ゆめひこう 

日々の思いを

あなたのために私は生まれた

2015-01-28 21:25:31 | カトリック
              

アビラの聖テレジアの生涯をたどりながら、テレジアが残した言葉を紹介しています。

16世紀の初めに、スペインのアビラに生まれました。

普通の元気な女の子だったようですが、神様に呼ばれたのでしょう。

修道院へ入りました。

でも、本当の修道生活を送りたいと、新たに修道院を設立しました。

苦労の連続だったようです。



                       

天使がテレジアの祈りに、心臓に矢を突き刺すイメージを持ったそうです。

イエス・キリストが常にテレジアの心の中におられたことがわかります。

80ページの本を読み終わって、アビラの聖テレジアを知りたかったら

せめて「完徳の道」を読まなくてはと思いました。

私はほとんど、聖人伝を読んだことがありません。





テレジアが祈りの本に、はさんでいたしおりの言葉
  (コヘレトを思い起こさせます)



何ごとも あなたを乱すことなく

何ごとも 恐れてはならない

すべては過ぎ去る

神のみ変わらない

忍耐はすべてを勝ち取る

神を所有する者には

何も乏しいことがない

神のみで足りる

Son of God

2015-01-15 17:39:37 | カトリック
1月10日に封切られた映画を、早速見てきました。



ヨハネの福音書にちなんで描かれていました。

奇跡の場面など、あまりキリスト教を知らない人でも、分かるような様子でした。

荒野を歩くというのが、日本では想像もつかない殺伐とした風景で。


山上の説教や、主の祈りなど、ストーリーの中にうまく配されていて、

きれいな場面だと思いました。




イエス様と母マリア様とのきずなも、聖書より深い描き方でした。

映画を追ってゆく限り、キリストが十字架にかけられるのは、

歴史の成り行きのようになっていました。

パリサイ派の人たちは自分たちの立場が危うくなる・・・。

ピラトは、エルサレムが乱れて、ローマ皇帝から失政と言われたくない。

ユダヤ人たちは、ローマから解放してくれる、王を待ち望んでいる。

イエス様は、

「私の国は、この世にはない」

と、言われたのですが・・・。

十字架刑の場面は、人として、最悪の不幸な瞬間を描いていました。


復活のイエス様の笑顔は、宣教していたころとは違ったものに思えました。


私がイメージしていた、イエス・キリストとはだいぶ違っていて・・・。


映画評ではイエス・キリストがイケメンすぎるということだったようです。

うーん、確かに・・・。

笑顔がとてもよかったです。





良い時間を過ごすことができました。



私はこれからお祈りするときに、

あの、映画のイエス様をイメージするでしょうか?




洗礼入門式 ミサ

2015-01-12 21:40:35 | カトリック
昨年の四月から始まった講座の仲間に、洗礼志願者が居られます。

それで今日は洗礼入門式のミサがありました。

洗礼に向けての心の準備もあるのでしょうね。



8名の方が前に並ばれて、ミサの中で志願の確認があり、司祭から祝福の十字をいただきました。

聖書朗読はマルコの1章でペトロやヨハネがイエス様に呼ばれるところです。

神父様は今日の式にふさわしい聖書の箇所でしたと言われました。

キリストを身にまとう準備の始まりです。

でも私たちの決心ではなく、呼ばれたのは主です。

それに気づいたのは、私たちですが・・・・。





ミサの後、お祝いと、新年会を兼ねたパーティーが開かれました。

100人以上の参加がありました。

皆さん心を一つにしているせいでしょうか。

こちらも暖かく楽しいひと時でした。


「もう一度、洗礼を受けたい気分ね」

 と、皆さん言っておられました。

春の復活祭まで、もうすぐですね。


志願者の方には、メダイのプレゼントがありました。

そして私たち全員、神父様からプレゼントをいただきました。



「あしあと」の詩が、写真入りの冊子になっています。

神父様がサインをして下さいました。




冊子を見て、この詩の訳が、故石川康輔神父様だと、知りました。

働き盛りに亡くなられた、優しい神父様です。

懐かしくて悲しくて、胸がいっぱいになりました。


祈りの心

2015-01-08 10:51:32 | カトリック
昨年、最相葉月のセラピスト」という本の中に、奥村神父様が登場しました。



「祈り」という本を探したのですが、とりあえずこちらを。

この本を読むこと自体が、祈りにつながるように、味わいながら読みました。

いろいろな投稿文や短歌なども取り上げられていて、信仰は日々の暮らしの中にあることを

改めて思いました。

花はなぜうつくしいか

ひとすじの気持ちで咲いているからだ   
(八木重吉)


身をあげてあそぶ童は

ひたむきに天もわすれね、

声をあげて恍れて遊びぬ。    (はれて)

その声ぞ 神のものなる          
(北原白秋)


奥村師は東京大学在学中に禅仏教からカトリックに改宗されたそうです。

それで仏教の教えを語りながら、聖書の解説をされておられます。


祈りの方法や姿勢など、具体的な事柄にも丁寧に言及されておられます。


    合掌

神さまや 仏さまが

ほんとにいらっしゃるかどうか ―

でも あの合掌したときの安らぎは

どこからくるのでしょう


 右の手の悲しみを

 左の手がささえ

 左の手の決意を

 右の手がうけとめる

その上を流れる静かな時間

こうした姿勢を教えて下さったのは

どなたでしょう

ふりむくと青い目の外人さんも

手を合わせて……

小さな小さな観音様と

なにをお話したことやら          (高田敏子)




これは懐かしい詩でした。


手元において、時折手に取りたい本だと思いました。



あとがきに

イギリスの歴史家 アーノルド・ジョセフ・トインビーの預言が紹介されていました。

「21世紀における人類の最大の出来事は資本主義と共産主義との対決ではなく、

 仏教とキリスト教の出合いである」


これは1970年代の言われたそうで・・・

それから40年近く過ぎた今、宗教はもっと難しい局面を迎えているような気がします。