懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

アレッサンドラ・フェリ、プティ版「カルメン」小話

2009-06-16 00:35:50 | バレエ
また、バレエ小話を少々。

*アレッサンドラ・フェリのプティ版「カルメン」と、パートナーたち

実験精神と芸術性に富んだバレエ、アロンソ版「カルメン」に対し、お洒落で小粋が得意のフランスの振付家、ローラン・プティが振付けたバレエ「カルメン」も、様々なスターダンサーによって踊りつがれてきた名作。

プティの愛妻、ジジ・ジャンメール以降、多くのダンサーが踊り、必ずしもその中でアレッサンドラ・フェリがこの版の代名詞というほど、単純ではない気がするが、フェリの踊りは、資料画像が手に入りやすい。フェリは、プティ好みの脚ではなかったし、身体の柔軟さも、もっと上のダンサーはいる。

しかし、それにしても生来の資質「娼婦性」で、この役を100%自分ものにしている、フェリのカルメン。

ガラコンサートの部分の抜粋の踊りを、私も何度か生で見ていて、フェリのカルメンは、何人かの違う相手役で見ている。生舞台でなく、画像も含めるとさらに。誰がフェリのカルメンにとっての一番良いホセ役だったのかは、分からないが。

画像で見られるもので確認すると、先日のザハロワのカルメンに比べて、まず、フェリの「自信」に圧倒される。

ダンサーとしての自信と言う意味だけでなく、なんていうのか、女としての自信。相手の男性ダンサーにとって、自分が絶対にいい女である事を、信じて疑わないような、揺ぎ無い自信。(イタリア人女性の特権?orスターの特権?)

カルメンは、自分に自信のある女なので、役には合ってる。いいとも悪いとも、なんともいえない。当のご本人も、もてる人だったのでしょうけど。

フェリは身体条件に恵まれたバレリーナではなく、振付の踊り方も、平易。だけど、難しくなさそうな振りを、一つ、一つ、確実に決めていく。振りのニュアンスも、踊りの意味も、きっちり、観客に伝えていく力を持っている。

例えばアダージョでホセに抱かれた体勢で、伸びやかに右に左に片脚をゆっくり曲げのばす動きとかでの、脚、パ、身体の見せ方、その輪郭が印象づけられる。

プティ版の白眉は、カルメンとホセの愛のパドドゥ。プティらしく、お洒落な中にも、フランス人らしいというのか、直接セックスを明示する振り。

ここで、途中から、下に仰向けになったホセ役の上に、フェリが脚をかけて乗るのだけど、その時のフェリの自信。男が自分を受け入れて当たり前みたいに見える。(見てると男性が痛そうというか、女性が重そうだけど。プリマはそんな事考えてないですね)

二人のアダージョとして踊られるのは、弟3幕の間奏曲、長調の曲。(アロンソ版では、前半のホセのソロの所の音楽。)ロマンティックで叙情的な曲の中、二人のからみの踊りは、時に腰を押し付ける振りが入るなど、濃厚なもの。

最後は二人が抱き合った体勢で床に寝て、男性が下、女性が上で、男性に女性が抱きついた体勢のまま、女性がえびそりみたいに長い両脚だけ反らせて床と垂直に上に上げてポーズ。フィニッシュでエクスタシー、果てた事を示し、男性はその後、カルメンの顔を片腕で抱き、胸に愛おしそうにおしつける、おまけ段取りつき。

とってもわかりやすいシーン。分かりやすい振付。色んなダンサーがこの同じ段取りで踊るので、それぞれの男女のダンサーの持ち味や、その時々の関係性が、若干の違いとして、つど反映されているかもしれない。

フェリは、私が名前を知らない男性ダンサーと踊ってる時は、一挙手一頭足が、揺るがぬ自信に満ちてた。喝采を浴び続けたスターの様子。この二人の地の関係性は良好そうだった。そしてスターのボッレとの画像は、彼女にしてはいまいち。その時は、現実の二人の関係性に、距離がある間柄だったのかもしれない。

マニュエル・ルグリとのダンスは、・・とっても現実的。
性関係にある男女の、圧倒的なまでの完成度のアダージョ。
も~何をかいわんや、な二人の世界だった。愛と官能性。

ちょっと考えてしまうのは、この二人は、現実に大人のお付き合い関係で、男女関係だったこと。そういうふうでないと、やっぱりこれほどの真に迫ったパートナーリングは、できないものなのか?

