(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ わが町東灘

2020-05-27 | 日記・エッセイ
わが町東灘   

 私の住んでいる東灘(区)は、気候温暖にしてまことに住みやすいところである。南は眼前に茅渟の海が広がり、北には六甲の山なみが宝塚から須磨の方まで連なっている。

 ”菜の花や月は東に日は西に” (蕪村)・・・これは六甲山の一角、摩耶山から海のほうを見下ろした時の風景である。

江戸時代は、その菜の花で埋め尽くされているだけの、いわば寒村であったその菜の花を六甲山から流れてくる急流を利用して、水車による菜種絞りによって油をつくり、それが灯の火となった。そのうち、水車を利用して米の精米がはじまり、灘五郷による清酒の生産へとつながっていった。その中心が住吉村である。しかし、町といってもまだそれほど整備されてはいなかった。

 その後、明治も後半になる頃には、大阪あたりから富豪たちが続々移住してきて、いわゆる大富豪村と言われるようになった。そのきっかけをつくったが朝日新聞社(明治12年創刊)の創業者であった村山龍平である。村山は、明治33年(1900年)頃に、当時は六甲山麓の荒れ地であった御影郡家(ぐんげ)に土地を取得し、屋敷を構えた。広さは、数千坪。それまで大阪の高麗橋に住んでいた村山は、その環境のよさに目をつけた。後に一般的になる「都市部で働いて、郊外で暮らす」という考えをいち早く実践したのである。


大阪の商人たちは、あっけに取られたが、これが阪神モダニズムを下支えする郊外住宅地の先駆けとなった。商人たちも続々と村山にならって、この地に別荘や大住宅を構えた。今では、それらの邸宅跡に大きなマンションが建っているが、敷地を囲う石積みの塀が多く残っている。

     

 これより少しあとになるが、東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)の中興の祖の一人である平生釟三郎(はちさぶろう)が、明治38年、大阪・神戸支店長に就任、その後家庭の事情もあり、健康的な住まいを求めて大阪から住吉村に移り住んだ。

 注記)東京海上保険は、今でこそ超優良企業であるが、明治のはじめ華族たちの金禄公債(家禄を奉還するものに産業資金として渡したもの)を元に海上誕生した会社で、初のうちは1割6歩の配当をしていたが、傘下のロンドン支店での大赤字などで本社経営にとって累卵の危うき事態に立ち至った。。経営トップがロンドンに渡ったものの複雑なイギリス保険引受業の実態などまったく把握できなかった。この時、東京工商(のちの一橋大学)から入社した各務(かがみ)謙吉と平生釟三郎が、まだ30歳前後。この名コンビは、ロンドンでの事情の調査、把握の後、日本に戻り、重役会で”今後の経営のことは二人に任せていただきたい”との爆弾発言を行った。事後、ふたりの活躍によって再建の礎がきずかれ、次第に優良企業として発展していった。


 当時の住吉村は住吉川に沿う反高林(たんたかばやし)、観音林が開発され分譲が始まった頃だった。そんな折、住吉は優れた住環境があるが教育環境が整えられていないので開発も進んでいなかった。そこで先住の実業家有志で小学校を建設しようということになり、以前兵庫県立商業学校の校長の経験がある平生釟三郎が発起人となり、明治44年甲南幼稚園、次いで甲南小学校が開校した。その後伊藤忠商事の伊藤忠兵衛や安宅産業の安宅弥吉から援助と協力を得て、甲南中学さらには大正12年高校を開設、戦後は甲南大学へと発展していった。

釟三郎は数々の社会事業に尽力し、御影山手に甲南病院も開院した。さらには第一次大戦後の世界的不況で倒産の危機にあった川崎造船所を救い、社長に就任して労使一体で危機に挑み、危機を脱することになった。現在のコープ神戸(生協)の立ち上げにも尽力した。

財界の著名人も平生の誘いで続々と住吉村に移ってきた。ちなみに文豪谷崎潤一郎は関東大震災のあとに関西に移住。住吉川西岸に居を構えた。のちに倚松庵と呼ばれるこの居で「細雪」が書かれた。

 
 現在の住吉は、その中心を清流住吉川が流れ、海に近いところでは鮎の姿も見ることができる。住吉地区を中心とした東灘区には、灘五郷と呼ばれる酒造会社が林立している。菊正宗/白鶴酒造/剣菱/桜正宗/白鷹などがある。 余談になるが、江戸時代から戦前までは、灘の酒は「下り酒}といって珍重された。 東京の神楽坂にある酒亭<伊勢藤>では、白鷹の四斗樽をおいて、そこから五合枡に注いで主人が飲ませてくれたものである。ところが、時代が移り、大量に生産するため外部の酒造メーカーから桶買いをするようになり、灘の酒も品質的には落ちた。そして代わってでてきたのが、十四代を始めとする地酒である。 今は、灘の酒がそれに待ったをかけようと海外進出を図ったり、また高品質の酒を出すようになった。ごく最近では、菊正宗が「百黙」(ひゃくもく)というネーミングの純米大吟醸酒を出した。まさに満を持して市場に送り出した。今のところ兵庫県限定であるが、さわやかにして、まことにうまい酒である。
     
       

白鶴酒造七代目の嘉納治兵衛が建てた白鶴美術館には日本などの古美術品が数多く収納されている。また山手にある弓弦羽神社は神功皇后が三韓より凱陣のおりに弓矢甲冑を納めて熊野大神を祈念した故事により建てられたもので、神社の背後の豪壮な建物と楠の大木には今も圧倒される。


