旧約聖書の勉強が終わって、はじめる前とどう変わったかを
発表することになりました。
自分の中の心のもやもやは、神様はちゃんと分かってくださっておられるのに、
「大変だったけれど、勉強になりました」
みたいな事を言うのはいけないと思いました。
それで、今の気持ちを書いておくことにしました。
2年後に、新約の勉強が終わって、変化があるのかどうか。
ますます、沼地に入り込むのか・・・。
皆さんの前でお話したら、気持ちがすっきりしました。
今の自分はこうなのだから、仕方がないと。
旧約聖書のまとめ
聖書について
旧約聖書の勉強を始めるに当たって、キリスト教を信じるものが、なぜユダヤ教の経典を学ばなければならないか、疑問がありました。
今回、新約聖書の中には、100回以上も詩篇が引用されていると知りました。
そのほかイエス様はいつも旧約聖書を読んでおられたのだと気づきました。
お話やたとえには、旧約が登場しました。
やはり深いつながりがあるのだと思いました。
旧約聖書を学んで、神様がイスラエルの民を契約に従って、導き助けようとされたのを読みました。
それに対して、イスラエルの民が神様を忘れ、偶像に走り、生活が怠惰になっていったかが書かれていました。
これはイスラエルの民だけのことではなく、人間の本性だと思います。
神様は、私たちに、選ぶ自由を与えられました。
そのことを悪く使う本姓が人間にあるのだと思います。
イスラエルの民は、そうした自分たちの負の歴史について、余すところなく記しています。
その強さが、イスラエル民族の特徴だと思います。
2年以上かけて旧約を学びましたが、ほとんど忘れてしまっているような状態で、果たして学んだと言えるのか、不安です。
何らかの形で、今後も旧約聖書を学ぶ機会を見つけたいと思います。
また一般の読書をしているときにも、旧約聖書の話題が登場することがあります。
西洋の絵画展などに行っても、題材に使われていることが多いです。
そういう意味でも旧約聖書を学んだことは、これからの生活を豊かにしてくれるのではないかと期待しています。
神に関して
旧約の神は、激しく罰する神であるのを、何度も読みました。
イスラエルの民に対しては、慈悲深いですが、それでも罪を犯したときは、罰します。そのときの民の祈りは痛切なものでした。
また他民族に対して、容赦ない滅びをもたらしました。
旧約の神は、怒る神のイメージのほうが今は、強く残っています。
キリスト教で教えられた神は、慈悲深く、私たちの悩みを受け入れてくださるし、
いつも愛を持って見守ってくださっていると感じることができます。
イエス様が登場して、本当の神はイスラエルの民が考えているような神ではないと、
言われたのでしょうか。
それは神のイメージのどんでん返しのような感じがします。
そのどんでん返しを私の中でやろうとしたら、
目が回ってしまって、とても付いて行けない気がします。
どのように神が変わったのか、神はイスラエルの民が祈っていたときに、
どう思われていたのか。
わが子を世に送って、正しい神認識を伝えようとしたのでしょうか。
長い間苦しんできたイスラエルの民も気の毒な気がします。
私の中では、旧約の神とキリスト教の私たちが信じている神が同じ神だとリンクさせるのは、大変難しく感じます。
今後、新約聖書を学ぶことで、その疑問が解決されると良いと願っています。
いよいよ新約聖書に入ります。
フランシスコ会訳聖書をアマゾンから送ってもらいました。
あまりがんばり過ぎないように・・・