前後してボリショイのアレクサンドロワ、クレフツォフの「カルメン」(アロンソ版)画像を見たけど、とてもフェリたちには到底適わない印象。でも、この二人は恋人同志のペアじゃ、ないから・・。無理からぬ事か。クレツフォフは、大人の男の余裕でよくやってる。スターオーラが、フェリ、ルグリの方が強いと言う事もある、のかな。

フェリの「いい女としての、自信に満ちたパの数々」には,圧倒されてしまうが、安定していて、「想定外」の聖なる1回性のサプライズは少ない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*パリ・オペラ座バレエ団、ル・リッシュ&クレール・マリ・オスタの「カルメン」

一方で、そこまでのカリスマスタープリマでなくても、パリ・オペラ座の上演したプティ版「カルメン」全幕は、近年TV放映されたものは、素人目にはほぼ完璧に作品を表現してるように見えて、とても良かった。

カルメンをクレール・マリ・オスタ。ドン・ホセを、彼女の私生活上のパートナーの、ニコラ・ル・リッシュが踊った。

どっちかというと、オスタが淡白目に順当にカルメンを踊り、目だったのはニコラの方。この人はギエムとのパートナーリングもとても良いけど、やっぱり、それでも、奥さん(今でもそうなのかどうか知らないけど)と踊ると、いい意味で、もっと地の個性が出て、その意味でよかった。

上記のアダージョより、さらにホセとカルメンが関係した後の朝、男がタバコ吸うときのけだるい感じ、みたいなものの繊細な表現が、私的には物凄く良かった。

こういうニュアンスの表現は、日本人の私から見ると、フランス人らしい良さに思える。振付のプティもまた、野生よりフランスのエスプリが身上の作家だと思うので、プティ版カルメンは、元々こういう作品なのだろうと思いながら見た。

昔、バリシニコフとカルメンを踊ったジャンメールが、やっぱりベッドの上でフルーツをかじってるシーンがあったし。

ただ、このパリ・オペラ座バレエ上演の「カルメン」は凄く良かったのだけど、意外と、同時にプティ版の限界も感じた。

バレエ団の踊りは、申し分なく思えた。

ホセはカルメンの魅力の虜になり、結局黒衣のマントつけてナイフ持って、慣れない強盗稼業したりと、やばい橋を渡るようになり、落ちていく。
ホセの心情、強盗稼業にはらはらしてる不安感は、ル・リッシュの踊りから良く伝わる、けど。

ダンサーが悪いのではなく、なんかそれだけって感じで。振付、演出の問題と思う。
ストーリーをなぞって終わった感は否めなかった。だからどうなの?と言うのが見えてこなかった。

音楽の使い方も、アロンソ版のようなアカデミックな香りはなく、踊りやストーリーのBGMな感じ。これはこれでいいのかもしれないが。

プティ版で良かったのは、古い画像で見た、デニィ・ガニオ(マチュー・ガニオの父)のアダージョだった。白眉のアダージョでの、破滅型の至福感が、ストーリーをなぞる以上の、突き抜けたものを感じさせた。

エクスタシーをみせるアダージョも、カルメンの至福感の中で、もう他になんにもいらないみたいな感じや、この先どうなっても、という感じがして。男と至福を分かつ中で、カルメンの優しさのようなものを感じたのが、異色だった。

ほんとは、プティ版と言ったら、ドミニク・カルフーニとか、ルシア・ラカッラとか、プティ好みのひざ下のしなるバレエ的美脚の持ち主が、踊るべき演目でしょうけど。でも、案外定番じゃないダンサーの踊りも、新鮮で良い時がある。

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ルグリ&オーレリ「小さな死」小話

2009-06-10 00:47:13 | バレエ
突然、過去のバレエ上演の話です。

オーレリ・デュポン、マニュエル・ルグリによるコンテの佳品「小さな死」。
何度も上演された演目と思うが、自分の場合は数年前の世界バレエフェスと、さらにその前の回の踊りで見た。

