懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

独創性と普遍性~羽生結弦の新・旧ロミオ

2013-10-07 10:09:02 | Weblog
*フィギュアスケート、羽生選手の新しいロミジュリ、フィランディア杯のFS画像を観る事が出来ました。

大変、大変素晴らしく、心奪われまして、実はオルフェ凱旋門賞の時、自分は非国民なことに、心ここにあらずで、TVに出てたタレントのまおみちゃんが、オルフェが負けて涙したのを、う、ごめ~ん、と思いながら見てたのでした。

羽生選手を応援し、情報まで発信しておられるガチファンの皆様のおかげで、いち早く画像も見れました。本当に頭が下がります。

*以前の阿部奈々美先生の振付(映画『ロミオ+ジュリエット』より、映画『Plunkett & Macleane』より、作曲:クレイグ・アームストロング)のは、全てが独創的で、そのオリジナリティにまず、圧倒された。まず、その衣装!なんとなんと独創的で、創造性に溢れていたことか!
立ち襟、ベージュの透け感のある素材、ゴージャスなデザイン、斜めに縫いこまれた光る十字架の飾り。当惑するほど似合ってた。日本人の少年が、中世ヨーロッパの主人公に見えてくる。

あの日の17歳の少年が、苦もなく見る私たちを、その見事な着こなしで中世世界へいざなった。その衝撃は、忘れ難い。そして演技は、疾走する十代の世界そのものだった。なんのてらいも、何の迷いもなく、彼はそれを普段する呼吸のように苦もなく表現しているように見えた。衝撃以外の何者でもなかった。

阿倍奈々美先生という、既存の振付家と異なる方が入って、羽生選手もまだ若い時期で、他の文化の介在しないような、既存作家とは全く違う独創的な切り口で、振付世界が創られたのかもしれない。それは、私の知っているロミジュリとは違ったけど、ああ、確かに10代とはこういうものだ!と膝を叩きたくなるような、発見に満ちた演技だった。
それは、ロミジュリの中の、「闘争」の要素を色ごく匂わせた。

対し、以前、サーシャ・コーエン選手が滑った「ロミオとジュリエット」は、このシェイクスピアの名作の中の、恋する10代の甘くロマンティックな部分をクローズアップした。
その「ジュリエットなりきり演技」の可憐さは、メダルは逃しても、私の胸に刻まれた。
フィギュアスケート史上屈指の、技術度外視かと思うほどの、本格的な演技だった。彼女自身がお年頃で、恋するジュリエットに憧れているように見えて、その年齢の女性でなければ演じられない、本気なジュリエットだった。

どちらかといえば、このイメージがロミジュリの一般的なものだと思うから、羽生選手の旧作ロミオの「10代の疾走」「闘争」の辛口の表現の特異性は、なおさら私には鮮烈だった。

そう、ロミジュリって、甘くロマンテックな恋愛劇に思われているけれど、血なまぐさい部分も含めて、怖いもの知らずで思いに向けてまっすぐに突き進む、「疾走する10代」の、ただ甘い恋愛劇とは別の要素もあるんだ、と。

対して今回の羽生選手の新しいロミジュリは、作曲:ニーノ・ロータ、振付:デヴィッド・ウィルソンで、もっとずっとオーソドックスな世界。「ロミジュリ」と言ったら、普通に人が思いつきそうな。

この新作と旧作、あたかも、羽生の身体を通しての、異文化の激突を見るような思いがした。

どちらもそれぞれに、特別な存在として、愛していきたい作品です。

新ロミオも、ああ、もうどうしよう!と思うくらい、惚れ惚れ。とても丁寧に、心を込めて踊られていて。いや、滑られていて。

昨日は「シライ・デー」(体操界)かと思ったけど、
羽生結弦のフィランディア杯のFS「ロミオ・・」にはそれ以上に、夢中にさせられた。
(って比べるもんでなし。)

冒頭4S、続いて4T・・・、技術の高さは心臓に悪いです。
次も、その次も、そのまた次も、運命の女神が羽生選手に微笑んでくれますように!日ごろ不信心でも天に祈る。

フィギュアスケートは2度楽しめる。
一度目は競技として。二度目は芸術として。

アスリートとしても、アーティストとしても素晴らしいYUZUが、世界の色んな人に色んな形で愛されて行くであろうこと、私はその一部を享受するに過ぎないので、自分と違う観点からYUZUの演技を愛してる観客の感想も、見てみたいと思いました。拙論ご容赦。

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