あの、「発光青色LED」で、ノーベル物理学賞を受賞した日本人学者3人のうちの1人、中村修二・カルフォルニア大学サンタバーバラ校教授が、久々に生まれ故郷に帰り、連日の「受賞」ラッシュに沸いた。
「国籍」こそ、書面上アメリカ”帝国”。
戦争、内戦、部族間の争いあるところにCIAが、必ず介在、介入。内戦を引き起こさせこて、銃と資金を背後から秘かに供与。戦争、内紛を次々とおこしてゆく、軍事大国。
そもそも、ノーベル賞のノーベルそのものが、人間への超大量殺傷爆破能力もあるダイナマイトの発明者。
中村修二とて、無縁ではない。
こと、軍事大国において、巨額の研究費が入手しやすいのは、「軍事のための研究」という名目。
世界不正で名を挙げた、日本の悪意ある詐欺・研究費横領女、小保方晴子が堂々と生きて居られるほど、アメリカは甘い世界ではない。
アメリカは、軍事研究のために、という名目にしとけば、研究障害や差別も少なく成るため、中村教授は、そんな「帝国」に「転籍」こそしたものの、その「血」や「こころ」は、やっぱり日本人。
なにしろ、大好きな食べ物は、ラーメンと、うどん。
「日本に帰ってきたら、真っ先に食べる」と言うくらいだ。
なので、気持ちは「帰国」。それも、幼いころの懐かしい想い出が甦る愛媛県、そして、苦い想い出も甦る徳島県にも足を伸ばした。
現在はすでに、職場であるカリフォルニア大学サンタバーバラ校へと、あわただしく戻っている。
まず、中村教授。
実は、殆んど報じられていないが、今年早々、舌鋒鋭く、マスコミと、日本応用物理学会会長の記述、理解の間違いを含む批判を行なっている。
1月16日、東京農工大学の主催。府中芸術劇場で、自らの今年における初の公式講演を行なった。
聴衆は、約2000人。その中には、600人もの高校生。100人の高校教師もいた。
青色LEDの製品化に結び付いた「窒素ガリウム」だが、結晶欠陥の少ない結晶を作成するには、難しかったと言う。
今回のノーベル物理学賞受賞の理由を、新聞各紙は間違って報じていたと怒る。
そもそもが、「日本応用物理学会」の、会長やら、東京大学の名誉教授たちのコメントが間違いだらけだった。
その文面によれば、中村修二は、量産に成功したことが、受賞の理由だと言ってのけた。
その間違いを疑いもせず、確認もする事無く、報道してしまった新聞。
それに、今も怒りまくってい。る
故郷へ行く前に、仙台へ向かっている。
1月31日(土)、午後5時。東北大学で、聴衆750人を相手に講演。
中学高校大学生や、一般の人に向かって、ざっくばらんに打ち明けバナシ。
実は、研究の過程で、ガスの流れが1方向だけではなく、2方向に出来ることのヒントを掴んだのは、東北大学の研究発表で得たもの。
常に、アンテナを張っていて、神経を鈍らせていないのは、中村ならではと、想う。
青色発光LED(ダイオード)の研究のキッカケになったのは、「日亜」に入社こそしたものの、「売れなきゃいけない製品化への研究をしなきゃいけない頃のこと。
もっとも、「売れたら、その手柄は上司・会社のもの」という一言も忘れないのが、中村修二たるところ。
で、「応用物理学会」の窒化ガリウムの発表会に、「こっそりと入って聴講」。この窒素ガリウム。学者・研究者センセ達には不人気で、聴講生が、中村によれば、1~2人。発表者の人数の方がはるかに多かったとばらした。
聴いたのが、かの赤崎勇と天野浩の、窒化ガリウムによる青色ダイオードの研究途中の成果発表
よし!と、コレの実用化への研究を思い立つヒントになった。
まさか、後年。共に、ノーベル賞をもらうとは、思いもせずに・・・・・。
