ゆめひこう 

日々の思いを

悲劇と福音 佐藤研

2015-02-19 10:49:27 | カトリック


サブタイトルにー原始キリスト教における」悲劇的なるもの とあ利ました

初めにギリシャ悲劇について書かれています。

第2章から 原子キリスト教における悲劇的文学の造形 ということで・・・

マルコ福音書は「ユダヤ戦争」が終結したあと、紀元70年代、場所はパレスチナ北方の南シリア。

キリストは十字架にかけられる前、悩みぬいて祈ったこと。

弟子たちは何も理解せず、眠り込んでいたこと。

逮捕の場面では、全員が彼を見捨てて逃げていったこと。

ペトロはイエスに、どんなことがあっても着いてゆくと言い、

ほかの弟子たちも口々に誓ったのに、

中庭で、一味だろうと言われ、3度も否んだこと。

十字架上ではイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか」

と、絶叫して果てたこと。


弟子たちのその後を「喪の作業」という言葉で表しています。

互いの日あいあを支え合うために集まったこと。

このまま魚民になって生きてゆくのは

「イエスに対して申し訳が立たない」

こうして原始キリスト教会ができあがっていった。

さらにパウロは、キリスト教を迫害していました。

その回心は、十字架のキリストを見てしまったからだろうと。



「キリストは、聖書にしたがって、私たちの(もろもろの)罪のために死に、

 そして埋葬され、聖書にしたがって、3日目に起こされ(いまにいたった)」

(1コリント15、3-4)



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