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リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。

302. 17回目のドイツ旅行(30) 雨のフライジング

2023年02月13日 | 旅行

▶今日はインゴルシュタットからフライジングまで日帰りの旅です。


フライジング大聖堂(教会・修道院㊱)


▶今日は改修していたフライジング大聖堂博物館(博物館⑳)の開館式でした。

 旅行に出る前にバイエルン国立博物館のマティアス・ヴェニガー博士から、私たちがちょうどフライジングに行こうと思っている日に大聖堂博物館がオープンする日で、開館式があるのだと知らせてきました。そして「あなた方もその式に参加する許可をもらったけど出ますか?」と聞いてきました。この博物館にはエラスムス・グラッサーの作品も何点かあり、いつ見られるようになるかと楽しみにしていたのです。作品展示も見られるそうなので「喜んで参加します」と答えました。式は午後3時からなので午前中にヴェニガーさんと大聖堂で落ち合うことになりました。滅多にない体験ができそうです。


◆2022年10月1日(土曜日)11174歩
 朝起きると足が痛みました。ここ数日相当な距離を歩き回ってきたツケが出てきたようです。エルケさんの薬を塗り、念のために持って来ていた踵のサポーターを付けてみました。くるぶしを固定すると少し楽な感じがします。
 朝食は駅の2軒目のパン屋さんで買って来て済ませ、8時6分発のミュンヘン行き普通列車に乗るためホームに行きました。始発列車だったので既に列車が停車していました。寒い中で待たずに済んでホッとしました。ミュンヘン中央駅にも順調に着き、パッサウ中央駅行きに乗り換えます。こちらも始発列車だったので余裕で座ることができました。駅のホームに着く列車からは続々と民族衣装に身を包んだ若者たちが降りてきます。オクトーバーフェストです。この日は結構寒くて私たちは上衣を着込んでいるのに、彼らは半袖、半ズボンでした。大半の人は手に上衣やカーディガンを持ってはいましたが、この日の寒さからしたら勇気の要る薄着です。
 帰ってから調べてみたら
2022年のオクトーバーフェストの日程は9月17日~10月3日までとなっていました。今日はちょうど3連休の1日目だったのですね。


 フライジング大聖堂(教会・修道院㊱)に着くと中には1人の女性が静かに座っていました。お邪魔をしないように気をつけながら彫刻類を見て回りましたが、前回見るゆとりがなかった門の飾りが目に入り、きれいなので何枚も写してきました。ここに一部載せておきます。






それぞれの家族の祈りを込めて、ここに紋章や彫刻を入れた門をつけたのでしょうか。(写真:緑)


▶ヴェニガーさんは本当にエネルギッシュに走り回ります。

 自分たちで見られるところは大体見て回って、そろそろヴェニガーさんとの約束の時間です。でもなかなか姿を見せません。外をぶらぶらしながら待っていると、そこへ急いでやってきたヴェニガーさんは明日から出張のために準備で遅くなったとおっしゃいます。
 そして着くなりバンバン説明を始めました。正直早口すぎてあまりついていけないのですが、かと言って一々質問するのはあまりにも時間がかかってしまいそう。ときどき尋ねながら回りましたが、帰ってきたらあまり細かな内容は頭に入っていませんでした。
 覚えている範囲でメモしたところに依ると、元々この大聖堂は 1200年代にロマネスク様式で建てられ、Gewölbe という丸い形の屋根を太い柱で支えていること、一部オリジナルの屋根の木材が見える場所があること、墓碑などに高価な赤い色味の大理石(確かザルツブルク産)が使われていたこと、昔は床に横たわっていた墓碑を修復の際に掘り起こして壁に立てたときに、中には割れてしまったものがあるということぐらいでしょうか。1つだけ大変印象に残ったのが、下の墓碑です。この墓碑の司教さんの服に丸いものがぶら下がっていますが、布で作った飾り房だと思っていたら Hermelin (Mustela erminea) というそうです。スマホの辞書で調べたらオコジョという動物の毛でした。多分尻尾だったと思います。この「オコジョ」がわかるまで結構時間がかかり、ヴェニガーさんはじれていました。それにしてもこの上衣だけで十数匹のオコジョが尻尾を提供させられたのですね。

 
上衣の裾にたくさんぶら下がっているのがオコジョの毛皮です。(写真:三津夫)



これは何の説明だったかしら?? 

「地下には行きましたか?」と聞かれてまだ行っていないと答えると大股で歩き出しました。中に入るとすごく暗いのでほとんど見えないのです。ヴェニガーさんがスマホを照明代わりに使いながら説明をしてくださいました。なかなか古い石彫のようです。


ヴェニガーさんの指が見えます。(写真:三津夫)


▶今日は久しぶりのご飯をいただきました。

 そろそろお昼の時間だと帰り始めたときにヴェニガーさんが大きな体でとても小さな自転車に乗っていらしたことがわかりました。急ぎながらも途中で2箇所ぐらいの教会内を案内されましたが名前も覚えていないためカットします。
 歩き始めた頃には雨が降り出して結構寒くなっていましたので、傘を差しながら早足でお宅まで歩きました。お宅ではルースさんがご飯を炊いて上に野菜炒めのタレ
を載せたお料理を出してくれました。嬉しいご馳走でした。寒かったので体も温まり、ホッとしました。面白かったのは食事が始まってもヴェニガーさんは私たちを連れてどこをどう回ったか逐一ルースさんに報告するのです。話し終わるまで食べる気にならないようでした。それを相づちを打ちながら優しく聞くルースさん。仲の良い夫婦です。


▶いよいよ大聖堂博物館開会式典に参加します。

 開会式典は午後3時開始ということなので、食後はあまりゆっくりお話を交わす時間は無く、ヴェニガーさんが大急ぎでスーツに着替え、ルースさんも少し改まった服装でコートを羽織って車に乗り込み、大聖堂に向かいました。ヴェニガーさんの運転は猛スピードです。ちょっとハラハラしました。大聖堂には車を停めるスペースはそれほどないため、ヴェニガーさんは私たちを下ろすとお宅に取って返し、またあの可愛らしい自転車で来るのだそうです。まぁ、本当にエネルギッシュな方です。

 大聖堂の横に新装なった大聖堂博物館があり、坂の途中まで長い列ができていました。そこにルースさんと3人で並んで少しずつ進み、ようやく中に入ると人が一杯で動きが取れないほど。クロークに荷物を預けてやっと身軽になり中央の式場を見てみると、私など人垣に埋もれてしまってまったく誰が何をしているのか見えませんでした。音声や音楽はマイクを通して聞くことができましたが、見えない式典に立ちあっていても時間がもったいないので、先に彫刻を見て回った方が得策だねと、式典を離れて三津夫と2人で展示会場を回りました。そのうちにヴェニガーさんもやって来ました。彼はいろいろな人と話したり声をかけられたり解説をしたり、またまた大忙し。それでもヴェニガーさんもルースさんも私たちがどの辺にいるのか常に気にかけてくれていました。帰りの電車に間に合うように挨拶して失礼しようとすると、ヴェニガーさんも人混みから抜け出してきて駅まで送ると言います。申し訳ない気持ちでしたが、そうしないと気が済まない方なのだなと思ったので一緒にフライジング駅まで歩きました。

 フライジング大聖堂博物館で拝観したエラスムス・グラッサーの作品を下に紹介しておきます。


「キリスト受難像」ミュンヘン聖母教会の合唱席より エラスムス・グラッサー 1502年 


「モーゼ」ミュンヘン聖母教会の合唱席より エラスムス・グラッサー 1495~1502年


「嘆きの天使像」 エラスムス・グラッサー 1500年頃 (上の3枚とも 写真:三津夫)
 

 駅までの道々、ヴェニガーさんは明日イタリアに出張するため様々な用意があって今朝は遅くなってごめんなさいと謝られるのでした。そんな忙しいときにお邪魔したのはこちらの方が申し訳ないことでした。でもようやくゆっくりお話ししながら歩けたので良いお別れのひとときとなりました。駅のホームで列車を待つ間、私がユーレイルパスにこれから乗る列車を登録していると「ちょっと待って、待って!」とご自分のスマホも出してきて、明日から使わなければならないから教えてくださいとおっしゃいます。私も大分入力に慣れたところだったので順序よくお教えすることができました。少しはご恩返しができたかなとホッとしました。

 今日は慌ただしくも充実した一日となりました。

 明日は朝早くからアウクスブルクに移動し、トランクを宿に預けてすぐにポリングまで出かけます。まだまだ忙しい旅は続きます。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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301. 17回目のドイツ旅行(29) ミュンヘンまでグラッサー探訪の旅

2023年02月12日 | 旅行

▶今日はミュンヘンまでグラッサー探訪の旅をしてきました。



2つの塔が有名なミュンヘンの聖母教会(教会・修道院㉞)

 

▶ミュンヘンはグラッサー彫刻の宝庫なのです。

 ミュンヘンのバイエルン国立博物館で忙しく働いている博士マティアス・ヴェニガーさんのことは写真集にもこのブログにも何度も書いてきましたが、彼の案内でエラスムス・グラッサーの「モーリス・ダンスの踊り手」(『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』153~166頁  「刊行に寄せて」もヴェニガーさん)という躍動感あふれる作品に出会いました。そしてグラッサーのカタログで彼の宗教彫刻が、ミュンヘンの有名な聖母教会にたくさんあることがわかり、次にミュンヘンに行ったらまずここを訪ねようと思っていました。今日はようやくそのグラッサー彫刻を見られる日です。

◆2022年9月30日(金曜日)10917歩
 朝、インゴルシュタット中央駅で開いていたパン屋さんは1箇所だけでしたのでここでサンドイッチを買いましたが、値段表より高い料金を請求され、三津夫が「高すぎる」と言うのでそう伝えると「値段表の方が間違っているんです」とうるさそうに言われて朝から不愉快なスタートでした。買ったパンもパサついていて、気持ちまでパサつきました。今までのドイツ旅行より今回はこうした「馬鹿にされる体験」が増えているような気がします。以前は「これに税金が入るから変わってくる」と言われたこともあり、税率を知らない私には返す言葉がなかったこともあるのですが…。友だちに確認しておこうと思いながら会うとつい忘れてしまいます。

 今朝の列車は8時2分きっかりに出発、ミュンヘンにも8時41~2分に着きました。でも久しぶりのミュンヘン中央駅は方向感覚が戻ってこなくて少しうろたえました。
 聖母教会(教会・修道院㉞)に着いたときはまだ9時前で拝観者も少なく、静かな中で撮影を始めました。売店で準備している男性に「三脚を使っても良いですか」と聞くと「どうぞ」と言われたので安心して撮影していたら、しばらく経ってから大柄な男性が乗った掃除機(車?)が私めがけてどんどん来るので慌てて避けたところ、三脚をバンバン叩いて「これはダメだ」とにらみつけるのです。その勢いに押されてつい謝ってしまいましたが、日本人の悪い癖だと悔しくなりました。「ダメならダメで最初に断って欲しい」と喧嘩できたら良かったのに…。
 
その後は三脚無しで撮影しましたがこの件で気分も落ち込み、あまりにも多い彫刻の数(カタログでは48体となっていましたが、何だかもっとありそう??)にくたびれてしまいました。三津夫のカメラも全体像を捉えているので私は途中まで写して終わりにしました。後から聞いたところでは、三津夫も普通に見ているだけだったのに、このおじさんにぶつけられそうになったというので、朝の嫌な体験も含め、アジア人いじめのように感じました。世界のコロナパンデミックによる負の側面が出ているのかもしれません。それともたまたま何か不機嫌なことがあって八つ当たりされたのでしょうか。

 

このように何十体もの彫刻がズラッと並んでいます。 エラスムス・グラッサー 1495~1502(写真:三津夫) 


上: 聖アンナ三代像 左下:聖ラッソ 右下:聖ゲオルクの礼拝堂(写真:緑)

 上の写真で竜の上にいる聖ゲオルクはハンス・ラインベルガーの1515~1520年頃の作、聖ラッソの制作者はラインベルガーの周辺作家と言われるラーベンデンのマイスターによる1520年頃の作、空中の聖アンナ三代像はシュテファン・ロッタラーによる1515/1520年頃の作だそうです。
 下の写真のクリストフォロスもラインベルガーの1525年頃の彫刻です。



クリストフォロス ハンス・ラインベルガー 1525年頃 (写真:緑)


▶今日2軒目の教会は聖ペトロ教会(教会・修道院㉟)です。

 聖ペトロ教会は聖母教会からマリエン広場を通りぬけて右奥に位置する教会で、ここにもグラッサーの「ミュンヘン聖ペトロ教会司祭 ウルリヒ・アレジンガーのための墓碑」があります。小さくて目立たないのですが、よく見るとレリーフでも相当深い彫りで、ペトロの迫力にも心動かされます。



「ミュンヘン聖ペトロ教会司祭 ウルリヒ・アレジンガーのための墓碑」 エラスムス・グラッサー 1482年(写真:緑)


▶再度グナーデンタール修道院へ。

 ミュンヘン中央駅に戻る途中でマリエン広場の時計がちょうど12時を打ちました。時計塔で人形が踊る時間です。以前にも見たことがありますが、案外動きが地味なのです。たまたま通りがかったので見上げておっとりした動きに心和み、ミュンヘン中央駅まで戻りました。

 駅では乗った列車が時間になっても動かず「下車してください」とのアナウンス。隣のホームの各駅停車に乗りましたが、こちらもなかなか発車せず。30分ほどしてようやくインゴルシュタットに向けて走り出しました。インゴルシュタット駅で朝とは違うもう一軒のパン屋さんに行ってサンドイッチを買い、部屋でトマトや果物と一緒に食べて再びグナーデンタール修道院へ。
 今日はバス11番でのHarderstraße で下車。修道院の真ん前に停まってくれることが昨日の帰りにようやくわかったので、今日は迷わずに修道院の正面ドアから入りました。するとすぐにシスター・サロメさんが窓口から顔を出して、横の通りのドアから入ってくださいと言われます。そちらが教会に通じるドアだったのです。でも入ってみると内部には鉄柵があり、鍵がかかっていました。サロメさんが見えると、笑みを絶やさず、鍵を開けて招き入れてくださいました。何と小柄な可愛らしい方でしょう。昨夜書いておいた和風のメッセージカードをお渡しするとニコニコしながら読んでくださいました。

