想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

夢のつづき

2009-01-13 00:53:17 | 
       雪が風にあおられて舞い上がる。


       雪の量はたいしてないが風が強くて吹雪のよう。

 
  人に宿る魂が、寝ているときのような現(うつつ)の狭間にいるときに
  旅をする。
 (つまり、夢は寝ているときに見ているもう一つの世界、真実。
  夢の古語は寝目(いめ)だそうで変化してゆめとなったとも言われる。)

  現代の人々は何につけ、証拠がない、科学的根拠がない、と言いつのって
  信じないし取り上げるとバカだと思われるというのを恐れて口の端にも
  上せない。
  小説という虚構の中でだけ書くのが無難ということである。
  だが、昨日書いたことは周知のこと、知る人ぞ知るの事であるが、
  ただ真面目に考える人はあまりいないだろうな。好奇心、数寄ものはいるが。
  よって小説の断片だと思われないよう、話の続きを書こう。

  魂がはたらいて未知のことを夢に教えてくれるのを期待して、沐浴斎戒して
  堂に籠る。
  そして、夢のお告げを聞こうとして長旅もいとわなかった中世の人々を、
  愚かものの迷信と決めつけてしまうのは勝手ではあるが、無粋ではないか。
  「虚と実の皮膜の間に真実がある」と民俗学の大家柳田先生も言われたのだし、
  迷信にもふりまわされてみて、興味を抱いてこそある真実に辿りつくのだ。
  根も葉もない話を千数百年語り継いできた愚だと切り捨ててしまうなら
  では、今という時代のどこが確かなのか。今ほど根もなければ枝葉も見えない
  時はないのではなかろうか。
  未来へ、どう生きていくのか、見えているか?

  聖徳太子の夢殿は禅定のざんまいに入るための場所。神と相対するためであった。
  そののちの中世の人々が夢に求めたものは個人的な願い、平安や病気平癒の方法
  を求めてのことと変化した。つまり今と似ているのである。
  このような話は中世の日記文学、僧侶の文や源氏物語などにもあり夢見にまつわる
  話は万葉集の歌にもよく詠まれている。

  わたしがいう夢とは、それらの中世のものではなく、飛鳥以前の夢の見方、
  それは求めた者の品格を映す鏡ともいえる。
  誰にでも見れるものでもないが、全く無理とあきらめるのも早い。

  人里を離れ、交通を絶ち、前頭葉大脳にかけめぐる現実生活のさまざまを
  ふりきる。そして魂が自我の域を越えてうごきだすのを待つ。
  夢があらわれるのを待つ。

  さて、平成21年の今。夢で魂を飛ばして神に問うて帰ってくるなどということを
  信じるもなにも、神に問うべきことがはたしてあるか、だ。
  なにもかも、オレオレ、ワタシワタシで決めていくのなら、問うことも占うことも
  なくなる。ここでいう占うとは最も古く正しい意味での占いである。
  つまり己のまことを以て神に問うという意味の「貞善」のこと。
  命がけである。

  人はただの肉塊だと言われれば何を、と怒りもしようが、では魂は、あんたの
  マブイはどこだ?と聞くと、そりゃなんだと鼻で笑うというありさまで‥。
  精神的な退化がいちじるしい。精神が退化して全体は進化するなどありえない。

  退化した己をどうにかこれ以上汚濁にまみれた肉塊に堕ちてしまわぬように
  森のなかで、目を閉じる。
  風の音を聴いて、夢のなかへ入る。
  肉を捨て、虚実皮膜の内へ入り、軽い身の毛のほどの存在になって飛翔する。
  あるいは肉を被う球体となり、膨張しつづける。輪郭が融けるまで。

  (親分はたまに犬神となり、魂を現へひきもどし誘導するお役目である)

  
コメント
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