(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

詩歌<坂村真民の歌>

2007-02-27 | 時評
読書『念ずれば花開く』(坂村真民 柏樹社 ’87年2月)

 ごく最近日経の夕刊のコラム<交遊抄>を見ていたら、竹中平蔵氏(もと金融、経済財政政策担当大臣)が歌手の谷村新司との交友を語っていた。そのなかで、参院選出馬の折に谷村から贈られた激励の言葉を紹介していた。
「鳥は飛び立つとき、いつも向かい風に向かって飛ぶんですよ」 竹中バッシングの最中にもこの言葉を胸に、毎晩彼の曲を聴いたとのことだ。

これを読んで、私は坂村真民の詩「鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ」を思い出した。

  ”鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ
   怒濤の海を 飛び行く鳥のように
   人も混沌の世を生きねばならぬ
   鳥は本能的に 暗黒を突破すれば
   光明の島に着くことを 知っている。
  
   そのように人も 一寸先は 闇ではなく
   光であることを 知らねばならぬ
   新しい年を迎えた日の朝 私に与えられた命題
   鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ”

 阿蘇で生まれ、女手ひとつで母の愛を感じつつ育った詩人坂村真民。心の詩人とでもいうべく、八木重吉の詩風を受け継いだ、その詩は、多くの人に愛されてきた。母の愛誦した「念ずれば花ひらく」という八字十音を、一人でも
多くの人に念誦して欲しいと、終生願っていた。

  ”念ずれば 花ひらく
   苦しいとき 母がいつも口にしていた
   このことばを わたしもいつのころからか
   となえるようになった そうしてそのたび
   わたしの花がふしぎと
   ひとつひとつ ひらいていった”

ほかにも素晴らしい詩はいくつもある。長くなるので一つだけ書きとめておく。

  ”本気になると 世界が変わってくる
   自分が変わってくる
   変わってこなかったら まだ本気になっていない証拠だ
   本気な恋 本気な仕事
   ああ 人間一度 
   こいつを つかまんことには”

 宗教家の紀野一義は、坂村真民の詩が、いや”しんみん”さん、その人が好きで、とうと う坂村真民の風光について描いた『白鳥の歌びとー坂村真民』(柏樹社 ’90年9月)という本をを出した。この本は、真民さんと人の心について語った本で味わい深いものがある。 残念ながら、しんみんさんは、昨年の暮れに長逝された。
  



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気まぐれ日記ー「揺らぐ近代」展・青蓮院・レアメタル・・・三題噺

2007-02-22 | 日記・エッセイ
 好天に誘われ、またまた京都に遊んだ。目的は、国立近代美術館で開かれている絵画展《揺らぐ近代》展ー日本画と洋画のはざまに、だ。明治初期の日本の画家たちの作品がならび、日本画と洋画という二つのジャンルの画家たちが苦闘した様を、さまざまな作品を展示して見せてくれた。洋画の先達、高橋由一、日本画の狩野芳崖、そして川端玉章、原田直次郎・・・。 「地中海真景図」では、由一がナポリ湾の景観を墨のみで描き、玉章は「四時群花図」を油彩と岩絵の具で描いていた。それそれが、洋画の技法や材料、そして日本画の伝統技法も取り入れつつ、新しい時代に向けた絵画を生み出そうと努力の跡が滲んだものばかり。原田直次郎の名作にして大作「騎龍観音」を初めて見ることができ、感激した。わがパートナーは、岡田三郎助の「あやめの衣」(油彩)に感嘆の声をあげる。片肌をぬいだ夫人の後ろ姿を描いて、気品があり匂いたつようだ。(ちなみにこの絵は、60円切手の図柄になった) 熊谷守一の、「鯤」(こん)(とても可愛いらしい)まで見る事ができた。 このような時期の画家たち、とくに洋画家達の苦闘と活躍の様は、
芳賀徹の大著『絵画の領分』に、詳しい。昨年秋にみた、和歌山で「の森鴎外と美術」展の様子とあわせ、別途詳しく書いてみたい。

 ここを出て平安神宮とは、反対に神宮道を南下。三条神宮道の交差点ちかくの洋食屋でお手軽ランチ。黒ビールとハンバーグステーキ、オニオンリングのフライなど。中国人の家族連れが来て、注文に苦労していたのでしばしお助けマンだ。

さらに南へ。粟田口の坂道にかかると門跡寺院の青蓮院(しょうれんいん)。拝観して、お庭を眺める。とてもひろびろとして、人もあまりいない。縁側の日溜まりにいるとのんびりくつろげる。応仁の乱で荒廃、江戸大火で消失再興と歴史の波を潜り抜けてきた。門前の樹齢800年余の楠の巨木は、それを見てきたのである。庭は、室町時代の相阿弥の作である。

さらに南下。大好きな知恩院の巨大な三門を見て、祇園経由帰路につく。

京都駅から神戸に戻る快速電車の中では、いつも本を読むことにしている。じっくり読むのに快適だし、一時間強の長さは適当である。今回は、『レアメタル・パニック』(中村繁夫著 光文社ペーパーバックス 07年1月)だ。高級な特殊鋼や、ITなどの電子材料に欠かせないレアメタル(稀少金属)の最新の状況について書かれた本である。
「なんで、お前がこんな本を・・?」と問うなかれ。若い頃、私は材料強度学の専門家だったのだ。と、言っても回りは、妻もふくめなかなか信じてくれない。それはさておき、レアメタルのマーケットはいま大混乱を起こしてる。中国などの経済成長で様々な資源の争奪戦が、始まっているが、レアメタルも、ご多分にもれず、価格が高騰し、日本企業は確保に苦戦している、。インジウム、モリブデン、バナジウムなどなどここ2~3年の値上がりは、ものすごいものがある。中国は、これまで輸出国だったが、最近国家鉱物資源保護法を制定して、輸出を抑えにかかっている。それどころか、海外の資源にまで手をのばしている。住友金属鉱山は、豪州のウエスタン・マイニング社と40年の長期契約を結んで、ニッケルの長期確保をしてきたが、2004年の契約更新時には、中国企業にさらわれてしまった。石油ショックと同様、価格が暴騰するか、時によっては確保すらできない事態が起こり得る。

著者は、長年にわたり商社でレアメタル資源の確保に走り廻ったひとで、この危機的な事態に、企業や官に対して警鐘を鳴らしている。とてもインフォーマティブな本である。日本の製造業(ITもふくめ)に関心を持つ人は、もちろん、政府の対外戦略に関心を抱く人にとって、一読に値する本だ。神戸に到着するまでの時間が短かったこと。


注)写真は、青蓮院の庭で。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書『宮本武蔵』(その五 最終回)

2007-02-17 | 時評
 長谷川櫂の『俳句的生活』に、あらためて宮本武蔵の芍薬の花に関するエピソードを気づかされ、そこから本阿弥光悦との出会い、牡丹の火や、琵琶の心などの話を追ってきた。今回は、その最終回である。武蔵のことは、それ以降強烈な印象を抱いたところがあまりないので、簡単に扱うにとどめ、むしろ作者である吉川英治のこと、なかでも、その俳句のことを書いてみたい。