 しばらくサロメさんのお話を伺い、正面の大きな聖母子像もこの修道院の宝だとわかりました。戦争中は3m先まで爆撃があったそうですが、「神のご加護で難を免れたんですよ」とお話しくださいました。壁のパステルカラーのフレスコ画はシスターたちの共同作業だそうです。戦後の苦しかった時代のお話をされるときには涙ぐんでいらっしゃいました。そして右横の壁にはラインベルガーの代表作「聖アンナ三代像」が堂々とはめ込まれていました。やっと拝観できたラインベルガーの代表作です。サロメさんも、これはラインベルガー彫刻の中で最高傑作だとおっしゃっていました。


グナーデンタール修道院 Harderstraßeのバス停は真ん前でした。右角にある工事中の柵の上に聖母子像のステンドグラスが見えます。


シスター・サロメさんの笑顔 貴重なお話をありがとうございました。



「ランツフートの聖母子像」 作者名不詳、後期ゴシック(写真:緑)


ハンス・ラインベルガー「聖アンナ三代像」 1513年 (写真:三津夫)
 

 今日の目的はこれで達成です。この静かな時間のおかげでミュンヘンでの嫌な体験もすっかり洗い流されました。優しいシスター・サロメさんに感謝しつつ、
戦火で多くの人々が殺され、傷ついて苦しむ姿をこれ以上見たくない、一日も早く世界中から戦火が消えていきますようにと祈りながらこの修道院を後にしました。


 ※今まで作品写真を写したものは名前だけを括弧書きで記入していましたが、たまたまこの文章を目にした方にはわかりにくいかもしれないと考え直し、今号から(写真:三津夫)といった形で記入しておくことにしました。ご了承ください。なお、景色やスナップ写真については数が多くて大変なので撮影者名は省略させていただきます。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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300. 17回目のドイツ旅行(28) ニュルンベルクとインゴルシュタットを歩き回りました。

2023年02月11日 | 旅行

▶今日の見学場所は5箇所もありました。


 



このファイト・シュトースの墓碑(手前)を見つけるまでに何十分かかったことか…。でも始めと終わりの文字以外は読めません。
 

▶まずスタートはお墓探しからです。

◆2022年9月29日(木曜日)21312歩
 『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』を書くときに参考にしたカタログ「芸術と大罪 ファイトシュトース、ティルマン・リーメンシュナイダーとミュンナーシュタットの祭壇」(バイエルン国立博物館)に出ていたのが、2枚目の写真、シュトースの墓碑でした。ニュルンベルクに行ったら見たいと思っていた私と、アダムクラフトの「嘆きの群像」を見たいと思っていた三津夫、どちらも同じヨハネ墓地にあることがわかったので、ホテルに荷物を預け、朝一番で墓地に向かいました。

 ホテルから西北に約2km歩くと Johannisfriedhof という墓地があります。ここまでは迷うことなく着きました。ところがいざ墓地の中に入ってどこをどう探したらシュトースのお墓にたどり着けるのかは皆目見当がつきません。それほどたくさんのお墓があるのです。キョロキョロしていたらお掃除の方がいたので「ファイト・シュトースのお墓はどこですか?」と聞いてみたところ、知らないなぁと首を捻るのです。「でもデューラーのお墓ならあそこにあるよ」と教えてくれました。そちらに向かう途中で案内板に気が付き、見てみるとデューラーのお墓の近くにありそうです。
 そこで
デューラーのお墓を先に見つけてお参りし(といってもお花もありませんが)、シュトースはこの辺かと探すのですが、なかなか見つかりません。先程のプレートに戻って見るとお墓の番地が書かれているのに気が付きました。2人でウロウロと歩き回ってようやく見つかったのがトップ写真のオレンジがかったお墓でした。見つかるまでおそらく20~30分はかかったような気がします。


デューラーのお墓は649番、シュトースのお墓は268番だとわかりました。

 その次に探すのはアダム・クラフトの群像ですが、Holzschuherkapelle(木靴の礼拝堂? 教会・修道院㉘)というところにあるはずです。何かに囲まれたような写真を見ていたので、私は墓地の周りにあるそれらしき場所を探しましたが見つかりません。三津夫は反対側の方を探すも見つけられず、2人で墓地の隅にあった小さな教会を覗いてみました。すると、中にいる女性が「今からちょっとセレモニーがあるので外に出てくださいませんか」と言います。「アダムクラフトの群像はどこにあるか探しているのですがご存じですか?」と聞いたらまっすぐ入口の方を指さして「あそこの礼拝堂にありますよ」と教えてくれました。それが Holzschuherkapelle であり、トップ写真の三津夫の頭の向こうに見える赤い屋根の小さな礼拝堂だったのです。
 ところが行ってみるとドアはあっても鍵がかかっていて開きません。「なんだ、見られないんだ」とガッカリしながらぐるっと一回りしてみたところ、丸い穴に気が付いたのです。中を覗いてみたらその群像がありました! その穴から写すと、まるで群像が外にあるように見えたのです。


 
Holzshuherkapelle(教会・修道院㉘) 木の後ろに、黒くて丸い覗き穴があります。 


Holzschuherkapelle 内の「嘆きの群像」 アダム・クラフト 1508年(緑)


▶次のお目当ては Burgkapelle (美術館・博物館⑲)です。

 ニュルンベルク城の中にある礼拝堂 Burgkapelle(博物館の中なのでこちらでカウント ) にはシュトースの磔刑像があるのです。これは三津夫がエルケさんにいただいたシュトースのカタログに載っていた作品で、急遽訪問先に加えたのでした。
 旧市街はさすがに観光客が多く、切符を買うにも城内を回るにもソーシャルディスタンスに気を遣いました。こちらの人々はもう普段はマスクもしていませんから、私たちも特別なことがないと交通機関以外ではマスクをしないで動いています。
 大分時間をかけて切符を買い、とにかく中に入って順路通りに進んだらちゃんと磔刑像があったので写真を写していたところ、誰か男の人が後ろから大きな声で怒鳴るのです。三津夫が邪魔だと言っているようです。三津夫は自分のことだと気が付いて場所を譲り、その人が写した後で元の場所に戻って撮影し始めたら、今度は上の階段から怒鳴り声が聞こえました。城内の監視員です。2段ほどある階段の向こう側に綱が張ってあるので、その階段に上がったら怒られたのです。仕方なく階段から下りたのですが、三津夫の怒りがおさまりません。誰だって綱の手前までは上がって良いと思えるはず。ずいぶん横暴な怒鳴り方を立て続けにされた三津夫の気持ちが私にもよくわかりました。特に最初の男性は「自分が写すのに邪魔だ、どけ!」という感じでしたから、どうも日本人だと馬鹿にされたような、ドイツでは珍しく不愉快な経験でした。

 
▶3箇所目は聖ゼバルドゥス教会(教会・修道院㉙)です。

 ここもニュルンベルクに来れば必ず寄る場所になっています。私の目標はゼバルドゥス墓碑(『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』177~180頁)の詳細を丁寧に写すことでした。できれば聖ゼバルドゥスの逸話を彫ったレリーフを全部写したかったのですが、柵の合間から少しだけ見えるという状態で諦めました。せめて天辺の幼子イエスをしっかり写したかったのですが、下から見上げるしかなく、結局顔の表情まではよく写せずに終わりました。それにしても高所に立つ聖人たちのかっこよさ。流れるような服の襞が素晴らしいのです。望遠でなければ見えにくいペーター・フィッシャー(父)の魅力を少しだけ紹介しておきます。



ゼバルドゥス墓碑の部分 ペーター・フィッシャー(父)1508~1519年 (緑)


▶その後も冒険続き

 そして4箇所目は聖ロレンツ教会(教会・修道院㉚)です。やはりファイト・シュトースの磔刑像を見て撮影。ここの磔刑像が一番良いねと三津夫。

 5箇所目は途中通り越したことに気が付いてロレンツ教会から戻った Heilig-Geist-Spital (聖霊ホスピタルと訳すようです 教会・修道院㉛)です。ここも入口がなかなかわからず、建物の横に回ると全然雰囲気が違うモダンな入口があったので通り過ぎようとしたところ、サッと自動ドアが開くのです。中に入ってみたら受付がありました。中には女性が座っていて、アダムクラフトの磔刑像があるかどうか聞くと「真っ直ぐ廊下を行くとドアがあるから、通り越して左に行けば見られますよ」と言います。嬉しくなって「あの自動ドアが招き入れてくれたんだね」と話しながら進み、建物の中庭に出てようやく磔刑像を見つけました。中央にキリスト、写真には写っていませんが両脇の角にはキリストと同時に磔刑となった罪人像がかかっていました。今日だけでもキリストの磔刑像を3体見たことになります。最後のアダム・クラフトの磔刑像(砂岩)が一番大きく、お城の礼拝堂の磔刑像(木彫)が一番小さくまとまっていました。
 

Heilig-Geist-Spital の中庭 「磔刑像」アダム・クラフト 1507/1508年(緑)


 さて、これで今日の目的は全部達成。ホテルに戻ろうとすると、さっき通って来たドアが開きません。またリエージュの博物館と同じ事態になってしまった! 来る時に簡単に開いたドアは帰るときには開かないということをすっかり忘れていました。どうしようと慌てているとちょうど通りかかった掃除婦さん。「出口はどこでしょう?」と聞いたら「ここを左に行けば出られますよ」と前の小道を指さしました。あ~、良かった。


▶今日はインゴルシュタットまで移動しました。

 無事にホテルに戻って荷物を引き取り、ニュルンベルク中央駅14時27分発の列車でインゴルシュタットに向かいました。約30分の近さですが、その後の訪問には便利なためここで3泊します。
 インゴルシュタット中央駅はあまりにも静かで驚きました。人気のないホーム地下道には何の案内もなく、どちらが町への出口なのかヒントが掴めません。偵察に出てようやくホテルを確認してから荷物を持って出ました。
 ホテルは中央駅にすぐ近く、チェックインしてから旧市街に向かって11番のバスに乗りました。Rathausplatz の一つ先で下車して500mほど歩くとグナーデンタール修道院 (教会・修道院㉜)があるとフロントで教えてもらいました。ここには私たちが長い間見たいと思っていたハンス・ラインベルガーの代表的な彫刻「聖アンナ三代像」があるのです。ところが言われた通りに下車して地図で見てもどこなのかよくわからず、冷たい雨まで降ってきました。傘を差しながら2回地元の人に聞いて、結局先まで歩き過ぎたことがわかり、ようやく修道院にたどり着きました。

 修道院の重たいドアを開けると小さな窓がありました。どうしたら良いのかキョロキョロしていると小さな修道女がその小窓を開けて声をかけてきました。訪問の趣旨を話すと彼女が「今日は夕方シスターの集まりがあるので無理なのだけれど、もし明日の午後2時~4時に来られれば私がいるからお見せしましょう」と言います。お名前を伺うとシスター・サロメさんとおっしゃいます。それでは明日その時間に伺いますと言ってお別れしようとすると絵はがきを3枚くださったのです。そして「すぐ近くのMaria de Victoria(教会・修道院㉝) も素晴らしい教会ですよ。」と勧めてくれたのでそちらにも寄ってみましたが、きらびやかな装飾で、いわゆる好きなタイプではない教会でした。

 近くのREWEで食料品を買い込んでバスに乗ってホテルに戻りました。

 今日はこんなバタバタ歩き回った一日だったので歩数は2万歩を超え、この旅行で一番歩いた旅となりました。さすがに足腰にきましたが、何とか歩けたということは、私の足腰も少しずつ癒えてきているのかもしれません。

 明日はミュンヘンまでエラスムス・グラッサーの作品を見に行く予定です。

2015-2023  Midori FUKUDA

 

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299. 17回目のドイツ旅行(27) ニュルンベルクへ駆け足の旅

2023年02月10日 | 旅行

▶シュヴェービッシュ・ハル最後の朝は雨でした。



ニュルンベルクは曇り空でした。ゲルマン国立博物館(美術館・博物館⑱)北側の彫刻

 

◆2022年9月28日(水曜日)8897歩



三津夫が写した初日のマリアンヌとホールスト。最後の朝はお疲れのご様子でした。ありがとう&本当にお疲れさまでした!

