんなレポートを、この徒歩の旅のように、ゆっくり眺めてゆくのは楽しいひとときであった。ちなみにカメラは、嬉しいことにアナログのライカM6,キャノンEOS7など。記事のいくつかをご紹介する。写真にそえられた短い説明にも味わいがある。

            ~~~~~~~~~~~~~~~
(北の宿)
 ”私は夏の北の宿にきている。夏とはいってもさすが北海道最北端の宗谷岬。・・・妻も宗谷岬にきていた。北海道スタートを見送った後は家にもどり、後方支援を受け持つ。撮影済みフィルムの現像、プリントの手配、写真を新聞社・出版社に送るなど妻の作業はたくさんある。・・・宿泊は、すべて民宿・旅館・ビジネスホテルを利用することにしているので妻がインターネットで調べて予約する。民宿「宗谷岬」には出発を取材してくださる朝日新聞、NHKの人もとまり、みんな一緒に夕食をとったので賑やかだった。だがこれも初日だけで後は長い一人旅が始まるのだ。”



(昆布の浜)

 ”沖縄では昆布は採れないのでほとんど北海道産を使っている。北海道にとっは沖縄は昆布をたくさん買ってくれる大事なお客でもあるわけだ” (写真は苫前町にて)

(内陸をあるく)


”広い畑、大きな農家をみていると日本は豊だと感じる。他人には分からない苦労もあるだろう。しかし戦争のない日本は平和で豊である。(注)著者は、戦禍のベトナムを4年間にわたって見続けていた。

(新潟)
”新潟県は海岸線がながい。北海道についで歩行距離は約300キロとながかった。新潟に入って富山に抜けるまで原稿書きのために滞在した日も含めると14日かかっている。・・・距離としては宗谷岬から新潟まで約1200キロ。全体の3分の一強なのだが、半分終わったような気分で、新たな元気が湧いてきた。(中略)人間には未知の世界に対する興味が本能的にあるように思う。私にとっての初めての徒歩日本縦断は、明日はどのような光景が待っているのだろうという期待の
連続だった”

(福井)元気をもらう

 ”私が通過することを知った三方町第二小学校の生徒たちが拍手してくれた。予想していなかったのでとても嬉しかった。新たな元気が湧いてきた。

(鳥取)鳥取羽合町にて
 ”墓地にひときわ高い墓石があった。日本と中国との戦争で選sんひた兵士の碑だった。・・・碑を見ていて人口の少ないこの集落から出征してゆく二人の姿を想像した。そして、生きてさえいれば多くのことを体験することができたであろうと残念に思い黙祷をささげた。

(佐賀)
 ”佐賀県と聞くとすぐ一ノ瀬泰造カメラマンの顔が浮かんでくる。泰造さんは26歳になった1973年11月、カンボジアのアンコールワットへ向かい、その後亡くなった。今回20年ぶりに一ノ瀬さんのお宅に寄った。
 注)戦場写真家として、あまりにも有名な一ノ瀬泰造については彼を紹介する優れたウエブサイトがあるので参照頂きたい。

    →http://www.alao.co.jp/taizoichinose.html

 (写真)小学生3人組
 みやちももか、そえじまさやか、えじまみかちゃん。家が私の歩く方向と同じだったので一緒にあるいた。北海道からの徒歩の旅に興味をよせていた。(千代田町)

(熊本 沖縄からの疎開) 
 ”1944年7月サイパンが占領された。沖縄へのアメリカ軍の上陸を予想した日本政府は、高齢者・女性・こどもたち10万人を本土、台湾に疎開させる方針を決定し、45年3月までに8万人が疎開した。第一師範付属小学校3年生だった兄は、8月ちゅうに鹿児島に到着。日奈久(ひなぐ)温泉の柳屋旅館に落ち着いた”
(著者は、この旅館を訪れた)

(沖縄 故郷への道)
 ”沖縄を歩いていると明らかに本土との違いを感じる。それは海の色や南国の樹木がみえることもああるが、海の上や樹木の間を流れている空気に独特の香りがあるのだ。以前住んでいた香港、ベトナムでも国による空気の違いに気がついたことがある。”

(那覇市のゴール前)
 ”那覇市のゴール前には大勢に人が待っていてくださった。大きな喜びを味わいながら一歩一歩ゴールに向かってあるいた。・・・今度の旅で感動したことは、全国各地で多くの人との出会いがあったことだ。・・・・