 毎年五月になると「だんじり祭」が行われる。弓弦羽神社に8基、綱敷天満宮に2基、東明八幡宮に1基。合わせて11基が保存されている。阪神淡路大震災のあと、「御影は一つ」の掛け声のもと、11基が一同に会するパレードが行われるようになった。時には近隣の芦屋、西宮からの参加もあり、これらの山車(だし)が荒れ狂う。老若男女から幼い子どもたちも参加、まことににぎやかである。

       

 住吉地区で忘れてはならないのが、香雪美術館。いち早くから住吉に住んでいた村山龍平は廃仏毀釈によって、日本から海外へ流出しはじめた仏像など貴重な美術品に危機感を覚え、私財をなげうって、国の宝を守ろうと仏教美術の名品を買い集めた。村山が”後世に遺すべき”と収集した美術品を収蔵、公開しているのが香雪美術館である。美術館は村山の邸宅のあった敷地の一部にある。周囲は石造りの塀で囲まれ樹齢数百年の木々に囲まれている。毎年4月初めには、珍しい枝垂れ桃が紅白の花をつける。これを見て、写真に撮るのが私の年中行事一つのである。まさに珠玉の美術館。

   

 もう一つ忘れてならないのが、御影(住吉のすぐ北西)にある<にしむら珈琲>。 まだ子供たちが幼い頃からのお付き合い。 この店は、終戦後まもない1948年に創業者の川瀬喜代子さんが、心に残る思い出づくりの場所を提供したいとの思いから立ち上げたものである。本店は三宮北野にあるが、私が通うのは御影店。 ここで味合う「オペラ」は、好物の一つである。 ちなみに、本店を立ち上げた時に、川瀬はまだ珈琲の淹れ方も知らなかった。この時、京都から「イノダ」の先代がわざわざ出向いて指導してくれたというエピソードが残っている。

さて現代の話。

六甲アイランドは住吉浜を埋め立ててつくった海上第二の文化都市である。できてから、ほぼ30年が経過した。その前例となるポートアイランでの経験と反省を踏まえて造られたのである。そして建築家宮脇檀さんが渾身の力を振るってコンセプトデザインをされただけのことがあって緑が数多く、学校・保育所・病院なの施設も充実していて、若い夫婦に人気のある素敵な町になっている。最近は、西の地区にマンション群が増設され、そのおかげもあって若い夫婦が流入している。朝、小さい子供たちが登校のためにあちこちの通路から続々と湧いてでてくる。こんな光景は、他の街では滅多に見られないであろう。御影山手地区の高級住宅地に対抗する意味で「海の手六甲」とのネーミングが付けられた。背後に六甲山、眼前には大阪湾(茅渟の海)を控え、はるか海の向こうには関空の「りんくうゲートタワーの白い塔がの望まれる。


 六アイの周囲をめぐるシティヒルは、小高い丘にあり、若い人たちも家族連れも、また恋人同士も周囲5キロほどのコースをジョギングしている。私が御影からここへ移り住んだのも、このジョギングコースがあったからである。それまでは、御影から車できてこの町を走っていた。

六アイには美術館もある。それもウオーキングディスタンス圏内に。まずは画家小磯良平を記念してつくられた小磯記念美術館。小磯の作品は常時展示されているが、その他に特別展が開かれる。昨年秋の「黄昏の絵画たち」は、このブログでご紹介した。もう一つは、神戸ゆかりの美術館。川端謹次画伯、川西英画伯や西村功画伯、亀高文子などの絵が飾られている。

     

 六甲アイランドは緑が多いと書いたが、むしろ緑の中に住宅群があるといっても差し支えないだろう。くすの木、ユリノキ、楓、大島桜、けやき、プラタナス、百日紅、花梨、ライラック(リラ)などなど。それらが、あちらに一本こちらに一本ということではなく、通り全体に植えられていて壮観である。春になって新芽が出る、また紅葉するのを見るのは楽しみである。

 町の中心部にはリバーモールという水が流れているところがあり、またバラ園もある。ボランティアの人たちのおかげで、五月になると黄色、白、赤などの薔薇が花をつける。タリーズのオープンテラスに座って、それを眺めるのは至極のひととき。



家のベランダから大阪湾が見える。真南には関空のゲートタワー。その左は紀淡海峡。ベランダには、小鳥もやってくる。ムクドリが多いが、時には白セキレイも。リバーモールには、住吉川の鴨も飛来する。何も言うことは、ない。こんな住環境をデザインしてくれた建築家の宮脇檀(まゆみ)さんに、感謝の意もこめて『最後の昼餐」と題する彼のエッセイの中の一文をご紹介させていただく。


          

 ”突然暖かくなった四月の日曜日、テラスで久しぶりに食事をする。体力がまだないから作りたい気力はあるがやはりスープストック以外はパートナーに作ってもらっての昼餐。うららかな陽、青い空、白い雲。真っ白な雪柳。パスタと白ワイン、サラダ。こういう時間と食事がまた持てるようになったという状態が嬉しい。これが最後の晩餐であってもよいと本気で思った” (1998年10月に亡くなられた)


なんだか東灘のことから脱線してしまいました。ご容赦ください。 東灘全体もいい、でも六甲アイランドはもっと好き!

   ”うみやまのあはいにありて星涼し”




コメント (6)
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