 今日でお別れの朝、2人は何だか元気がありません。特にマリアンヌはお疲れが顔に出ているようで申し訳ない気持ちです。でも私たちの友人の中ではフリーデルについで2番目ぐらいに高齢のお二人ですからやむを得ないことですね。前回「泊まってね」と言ってくれたときにはマリアンヌがインフルエンザにかかってしまったためにお流れになったので、今回が初めてのお泊まりでした。でもお二人の体調を考えると、泊まらせていただくのは今回が最初で最後になるのかなと思います。

 たくさん残ったパンやベーコン、ハムなどで私たちのお弁当まで作ってくれたマリアンヌ。果物もたくさん入れてくれました。ホールストとはお宅の門でお別れして、マリアンヌがシュヴェービッシュ・ハル・ヘッセンタール駅まで送ってくれました。駅のホームで列車を待つマリアンヌは少しだけ笑顔が戻っていてホッとしました。このあとお疲れを癒やしてくださいね。
 


重たかったトランクの中の写真集第5巻、あと残っているのはフランクフルトのトーマスの1冊だけです。

▶今日はゲルマン国立博物館(美術館・博物館⑱)を訪ねました。

 ニュルンベルクに着くとゲルマン国立博物館にほど近い初めてのホテルへ向かいました。いつも利用しているホテルは取れなかったので今回初めて行くホテルです。看板があったのですぐ見つかったのは良いのですが、突き当たりにあるエレベーターが全然動かず、裏口のようにも見えたので、もしかしたら通りの反対側に入口があるのではないかと思ってトランクを三津夫にあずけて歩いてみました。でも裏は通りの名前も違いますし、まったくそれらしき気配は無いのです。もういちど裏口のように見える入口に戻ると、三津夫が「お客さんが2組来てエレベーターに乗っていったよ」と言います。その時ももう一組のゲストが来て壁のインターホンで話をしたら何とエレベーターが下りてきたのです。そういう流れをまったく知りませんでしたので無駄な時間を過ごしてしまいました。私たちもそれを見習って、ようやくエレベーターで2階に上がることができました。
 受付ではおじさまが1人忙しそうに働いていて、「手が少なくて申し訳ない」と言いながらトランクを預かってくれました。カメラとお弁当と手荷物だけ持って近くの緑地へ。マリアンヌのお弁当を食べてからゲルマン国立博物館に入りました。

 ゲルマン国立博物館ではここ何年間か改修工事で展示内容が変わってきています。リーメンシュナイダー作品がばらけて置かれたり、全部は見られなかったりするのです。でも今回は閉鎖されていた修道院の建物部分も半分までは公開されていて、ファイト・シュトースやアダムクラフトの作品を再見することができました。
 三津夫は今回、このゲルマン国立博物館でハンス・バルドゥング・グリーンというデューラーの一番弟子だった画家の作品を見るのを楽しみにしていました。この博物館内に何枚も彼の作品がありましたが、どこか登場人物の目つきが不思議な作品が多いのです。マリアの乳房を口に含んでいる幼子キリストが観客の方をギロッと睨んでいたり、天使の目つきが皮肉っぽかったり、なぜかふてぶてしかったりするのです。三津夫はこの画家の作品を大いに楽しんで探していました。
 第2回目の「祈りの彫刻 リーメンシュナイダー写真展 」に見えた毛利輝太郎さんという方がこの画家に関する文章をまとめていらして、コピーをくださいました。私などはその文章を読んで初めてハンス・バルドゥング・グリーンの名前を知ったという経緯があります。私たちの旅の楽しみを増やしてくださった毛利さんに、実際にその絵を見て楽しんできた者としてここで感謝申し上げます。

 展示の最後に RENAISSANCE BAROCK AUFKLÄRUNG という特別展示の部屋があり、「HL. BARTHOLOMÄUS 」の作者名が 「伝 Tilman Riemenschneider und Paulus Müller (1509年)」と書かれていました。この聖バルトロマイの彫刻は、丸太に縛り付けられて横たわっているバルトロマイの腹部から腸が引きずり出され、その内臓をイノシシや豚たちが喰い散らかしているという殉教の場面なのです。聖人の頭や顔つきは確かにリーメンシュナイダーの作風ですが、周りの動物たちはおそらくパウルス・ミュラーと言われる作家の手によるものではないかと考えられます。ただ、リーメンシュナイダーの彫刻では今までこのような残酷な殉教場面を彫った作品を見たことがなく、ちょっと驚き、違和感も感じました。
 いずれにしても本作はバンベルクに次ぐ新作発見となりました。こちらもリストに追加です。
 
 
※「新作」と言っても私たちにとって今までまったく情報がなく、ここにあるのを知らなかった作品という意味です。


▶今日のホテルは案外良かったのに安堵しました。

 ホテルに戻ると、案内された部屋は広々としていて清潔でした。人手が足りずに受け付けも慌ただしかったホテルにしては内容が良くて驚きました。廊下はややたばこ臭かったのですが、部屋の中ではまったく匂わず、快適に過ごすことができました。

 昨夜までに書きためていた日本への葉書をまだ投函していなかったので切手を買うつもりで駅まで行きましたが、郵便局があったと思っていた場所にはありませんでした。どこかの駅と思い違いをしていたようです。手許に残っていた切手だけ貼っておいた2枚を投函して部屋に戻り、最後のラーメンを食べました。マリアンヌが持たせてくれたケーキや果物もいただいてこの日は終わりました。

 明日はまだ見ていないニュルンベルク市内の教会や墓地など、何か所かを回ってからインゴルシュタットに向かいます。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

 

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298. 17回目のドイツ旅行(26) 見直したヨハニターキルヒェ

2023年02月09日 | 旅行

▶今日のメインはヨハニターハレのはずでした。



ヨハニターキルヒェ(美術館・博物館⑰)こちらは2022年9月27日の写真です。



▶今日は2つの美術館・博物館と1つの教会を回りました。

 トップ写真では、この美術館の名前が(三津夫の後ろに隠れていますが)JOHANNITERKIRCHE と読めます。行ってみてこの名前に驚いたのです。というのも、今までこのヴュルツ財団による美術館の名前は JOHANNITERHALLE となっていたからです(アンゲリカからリーメンシュナイダー作品がこちらに来ていると聞いたときもヨハニターハレのつもりで聞いていたのです。でもこの日の記事では正しい名称で書いておきました)。私は写真集でもそう書いてきていましたので、もしかしたら間違って覚えていたのだろうかと冷や汗が出たのでした。でも帰国してから調べてみたところ、間違いではなかったとわかって胸をなで下ろしています。その証拠が以下のパンフレットと写真です。



最初の2枚はヨハニターハレが2009年に再オープンしたというパンフレット。館名は赤文字で書かれています。
 3枚目は
2012年の展示案内。まだヨハニターハレとなっています。



こちらは2010年の JOHANNITERHALLE の写真。元気な頃のマリアンヌが微笑んでいますが、館名は赤文字から白文字に変わっています。

 というわけで、私の記憶違いではなかったことがわかったので、安心して今日の記事を書くことができます。いつから館名が変わったのか、機会があったら聞いてみたいと思います。


◆2022年9月27日(火曜日)3965歩
 今朝の朝食は写真のように盛りだくさんでした。全部はやはり食べきれず、ここでも「もっと食べなさい」と勧められて「一杯いただきました。ごめんなさい」と言うと、マリアンヌに寂しそうな顔をされてしまいました。もっと健啖でいられるといいのですが。





マリアンヌ、いつもたくさんのお料理、ありがとう。白いソーセージは初めていただきました。


▶今日は雨の中、町まで送り迎えをしてもらって予定通り見て回りました。

 シュピーゲル夫妻の家からシュヴェービッシュ・ハルの町まではバスに乗るか歩くかですが、どちらも結構時間がかかるので、マリアンヌがいつも車で送迎してくれています。この運転も今後いつまでできるかわかりません。いずれはバスで来るようになるのでしょう。

 今日はまず最初にハル・フランケン博物館(美術館・博物館⑯)に行きました。ここでマリアンヌのお友だちが人形展を開いていることがわかったので、それも見ておこうと思ってのことでした。そのマリーネ・グメリンさんとデトゥレフ・シュメルツさんはバーデン・ヴュルッテンベルク州の造形工芸作家賞を受けている方だそうで、確かに独特な雰囲気を持った人形をたくさん展示していて興味深く拝見しました。その他の館内展示はもう5回は見ていますが、一応一回りしてみました。


 次はトップ写真のヨハニターキルヒェ(美術館・博物館⑰)です。名前が変わっていたことには驚きましたが、入館してみると何と無料、しかも撮影OK(以前は禁止)となっていて、これにも驚きました。ずいぶん柔らかい対応になったものです。
 喜び勇んで中に入り、大好きな女性像「婦人像のシャンデリア」と「聖母子像」
(『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット発行 106~109頁 )にご挨拶。でもシュトゥットガルトのバーデン・ヴュルッテンベルク州立博物館から来ているはずのリーメンシュナイダー彫刻は「マリア・クロパとアルパヨ(アルファイ)」の一体だけでした。州立博物館には「大ヤコブ」と「悲しむ女たち」もあったので、このヨハニターキルヒェに3体とも来ているかと楽しみにしていたのですが、残念でした。修復にでもかかっているのでしょうか。いずれまたシュトゥットガルトで再会できるのといいのですが。

 ここで、今まで一度ぐらいしか行ったことのない2階に上がって見ると、まぁ何と途中の階段からすでにマウホ作品があり、上がってからも最近名前を覚えたばかりの作家作品が目白押しだったのです。この小さな美術館はドイツ後期ゴシック彫刻や絵画のミニ宝庫だったのですね。ヨハニターキルヒェ、見直しました。

 ここに新しく見た(気づいた)作品をリストアップしておきます。機会があったら是非お訪ねください。

 ・ダニエル・マウホ 「マリアの執り成し群像より-マリア」 1510~1520頃
          
 「聖母子半身像」 1510~1515年頃
 ・ハンス・ホルバイン(父) 「キリストの誕生」 1594年頃
 ・ハンス・ホルバイン(子) 「市長ヤコブ・マイヤー・ツム・ハウゼンの聖母子像」
 ・ハンス・ダウハー(貸し出し中で写真のみ) 「聖家族」 1518年頃
 ・ニクラウス・ヴェックマン 「王座に就く父なる神」 1515年頃
              「三日月の上の聖母子像」 1510年頃
 ・イェルク・ジュルリーン(父) 「ある聖女の聖遺物を納める胸像」

 この館内で面白かった話が1つ。三津夫がリーメンシュナイダーの「マリア・クロパとアルパヨ(アルファイ)」を見た時に、彫刻の上から蜘蛛の糸が伸びているのを見つけたのです。「館の人に教えてあげた方が良いよ」と私に言います。確かにそうだけれど、怒ってムッとされないかなと一瞬思ってしまいました。そこで優しそうな女性の館員を見つけ、「ここに蜘蛛の糸が張られていますよ」と伝えたら、しゃがみ込んで、その通りだとわかると「あら~、ありがとうございます」と言って手で払いよけました。思わず3人で笑ってしまいました。 


▶今日3つめの目的地 聖ミヒャエル教会

 昨日のブログのトップに掲載した写真に「聖ミヒャエル教会」と書きながら、彫刻名は「大天使ミカエル」と書いてありますので、読み方に整合性がないと思われた方もいらっしゃることでしょう。ただ、日本では「大天使ミカエル」という呼称が一般的である一方、現地の人はこの教会をミヒャエル教会と言っているので、発音が食い違うのです。でもどちらかに合わせなければならないということではないと考え、食い違ったままで書くことにしました。
 この大天使ミカエルさんは何となく東洋風の柔らかなお顔に見えます。


聖ミヒャエル教会(教会・修道院㉗)の階段を上る三津夫


 教会内には新しい祭壇が置かれていました。それが下の写真です。詳しい資料を手に入れてくるのを忘れたので作者名がわかりませんが、素朴な表情の温かみのある彫刻です。でもイエス・キリストの足の長さに「8頭身以上?」と、しばらく目が離せませんでした。


新しく設置されていた「キリストの埋葬」 1456年 両翼は1510年頃に付加されたそうです(プレートの解説)。


▶今日のシュピーゲル劇場は「ウィーン編」でした。

 シュヴェービッシュ・ハルで見たかった3箇所をゆっくり回って堪能したので、マリアンヌに電話をしました。現在、ミヒャエル教会の裏手は工事が入っているため駐車しにくいので、もう少し先のホテルの前で待っているように言われました。そちらで待っていると、マリアンヌがやって来て「正しく聞き取れて素晴らしい」と褒めてくれました。もし教会の真裏で待っていたらどうしようと心配していたそうです。私のリスニングも少しは上達したのかもしれません。

 お宅に帰るとマリアンヌがマウルタッシェン、サラダを用意してくれていました。少し遅めの昼食を美味しくいただいて6時まで休憩。三津夫はぐっすりひと眠り。私は日記を付けておかないと忘れてしまうので書きながらもウトウトしていました。

 6時になって再び2階に下りると、「夕飯とフィルムとどちらを先にする?」と聞かれました。「マウルタッシェンをしっかりいただいたのでまだお腹が空かないね」と三津夫と言い合っていたら、「先にフィルムを見ましょうか。」とマリアンヌ。それが良いと賛成して、今夜は「ウィーン編」をゆっくり見ました。私たちもこのあとウィーンまで行くので余計興味津々でした。

 このフィルムが終わったらまたお腹に空きができたので、美味しくカボチャスープとパンをいただきました。マリアンヌは私たちを町まで送ってからずっと台所に立ってお料理していたのではないのでしょうか。嬉しいのと同時に申し訳ない気持ちがどうしても出てきてしまいます。もっと素直に喜んで沢山食べるのが一番のお礼なのでしょうけれど。

 


 明日はニュルンベルクに向かいます。ニュルンベルクは他の町の日程が詰まっていて1泊しか取れなかったので、着いたらすぐに観光に回る予定です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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297. 17回目のドイツ旅行(25) シュヴェービッシュ・ハル

2023年02月08日 | 旅行

▶シュヴェービッシュ・ハルは私の第二のふるさと



シュヴェービッシュ・ハルの聖ミヒャエル教会(教会・修道院㉗ 翌日尋ねました)大天使ミカエル

 
▶今日は懐かしい留学先のシュヴェービッシュ・ハルまで行きます。

 2006年の5月から10月までの半年間、このシュヴェービッシュ・ハルでゲーテ・インスティテュートに通ったことは何回か書きましたが、今でも私にとってはこの小さな中世の面影を残す町は第二のふるさとと言える存在です。でもお世話になったヤンコー先生とは連絡が取れなくなり、2階に住んで仲良くさせていただいた老婦人トーマスさんは老人施設に入って連絡が絶えてしまいました。残っているお友だちは、今日宿を提供してくれるマリアンヌとホールスト・シュピーゲル夫妻だけになり、寂しくなっています。


◆2022年9月26日(月曜日)4252歩

 朝食後、ローテンブルク駅まではラインハルト夫妻が車で送ってくれました。途中、まだ通ったことのない道を走ってくれたので、この地域ののどかな景色を堪能することができました。森あり川あり、なだらかな丘もあり、昔は狩猟をしていたという狩りの監視小屋も道ばたにまだ残っていました。
 お二人にはたくさん助けていただき、心のこもったご馳走をいただき、いくら感謝してもしきれません。私たちよりお若いご夫妻、是非時間を作って日本に遊びに来ていただきたいものです。

