(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『贅沢な読書』

2007-10-27 | 時評
贅沢な読書』(福田和也 ちくま文庫 06年9月)

 この本は、読書論でもなければ、ブックガイドでもない。「読書は享楽であり、この世に二つとないというほどの快楽だ」という著者が、その楽しみかたについて語った本である。文字どおり贅沢な本である。全5章のうち、第3章までにとりあげた本は、わずかに3冊。ヘミングウェの「移動祝祭日」、漱石の「明暗」そしてゲーテの「イタリア紀行」 それぞれに60頁から40頁を割いて、その味わい方にうんちくを傾ける。200頁余の、さほど分厚くない文庫本だが、その中身は密度の濃いものである。

 「ヨーロッパへの航空機、食事が一段落した後にポートワインを舐めながらヘンリー・ジェイムスを読む楽しみから、夏の午後に陽光の下で佐藤春夫の詩についいて論じあう楽しみまで。かっちりした文学論から、スノッブな愉悦まで、人生の楽しみの大半を、書物とともに過ごすすべをお教えましょう」

 本論に入る前に、福田先生の人柄についてのエピソードをひとつ。落語家の立川談春との交友である。なにが、どうなったのかは知らないが、福田和也が談春にラブコールを送り、以来の交友である.文化や芸術とは、どうも関係のないものらしい。福田は、豚肉をこよなく愛し、日に四食、とんかつにつきあわされたことがあるという。談春は、云う。
「かくして相思相愛の評論家と落語家は今日もとんかつを求め、夜の町を連れだって歩くのだ」
 
 さて「祝祭移動日」では、日々のなにげない、単純な暮らしの中の充実感についてヘミングウエイがどのように書いているかを、中心にその文の魅力について語られている。本文からの引用を中心に紹介することにする。

          ~~~~~~~~~~

 ヘミングウエイの魅力は、比喩の卓抜さにあると、掌編の一つ「サンミシェル広場の良いカフェ」の一文から、福田は書き出している。

 ”一人の女がカフェに入ってきて、窓近くのテーブルに腰をおろした。とてもきれいな女で、新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔をしていた。雨ですがすがしく洗われた皮膚で、なめらかな肌の貨幣を鋳造できればの話だが。それに彼女の髪は黒く、カラスの濡れ羽色で、ほおのところで鋭く、斜めにカットしてあった。(「サンミシェル広場の良いカフェ」)”

「「祝祭移動日」は、ヘミングウエイの若き日、パリでの修行時代を最晩年に書き留めた印象記です。それにしても「新しく鋳造した貨幣みたいに」という形容は素晴らしい。顔の輪郭が、あたかも金属質の音を立ててでもいるかのような、鮮明さと輝きを喚起しています。・・

「(パリで暖房も十分ではない質素なアパルトマンで貧しい生活をしていた)ヘミングウエイは、ある冬の雨の日に、街の中心部にむけて、勇壮に歩いて行きます。カルチェ・ラタンから急坂を上り、パンテオンの丘で強い風に吹かれながらついにサンミシェル広場のカフェにたどり着きます。そのカフェは、以前から知っていたのですが、とても暖かく、清潔で気持ちがよいのです」

(この書き出しの文の持つ意味を、福田は、解きほぐしてゆく)「ホテル近くの悲しみともに降る冷雨ではなく、「すがすがしく」皮膚を洗う雨になっいる。この転換の中で、冷たく縮こまり、不景気な匂いの立ちこめた世界から、雨中を突破して素晴らしいカフェに到達した、その高揚の中にこそ、彼女の新鮮さは炸裂するのです。・・・」

「冷えた状態から生気を取り戻した心に、「新しく鋳造した貨幣」のような彼女の美しさ、新鮮さがしみ通っていきます。体が温まり、小説はうまく書け、美しい女性と邂逅をする。その高揚は、ただ気分がよくなると言うだけのものではない。一瞬にして膨れあがって、ある種の全能感にまで達してしまう。」
出会った・・・・

「ついに若き作家は短編を書き終えます。気がつくと、かの美しい女性は、待ち人が来たのかいつの間にかいなくなっています」

 ”私は物語を書き終えたノートブックを閉じ、それを内ポケットにいれた。で、ポルチュゲーズ牡蠣を一ダースと、その店にある辛口の白葡萄酒を水差し半分もってくるよう、ウエイターに頼んだ。物語を書いたあとは、まるで愛の行為をしたときのように、いつも空虚な感じがし、悲しいような楽しいような気持ちになるのだった。そしてこれがとても良い物語だということを確信した。どのくらい良いものかは、その次の日にそれを読み返すまでは、ほんとうにわからないだろうが。
 牡蠣は強い海のにおいとかすかな金属の味がした。冷たい白ぶどう酒はそれを洗い流して、あとにただ海の味と汁気を残した。私は、その牡蠣を食べ、一つ一つの貝がらから冷たい汁を飲み、さわやかな味のぶどう酒で、それを流し込んだ。そうしていると、空虚な感じが消え、楽しくなって、これからの計画を立て始めた。”