          ~~~~~~~~~~~~~~~

 長い距離をご苦労様。それにしてもこの明るい笑顔、そして黄色のパンツもいいなあ。

 ふと、随分まえに読んだ『遙かなヨーロッパ』と題するエッセイを思い出した。。著者は、朝日新聞でパリ特派員をしていた柴田俊治というひとである。”パリは、ジャン・ギャバンだらけよ”という高峰秀子の言葉を紹介したりして、なかなか洒落たエッセイであった。その中に、こんな一文がある。

 ”よくヨーロッパに行きたいが、どこを見ればいいか、と質問を受ける。そんな時こう答えることにしている。

 ー旅程はお好みのままに立てられるといいでしょう。どこでもそれなりに面白いでしょうが、いちばん面白いものはと言われたら、それは人間です。行き来する人間をじっと眺めて、人生の匂いを嗅ぐのが最高のみものだと思います。

 それにはパリのグランブルバールのキャフェがいいでしょう。あそこのテラスは歩道の方に向かってすわるようになっていますから”


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気まぐれ日記/神戸メモワールーサヴォイのこと

2008-05-06 | 時評
神戸メモワール~バー・サヴォイ、そして今

~”バーは僕の魂の置き所である”~(成田一徹 切り絵作家)

SAVOY KITANOZAKA since1965


 まだ駆け出しのサラリーマンだった30才台初めのころ。連れられてある一軒のバーを訪れた。カウンターといくつかの小テーブル。入り口の壁面を埋めていたのは訪れたゲストのリスト。多分5周年記念のパーティの記念でもあったのだろう。私たちのような若造にもオーナーでバーテンダーだった小林省三さんは、優しく接してくれた。世界カクテル・コンテストで優勝した小林さんのつくるカクテルに魅了され、たいして呑めもしないのにSAVOYに通った。夜遅くなると作ってくれたクロック・ムッシェは、ここで覚えた。

阪神大震災の時は、震度7のエリアにあり、大きな被害をうけたが無事再建された。しかし年月は流れ、残念ながら2006年の年末に、40年の歴史を閉じた。後年は、東京での勤務や海外勤務が続いたりしたこともあって残念ながら小林さんにはお目にかかれていない。

 神戸には日本最古のバー「アカデミー」や、北野の不動坂にある「YANAGASE」、「ルル」 「Busy Bee」などなどいくつもの名店がある。「YANAGASE」もよく通った店である。階段を上ると蔦のからまった建物がある。中には、冬ならば赤々と火を燃やす暖炉がある。二人連れにはもってこいの場所だ。ここの客あしらいも忘れられない。ある時買ったばかりの貴重なレコードを置いてきてしまった。しばらくご縁がなく数年して訪ねたときのことである。”お忘れになりましたよ”と、それが差し出されたときは、びっくりした。

いずれにしろ、しかしそれらの名が消えてゆくのは、やむを得ないと思うとともに愛惜の思いを感ずる。だが次の世代に受け継がれたりして、そのスタイルと名前を残しているものもある。

 幸いSAVOYは長年小林さんと一緒にやってきた木村義久さんがその名を受け継ぎ北野坂に「サヴォイ北野坂」を開いた。はじめてサヴォイを訪れた時には、まだ20才台前半だった木村さんは、今や年輪と経験を重ね味のあるマスターとして活躍中である。ここのウエブサイトは、ジャズピアノの音の流れる、とても洒落たものであるので、是非PCのボリュームをオンにしてのぞいて頂きたい。最近では、夜呑むということにつきあってくれる仲間が少なくなったが、近々お店の方に顔をだしたいと思っている。

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 ”「心地よい時間を過ごした人は、その微笑みでわかる・・」 私たちバーテンダーにとってお客様の笑顔こそ最高の励みです。「バーは異次元への扉だ」とおっしゃった方がおられましたが、まさに日常から軽くワープしていただくためにバーがあります。楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、重いこと、晴れやかなこと、ブルーなこと、信頼、友情、愛しさ・・・。さまざまな出会いとさまざまなシーンが人生にはあります。そして一杯のお酒で本当の自分に帰る時間・・・

そのために美味しいお酒とリラックスできる時間の提供こそ、私たちの仕事だと考えています。なにかのご縁でご来店いただきカウンターの前にお座りのお客様を「如何にお迎えするか」「どう快適に過ごしていただけるか」・・・。一期一会の気持ちを込めてお酒をお出ししたいと、常日頃から考えております。私が生意気盛りの21才の時、師匠である小林省三に出会い40数年がたちました。小林省三から学んだこともそのことでした・・・・・・”    (木村義久)

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神戸に来られる方は、夜時間がおありの時は是非のぞいて見られることをおすすめする。いや是非私にもお声をかけてください!