タイトルの「小さな死」。
邦題の意味を私は「Litlle die」、文字通り「死」の事と思った。
舞台は半裸の男性と簡素な衣装の女性の、緊張感あるアダージョ。

これのどこが「死」なんだろう???と・・・。劇場の喝采にとまどった。

後で解説を読んだ。「小さな死」とは、オーガズムの事、だと書いてあった。

はあ???そういわれても、あの踊りから、自分は何も感じ取る事ができなかった。それに、オーガズム、そう言うバレエといわれても、なんだか良く分からなかった。

ところが。

同じ踊りを、同じペアで、数年後に見た時、ただのオーガズムでないもの、それ以上のものを感じた。同じ一つの作品、同じキャストでも、上演された時によって、全く感想が違う事は、ままある。


(その前に、オーレリ・デュポンが怪我降板リタイヤを余儀なくされた時期があり、この二人のパートナーリングに穴が開いた時期があった。)

オーガズムと言っても、一言で捉えきれない、とても豊かなもの。

いのち、律動。

そして。

なぜか、ダンサーたちのそれぞれの想い、心の声が聞こえるような気がして・・。


オーレリ・デュポンの思い、「踊りたい!踊りたいのに踊れない!身体に故障があって踊れない!」と言う思い。

オーレリを待っていたパートナーのルグリの思い、「踊りたい!踊りたいのにパートナーが欠場して踊れない!」と言う思い。

そして、二人の「やっと会えた!やっと一緒に踊れる!」という思い。

忍従の日々があって、今の二人で踊れる歓び、その有難さ、だとか。

オーガズム、歓び、とはいっても、その言葉の表層、通り一遍でないもの。
二人の喜びが、踊りを見ているだけで自然に伝わる、様な気がした。はっとした。
舞台に光が満ちる。

舞台空間の空気に、波立つ感じっていうのかな。ふつふつ、空気に動いてるものを感じて。上手くいえないんだけど。

(自分は、このダンサー二人の事情の細かい事は知らないから、なんとなく踊りを見ながら、そんな感じがしただけだけど。)

若い頃、プレイボーイと言われて浮名を流したルグリにとって、女は入れ替えのきく存在なのかも、だったとしても、舞踊家にとっての「パートナー」は、そうはいかない。
ルグリにとって、当時のオーレリは、「パートナー」という生半では入れ替えのきかない、特別な存在なのだろうと、そんな風に思った。(正しいか間違ってるかは分からないが)

パートナーへの格別な思いを感じた、「小さな死」だった。

それと、もうひとつは、エクスタシーというは、日本語としてとても表層の事しか捕らえられてないのだけど、本当は、ひとの「意識」に、凄く関わるものなのだと思う。

「小さな死」。
いのち、律動。
そして、踊り手の識域下にあるもの、意識の表層にあるものが、普段と違う形で立ち昇って現れても不思議ないもの。

オーガズムと言えば、そんなようなこともあるんじゃないかと、思った。
(意識の下の方にあるものが、上の方に来たりする様な気がするのだけど。まだまだ、科学的に解明されてない事あると思う。)

以上、思いっきり主観的に走った感想。

※ルグリのパートナーを巡っては、とても若い頃、シルヴィ・ギエムとルグリが付き合って、別れた経緯があるということで、たぶんルグリにとってギエムは、パートナー候補として理想的だったのだろうと、私的には考えている。

ルグリから見て、おそらく身体条件が完璧に思えたであろうギエム。
彼女に去られてしまい、ルグリには、結局オーレリというパートナーが現れた、
そんな感じじゃ、ないのかな。

※それも今は昔の話で、オーレリは新たなお相手と出会って、もうルグリとは踊らないのかと思っていた。

また世界フェスではオーレリ、ルグリが組むようで、彼らのコンテも半分楽しみ。
(コンテって何が飛び出すか分からなくて、微妙なのもあるし・・。)

ギエムとニコラ・ル・リッシュのエック振付、「アパルトマン」は、自分的には大好きな作品。
以前にガラでやって、今度はBプロに出世(?)

振付家は、エック、フォーサイス、キリアン、最近ではドゥアトとか、やはり名のあるコンテの大家の作品がいい。今はダンサー主義の時代だけど、やっぱり振付も大切。

(そしてダンサーさん振付の「意欲作」世界初演とかって、誰のに限らず、だいたい微妙なんだけど・・。)

世界フェスは、コンテも佳品を多く発表して来た場だと思った。


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ウオッカ痺れた!安田記念勝利!

