前半は今までも書いてきたことの蒸し返しです。辛抱強く読み進んでくだされば有り難く思います。
はっきり言って、英語なんかいくら勉強しても、立派な人にはなれません。なぜなら、英語の教科書は学習用に「偏りのない」内容を選んで編集してありますし、会話の英語に至っては、内容など全くないからです。漢文が大好きだった私は高校時代から既に「英語の勉強」を捨て、「英語で勉強」をする道を選んでいました。具体的に言えば、大学入試を世界史で受験することにして、その勉強は英語で書かれた世界史の本で行うことにしたのです。
JTで数名の生徒に乞われて長文読解の補習をする時も、あえて受験用の文を避け、「感動する英語」とか、「アメリカ史」を教材として選択しました。また、日本史で受験するという子が多かった学年では、日本史を英文で学習するというやりかたをしていました。ただし、こうしたやり方を取ると、ついて来る子はほとんどおらず、多くて5人ということになってしまったのですが。
英語ができることは、算盤ができたり自動車の運転ができることと特に変わりはありません。算盤が上手でもその人の教養や人格とは何の関係もなく、車の運転テクニックがあっても立派な考え方の持ち主とは限りません。しょせん語学というものは、それだけでは金槌や鋸同様、ただの道具に過ぎないのです。それを使う人間が立派でなければ、それ自体には意味がありません。
その意味で、現在のような方向性で英語教育が進むなら、日本人の全てが頭が空っぽで小手先の業ばかり身に着いた人間いなる恐れがあります。なぜならほとんどの生徒達は中身の無い英語の教科書で英語を教わった挙句、大して実力も身に着かないまま卒業と同時に放り出されてしまうからです。そうした子供たちにとって、英語の授業時間が増えるということは、人間にとってもっと大切なものを教わる時間が減らされてしまうということなのです。
さて、話は英語の話からもう少し広がって行きます。
最近、文部科学省で検討が進み、国立大学から人文社会学部系の学部・大学院の廃止が進められているようです。要は愚かな役人連中が、科学技術が栄えれば国も栄えるというお間抜けな勘違いをしているということです。分かりやすく言えば、how to ばかりを重視して、この世界を構築してきた歴史・哲学といったものを無視するということです。国のあり方や世界の在り方、人間のあり方といった大切なものを教えずに、受験テクニックのみに長けた優等生たちに、更に大学や大学院で how to ばかりを叩き込む・・・・。実に恐ろしい話ではありませんか。いや、既に文部科学省で仕事をしている日本でもトップクラスのエリートたちが、how to に関する知識のみを持ち、人間としての英知を持ち合わせていないことが明白なのではないでしょうか。
最近私は facebook 上で、小学校の教員を勤める人たちの投稿をよく目にします。すると、共通してある特徴が見受けられます。彼らが何よりも重視しているのが、やはり how to なのですね。記事を見ていると、研修会の内容は あくまで授業の「やり方」の研修であって、授業の「中身」、つまり何を教えているかの研修ではないのです。
最近は学習塾ではどういう教え方をしているかを学び、更に授業の「テクニック」に磨きをかけようとする意識が高まっているようです。私は小学校の教員こそ、人間そのものとその生き方について語らなければならないと信じているのですが、肝心の現場ではそのことはあまり重要視されているように思えません。
小学校時代から既に how to 重視の教育を受け、後には大学受験のための how to を学び、大学では更にそれに拍車をかけた how to 教育を受ける・・・・。それは本来あるべき教育の姿ではありますまい。もっとも人文社会学部系においても、将来の就職を見据えた how to に重点が置かれ、純粋に学問を志していたのでは居心地が悪そうな雰囲気も感じます。
こんな風潮が高じれば、日本には真の意味でのエリートは一人も存在しなくなってしまいます。グローバル化する世界に伍していくためには、「歴史を知り、弁論に長け、深い哲学を持った」上で外国語が駆使できるという人材を育成していかなければなりません。今の風潮では、肝心の「 」の中がゼロになってしまいそうです。いや、既にゼロになっているからこそこの風潮が生まれているのかもしれませんが。
