ゆめひこう 

日々の思いを

マルコ福音書から、イエスの奇跡。

2015-04-28 17:11:39 | カトリック
           


今日は、聖書から、イエス様の行動について考えました。

聖書の中でイエス様は、話をすることと、行動を起こすことをされたそうです

行動はすなわち奇跡を行うこと、癒すことです。


今日はその行動の方です。

マルコの福音がイエス様の行動をよく書いているそうです。


初めにペトロの姑を手を取って治されました。

姑はそのあともてなしたとあります。

これは別の言い方だと奉仕をしたという意味。

(私たちも、恵みをいただいた後の宣教を促しているということです)


次に重い皮膚病の人を、手を置いて直されました。

穢れたものに触れることはその当時はご法度でした。

イエス様はあえてそうされた。

その人は癒されると、ふれ歩いた。

ふれ歩いたのも、宣教をしたことの通じます。

私たちも癒されて、宣教をするのです。


4人の男が中風の人を運んできて、屋根を壊して下ろしました。

イエスは彼らの信仰を見て、癒されました。


少し先の方の・・・

長血を患った女が、衣に触れたら治りました。

「あの方のころもにでも触れさえしたら・・・」という信仰。


ここに出てくる人はみんな、あの方なら治してくださるという信仰を持っていました。


神様は私たちにいやし・恵み・愛を常に与え続けておられる。

それは良いことをしたからとか、頑張ったからとかいう、人間からの働きではありません。

無償の愛です。


それに対して、私たちがすることは、神様が常に恵みを与えてくださっていることを、信じること。


人には平和な生活とか豊かな生活とかいろいろあるでしょうが、一番大切な生き方は

神様の恵み・愛を何の曇りもなく信じて生きることです。と言うのが神父様のお話でした。


そのあとの分かち合いで、病気になった人が、神様に助けられましたと言われました。

病が分かった時に、死んでもいいと思って、何も心配せずに神様にお任せしたのだそうです。

それで、治りましたと・・・。

聞いていた私たちは、言葉もありませんでした。


心配するということは、自分で何とかできると思うこと。それがいけない・・・

この頃少しそういう風に、思うようになりましたが、長年の習慣はなかなか抜けません。

ゆだねるということを、少しずつ身に付けて行けたらと思いました。


                 