 武蔵は、一乗寺下り松で吉岡一門との決闘のあと、比叡山を追われ、お通とも離ればなれになりながら、木曽路を通って関東の国へ流れて行く。その道筋で、仙台伊達藩の武士石母田外記との出会いなどがあり、武蔵は、次第に武芸者としての立場から、求道ということへ姿勢が変化してゆく。

 「剣道ーあくまで剣は、道でなければならない。謙信や政宗が唱えた士道には多分に軍律的なものがある。自分は、それを人間的な内容、深く高く、突き詰めてゆこう。小なる一個の人間というものがどうすれば、その生命を託す自然と融合調和して、天地の宇宙大と共に呼吸し、安心と立命の境地に達しうるか、得ないか。行けるところまで行ってみよう。その完成を志してゆこう。剣を「道」とよぶところまで、この一身に徹して
見ることだ」

 武蔵は、下総の国行徳村からほどちかい荒野ー法典が原で剣を捨て、鍬をもって
荒れ野の開拓に挑むんだ。土匪におそわれた村人を救ったり、村人を励ましたして、
又何度も失敗した荒れ地の開墾にも成功して、村人とも溶けあうようになった。
(余談だが、このあたりの武蔵には、好感がもてる)
そのうちに細川家の家臣の知己を得るようになり、最終的には細川家の斡旋で佐々木
小次郎と、巌流島で決闘することになる。 小次郎のことや、この決闘のことなどについては、よく知られていることでもあり、割愛する。

全8巻を読み終えた時、とくに小次郎を倒し、終局を迎えた時に感じたことは、残念ながら感動ではなく、むしろ荒涼たる索漠さであった。すこし俗な表現をすれば、「荒野の決闘」でクラントン兄弟を倒したワイアット・アープの胸中か。いささか寒々しいものがある。かてて加えて、想いをあれだけかけ、また想いもかけられたお通という女性一人を幸せにしてやれなくて、なんの求道か。どこかの国の皇室でも、父親が、子の悩みを共に救ってやらずに皇室の在り方を説く。そういうものには、むなしさを感じる。

私は、庶民の幸せを最終章で描いた『新・平家物語』に、より魅力を感ずる。

などなど勝手な事を言ったが、吉川英治その人は、好きな作家の一人だ。誠実で
ひたすらで、人間への愛情が溢れる吉川の人となりを、詩と俳句の面で描いてみたい。もう30年近く前のことだが、「財界」副主幹で評論家だった伊藤肇の本に、こういうエピソードが紹介されていた。申し訳ないが、あまり古い話で、本の題名も思い出せない。

  「そういえば、吉川英治がまだ元気だった頃、下町の旧友を訪れた。ちょうど昼時だったので久闊を叙してすぐ帰ろうとしたら、せっかくというので昼飯をご馳走になった。漬け物となまあげで、あついご飯をフウフウ言いながら食べた。たったそれだけのことだが、吉川はその味が忘れられず、”新平家の連載が終わり次第、家内と二人きりで、下町のあまり人目につかぬところに住み、朝晩、朝顔に水をやったり、昼は好きな「本を読んで暮らすという、晩年を送りたい”ともらしていた。

  ”雨降れば雨を愉しみ 晴るる日は晴れを愉しむ
   楽しみあるところに愉しみ 楽しみなきところにも愉しむ”

これも古い本で恐縮だが、週刊朝日の編集長をしていた扇谷正造の本『現代ビジネス
金言集』には、吉川英治人生語録と言う一節があり、吉川のいろんなエピソードがあつめられている。その中から俳句を、いくつか拾ってみる。

  ”お母さんと呼んで見し用もなけれど
   歎異抄旅に持ち来て虫の声
   菊作り菊見る時は陰のひと
   菊根分けあとは自分の土で咲け

   (史書雑書雑然として外は春)
   露しとど武蔵の道の果てもなく
   春風や藤吉郎のいるところ
   あとかたのなきこそよけれみなと川”

 そして長女の婚約の前に与えたことば、

  幸せ何とひと問はば 娘はなにと答ふらん
  珠になれとはいのらねど あくたとなるな町なかの
  よしや三坪の庭とても たのしみもてば草ゞに
  人生植えるものは 多かり

       ~~~完~~~



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「われ巣鴨に出頭せず』 (つづき)

2007-02-17 | 時評
天皇に会おうとする近衛を木戸は、抑えた。しかし時局の悪化に、東条も辞職。
近衛は、2月になんとか天皇に会い、「敗戦は必至」と伝えた。また。、共産主義の危険についても説明した。「要するに、ここまで来ては敗戦そのものよりもその後に来る共産革命が深刻である。ソ連影響下の内外の共産主義者を一刻も早く一掃しないと、軍内部や民間有志の革新論者によって日本は取り返しのつかないことになる。一味を一掃して一日もはやく戦争の継続を中止すべくご聖断を仰ぎたい」、と上奏した。そして天皇は、終戦との明確な意志を示した。その後、この上奏文が漏れたりして4月に吉田茂が逮捕されたりした。しかし、小磯内閣の後をうけた鈴木貫太郎は、終戦への道筋をつけようと腹をくくった。そのお陰もあって8月15日、無事終戦の詔勅はラジオで放送された。

 8月30日、連合国最高司令官のマッカーサーが日本に降り立った。近衛は、10月にはいりマッカーサーと会って話をしている。

  ”軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和をやぶり、日本を今日の破局に
   陥れたことは一点の疑いもないが、皇室を中心とする封建的勢力と財閥が
   演じた役割と功罪については、米国に相当観察の誤りがあるのではないか”


マッカーサーとの会合は、友好的であり、憲法改正を近衛に託した。近衛は、はこの会見で勇気を得たようであった。この頃、吉田茂は、近衛公は日本にとってかけがえのない人であると評価していた

ところが、その後ニューヨークタイムズ紙が、近衛を強く非難する記事を掲載、また総司令部が手のひらをかえしたような行動にでた。そこに総司令部で対外諜報分析を担当するノーマンと都留重人が拘わっていた。ちなみに木戸の姪が都留の妻になっている。ノーマンは、先に帰国していた都留と再会し、主に都留の情報をよすがとして総司令部宛に、近衛に対する「戦争責任に関する覚書」を作成したのである。この中で、木戸と近衛は対極的なかたちで論評されている。一言でいえば、内大臣としての木戸は、軽い役割でしかなかった。一方近衛は、戦争を主導した人間と、酷評非難したのである。その内容に関しては、前述の中野利子の本でも、”客観的に読めば、論旨の展開に、諸事実のほかに感情的な迄の人身攻撃的表現が用いられており、読んだ後味が少々悪い”と述べられている。近衛を貶めることになたったこの「ノーマン覚書」の背景には、共産主義を攻撃する近衛への反発と、木戸を助けようとの意図の働いた都留の動きがあったと著者は推測している。そしてそれは、正しい推理であろう。10月になるとアメリカ政府から戦略爆撃調査団が来日、その時の近衛への尋問録がロンドンのナショナルアーカイブスに保存されいる。貴重な資料だが、この尋問の中で、近衛は、木戸が重臣たちの前に立ちはだかって天皇との間に壁を作ったことや東条に対するする非難などいっさい口にしていない。近衛の、潔い心情が読みとれる。

