ドリーム 2(セカンド)

長坂徳久が語る夢教育(ときどき日常)

少林寺拳法橋本西支部道場通信ドリーム 539号

2006年01月20日 05時59分44秒 | 少林寺拳法(ライフワーク)
※投稿順がおかしくなりました。539号→540号→541号でお読みください。また、ブログに慣れていないもので・・

       発行日 2006年1月12日(木)   発行・文責 長坂 徳久

                 【最強の愛弟子たち・・彼らは今、中3】

 最初に言っておく。彼らは最強である・・
彼らとは、現在の中学3年生拳士、受験を目の前に控えた11人。
先日、都合で参加できなかった1名を除いた10名の拳士たちと恒例の「吉野神社詣」に行ってきた。受験合格祈願である。(拙著ドリームにその趣旨は書かれている。) MLでご存知のとおり、雪のため実施も危ぶまれたが、1月8日(日)に行ってきた。
Ⅰ君、N君、Hちゃん(以上幼児より入門。当時は幼年部はなく小学生と一緒に稽古していた)。T君、T君、Nちゃん、Mちゃん(小1入門)。K君、T君(小2入門)。Yちゃん(小5入門)。Iちゃん(小6入門)。このうち、今も継続して稽古に来ているのは、K君、Yちゃん、Hちゃんの三人だけ。他の拳士はクラブのため、二年間から三年間休眠(支部には在籍しているが稽古にはこないこと)している。

吉野神社は吉野山にあるので、長坂は前日の天候の様子と現地の情報から、当日の荒天(雪)を予想して、延期、中止を考えた。早く決定したほうが受験生で忙しい彼らや保護者にも予定が立てやすいと判断した。そして、そのようにメールを流した。しかし、Ⅰ君が電話でこう言った。
「先生、どうしても明日みんなで行きたいんです! お願いします!」
休眠をしていても、こんなことを長坂に言えるのが彼らの強さだ。そして、師弟の信頼関係でもある。
そして、長坂も、最悪歩いて山を登るか!という覚悟を決めて、実施を決意した。やはり吉野山は雪が吹雪いていたが、なんとか行くことはできた。彼らには運の強さもあった(笑)。

とりあえず、彼らはレベルが高かった。橋本西支部史上最強だった。橋本西支部を語るとき、長坂は今でもこの学年を基準に語っている。しかし、そのレベルとは少林寺拳法のレベルではない。人間力のレベルだ。演武も乱捕も強かったが、同時に、誰にでもあいさつができた。稽古は休まないし、日記もちゃんと毎回書く子が多かった、みんなの前で「コント」もできた。(覚えている人も多いでしょう?!)学校では、S小学校のそのクラスの学級委員長、副委員長、書記をすべて彼らで埋めてしまった。
いや、少林寺拳法のレベルも高かった。演武も乱捕も圧倒的に強かった。だから、長坂は彼らが三年生のときに周囲にこううそぶいていた。
『こいつらが六年生になったときに、県で団体を優勝させることができなかったら(全国に出れなかったら)、俺は支部長を辞めるよ。』
それぐらい自信があった。当時、橋本西支部はまだ県では団体は優勝したことはなかった。それでも、その時点で長坂が確信するぐらい彼らのレベルは高かった。そして、彼らが五年生のときには、五人が「全日本少年武道少林寺拳法錬成大会」(日本武道館)の団体演武で最高得点を獲得。翌年六年生でも団体演武メンバーは予想通り県大会で圧倒的強さで優勝。全国へと進んだ。全国でも、長坂の横で見ていたH先生(K東支部)に、「もう、芸術!」といわせしめるほどのレベルだった。結果は、最高点をとることはできなかったが、いい団体演武だった。
しかし、断っておくが、今の小学生拳士たちと当時の彼らを比べると、明らかに今のほうが少林寺拳法のレベルは高い。それは、今の橋本西支部が進化、成長しているということ。稽古方法やトレーニング方法が断然進歩しているのだ。そして、長坂ほか指導者のレベルも格段にアップしている。
でも当時の彼らは強かった。そう「強かった」のだ。うまさでは今の拳士のほうがはるかにうまい、そしてきれいだ。でも「強さ」ということでは、あの当時の彼らにはかなわない。逆に当時の彼らに今の指導をしていれば・・考えるとこわくなるくらいだ。

ここでいう「彼ら」とは主に「男の子」を指す。とにかく、彼らは、元気、やんちゃ坊主の集団。だから「ギャング」の名がふさわしかった。彼らを統率して、支部のまとめていくには長坂が彼らのボスとして君臨しなくてはならなかった。そのため、長坂は指導者修業を行った。普通の指導では言うことなど聞かない、まとまらない彼らのおかげで長坂の指導者としての腕は数段に伸びることになった。同時に彼らと本当に一緒に遊んだ。楽しかった。本当に楽しかった。そして、当時の彼、彼女らのことが本当に大好きだった。だから、彼らも、長坂のことが大好きだった。(たぶん・・)

あるときは、こんな会話があった。
『いいか、先生は行きたくても全国大会にはいけないんや。お前らが、県で優勝して全国大会出場をしないと先生はいけない。どうや?』
「先生! 僕たちが優勝して先生を全国大会へ連れて行きます!!」
そんな強さを持った集団だった。
また、この学年のリーダー的存在のⅠ君にはこんな思い出がある。
『次の稽古から、順番に毎回ひとりずつ一分間スピーチをしてもらいます。あっ、そうや、どうやⅠ(当時六年)、いきなりやけど今日でもいけるか?』
「たぶん、いけます。」
そして、彼が行ったスピーチは、おおげさではなく橋本西支部の歴史に残るものだった。要旨は次。
「僕はチャレンジについて話します。僕はチャレンジには二つあると思います。一つは、自分の目標や夢に向かって、新しいことにチャレンジすることです。もうひとつは、一度失敗したことにもう一度チャレンジすることです。僕はこの二つ目のチャレンジが大切だと思います。みんなもあきらめないでチャレンジをしていってください。」
こんな話を即席でできた彼らは本当にレベルが高かった。そう彼らの強さの正体は「人間力が高い」ということ。同時に仲間への思いやり、後輩へのいたわりなどの「人間性」もよかった。
長坂が病気で稽古を休んだ時には、次に稽古に行くと、
「先生、もう大丈夫?」
と本当に心配して聞いてくれる。そう、その人間性を「形」に表せることができたのが彼ら。
しかし、その当時の彼らの人間力が高かったのは、長坂の指導の賜物ではなく、家庭でのもともとの教育力の高さなのだと思っている。もともと人間力の高かった子たちが橋本西支部に集っていたのだ。
彼らの「人間性」と「人間力」のバランス感覚こそが、長坂の少林寺拳法教育、育夢教育の原点だともいえる。だから、育夢学園ドリームコースでは長坂は「人間力」(パワー)を力説する。
長坂が彼らを通じて学んだことは本当に大きかった。それができる時期だった。しかし、振り返っても過去は帰ってこない。明日が遠くなるだけ。だから、長坂はそのときどきで状況に応じてできることを精一杯行い、さらに前に進んでいる。

次回からは、「吉野行き」を日記風に綴ってみたい。なお、過去の拳士たちをおおげさに称賛しているのは、長坂の「懐かしさ」からくるものなのだと思う。決して今の現役拳士たちを揶揄したり、低評価しているものではないことはご理解いただきたい。

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