 今回はローテンブルク駅からシュヴェービッシュ・ハル・ヘッセンタール駅までバスで行くことにしました。その方が繋ぎが良かったからです。これなら乗り換えも一度で済みますが列車で行くと2回乗り換えなければなりませんから。この順番で訪ねて回るのが初めてだったこともあって、この区間をバスで行くのも初めてでした。

 ドンビュール行きのバスはローテンブルク駅を10時29分に出発しました。結構乗客も多く、便利に使われている路線のようです。運転手の隣に座った男性の話し声が大きく響いてうるさかったのですが、時間通りにドンビュール駅に到着しました。ここまでが37分。ドンビュールは写真家のヨハネスの家に行くときに初めて下りた駅でした。ここからシュヴェービッシュ・ハル・ヘッセンタール駅までも列車でちょうど37分です。
 昨夜、なかなか列車の登録ができないままだったオンラインのユーレイルパス。バスは現金で乗車するので良かったのですが、列車では車掌が検札に来るまでに本来なら何時何分発のどこ行きの列車に乗るのかというデータをユーレイルパスに登録しなければなりません。前回の旅行までは乗車する度に紙に書き込んでいたのも面倒でしたが、アプリで登録するのはもっと大変でした。しかも三津夫はスマホを持っていないので私のスマホに2人分のパスを登録してあります。その都度データを入れる作業にまだ慣れず、うまくいかないときもあって大変なストレスになっていました。昨夜もこの登録がなかなかできず、ラインハルト夫妻にも心配をかけてしまったのでした。でも当日になったら普通に登録できたので肩透かしを喰ったような気分。あまり心配しなくても良いのかと思えるようになりました。

 ヘッセンタール駅に着いてみると到着ホームにはマリアンヌが1人で立っていて、ホールストは駅舎の前で待っていました。彼は以前から足が不自由でしたが何とか到着ホームまで歩いてこられたホールストが、今日は両腕に松葉杖をついて寂しそうに佇む姿に胸が痛みました。この乗換駅には階段しかないのでいつもトランクの移動が大変なのですが、以前はホールストが軽々持って行ってくれたんだなあと思い出しました。留学していた2006年からもう16年経っているので時の自然な成り行きなのかもしれませんが、マリアンヌも以前より足取りが重く、会う度に元気が無くなっているので心配です。この2人は、シュヴェービッシュ・ハルが私の第二のふるさとであり続けるキーパーソンなのですから、是非健康で、そして以前のように元気でいてほしいものですが。


▶ノイ・ヴァインとシュピーゲル劇場

 ヘッセンタール駅からの帰り道にレストランに入って昼食をいただき、丘の上のお宅へ。建物の中に入ると1階は貸家になっていて他の家族が住んでいました(以前は空き部屋で「緑、ここに住まない?」と冗談を言われたものです)。2階から3階と地下室がマリアンヌとホールストの住まいとなっています。私たちには3階の部屋を貸していただけることになりました。今までいつも近くのホテルを取っていたので、3階の部屋の中は今回初めて入りました。お孫さんが来たときに使っているようで若者の雰囲気が漂う内装でした。隣の大きなバスルームは既にハイツングが付いていて暖かく、これなら溜まっている洗濯物もしっかり乾きそうです。ベッドの横には食べ物や飲み物、お土産まで用意されていました。ありがとう、マリアンヌ。

 2階に下りて私たちからのお土産を渡します。写真集に興味を示すのはいつもマリアンヌの方で、ホールストは見守るだけですが、甘いお菓子はホールストの大好物。笑顔が浮かびます。
 「まだ夕食までは時間があるので散歩をしてきたら」とマリアンヌに促されて2人で出かけました。お天気も良く、高台から町を見下ろしたかったのですが、木々に遮られてあまり見えませんでした。もっと遠くまで歩かないと無理だったようで、途中で回り込んで帰ってきました。でも振り返ってみると、今まではこの近辺を散歩するゆとりもなかったんだなあと気が付きました。いつもあちらこちらに出かけてばかりいましたから。

 夕食はワインを中心に飲んで、食べて、お喋りして過ごしました。この時期は、できたてのノイ・ヴァインという葡萄ジュースのような若いワインが出回ります。私はそのジュースのようなワインが大好きなのでマリアンヌが一本買っておいてくれました。付け合わせはツヴィーベル・クーヘン(タマネギケーキ)です。これも留学中に初めて食べたケーキ。名前から甘いものを想像しますが、実際は塩味のピザのような味です。今日も美味しくいただきました。ホールストはワインには目がないので、途中で自分の好きなワインをゆっくりと地下室まで行ってはとってくるのです。足が不自由になってもワインが彼のリハビリを促してくれているようです。


大好きなノイ・ヴァインで再会を祝して乾杯!


 夜はゆっくり時間が流れます。
 マリアンヌが「地下室でフィルムを見る?」と聞きました。若かりし頃、ホールストとマリアンヌが中心となって観光バスを仕立て、仲良しの元同級生たちと海外旅行をしているのです。その間ずっとホールストがカメラマンとして映像を撮り、旅行後にマリアンヌがそれをバックミュージックも入れながら編集し、ナレーションも吹きこんで作ったフィルムが山のようにあるのでした。ここでは2人の苗字を付けて「シュピーゲル劇場」と呼んでおきます。皆で地下室に行き、今夜は「ストラスブール編」を視聴しました。このときばかりは2人とも気持ちが若返って元気に解説してくれます。私たちも元気なマリアンヌとホールストと一緒に旅している気分で楽しみました。





地下室の「シュピーゲル劇場」

  
 フィルムを見てから挨拶をして部屋に戻り、溜まっていた洗濯物をしながらシャワーを浴びて床に就きました。

 今日は月曜日なので行くことができなかった美術館。明日は町まで行って2箇所回る予定です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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296. 17回目のドイツ旅行(24) 雨の中の小さな教会

2023年02月07日 | 旅行

▶今日は午後に重大な使命を抱えていました。

 


ヘルゴット教会でフラウケリンド・ブラウン牧師に写真集と寄付をお渡ししました。

 

▶今日は2019年から皆さんに絵はがきを購入していただいてきた寄付をお渡しする日なのです。

 このクレークリンゲンの町から坂を上がってぽつんと建つヘルゴット教会は私の写真展の大きなテーマです。チラシに載るのは決まってここのマリア様だからです。295号の記事に書いた故ヨハネスが2006年の留学時にこのマリア祭壇で夕陽が窓から差し込むひとときにマリア様の昇天に立ち会うような奇跡の瞬間を捉えた写真をくれたのでした。それはまだ見たことのない厳かさで、「私も見たい!」というと「それなら8月15日にこちらへ来なさい」と言われ、2007年の8月14日夜に三津夫と娘の奈々子と一緒にローテンブルクまでやって来たのでした。その時の様子は以前書いていますので、こちらのリンクからお読みいただければと思います。

15. クレークリンゲン - リーメンシュナイダーを歩く 

15. クレークリンゲン - リーメンシュナイダーを歩く 

旅日記No.13クレークリンゲンのマリア祭壇2000年に初めてクレークリンゲンを訪ねたときには、祭壇が暗くてマリアの表情もよく見えなかったということを旅日記No.8に書き...

goo blog

 

 このような成り行きでたまたま私にも宝と言えるマリア祭壇の写真が撮れたわけですが、その後は天井の改修工事でライトが付けられ、日中でもマリア様のお顔がよく拝観できるようになりました。でも教会はその工事の負債の一部分を引き受けなければならず、今でも寄附を募っています。そのため、このマリア様の写真のおかげで広く日本にリーメンシュナイダーの名前を広める一端を担えたと思う私も寄付を募りたいと思ったのでした。

 どうしたら寄付を募れるのか考えたときに写真を絵はがきにして販売してはどうかと思い付きました。そこで、知人、友人のいる博物館にも許可をいただき、合計24枚の絵はがきを印刷しました。その売り上げの中から印刷代だけ差し引いて純益を計算したところ、247,900円となっていました。これを旅行に行けそうだとわかってから両替したところ、既に円安が始まっていて1,715ユーロとなりました。これを日本からヘルゴット教会の口座に送ると相当な手数料がかかってしまうため、直接現金でお渡ししたくてこの日の午後に面会予約を取ったのです。面会の日程はイングリッドさんが仲立ちをしてくれたのでした。トップ写真の奥にもご夫妻が写っています。送り迎えも見守りも務めていただき、本当に助かりました。

 その時に地元の CREGLINGEN/REGIONという新聞社からインゲ・ブラウネ記者のインタビューを受け、記事が掲載されたので以下のブログで報告してあります。詳細はこちらをご覧ください。
273. 17回目のドイツ旅行(1) まずはご報告から

 

◆2022年9月25日(日曜日)1556歩
 朝9時半から朝食とのことでしたので、昨夜省略したシャワーを浴び、心の準備と出かける準備をして1階に上がりました。
 するとまぁ、テーブルの上には既にたくさんのご馳走が並んでいて絶対に食べきれないほどの量でした。「もっとどうぞ」と言われても申し訳ないと思うのですが、三津夫も私も以前のようには食べられなくなっていますので心の中で手を合わせるばかりです。でも大変美味しくいただきました。


美しいテーブルセッティング。我が家でも研究しないと…。

 

▶今日は紹介したい教会があるのです。

 イングリッドさんにそう言われて雨が降りそうなお天気の中、カメラだけ持って出かけました。美しい草原をドライブして行った先は Ulrichskapelle Standorf (教会・修道院㉔)という小さな教会でした。中ではミサの最中とのことで外でしばらく待ちました。そのうちに雨が降り出しましたが、ミサはなかなか終わりません。この日の牧師さんは午後にクレークリンゲンで会う約束をしているフラウケリンド・ブラウンさんだったのです。私たちは中庭のお墓を見たり、木の下で雨宿りをしたりして、ミサが終わるのを待ちました。

 11時40分頃、ようやくミサが終わって町の人々が帰り始めました。
 このロマネスク様式のウルリヒ礼拝堂(シュタンドルフ)が記録に初めて出てくるのは1429年だそうです。当時は珍しかった八角形の天井を持つ建物だといいます。中から写した写真ではすべての角が見えなかったので夫妻の説明でそうとわかりました。この教会の裏手に「ウルリヒの泉」があり、目の病気を癒やしてくれると有名になって多くの巡礼者が来たそうです。
 堂内中央の柱がなぜかつるつるになっているので思わず手で触れると、近くにいた男性が「健康になるよ」と笑いました。日本の「おびんづるさま」のような柱なのでしょうね。



ウルリヒ礼拝堂(教会・修道院㉔)

 


ウルリヒ礼拝堂の内部 (磔刑像は三津夫)


▶途中で寄った町はレッティンゲンでした。

 お宅まで戻る道筋で「ここはワインの美味しい町ですよ」と案内されたのがレッティンゲンでした。ご夫妻はよくここにもワインを飲んだり買ったりするために来るのだそうです。このときには町の名前がわからなかったのですが、ある教会の墓碑の写真を撮って帰国してから見ると、どうも見覚えがあったのです。それはリーメンシュナイダーの弟子と言われるハンス・フリース作の「フィリップ・フォン・ザインツハイムの墓碑」だったのです。教会の名前もレッティンゲン教区教会(教会・修道院㉕)だったとわかりました。私が以前ヴィリーとシルヴィアにお願いして車で連れて来てもらった町でもありましたし、その後バス便があるとわかって一人で再訪問していた町でもありました。それなのにこの日はまったく思い出すことができませんでした。

 このときヴォルフガングさんが墓碑に書かれている数字の読み方を教えてくれました。
 m=1000年 CCCC=400年 fü=50年 llll=4年 合わせると1454年となるというのです。これをメモしておけば、この墓碑は何年のものなのか、あるいは誰が何年に亡くなったのかがわかるのだろうと嬉しくなりました。今までは訳がわからずに読み流していましたから。ただ十年単位が他の記号の場合はわかるかしら? 今度試してみて、わからないところはヴォルフガングさんかヴェニガーさんに聞いてみようと思います。

 お宅に戻ると綺麗に焼いたチーズケーキと珈琲が振る舞われました。イングリッドさんお手製のケーキだそうです。私も年に1~2回チーズケーキを焼きますが、何しろ我が家のは小さなガスオーブンなので、40年以上もずっと21cmのケーキ型を使っています。シルヴィアもイングリッドさんもそれより一回り大きな型(多分24cm)で焼いたチーズケーキなので見映えも良く、ワンカットも形良く整っていて素敵です。こちらも大変美味しくいただきました。


▶クレークリンゲンの大役を果たしてからようやく見えたもの

 午後1時20分、クレークリンゲンのヘルゴット教会(教会・修道院㉖)に向けて出発しました。日本の皆さんからお預かりした寄付を届けるという大役を果たしてホッとしたところで、ブラウン牧師さんが案内してくださったのがミニチュアのマリア祭壇でした。ガラスケースに入っているのでどうしても光が反射してうまく写せないのですが、その解説書を読むと Willstätt に住む Klaus Schettle という方が1958年に初めてこのリーメンシュナイダーによるマリア祭壇を見て大変感動し、彼の兄弟からミニチュアを彫るということについて話を聞いたことがきっかけとなって自分もマリア祭壇のミニチュアを彫ろうと思ったのだそうです。彫るのに見合った木材を探し続けて150年ほど経っている楓材を見つけ、仕事を続けながら何十年かかけてようやく仕上げたものだそうです。マイクロスコープまで使ったとも書いてありました。
 このミニチュア祭壇は本当に細かなところまでしっかり美しく仕上げられていて「我が家にも欲しい!」と叫んでしまったほどでした。シェッテルさんとそのお連れ合いが2021年8月にこのミニチュア祭壇をクレークリンゲン市に寄付してくれたのだそうです。そして8月14日にヘルゴット教会に据え置かれたとのこと。この教会に行く方は忘れずにご覧になってみてください。



三津夫のカメラを持つ手と較べてどの位小さいものかおわかりただけるでしょうか。

 
 今まではいつもマリア祭壇ばかりに注目していたので、堂内を一巡りして大きなクリストフォロスの壁画が描かれていたことに初めて気が付きました。どうも私はまだ教会内全体を見るというゆとりを持てていないのだと痛感しました。もっと広い目を持ちたいと思います。この壁画も写真に写したので記念と自分への戒めとして載せておきます。