           ~~~~~~~~~~~

相当に衝撃的な内容だった。この通りとすれば、近衛に対するイメージは一新する。一方の木戸についても、さまざまな資料があるので、機会があれば見てみたい。また、今回のこの本に限らないが、陸軍が振りかざした統帥権なるものが、一人で動きだした背景と、それもふくめた天皇の責任問題についても知りたいものだ。

余談だが、定家の『明月記。の中に、有名な「紅旗征戎吾がことにあらず・・」ということばがある。 戦争や混乱など知ったことか、と和歌や宮廷の事にのみかかわる。世捨て人ならいざ知らず、こういうことは、現代に生きるわれわれには、許されない。過去をよく知ったうえで、未来を築くべきと思う。

敗戦直後における石橋湛山の靖国神社廃止論をあらためて思い出した。

 ”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど
  亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に
  対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社
  が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つ
  であろう。ただ屈辱と怨恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」
  いま日本国民が必要とするのは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国
  神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”



 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書『われ巣鴨に出頭せず』ー近衛文麿と天皇

2007-02-15 | 時評
『われ巣鴨に出頭せず』(工藤美代子著 日経新聞社 2006年7月)

 終戦の年昭和20年の12月、近衛公(侯爵)はマッカーサー総司令部への出頭の前夜、杉並の自宅で自死した。大戦中、三次にわたって首相をつとめ、天皇への補弼の役割を果たしてきた近衛公は、その死後批判と非難に曝された。
これまで「『香淳皇后」や「黄昏の詩人堀口大学」「野の人会津八一」などノンフィクションに精力的に取り組んできた工藤美代子が、ロンドンのナショナル・アーカイブスなどの外交資料もふくめ綿密な調査にもとづいて、その生涯から死の真相に至るまでを追った。ここで語られていることは、もう50年以上も前のことである。しかしそこには、極めて重要かつ衝撃的な内容が含まれており、今日の私たちにとっても知るべきことと思うので、少し詳しくご報告することにした。なおこの本を手にしたのは、万巻の書を蔵する読書家のM氏の推薦のお陰である。でなければ、この本との出会いはなかったであろう。

430ページに至る大冊だが、一気に通読した。これまであまり知られてこなかった近衛公の実相に迫り、きわめて興味深い本である。なかんずく、終戦直後の、マッカーサー総司令部の近衛に対する態度の急変と、その因となったノーマン・都留重人の動きをを追った項は、迫力がある。E・H.ノーマンは、カナダの外交官で、マッカーシズムの犠牲となった悲劇の人としての見方がある。中野利子の『外交官E・H・ノーマン』は、ノーマンの人となりをドラマティックに描いて感動すら覚える。しかし、ここで描かれた総司令部の情報部の一員として動いたノーマンの姿と、『巣鴨にわれ出頭せず』で述べられた姿は、相当に異なる。

 工藤美代子の本は、『黄昏の詩人堀口大学』にもみられるように、淡々と事実を追求してゆくので、文学的な面白みに欠ける。一方、中野利子の著は、『父中野好夫のこと』で日本エッセイストクラブ賞をとっただけあって感動を誘う描写が巧みである。しかし、事実の背景を追求するのは、文学的な興味や表現の巧みさではない。今回両方の本を読み比べてみて、どうも工藤美代子の探り当てた事が事実であるように思える。


本題に入る前に近衛公とは、いかなる人物か見てみよう。古くは、藤原鎌足に端を発し、島津久光の流れをひいた名門の公家で、曾祖父は幕末の頃孝明天皇を補佐する立場にあった。維新後も天皇家から厚遇をうけた。また新政府の下では、華族の筆頭として侯爵に序せられた。そういう背景のもとで、近衛は、大正6年大学を卒業し、内務省にはいる。すぐ第一次大戦終了時に、近衛は、『英米本位の平和主義を排す』という論文を発表し、「その平和主義とは自己に都合良き現状維持、平和」と鋭く喝破した。
明治18年にパリで講和会議が行われ、近衛は、西園寺公に随行した。帰国後に記した『欧米見聞録』では、日本が提出した人種差別撤廃が否決されたこともあり、”力の支配という原則の露骨な表現と・・”と批判的な目でみている。帰途、アメリカに立ち寄り、そのエネルギーの噴出に圧倒されている。帰国後は、貴族院議員として活動。

昭和3年年、満州で張作霖の列車爆破事件が、発生。その後満州事変などにつながってゆく。この事件で、著書は、国際共産主義の諜報活動が、その後の昭和日本を翻弄した、と指摘している。。この裏には、スターリンの画策があり共産スパイが動いていたと、最近明らかにされた。(『ワイルド・スワン』の著者、ユン・チアンの書いた『マオ』 2005年末刊 講談社) 戦火拡大を狙うコミンテルンの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動の謀略の可能性を、作者は示している。なおこのとき近衛は、満州事変そのものを自存自衛のためだと、評価している。

昭和6年満州事変。軍の過激派によるテロが計画されるも未遂に終わる。昭和8年には、貴族院議長。昭和11年に、2.26事件が発生。このとき、30歳だった昭和天皇は、誰の補佐をうけることなく、一人で軍の反乱の鎮圧を指示、反乱軍の容認の声に断固反対した。

その後近衛は、45歳で組閣の大命をうけ、第一次近衛内閣となる。このころは、皇国史観に平泉澄と近い。この頃から陸軍が、陸相は出せないなどと、組閣に反対する動きが出ている。昭和12年、廬溝橋事件が発生。何物かの発砲、天皇の指示で、外交交渉での解決を目指すも、上海事変に至る。これも、瞬く間に華北を占領した日本軍に脅威をかんじたスターリンが、日本軍の南下を狙って画策したとの見方が有力である。近衛は、不拡大の方針であった。しかし、軍は、強権を振りかざし、戦火拡大は、むしろ外国のせいにした。陸相になった東城英機は、「今より、北方に対しては、ソ連、南方に対しては英米ソと戦争しなければならぬ」と発言していた。近衛は、辞職。

 注)もうすでに、論理的な成算なしに戦争を叫ぶ陸軍の姿があった。また国際的な情報収集やそれのもとずく諜略などは、その思想すらない。 こんな状態で、よく戦争を始めたものだと、思う

 その後も軍主導で事態はどんどん進む。昭和14年、ノモンハンでソ連軍と衝突。日本 軍は壊滅的な打撃を受けた。昭和15年第二次近衛内閣。このときの外相松岡が、功 名心にはやり、軍を使って走った。また組閣に際して近衛は、脇の甘さをみせ、それに食いついたのが、後にスパイで逮捕される尾崎秀実である。基本国策として、南方への 武力行使が決定され、仏印に進駐。英米が、これに反発して鉄などの禁輸に踏み切っ た。その後、いわゆる三国同盟などに進んでゆくが、天皇は、日本がドイツの戦争に巻き込まれることに反対、また「アメリカが石油など禁輸する、それで日本はやっていけるのか」など心配していた。