2009-06-07 17:03:20 | Weblog
競馬G1安田記念。最後の直線、壁を作って牡馬たちが、最強牝馬を前に出させない。ウオッカの前を行く馬たち。あ、あの野郎お~~~!!!進路閉めるんじゃ、ねえよっ。競馬だから実力馬マークは当然でも、勝手に怒る私。ムカつく~(自分はディープ馬券なんだからこれでいいはずなんだが?)

やっとウオッカの前が空いた時は、もうディープスカイははるか前。このまま馬群に沈むのか、と思いきや、ウオッカ頑張ってスパート。きっと無理、と思ったけど、3番手位まで来て。おっ、まさか来る?頑張れっっっ!!と思ったら、1,2,3完歩大跳びで、前に出て、ディープスカイも抜いて勝った!思わず拍手!痺れました~~~!!あんな位置から勝つなんて!惚れ惚れ。

2着ディープスカイ、3着ファリダット。審議は終了。無事着順で確定。
豊コメント「出られないウオッカは、満員電車でおじさんに囲まれて、降りたくても降りられない女の子のようだった」だって。

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ザハロワ&ウヴァーロフ「カルメン組曲」初日

2009-06-02 01:16:00 | バレエ
分析上、『マノン』と同根とも言われる、メリメの小説「カルメン」。

そのバレエ化を「ザハーロワのすべて」公演で見た。4月29日、公演初日。

第一部「カルメン組曲」アロンソ原振付、プリセツキー改訂版。
音楽:ビゼー/編曲シチェドリン(テープ演奏)

カルメン:ザハーロワ、ホセ:ウヴァーロフ
トレアドール;シュピレフスキー
共演:キエフバレエ団

=====================================

この日のサプライズは、劇のクライマックスの手前から。

最終場。

裏切ったカルメンに、怒りの眼差しを向けているホセは、火の様だった。

ただ、カッとなった怒りでなく、その怒りの裏にはホセの考えがある。ホセはカルメンを、熟慮の末に唯一の女性として選んだ。だから彼女もそうすると、彼は思っていた。ホセの表情を見ていると、絶句してしまう。

この青年には、遊びの恋と言う考えがない。ホセの、愛についてのピュアな考え方に、私は色を失った。

私は火のように怒るホセが怖かった。ウヴァーロフを嫌いになりそうな位、怖かった。ザハーロワのカルメンに向かって、「殺してやる!」と言うような目で見ていた。でも、そんなホセを見ていると、ホセが何を感じているか、自然に伝わってくる。頭で考えようとしなくても。

ホセの熱い怒りを見ると、彼が、愛について真剣なのが判る。彼にとって、恋人の裏切りとは、ありえないこと。信じられない事。だから、こちらも心を動かされる。怖いけど、私はこの青年に惹かれ、無意識のうちに共感もしていた。この青年は女性との向き合い方が、至極まともなのだ。

美貌のカルメンに、そこまでの深い考えは無いように、私には思えた。避けがたい悲劇の予感。胸が詰まった。息をつめて舞台を見ていた。

そいうえば、舞台の前半の、ホセのソロ、恋の歓びが見えず、苦悩ばかりが見えた。何でそんなに悩むのかと思った。後半を見ると、このホセが、ただカルメンの性的魅力に引きずられただけではなく、口説いてくるカルメンを慎重に見て、彼女を自分の意思で選んで、愛したと解る。

かなり主体的、能動的なホセだった。そして殺すまでにも、物凄く悩んでいるのが解る。よく考えてみると、自分の知ってる従来のアロンソ版のホセ(だいたい受身。初演者ニコライ・ファジェーチェフは小説通りのキャラ)とは、かなり違う。

前半のホセのソロは、私には今回のウヴァーロフよりも、例えば以前見たザバブーリンのホセの方が泣けた。

(ザハブーリンはシンプルな動き、叙情的な踊りで、切ない恋を訴えた。ウヴァーロフは回転技を多用し、硬直したような振りで、アンビバレンツな感情に引き裂かれたホセを表現した。)

ザバブーリン@ホセは、チェルノブロフキナ@カルメンに、大きな胸を触らせられて、性的魅力に引きずられたように見えた。それで私はアロンソ版ホセを、情けない男だと思っていた。

