懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

ムハメドフ最後の舞台?!「オネーギン」舞台評

2009-09-29 01:52:19 | バレエ
ダンスマガジン今月号に、8月の目黒パーシモンホールでの、バレエガラコンサートの舞台評が出ていた。
ムハメードフ振付&タイトルロールも踊った「オネーギン」について、「おそらくこれが最後の舞台」とあった。

ガ~ン!そ、そんな。

マイナー公演の情報漏れは、悲しい。
宣伝してくださいよ~~~。白黒の簡単な印刷のチラシを、バレエ公演で大量ばら撒きでもいいから。

舞台評は「ムハメドフ、圧倒的な表現力」と絶賛。チャイコ曲で、オネーギンの視点から描いたラストの別れのパドドゥだとか。脱力。読んでも絵に描いた餅ですわ。
それでも見てくれた方が、舞台の様子を残してくれたのは良かったけど。

マクミラン没後、不遇をかこった後も、表現力はさらに磨きかかって、最晩年は劇場を圧倒する表現力で、素晴らしかったとは、ちょこっと聞いてたし。

もう見られないと思ってたのに、来日してた。今回があったから、次回もどこかであるのでは?と期待していた。それが、これでおしまいなのか。

ただ、ご年齢的には、衰えを感じさせない今のうちに、惜しまれてやめる方がいい場合もあるし。40代後半よね。誰かさんたちみたいに、本国で出なくなってもいつまでも日本では踊る、というのもどうかということはあるから、声高に言い辛い。

ムハメードフ、もう一度見たかった。奥ゆかしすぎ!「最後」を切り口に商売する興行もあるのに。「あのムハメドフが最後の舞台!」なんて宣伝されたら、万障繰り合わせて行っちゃいますから、はい。

ムハメドフのオネーギンだなんて、一番見たいオネーギンだわ。は~。ため息。(ぼやきですみません)

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グリゴローヴィチ改訂版「ロミオとジュリエット」

2009-09-22 01:00:45 | Weblog
数年前の公演の話になる。

日本も今より少し前の時期は、地方自治体、県に経済的余力があり、地方で、バレエ公演の良い催しをしてくれた時期があり、ギラギラに商業主義というでもなく、掘り出し物的な公演が幾つかあった。

当時の芸術監督が、鈴木忠志だった時に、資金余力があったのか、某地方の劇場で、グリゴローヴィチ(ギャラ高そう?)率いる「クラスノダールバレエ団」を呼んでくれた。「白鳥の湖」もやって、これは当然、普通に良かった。ところが、その次は勝手が違った。

演目は、グリゴローヴィチ振付の改訂版「ロミオとジュリエット」。
プリマは円熟期のエレーナ・クニャジコーワで、素晴らしかった。

申し訳ないけど、自分が生で見たインナ・ペトロワや、DVDでのナタリア・ベスメルトノワのジュリエットと、同じ版の踊りかと見まごう程、差がついた。ついでに、若くみずみずしく見えた。クニャジコーワは、若い時は私には未熟に感じられたバレリーナだった。この人も「人生イロイロ」だが、先生にだけは恵まれたらしく、本当に伸びた。

それと、韓国人の一生懸命なロミオ役のサポートが、プリマ的には上手じゃない様子。プリマは、しかめっつらしてアダージョ踊ってた。クラスノダールの若いマキューシオ役が、柔らかい身体にしなやかな感性で、この、音楽が好きで地に足のつかない、どこか頼りない青年の役にハマってた。

ただ、「グリゴローヴィチ振付」は、難しい。技術的にも高度な要求を、コールドまでに求めてゆく。

どうもこのバレエ団の人々は、この老練の振付家を、敬愛してやまない様子だ。こんな体の壊れそうなめちゃめちゃな振付を、喜んで踊ってるようだった。気が知れないと言うのか、微笑ましいと言うべきか。ただ、なんだか作品世界が、暗い。ハッピーな「白鳥」(ここの版はハッピーエンド)とは、勝手が違う。

元の版を上演したボリショイバレエ団は、男性舞踊家たちが踊りも個性もど派手なので、「昔のロシア」的な陰鬱な暗さのある作品でさえも、華やかに見せうる底力を持っていたと悟った。

そして、終幕。

バレエの「ロミオとジュリエット」は、ふつうは、最後に主役二人が死んで、諍いをしていた両家が、その尊い犠牲のもとに和解する。見てるこっちも、そういう先入観があるものだから・・・。

ところが、この「改訂版」は、ボリショイバレエでやってたものとは違う!
最後にロミオとジュリエットは死ぬ。
けれど。

いがみ合う両家の争いは、終わらないのだ!