はっきり言って、英語なんかいくら勉強しても、立派な人にはなれません。なぜなら、英語の教科書は学習用に「偏りのない」内容を選んで編集してありますし、会話の英語に至っては、内容など全くないからです。漢文が大好きだった私は高校時代から既に「英語の勉強」を捨て、「英語で勉強」をする道を選んでいました。具体的に言えば、大学入試を世界史で受験することにして、その勉強は英語で書かれた世界史の本で行うことにしたのです。
JTで数名の生徒に乞われて長文読解の補習をする時も、あえて受験用の文を避け、「感動する英語」とか、「アメリカ史」を教材として選択しました。また、日本史で受験するという子が多かった学年では、日本史を英文で学習するというやりかたをしていました。ただし、こうしたやり方を取ると、ついて来る子はほとんどおらず、多くて5人ということになってしまったのですが。
英語ができることは、算盤ができたり自動車の運転ができることと特に変わりはありません。算盤が上手でもその人の教養や人格とは何の関係もなく、車の運転テクニックがあっても立派な考え方の持ち主とは限りません。しょせん語学というものは、それだけでは金槌や鋸同様、ただの道具に過ぎないのです。それを使う人間が立派でなければ、それ自体には意味がありません。
その意味で、現在のような方向性で英語教育が進むなら、日本人の全てが頭が空っぽで小手先の業ばかり身に着いた人間いなる恐れがあります。なぜならほとんどの生徒達は中身の無い英語の教科書で英語を教わった挙句、大して実力も身に着かないまま卒業と同時に放り出されてしまうからです。そうした子供たちにとって、英語の授業時間が増えるということは、人間にとってもっと大切なものを教わる時間が減らされてしまうということなのです。
さて、話は英語の話からもう少し広がって行きます。
最近、文部科学省で検討が進み、国立大学から人文社会学部系の学部・大学院の廃止が進められているようです。要は愚かな役人連中が、科学技術が栄えれば国も栄えるというお間抜けな勘違いをしているということです。分かりやすく言えば、how to ばかりを重視して、この世界を構築してきた歴史・哲学といったものを無視するということです。国のあり方や世界の在り方、人間のあり方といった大切なものを教えずに、受験テクニックのみに長けた優等生たちに、更に大学や大学院で how to ばかりを叩き込む・・・・。実に恐ろしい話ではありませんか。いや、既に文部科学省で仕事をしている日本でもトップクラスのエリートたちが、how to に関する知識のみを持ち、人間としての英知を持ち合わせていないことが明白なのではないでしょうか。
最近私は facebook 上で、小学校の教員を勤める人たちの投稿をよく目にします。すると、共通してある特徴が見受けられます。彼らが何よりも重視しているのが、やはり how to なのですね。記事を見ていると、研修会の内容は あくまで授業の「やり方」の研修であって、授業の「中身」、つまり何を教えているかの研修ではないのです。
最近は学習塾ではどういう教え方をしているかを学び、更に授業の「テクニック」に磨きをかけようとする意識が高まっているようです。私は小学校の教員こそ、人間そのものとその生き方について語らなければならないと信じているのですが、肝心の現場ではそのことはあまり重要視されているように思えません。
小学校時代から既に how to 重視の教育を受け、後には大学受験のための how to を学び、大学では更にそれに拍車をかけた how to 教育を受ける・・・・。それは本来あるべき教育の姿ではありますまい。もっとも人文社会学部系においても、将来の就職を見据えた how to に重点が置かれ、純粋に学問を志していたのでは居心地が悪そうな雰囲気も感じます。
こんな風潮が高じれば、日本には真の意味でのエリートは一人も存在しなくなってしまいます。グローバル化する世界に伍していくためには、「歴史を知り、弁論に長け、深い哲学を持った」上で外国語が駆使できるという人材を育成していかなければなりません。今の風潮では、肝心の「 」の中がゼロになってしまいそうです。いや、既にゼロになっているからこそこの風潮が生まれているのかもしれませんが。