![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/33/2897dfdc26afd0f07c455a23bc1ebe9b.jpg)
サブタイトルにー原始キリスト教における」悲劇的なるもの とあ利ました
初めにギリシャ悲劇について書かれています。
第2章から 原子キリスト教における悲劇的文学の造形 ということで・・・
マルコ福音書は「ユダヤ戦争」が終結したあと、紀元70年代、場所はパレスチナ北方の南シリア。
キリストは十字架にかけられる前、悩みぬいて祈ったこと。
弟子たちは何も理解せず、眠り込んでいたこと。
逮捕の場面では、全員が彼を見捨てて逃げていったこと。
ペトロはイエスに、どんなことがあっても着いてゆくと言い、
ほかの弟子たちも口々に誓ったのに、
中庭で、一味だろうと言われ、3度も否んだこと。
十字架上ではイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」
と、絶叫して果てたこと。
弟子たちのその後を「喪の作業」という言葉で表しています。
互いの日あいあを支え合うために集まったこと。
このまま魚民になって生きてゆくのは
「イエスに対して申し訳が立たない」
こうして原始キリスト教会ができあがっていった。
さらにパウロは、キリスト教を迫害していました。
その回心は、十字架のキリストを見てしまったからだろうと。
「キリストは、聖書にしたがって、私たちの(もろもろの)罪のために死に、
そして埋葬され、聖書にしたがって、3日目に起こされ(いまにいたった)」
(1コリント15、3-4)