ヨハネ福音書を読む 復活の主に出会う

2015-04-18 13:21:19 | カトリック
                   

京都司教区聖書委員会の聖書講座シリーズ。

これで4つ福音書についての解説をすべて読みました。

ヨハネ福音書の書かれた背景を詳しく知りました。

ヨハネ福音書が書かれた80年代から90年代。

64年にネロがローマで火事をおこし、キリスト教徒のせいにして迫害が始まる。

66年にユダヤ戦争が起こる。

70年にローマ兵がエルサレム神殿を全部破壊した。

ユダヤ教とにとっても打撃だったが、キリスト教徒にとっても打撃だった。

ファリサイ派の人たちはユダヤ教の再構築を行う。

聖典を決め、イエスをメシアとするキリスト者をユダヤ教の会堂から追放すると決めた。

ユダヤ教から異端として破門されたキリスト者たちは、民族の枠を超えて世界宗教に広がってゆく。

ヨハネ福音書が書かれた時代はまだその方向へ入っていない。

自分たちの方向を模索する段階で、信仰や教理について深く内向きになっている。


大阪大司教区大司教   池長 潤

イエスは「取って食べよ」と本当に言われた。

これは創世記で神がアダムとエバに

「命のパンを取って食べよ」という言葉を引用された。

ミサにおける聖体の秘跡である。


京都司教区司教   大塚喜直

サマリアの女には名前がありません。

これはユダヤ人でなくてサマリア人だったという区別もあるかもしれませんが、

特定の名前がないことは誰でもがこのようになれるということでもあります。

みんなに蔑まれていた女に声をかけた。

女は驚いた。

生きた水があると言われた。

女は禅問答のような会話から、自分が飢え乾いていることと、

イエスの生きた水という意味を理解していった。



イエズス会司祭   英隆一郎師

マグダラのマリアが、墓の方を向いて、

イエスがいないと言っているのは、

暗闇と死を見つめているから。

私たちが神を見出せないでいる状態と似ている。

神はどこにおられるのか、この苦しみの中で。

「マリア」と呼ばれて我にかえる。

それまでは自分を失ってしまっていた。

私たちも本来の名前を失ってしまっている。

自分の名前を思いだすことによって、イエスの方に向くことができる。



聖パウロ修道会司祭  鈴木信一

ヨハネ福音書におけるイエスは、V字型だと考えてください。

高いところは、御父とともにおられるみことばであるイエス。

下ってこられて多くの働きをされた。

13章、過越祭の時から、イエスは弟子と共にとどまっている。

弟子たちの別れの説教をする

18章からイエスは捕えられ、十字架に付けられ、復活する。

天にあげられる。

ヨハネが書きたかったのは、

初めに神とともにあった。

この世に遣わされた、

今や父のもとに帰ってゆく

というV字型の動きを軸として、イエスの本質を表したかった。


それぞれの福音書の背景を知ると、読み方も深まって来るように感じます。

でも、まだまだ先のことだと思いますが。


ルカ福音書を読む

2015-04-13 20:46:19 | カトリック
             

京都司教の区聖書委員会の講座のまとめです。

マルコ・マタイに続いて3冊めです。

5・6人の人が話したことをまとめているのですが、とても分かりやすいです。

神言修道会司祭  鳥巣義文師

 ルカ11章24~26

 汚れた霊が、自分より悪いほかの7つの悪例を連れて戻ってくる話。

 赦しの秘跡を受けて、新しい心になったのに、時間が経つと弱さのために

 また同じ間違いをしてしまう状況に似ている。

 「しかし、わたしが神の指で悪例を追い出しているのであれば、

  神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 イエス様は心配するなと言っておられます。


京都司教区司祭  北村善朗師

 ルカ12章35~13章21

 イエスがガリラヤでの宣教に挫折することを通して、イエスの中に新しい視点が

 出てくる。

 つまりエルサレムに向かうという視点。エルサレムで自分を待っているであろう

 苦しみを通して、神の国は実現してゆくという視点がイエスの中に出てくる。

 公会議前は、イエスが初めからすべてを分かっていたような言い方がされていたが

 イエスの中でも気づきのプロセスがあった。

 エルサレムで大変な目に合うことを引き受けることによって、神の国が実現するのだ

 ということに希望をかけ始める。
 


カルメル修道会司祭  中川博通師
 
 ルカ13章22~14章35 

 イエスの福音宣教者養成の3つの方針

 1、本質的なものは何かを見抜いて、どうでもよいものを整理して

   心を自由にしてゆくことへの養成。

 2、御父の摂理に対する信頼を持っていくことへの養成。

 3、イエスと一緒に歩くということは、究極的にたびがこの地上においては

   イエスのようにしにおいて終わるということ。

   復活し、神とのまことの出会いへと開かれてゆく。

 それを具体的な生活の中で展開してゆく。


聖パウロ修道会司祭  鈴木信一師

 ルカ24章

ルカが福音書を書いたわけ

 女性に光を当てる

 祈りを大切にする

 「使徒」にこだわる

 「聖霊」を重視する

 「復活されたイエス」を描く

 復活されたイエスを描きそれに続いて、使徒たちの宣教を書くために「使徒言行録」を書いた。



 聖書は年代順に見ると、初めにコリントへの手紙などがあり、マルコ福音書が書かれ、

 そのあとにマタイとルカが書かれました。

 ルカはヘレニズム文化の中の人でした。

 ユダヤ教に出会い、パウロに出会い、キリストの復活を知り、ほかの人とは違う

 ルカの視点で福音書を書こうと思い立ったということです。

 共観福音書の解説を読んだので、また福音書を味わいながら読みたいと思います。

まだ、復活の喜び、プラス歓迎の喜び

2015-04-12 11:01:58 | カトリック
                


今日も復活節で、アレルヤ唱の前に復活の続唱を歌いました。
歌いつけないせいもあるのでしょうが、音程がとりにくい歌です。

復活の喜びの中に、神学生をお迎えしました。
1年間奉仕をされるそうです。

ミサの中でご自分で自己紹介を兼ねてご挨拶をされました。
洗礼を受けて10年くらい、少し前まで公務員として働いておられたそうです。

ユニークな経歴に、みなさん、ほーっと・・・
歓迎の拍手が響きました。

神父様のお話は
「最近は日本でもイースターが祝われるようになりました。
 でも、イースターとキリストの復活をつなげている人は
 まだ少ないでしょう。
 私たちが世に広める役をもっと果たさなくてはいけませんね」
と、言われました。

日本は、クリスマス、ハロウイーン、イースターと、まず商業ベースが先行しますね。
キリストの復活が広まれば、今苦しんでいる人が、楽になるかもしれない。

祈り、行動することから始めたいです。

                     

洗礼式

2015-04-06 20:45:24 | カトリック
一緒に講座を受けている方が、受洗しました。

それで洗礼式に行ってきました。

すごく豪華版でした。

こんなにたくさんで受洗されたら心強いかなとも・・・

私の時は修道院の聖堂で5人でした。





洗礼式が終わってこの人出です。

友人の表情は喜びに輝いて見えました。

聖堂いっぱいになりました。

受洗者と代父母と、私のようなお祝いに駆けつけた人たちで。

神父様のお話はとても心強いものでした。

「洗礼を受けたら、自分の何かが変わるか・・・

 お金持ちにもなれないし、頭が良くなることもないかもしれない。

 でも、イエス様のお墓が空っぽになったのは事実。

 どこに行かれたのか。

 私たちの中に来てくださったのですね。

 今日洗礼を受けた方の中にもキリストは来てくださったのです。

 だからもう一人で悩まなくてもよいのです」


今日受洗された世界中の人に、神様の豊かなお恵みがありますように。



庭のマリア様のそばのシャクナゲがきれいに咲いていました。