「「その牡蠣を食べ、一つ一つの貝がらから冷たい汁を飲み、さわやかな味のぶどう酒でそれを流し込んだ」という文章は、まさしく非常にシンプルなもので、食卓での行為を一つづつ記していいっただけなのに、その単純さが、いわば神秘的な重みを持って迫ってくるのは、なぜでしょうか。そこには、日常の反復の中で、埋没し、意識されなくなった行為を改めてひとつひとつ、新鮮なものとして認識する緊張度の高い意識が、まずあります。さらに、これがヘミングウエイの持ち味なのですが、かくて再発見された現実を、派手な形容や感嘆符で飾ることをしないで、印象的なことであるからこそ、むしろなるべくシンプルに書くのです。

 「ヘミングウエイの作品は沢山あります。「武器よさらば」、「日はまた昇る」から。「老人と海」まで誰もが知っている作品だけでも、両手の指に余るほどの作品がある。その中で、「移動祝祭日」を読んで頂きたいのは、この作品が彼の生涯の最後を飾る記念すべき作品であるからとか、散文の名手としての技巧のすべてが注がれているからではありません。この作品に漲っている幸福感、充実感を味わって欲しいからです、同時にその充実が何を引き替えにしなければ得られないか、と云うことも。ここには、文学の魅力の、そのもっともわかりやすい、顕かな姿があるのです」

おなじ掌編「セーヌの人びと」では、セーヌ河畔に日がな座って本を読み、釣り人を眺める、という文に関連して、次のように語っている。

 「ワインとフランスパンを買い、日向に座る。一冊の本を読み、釣り人たちを眺めている。それは全くシンプルで、シンプルであろうとつとめることが、余計なものもなければ厄介さや不安もない。手応えのある時間と味わいを約束してくれる過ごしかたにほかなりません。」

 「けれどもこの充実感は、いともたやすく手にはいるようでいて、実はとても貴重なものなのです。「移動祝祭日」を書いた時の、ヘミングウエイは、そのことを何よりも強くかみしめていたに違いありません。あるいはこういってもいいのです。その貴重かつ単純なものを再び呼び覚ますためにこそ、ヘミングウエイはこの本を書いたのだといってもいい。一本の酒と本を共に日がな釣り人を眺めている。その時間を充実として楽しむためには、なにより内心の充実が、ある種の確信と旺盛な感受性が必要なのです」
     
 さらに福田は、ヘミングウエイが、この小説を書いた当時の状況や当時のパリなどの時代背景などに及んで、ヘミングウエイ自身にとっての意義をつぎのように受け止めている。

 「移動祝祭日は、この暗澹とした生涯から、かっての単純な生活を呼び起こし、取り戻すために書かれた、ヘミングウエイにとって復活の祈りのような書物なのです」

 わずか200頁弱の短い小説に、福田はえんえん30頁にわたる「移動祝祭日」論を展開する。しかし、それは決して退屈なものでもなく、むしろヘミングウエイの人となりや生涯を理解することにもつながり、楽しいものであった。


       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 第3章<旅行のための本選び>では、ゲーテの「イタリア紀行」が取り上げられている。海外に行くときは、それが観光であれ、仕事であれ、その土地に関わりのある本を持ってゆき、それを読みながら行く方がずっと楽しい、というのが福田の論である。そしてイタリアに行くなら、まず携えるべきは、ゲーテの「イタリア紀行」という。

 「ゲーテで一番好きな本は何かと訪ねられましたら、私は迷うことなくイタリア紀行を挙げるでしょう。この書物には、イタリアという土地の魅力だけでなく、、この大詩人にして、大作家であるばかりでなく、政治に科学に八面六臂の活躍ををした巨大で懐の深い精神の、躍動するさまが、手にとるように書かれています。このゲルマンの巨匠が、憧れの土地、オレンジや檸檬が木の枝をかしげる南の国にふれて、いかに心ふるわせ、その認識と思考に生命を再び吹き込み、活力を取り戻す、はつらつとした輝きに溢れているか。イタリアに行くときだけでなく、気持ちのふたぐ時ー私のような野放図な人間にも、そういう時があるのですーに、この本を読むと、なんだか救われた様な気分になる。それというのも、本書自体が、ゲーテにとって再生の書、もう一度、生命と詩情を獲得する旅の覚え書きであるからでしょう」

 福田は、この「イタリア紀行」の旅を、古都ヴェローナ、ヴェネツイア、ナポリ、パレルモ、と次々にゲーテが訪れ、2年にわたって滞在するに至ったイタリアの魅力について語っている。そして自分がイタリア滞在時にヴェローナを訪れた時の事を回想し、スクロヴェニー礼拝堂の壁画のことからダンテの「神曲」との出逢いについて語る。

詳しいことは割愛するが、この章も読んでいて楽しく、またなかなか流麗な文である。イタリアの魅力に引きずりこまれそうになる。ちなみにゲーテが、イタリアへ旅だったのは、1786年9月、ゲーテ37才を目前にした時である。その文が、いまもなお紀行文として光彩を放っているのには驚く。そこから約200年、辻邦生も、その著書「美しい夏の行方ーイタリア、シチリアの旅」で、”イタリアが最大限の幸福をぼくに贈ってくれた・・”と書いている。私は、この本も大好きだ。いつか、イタリアを旅することになったら、これらの本を携えて行きたい。