「え?えええええ~~~???!!」と、あまりの暗さに、客電つくまで、ショックを受けてしまった!

その時「感動した」と言ったら、嘘になる。問題は何も解決していない。
恋人たちは無辜の死か!なんて暗い結末なんだ!ボ~ゼン・・・。

ショックで固まってる私をよそに、客電がつくと、近くの席の青年が、泣いていた。私の心にかすらなかったステージも、この方の胸には、響いたようだ。何を思って泣いているのだろう。恋人たちの悲しい運命か?

帰路に着き、どのタイミングだったか忘れたが、ニュースを見た。アフガン問題かなにかだったかもしれない。

急に、はっとなった。
グリゴローヴィチ改訂版は、「愛は終わる。けれど、憎しみは終わらない!」と言う内容だった。現実のニュースを見て、「あれって、現実そのものじゃないか!」と思った。急に、見た舞台が意義を帯びてきた。

旧版「ロミジュリ」が、「愛は終わる。そして争いは終わる」だった。
新版は、「愛は終わる。だけど、憎しみは終わらない」。民族紛争とか見てると、実際、争いは終わらない。憎しみは、歯止めなく連鎖する。

舞台は、暗いし、救いようのないラストに思えたけれど、確かに、現実には、愛は終わっても、憎しみは、終わってなんかいない!!二人の愛で終わるなんて、甘い!

アフガンでも、イラクでも。パレスチナでも。あちらこちらで。これからも連鎖してゆくのだ。問題提起と思えば傑出した芸術だと、観劇直後とは、180度舞台への評価が変わった。

芸術の感動にも、意義にも色々ある。舞台を見てる時に解る事もあれば、後になって、何かのきっかけで思い出したり、道を歩いている時、急にあっと思うときもある。
舞台の完成度だけが、全てでもないんだ。

グリゴローヴィチの現在性に、驚くばかりだった。ほとんど前衛の芸術みたいだと思う時がある。
それと、ここのバレエ団を見た時は、いつもなぜかお客さんがとても良かった。

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「オテロ」デズデモーナ考

2009-09-18 01:25:31 | バレエ
シェイクスピアの戯曲「オセロ」のヒロイン、デズデモーナは、貞淑な妻だが、その美貌ゆえ、夫オセロを憎むイアーゴの奸計により、あらぬ不貞の疑いを掛けられ、夫に殺される。

だいぶ昔の話だが、この「デズデモーナ」について、坂東玉三郎の解釈が目を惹いた。玉三郎は、このデズデモーナを、「ただ清純なだけの女性というのとは、少し違うのではないか」というような示唆をした。

”ただ清純で貞淑な女なら、殺されるほど夫に疑われるだろうか?”というなげかけで、これは目から鱗だった。

確かに、そう言われてみると、ここまでの話になるのには、それなりに官能的な女性というか、多少そういう風に見える所のある女性、と考えた方が説得力があるような気がしてくる。

「女形」。半生かけて、「女」を演じていく職業。男性が女を演じる。それにあたって、「女」とは何か、また、女を見る男の眼差しとはどういうものか、あれこれ考えるのが属性の職業だから、この美形でならした女形は、こんな事を思いついたのではないかと思った。

だいぶ前に、まだ若かった時のV6の森田剛が、「人妻、っていいですね。人妻っていう、響きがいいですね」とか言ってた時があって、ふ~ん、年頃のぎらぎらした男の子には、そういう風に見えるものかと思ったことがある。

デズデモーナは、この「人妻」に「美しい」という形容詞がつく。

「美しい人妻」、そしてオセロには「不釣合いな結婚」。
この不安定さと危うさ。
彼らを見る世間の側の、集団的想像力もまた、負のエネルギーとなって悲劇を促進したような気がしてくる。

勿論、悲劇の原因を、差別、社会性に求めるのが、原作の順当な解釈かもしれないが、それを超えて、美貌の人妻を巡る人々の怪しい集団的想像力や、そして、そもそも彼女は何者か、どういう女性なのか、洗いなおしてみる玉三郎の視点は、新鮮だった。