しかしウヴァーロフのホセは、同じ版の演出なのに、情けなさがなく、恋の狂気でもなかった。理を感じる所が、一番怖い。そして深くもあった。

そして、ラストシーン。
ザハブーリンのホセは、「運命」(牛を模した黒レオタード姿の女性)に、誘導され、ただふらふらとカルメンを刺した。

このシーンは「運命」も重要な役割を果たし、ホセは運命に導かれたと見ることもできる。しかし、今回は運命役が弱かったこともあり、この関係は逆転していて、ホセが主で、運命が従。

ウヴァーロフのホセは、嫉妬に目が眩んで運命に導かれるまま、ただふらふらとカルメンを刺したのではなかった。カッとなって頭に血が上って、というのでもない。熟慮の末。もっとも知的なホセ像だった。

この日のホセは、はっきりと自分の意志で、確信犯的にカルメンを刺したように見えた。

もう、何も言えなかった。バレエやドラマ、作り事の世界では、時々人が死ぬ。簡単に殺される。でも、現実には、人は人を簡単には殺さない。人を殺すのは余程の事。ホセがカルメンを殺すのは、余程の事だと、ウヴァーロフのホセの演技に、私は考えさせられた。バレエの演技で何かを教えられるように感じたことは、なかなか無い。

カルメンはホセにとって、殺さなければ手に入らない女。でも、ホセはカルメンを殺すことによって、愛する女性を得られるのか?それとも、ホセはカルメンを殺して、愛する人を永遠に失うのか?

小説を読んで抱いた私の問いに、思いがけずウヴァーロフのホセは、最良の回答をくれた。

ホセはカルメンを刺した後、右腕に彼女を抱きとめ、彼女の腕を自分の首筋に廻してカルメンを抱き上げ、そして、幸せそうに笑った!この場面でこんな演技を、私は見た事がない!・・・「やっとカルメンは自分のものになった」、きっと、そんな意味。恋人と結ばれたような優しい笑顔に、見ていて虚を突かれた。

カルメンを抱きしめる。その腕をすり抜けて、死体が下へずり落ちてゆく。ホセの表情が曇る。たぶん、体温が下降とか、重さとか、だんだんこれは死体だ、彼女はもう死んで失われたのだ、と触れた肌から実感するという意味だと思う。カルメンを刺した後、ウヴァーロフの表情が刻々と、くるくると変わった。一瞬一瞬の、表情がすべて素晴らしかった。ホセが、そこに生きていた。

走馬灯のように、カルメンとの日々、カルメンへの複雑な感情がウヴァーロフ・ホセの脳裏をよぎったのだ!と、はっきりと手ごたえを感じながら、私は思った。

彼はこの日、生きた演技をした。そして同じ事は、2度起こらなかった。

相手役のザハロワは、従来的なファム・ファタールとしてよりも、この聡明なホセに真摯な愛を捧げられるに相応しいフェミニンな魅力で、東京公演最終日に、今までのイメージを覆す好演を見せた。それは後日の話になる。

一瞬の中の、永遠。ホセはカルメンを殺して、彼女を得た。そのやわらかな笑顔は、独りよがりでエゴイストな男のものには、私には見え難かった。
一瞬の至福の後、ホセは、大切な人を永遠に失った事を悟る。

ホセが立ち尽くすラストシーン。ビゼーの情熱的な音楽に、シチェドリンの編曲は硬質な透明感を加えた。「カルメン」歌いだしの音楽が、鐘の鳴るように響き、全てを浄化するように、悲しみのホセと、カルメンの亡骸の上に降り注いだ。

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ギエム・東京バレエ団「中国の不思議な役人」「ボレロ」

2009-06-01 01:34:12 | バレエ
※長らくさぼっていたバレエの記述。この頃、ちょこっとだけやる気に?なったかもな私。

3月にTV放映された「ギエム&東京バレエ団公演」の劇場中継は、個人的にはその前に生で見た別のバレエ団公演より感動的でした。

東京バレエ団「中国の不思議な役人」
モーリス・ベジャール振付、ベーラ・バルトーク音楽

無頼漢の首領:平野玲(つまり中国のやくざ~なお兄さん?)

