風の数え方

私の身の回りのちょっとした出来事

紫陽花の季節に

2020年06月28日 | 清水ともゑ帳
今月11日、父が霊山へ旅立った。94歳だった。
平成8年(1996年)に母が他界してから、妹夫婦が父と同居をしてくれ、妹夫婦の子ども(孫たち)に囲まれ暮らしていた。
父が認知症と診断されてから、足かけ10年ほど、妹とともに介護にあたった。

昨年3月、誤嚥性肺炎に罹ってからは入院していた。
今年に入り2月28日の面会後は、コロナの影響で、会えない日がずっと続いた。
5月20日に容態が芳しくないとの病院からの連絡で、約3ヵ月ぶりに顔を見ることができたとき、父は笑顔を返してくれた。
けれど、以降はやはり面会がままならず、父の様子が気になりながらも、日々を送るしかなかった。
そのせいか、父を見送ったという事実があるのに、父はまだ病院にいるような気がしてしまう。

父は30年間、1日3時間の散歩を欠かしたことがなかった。
「散歩」というとゆったりした気分があるけれど、父はよく静岡市内周辺の山々へも登っていた。
また70代のころには、清水から沼津市へ、清水から島田市へ、帰りはJRの電車に乗ってくるものの、東へ西へ、約40㎞を歩いたりもしていた。

父とはウォーキングラリーなどにも何度か一緒に参加した。
私たち夫婦に登山のイロハを教えてくれたのは父だった。
夫と私が足に自信をつけ、登山の知識とともに少しばかりの経験を得てからは、私たち夫婦は南アルプスを縦走する山登りに度々出かけ、富士山へも4度ほど登り、心地よい達成感を幾度となく味わったものだった。

父が逝ってから、近隣の山々の稜線を眺めるたび、こみ上げてくる瞬間があるものの、行政的な手続きなどいろいろしなければならないことにより気が紛れるのは、少しばかり救いでもある。

父との思い出は尽きない。
私がポポを実家へ連れていくと父は喜んでくれ、ポポも父が大好きだった。
父が新聞を読んでいると、ポポは ”かまってほしいオーラ”を発していた。



母は紫陽花が好きで、この時期の実家の庭は、紫陽花が咲いていた。
6年前、父とともに日本平(にほんだいら)へ出かけたとき、父は紫陽花に彩られた歩道をうれしそうに歩いていた。



いまごろ父は向こう側で母に会い、母がこの世を去ったあとの24年間の月日について語り合っているに違いない。

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