これを知ってしまうと、世界フェスのノイマイヤー振付のバレエ「オテロ」の解釈は、平板に思えた。
なんとな~く、世界の中に3人しかいないような気がする。オテロと、デズデモーナと、イアーゴ。そして、オテロもデズデモーナも悪くないみたいだったけど、なんだか、冗長で退屈だった。オテロもデズデモーナも何も悪くなかったら、こんな悲劇が起こるものかなと。恋愛や夫婦の関係はフィフティフィフティで、妻を信じきれない夫も、夫を理解しえない妻も、欠けたものがゼロってわけじゃないのが、一般的な夫婦の場合の、関係性の問題だと思うんだけど。

デズデモーナが、第三者の妄想をくすぐるような、どこか色っぽい所のある女性だったりすると、話が複雑で一筋縄ではいかなくなり、面白いような気がする。

どちらかというと、ルジマートフの「オテロ」の方が、エレーヌ・プシェらの「オテロ」より、「オテロ」っぽいように思った。ルジは色気過多、かつストイックで、両義的に見えるから。
コメント (2)
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ムハメドフ&針山「オネーギン」

2009-09-15 10:12:35 | バレエ
8月10日、目黒パーシモンホール。イレク・ムハメドフ&針山さんによるバレエ「オネーギン」(ムハメドフ振付)が上演されたとのこと。

私は知らなくって、行ってなく、もったいないことをしました。

ロシアの国民的作家プーシキンの名作「エウゲニー・オネーギン」は、プーシキンの立場からいって、まず、ロシアンが演じるべきなのに、バレエではクランコが振付けたために、「ロシア人以外によるオネーギン」を、私は見せられてきました。

内容的に全く納得できず、ぜひ演技力のあるロシア人ダンサーの踊りを見て、雪辱したいと願ってきました。ムハメドフはタタール人ですが、かつてはボリショイバレエ団のトップスターであり、亡命後ジャンプの高さを失った後、そしてマクミランの死後の最晩年にも、演技力は客席を覆い尽くすものがあったと聞いてます。

「オネーギン」「プーシキン」というと、さいとうちほのマンガ「ブロンズの天使」が、プーシキンの永遠の青春の塊みたいなエネルギッシュな本質に、屈託ない筆致で迫ったと思ってます。

それに比しても、バレエの「プーシキン」には、大きな不満があったので、ムハメドフ見たかったです。彼なら、きっと目から鱗の名演を見せてくれた事でしょう。次はあるのかしら?

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カナエワの「カルメン」

2009-09-13 22:08:21 | Weblog
澁澤龍彦著、中公文庫「美少女コレクション」(いい名だ~)を立ち読みした日に、カナエワとか新体操選手の動画を見た。
澁澤氏の「コレクション」は、静止した美少女を思わせるので、私が近年色々よそ見をしている、動く美少女たちは対象外かもしれないし、「コレクション」というと、彼女たちに失礼かもしれないが。

澁澤の「眠りの森の美女」独断偏見考察は、相変わらず愉快でのけぞった。

どこか品がよく、いい家の坊ちゃんがちょっと不良してみました、みたいな澁澤節の話は置くとして、渋沢コレクション「圏外」の動く美少女その一、御年19歳・カナエワさんのお話を。

今回のブルーやピンク基調のやわらかい色調のコスチュームでの演目は、カナエワ本来の、今の時期特有の体の柔らかさを発揮した真骨頂ともいえるもの。

対し、たぶん一回前くらい(?)のプログラムには、ボールに「スパルタクス」が入っていて、バレエファンとしては興奮した。(体操選手としての魅力は、今回のプログラムの方が堪能できそう)

そして、これも1回前のか?と思うものに、ビゼー「カルメン」が。
これが、ロープ、なんです。「カルメン」で「縄」ってセンスがイイ。
黒基調のピンクの衣装。

フィギュアスケート選手のサーシャ・コーエンの「カルメン」は、彼女自身がカルメンのイメージで、最後に刺される所までを演じてたと思う。

今回のカナエワのは、曲調が3部に分かれてて、最初が、カルメンがホセとやり取りするシーンの曲。次が陽気でアップテンポの「ファランドール」で、バレエ、アロンソ版「カルメン」では、脇役の女性たちがノリノリの踊りを見せるパート。最後は、闘牛士のシーンっぽかった。

カナエワは、「カルメン」「ファランドールの曲で踊る脇役の女の子」「闘牛士」の3人の要素を演じ踊ったように私には見えて、意表をついていてとっても良かった。特に3つ目の曲では、新体操の競技場を、彼女が闘牛場に変えてしまったようで、見ていてわくわくした。

