先日、函館近郊・横津岳麓にある実家に立ち寄った。
すでに父が他界し、母ひとりで暮らしている。
居間のテーブルに無雑作に置かれていた文庫本を手に取り読んでみた。
五木寛之著 『運命の足音』というエッセイ本であったが、最初の章《五十七年目の夏に》のページを開いてすぐに衝撃が走った。
著者が当時12歳。1945年(昭和20年)・日本が第二次世界大戦に敗れた年である。
父の仕事(師範学校教師)の関係で、一家で朝鮮半島北部の平壌(現ピョンヤン)という街に住んでいたときの出来事。
57年目にして、胸に封印して語りえなかったことを始めて告白した、悲痛なこころの叫びであった。
当時、軍隊の占領、略奪や、暴行、レイプに一般の人たちはただ逃げまわるだけだったという。
父が風呂に入っていた時、突然ソ連兵たちが自動小銃を構え姿を現した。母は半年前から病気で寝ていた時のこと。
私が説明するより、抜粋して記したほうが、、、。《五十七年目の夏に》の章より(原文そのまま)。
少し長くなりますが、読んでいただきたく、ごめんなさい。
『ソ連兵に自動小銃を突きつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際に立たされた。
彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で叫んだ。悲鳴のような声だった。
ソ連兵の一人が、私をおしのけて裸の父親のペニスを銃口で突っついた。そして軽蔑したようになにかを言い、仲間と大笑いした。
それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じていたゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。
彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。
そのとき母が不意に激しく吐血しなかったなら、状況はさらに良くないことになっていただろう。
あのとき母の口からあふれでた血は、あれは一体、なんだったのだろうか。
病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛み切った血だったのか、まっ赤な血だった。
さすがにソ連兵たちも驚いたように、母の体から靴をおろした。
彼らもようやく病人だと気づいたようだった。
そして、二人がかりで母の寝ている敷布団の両端をもちあげると、奇声を発しながら運んでいき、縁側から庭へセメント袋を投げるように投げだした。
そのとき私はどうしていたのだろう。大声でなにか叫んだ記憶があるが、その言葉をおぼえていない。
「かあさん!」と叫んだようでもあり、また、「おとうさん!」と、叫んだような気もする。
自動小銃を突きつけられたまま、私と裸の父は身動きもせずにそれを見ていた。
やがてソ連兵が目ぼしいものをねこそぎ持ちさったあと、私と父親は母親を庭から居間に運んだ。
、、、母はひとことも言葉を発しなかった。
私と父親をうっすらと半眼でみつめただけだった。、、、。
事件のあった日から、母はなにも口にしなくなった。まったくものも言わず、父親がスプーンで粥をすすめても、無言で目をそらすだけだった。 やがて母は死んだ。
たらいに水を張り、父と二人で遺体を洗った。午後の日ざしをうけて、水中の母の体が屈折して見えた。こんなに小さな体だったのかと驚かされた。灰色の陰毛が藻のようにゆらいでいたのを、きのうのようにはっきりとおぼえている。
それから五十七年がすぎた。、、、、。
私と父親とは、母の死以降、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。
父が死ぬまで、彼とはたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。
父親はやがてアル中になった。、、そして五十五歳で腸結核で死んだ。
あれも父なりの母への責任のとりかただったかもしれない。』 以上抜粋。
ときどき夢のなかで
その時なにも言ってくれなかった母が、かすかに微笑して 『いいのよ』 ってつぶやくのを聴くことがあるという。
人には、胸に封印して銀河の果てまでもっていかねばならない、ひとつやふたつ、あるのかも知れませんね。
五木氏は1932年福岡生れ。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。50歳で京都龍谷大学にて仏教史を学ぶ。
著書多数。 翻訳に有名な『かもめのジョナサン』も。作詞も手がけ『愛の水中花』『旅の終わりに』等もある。
すでに父が他界し、母ひとりで暮らしている。
居間のテーブルに無雑作に置かれていた文庫本を手に取り読んでみた。
五木寛之著 『運命の足音』というエッセイ本であったが、最初の章《五十七年目の夏に》のページを開いてすぐに衝撃が走った。
著者が当時12歳。1945年(昭和20年)・日本が第二次世界大戦に敗れた年である。
父の仕事(師範学校教師)の関係で、一家で朝鮮半島北部の平壌(現ピョンヤン)という街に住んでいたときの出来事。
57年目にして、胸に封印して語りえなかったことを始めて告白した、悲痛なこころの叫びであった。
当時、軍隊の占領、略奪や、暴行、レイプに一般の人たちはただ逃げまわるだけだったという。
父が風呂に入っていた時、突然ソ連兵たちが自動小銃を構え姿を現した。母は半年前から病気で寝ていた時のこと。
私が説明するより、抜粋して記したほうが、、、。《五十七年目の夏に》の章より(原文そのまま)。
少し長くなりますが、読んでいただきたく、ごめんなさい。
『ソ連兵に自動小銃を突きつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際に立たされた。
彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で叫んだ。悲鳴のような声だった。
ソ連兵の一人が、私をおしのけて裸の父親のペニスを銃口で突っついた。そして軽蔑したようになにかを言い、仲間と大笑いした。
それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じていたゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。
彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。
そのとき母が不意に激しく吐血しなかったなら、状況はさらに良くないことになっていただろう。
あのとき母の口からあふれでた血は、あれは一体、なんだったのだろうか。
病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛み切った血だったのか、まっ赤な血だった。
さすがにソ連兵たちも驚いたように、母の体から靴をおろした。
彼らもようやく病人だと気づいたようだった。
そして、二人がかりで母の寝ている敷布団の両端をもちあげると、奇声を発しながら運んでいき、縁側から庭へセメント袋を投げるように投げだした。
そのとき私はどうしていたのだろう。大声でなにか叫んだ記憶があるが、その言葉をおぼえていない。
「かあさん!」と叫んだようでもあり、また、「おとうさん!」と、叫んだような気もする。
自動小銃を突きつけられたまま、私と裸の父は身動きもせずにそれを見ていた。
やがてソ連兵が目ぼしいものをねこそぎ持ちさったあと、私と父親は母親を庭から居間に運んだ。
、、、母はひとことも言葉を発しなかった。
私と父親をうっすらと半眼でみつめただけだった。、、、。
事件のあった日から、母はなにも口にしなくなった。まったくものも言わず、父親がスプーンで粥をすすめても、無言で目をそらすだけだった。 やがて母は死んだ。
たらいに水を張り、父と二人で遺体を洗った。午後の日ざしをうけて、水中の母の体が屈折して見えた。こんなに小さな体だったのかと驚かされた。灰色の陰毛が藻のようにゆらいでいたのを、きのうのようにはっきりとおぼえている。
それから五十七年がすぎた。、、、、。
私と父親とは、母の死以降、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。
父が死ぬまで、彼とはたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。
父親はやがてアル中になった。、、そして五十五歳で腸結核で死んだ。
あれも父なりの母への責任のとりかただったかもしれない。』 以上抜粋。
ときどき夢のなかで
その時なにも言ってくれなかった母が、かすかに微笑して 『いいのよ』 ってつぶやくのを聴くことがあるという。
人には、胸に封印して銀河の果てまでもっていかねばならない、ひとつやふたつ、あるのかも知れませんね。
五木氏は1932年福岡生れ。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。50歳で京都龍谷大学にて仏教史を学ぶ。
著書多数。 翻訳に有名な『かもめのジョナサン』も。作詞も手がけ『愛の水中花』『旅の終わりに』等もある。