この壁画は1515年頃の作だそうですが作者名は書かれていませんでした。


 このあとラインハルト家まで一度戻って休憩。ホッとして日記を書きました。
 そして5時半には Zum Falken というレストランに出発。ゆっくりと最後のお喋りをしながら夕食をいただきました。

 明日はシュヴェービッシュ・ハルまでバスと列車を乗り継いでの旅となります。でも、まだ慣れないユーレイルパスのアプリに明日乗る列車の登録がなかなかできず、悩みを抱えながら帰りました。お二人にも心配をかけてしまいましたが、なるようになると開き直るしかありません。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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295. 17回目のドイツ旅行(23) 久しぶりに見たフリーデルの笑顔

2023年02月06日 | 旅行

▶今日はローテンブルク経由でクレークリンゲンに向かいます。



気になっていたユダの足下
 聖ヤコブ ルター派教会(教会・修道院㉓)(緑) 「聖血の祭壇」1501.04.15~1504/1505


▶ユダの鍵の謎

 ローテンブルクにも15回目の訪問となる今日の目的は、ユダの足下の研究でした。町の中央に立つ聖ヤコブ ルター派教会(以下聖ヤコブ教会 教会・修道院㉓)の「聖血の祭壇」の話です。この祭壇の中央に設置されている最後の晩餐の彫刻では、キリストが裏切り者のユダに厳しい目を向けている様子や、それぞれの弟子たちの驚く表情、慌てて何か言い合っている様子、ユダの服の詳細な彫りなどを主に撮影してきました。
 けれども、故ヨハネス・ペッチュ氏(以下ヨハネス ブッフ・アム・ヴァルトに住んでいたアマチュア写真家)がこのユダを取り外すという「ユダの鍵」を撮影しているのです。何のための鍵なのかずっと気になっていました。そして教会の壁には下のような比較のための写真が貼られているのです。左側がユダを取り外したところで、右側が普段私たちが見ている構図、ユダが前面の中心に立っている写真です。



(上)中央のユダを取り外した写真と設置してある写真 (下)ヨハネスが写したユダの鍵の写真


 この写真は以前から見ていましたが、やはりこうしてよく見較べてみると、素材となる木材の幅が短く、リーメンシュナイダーは見る人にもっと長い机をイメージして欲しくて中央のつなぎ目を隠したかったのではないか、そのためにユダを前面に立たせる構図を考え、却ってその構図がドラマを引き立てる効果を出したということではないだろうかと思えます。けれども他の彫刻はある程度群れで彫られていて安定して立っていますが、ユダだけ単体でこの位置に立てるとどうも危なっかしい。だから床にしっかり止める方法を考えてこのようにしたのではないでしょうか。
 でもそれならなぜこの鍵は作られたのでしょう。なぜユダを外せるようにしたのでしょう。将来修理が必要になったりしたときのためでしょうか? それとも奥行のある机の下を年に一度掃除するときのためなのでしょうか? いやいや、どれも凡庸すぎますね。しっかり止めたままでも良さそうなものなのに…。やはり鍵の謎は解けないままです。
  
 ただ、鍵をどこからどうやって開けたのかという謎は今回細部を写してやや解けてきました。トップの写真を見ると、左手前に何やらとがった金具が見えています。その延長上にどうやらユダの右足があるようです。黄色い矢印を付けた上に、手前の金具と同じような小さな小さな金具が見えています。手前の金属部分のどこかを例の鍵であけるとユダの右足の裏を止めているこの小さな金具がはずれるのではないでしょうか。その鍵穴を見付けてみたいものです。それにはもっと身長が必要なのですが。

 それにしても今までこの飛び出した金具自体に気が付かなかったのはなぜなのだろうと不思議になり、以前写したこの祭壇の写真を見てみたところ、ほとんどが正面からの写真で、真正面からだとまったく金具には見えなかったことがわかりました。斜め下から写したから飛び出している取っ手のような金具だとわかったのでした。今後も行く度に少しずつ謎に迫ってみたいと思っています。
 


▶今日はローテンブルクからブッフ・アム・ヴァルトを経由してクレークリンゲンに向かいます。

 いきなり「聖血の祭壇」の話に入ってしまいましたが、今日はなかなか忙しいのです。最初にローテンブルクに行き、そこからブッフ・アム・ヴァルトに回り、最後はクレークリンゲンのラインハルト家に泊まらせていただくのです。今日はそのバタバタ日記になります。


◆2022年9月24日(土曜日)6710歩
 ホテル・レギーナをチェックアウトしたときもオーナーが駆け寄ってきてトランクを階段下まで下ろしてくれました。「来年(今年のことです)また来ます」と心の中で感謝しながら、ヴュルツブルク中央駅へ。

 今日の最初の目的地はローテンブルクです。上記の「聖血の祭壇」を見に行くためです。ただ、悩みは大きなトランクでした。ローテンブルク駅から町までは10分ぐらい歩かなければなりません。コインロッカーがあればと思いましたが、この日の宿を提供してくださったイングリッドとヴォルフガング・ラインハルト夫妻が探してくれたものの、コインロッカーのボックスはあるけど機能していないのだそうです。そこで前夜三津夫に相談しました。
「何度も行っている聖ヤコブ教会なのだけれど、あと少しだけ撮影したい箇所があるので急いで行ってくるから駅で荷物を持って待っていてもらえないかしら」
と。でも嫌な顔をして断られました。当たり前ですよね。気持ちはよくわかります。それなら仕方がないのでトランクを持って教会まで歩くしかありません。

 翌朝は歩く覚悟を決めて列車に乗り、10時51分にローテンブルクに到着。そうしたら三津夫が駅でトランクを見ていてくれるというのです。ありがとう! そんなわけで、何時になるかわからないのでラインハルト家には用事が済んだら電話を入れると約束してありました。彼女たちの家から車で迎えに来てくれるという本当にありがたい友人夫妻です。

 すぐに聖ヤコブ教会(教会・修道院㉓)に小走りで出かけました。教会に入り、祭壇のある2階に急いで上がるとあいにくツアー客が祭壇前のベンチに座ってガイドさんの説明を受けていました。祭壇があるのは小さな合唱隊席なので大変狭く、なかなか正面から撮影ができません。最初に奥の壁に掛かっていた「ユダがある時とない時との比較写真」をもう一度写しましたが、曲がっています。私は元々四角いものを正面から写すのはどうも苦手で仕方がないのですが。
 まだガイドさんの説明が続きます。そこで左側から上部に立つマリアを写したり、裏側から天辺に近いキリストの背中を写したり、真横から祭壇の横幅の薄さを写してみたりするうちにやっとツアーの人々は階下へ下りていきました。すわっとばかりに急ぎ写したのがトップの写真です。次の人たちが来るとなかなか良いアングルを見つけるのが難しいからです。何とか金具の出っ張りを写し、ようやく駅まで戻りました。

 それから駅前のショッピングセンターにある花屋さんに駆け込んで籠入りの花をヨハネスのお墓のために買いました。花束だと後で困ることもあると身に染みたからです。この後ようやく三津夫の元に戻ってお昼を買いました。ケバブ屋さんが駅の横までテーブルとベンチを出していたので、三津夫はここで本を読んだりして待っていてくれたのです。ここのケバブは以前から美味しかったので、お昼用のケバブを注文。飲み物も買って暖かい外で食べました。本当にお待たせしました。

 

▶次はブッフ・アム・ヴァルトのフリーデルを訪ねます。

 食事が済んですぐにクレークリンゲンの丘の上に建つラインハルト家で待っているイングリッドさん(ヴュルツブルクのイングリッドとたまたま同じ名前の方)に電話を入れました。私からの電話があったらヴォルフガングさんと一緒に車で迎えに来てくださることになっていました。そしてすぐにブッフ・アム・ヴァルトのフリーデルにも電話を入れましたが、まだ着く時間がわかりませんので、「また駅を出るときにもう一度電話をちょうだい」と言われました。ラインハルト夫妻の車に乗ってすぐにフリーデルに電話を入れておきました。
 フリーデルは、上記のように私の写真集の出版を推してくれた写真家ヨハネス(故人)のお連れ合いで、7月には90歳のお誕生日を迎えました。2019年にもやはりラインハルト夫妻と一緒にヨハネスのお墓参りに行ったのですが、日程が合わず、フリーデルは出かけていて会えなかったのです。夫妻にとっては2回目のフリーデル訪問で、初顔合わせとなりました。



フリーデル、お世話をしてくれているエリーナさん、フリーデルが切り抜いた記事を持つ三津夫


フリーデルのサンルームにて あと何回会えるかな…


▶フリーデルの笑顔

 フリーデルはヨハネスが2010年に脳梗塞で倒れてことばが話せなくなってから辛い日々を過ごしてきました。ヨハネスとの意思疎通が難しくなって二人ともに笑顔がなくなっていたのです。そして2015年にヨハネスが再び倒れて亡くなった後は電話をかけてもいつも悲しげな声でした。足を痛めて歩きにくくなり、手術を受け、そのリハビリの時期にリトアニアから働きに来ているエリーナさんが泊まり込みでフリーデルの世話をしてくれるようになったのです。その後は手紙でも電話でもとても明るい声になり、今回の訪問時にもケーキや珈琲など準備して待っていてくださいました。上の写真の三津夫とフリーデルの間に座っているのがエリーナさんです。彼女のおかげでフリーデルは昔のように笑顔を取り戻すことができました。この日も初対面のラインハルト夫妻とも笑顔で会話を交わし、住所交換もしていました。たっぷりケーキと珈琲をいただき、広い庭に出ておしゃべりをしました。お天気が良く、暖かな思い出の時間を持つことができたのを本当に嬉しく思います。

 さて、お墓参りに行こうと思ったら、彼女は毎日のように行っているから今日は行かないとのこと。「お花をどうしましょう?」というとテーブルの上に飾っておきたいとのことでした。ヨハネスに書いてきたカードを渡して、ラインハルト夫妻と4人でお墓参りをしてきました。これで大事な友だち3人のお墓参りの旅は終わりました。


「ヨハネス、フリーデルが笑顔で過ごせるようになって良かったわね」とご挨拶。


▶クレークリンゲンではラインハルト家に2晩お世話になります。

 2016年の旅で知り合ったラインハルト夫妻は、以前から「今度クレークリンゲンに来たら我が家に泊まりなさい」と言ってくださっていましたので、今回ご都合を伺ってお邪魔することにしました。
 ヨハネスのお墓参りを済ませると、一路夫妻のお宅へ。こちらはクレークリンゲンの町を見下ろせる小高い丘の上の住宅地に建っています。斜面のある広い林がお庭になっていて毎年胡桃もたくさん採れるそうです。その庭の下に息子さんの一家が住んでいて2人のお孫さんが可愛くて仕方がないご様子。コロナ禍ではこんなに近くにいるのになかなか会えないと嘆いていらっしゃいましたが、今はとても明るい笑顔でした。
 いつものように『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』とささやかなお土産をお渡しすると、仲睦まじく肩を寄せて見てくださっていました。日本のお土産の箱はいつも開けるのが勿体ないと言ってくださいます。開けたままの形で包装紙まで保存してあるのです。



一緒に『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』をご覧になるラインハルトご夫妻


 私たちには半地下のお部屋が提供され、専用のトイレ、バスルームを使うことができました。暖かい布団も毛布も用意されていて、サッパリしたお部屋でした。シャワーを浴びるときだけ少しハイツングを入れさせていただきましたが、部屋では暖房を使わずに過ごすことができました。お二人が日本に来ることがあれば我が家の狭い部屋に泊まっていただくつもりです。

 この日の夕食は近くのWein Paradies のレストランへ。ワインがとても美味しいのだと勧められ、普段飲まない私もお相伴にあずかりましたが、確かに美味しい! でも、やはりワインは強いのです。最後にトイレに行くときは足下がふらついていました。でも三津夫は大変気に入ったと喜んでいたら、何とその美味しいワインを1本、お土産だと渡されたのです。本を一冊ずつフリーデルとラインハルト夫妻にお渡しして軽くなったところへ重たいワインが一瓶加わりました。

 そのお勧めのワインがこちらです。

 

 外に出ると吐く息が白くなるぐらい冷え込んでいました。まだ9月ですが、もうドイツは秋も終わりのような寒さです。

 明日は以前から気になっていたクレークリンゲンのヘルゴット教会に寄付を渡す日です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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294. 17回目のドイツ旅行(22) 懐かしいフランケン博物館へ

2023年02月05日 | 旅行

▶22回目のフランケン博物館訪問


フランケン博物館(美術館・博物館⑯)


▶今日は午前中に懐かしいフランケン博物館(美術館・博物館⑯)を訪ねました。

 今日のイングリッドとの約束は午後3時です。それまでの間に懐かしいフランケン博物館で変わりはないか確認しに行くことにしていました。最初の頃はマイン川を越えた先でトラムを降り、その先の案内札から小道に入り、ずっと坂を上がってマリエンベルクまで歩いて行っていました。城塞の麓についても、更にトンネルをくぐり、ようやくフランケン博物館までたどり着くので、結構疲れたものです。でも今日は私の足腰の状態では歩きで上がるのは辛いので、バスがないか調べるところから始まりました。

 

◆2022年9月23日(金曜日)11403歩
 朝食を取ってから、まずはホテルの前のトラムステーションで一日券を買いました。2人で1日乗り放題で6.4ユーロでした。午後は墓地まで行くし、十分元が取れる便利でありがたい切符です。
 次に、ヴュルツブルク中央駅まで行ってバスの路線図を調べてみたところ、観光時期の4月から10月までは、マリエンベルクのトンネルの先まで行ってくれるミニバスが Festung (マリエンベルク要塞のこと)まで走っていることを知りました。
そのバスは 世界遺産のレジデンツの側にあるResidenzplatz から出発し、Juliuspromenade を経由してマイン川を越え、終点の停留所である Schönborntor に停まるのです。私たちはユリウス・プロメ(ム?)ナーデでしばらくバスを待ち、シェーンボルントアに10時25分頃着きました。バスはその後数分でまたレジデンツプラッツまで戻っていくのです。主な観光名所を結んでいるバスなのですね。シェーンボルントアからほんの少し最後の坂道を上がるだけでフランケン博物館のある一角にたどり着きます。