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 これらの他にも、《読みたい古典》として芭蕉の「笈の小文」や「伊勢物語」、
そして《ほろ酔い本》の章では、江戸の頃の面白いエピソードを紹介した森銑三の「伝記文学 初雁」などが出てくる。読書好きには、応えられない本である。
 



 
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読書『17音の交響曲』(黛まどか)

2007-10-21 | 時評
読書『17音のシンフォニー』(黛まどか 東京書籍 2005年2月)

 ”うしろからふいに目隠しされて秋”

こんな句を詠む黛まどかという人は、どんな人なのだろうかとかねがね思っていた。NHKの「奥の細道をあるく」などいろいろな番組などで、ちらりと句を見たことはあっても、その人となりの全体像を見たことがなかった。そんな時、書店でこの本にであい、洒落たタイトルに惹かれて読んでみた。まだ彼女の俳句を、ほとんど知らぬままに。

「風のように」と題された前半では、俳句の世界に入っていった経緯や、これまでの伝統的な俳句にとらわれず新しい道を独力で、切り開いてきた道筋が語られる。その勇気と行動力には、賛嘆の念を禁じ得ない。俳人としてというより、一人の人間として興味深いものがある。  働いていたいた銀行を退職しテレビの仕事に拘わっていたころ旅番組で杉田久女の足跡を追うことになり、英彦山(ひこさん)を訪ねる。そこで、久女の句にふれる。   

 谺して山ほととぎすほしいまま  

”頂上へと向かう険しく激しい道を歩いてゆくうちに、好きな俳句に邁進できない葛藤を詠った久女を思い、歩みを進める私自身も、やがて無心になって行くのを感じました。そしてそんな私の頭の中に、俳句とはとても思えないものですが、言葉の断片が浮かんでいったのです。やがて経験をきっかけに自分でも句をつくるようになりました”  

俳句は、座の文芸なのでどこか結社に入らねばと、角川源義がおこした「河」に入った。そこでは”ランチセットのアイドルはプチトマト”など、俳句らしからぬ句を詠む。上掲の句(”うしろから・・”)では、あからさまに否定すらされた。そして無難なものをつくっていても道は開けないと、自分を信じて格闘するうちに、5年目にして角川俳句奨励賞を獲得した。  

 ”旅終えてよりB面の夏休”

伝統的な句もいいが、このような斬新な切り口の句も悪くないな、と私は共感する。 黛は、取材にくる同世代の女性編集者らと語らって「東京ヘップバーン」という結社を立ち上げた。そこから月刊ヘップバーンが出されることになるが、俳句の結社が一千ちかくあるうちで 唯一横書きの俳詩である。  

注)2006年3月をもって、この雑誌は終刊となった。以降、活動はネッ「俳句座 ☆シーズンズ 」に引き継がれている。なおヘップバーンの活動には、伝統俳句界もふくめ、いろんな見方があるようだ。頭の固い連中には、理解せよといっても無理でしょうなあ。しかし、すくなくとも若い女性の層を広げたのではありませんか。むしろ、現在の結社の俳句の大半こそ、なんの面白みも感動も覚えない。  

パウロ・コエーリョの本『星の巡礼』を読んで、1000年前から続く巡礼路を歩いてみたいと思った黛は、すべての仕事をやめ、スペインに向かう。800キロになんなんとするみ道を、現代の芭蕉よろしく、リュック一つで48日間歩き通した。途中で知り合ったイギリスの映画監督のサンティアゴを描いた映画に出演したりもした。  

”巡礼の日々はあまりにも平凡でした。朝早くおき、ひたすら歩いて次の街へ着く。足の疲れを癒し・・・ そこにドラマティックなことは、何もないけれど、そういうことすべて、その瞬間瞬間のすべてがドラマなのかも知れない。日常に重ね合わせてみれば、家族とご飯を食べたり、掃除をしたり、電車に乗ったり、嫌だと思いながら仕事に向かったり、そんな平凡な瞬間こそが奇跡であり最大なドラマなのだと思ったりもするのです。・・・”  

2001年には韓国のことを知りたいと、釜山からソウルまで、四季にあわせて四回に分けて歩く。教科書問題や小泉首相の靖国参拝で国際的な論争のさなかに。思ったことを、やり通す強さのようなものを感じる女性だ。

本の後半(17音の宇宙)では、浅野史郎・加藤秀樹・千玄室・中西進・坂東三五郎・田中優子・藤原正彦・パウロコエーリヨなどと対談する。その詳細を紹介することは、控えるが、なかなか楽しい対談であるそれを読んでいると、皆に愛される彼女の人柄を感じる。 どうも、俳句だけの小さな世界に留まっている人ではないようだ。


 文芸評論家の中西進(京都市立芸術大学学長)との「白鳥幻想」と題する対談では、ヤマトタケルを巡る女性たちに関連して興味深い話が次々でてくる。黛は、ヤマトタケルにゆかりのある場所を訪ねている  