  注)この頃までは、天皇のところに情報も入り、合理的な判断を下していたようだ。

昭和16年、近衛は、アメリカとの交渉に精魂を傾ける。日ソ中立条約などで独走した松岡外相を辞めさせるべく、近衛は辞職。その上で第三次近衛内閣となる。そののち陸軍の横暴に近衛は辞職。

  ”首相の意見が通らぬ国だ”

   注)統帥権を手中にした陸軍は横暴を極めたが、理解しがたいのは、統帥権の大本たる天皇は、どうしてそれを見過ごしたのか。

10月には、ゾルゲ・尾崎秀実(ほつみ)検挙された。尾崎は、第一次近衛内閣の嘱託。彼の昭和研究会を通じ、日本の情報はすべてクレムリンに流れていた。
昭和16年10月、東条英機に組閣の命がくだる。このとき昭和天皇は40歳、近衛50歳、木戸52歳、東条57歳。この4人が関わり合って、時局は動いてゆく。とくに東条が、独走して戦争を引っ張り、敗戦にいたるのだが、この間の近衛に『関する特徴的な動きだけを拾い出してみる。

昭和16年10月、アメリカ政府から、いわゆるハルノートがきた。戦後東京裁判にかかわったパル判事は、これならば「モナコでもルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して矛をとって立ち上がったであろう」といわしめた文書である。驚くべきは、このハルノートを作成した元財務相特別補佐官のH・D・ホワイトは、実は、戦時中からソ連KGBのスパイであったことが、後にアメリカ上院の査問委員会で明らかにされた。ホワイトハウスの深部に潜入したホワイトが、日本を挑発させるような文案を用意して国務長官にわたしたことになる。

昭和17年ミッドウエー会戦、ガダルカナル撤退などにより、時局は大きな転換期を迎えた。昭和18年ころから、和平の道をさぐるべく吉田茂などが『動き出すが、木戸が反対。このころから天皇には、情報が入っていない。近衛は、このように言う。

 ”政府は正確な事を伝えない。木戸内府が、事実をなにも天皇に知らせない”

  注)このような状況下で、何故天皇は東条を信頼していたのであろう。

・・・(つづく)
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽<なにコラ・はづき きまぐれコンサート>

2007-02-12 | 時評
なにコラ・はづき きまぐれコンサート
 (2007年2月11日 いずみホール)

 縁あって神戸で活躍する女声合唱団<はづき>の演奏会に招かれた。このコーラスは、合唱コンクールで一般の部もふくめ、金賞・銀賞を絶えずとっている。しかし、学生時代それに社会人になっても合唱の世界に長く、身をおいていた私は、そのリサイタルといっても、それほどの期待を抱いていなかった。ところが、今度は男性合唱団とジョイントするとのこと。それも、大阪の一般の男声合唱団では、それと名の知られた<なにわコラリアーズ>だという。 期待に胸を膨らませ、大阪城公園ちかくの「いずみホール」まで車を走らせた。<はづき>の指揮者の岸信介氏のいわせると、なにコラは、アメリカの有名なアカペラの男性グループ<シャンティ・クリア>に比肩するとか。(ほんまかいな・・) しかも場所が、いずみホール。ここは、ウイーンの楽友協会のホールの響きを再現するように設計されており、音響・内装など素晴らしいホールである。(東京・」お茶の水のカザルス・ホールなぞ目じゃない・・・(笑))

 コンサートは、一口でいって期待を遙かに越えた、高いレベルのもので、なおかつ聴衆を魅了し尽くした。

女声の合唱で幕が上がった。いわゆるおなじみの女声合唱曲ではなく,、「愛のうた」と題された1部ではロマン派の歌曲と現代の宗教曲からあつめられた曲だ。この中では、シューベルトのシュテンチェン(小夜曲)が出色だ。”友よ、愛するひとよ、眠らないでください”と、静かに、そしてしみじみとアルトソロがコーラスを背景に唱う。」
第2部では、なにコラの男性が、「祈りのうた」と題して、450年前のポリフォニーから現代音楽にいたるまでの宗教音楽の発展を追った。その中で、ジョスカン・デ・プレの「ハイリッヒ」が、男性の美しいハーモニーが静かに響いて、胸に残った。これはシューベルトの「ドイツレクイエム」の中の曲である。

<はづき>は、第3部で、日本の歌をとりあげたが、その中でも現在第一線で活躍する女声作曲家の歌が、印象に残った。まど・みちお作詩、木下牧子作曲の「おんがく」は、無垢な音楽への憧れを歌った詩に、表情豊かな旋律をつけたもの。耳に残る。

 ”かみさまだったら みえるのかしら
  みみを ふさいで
  おんがくを ながめていたい・・・・”

その詩をくちずさんでいるだけで、嬉しくなってくる。

なにコラは、第4部で世界の歌を歌う。ケルトの民謡から、ケニアのメロディー、南米はコロンビアの石炭売りの歌「エル カルボン」 そしてフィンランドの作曲家の歌などなど。メンバーが、自ら世界各地から集めたものだ。始めて聞くものばかりだが、聞いているとその迫力、リズミカルな演奏にひきこまれてしまった。

そして最後は、混声で、。インドの詩人タゴールの詩にメロディーをつけた「我が魂の静寂」。この曲では、メンバー全員が、ホールの壁面いっぱいに広がり、聴衆を包み込むようにして歌った。そして作曲家新実徳秀はが黒姫山に住む詩人にメロディーを送り、それに谷川雁が詩をつけて作った「北極星の子守歌」、八重山民謡の「安里屋ユンタ」。この最後の曲を歌うとき、男性も女性も高揚し、みなの顔がきらきらと輝いて見えるようだった。

アンコールで歌われたた「夢みたものは」、木下牧子の名曲。男性の分厚いバックに乗って女声がリリカルに美しい旋律を歌った。もうみんな、うっとりだ。

”夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛
 
   山なみのあちらにも しづかな村がある 明るい日曜日の 青い空がある
   日傘をさした 田舎の娘らが 着かざつて 唄をうたつてゐる
   大きなまるい輪をかいて 田舎の娘らが 踊りををどつてゐる
   告げて うたつてゐるのは青い翼の一羽の小鳥 低い枝でうたつてゐる

   夢見たものは ひとつの愛
   ねがつたものは ひとつの幸福
   それらはすべてここに ある と”
              
                注)立原道造の詩集「優しき歌」から

二つの、性格の異なる合唱団が、ジョイントすることによって、いい意味で刺激をうけあい、選曲・構成などのプログラミングも素晴らしいものになった。演奏も、二人の指揮者が交互に、乗り入れるなどして、演奏を盛り上げた。 ブラヴォー!







コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳句/読書『蕪村の小さな世界』ーsenji様よりの寄稿

2007-02-12 | 時評
先般来、『蕪村春秋』(高橋治著)の読後感を掲載したところ、こんな本を読んだということで、senji様より寄稿を頂きました。下記に掲載させていただきます。こうして蕪村についての理解が深まってゆくことは、嬉しいことです。

         ~~~~~~~~~~~~


「与謝蕪村の小さな世界」芳賀徹著:senji 読後感想<其の一>

与謝蕪村の俳句は学校の教科書以来のお馴染みのもので、何かの機会にふと目にする機会が多い。俳句を習い始めて間もないことゆえ、機会をみて蕪村の俳句を勉強したいものだと考えていた矢先、古本屋で蕪村の俳句と書画について書かれた本に遭遇した。
芳賀徹著「与謝蕪村の小さな世界」(中央公論社/昭和61年刊)である。
この書は18世紀中頃江戸時代の日本の文化史的側面から蕪村の人間像を浮かび出させ、蕪村の俳句の特徴を大きな枠でとらえ、個々の句はその枠の中にくくりながら蕪村俳句の世界に誘ってくれるものである。画家としての蕪村にも注目し、その絵画と句との関係を述べ、そしてその延長線に伊藤若冲の絵画との相関を論ずる極めて興味のある書である。
書の目次は次のようものである。

1、与謝蕪村の小さな世界
2、桃源へ 「春風馬堤曲」の一解釈
3、蕪村詩画におけるよう桃源郷
4、みじか夜の詩人/おもたき琵琶/「君あしたに去ぬ」・・蕪村の悲歌
5、蕪村の俳諧と若冲の絵画・・18世紀日本の文化史的状景

以下にその要約を試みる。
 
蕪村は68歳(1716~1783)で亡くなる。20~30歳代は諸国に旅をして句を読むが、彼の豊麗な詩歌が花咲くのは50歳代の半ば頃からとされている。この頃から京都四条河原町に隠遁の生活を送るようになる。画家伊藤若冲(1716~1800)はすぐ近所の錦小路に代々の青物問屋を営んでいた。

この頃の日本は江戸幕府始まって以来ほぼ150年の長きにわたる平和を享受し、均衡の取れた無変化の状況が続いていたが、ようやく過化飽和の状態に達し文化面で変化の訪れ始めた時期でもあった。この小春日和の日本列島には、長い平和の至福から来る頽廃と「しどけなさ」を伴いつつ、古い京阪と新しい江戸、武家と町民の二つの文化が融合しながら歩みを進めた時代であった。西欧に喩えるならばロココ時代とも言える。40歳年上の師である求道者松尾芭蕉は、かつての元禄バロック時代の名残を残す人だといえよう。元禄の「偉大」から天明の「矮小」といった時代の流れの図式を描くことが出来る。
この時代の藝術は人生のなまなましい問題とあえて切り結ぼうとするよりは、数歩下がっていささかの微笑とアイロニーを伴って、局面を静観する様相を示していた。しかし一方では平賀源内、上田秋声、林子平等のごとく、近代文明への啓蒙を叫んだ人たちも存在していたことも事実であるし、新しい思想に触れた人たちが、知性と感性の新しい発見を求めて動き始めていた特徴的な文化史の側面を持った時代でもあった。
 
<籠居の詩人>
さて京都四条河原町に居を構えてからの蕪村はむしろ別の方向、即ち京暮らしの「寂寞」なる中に沈潜していき、その方向にこその詩境を深めていったのである。蕪村は「籠居の詩人」(poete casanier)として、いわば「負」の美の世界を創り自らは逡巡として動かず、自然の事物にも人事にも受身の態度で接しながら、それらを独自の美学の手鏡に屈折して映し出して見せるのである。

  遅き日や谺(こだま)聞ゆる京の隅
  寂寞と昼間を鮓のなれ加減
  はるさめや暮なんとしてけふも有
  
人生を旅と感じ、実際に旅に明け暮れて旅に死んだ俳聖芭蕉と、都の風流に遊び桃源の路地の細さのその奥に籠もる蕪村とは、人生に対する、詩における姿勢ないしはスタイルがまるで違っていた。

  行春にわかの浦に追付きたり           芭蕉
  ゆく春や逡巡として遅ざくら           蕪村
  行春や鳥啼魚の目の泪              芭蕉
  ゆく春やおもたき琵琶の抱きこころ        蕪村
  あかあかと日は難面(つれなき)も秋の風     芭蕉
  金屏の羅(うすもの)は誰があきのかぜ      蕪村

「(蕉翁の)よしのの旅にいそがれし風流はしたわず、家にのみありて浮世のわざに苦しむ」
なることに新しい風流を見つけた蕪村であるが、その市井籠居の都会詩人の詩的想像パターンを最もよく示す季語としてあげられるのは「冬籠り」「埋み火」これに類する「火桶」「火燵」である。

  屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
  冬ごもり母屋へ十歩の縁づたい
  冬ごもり妻にも子にもかくれん坊 
  冬ごもり仏にうときこころかな
  居眠りて我にかくれん冬ごもり

  うずみ火や我かくれ家も雪の中
  埋火も我名をかくすよすが哉
  桐火桶無弦の琴の撫ごころ
  埋火もきゆやなみだの烹(にゆ)る音
  埋火やついには煮ュる鍋の物
  埋火やありとは見えて母の側
  埋火や春に減りゆく夜やいくつ

蕪村にとって冬籠りは一個の独立した持続的な詩的空間として成立し、彼の想像力は他のどこよりも好んでその薄暗い深みに棲息し、その奥にひそんで安堵の息をもたらしたのである。しかしその生活は、次のような「貧生独夜の感」のわびしさが実景であり実情であったかもしれない。

  氷る燈の油うかがう鼠かな
  我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
  炭取りのひさご火桶に並び居る

<雪の中の桃源郷>
かくして夢想裡に佇む「籠居の詩人」蕪村は、この侘び住まいを次の句の如く、一つの桃源郷に転位してしまうのである
 
  桃源の路次の細さよ冬ごもり

陶淵明「桃花源記」に己のイメージをはせながら、京の町の細い路地の先の奥にぽっかり開いた桃源こそが、詩人蕪村の本当の棲み家であった。漁師が細い谷間を遡り桃花林の奥の細い洞窟をくぐりぬけ豁然と開ける桃源郷に至るが如く、そこにいたる路地は途絶えてしまってはならないが、細ければ細いほどによいのである。

  茶畑に細道つけて冬ごもり
  細道を埋みもやらぬ落葉哉
 
細道の先の籠り居はいよいよ奥深く、安らかで、こんもりと暖かい別天地、魂の巣篭もりする住まいとなる。

  これきりに径尽きたる芹の中
  道たえて香にせまり咲くいばらかな
  花いばら故郷の路に似たる哉

しかも蕪村は冬籠りの隠れ家が路地の細さばかりでなく、さらに降る積もる雪に保護され、いっそうにこんもりと暖かい空間となることを願ったようである。

  うずみ火や我かくれ家も雪の中

(この蕪村の有名な句について著者はその国際的詩学上の意義の高さについて言及している。蕪村の有名な絵画「夜色楼台雪万家」は水墨淡彩の単なる、雪の降る山と家並みの風景であるが、荒涼たる凍てつきよりも、雪に包まれた下での人生の営みの暖かさを感じさせる絵画空間であるとこれを絶賛している。著者は蕪村の画における桃源郷の考察も試みている。「桃源行図」「武陵桃源図」などをあげて、蕪村の詩と絵の両面の世界から彼の桃源における詩的夢想を理解しようとするものである。興味深いのは蕪村が特に光や色彩に鋭敏な詩人であったことは良く知られていることであるが、それら「絵画的」だといわれる句の作品群は、絵画表現においては蕪村自身の絵画作品より、むしろ同時代京都の画人伊藤若冲の繊細華麗な花鳥画の方にこそより親近している、と著者は指摘している。)