第二の無頼漢―娘:首藤康之(理由はよく知りませんが、男性が中国の役人に好かれる「娘」の役を演じているようです。)

ジークフリート: 柄本武尊(正直に言うと、なんでジークフリートがここにでてくるのか、自分にはよくわかりませんでした。解説調べないと。)

若い男:西村真由美(やっぱり理由不詳で、バレリーナが男装。両性具有や退廃を表してるんでしょうか??男装似合って振舞いもかっこよかったです)

中国の役人(たぶん権力者で、有象無象のうごめく、アヤし~~~イ、世紀末中国の犯罪横行する売春宿などのある通りで、無法者たちの陰謀の中、一人の娘を抱きたく思って、怪しい通りをうろついてる人?と、勝手に想像)

冒頭から、暗い照明の舞台にスモークがたかれ、怪しく退嬰的な雰囲気を出せているのがさすが。最初から「場」を形成しています。

バレエは、ほんとうはいい音楽を選ぶべきで、バルトークの音楽は、やはりぐっときます。

「中国の不思議な役人」は、バレエ以外でも取り上げられている題材で、自分的には、バルトーク「中国の不思議な役人」で根本的に何を描きたいのかは、まだ
理解できてないのですが。縁あればそのうち情報入ってくるでしょう。

東京バレエ団は、内情は色々なんでしょうが、私はアッサンブレ会員でもおっかけでもないので不詳。

今後の方向性はともかく、現代モダンバレエの大家、モーリス・ベジャールの直接の指導を受けられた事、ベジャールのルードラ出身者がいること、海外公演を多くこなしている事などで、こういう日本人がいかにも苦手そうな作品を、日本人離れしたセンスで、うまく消化してくるなと、感心しました。

かなり退廃的でエロティックなものなので、古典バレエに期待される世界とは違います。

内容が想像力を刺激するような所もあり、ちょいエロティックな所は、表現として必要なな所は出ていて、かつ、日本人だから過剰ではない為、エログロ過ぎない(?)というか、本家ベジャールバレエ団がやるほど、Hじゃなくて、自分的にはそこも良かったです。(モノホンのベジャ好きには、怒られそうな感想。)

そうはいっても、男が女装して、映画「地獄に落ちた勇者ども」みたいな女の下着系ファッションでおでましとか、男が演じる怪しい下着姿の娘に、中国の不思議な役人が懸想してるらしく、最後はマスタベーションとか、そういう内容を、これだけ日本人キャストが違和感なく不快感なく、かつ、表現として必要な退廃美学?エロティシズムは出せてる所に、特に感心しました。

キャストによって、見え方も変わる作品のはず、と思います。
このバレエ団に詳しい人には、この役はこの人!と言うイメージおありでしょうが、自分的には、特に誰がどうというのはなく、両性具有性など難しい役どころをそれぞれ、それらしく踊っていて見ごたえありました。

家のTVで見たら、中段で、黒下着姿の女性たちが、男にゆらゆら手、腕を動かしながら、妖しく誘ってるようなシーン?(歓楽街の娼婦たちが誘ってるのかしら?)があり、家のTVで見るには、Hな番組見てるように思われそうで、ちょいあれなシーンもありましたが。(ここのロングヘアの女性、そこそこきれい)

中国の不思議な役人は、無頼漢らに、首に縄を掛けられ、殺されそうになるのが、なぜか死なず、娘を思ってマスタベージョンするシーンで終わってたような気がします。

(TV見ただけで、解説読んでないので、間違ってたらゴメンなです。)


シルヴィ・ギエム「ボレロ」
振付:モーリス・ベジャール 音楽:ラヴェル 共演:東京バレエ団

ラヴェルの名曲に拮抗するベジャールの振付。

これは何年も前に、ベジャール・ダンサーの故ジョルジュ・ドンで、TV放映されており、作品の踊り方としては、(当たり前ですが)ギエムよりドンの方が良かったし、TVのカメラワークも、ドンの方が合ってました。が、そんなのは解りきった話で、ギエムは不器用に愚直にギエムの踊りを貫いていて、興味深かったです。

特に、最初の、音楽始まりに合わせて、暗がりから、人の手が、そして腕だけがスポットライトで浮かび上がるシーンは、ちょっとTVで見ちゃうとギエムはいまいちで、「ここって難しいんだ」と初めてわかりました。