 ”箱根の方の碓氷峠では、やっと探し当てた碑のい脇に撫子が一輪だけ咲いていた。宮簀姫が晩年を過ごしたと云われる火上の森では、一匹の蝶が私のすぐ目のまえに導くように現れ、愛誦している「伝言のあるごとよぎる秋の蝶」(成田郁子)が思い出されました”(黛)  
 ”蝶というのは、魂の化身といわれますね”(中西)
 ”ある郷土史の方に「あなたがヤマトタケルを訪ねて歩くことになったのは、古くから脈々と受け継がれてきた遺伝子の中の何かが発動しているから」といわれました”

数学者の藤原正彦との対談では、藤原が、数学者の岡潔が、芭蕉門の俳諧と道元の正法眼蔵を徹底的に研究したエピソードを語る。そうです、12人もいると、次から次に面白い話が出てくるのです。そして、これだけ幅広い分野の話題にしっかりついてゆけるのも素晴らしい。

おかげで退屈せず、一気に読み通しました。 
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気まぐれ日記/「風のレストラン マッカリーナ」での一夜

2007-10-15 | 時評
 札幌を南下して千歳から西へ。支笏湖を過ぎ、さらに西へ。2時間半ほど車を走らせると、標高1898メートルの羊蹄山(蝦夷富士)の優雅な姿が見えてくる。その南の麓に真狩村(まっかりむら)がある。人口2500人ほどの農村地帯である。洞爺湖とニセコの二大観光地にはさまれた、のどかな田園が広がっている。1997年6月、レストラン・マッカリーナは、この地に忽然と出現した。

私が、この名前を知ったのも10年前。当時、SINRA(シンラ)という日本各地の自然を紹介する雑誌があり、その記事を見ていつか行ってみたいと思うようになった。
今回、ニドムでの滞在を予定していたが、運良く宿泊の予約がとれたので、予定を変更し、足を運んだ次第である。そう、ここはレストランと同時に、宿泊もできるオーベルジュである。地の食材をふんだん活用したフレンチ料理を味わい、また降るような星空を楽しんで一夜も過ごしたマッカリーナには、トータルで深い満足を覚えた。そして、第三セクターとしてのオープニングに至る経緯を聞き及んで、さらに感動を覚えたので、ご紹介することにした。第三セクターとは、とても信じられない。



      ~~~~~~~~~~~


 ”札幌のような都会では、空がこんなにも広く高く感じられることないなあ。それに、この風は、なんて気持ちがいいだろう。・・・こんなところに調理師学校なんか開けた らいいな、・・・”

今から14~5年も前の夏真狩村を訪れていた札幌のレストラン「モリエール」のオーナーシェフシェフ中道博は、こうつぶやいていた。中道は、良質の飲み水を求めて、毎週この真狩村に通い、羊蹄山からわき出た伏流水を汲みにきていた。そのうちに、水だけでなく、この村は、新鮮で豊穣な野菜の宝庫であることを知った。たとえばここで栽培されす生アスパラの味に感動すら覚えた。そして、

 ”自然と向き合い、この野菜の生育を間近に見ながら、料理人同士が、たがいに
腕を磨きあえるような場所をつくれないか”

 と、「風のとおるレストラン」の構想をふくらませていった。一方真狩村では、過疎対策として、温泉の開設や村の特産品の販売振興に懸命の努力を傾けていた。両者にクロスエンカウンターとでもいうべき、出会いがあって、この計画は実現に向けて動き出した。
しかし小さな農村での総事業費3億2000万円弱という規模の計画は容易な事ではない。そこには、何人もの人のつながり、結びつきがあった。村の食材振興のため、走り回っていた村の商工会の島口勝、振興課長の浦城義章、村の活性化に熱心に取り組んでいた八田村長。八田は、「観光振興に使われる食材の量などたかが知れている。でも、感動のある料理を食べさせるレストランとして注目されれば、その食材となる農産物が脚光を浴び、真狩村を大いにアピールして消費拡大にもつながるはずだ」と考えた。なんでもない農村風景の中にあるオーベルジュのようなものが、頭の中に浮かんだ。

 しかし構想だけでは、話は進まない。営業が本当に成り立ってゆくだろうかと、戸惑う中道の背中を押した人間がいる。一人は、ステレオサウンドという雑誌社を経営し、自他共に認める食通の原田勲。原田に、「札幌に行くなら、是非モリエールに寄ってみるように」とすすめたのは、神戸の伝説のレストラン「ジャンムーラン」のオーナー・シェフ美木剛である。

 注)「ジャンムーラン」は、神戸の北野町の異人館にあり、美木は若き料理人の尊敬の的であった。素晴らしい店だったなあ!残念ながら美木は数年前に引退し、いまや伝説と化した。