蕪村の桃源郷詩的夢想をあらわす句として

  雛祭る都はずれや桃の月
  雨の日や都に遠きももの宿
  商人を吼ゆる犬ありももの花

  畠打や法三章の札のもと
  畠打や峯の御坊の鶏の声
  花鳥の中に妻有ももの花
  低い樹に鶯啼くや昼下がり
  遅き日や谺聞ゆる京の隅
  花に暮て我家遠き野道かな

<しどけさなさの美学>
このようにして、蕪村は雪の中、埋み火のほとりの籠り居のなかに、意外なほどに深く広い詩的想像の空間を打ち開いた。ダイナミックな美と倫理の世界ではなく、人間の心理の前人未到の寂寞の域に触覚を伸ばし、宗教的・倫理的ではないがある根的・形而上的な人生の体感を感性のチャンネルを通じて伝える働きを持っていた。
これまでにない、新感覚の消極性の詩学、無為無閑の美学、あるいはしどけなさの美学というべきものを、彼は発見していったのである。

  春雨やもの書かぬ身のあはれなる
  うたた寝のさむれば春の日くれたり
  行春やおもき頭をもたげぬる
  肘白き僧のかり寝や宵の春
  等閑(なおざり)に香焚く春の夕哉 
  さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
  にほひある衣も畳まず春の暮
  筋違にふとん敷きたり宵の春 
  椿落ちて昨日の雨をこぼしけり

これら一連の春の句は、世俗の生活の物憂さを厭う「疎懶」(しどけなさ)或いは春の夕暮れの重いたらし込みのような「春懶」の情緒を基調としている。最後の句の「椿落ちて」の句のおもさや「昨日の雨こぼす」の間の抜けた気配の如く、他の句もあの寂幕たる籠り居のアンニュイの中から発し、またその中に吸収されていくことについては共通しているのである。この寂幕のなかに層々と湛えられた過去の時間の無限定な深さが次の有名な句に繋がるのである。この句は「懐旧」と題していて、

  遅き日のつもりて遠きむかしかな

いつまでも暮れないぽっかりと空洞のような閑寂な晩春の日にじっと座っていると、このような日が幾つもいくつもそれぞれの相貌をもって重なって、今がそのまま昔であるような、むかしが今であるような錯覚に陥ってくるのである。そして蕪村自身においてこの過去の奥へ奥へと遡る時間意識が、逆に未来へ向かって先へ先へと働く時には彼の臨終の吟である、白い清爽な光に満ちたヴィジョンになるのである

  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり

<みじか夜の詩人>
蕪村が遅き日や春の暮の句に長けて、そこに独特の「疎懶」(しどけなさ)の美学を見出した俳人であることを論じてきたが、彼は同時に初夏の夜明けの爽快な感覚の発見者<みじか夜の詩人>ともいえる句を晩年に多く詠んでいる。

  みじか夜や浅井に柿の花を汲
  みじか夜や浪うちぎはの捨篝
  みじか夜や芦間流るる蟹の泡
  明けやすき夜を磯による海月哉
  みじか夜や毛むしの上に露の玉
  みじか夜や暁しきる町はずれ
  みじか夜や伏見の戸ぼそ淀の窓
  みじか夜や枕にちかき銀屏風
  みじか夜や同心衆の河手水
  短夜やいとま給る白拍子
  みじか夜の夜の間に咲くぼたん哉

(著者は万葉集も含め日本の王朝詩歌などに既にこの<みじか夜>の詩的発想が多く見られることを例示しながら言及していく。そしてこの偉大な詩的遺産を前にして蕪村以前の俳人が季語として<みじか夜>を使っていないことを指摘する。その意味で蕪村は俳諧における、その季節感覚の再発見者であるとしている。)

芭蕉の句との比較において、好一対といわれる句がある。
 
  みじか夜や枕にちかき銀屏風   蕪村
  金屏の松の古さよ冬籠      芭蕉

金地に描かれた松の重厚な古色の輝きと銀屏風に漂うかりそめの反映。これこそ元禄日本のバロック的美観と明和天明のロココ調の典型的な対比といえよう。金屏風について蕪村が詠んだ句は薄く冷ややかに光を震わせるものであった。

  金屏のかくやくとしてぼたんかな
  金屏の羅(うすもの)は誰があきのかぜ

(上記一連のみじか夜の句に見られる、蕪村の句の特徴として著者は更に「けむし」や「蟹の泡」に見られる微視の誇張をあげている。みじか夜の明けゆく空を背景に、中景を省略して近景の事物だけを大きくクローズアップする写法である。この蕪村得意の絵画的視覚は「伊藤若冲の絵画との相似性」の中で論じられることになる。)

(もう一つの特徴は、「浅井」の句に見られる「浅さ」という蕪村が発見し愛着した独特の感覚である。ロココ的な負の価値であって、彼の句集に多く見られる感覚である。)

  みじか夜や浅瀬に残る月一片
  みじか夜や足跡浅き由井の浜
  しののめや鵜をのがれたる魚浅し
  すし桶を洗えば浅き遊魚かな
  明けやすき夜を磯による海月哉

<春風馬堤曲>
  やぶ入りや浪花を出て長柄川
  春風や堤長うして家遠し

(この出だしの句から始まる詩歌について著者は次の如く絶賛する)
春風馬提曲は発句形式と五句絶句体の漢詩四首と漢詩訓み下し体との混淆という詩形からいっても、そこに盛られた艶情の「若々しさ」からいっても、徳川中期の1776年という年に、還暦以来病勝ちであった一老人詩人によって書かれたとは思われない斬新且つ新鮮な「歌曲」である。蕪村には晩婚になした溺愛の愛娘がいたが、この詩歌の直前に嫁に出した経由がある。この詩歌の舞台である淀川毛馬村は蕪村の生まれ故郷であり、幼年時の記憶にある着飾った娘たちが奉公先から帰郷する状景に重ねながら、この詩歌は愛娘との楽しい道行の夢を追ったものといえよう。病床にある老俳諧師が老いらくの心そよぎとも言うべき艶情の美少女相手の歌舞伎仕立ての「道行」が「春風馬堤曲」ともいえよう。
このころの蕪村には既に死を自覚する経験があったとおもわれ、詩人の中のエロスが呼び戻す人間の究極のものを示唆する心境に達し、老残の「気のおとろひ」から抜け出て亡き母の共にいます幼童の日の時空に向かって行ったもの思われる。