そこは、どう見てもドンが良く、ギエムだと退屈に感じたのが、もっと全身が写って振りが派手になってからは良くなりました。

さすがに年齢か、右に、左にジャンプして宙でポーズとる箇所も、写真で見るよりジャンプ低いし、もっとパッションが出れば尚いいと思いましたが。

円形の台の上でソロ、メロディを踊るプリマのギエム。台の下で、その周りを囲んで、半裸にタイツで、両腕上下に振りリズムを刻んで踊る、東京バレエ団の男性群舞の方が、ギエムより普通に音が取れてるとこもあり、ふうん、でした。

ギエムはそこを逆に、自分の踊りに徹して、片足上げてアラベスクでポーズ取る時、長身、長い手脚を使い切ったとても美しいポーズ取ることに専心しており、パリ・オペラ座出身のダンサーらしい踊り方でした。

それと、”ベジャールの「ボレロ」は、こう踊るべき”という観点よりも、ギエムの持ってる良さを生かして踊るにはどう見せたら一番いいかを優先した結果の踊りと見たので、私的には「ギエムのボレロは、これでいいんじゃないか」と思いました。

大家ベジャールのビッグネームを前にしても、自分を譲らないギエム。

この人は、オールラウンドプレイヤーではなく、不器用な部分もたぶんにある芸術家と、個人的にはみますが、そんな事も含めて、世間がなんと言おうと、他人がどういおうと、自分にはこうだ、というものを出してくるのが、この人らしい。

自分を貫いた潔さと不器用さを感じた「ボレロ」でした。(ギエムファンの炎の反論に会いそ~な感想。・・ど素人の言う事ですから。)

勿論、個人的好みならドンの方が好きです。踊りの最後の爆発感がたまりません。

ただ、これはあくまで、「TVだけ見た」感想で。

公演に行った友人によると、大変感動的な公演だったそうです。
感動を共有し、みなの情動に身を委ねるライブ。
私の感想が分析的なのは、その渦の中にいなかったせい、TVで見たせいもあるのか。公演に行ってないからわかりません。

以上、視聴率貢献演目、ギエムのボレロでした。振付は素晴らしい。

このあと、おまけで故ベジャール追悼なのか、モーリス・ベジャールバレエ団の公演の舞台中継となり、ローマの退廃皇帝の名を冠した「ヘリオガバルス」、「ロミオとジュリエット」「春の祭典」等名作が延々と続き、やっぱりえ~わ~ベジャール、と思いました。

すっかりマクミラン版が定着してしまった「ロミオとジュリエット」ですが(今ノイマイヤー版上演してましたが)、そんな中、かえってベジャール版で、最初にジュリエットの言葉が入る所が新鮮でした。

「なぜ貴方はロミオなのか」はっとしたのは、確か哲学者だかを父に持つベジャールは、言葉の人で、哲学的でもあるのだと。

亡くなった巨匠振付家ベジャール、まだ活躍中のグリゴローヴィチ。

二人の巨匠振付家は、以前バレエ評論が流行った時代に、ともに男性バレエを推し進めたバレエの革新者としての共通点を、評論家たちに指摘されたのですが、盲点としてもう一つの共通点「哲学性」があったのだと発見。

グリゴローヴィチは、哲学的と言われますが、ベジャールには、私はそこまで意識したことはなかったのです。

でも、マクミランのトラウマ性が、メロドラマに刷り返られてしまうバレエ界の「ロミオとジュリエット」上演状況の中で、ぽんっと投げ入れられた言葉、「なぜ貴方はロミオなのか」は、私には、恋する少女の嘆きより、ずっと根源的で哲学的に響いたのです。

そして、繰り広げられるダンスを担ったロミオ役・ジュリアン・ファブローの、甘さの中のエネルギー。振付は最高ではなくても、言葉と、ファブローの肉体性のブレンドが補完し感動。

「春の祭典」の、集団エナジーも相変わらず。良く組織された振付で感心。
「バレエ・フォー・ライフ」。

最後はフィナーレ、カーテンコール。満場の喝采に包まれるベジャールと中心としたダンサーたちの感激の面持ち。

クイーンの豊かな声量の音楽「ショー・マスト・ゴー・オン」が泣かせる。

ショーは続けられねばならない。
画面では舞台のベジャールが映る。客席に向かってガッツポーツ。

巨星ベジャール逝く。それでも、ショー・マスト・ゴー・オン?

泣きましたよ。

番組構成、よく出来てますね。




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