原田は、逡巡する中道に、「人にはターニングポイントというものがあるのだと思う。今、あんたはそのポイントにあるのだと思う」と励まし、さらに日本を代表するグラフィック・デザイナーの田中一光の紹介の労までとった。「専門料理」という雑誌をだしていた齋藤濤も、美木から中道のことを聞かされていた。実際に中道にあい、その情熱の動かされて真狩村まで足をのばした。この齋藤も雑誌「料理王国」のアートディレクションを田中に依頼していて親しい関係にあり、その協力を要請した。総合プロデュースを田中が、プランニングと行政との折衝を都市計画や地域づくりのプランナーの東村有三が・・・。次第に人が集まり、プロジェクトチームが動き出した。1995年6月、中道の構想をもとにした基本計画書が村側に提案された。「フランス料理が、なぜ村の活性化につながるのか」という、素朴な疑問が村会側にあり、その後の紆余曲折を経ることになるがここでは、、省く。ともあれ、計画がうまく運んだ要因の一つは、行政が、先に運営する人を決めて任せたところにある。こんな事例は、ほとんど聞いた事がない。しかも役所の人間も入っていない。地域活性化のコンサルティング事業に、多少なりとも拘わったことがある私には、この関係者の苦労は痛いほど、よく分かる。


 そして平成9年(1997年)6月、オープニングにこぎ着けた。はるばる道外から押し寄せて招待客の中に、世界の三大ソプラノ歌手として知られたカーティア・リッチャレッリ嬢がいた。当然、中道は一曲でもいいから歌って欲しいと願い出た。それに対し彼女は、もし中道シェフの料理が、この上もなくおいしければ、という条件を出した。もちろんリッチャレッリ嬢は、彼の料理を心ゆくまで堪能し、とうとう三曲も披露した。コンサートも開催できるように音響効果も計算しつくされているホールで、彼女のドラマティックなな歌唱力、表現力に圧倒され、ホールは陶酔の坩堝と化したと伝えられている。
さらに彼女は、予定を変更して、その夜は、マッカリーナに宿泊した。

     ~~~~~~~~~~~~


(裏の声・・おいおい、そんな話はもうい加減にして、どんな料理を食わせるのか、はやく聞かせろよ・・・はい、はいかしこりました。)
 
 
(その夜のメニュー)まずは、ヴーブ・クリコのシャンパンで乾杯。つづくワインは、シャトー・パヴェイユのマルゴー(2001年)。すこし若いが、繊細な赤だ。前菜は、仔牛の胸腺(リド・ボー)を豆乳のクリームソースであえたもの、キングサーモンのゼリー寄せ、ホタテ貝などの盛り合わせ。生野菜もたっぷりで、盛りつけも芸術品だ。ついで、シェフ自ら栽培している白菜のを蒸したもにに、ホワイトソース。レモンも入っているようだ。裏ごしを繰り返し、舌触りもなめらかなパンプキンスープ。パルマ産ハムと柿のスライス。(プロシュート・エ・パルシモン?) 生ハムとイチジクの組み合わせも、いいが、熟した柿との組み合わせは絶妙である。

帆立貝のローストにつづいて、メインは和牛のシチュウ、ヒラメのソテー。いずれもポロ葱添え。デザートは、チョコレートムースにエスプレッソのソースをかけた物。、洋梨のコンポート。ハーブティー。最後に、添えられたのは、地元の高校生が栽培した食用のほほずきに、下半分シュガーコーティングしたもの。酸味と甘みが混ざって、楽しいアンサンブルを奏でる。

 花と蝋燭をおいたテーブルセッティング、料理を出すタイミング、などなどソフトの面もほぼ完璧。居合わせ客も、異口同音に”おいしいね”を連発した。雰囲気、プライス、サービスマナーなどなど総合して、こんなに素晴らしいダイニングは、滅多にない。支配人の橋本貴雄は、メートル・ド・テルも兼ねていて、料理のサーブはもちろん、ワインセレクションの相談にもあずかり、笑顔をふりまきながら、話をそらさない。その人柄にひかれ、いろんな話も聞かせてもらった。


 ”今年もあの樹の葉っぱが散ってゆくなとか、新芽が出てきたなとか、自然に任せてのび放題なんだけど、でも『あっ、生きているんだ!』と感じられるんですよ。だから、ここ真狩には、大地の魂ってものがあるような気がします”


 ガラス越しに背後のオープンキッチンをのぞき、朝は、前面の雑木林の中の小鳥
の姿をみる。光と風のレストランである。
宿泊棟は、わずか4室。豪華ではないが、清潔で快適な部屋である。備え付けの
アメニティの質の高さにも、そのセンスの良さを読みとることができる。おまけに、食前酒やワインやウイスキーなど飲み物自由のラウンジまである。
夜、外に出ると満点の星、北をむくと黒々と蝦夷富士が存在を誇示していた。 
 
    ~~~~~~~~~~~~~~~~

私のつたない文では、紹介しきれないところがあります。マッカリーナのサイトをご覧ください。

 →http://www.maccarina.co.jp/


なお、この文を書くにあたり、立ち上がりの経緯については、笠井一子さんの素敵なレポート『北海道の食彩<マッカリーナ物語』(草思社)に依らせて頂きました。


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読書『パール判事』(余滴)

