早朝は雪が降っていたが、昼になるにつれ
陽が射してきた。
気温は低いので寒いことは寒い、でも風がやんだので
散歩日和ではある。
文体を考えてブログを書け、大江健三郎氏がそのような
発言をしているのを聞いてちょっとびっくり。
自由な文体で勝手気ままに書くのもよろしいが意識して
書くということをお勧めする、という趣旨だった。
ケータイで投稿するブロガーは10本指で打たないし、表示される
ディスプレイの幅も考えて文を作る、たぶん。
ケータイという端末のおかげでブロガー人口が爆発的に増えている
のだろうから、ブログ+文体という話をわざわざ大江氏がするのは
ほぼ皮肉とうけとったほうがいいかも。
大江健三郎はそんなに善良なお人よしではないはずだし、
だから好きなのであるが、文体の前に内容をと本当は言いたいけど
そこを言わずに文体と言って、文章世界の垣根の高さを暗示する
という込み入ったことを想像させる、大江マジック。
このおじさんは、クワセモノナノダカラ。
最後の仕事、ということを意識して書かれている「定義集」
その連載(朝日新聞)を毎月切り抜いてファイルしている。
いずれ単行本になるだろうに、まるで昔むかしの情報が少なかった
時代のようなしぐさだが、そのまま捨てがたく切り抜く。
そして机の上にいつも置かれたままのファイルをときどき読み
返す。現在連載中なのだから、今現在の大江氏の思考に触れる
ことができる。
大江健三郎の小説。
よく難解と言われるが、べつに難しいことは何も書いてない。
難解というより、あまりおもしろくないというほうが適切では
なかろうか。本屋の特設コーナーに「おもしろくないが読め」と
書かれたポップが立てられて、それまで売れなかった作家の本が
急に売れ出したという話がある。
だから言うわけじゃないが、大江健三郎もおもしろくない。
しかし好んで読む人(わたしもその一人)はもちろんおもしろい
から読むわけで、難しいとは少しも思っていない。
大江健三郎氏の描きだす小説世界は連続しているので、むしろ
わかりやすいのである。一冊だけ読むとわからないかもしれないが
それでも最初の一冊というのは必ずあるから、そこでつまづくと
あとは読まないということになる。読まない人が難解と言うのを
聞いて手にとらないのはもったいないよ、他人(ヒト)は他人、
己は試せ、だ。
長年連れ添って理解したくなる相手、人生の伴侶とはそうだろう?
作家も同じで、この人を理解しようという気がなければ読めない。
そして伴侶と同じく、そばにいて、角度を変えてじっとみつめたり
あるときは離れて距離をとって眺めたりしながら理解を深めていく。
ひとめぼれしたのにすぐ飽きた、なんて若気の至りのような恋と
違うのだからね。
ストーリーだけをざっくり追って読み終わる本はブックオフへ行く
かもしれないが、大江健三郎は書棚に長く置かれて場所をとる。
考えさせる人、考えずには読めない作品。
好きな理由はそれである。
2005年『さようなら、私の本よ!」はかなり興奮して読んだが
少しも最後ではなく、次の幕が開いたということだった。