スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

『仏教談話』 (4)(唯識雑感)

2013年09月05日 | 雑感
前回≪不思議なこと≫へのblogに対するコメントに、、、”思い込まないで”、、、とありました。

そう、人間ここが大事なことなのかも知れませんので、少し掘り下げてみたいと思います。


前回のブログより
≪ひとつめ≫、、、生まれ変わる、、ことを信じているわけではありません。

≪ふたつめ≫、、、エゾリスの奇跡も偶然なのかもしれません。

≪みっつめ≫、、、小鳥すべてが死ぬすべを知っている、、と思いこんでいるわけでもありません。 

でも、自分の中に”そうあってほしい”と祈る気持ちは、まちがいなく、どこかに、、、。

今、blogで伝えようとしている事も、悲しいかな文章をもって、言葉をもって伝えようとしております。

ある心理学者が”言葉”についてこんなことを言っておりました。 岡本守也著『唯識で自分を変える』より抜粋。

≪人間は言葉を使って世界や自分をみるようになった為に、世界・自分が言葉どおりにあるような錯覚をもつようになった。特にモノに名前をつけると、とたんにそれ自体が独立してあるようにみえる≫ 、、、と。 


その通りかも知れません。

例えば、海。なぎのときもあれば荒い波もある、中に入れば別な世界もある、、それぞれみんな違う面があるのですが、海、、ひとことで括っている。
 
また、誰でも人間、多面性があるのですが、ある人のことを、、、誰誰さんはこんな人などと、ひと括り。 

その人にとっては、たまったものではありません。

世界も、それぞれの国も、宗教も、動植物も、虫や、道端にころがっている石さえもしかり、、、です。


私も、行ったことのない国でも、、ひどい国、どうしよもない国なんて平気で言ったりすることもあります。


大乗仏教に『唯識』(ゆいしき)という考え方があります。 開祖は世親(インド~興福寺)。

唯物論とは違う考え方で、2~4世紀インドの大乗仏教の一学派で興った仏教深層心理学みたいなものです。
(ちなみに三島由紀夫最後の作品『豊饒の海』はこの唯識論で書かれた小説と言われております ~ ぜひ一読を)

人間がものごとを何で認識するか、五感、五識(眼・耳・鼻・舌・身)ですよね。 そこに意識を加え、六識とも。

昔、山に登って修験者が≪六根清浄≫(ろっこんしょうじょ)といいながら歩く、、、あの六根のこと。


唯識論は、その六識の奥に、、マナ識(七識)、そして無意識の根本に阿頼耶(アーラヤ)識(八識)があると言います。

阿頼耶(アーラヤ)識は、唯物論でいえばDNAみたいなもの。

このマナ識がくせもので、言葉を通して形成された自我の意識。 世界や自分のことはよくわかっているとか、執着・こだわり・錯覚とか、、云々。

いわゆる全てにたいする、、その”思いこみ”、、これらが多くの煩悩を生み、日常にトラブルを起こすという。


このへんになると、ん~??なのですが、どうもその”思いこみ”のなかに私たちは日常どっぷり浸かっているようです。

【桃栗3年・柿8年】じゃありませんが、仏教では、【唯識3年・倶舎8年】 《倶舎~上座部(小乗)仏教8年学んではじめて唯識を学べる》 といわれるくらい難解な分野です。

このblogだけで言い表そうというのも、所詮無理な話なのですが、でも少しでも言葉で伝えようとするのも事実ですし、この言葉で少しでも解かろうとする人がいるかも知れないのも事実です。 

しかもほんの少しの言葉で、、、これが人間。

我々人間は、これら”思いこみ”だらけのなかで、物事を考え、そして生きている、ということなのかもしれませんね。


それでも、そのだらけの流れの渦のなかに、ほんの少しでもの真理 でも見つけられたら、、そう思います。

あらゆる情報を認識するのは、その8割以上は、(視覚から)、、だそうです。


なにを、どう見て、そしてどう思うか、せっかくこの世に生を受けたのだから、心して・貪欲に・しっかり、と観ていきたいものです。