演目によって、色々と異なる要素を見せられる選手のようで、プログラムを変えても既視感の強かったアンナ・ベッソノワより、芸術性は高いと思う。ベッソノワは大衆性とか、わかりやすさに強みがあると見た。全盛期から衰えが目立ち、ピボットの脚の下がり方とか、客観的に見て1位の選手と比較する状態に見えなかった。観客の反応が最初からオーバーヒートしていて、あれでは公平な見方は出来ないだろう。新体操界といえば、昔の「ビアンカ・パノバ選手」の名って、芸名みたいだと思う。

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新体操・世界選手権カナエワ選手

2009-09-11 00:53:51 | Weblog
三重県まで見に行ける人はいいわよね・・・。美しくしなやかな新体操の女の子たち。上位選手見ると、ただのミーハーになってデレデレ見てます。新体操ファンじゃないので、むつかしい演技採点関係のことはわからん。

新体操の世界選手権関係目当てにTV見てたけど、日本選手の話で終わって、カナエワの、(勿論ベッソノワも)演技なんて見られずに終わってしまった・・。うう、頼む、日本選手だけじゃなく、1位とか2位とかの選手写してくれ~TV局。

北京五輪でのカナエワ選手が素晴らしすぎたので、今回の演技も見てないと、「やっぱカナエワでしょう」と思ってしまう。

YAHOO ニュースで見た時事通信社のカメラマンさんが取った、ボールの演技の写真がとりわけ美しく、素晴らしい。写真取る人も、演技者も、両方巧いのよね、きっと。この衣装はいい。表情まで素晴らしい。うっとり。

でも、三重まで行った人の中には、「本当はベッソノワの方が良かった」と思ってる人もいるのかもしれないね。採点と観客の評価が違ったというから。自分は見てないから、わかんないや。ベッソノワは、客受けの勘所を心得ているような演技をするので・・・。北京の演技では、以前から出ているベッソノワは、いささかワンパターンで、自分的には飽きが来た所はあったのだけど。クラシックバレエ界のガリーナ・ステパネンコに、なんとなくちょっと雰囲気が似た容姿に見える。
(ベッソノワの方がステパネンコより、ずっと女らしいし、たぶん美人だけど。)

昔の新体操の選手の方が、ベッソノワよりもっと芸術性、音楽性、繊細さは高かったと思う。18歳のカナエワ他には、今だって凄いのに、これからの可能性もあって恐ろしい位だ。(って、三重に行って見てたら、言わないかもしれないけど。)

それにしても、カナエワさんのピンクとブルーのお衣装が、いささか微妙・・・。とても凝った、複雑なデザイン。魚のうろことか連想してしまった。巧すぎるから、なに着ても、まあいいのか。

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ニューヨークシティバレエ来日公演

2009-09-02 00:36:30 | バレエ
ダンス雑誌「dance dance dance」の、10月来日・ニューヨークシティバレエ公演の記事に、バランシン最後のミューズ、ダーシー・キスラーが出ていて、惑った。

今回も來日しないんじゃないか、とか、もしかして、もう年だったりするんじゃないかとか、自分の中で、理由をつけて、この公演は「切り」扱いにしてた。

最初からこの人中心で、プロモーションしてたら、自分はチケット買ってた可能性が高い。結局宣伝の仕方による。この頃は、早めに宣伝掛けてた方の公演になびいてしまってる。

舞台とは、つくづく出会い運もある。

ニューヨークシティバレエ日本公演は、内容が今ひとつな公演には、何度か行った。案外、今回の出来が良かったりしたら、自分的には悲惨だ。今回は行けそうにない。

前に見たときは、やけにコールドのダンサーの水準が低いと思ったし、そういわれていた。ただ、完璧な舞台でなくても、やはり本家、腐っても鯛な部分はあって、NYまで見に行けない自分には、充分満足だった。他のどこのバレエ団より、とりあえずバランシン美学は、自分には伝わったと思った。

それでも今更ながら今になって、もっとまともな踊りをひろうしてくれちゃったりしたら、行かないと、踏んだりけったりだな~と舞台好きの血が騒ぐ。

キスラーは、ガラコンで1回見たことがあるだけだ。NYCB來日公演では、見たことがない。

「dance dance dance」の「セレナーデ」の写真が、そそる。
来日公演が多すぎると、取りこぼしも多くなる。

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