(古今の和歌や俳句に浅学未経験の私にとっては、この「春風馬堤曲」を一読して正直なところそれほどの感激をうるところにまでは至らない。安東次男「鑑賞歳時記」の蕪村の句<若竹や橋本の遊女ありやなしや>についての解釈の項に次のような評論がある)

蕪村晩年の独自の新体「春風馬堤曲」があとに付された「駿河歌三首」とともに、淀川を一人の若い女体と見立てた(蕪村の生地毛馬提はその乳房の部分に当たり、浪花の地は女人の頭に当たる)幻想的な詩情であり、かつ日々に発展し移り変わっていく淀川についての彼の賛歌であり文化史的考察なのである。橋本がその場合竹林に囲まれた遊里であったことから、宇治川、桂川を二つの足としたこの女体の秘部に当たるのである。晩年の蕪村が何の目的もなくただ川舟に身をゆだね、若々しい女体(川)を下ることだけに楽しみを見つけていたのかも知れない。

(当時訪れた外国人が例外なく淀川の美しさを褒め称えているが、現代人の知る淀川に比べ、かつての淀川は想像以上に美しい風景であったようである。この美しさを再認識し今の私より少しだけ若かった晩年の蕪村の生きざまに想いを馳せていくと、この詩歌の美しさが理解できるような気がしてくるのである。 「春風馬堤曲」なる長文の詩歌の本文への掲載は割愛させていただく。)

<蕪村の今日の意義>
蕪村が「籠り居の詩人」として、今日まで我々現代人に訴える魅力を有し、さらにいっそう深まるように思われるのは、それが失われた日本の美的生活への郷愁をかきたてるのと同時に、彼が人情の不安の機微に鋭く触れているからである。人間の幸福とは、己が身の丈に合った幸福しかありえないという、日本人の心底にある普遍な伝統的幸福感を、現代の日本人に呼び起こさせるものがあるからである。そしてもう一つ、蕪村の詩的世界が妖しいほどまでに美しく、幾多のロココ的な感覚美の断面を切り開き、享楽と寂幕の底から不安な光を帯びた真珠のような夢幻と印象の美の結晶を生み出しているからである。それらはよりどころのない生の不安や空虚への恐れをすでにかすかな陰影として宿しているゆえに、いっそう美しい詩的世界であるといわねばならない。 <完>

               


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画『平成「梅花の宴」展』

2007-02-11 | 時評
 近く探梅して吟行でもしようか、などと思っているうちに、だんだん”梅”という主題についての意識が高まっていた。梅に関する漢詩や白梅を描いた江戸友禅のこと、果ては梅湯に、梅料理などなど。そういうときに、梅を描いた日本画が展示されるという絵画展があることを知り、春暖の一日なんばの高島屋での『平成「梅花の宴」展』に出かけた。

いやいや、期待を裏切らぬどころか、それ以上に素晴らしい展示であったので、ここにご報告しておくことにする。

 今を遡ること1300年ほど前、天平2年九州太宰府の大伴旅人邸で梅を観賞する
集いが開かれ、この折に詠まれた梅を愛でる歌32首が万葉集に収められている。この集いには「梅花の宴」という美しい呼び名がつけられた。そして今、梅に思いをよせた近・現代の日本画家たち45名の絵画があつめられ、全51点が展示されていた。流石、天下の高島屋だ。

 どこからともなく漂ってくる梅の香りを描いた「暗香不動」(横山大観)、河畔の民家の裏庭に咲く白梅をのどかに描いた「河畔梅家」(河合玉堂)、二曲屏風にたたずむ娘、その着物の裾模様に絞り染めを交えて描いた「娘」(上松園)、愛らしい子犬と紅梅を「描いた「春暖」(竹内栖鳳)などなど、次々に名作・秀作がつづいて眼が放せない。速水御舟、安田靫彦、前田青邨、真野満、それに奥村土牛などなど、中島清之、山口蓬春、小倉遊亀、・・。それらに加えて、現在も活躍中の岡信孝、上村淳之、中島千波らも。そしてすばらしいのは、大矢紀、竹内浩一、山下保子の新作も展示されていた。わざわざこの展のために描きおろされたものもある。

これらの中で特に印象に残ったものを挙げる。

《梅花の宴》(大亦観風)・・・1942年頃
天平の梅花の宴自体を描いた絵は、ほとんどないらしい。その意味で貴重な絵である。大伴旅人らしき人物が童子と梅林に遊んでいるのどかな風景。画家の観風が、宿泊した湯沢の温泉宿のために描いたもの。この宿、<雪国の宿 高半>は、今でもある。

《紅白梅》(真野満)
 安田靫彦門下の日本画家。川の淀みの水面に映る月が金色で描かれており、銀色の
水面に枝を伸ばす紅梅、白梅が描かれている。シュールなタッチで、ジョン・エバレット・ ミレーの「オフィーリア」の絵(ロンドン、テート・ギャラリー)を連想させる。とくに強く印象 に残った。梅原猛の書いた『湖の伝説』は、夭折した画 家三橋節子の生涯を書いているが、その中でも詳説を極めた『花折峠』をも思い起こさせる。この絵に、真野は何か特別な想いがあったのではないか。

《ひさかたの天より》(伊藤彬)
 天平の梅花のあるじ、大伴旅人が詠んだ万葉歌に取材し、花散る梅に、天から舞い
散る雪と重ねて表現した。幻想的な絵であるが、その奥行きの深さに魅力を感じる。

   ” 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも”


さらに、今回の展のために書かれた新作三点は素晴らしい出来映えのものである。いずれも奈良県立万葉文化館の「万葉日本画」の制作に携わった人たちである。

《老梅》(川島睦郎)
 白梅の幹や枝が、画面の背景の中に溶け込んだかのように描かれ、そこに白梅が
ある。背景は、香色(こういろ)とも海松色(みる色)とも。老梅のもつ生命力が現
われたかとも思える程、幻想的な絵だ。老梅の生命力といえば、虚子の句「老梅の穢き(きたなき)迄に花お多し」があるが、それとも共通するものがあるようだ。

《梅につゆ》(竹内浩一)
 点描の淡い色調。細長い画面に枝をからめあう白梅と、日溜まりに背をまるめた猫の後ろ姿。つゆのおりた朝の空気を感じさせる。

《春の宵》(山下保子)
 山下は、日展の人物画家。「万葉日本画」では、大伴家持の歌「春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ乙女」には、学生時代から思い入れがあり、それが作品に結実した。今回は、大伴家持と親好があったとされる紀少鹿女郎(きのとしかのいらつめ)の歌「ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて わが思える君」に取材したもの。おぼろ月夜に、手折った白梅の枝を抱く万葉の乙女を描く。月夜の抑えた色調に、歌にいう心まで開かせる月光の清らかさの表現がある。

 自らの歌への思い入れ、そして感動があり、それを描くからこそ魅力がある。絵の巧拙を越えて、今回最も印象に残った。


この絵画展の充実振りは、私たち日本人の、梅に寄せる思いの熱さを物語っているように感じた。この絵画展は、あと1回名古屋の松坂屋美術館で展示される。2月21日~3月6日それで終わり。東京では、開催の機会がない。