 小林さんは、引退されたがまだ元町のほうにあるバー・Puertoに時折顔みせおられると聞く。いつまでもお元気で!
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読書『用心棒日月抄シリーズ』(藤沢周平)

2008-05-04 | 時評
読書メモ『用心棒日月抄シリーズ』(藤沢周平 07年11月 第82版)
      ー用心棒日月抄・孤剣・刺客・凶刃 全4冊

 ゴールデンウイーク中は、すこし気楽な本をということで、まず藤沢周平の時代小説を。藤沢の初期の作品は、すこし暗いところもあって、それほど好きではなかった。本人も、こんなふうに言っている。

 (第二作品集の「又蔵の火」の後書きより)
 ”これは私の中に、書くことでしかできない暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落としたものだかだであろう。読む人に、勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界をひらいてみせる小説が正のロマンだとすれば、ここに集めた小説は負のロマンというしかない”

 ”だがこの暗い色調を、私自身好ましいものとは思わないし、固執するつもいりは毛頭ない。・・・その暗い部分を書ききったら、別の明るい絵も書けるのではないかと思っている”

 そういう別な明るい絵として現れたのが、この「用心棒日月抄」シリーズである。北国のある小藩を故あって脱藩した青江又八郎は、江戸で用心棒をしながら生活するうちに藩の陰謀に巻き込まれ、その中で幾多の事件を解決してゆく。好漢又八郎の活躍が、人気を呼びシリーズは、4作に及んだ。文庫本は1981年3月に刊行されたが、いまだ版を重ねるという人気振りである。

 その魅力のひとつが、先頃のブログ『猫のつもりが虎』の記事の中でもでもすこし触れたが、又八郎と女忍者佐知との色模様である。第1作で、藩の間宮家老に呼び出された又八郎は、国へ戻る。その途中刺客の佐知に襲われる。しかし、傷ついた彼女を助けたことから、二人は次第に気持ちを通わせ、お互いに助け合うようになる。

 ”又八郎の胸を淡い感慨が行き過ぎる。二人が向かい合ってこんにゃくを喰っている図柄は、男女密会という感じからはほど遠いものに違いない。事実密会し、又ているわけではないし、話の中身は殺伐なものでさえある。にもかかわらず、又八郎は、佐知とのあいだに濃密な親しみが介在していることを認めないわけにはいかなかった”

 風邪をひいて寝込んだ又八郎を佐知が密談のため訪れる。そこで又八郎のために熱い雑炊をつくってやる。その辺の食い物の描写は、しだいに深くなってゆく二人の中をなにげなく示唆しているようで、巧みだと思う。敵と死闘を繰り広げたすえに倒した又八郎が佐知にいう。

 ”「終わったな佐知どの」 「はい、青江さまのお陰です」使命のおわりは、佐知との別れを意味していた。又八郎は佐知の顔をみた。猛々しい血が、まだ身体の中でざわめいている。佐知も動かずに、又八郎をひたと見詰めている。・・・・”

  「青江様」 顔を離しててささやいた佐知の声は意外に明るかった。
  「私、この間からずっと考えていたのです」 「何を考えておった」
  「青江様に江戸詰ということがおありでしょうか」
  「江戸詰? それはあるだろうな」
  「私を、青江様の江戸の妻にしてくださいまし。ひとには内緒で」

第3巻の「刺客」では、なんども闘い繰り広げたすえ、藩の陰謀の黒幕を倒した又八郎であるが、作者は「あとがき」で、”このシリーズはこの辺で終わる訳である”と書いている。この「刺客」の解説を書いたのが、常磐新平である。この人は、エラリークイン・ミステリーマガジンの2代目編集長をつとめ、またアメリカの雑誌「ニューヨーカー」の作品を日本に紹介してひとである。この常磐が、「用心棒シリーズ」の愛読し、「刺客」を読み終えたとき、、この続きをもっと読みたいと語っている。
その語りが、嬉しくも楽しいので、ここにご紹介する。

