今から72年前の今日、弟が生まれた。
私はその時2歳8か月、この日のことをよく覚えている。まだ戦後2年しか経っていないその頃は、日本中が貧しかった。
国民のほとんどが飢えていた。父は戦争から帰って警察官として復職し、家族皆で松任市の片隅の汚い長屋に住んでいた。
お正月のこの日、私は誰からも説明されもせず、家の前に放りだされた。
何もわからないまま、家の中から聞こえるのは母の叫び声で、怖くて怖くて泣いていた。
近所のおばちゃんたちが、忙しそうに我が家の玄関を出入りしている。
誰も私のいることを気にかけもしなかった。
どれほどそこに居たのかは覚えていないが、どこかのおばちゃんが彼女の家に連れて帰ってくれた。
これが私の一番初めの記憶、今でも鮮明にあの汚い長屋や2部屋だけの家に土間の暗い台所とその横の臭いトイレを覚えている。2歳年上の兄はその時何処へ行ったのかは知らない。父は当時敗戦で無事帰還したものの男たちがほとんど陥る無気力症だったらしい。後で聞いたところでは、酒浸りで家には弟のおむつを買うお金もなかったという。
父の母、私の祖母に当たる人は金沢に住んでいて、こんな我が息子を見て泣いていさめたそうな。
そのおばあさんは私が5-6歳のころに亡くなっていて、祖母の記憶はないものの、お葬式だけは覚えている。
その界隈で、ポンポン菓子と呼ぶお米を膨らませてお菓子にして売っていたお家があった。ご主人はペンキ屋さんで宣伝の看板などを描いていた。その家のおばあさんが産婆さんで、弟をとりあげてくれた。
そんな縁からこのおばあさんにとっては、弟は彼女の孫とも思われたらしい。私や兄がお菓子欲しさに行くと、すごく意地悪そうな目をした小さなおばあさんは、”何しに来た ” と怒ったけれど、弟が行くと相好を崩して喜び、お菓子の崩れたものなどいつも呉れて可愛がっていた。
金沢の祖母がたまに我が家に訪れても弟はなつかず、私の孫なのにと泣いたというから、孫の取り合い、年寄りばあさんが張り合っていたのかもしれぬ。その頃の弟はカーリーヘアーに目が大きくて、とっても可愛かった。
両親にとっても末っ子はかわいかったのだろう。私や兄が何か悪いことをしたら、父からこっぴどく叱られたものだ。食事中におしゃべりしたとか、こぼしたというだけでも、父の象牙の箸の太いところで頭を叩かれた。弟だと全然叱られない。それで、私も兄も何かを壊したりしたときは弟がやったことにした。
今考えてみると当時の教育や育児は幼児虐待と言ってもいいかもしれない。同じ兄弟でも両親の子供に対する取り扱いがあんなに違っていたから。ただ父に関しては、愛情の表現ができなかったというのが本当のことだったろうと思う。