ユリウスプロメナーデのバス時刻表


マリエンベルク要塞下のバス停


フランケン博物館のすぐ下まで行ってくれる9番のバス 


▶今日で22回目となるフランケン博物館

 コロナ禍でドイツ旅行ができなかったときにペーターが送ってくれた新聞記事で、フランケン博物館は「リーメンシュナイダーからミッキーマウスまで」という内容に変わっていく予定だと書かれていたので、もう変わりつつあるかもしれないと不安でしたが、幸いリーメンシュナイダーの作品が並ぶ広間は変わりありませんでした。増えている作品もおそらくなかったと思いますが、ここからなくなっている作品も多分なかったと思います。1999年にここへ来て、ペーターと初めて拙いドイツ語を交わしたことを思い出しました。

 ただ、この部屋を出てからはずいぶん大きな変化がありました。私が好きな砂岩の大きな彫刻群「ゲッセマネの眠れる使徒ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」が見当たりませんでした。その前に大きな衝立のようなものが置かれていたので、今後移す予定なのか、もう移されたのかわかりませんでした。またぐるっと回って最後の1階に戻ると、そこには昔使っていた大きな葡萄酒を絞る機械のようなものが何台かあって歴史を感じたものでしたが取り払われていたようです。一時的に他に移されたのかもしれません。
 残念だったのは、売店の品物にずいぶん簡易な小物が増えていたことでした。そして順路をとても厳しく指定し、最初にトイレに行きたかった私たちは逆ルートになるため注意されてしまいました。2階でトイレを済ませた後は本来戻らなければいけなかったのですが、三津夫は「自分で好きな順序で回る権利があるんだ」と言ってそのままリーメンシュナイダーの部屋に行ったのです。そこからずっと逆コースを辿ったのでどの部屋でも厳しい顔で見られ、2回も注意されて、私は謝りながら身がすくむ思いでした。以前はこんなことはなかったので、何だか職員の表情にも全体にゆったりした良さが失われてきている感じがして、寂しさを感じました。


▶イングリッドとの再会

 午後3時に墓地に着くには2時23分のバスに乗らなければなりません。フランケン博物館を出てから駅でサンドイッチを買い、部屋でゆっくり食べました。
 一休みしてから駅前の花屋さんに行ってバラとかすみ草の花束を作ってもらいました。バスに乗って順調に Friedhof に着いたらどうも見慣れた足取りのイングリッドが前を歩いていたのです。後ろからそっと行って彼女の腕を取ったらびっくりしていました。イングリッドは足が痛むためにゆっくりと歩くので、腕を組んだまま墓地の中に入りました。入口からも結構歩きました。私が持って来た花束は土に挿す花瓶がないと供えられないと、ちょっと困った顔のイングリッド。でも近くのお墓の側で投げ出されていた花挿しがあったので借りて水を汲んで持って行くとホッとしていました。花が枯れたら返すからと言われて、元あった場所を伝えておきました。



ペーターのお墓にご挨拶 下は三津夫とイングリッド


 その後、夜はお寿司を一緒に食べましょうと誘いましたが、イングリッドはしきりに今からドーム・カフェに行ってお茶を飲むと言います。ここはイングリッドが払うからと。そこでまずはキリアン大聖堂の隣にあるドーム・カフェに行きました。最初にケーキを選び、その後テーブルで待っていると、そのケーキを持って注文を取りに来てくれます。私たちも珈琲を頼みました。
 そこでいろいろ話しましたが、イングリッドは早口なので私はいつも十分聞き取れないところがあります。わかったことは、イングリッドにはシルバーパスがあるので、お天気のよい日はお墓参りに来るのだそうです。また週に一度は同じアパートの仲の良いお友だちとドームカフェに来てお喋りするのが楽しみなのだそうです。
 お茶とケーキをいただきながら、5冊目の写真集に載せたペーターの写真を見せたり、去年送って戻ってきてしまったクリスマスカードを渡したり、ペーターに書いてきたカードを渡したり。ペーターの最後の夜のことは今も何度も思い出すと言っていました。夜中にバスルームに行ってからなかなか戻ってこなくて…と、悲しそうでした。今まではどこに行くにもペーターが送り迎えしていたのですが、その支えがなくなって大変な思いをしていることでしょう。でもずっと仲良くしていたお友だちの存在があって本当に助けられているようです。
 最後にもう一度お寿司を食べに行きましょうと誘ったのですが、私はもっとここでゆっくりしたいし、このあと町を散歩したいからと言うので、諦めてお別れしました。もっと強く強引にお誘いしたら受けてくれたのかしら…それともペーターとの思い出が蘇って辛いのかなぁ…と心残りです。


▶私たちは明日ここを発ちます。

 イングリッドとの夕食は実現できなかったので、残った数時間でヴュルツブルクの町のおさらいをするようにキリアン大聖堂、ノイミュンスター、マリア礼拝堂(順に教会・修道院⑳ ㉑ ㉒)と巡りました。マリア礼拝堂には何回来たという記録を付けるのも無理なほど、留学中にもその後の一人旅でも、何度も入っては「騎士コンラート・フォン・シャウムベルク碑銘彫刻」を眺めてきました。
 独身だったコンラートは1499年に旅に出る前に財産関係の書類と遺言状を市に委託し、「碑銘彫刻をマリア礼拝堂に設置して欲しい」と依頼して出かけたそうです。きっとリーメンシュナイダーは彼と面識もあったでしょうし、彼の出かける姿を思い描きながら彫ったのでしょう。その深い表情は哲学者のようで、見ているとなぜか心が鎮まる彫刻です。


「騎士コンラート・フォン・シャウムベルク碑銘彫刻」(緑) マリア礼拝堂 1502年


 明日はローテンブルクに寄ってから90歳になったフリーデルに会いに行きます。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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293. 17回目のドイツ旅行(21) ミュンナーシュタットは空振り バンベルクは大満足

2023年02月04日 | 旅行

▶今日はミュンナーシュタットとバンベルクに行きました。


ミュンナーシュタット の聖マグダレーナ教会(教会・修道院⑱)


▶まずはミュンナーシュタットへ。

 『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』を編集しているときに、マティアス・ヴェニガーさんが撮影したミュンナーシュタットのマグダレーナ祭壇(聖マグダレーナ教会)の写真を掲載してもよいかどうかお伺いしたときに、快諾してくださったのがマルクス・ライス牧師さんでした。今日はそのライス牧師さんを訪ねてミュンナーシュタットに出かけました。2021年にミュンヘンのバイエルン国立博物館で大展覧会を開催したときにこの教会の祭壇の枠を修理したと聞きましたので、教会にはすでにファイト・シュトースの祭壇画も戻っていて見られると思ってのことでした。今まで私は3回、三津夫は2回この教会を訪ねたのですが、その祭壇画が壁に掛けられていることを認識していなかったため見逃していたのです。


 日本からメールでご都合を伺うと、この日にお目にかかれるとのお返事をいただき、「何時頃が良いですか?」と聞かれたので、「22日の朝の9時頃に伺えると思います。お目にかかれるのを楽しみにしています。」とメールを送ってありました。今朝になってもまだそのメールへの返信が無かったのは少々気になりましたが、今までにもすべての方がちゃんと了解した旨を伝えてくるわけではなかったので、それほど心配せずにいたのです。

 

◆2022年9月22日(木曜日)12950歩
 朝8時1分発ヴュルツブルク中央駅発の列車に乗りました。
 ところが出発してすぐに改札にきた女性の車掌さん、ユーレイルパスを提示すると「どこまで行くんですか?」と怪訝そうな顔。「ミュンナーシュタット駅まで」というと、そのためには列車の連結部分の前に乗らなければならなかったことを彼女が教えてくれたので、次の駅で慌てて前に移りました。こうした連結の列車には何時も頭を悩ませられます。電子表示を見ていればわかったかもしれませんが、この日は気が緩んでいたようです。シュバインフルト中央駅でその連結を切り離すのに時間がかかり、15分遅れでミュンナーシュタットに到着しました。

 9時ごろには着けるだろうと思っていたのに遅れてしまったため聖マグダレーナ教会(教会・修道院⑱)まで急ぐと、車は1台停車しているのですが教会内には誰もいません。まだ内部は大きく工事の幕が掛かっていました。もしかしたらお忙しくてお仕事に戻られたのかもしれないと、まわりに牧師館がないかどうか探してみましたがわかりません。一度それらしき建物のベルを鳴らしてみたのですけれども、それも応答無しで、ライス牧師にお会いすることを諦めざるを得ませんでした。

 ただ、がっかりしたのは、教会に戻ってどこをどう探しても教会の祭壇はまだ全然できていなくて、シュトースの祭壇画も戻ってはいなかったことです。三津夫は堂内をくまなく探したけれどもなかったと言っていました。せめてライス牧師さんにご挨拶できれば少しは来た甲斐があったと言えますが、牧師さんにも会えず、お世話になったお礼も言えず、シュトースの祭壇画も見られず、とても残念でした。絵はがきを買い求め、献金をして名刺に簡単なご挨拶を書いて次の目的地、バンベルクに向かったのでした。
 その列車内でもう一度メールを送ってみたところ、「パソコンに向かう時間が無く、あなた方が9時に来ることがわかっていませんでした。その時間には教会の周りにいたのですが、残念でした」とお返事が来ました。私たちにとっても本当に残念でしたが、また次の機会に、ちゃんと祭壇も祭壇画も戻っていることを確かめてから伺うことにします。


聖マグダレーナ教会にて 幕が掛かっていなかった一部(三津夫)


▶バンベルクに再びやって来た理由

 三津夫が旅行前に「バンベルクにも博物館があるはずだけど見てないよね」というので調べてみたところ、大聖堂の隣に「バンベルク教区博物館」があるらしいことがわかりました。しかもエルケさんにいただいたファイト・シュトースのカタログを眺めていた三津夫が、この博物館にシュトースの彫刻があるのを見つけました。バンベルクの大聖堂に私は6回来ているのですが、なぜか今まで一度もこの教区博物館に入ったことはありませんでした。今回、三津夫の発見で初訪問となります。これを楽しみにしてバンベルクまでやってきたのです。

 バンベルクのマルクト広場で昼食のパンを買って食べ、坂を上ってまずはバンベルク大聖堂(教会・修道院⑲)に入りました。
 私が一番気になっていたのは『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』に載せたシュトースの「マリア祭壇」(前掲書43~46頁)です。私の写真では、生まれたばかりのキリストの顔がきちんと写っていなかったので撮り直したかったのです。今回はしつこいぐらいにアップで撮り直しました。
 また、リーメンシュナイダーの「皇帝ハインリッヒⅡ世と皇妃クニグンデの石棺彫刻」(前掲書30~39頁)と「いわゆるリーメンシュナイダー祭壇」の聖セバスチアン(同40~42頁)
にもご挨拶してきました。

 改めてリーメンシュナイダーの石棺彫刻の素晴らしさを再認識しました。この石棺彫刻は側面に5枚のレリーフが彫刻されています。そのうちの1枚「大天使ミカエル」は私たちの5冊目の写真集の表紙を飾りました。この写真を強く押したのが三津夫です。いつも表紙には最大限の拘りを見せ、裏表紙も含めてほとんどが三津夫の選択でした。第5巻にはその5枚のレリーフを掲載してあります。ただ、説明を入れると大変長くなってしまうので写真頁に細かな説明をするのは控えているため、そのレリーフの意味するところは何かについては触れていません。もし詳細を知りたい方は、植田重雄先生の『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社 )の 194~201頁を是非お読みください。
 

▶いよいよバンベルク教区博物館(美術館・博物館⑮)に入館です。

 ここでバンベルクの写真掲載でお世話になったブリギット・カストナー博士にご挨拶できたらと受付で聞いてみたところ、「今、お昼で出ているから戻ったらメッセージを渡しておきますよ」とのことでしたので、受付嬢にお礼を書いた名刺を渡しておきました。三津夫が入館前の売店でいつものようにカタログや絵はがきなどをチェックをしていると、バタバタと2~3人の館員が戻ってきました。受付の女性が1人を引き留めて私を紹介してくれたので、急ぎカストナー博士にご挨拶だけすることができました。

 さて、中に入ると彫刻や工芸品がたくさん出てきました。段々今日の核心に近づきつつあります。三津夫がまたしても私より先に「リーメンシュナイダーがあったよ」と知らせてきました。それは今までどこのカタログにも紹介されていなかったリーメンシュナイダー工房作のマドンナ(1510年)でした。顔も表情も確かに納得の作品でしたが、「バイエルン州からの貸し出し」と書いてありましたので、バイエルン国立博物館のヴェニガーさんはご存じかもしれません。いずれにしても私のリーメンシュナイダー作品リストに1点加筆しなければ。これは久しぶりのことです。

 そして三津夫がカタログを眺めては見るのを楽しみにしていたシュトースの群像は3体、単体の彫刻1体「マリアの昇天群像より右の一群」「マリアの昇天群像より左の一群」「跪く若者(単体彫刻)」「荒野のエリアス」と、4体もあったのでした。いずれもマリア祭壇の Schrein にあったと書かれていますので、大聖堂内のマリア祭壇の下部にあったものかもしれません。「荒野のエリアス」というタイトルの彫刻は初めて見ましたし、予備知識がなかったのでこちらも私たちにとっては新発見でした。
 ほとんど他の参観者もいない中でゆっくり拝観してきました。ミュンナーシュタットでは空振りで残念でしたが、ここでは思っていた以上の作品を見ることができ、大満足の日となりました。



大聖堂と隣り合わせで建つバンベルク教区博物館(美術館・博物館⑮)

 