2007-10-06 | 時評
すこし前に読んだアイルランドのミステリー『蜘蛛の巣』では、古代アイルランドの法律(プレホン法)について紹介されているが、現実社会にしっかりと根ざした法律であったようだ。その最終章にこんな一文がある。主人公フィデルマ(法廷弁護士)のことばである。

 ”私どもの法律は、神聖なものであることを、我々を罰するため、そして守るために、何世紀にもわたる人間の叡智と経験がうみだした結果なのだということを、
ガドラにも分かってもらいたかったのですけど・・・・”

どうも、パールの法に対する考え方と似ているような気がする。さて、そのパールは、どんな人物であったのだろうか。この著作で、中島は丹念に、そのことを追っている。

(パールの人となり)

18世紀以降、イギリス政府は、植民地支配するにあたり、インドの社会構造を把握すべく、優秀なオリエント学者をカルカッタに派遣してインド研究に従事させた。そのため、この街はインド学の中心的な拠点となり、多くの優れたインド人エリートも輩出した。
アジア人として、はじめてノーベル文学賞を受賞したラビンドラード・タゴールや、20世紀初頭には、近代インドを代表する宗教思想家オーロビンド・ゴーシュや若き指導者チャンドラ・ボースなどなどを輩出した。ベンガル地方の貧しい家に生まれたパールは、カルカッタで学び、カルカッタ大学で数学の修士号を取得した。(この頃日露戦争で日本が勝利し、毎日ラジオのニュースにかじりついたいたという)彼は、いったん、インド北部の都市アラハバード(ネルーの出身地)で数学教授につきながらも、法律の勉強をつづけ、とうとうカルカッタ大学から法学の学位を得て教授の地位についた。パールの専門は、古代ヒンドゥー法である。そしてサンスクリット古典籍を研究した。それは、インド社会の近代化を促進すべく、インドの伝統を尊重する立場をとったからである。

パールは、本書でも繰り返し、「制度」や「法の歴史性を強調する。彼は世界各地の法制度を「長年にわたる経験の蓄積の表現」とみた。パールにとって、「法」とは設計主義的に構築されるものではなく、歴史的に受け継がれてきた文明的英知であり、宗教的価値を内包させる存在論そのものであった。

 ”法は論理によって構成されるものではない”

パールはヒンドゥ法の歴史研究をすすめ、そこから為政者は、あくまで「法」を適正に遂行する存在で、それを創造する主体であってはならなかった。そしてパールは、このような法の根源が、西洋における産業革命以降、功利主義の拡散によって犯され、見失われつつあることに警鐘を鳴らしたのである。

1930年代初頭はガンディーの「塩の行進」などがあり、インド独立運動が最高潮に達した。パールは、このようなガンディーの思想や運動に共鳴し、熱烈な信奉者であった。


(戦争責任と靖国問題)
「パール判決書」のとおり、A級戦犯は「法的」に無罪であるとして、それで一体
道義的責任はどう考えればいいのだろうか?

アジア太平洋戦争に限っても、日本の戦死者は300万、日本以外のアジア諸国の犠牲者数は2000万人といわれている。ここでそれを詳述することは、目的ではない。代わりに二つの文を紹介してそれに換えたい。

《アンティゴネーの悲劇》
もう10年近くまえに江藤淳の『月に一度』という本を読んだことがある。その中に「アンティゴネーの決意」という一節がある。「アンティゴネー」というのは、ソポクレス(ソフォクレス)の書いたギリシャの悲劇である。この物語は、国禁に背いて戦死した兄の屍を手厚く葬り、その罪で石牢に生き埋めにされ、自ら命を絶ったテーバイの王女アンティゴネーの悲劇である。国禁というのは、オイディプス王の二人の息子のうち、兄のポリュネイケースが、奪われた王位を取り戻そうとテーバイの門に攻め寄せて、兄弟は差し違えて死ぬ。テーバイの王位を継いだ叔父のクレオーン王は、テーバイを守り抜いた弟のエテクレーオスを最高の礼を以て葬るが、不義に与したのポリュネイケースは遺体を野ざらしにして、禿鷹のついばむままにせよと厳命した。国禁の絶対をとくクレオーンに対して、アンティゴネーは昂然という。

”そんな禁令は神の思し召しではありません。冥界の神々ととものある正義は、
そんな法は認めていません。あなたの勅令には、どこにも記されず、変えられもしない神々の法を無効にする力などありません。あなたは、只の人間で、禁令は昨日今日のものですもの。神々の法は、永遠で、人間にはその起原すら確  かめられないのです”

ここで、江藤がいうのは、「義戦か否かに拘わらず、戦死者は手厚く葬らねばならず、いかなる国法といえどもこれを妨げることはできない」ということである。江藤は、平成2年4月の「愛媛県玉串訴訟」(靖国春季大祭への費用支出問題)を意識して書いている。これを読んだ時は、なるほどと感じ入った。しかし、よく考えてみると、個々人の問題と国家間の問題を同一に論ずることはできない。江藤のいろんな著作を読むと、文芸評論などは、うなずけるものがあるが、経済・外交・政治などの論議になるとやや直情径行というかラフな思考論理が気になるところだ。

