想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

空にまぼろしを描く

2009-01-14 02:40:34 | Weblog


   ここは奈良平野の広がり‥、ではなく冬の陸奥、寒々とした景色である。
   森の中で撮ると樹々ばかりなので、ちょっと開けたところで撮ってみた。
   でも開けすぎ! ひろびろとして、なーんもない。

   ヒラサカというのは境界をさす古語。
   この世とあの世の境界線、よもつひらさか。
   このだだっぴろい道路は約10キロ続いていて、三十年ほど前に
   時の県知事の関連会社が建設に関わったという噂がある。
   つまり地元では必要とされない道路だが、あたいには重要な路。
   この路が集落と森を隔てる境界線である。

   森の中へつきすすむとアヤシげな闇へ入りそうだが、
   こちらの立場では、この広々の道路を降りていった先に魑魅魍魎が
   跋扈している気がして、よう降りていかないのである。



   だがしかし、こもりくに籠って夢を見てばかりもいられないわけで、
   買出しに来た。人は生活する。
   神性と人間性、どちらにもかたよるなかれ、中庸が肝心というのは
   ねずみ師の厳重なる教えだ。
   なのでうさこは生活生活、生活。生活も難しい、夢に入るもの難しい。

   肌をさす風のなか、しばらく立っていて思った。
   千年前、二千年前、人が境界線を引いたのは、あの世とこの世だけで
   隣町、隣国ではなかったろうな。
   人の数が増えるにつれ、あちこちに線を引いていった。
   けれど、地平線と山の稜線の向こうに彼の國を思いながめた昔、
   月がまだ大きく今よりずっと輝いていた頃、
   神と人と地があっただけの頃、その頃を生きた人を、
   そのまぼろしを空(くう)に描いてみた。
   人はせっせと道路を作り領地を広げてきたが、人に道ありというのは
   ついぞ置き忘れてきた。
   交通と書いて、とろけあうという意味は消えてしまった。

   空(くう)に目をやり思う、遠く遠くはなれてしまったなあ。
   でもほんとうは同じ、人は同じ。だからあたいにもわかるんだわ、と気づく。

   うさこは目を開けていても、こうして時々現実にはないものを見ようと
   する癖があって、ほとんど癖の域。だから親分は見張り番。
   日々、活躍してくれていて感謝。
   でも今日は車から降りないで、グーグーグー、よう寝るなあ、どうしたの?
   寒すぎるかい?


   PS:東京から新潟へ移住した赤坂育ちのO君が今年の作付け予定表を
     見せにきてくれた。農業は地ツ神(くにつかみ)のハタラキの内で、と
     話をし、みんなが美味しい野菜を待っているよと伝えました。
     収穫できたらまた報告します。そのときはよろしく。
   

   
コメント
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