▶バンベルクといえばラオホビアー

 三津夫はバンベルクのラオホビアーが大好きですが、この町のあるお店でしか買って帰ることができません。そのお店が「シュレンケルラ」、下の写真です。大聖堂からの帰り道で私にそのラオホビアーを2本買って来てと言います。このお店の前にはいつも多くの人が並んでいます。
 以前ヴィリーとここに来たときにはまだコロナパンデミックもなかった時代で、通りまでテーブルが出ていて多くの人がラウホビアーを飲みながら歓談していました。私たちだけだったらこの混雑ぶりでは諦めていたことでしょう。でも、ヴィリーは臆することもなくどんどん中に入っていったのです。テーブルに空きはなく、1人で座っている男性に、ヴィリーはにこやかに声をかけて私たち3人とも相席させてもらうことができました。ヴィリーの人付き合いは本当に上手です。彼のおかげで『地球の歩き方』にも紹介されているこの有名なレストランで食事をすることができたのでしたが、とても美味しかったのを覚えています。もう一度行くとしても、私たちだけではテーブルを確保するのも難しそうです。

 結局この日、ラオホビアーを2本だけ買うのにも中に入って長い列に並び、10分以上かかったのでした。



ラウホビアーを唯一買って帰れるお店、シェレンケルラ


 バンベルクからヴュルツブルク中央駅までは普通列車で約1時間。ホテルに戻って一眠りしたらお腹が空きました。夕食は駅のアジアンフードの焼きそばを買ってきてトマトと一緒に食べました。三津夫は冷蔵庫がないので泡立つラオホビアーを飲みましたが、きっと満足したことでしょう。

 明日はいよいよイングリッドと久しぶりに会ってペーターのお墓参りに行く日です。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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292. 17回目のドイツ旅行(20) 寂しくなったヴュルツブルク

2023年02月03日 | 旅行

▶今日からヴュルツブルクに3泊します。



ホテル・レギーナからの眺望 右奥がヴュルツブルク中央駅、白いビルは郵便局、郵便局前の広場はバスターミナルです。


▶ヴュルツブルク中央駅前の様変わりに驚きました。

 ヴュルツブルク中央駅でも大分長いこと工事が続いていましたが、今回下り立ってみて駅周辺の大きな様変わりに驚きました。ちょうど上に載せた駅前の写真からはみ出してしまった右側にユダヤの人々を悼む記念碑が4枚と、モニュメントが出来上がろうとするところだったのです。戦後77年経って未だにこうして戦争への加害の立場に立った反省の姿勢を見せ続けるドイツという国には本当に頭が下がります。
 記念碑には、このウンターフランケンで1941年から44年の間に2064名のユダヤ人が集められ、そのうちの63名だけが生還できたこと、彼らをどのように集め、どこの駅からどこの収容所へ送り出したのか、財産をどのように奪ったのか、逃げようとしたものは射殺されたりガス室に送られたりしたことなどが書かれています。更に1933年には既に身体障害者や病人が虐殺されていたことにも触れ、「私たちはあなた方のことを忘れません」と決意を述べています。そのモニュメントの写真を以下に6枚掲載しておきます。

 

      

 

 
4枚のユダヤ記念碑とモニュメントの一部



◆2022年9月21日(水曜日)4226歩
 この日はエルケさんがくれた食材で美味しいサンドイッチを作り、朝食を取りました。残った分はお昼のお弁当です。寒い中をアパートまで来てアイゼナハ駅まで送ってきてくれたエルケさんとハグしてお別れ。たくさん話せて良かったとつくづく思いました。
 そのときに「これ、持って行って」と渡されたのが例の「修道女の塗り薬」です。心から感謝していただきました。足の動きはアイゼナハに着いたときに較べるとずっとよくなってきましたが、いつまた痛むかわかりませんから心強い守り神です。

 満員列車でヴュルツブルクに向かいました。途中フルダで乗り換えがありましたが、1時間半ほど立ちっぱなし。でも守り神をエルケさんからもらったので気持ちも軽くなっていました。

 ここヴュルツブルクでも一番の目的はお世話になりっぱなしだったペーターのお墓参りでした。私たちが中央駅に着くと必ず迎えに来てくれていて、宿まで車で送ってくれたペーター。彼の姿のない駅に降り立つのは何とも寂しいものでした。

 ペーター・シュミットさんとは1999年に初めてマインフランケン博物館で会いました。ペーターさんはリーメンシュナイダー作品の広間で監視員をしていたのですが、熱心にリーメンシュナイダー作品を見ている2人の日本人に興味を抱いた彼は私に声をかけてきたのでした。そのときに三津夫が写してくれた写真を以前にもこのブログに載せたことがあると思いますが、ここにもう一度載せておきます。


リーメンシュナイダーの作品前で ペーター・シュミットさんと初めてあった日に。

 翌年再びフランケン博物館を訪ねて彼と会い、やっと彼の名前を聞いて、帰国後に一緒に写した写真を郵便で送ってから文通が始まりました。
 そのうちお家にも招かれるようになってヴュルツブルクに行けばいつもペーターがいました。2019年にも私は彼と3回会いました。8月に病院で会ったときは足の手術を終え、痛みがとれたよと輝く笑顔だったペーター。退院してリハビリをしていると聞いていたのにあっけなく脳出血で亡くなってしまったと聞いたときは寂しくてたまりませんでした。ペーターとは20年間のお付き合いでした。
お連れ合いのイングリッドとも何回もお宅で会ってご馳走になりました。そうした2人の親切へのお礼に、私たちはヴュルツブルクを去る前の日にはいつもマイン川沿いのレストランでお寿司を一緒に食べました。今回も彼女にお墓参りに行ってからご馳走しようと思っていたのですが、イングリッドはメールのやりとりをしない人なので、私は息子のペーターとメールで連絡を取っていました。息子さんの伝言で、ヴュルツブルクに着いたらまず電話して欲しいとのことでした。


▶見直したホテル・レギーナ

 駅の正面に見えるホテル・レギーナにはドイツ旅行の最初の頃よく泊まったのですが、一時期朝食も簡素になり、近くのレストランからタバコの煙が上がってきたりしたので、他のホテルをいろいろと泊まって試して回りました。結局ここならと言えるような、立地も料金も内容もよいホテルは見つけられず、それならこの年だとやはり立地が最重要要件だねとなって、今年はホテル・レギーナに戻ってきたのです。車が動かせるのであれば以前泊まったアパートメントは大変住みやすかったのですが、バスに乗っての往復しかできないので、今回はやめておきました。
  
 ホテル・レギーナに着くと、オーナーさんが来てさっさと大きなトランクを玄関の中まで運んでくれました。にこやかで親切なのでホッとしました。まだもっと若い頃のオーナーさんはここまで親切な印象ではありませんでしたので見直しました。一旦トランクを預けてお昼のお弁当を食べに駅前の緑地に行きました。先程書いたユダヤの記念碑の裏側です。ここでチェックインできるまでをゆっくり過ごしました。

 ようやく与えられた4階の部屋に入ったところ、今までで一番広く、トランクも十分に広げられるではありませんか。窓を開けると遠く丘の上まで見渡せます。その景色の一枚が三津夫が写したトップの写真です。
 荷物を納めた後、ペーターのお連れ合い、イングリッドに
電話を入れました。すると金曜日の午後3時に墓地の入口で落ち合うことになりました。ヴュルツブルク滞在の最後の日です。
 あとは町に出てゆっくり3日分の食材とビールを買い込みました。これで朝食は整えられます。今日は体力に余裕があればフランケン博物館-ヴュルツブルク美術・文化史州立博物館(以下フランケン博物館と省略して書きます)に行っても良いと思っていたのですが、まだ足腰の痛みが残っているので今日は無理をしないことにしたのでした。


 さて、明日は聖マグダレーナ祭壇のあるミュンナーシュタットに行ってからバンベルクまで足を伸ばします。『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』でマグダレーナ祭壇の写真掲載を快く許可くださった牧師さんにもお目にかかれそうですが、まだ最終のお返事が届いていないのが若干気になります。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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291. 17回目のドイツ旅行(19) ミュールハウゼンまで日帰りのバス旅行

2023年02月02日 | 旅行

▶今日はドイツ農民戦争記念館を訪ねました。



ドイツ農民戦争記念館の一つであるコルンマルクト修道院(美術館・博物館⑭)


▶もう少し知りたかったドイツ農民戦争

 2019年に第一回目の写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」を開催したときに、何人かの方から「農民戦争記念館には行きましたか?」と聞かれ、「まだ行っていないんです」と答えたのがずっと気になっていました。調べてみるとアイゼナハからさほど遠くないミュールハウゼンという町にドイツ農民戦争記念館があるというのです。今回はそこを訪ねてみようと決めていました。リーメンシュナイダーはこの農民戦争で農民側に加担したために逮捕され、拷問を受けた後は仕事ができなくなったといろいろな文献に書かれていましたので、この農民戦争の指導者であるトーマス・ミュンツァーとの関係性を知りたかったのでした。


◆2022年9月20日(火曜日)10905歩
 ミュールハウゼンにはエルケさんももしかしたら一緒に行けるかもしれないと言っていたのですが、昨日「今の体調ではちょっと無理なのでごめんなさいね」と言われました。ただ、アイゼナハ駅前のバスターミナルからミュールハウゼン行きのバスが8時15分に出ることを調べておいてくれたのでした。昨日通じるようになったばかりのエルケさんとのショートメールが朝早く届き、「今朝は寒いから気をつけてね」と伝えてくれたので、この旅で初めてセーターを着込み、厚い上衣を引っ張り出して真冬用の毛糸の帽子を用意しました。

 朝食には昨日エルケさんが持たせてくれたバケットとトマトを切っていただきました。備え付けの珈琲メーカーは前の宿泊者が残した珈琲滓を洗った後もちっとも動いてくれないのであきらめて、結局日本から持って来たパック珈琲を入れました。朝から気持ちがめげますが、こんなことに負けていては勿体ない。気を取り直して8時前に宿を出ました。

 バス停にはまだ誰もいません。うっすらと霧のかかった寒い朝でした。エルケさんが教えてくれた番号の停留所で待っていると、向こうに停まったバスから運転手さんが下りてきて「どこまで行くんですか?」と聞きます。「ミュールハウゼンです」と答えたら、「今日はそのバスはあちらの停留所から出るんですよ」と教えてくれました。知らん顔で発車されたら乗れなかったバスですが、運転手さんが親切に声をかけてくれたので胸をなで下ろしました。私たちのあとから来て同じバス停で待っていた女性も、一緒にそちらのバスに乗り込みました。
 バスは順調に走り、9時29分に予定通りミュールハウゼン駅に到着。ここから戦争記念館まで歩きますが、まずは方向を確認するため、駅のホームにいた何人かの人に尋ねました。皆親切で、駅に対して直角にずっと道なりにまっすぐ行けば着くよと教えてくれました。2人ぐらいが腕をくねらせたジェスチャーで説明してくれたので、多少カーブがあるらしいとわかりました。


 この町では農民戦争の指導者トーマス・ミュンツァーは英雄として扱われています。駅から少し歩くとトーマス・ミュンツァー学校が建っていました。この胸像の顔は農民戦争記念館でも何度も出てきました。

 
トーマス・ミュンツァー学校と、横に立っている胸像

 そこを通り過ぎて真っ直ぐ進んだのですが、スマホで見たような修道院は見当たりません。町の人々のジェスチャーや写真に惑わされて途中で少し曲がってしまったからのようです。さらに何人かの人に聞きながらようやくたどり着いたのがトップ写真のコンマルクト修道院(美術館・博物館⑭ 建物は教会なのですが、この記念館は博物館としてカウントしました)でした。結構込み入ったところにあったので、もう少しわかりやすい矢印とか案内があると助かるのにと思いました。

 入館するときに「すぐ近くの聖マリア教会にも展示がありますよ」と教えられたので共通チケットを買いました。堂内には壁に沿ってずらりと解説ボードが並んでいました。全部写真に撮るのは相当大変なので、途中であきらめてしまいました。これが本にまとまっていれば買って帰りたかったのですが見当たらず、パンフレットだけもらってきました。ざっと読んだ限りではミュンツァーたちの部隊がヴュルツブルクまで行った形跡はなさそうです。でも詳細は読み取れず、帰ってから調べるしかないとあきらめました。



戦争記念館の内部の様子 農民戦争で使われた武器や楽隊の様子などが展示されています。


▶もう一つの記念館、聖マリア教会

 コルンマルクト修道院からまたまた迷いながらなんとかたどり着いた聖マリア教会(教会・修道院⑰ 教会として機能しているので、こちらは教会としてカウントしました)。ここでは、ミュンツァーについての展示内容を覚えていなくて、ここに書けないことに今気が付きました。何体もの後期ゴシック彫刻があったので、私たちにはそちらの方が興味深く、時間をかけて見ていたのでした。特に妖艶な女性像と見えたのが聖ゲオルクだったのには三津夫も私も大変驚きました。本当に様々な聖ゲオルクの彫刻があるものです。またこの教会の宝としての「Der Einhorn-Verkündigung」(「一角獣と受胎告知」なのか、それとも「一角獣のいる受胎告知?」とでも訳したらよいのでしょうか)祭壇がありました。大変美しいマリアと一角獣のやりとりのテンペラ画は、受胎告知の場に一角獣がいてマリアの膝に足をかけている様子描き、静かで不思議な雰囲気を醸し出しています。ただ、制作時から600年近く経っているため大分破損が進んでいるようでした。


ミュールハウゼンの聖マリア教会(教会・修道院⑰)

 
聖マリア教会の2つの宝のうちの1つ 「聖ゲオルク」(緑) 1505年頃 アルテンブルクのヤコブ・ナウマン工房作か?