この事に関し、『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005年4月)では高橋哲也は、次のように言っている。

”どんな死者でもや遺族や友人には哀悼する権利がある、と私は思います。ちょうど古代ギリシャのアンティゴネーが、死を賭して禁令をやぶり、野ざらしにされた兄の遺体を埋蔵することによって、「人間の法」に「神々の法」を対置させたように”

”けれども、そのような弔いによって戦争責任が曖昧にされてはならないのです。実際の「父」であってもそれが、問われることはあり得ます”

として、コスタ・ガブラス監督の映画「ミュージック・ボックス」のエピソードを
紹介している。自分の父が、ハンガリーでユダヤ虐殺に関与した嫌疑をかけられた
女性弁護士が、愛する父の弁護をを買って出て、無罪を勝ち取る。ところが、一転父の秘密を知ってしまい、苦悩の中で父を告発するという映画である。

”生きた実際の父でさえ、そういう事がありうるのです。まして、侵略戦争によって加害者になった「自国の」の死者たちを、戦争責任の判断も曖昧にしたまま、「自国』の死者だからと言ってともかく先に、まとめて弔えなどということはできないはずです”

 
 私も、この言葉に共感を覚えるものである。
 

《石橋湛山の言葉》

 リベラリスト石橋湛山(たんざん)が、敗戦直後の1945年10月に、自らが主宰する『東洋経済新報」の社論で、靖国神社の廃止を提言した。60年余をすぎた今日でもその説得力はは失われていない。

”靖国神社はいうまでもなく、明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、・・・・しかし今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も果たして将来これまでの如き儀礼を尽くして営みうるや否や、疑わざるを得ざるに至った。ことに大東亜戦争の戦没将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功をたたえることは、我が国の国際的立場において許されるべきや否や。

”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つであろう。ただ屈辱と怨 恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」いま日本国民が必要とする のは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”

戦争責任についても言う。

”この戦争は国民全体の責任である。しかしまた世にすでに議論の存するごとく、国民等しく罪ありとするも、その中には自ずから軽重の差がなければなら  ぬ。少なくとも満州事変以来 軍官民の指導的責任の立場に居ったものは、その内心がどうあったにしても重罪人たることを免れ得ない。しかるにそれらのものが、以前政府の重要な地位を占めあるいは官民中に指導者顔をして平然たるごと きは仮に連合国の干渉なきも、許し難い・・・”



また戦争責任の継承性ということについても、一言を。若い世代に中には、そんな昔のことを言われても困るということもあろう。1995年に、高市早苗議員(現・自民党)が、”身に覚えのないことで責任をとれなんて抑圧的だ、暴力だ”と発言したとか。戦争当事者でもないにに、反省できない・・・。感覚的には、分からないでもない。しかし、『戦後責任論』の著者、高橋哲哉は、直接戦争を知らない若い世代の戦争責任にも言及して、戦後責任は現実には、今日まで持ち越されてしまっている。(たとえば、生物兵器で人体実験を行った731部隊問題、慰安問題などなど) さらに国家として責任が継承されており、日本国民の一員であることを法的にやめない限り、「おれには関係ない」ということには、ならないのである。

 日本の死者300万をふくめた国内の責任問題にとどまらず、2000万人の犠牲を払わせたアジアの人々にたいする責任は、今も私たちの肩の上にある。付け加えれば、天皇の責任を顕在化させず、アジアの国の被害の問題も明確には追求しなかった東京裁判のつけは、大きい。


      ~~~~~~~~~~~~


また長い文を書いて書いてしまいました。いつまでも、「きまじめなYURAGI」をお許しください。お読み頂き、ありがとうございました。
次は、お詫びの意もふくめ、恋愛小説について書いてみましょうか?
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読書『パール判事』(その2)

2007-10-02 | 時評
『パール判事』(その2)


《戦争は国際法違反か?》
 パールは、次の四つの期間に区分して議論を進める

 1.1941年の第一次大戦まで期間
 2.第一次大戦よりパリ条約調印日(1928年8月27日)までの期間
 3.パリ条約調印日より世界大戦開始までの期間
 4.第二次大戦以降の期間

 このうち第一と第二の期間に関しては、「どんな戦争も犯罪とはならなかったということは十分に明白であると思われる」とし、第三・第四の期間を本格的な検討の対象とした。ここで問題になるのはパリ条約である。パリ条約では、「国際紛争解決のために戦争に「訴えることを非とし、国家の政策の手段として戦争を放棄することを宣言している。しかし、自衛権を主権国家固有の権利とみなすことが前提なっており、また戦争が自衛戦争であるか否かの判定を当事国自身が行うことになっている。パールは、そのことにより、戦争を国際法違反とする効果を完全に消滅させてしまったと論じる。パールの見解によれば、パリ条約は戦争の行使について刑事上の責任を導入することに失敗しており、その結果国際法違反に問われた戦争は存在しない。