徳島県阿南市に帰った中村は、さっそく日亜の創業者であり、当時の社長であった小川信雄に「冗談半分に」掛け合った。
そうしたら、「よっしゃ! やってみなさい」と言われてしまった。それで。アメリカはフロリダ大学へと研究留学。
実は、当初からフロリダ大学には日亜から1人、研究開発に行かせる枠があった。
絶好のタイミングで、中村・社員が持ち掛けた訳だった。
もし、この「冗談半分」の軽い気持ちが無かったら、こんにち、栄光の「タダの金属」をもらうことも無かった。
もっとも、あまり知られていないが、中村は物理学や化学&科学においてあらゆる栄誉ある賞を手にしている。
兄の康則によれば、「あと残るは、ノーベル賞だけだね」と周囲の研究者や、地元の記者から言われていた、という。
彼は今すでに、青色LEDの研究から、別の研究に没頭していた。
それは、「紫色半導体レーザーを使った照明」だという。
講演会後の、質疑応答でこう答えている。
「LEDは、まだ値段が高いんですよ。それに、LEDは効率が悪いため、照明はLEDからレーザーに変わるでしょう。レーザーは高速通信も可能なので、その観点からも将来性が高い」
また、自分はどん底を味わってきた、とも。
「中学・高校時代。6年間、バレーボールをやり続けたけれど、ただの1試合も勝てなかった。どん底だったけれど、あの辛い経験があるから、なんでも出来ると想った」
アメリカでの、過去の痛い経験も踏まえ、こうも言う。
「論文と特許。これが科学者には、重要です。科学者は、論文を出してから評価される」
翌日、仙台空港から松山空港への直行便で、晴れて故郷へ、錦を飾っている。
赤崎と天野に対しての”想い”は、故郷に入ってから、ぶちまけた。
2月2日。愛媛県の新居浜市で、受賞記念講演を行なった。
だが、その前に、まずは、真っ先に向かったのが、松山市内の病院で長期治療入院している、母のマサエへのお見舞い。
怒り!の修二、ではあるが、親思いだとのこと。
長兄の康則や、長女の美知子によれば、母のマサエは、治療を受けている病の他にかなりの痴呆が進んでおり、「果たして、修二とハッキリと認識出来てるかどうか・・・・・」と、美知子は語っていた。
だが、「以前、修二が見舞いにきたら、見違えるように、かなり元気になった」と、妻と共に世話をし続けている長兄の康則が語っただけに、病状回復や記憶回復にも、一役買ってくれれば良いなと想う。
また、弟で、康則と共に、画期的医療器具などを企画・製造・販売を一手に手掛けている、少数精鋭のベンチャー企業の重役も担っている義則とも、久々の再会。
家族団らんのひとときを、心ゆくまで楽しんだはず。
そこから先は、秒刻みとまではいかないものの、時間刻み。
我らが、郷土の英雄、ノーベル物理学賞受賞の大センセを迎える喜びのイベントが、待ち構えていた。
栄えある受賞式で授与された「メダル」の感想を遠巻きにした記者団に問われ、「ただの金属ですよ」と言ってのけた中村修二ではあるが、そのメダルの世間的威光を、初めて痛感させられた日々が続いた。
まず2月2日(月)、先述の愛媛県新居浜(にいはま)市のホールで、「受賞記念講演」。聴講希望者多数だったため、抽選で選ばれた県民が、着席。
あぶれ、はずれた人達は、別室でモニターを拝聴賜った。
テレビのニュースで、チラッと流れたので、大きな画面を使って、「青色LED」の仕組みを解説したりしていたので、記憶に残っている方も、いるかも知れない。
会場には、彼言うところの「マスゴミ」が、取材に来ていた。
まだ、昨年の自分の報道の在り方や、日本の発明・研究の位置づけや在り方に、怒りが消え去らなかったようだ。
その想いに、ライバル心も、燃え上がる。
思わず、テンションも上がった!
(1) 終了