< 2013・6・13 初掲載>
< 2014・8・12 再掲載 >
≪ 2017・5・16 再再掲載 ≫
また、8月が巡ってくると、あの灼熱の、身を焦がすような夏を、思い出す。
今から28年前。1985年8月12日。日航機123便は、通常の航路を大きくはずれ、群馬県の山中深くに墜落し、機体は激突し、バラバラに、飛散。
520人もの命が、亡くなった。
私も、逮捕のⅩデーが近いと、噂されていた三浦和義の住むマンション前での張り込みを中止。ともかく、上野村へと向かった。
上の写真の川上慶子ちゃん(左側)が、翌日、奇跡的に救出され、自衛隊のヘリコプターへと運ばれたことは、御巣鷹の峰へと向かう途中で知った。
墜落現場は、息をのむばかりの光景が、広がっていた。そこへ辿り着くまでも、大変だった。道が、無いのだ。
油断すると、ずるっと滑って、谷底のようなところへ、転げ落ちる危険性一杯。
墜落現場も、傾斜度が高く、人間の肉の焼け焦げた臭いが、辺り一面に漂っていた。
写真を撮りまくり、見たままの状況をメモ。自衛隊のヘリが、舞い上がるたび、土とあらゆる小片も、舞った。
機体の破片は、触ると、ぺらぺらと薄く、まるで厚紙のようだった。
数日立つと、鼻も感覚も慣れ、人間の肉の破片のそばで、平気で、旅館で作ってもらった握り飯を食べ、お茶も飲めるようになってしまった。
そいう自分に半ば、驚きつつも、数日過ぎには、藤岡市などの体育館にある遺体安置所や、他の遺族と離れて、別荘にいた故・坂本九の遺族を追ったりした。
ぎらぎらと照りつける、真夏の太陽の皮膚感覚は、今も、残っている。
東京に戻った私は、日航を取材。ひたすら、ボーイング社に機体の原因を押し付けるかのように逃げ回る姿には、怒りがふつふつと湧いた。
あれから、あの現場には1度も行っていない。
あの道なき山道は、きれいに整地され、誰でも登れるようになっているというし、碑も出来ているのは、報道で知っている。
川上慶子のその後は、気になっていた。
しかし、その姿を追ってまで、する気はなかった。
あの凄惨な現場を、この目で何日も見てしまったら、彼女に何か聞くのは酷に思われた。
情報によれば、帰郷した彼女は、島根県大社町に住む祖母のキミエさんの元に引き取られ、たまたま飛行機に乗る事無く生き残った、兄の千春さんと3人で暮らすことに。
その後、島根県下でも名門と言われる、県立大社高校に合格。
やがて、亡くなった母と同じく医療関係の道に進んで、他人の命を救いたいと、看護師の資格を取るべく、大阪にある看護系の、藍野学院短期大学に進む。
平成6年4月。看護師の国家試験に合格。
あの阪神&淡路大震災の時には、兵庫県尼崎市内の病院で、内科の看護婦として、救援活動に参加。
やがて、アメリカへ旅行に行った際に、5歳年下の日本人サラリーマンと知り合い、帰国後平成15年3月に結婚式を挙げた。
少なくとも、1人の男児(長男)か、それ以上を産み、今は、四国のある町で、親子して、幸せにひっそりと暮らしているという。
看護師も、辞め、専業主婦となっていたが、今は全国的に看護師不足。
ひょっとしたら、看護師の経験を生かして、三陸沖大津波地震の被災者支援の1員として、参加したかもしれない。
すでに、40歳。あの時のコトは、マスコミに話すことは、おそらく一生無いであろう。
そうして、私には、長らく気になっている人物が、もう1人いた。
写真の、川上慶子ちゃんを救助し、ヘリコプターへと引き揚げた隊員(写真右側)だ。
今、どうしていて、「あの時」「あの瞬間のコト」を、今、どう感じているんだろう?
数年前、風の便りに、定年退官したらしいと、耳にした。
現役自衛官時代ならば、「仕事でしたから」とか、「職務上、知りえた事実は・・・」とか、紋切り型で断る理由づけは出来ても、退官後ならば、少しは斬り込んでいける余地が、あるのではないか?
そう、思った。
なんでそう、堅い考えを、と思われる方もいるだろう。
実は、その自衛官は、あの時のことを、そののち、一言も、誰にも語っていないというのだ。
あの日航機墜落事件の救助ぶりを、時代を振り返ることも兼ねて、自衛隊の広報紙にまとめようとした際も、コメントを拒否。
また、同僚や、隊の後輩にも、いまだかつて、何も話していないという。それどころか、なんと奥さんにすら、クチを閉じて、語っていないらしいと言うのだ。
こりゃ、とんでもない壁。打ち崩すのは、骨が折れそうだ。
探しまくって、退官後は、ある大学の警備員として働いていることが、判明。
いざ、勝負! という気持ちで、大学の門をくぐった。
警備室で、その人の名を告げる。
「はい、私ですが」と、出てきたのは、良く日焼けした、精悍な顔つきの、身体のガッチリとした長身の人。まぎれもない、あの写真の人だった。
28年前より、老けてはいたが、気さくさは微塵も感じられない。
コトの次第を察知した、他の警備員は部屋を出ていった。
聞きたいことを、端的に告げた。お時間をとらせないので、お仕事が終わった後、どこかでお待ちします。
もしくは、後日、日時を決めて、ゆっくりお話しをお聞かせ願えれば・・・。
結論をいうと、そのどちらも、かたくなに断られた。
職務上・・・・とか、そんな理由では、なかった。
「ここまでわざわざ遠くまで来ていただいて、申し訳ないのですが、あの時のことは、何としても、お話しする気には、ならないんですよ」
「何か、話せば・・・・・520人もの、お命があの場でお亡くなりになった。その方たちの霊を汚すと言うか、私ごときが話すことは失礼じゃないか。そういう気がしてならんのですよ」
いや、私も実はあの現場に行ってますので、お気持ちはわからないでもありませんが
そう、水を向けても、何の反応もない
「古い人間なのかも分かりませんが、これからも、どなたがいらしても、お話しすることは、おそらく、無いと思います」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ではと、短く聞いた。
その後、川上慶子さんと、お逢いになったことは?
「いえ、1度もありません」
年賀状程度の、やり取りは?
「それも、ありません」
今、彼女は結婚して、子育てしているようですが
「そのようですね。どこかで、見聞きしたような記憶があります」
今、何か、彼女に言うとすれば・・・・
「まあ、幸せであってくれればいいなと・・・・・・・そう思います」
彼は、今は仕事を終えると、子供たちに武術らしきものを教えているらしい。あの、12歳のときの川上慶子ちゃんたち世代を。
今もっての、あの身体付きは、そういう日々があってのものか。
それにしても、28年もの、積み重ねた日々。
あの現場には、彼もまた、再び足を運んではいない。
今も、あの時のことは、いまもって重く・・・・・あの夏の8・12、そして救助した8・13・・・・・・
ココロの奥深く、合掌を・・・・・・・・・
旧姓・川上慶子さんに、この1文を捧げたい。
どこかで、ふと、目にしていただいたら、望外の幸せです
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<2013・6・13 掲載したものです>