 ”用心棒シリーズはうまくすると再開されるかも知れないと聞いている。もちろんたしなかことは分からないが、「刺客」が出版されてから、早くも2年がたっている。後日談はまだ早いという気がする。又八郎が四たびなんらかの理由で脱藩し、再び浪々の身となった細谷源太夫とともに、吉蔵の店を訪ねてもらいたいものである。又八郎のて江戸の妻になりたいと言っていた佐知のことをもっと知りたいのである”

そして藤沢は、とうとう4巻目を書いた。それは、あれから16年のことである。藩から佐知が江戸で頭領をつとめている嗅足組(忍びの組織)の解散命令が出る。それを伝えるためまたも江戸にでた又八郎は、木挽町の小料理屋「さざ波」の一室で佐知と再会を果たす。

又八郎と佐知の死闘の様子は、省こう。ひとこと書き添えるとすれば、食べ物のことである。第1巻でも、故郷の食べ物のことが描かれていたが、ここでは佐知が用意した食事のシーンがけっこう長々と描写されている。

 ”「さぞおなかがお空きでしょう」 娘がでてゆくと佐知はそういって手早く椀に飯を盛りつけ、又八郎の前に膳をすすめてよこした。そして自分は向かいあって座ると、団扇で又八郎にそっと風を送った。

焼き魚と唐チサの胡麻和え、あんかけ豆腐などとならんで、ぐい呑みよりほんのすこし大きめの小鉢に、見慣れない一品がまじっていた。いや、あるいは江戸でこそ見たことがないものの、国元ではよく見かけた馳走と言うべきか知れなかった。その黒っぽいものは、小鉢のそこにどろりと沈んでいる。

 これは、醤油の実ではないかな」 半信半疑で又八郎がいうと、佐知が微笑して
、よくお分かりになりました、と言った”

ところどころに、こういった食事の情景が出てくる。これがまたこの小説の親しみを感じさせるのだ。

使命を終わって、またもや国元に帰ろうとする又八郎に佐知は、「わたくし尼になろうかと思います」と告げる。悄然とする又八郎に佐知は、仏門にはいれば、もろもろのこの世に対する未練も断ちきれるだろうと思っている、という。

このまま物語りが終わってしまっては、玉に疵というか、心残りである。藤沢はそれに対し、ちょっと小粋な味のあるエンディングを用意した。

「身体をいとわれよ、丈夫であればまた会う折もあろう」、と言った又八郎に佐知は言う。

 ”国元の薬師町に明善院という尼寺があるのをご存じでしょうか」
  明善院は、いまの殿様の祖母にあたり方にゆかりの寺で、その祖母は、谷口
  の家(佐知の実家)の縁者でもありました。私は、まもなく仏門に入り、数年
  海光尼さまのもとで修業いたしますが・・・・・」

佐知は目を上げた。しかし又八郎を見て、ふと赤くなったかと思うと、その顔にみるみる恥じ入るような表情が浮かんできて、佐知はまたうつむいてしまった。聞き取れないほどの小声で、佐知はつづけた。

 「その修業が終わると私は国元に帰って、明善庵の庵主をつとめることが決まりました。青江様にはご迷惑に思われるかも知れません
が・・・」

 「ふむ」と又八郎はうなった。唖然としてしばらく佐知を見詰めてから、くるりと背を向けた。風景はもとのままだったが、別離の重苦しさは足早にほぐれてゆき、四囲がにわかに明るく見えてきた。不意に又八郎は哄笑した。晴れ晴れと笑った。年老いて、尼寺に茶を飲みに通う自分の姿なども、ちらと胸をかすめたようである。背後で佐知もついにつつましい笑い声を立てるのが聞こえた”

        ~~~~~~~~~~~~~~~

 チャップリンは、生きるのに必要なものとして「勇気と希望とサムマネー」という言葉を残した。私は、それにサム・シークレット「すこしの秘密」を付け加えたい。

こんな都々逸がある。

 ”女房にゃいえない 仏のために 秋の彼岸を まわり道”

いや楽しくも、しみじみとして、そして微笑ましいところもある小説でした。版を重ねて82たびというのも肯けます。
コメント (4)
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