写真は、山口蓬春の「白梅」
~~~~~~~~~~~~~~~

 昨年秋に和歌山県立美術館で行われた『「森鴎外と美術」展が、そうであったように企画展(美術)は、それを企画し、プロデュースするに人物を得ると、素晴らしいものになる。今回の「梅花の宴」展は、奈良県立万葉文化館が中心となって企画されたものである。ちなみにここの館長の中西進は、万葉集の比較文学研究で博士号をとった万葉研究オーソリティである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気まぐれ日記ー春宵一刻/京の古書店・グルメ

2007-02-09 | 時評
 背中にナップザックというスタイルで京都へ行く。地下鉄東西線の河原町
御池で下りて河原町通りを南下。「蕪村」の関連の書などを探してあるく。
こういう時には、『京の古本屋』(青幻舎、03・6)という強い味方があるのだ。
三条上がるのキクオ書店は、対外交渉史が得意ジャンル。海外の眼から見た日本の姿を書いたものもある。ヒュースケンの日記を見つけた。店主は、ちかくサンフランシスコで催される古本市にいくと言う。頼んでおくと掘り出しものの洋書を見つけてくれる。

三条下がるの「大学堂」で、蕪村の評論の本を買う。蕪村の『新花摘』という本を探しているのだが、ない。大阪の古書店へゆくことを奨められた。蕪村は、大阪生まれだから、と納得す。御幸町通りの「アスタルテ」は、とても洒落たサロンのような雰囲気があり、フランス文学など幻想的なものを揃えているが、残念ながらお休みだ。

 今夜の目的地にゆく前に、一軒イタリアン・レストランを視察する。
ディボ・ディヴァ(divi-diva) 蛸薬師通りで高倉を東に入ったところであす。まえから行きたいと思っているが、日取りがなかなか合わない。そんなに高くなく、雰囲気はカジュアル、料理のメニューもあれこれ工夫されている。ウエイターの対応もよく、本番が楽しみだ。いい食材をあつめているようだ。


 錦小路を西に抜けた高島屋の裏手にある隠れ家的な小料理屋で今夜の宴。夫婦二人だけやっているカウンターの小さな店だが、食材と亭主が歩き回ってあつめる日本酒へのこだわりが、ひそかなファンを集めている。そこでNY帰りのレディーと親しい友人K氏と三人で歓談する。今夜のメニューは、

 聖護院大根の煮付け、うどの金平
 お造りは、天草のあじと淡路の鰈など
 蓮根饅頭、氷魚(鮎の稚魚)の酢の物、公魚の南蛮漬け
 明石のかますご(こうなご)の三杯酢、
 まて麺

これらをバイプレイヤーとして、酒は、秋田市内だけでしか販売しない蔵人の<絆>
(美郷錦仕込み 栗林酒造)と、備中宇敷の<符羅芭>(あいがも農法のお米でつくった酒、さっぱりとしたシャルドネのような酒だ)

レディーは、友人の結婚式に出るためニューヨークから、インドに飛び、日本に立ち寄ったばかり。コロンビア大学出の才媛で、とても行動的だ。若い日本の男子よ、奮起せよ。話は、インドのこと、懐かしいビッグアップル(NY)のこと、ボストン西方のタングルウッドでの音楽祭のこと、米大統領選挙の見通しなどなどに及んで、それこそ夜は尽きず。刺激的な冬の一日であった。

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳句/読書『蕪村春秋』余滴

2007-02-07 | 時評
(その一)(その二)を書き終えてしばらくしてから、重要な点が二つほど脱落しているのに気がついた。引用を主体に書き留めておくことした。

(夏書)
 たもとして払ふ夏書(げがき)の机哉

 「あまり馴染みのない言葉だが、4月16日から7月15日までの一夏90日間、僧侶が修道のため一室に籠もり、精進修業することを「安吾」といい、夏の季語になっている。古くは宮廷にはじまり、一般仏家に及んだ、歳時記にある。そしてこの安吾の間、俗家では経文を書き写し、寺院に納める。今は写経に限らず、一般の夏季の書写、習字をいい、これを夏書(げがき)という。三ヶ月間の籠城の結果たまった机の上の埃をそっと払う娘の姿を詠んだ句である。

蕪村62歳の時に行われた夏安吾(げあんご)の5日目につくられた。一夏千句を思い立ったが、それは果たせず137句で終わっている。その37句目である。それらの事が、はっきりしているのは、この安吾中に作った句に、蕪村が散文を書き加えた『新摘花』という本が残って「いるからである。

亡くなった母への思いに加え、様々な人物が登場し、多彩な風景が開け、連句とはまた違った世界を読むものに見せてくれる。ことに、牡丹、鮨、五月雨などの連作などはまさに圧巻であるといえる。この千句が完成していたら、文字で綴った一大交響曲にたとえられるものになっただろう。」

 夏百日(げひゃくにち)墨もゆがまぬ心かな


 この高橋治の文を読んで、ぜひ『新花摘』を読んで見たいと思った。『蕪村全集』には、どうやら入っているようだ。


(寒梅)広角レンズ的な視点

 「日本の浮世絵がフランスの画家達に衝撃を与え、印象派、後期印象派と呼ばれる
人々の作品に無視しがたい影響を残した。これは歴史的事実だ。私も画材、構図、色彩など明らかに眼に見えるものから、このジャポニズムと呼ばれるものを理解してきていた。だがつい最近、唸るようなものに出合ってしまった。パリのロダン美術館が所蔵するゴッホの『タンギーの肖像』なのである。むろんこの絵を見たのは、初めてではない。それにしては、と自分の眼を疑うほど、今回は新鮮にみえたのだ、「28ミリレンズ」と思わず呟いていた。広角レンズである。ゴッホの眼が広角レンズの役割を果たしているために、タンギーが腰の前に組んだ手がぐっと見るものに迫ってきて、上体と顔が後ろにひく。恐怖を覚えるほどの立体感なのだ。

蕪村の絵には、これぞ広角レンズと思えるものは少ない。しかし俳句の方にはいくらでもそういう例はある。私が絵画的であるというより映像的だとするのは、こうしたレンズの使い分けが句に用いられているからに他ならない。

  寒梅やほくちにうつる二三輪

 ほくちは火口、火打ち石で切った火花を移しとるものである。ただ、台所や家の中で使い、滅多に庭に持ち出したりはしない。この句も日常的な使い方の中で、一瞬の火に寒梅の咲くのが見えたというもので、火口と梅の間には距離がある。広角効果なのだ。あるいは梅を包む闇が主題か。闇なら闇で距離感は深まる。

  寒梅や奈良の墨屋があるじ顔

 二句とも構図が平板ではない。墨屋の句も、主人の自慢げな顔、その奥に梅の咲く家が見えると、縦の構図を頭に描いて読まないと句の面白みが薄れる。」


            ~~~~~~~~~~~~~

 ますます蕪村を突っ込んで見たくなった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする