ゆめひこう 

日々の思いを

これから読む聖書  創世記

2015-02-23 17:31:04 | カトリック


橋爪大三郎著  春秋社です。


創世記が章ごとにダイジェストで説明されています。

間にあるコラムも理解を助けてくれます。

初めて聖書を読む人の助けにもなるし、一度読んだ人が

「そういうことだったのか、もう一度読んでみよう」

と思うかもしれません。




橋爪氏の著作をこのところ何冊か読みました。

タイトルに興味を持ちます。

対談集も面白いです。

分かりやすい文章を書くのでしょう。

宗教関係の本が、一般の出版社から出るというのも良い傾向なのかもしれません。



聖書がどのような経路で編集されてきたかも興味深く読みました。

モーセ五書はモーゼが書いたかどうかは古くから議論されていたようですが、

17世紀のオランダの哲学者、スピノザは、モーゼよりずっと後の人だと結論したそうです。

もともとユダヤ人でユダヤ教から追われていたのですが、研究の結果で、

カトリックやプロテスタントからも禁書目録になったそうです。

聖書を科学的に研究することは数百年前までは、命がけだったとか。

福音書の前のキリストを知りたいと、読み漁っている私も、

追放されるところでしょうか。




四旬節第一主日

2015-02-22 17:59:18 | カトリック

          






今日は洗礼志願式がありました。

講座を受けている人が洗礼を受けます。

おめでとうを言いたいと思ったのですが、とても大勢でした。

驚きました。

でも、嬉しいですね、。

真ん中の席はすべて洗礼を受ける人たち関係でした。

代父と代母と並びますから。

司祭も6人、助祭が2人。

みなさんとても緊張していられるようでした。




終わってから、いつもいっぱいになりますが、

今日はまして、みなさん楽しそうに談笑しておられました。

復活祭が楽しみです。

それまで、私も40日の供え物をささげて、過ごすことができますように。

暮らしの節制と、お祈りを深めたいと思います。


悲劇と福音 佐藤研

2015-02-19 10:49:27 | カトリック



サブタイトルにー原始キリスト教における」悲劇的なるもの とありました

初めにギリシャ悲劇について書かれています。

第2章から 原始キリスト教における悲劇的文学の造形 ということで・・・

マルコ福音書は「ユダヤ戦争」が終結したあと、紀元70年代、場所はパレスチナ北方の南シリア。

キリストは十字架にかけられる前、悩みぬいて祈ったこと。

弟子たちは何も理解せず、眠り込んでいたこと。

逮捕の場面では、全員が彼を見捨てて逃げていったこと。

ペトロはイエスに、どんなことがあっても着いてゆくと言い、

ほかの弟子たちも口々に誓ったのに、

中庭で、一味だろうと言われ、3度も否んだこと。

十字架上ではイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」

と、絶叫して果てたこと。


弟子たちのその後を「喪の作業」という言葉で表しています。

互いの悲哀を支え合うために集まったこと。

このまま魚民になって生きてゆくのは

「イエスに対して申し訳が立たない」

こうして原始キリスト教会ができあがっていった。

さらにパウロは、キリスト教を迫害していました。

その回心は、十字架のキリストを見てしまったからだろうと。



「キリストは、聖書にしたがって、私たちの(もろもろの)罪のために死に、

 そして埋葬され、聖書にしたがって、3日目に起こされ(いまにいたった)」

(1コリント15、3-4)

この弟子たちの負い目が原始キリスト教に始まりとなっていったということで、

私はかなり心が落ち着きました。


「あなたたちは罪びとである。キリストは私たちの罪ために十字架にかけられた」

 と言われる言葉に深い理由と、長い歴史があることを、思いました。


悲劇と福音 佐藤研

2015-02-19 10:49:27 | カトリック


サブタイトルにー原始キリスト教における」悲劇的なるもの とあ利ました

初めにギリシャ悲劇について書かれています。

第2章から 原子キリスト教における悲劇的文学の造形 ということで・・・

マルコ福音書は「ユダヤ戦争」が終結したあと、紀元70年代、場所はパレスチナ北方の南シリア。

キリストは十字架にかけられる前、悩みぬいて祈ったこと。

弟子たちは何も理解せず、眠り込んでいたこと。

逮捕の場面では、全員が彼を見捨てて逃げていったこと。

ペトロはイエスに、どんなことがあっても着いてゆくと言い、

ほかの弟子たちも口々に誓ったのに、

中庭で、一味だろうと言われ、3度も否んだこと。

十字架上ではイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」

と、絶叫して果てたこと。


弟子たちのその後を「喪の作業」という言葉で表しています。

互いの日あいあを支え合うために集まったこと。

このまま魚民になって生きてゆくのは

「イエスに対して申し訳が立たない」

こうして原始キリスト教会ができあがっていった。

さらにパウロは、キリスト教を迫害していました。

その回心は、十字架のキリストを見てしまったからだろうと。



「キリストは、聖書にしたがって、私たちの(もろもろの)罪のために死に、

 そして埋葬され、聖書にしたがって、3日目に起こされ(いまにいたった)」

(1コリント15、3-4)


問いかけるイエス  荒井献

2015-02-17 14:39:45 | カトリック
      

サブタイトルに、「福音書をどう読み解くか」とありました。

福音書は「教典」であると同時に「古典」であると著者は言います。


イエスの死後(紀元後30年ごろ)その大部分が復活信仰を介して成立し、

言い伝えられていた各種キリスト伝承の断片を、初めて「福音書」に

編集したのがマルコである。


ということで、マルコの福音書の、どの部分が伝承であり、

どの部分が、マルコによる編集かを考察します。

また、マルコがまとめている福音書は、紀元60年代のキリスト教信者への

メッセージであることに気づかされました。


マタイは、ユダヤ人キリスト教徒を対象にしています。

一方、ルカは異邦人キリスト教徒を対象にしています。


聖書のそれぞれの箇所を例にあげて、比較して説明されているので、

なるほどと思いました。



マルコには復活後のイエス様は書かれていません。

婦人たちは恐ろしかったので、だれにも何も言わなかったで終わってしまいます。

そのあとの解説がたくさん書かれていて、最近発行されたフランシスコ会訳聖書では

そのことのついてかなり詳しい説明があります。

この本は1994年の出版です。

聖書学はこれからも研究が進み、解釈が変わるのでしょうか。


本当にイエス様はどこにおられるのか、私も彷徨い続けるようです。