 
聖マリア教会のもう1つの宝 「Der Einhorn-Verkündigung」(三津夫) エアフルト 1430~1440頃


▶再びエルケさんのアパートへ

 帰り道で昼食を済ませ、12時30分のバスに乗って無事アイゼナハに戻ったのは13時42分。バス便はほぼ時間通りでした。エルケさんには宿に戻って14時ごろには電話をすると伝えてあったのですが、彼女は「着いたらすぐ電話してね」と返信してきました。どんな様子だったのか気になっているようです。急ぎトイレを済ませてすぐに電話を入れました。
 彼女のアパートへ行く道は昨夜ちゃんと帰ってこられた道なので簡単に考えていたのですが、反対側からの歩きで最後に迷ってしまい、少し時間がかかりました。最初に歩いたときはエルケさんと話しながらだったので曲がり角をしっかりチェックしていなかったことに気が付きました。緑地帯に出ればわかるだろうと思ったのですが甘かったようです。一度彼女に電話をして方向修正。やっと到着して彼女の部屋のベルを鳴らしたのですが、普通はこちらにもブザー音が聞こえるのに何も聞こえません。でもすぐに入口のドアが開きました。階段を上がるとエルケさんが待ちくたびれていました。

 玄関を入るとエルケさんからすぐにある薬を渡されて「試しに塗ってみて」と言われました。それは「 KLOSTERFRAU Mobilind Aktiv Gel (Latschenkiefer) 」と書かれている大きなチューブ入りの塗り薬でした。「化学薬品は入っていない痛み止めだから安心して使ってみてね。私にはよく効くのよ」とのこと。すぐにトイレに入って塗ってみました。スーッと冷たくなるのがあまり好きではないので、日本でも湿布を貼りたくない私ですが、まぁ、彼女の好意だし、薄緑色の透明な薬でしたので試すしかないなと塗った次第。でもじきにひんやり感は消えてホッとしました。
 
帰国してから調べたところ、Latschenkiefer とはハイマツのことだそうです。松ぼっくりの絵がありました。

 その後、待ちかねていた彼女が珈琲とケーキを勧めてくれました。今度のは買ったケーキだそうですが美味しくいただきました。ミュールハウゼンの様子を簡単に報告。そして「三津夫がシュトースのカタログをとても喜んでみているのよ」と話すと笑顔になり、私たちの写真集を5冊とりだしてきて、この写真集がどんな順番なのか教えて欲しいと言います。続編からは表紙に小さく番号も入れてあるのですがよくわからなかったようなので、第1巻から順番に番号を付けたメモをはさんで入れました。そのあとは教育問題やシリア難民の話など息もつけないほどの勢いで話し続けます。普段話し相手がいないのかなぁと思いながら必死で三津夫にも翻訳しながら話しました。「元同僚たちはとても親切で今でもやりとりがあるけれど、近くにおしゃべりできる人はあまりいなくて…」と話してくれました。彼女がヴァルトブルク城で働いていた時の写真を元同僚が誕生祝いにアルバムにして送ってくれたそうです。その若い時の姿も楽しみながら見せてくれました。出逢った頃のウヴェさんも写っていました。

 夜はスープとパンをいただいて8時ごろお別れしましたが、やはりたくさん話した後の彼女の顔は輝き、ずっと若返ったように見えました。
 帰り道、歩きながらふと気が付きました。左足の痛みがずいぶん楽になっているのです。あの薬がよく効いたのかもしれないと、嬉しくなってアパートに戻ってからショートメールを入れました。彼女も喜んでくれました。

 明日は10時にこちらを出てヴュルツブルクに向かいます。朝、エルケさんが送りに来てくれるそうです。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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290. 17回目のドイツ旅行(18) フランクフルトからアイゼナハへ

2023年02月01日 | 旅行

▶アイゼナハに住むエルケさんを訪ねるのは4年ぶりになります。



アイゼナハの景色

▶今日はアイゼナハに行き、エルケさんの新居を訪ねました。

 エルケさんとの繋がりは2010年のヴァルトブルク城から始まりました。
 小高い丘に立つお城の中の博物館にリーメンシュナイダー作の「燭台を持つ天使」(『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』58~60頁掲載)があることがわかり、三脚で撮影させていただけるようお願いしたのです。その時の担当がエルケさんで、お城までたどり着くとすぐに迎えに出てくださったのでした。しばらくするとミヒャエルさんが鍵を持って来てショーケースのガラス戸を開けてくださいました。しかも私の要望に応じて天使像を回転させて後ろの羽が取れた跡まで撮影させてくださったのです。そのご親切が本当に嬉しく、ありがたかったのでした。

 その後もエルケさんとは姉妹のようだとお互いに感じながらメールや写真の交換をし、お連れ合いのウヴェさんと三津夫とも一緒にお話ししたり、コンサートに招待していただいたりして素敵な思い出がいくつもできました。

 ところが、ウヴェさんの体調が次第に思わしくなくなり、2018年にアイゼナハを訪ねたときにはウヴェさんにお目にかかることは無理な状態で、エルケさんとも短時間しかお話ができず、とても哀しそうな疲れた様子の彼女に胸が痛みました。その年の12月にとうとうウヴェさんは亡くなりました。エルケさんの哀しい気持ちがメールからも痛いほど伝わってきました。そんな中でも彼女は1人で住むためのアパートを探し、新しい一歩を踏み出したのでした。そのアパートに今日は初めて伺う日。そして一緒にウヴェさんのお墓参りに行くことにしていました。


◆2022年9月19日(月曜日)11305歩
 目の前のフランクフルト中央駅構内にパン屋さんがあったので、朝7時ごろに私1人でサッとハム入りサンドイッチを選んで買って来ました。その間に三津夫は珈琲を入れてくれています。買ってきたパンに日本から持って来ている辛子を塗り、マヨネーズを加えて食べるともっと美味しくなるのです。私たち2人だけになると大体こんな感じの朝食になります。8時40分にはチェックアウト。

 今日はエルケさんがアイゼナハ駅まで迎えに来てくれると書いていたので、乗車する ICE はドレスデン行きの9時20分発でアイゼナハには11時7分到着予定だと知らせてありました。フランクフルトから2時間弱で乗り換えがないのは助かります。でも発車予定の9番線で待っていると、いきなり10番線発車と変更になり、慌てて移動。がら空きの車両に乗り込んだら全部ドレスデンまでの予約が入っていました。変だなと思いながらも混んでいたのでそこに取りあえずトランクを押し込んで座っていると、女性が来て「ここは全部予約済みで~す」と大きな声で触れ回り始め、学生が入ってきたので「学生の予約だったのね」と苦笑しながら連結部分に出て過ごしました。2時間弱でもやはり腰に来たので、今度から軽い簡易椅子を持って来た方がよいかなと思ったことでした。


▶4年ぶりのアイゼナハ

 アイゼナハに着いてホームに下りると、遠くで赤いものを振っているエルケさんが見えました。近づいてみたら手作りの日の丸の旗を振っていたのでした。思わずお互い笑ってしまいました。でも歩き出すとやはり寂しそうな顔になり、「心臓と血圧に問題があってあまり良い状態ではないの」と言います。この日に私たちが泊まるアパートは旧市街に入ってすぐの「ミケランジェロ」というところでしたが、午後3時からでないとチェックインできないため、エルケさんがアパート提携のカフェにトランクを預かって欲しいと頼んでくれました。これで身軽になってホッとしました。彼女へのお土産は小さなコロコロに入れてあるので大丈夫です。更に町並みの奥まで歩いて行くと彼女のアパートの一角に到着しました。目の前にひとかたまりの大きな木が立つ緑地があって、いかにも気持ちのよい空間です。アパートの最上階ということでゆっくり上がりますが、左足を上げるときがひどく痛むので、仕方なく三津夫や手摺りにつかまって右足で上がり、左足を引きずり上げてやっと着きました。平行移動はアーヘンの帰り道よりは大分できるようになってきたのですが、階段が一番こたえます。

 エルケさんのアパートは、予想していたとおりにスッキリとまとめられていて、ドイツ人らしい清潔感にあふれていました。私が少しずつ贈った小さな木彫りの人形もエルケさんの手にかかると生き生きしてとても素敵です。
 まずは持って来たお土産を渡しました。『結・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーからシュトース』にはサインが欲しいと言われて悩みながらメッセージを入れました。

 エルケさんはスープとパンを用意してくれていたので、ここで昼食をいただきました。具だくさんのスープは栄養満点でとても美味しくてみんな笑顔。片付けをしてから本棚にビッシリ入った本を見せていただいたところ、ファイト・シュトースの分厚いカタログがあったのです。三津夫が「出して見ても良いですか?」と聞くと「どうぞどうぞ」と言われ、手に取ったところ、中身はとてもきれいです。シュトースに関する盛りだくさんの情報が書かれていました。三津夫は興奮状態。それを見たエルケさん、「どうぞ差し上げるから持って行ってください。」と言うのです。「え、本当に良いんですか?」と三津夫が驚いて聞くと、「もう私も退職して使いませんから、必要としている人に差し上げた方が良いと思います。サインをしましょうか?」と一言書き込んでくださいました。三津夫の喜ぶ顔ったらありませんでした。

 3時近くになったので途中で花束を買い、ミケランジェロまで戻ってチェックイン。2階の小さな事務所で手続きを済ませると鍵を渡され、受付の若者はサッとドアに鍵をかけて帰ってしまったのです。今までは宿の人がいたら、しかも若い人だったらまず重たいトランクを持ってくれました。でもこの若者はまるで逃げるようにいなくなってしまったので呆気にとられました。しかも私たちの部屋は最上階だったのです。2人分の重いトランクを持って何段もの階段を頑張って上がった三津夫も息が切れていましたが、私も痛い足をかばいながらトランクを途中まで引っ張り上げて本当に大変でした。
 部屋に入ってみたら広さはまだ良いのですが、キッチンは小さく、ゆっくり調理できそうにありません。ガッカリでした。以前泊まったアイゼナハ駅の反対側のアパートはとても良かったのですが、今回はアクセスできなかったので営業を辞めたのかなと残念に思っていたのでしたが、あちらに泊まることができていたらとても快適でしたのに。


▶何ともひどいバスと宿…

 ウヴェさんは2018年に亡くなっていましたが、2019年にはシルヴィアたちの結婚式のあと、主に南ドイツを回るルートでアイゼナハには行っていませんでした。エルケさんがまだ移転先を探している最中だったこともあり、今回が初めてのお墓参りとなります。
 さきほど町のマルクト広場近くのお花屋さんで買った花を持ち、体調が思わしくないため階下で待ってくれていたエルケさんとおしゃべりをしながらお墓参りに出かけました。ずいぶん歩き、坂を上ってようやく大きな墓地に着きました。ここも木がたくさん生えていて公園のように広々しています。私もこんな墓地に眠れたら嬉しいだろうなぁと思いました。ウヴェさんも気持ちよく眠っていることでしょう。エルケさんが散歩するように度々歩いて来てはウヴェさんとお話しするのだと言っていましたが、彼女らしく花を飾ったきれいなお墓でした。

 お墓参りのあと、私の足を気遣ったエルケさんが「バスで帰りましょう」とバス停に案内してくれたのですが、しばらくしたらザアザア雨が降ってきました。あわてて屋根の下に入ったのであまり濡れませんでしたが、ようやくやって来たバスが私たちの前に停まったにもかかわらずドアも開けずに出発してしまったのです。停留所にいたみんなで怒りましたがどうにもなりません。じきに雨が上がったので「それなら歩いて帰りましょう」と私が言い、結局ゆっくり歩いてアパートまで戻りました。こんな次第で昨日も今日も足が痛いと言いながらも1万歩以上を歩いたのでした。
 お部屋に戻ると、お茶でも飲みましょうと言ってお手製ケーキを出してくれました。ふわふわしてきれいなケーキ。たくさんあって食べきれないので帰りには持たせてくれました。

▶「今日の夕食はご飯を炊くわ」

 …と言っていたエルケさん。でも、その時間になると「はい、緑、このお米でご飯を炊いてね」と丸投げされました。タイ米でしたので水加減がどうかなと思いましたが、取りあえず今までドイツで自炊してきたときの「お米1対水1」の分量で適当なカップを使って量り、炊いてみました。私がドイツでお米を炊くときには丸い粒の日本米に似たお米を使っていたので、細長いお米はまた勝手が違うかもしれないと心配でしたが、まぁまぁの炊き上がりです。その後、彼女が魚の切り身のフライを作ってくれました。でも炊き上がったご飯をエルケさんは私たちだけに盛り付けて、彼女は別メニュー。彼女は揚げ物は食べないようでした。今までにもいろいろなアレルギーがあると話してくれたことがありますが、ウヴェさんの介護の後は自分の体調も崩れて大変だったようです。自分は食べられなくても私たちが食べるであろうお菓子や食事を一生懸命準備してくれていたのだなと思いました。

 食後もたくさんお喋りを交わして、駅で会ったときよりずっと顔色もよく元気になったエルケさん。ショートメールもやっと交換できるようにセッティングしての帰り道。パンやケーキ、トマト、果物などを持たせてくれて、懐中電灯まで貸してくれました。道はほぼ真っ直ぐでしたし、街灯も点いているのでちゃんと迷わずに帰ることができました。

 

▶宿にはガッカリ続きでした。

 さて、ミケランジェロのアパートに帰ってみると更にひどいことがわかりました。部屋の隅っこにあるキッチンは暗いのに灯りがついていないのです。部屋の電灯ではろくに料理もできない造りでした。珈琲メーカーを見てみたら中に前の人の使った残渣が入ったままでしたし、洗面所のお湯は出ない、洗面用具を置くためのガラス棚は落っこちそう、寝室の絨毯回りにはゴミが溜まっている…と、数え上げたら切りがないほど。良かったのはベッドのシーツと布団だけは清潔で布団の予備もあったことでした。この日の夜は冷えましたが、私は腰を温めるために布団をもう1枚かけることができました。

 今日はミケランジェロの受付の若者や、残念な部屋、また乗客を無視して停車したのにドアを開けずに走り去ったバスの運転手など、アイゼナハの印象を悪くするようなことがあったのですが、それでもエルケさんが体調が整わなくとも穏やかに毎日を過ごしている様子がわかって心底ホッとしました。

※このブログに掲載したすべての写真のコピーをお断りします。© 2015-2023  Midori FUKUDA

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