 さらに自衛戦争の正当性を認める以上、厳密な法概念として「侵略戦争」を定義することは難しい。そのような現状で、特定の戦争を「侵略」と断定し、その当事者たちを犯罪者として裁くことには問題がある。では、連合国は、何によって被告人たちを裁こうとしたのだろうか?  それは社会通念である。連合国は、法ではなく、国際社会上の社会通念に基づいて裁判を挙行したのである。 

この点に関し、パールは

 ”戦争の侵略的性格を、人類の通念とか一般道徳論とかにゆだねることは、法からその断定力を奪うに等しい”

と論じたのである。


(連合国の欺瞞)
さらにパールは、敗戦国だけが侵略行為を行ったとする連合国の欺瞞を明示するため、ソ連とオランダを例に挙げて痛烈な皮肉を投げかけた。そもそも、ソ連とオランダは東京裁判の訴追国であるが、両国とも日本に対して自国の側から宣戦布告し、戦争を開始した。どちらも「侵略国」である。

東京裁判時点では、国際法は侵略を犯罪とするまでには整備されておらず、いかに道義的・社会通念的に問題があろうとも、戦争の当事者を「平和に対する罪」で処刑することはできない。そして同様の論理は、西洋諸国の植民地支配にたいしても適用される。

 ”いずれにせよ、「不当な」戦争は国際法上の犯罪であるとはされなかったのである。  実際において、西洋諸国が今日東半球の諸領土において所有している権益は、すべて  右の期間中(第一次大戦以前のこと)に主として武力をもってする、暴力行為によっ  て獲得されたものであり、これらの諸戦争のうち、「正当な戦争」とみなされるべき  判断の標準に合致するものはおそらく一つもないであろう”

パールにとって、日本のアジア侵略も西洋諸国の植民地支配も、道義的・社会通念的には、間違いなく不当な行為であった。しかし、法学者という立場上彼は、それを国際法上の犯罪と認定することはできなかった。またそのようなことは文明社会のルール上、絶対にしてはならないことであった。


(共同謀議)(満州事変)
 パールは、「張作霖爆殺事件から日米開戦にいたる歴史過程には一貫した方針などなく、指導者による共同謀議など存在しなかった」としている。
 
 満州事変の発端となった柳条湖事件は、関東軍の将校が引き起こした陰謀かもしれないが、その一派と戦犯容疑者との関係は明白でなく、共同謀議によって引き起こされたとは考えがたいと、パールは主張した。しかしながら、パールは、関東軍の行為を非難すべきものと断定した。

パールはここから一歩踏み込み、当時の西洋諸国が国際社会で展開していた政治的・軍事的行為を批判的に取り上げる。そして関東軍と西洋諸国は同じ穴の狢であり、連合国が自らの過去の行為を棚にあげて、一方的に日本を批判し、国際法上の罪に問うのはおかしい、との論を展開した。このような観点からパールは、西洋列強の行動を批判した。

(帝国主義の時代)
 そもそもパールの歴史観では、悪しき日本帝国主義を生み出した最大の要因は、西洋列強の植民地主義である。ペリー来航から不平等条約の締結に至る過程こそが、日本を帝国主義への道へ歩ませたそもそもの原因ではないか、とパールは問いかける。

  (注)この点については、(その3 余滴)で、さらに言及する。

 これ以上詳細に立ち入ることは、紙面の都合上さけるが、南京虐殺に関しては、パールは明瞭に、証拠が圧倒的であるとしている。

(勧告)
 以上のような議論を経て、パールは検察が提示した起訴内容のすべてについて「無罪」という結論をだした。しかし、これはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」であるどいうことを主張しただけで、日本の道義的責任までも無罪としたわけではない。

 パールがこの意見書で何度も繰り返したように、日本の為政者は様々な「過ち」を犯し、悪事をおこなった。またアジア各地で残虐行為を繰り返し、多大なる被害を与えた。その行為は、「鬼畜のような性格」をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。
しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の犯罪に問うことができない。「通常の戦争犯罪についても証拠不十分であり、A級戦犯容疑者に刑事的責任を負わせることはできない。

パールは、政治が、「法」の上位概念になることをきびしく批判し、その観点から
東京裁判の問題点を指摘したのである。


         ~~~~~~~~~~~~~~

以上がパール判決書のあらましであるが、中島の著作は、その後のパールの動きについても語っている。ここでは省略するが、パールは、日本の再軍備やアメリカ迎合の態度を批判し、戦後日本の動きには失望感をしめした。
またパールの判決書は、多分に誤解・悪用され、本願寺境内に建立され碑(一般戦没者を慰霊するもの)にあるパールの碑文をもって、「大東亜戦争はアジア解放の聖戦である」とする身勝手な主張まで現れた。アジアにおける責任ある地位を占めたいと思うなら、われわれひとりひとりが、パール判決書に書かれたこともふめ、正しく事態を理解しておかねばならない。、

パールは、その後国連において、国際法の法典化などで活躍した。1967年1月、カルカッタで没。

この著に関連して、私たちの戦争責任は一体どうなるのかなど、いろんな事が頭に浮かんでくる。それらのことについては、(その3 余滴)ですこしふれておきたい。
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